★阿修羅♪ > 佐渡院から順徳院へ jbKTbolAgqmC54@Hk7@JQILW > 100000
 
g検索 jbKTbolAgqmC54@Hk7@JQILW   g検索 t6JfZHDWCKqVA
 前へ
佐渡院から順徳院へ jbKTbolAgqmC54@Hk7@JQILW コメント履歴 No: 100000
http://www.asyura2.com/acpn/j/jb/jbk/jbKTbolAgqmC54@Hk7@JQILW/100000.html
[政治・選挙・NHK285] 安倍のせいで「佐渡金山」世界遺産は逆に絶望的に! 歴史修正主義宣伝と影響力誇示のためだけに“安倍フォン”かけまくり関係者… 赤かぶ
47. 佐渡院から順徳院へ[1] jbKTbolAgqmC54@Hk7@JQILW 2022年1月31日 02:36:35 : x7KLjToFL6 :TOR Z3lMcy4vVzRhWEE=[43]
2018年平昌オリンピックの式典に米国「トランプ大統領」の代理で
出席したのが「ディープステート」陣営の手先でトランプ失脚の後
大統領の座に就くと噂された副大統領マイク・ペンス。

既に前年にD・ロックフェラーの訃報が報道され「朝鮮半島」の
支配権を巡る暗闘が繰り広げられていると実しやかな情報が流れ
ていました

トランプが大統領就任後ミサイル実験を繰り返し行い挑発的行動を
行っていた北朝鮮に「米朝交渉」の席を設けるに辺り韓国が進んで
協力表向き朝鮮半島統一へと一気に流れが加速するような雰囲気が
演出されました

一方で日本の識者を始め「北朝鮮」への限定的軍事攻撃は既に決定
事項で朝鮮半島で軍事行動が引き起こされることはほぼ確実である
という情報が流布されました

日本内部の北朝鮮に通じる勢力からも当然そうしたシナリオが現実
となる旨伝えられたのでしょう北朝鮮は素直に交渉の席に就く事を
選択したと

この頃はまだ「朝鮮半島」の支配権を巡る暗闘は続いていたのでは
ないかと

命の危険を感じた金正日が中露陣営に救いを求めた後結局亡くなっ
た(恐らく暗殺)いるように「朝鮮半島」は「ハートランド理論
ユーラシア大陸の東の三日月帯」に位置していますので「英米陣営」
にとっては決して失うことの許されない陣地

結局北朝鮮の支配権を手にしたのは「英国王室」勢力のようです

そのことと昨秋の衆院選挙が行われる前の岸防衛大臣と英国海軍と
の「日英軍事同盟」アピールは当然リンクしているわけです

北朝鮮トップの金正恩も父親と同じ運命を辿ったのではなかろうかと
そうして再びミサイル発射が頻繁に繰り返されることになったと

>>42さんのコメント「ユネスコは、世界遺産登録を通