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孤諷 jMfmhQ コメント履歴 No: 100000
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[政治・選挙・NHK294] 水俣病の患者団体を怒らせた伊藤信太郎環境大臣の憲法観 二極化・格差社会の真相(日刊ゲンダイ) 赤かぶ
35. 孤諷[1] jMfmhQ 2024年5月10日 22:33:10 : ZeKSa1mnmA : bjFqNlA0QnNOb3c=[1]
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>26さん
ウィキを活用の歴史検索を。 出自(家柄・格式)と思われる「宮中某重大事件」があった。
山縣有朋は、薩摩嫌いとされている。 禁門の変(1864年)で朝敵となり、薩賊会奸の言葉を使った。
大村益次郎の「西に気をつけろ」や兵制でも相違があった。 反対は「お由羅騒動」の背景と思われる。


我々の伝統的な道徳観は、仏教と儒教によっている。 明治からの道徳は、忠誠を含む、仁義忠孝を
基本とした「教学聖旨」「教育勅語」、忠は「軍人勅諭」。 学校の修身として、儒教道徳を教育した。

非常識論を書くと、大政奉還よりも「王政復古の大号令」、天皇と忠孝を抜粋すると
『神武創業之始ニ原キ、 ・・・ 舊來驕惰之汚習ヲ洗ヒ、盡忠報國之誠ヲ以テ可𦤶奉 ・・・ 』。

神武創業之始ニ原キ。 神武天皇の祖母・母親は、記紀では八尋鰐と龍や鰐、こういうのは教えない。
旧来驕惰之汚習ヲ洗ヒは、維新と同じ意味。 尽忠報国は、朱子学(新儒教)・朱熹と同時代の岳飛の
入墨の文字。 岳飛は、愛国者で、宰相・秦檜は姦臣とか売国奴の時代評価がある。 道徳とは別に
政治体制も記述されている。 体制は、奈良時代の祭政一致、王政律令制への回帰である。

で、忠と孝は、礼記(曲礼下)の『為人臣之礼:不顕諫 三諫而不聽、則逃之 子之事親也:三諫
而不聽,則号泣而隨之』が、基本の教えになる。 《意訳:主君を三度諫めて聞き入れない時は去れ。
親を三度諫めて聞き入れない時は号泣して従え》 武家社会での忠孝定義のようなものであった。

山縣有朋は、松下村塾門下。 松下村塾・吉田松陰の士規七則の条文。
『一 凡生為人 宜知人所以異於禽獣 蓋人有五倫 而君臣父子為最大 故人之所以為人忠孝為本
 一 凡生皇國 宜知吾所以尊於宇内 蓋皇朝萬葉一統 邦國士大夫世襲禄位 人君養民 以續祖業
 臣民忠君 以継父志 君臣一體 忠孝一致 唯吾國為然』。

君臣一体、 忠孝一致は、ただ我国然りなり。 主君を親とし、主君のいうことは泣いて従えとなる。
皇朝万葉一統、万世一系(公家・岩倉具視といわれる)と似ているが違う。 万世一系は血統の継続、
皇朝万葉一統は、皇位は万世統一され一つであった。 歴代天皇に徳があり、皇位を禅譲し、臣下は

忠義を守り、革命(易姓革命の王朝交代)は無かったというような解釈になる。 《易姓、姓を替えるは、
天皇に姓が無く易姓は不明。 江戸の儒学者は、隋書東夷伝の天皇の姓を知ることができなかったか。
東夷伝倭国に、『多利思北孤(たりしひこ)』ウィキ、『俀王姓阿毎字多利思北孤 號阿輩雞彌』とある》

吉田松陰の忠孝は、幕末の道徳ではなく、幕府の政策である朱子学に始まった。 幕府は林羅山の
李氏朝鮮。 幕末明治は、徳川光圀の水戸学、明亡命者の儒学者による。 忠孝と孝忠の順序は、
中庸章句(朱熹)と五倫(孟子)の父子有親,君臣有義,夫婦有別,長幼有序,朋友有信で逆になる。

6代家宣7代家継の侍講、儒学者・新井白石の「西洋紀聞」に、儒教思想の分かり易い秩序論がある。

『禮に、天子は、上帝に事ふるの禮ありて、諸侯より以下、敢て天を祀る事あらず、これ尊卑の分位。 
みだるべからざる所あるが故也。 しかれども、臣は君を以て天とし、子は父を以て天とし、妻は夫を以て
天とす。 されば、君につかへて忠なる、もて天につかふる所也。 父につかへて孝なる、もて天につか
ふる所也、夫につかへて義なる、もて天につかふる所也。』 〈天子=天皇 上帝=天帝 諸侯=大名〉

《尊卑の分位(分位:仏教、分別も)、上に立つ身分の者は、上下の秩序を乱してはいけない。   
上の者の乱れは、天帝から夫婦までの秩序を乱してしまう。 密入国のカソリック司祭・シドッチとの
対話での朱子学思想道徳の秩序論を分かり易く説明しいる。 《つかへて、つかふる 仕えるで従う》

忠孝は幕府武家法の条文にある。 幕府の法律は、武家法・百姓(庶民)・宗教者・朝廷公家の
個別法。 目付・町奉行(農村は、勘定奉行配下の代官)・寺社奉行・京都所司代が管轄となる。

武家諸法度(天和令 1683年)。  忠孝、お家(家長制)の二つの条文。

(1条)『文武忠孝を勵し 可正禮儀事』 《元和令(1615年) 『文武弓馬ノ道 専ラ相嗜ムヘキ事』》
(12条)『養子は同姓相應之者を撰 若於無之は 由緒を正し 存生之内可致言上 五十歳以上
     十七歳以下之輩 及末期雖致養子 吟味之上可立之 縱雖實子 筋目違たる儀不可立事 
     附 殉死之儀 彌令制禁事』

幼少で忠孝の躾、少年から朱子学の必須教育。 禮(礼記)で、今の挨拶や身なりなどと同じ。
末期養子と家の存続、追腹(殉死)の禁止。 《士規七則の宇内の宇は家、神武天皇の八紘一宇
(掩八紘而爲宇)の一宇は一つの家。 宇(いえ)は、大きな組織や集団、国に使うようである》

改易(お家取り潰し)は、3代家光まで約130家、大名家が潰れると家臣家来は無職無収入無住居の
牢人(浪人)と呼ばれた。 家族離散や諸国へ四散。 農村に居住できない(百姓の法 五人組仕置は
浪人と切支丹の摘発でつくられた) 浪人は城下とその周辺の居住となる。 江戸では、浪人による

辻斬りが横行し、社会不安が生じた。 幕府は対策として、武家地町人地に自身番(交番の原型)を
武家や町人に設置運営させた。 浪人集団による幕府転覆計画も発覚した(由比正雪の慶安の変等)
幕府は、大量の牢人を出す改易を改め、末期養子を条文化した。 末期養子で大名家は存続となり、
家臣家来は路頭に迷うことも無くなった。 しかし、様々な弊害も出てくることになった。

《時代劇の詰め腹は、大名家を守るために、一人を犠牲にする。 多数の家臣家来は、お家取り潰しを
念頭におく現実的な対応といえる。 一方で、家臣団による主君のすげ替え(主君押込)も起きた。
利益集団化は、末期養子とお家存続。 現代の議員(選挙区)と政党と酷似する。 この家制度は
明治と異なる。 明治の民法制定の際、『民法出デテ忠孝亡ブ』と忠孝がでてきた》


幕府は、朱子学を武家の官学とした。 江戸時代は朱子学・儒教思想の社会であった。 吉田松陰の
至誠も新選組の誠も同じ思想になる。 尊王攘夷派が明治政権を樹立し、儒教道徳を地方の庶民の
子供にも教育する。 明治からでも数世代、子供の躾として、夫婦の別・親子の別を秩序として躾け、
当たり前となる人々は、民主主義思想は働かない。 岸田政権は、米国に従い、秩序を言う。 [忠]

http://www.asyura2.com/24/senkyo294/msg/295.html#c35

   

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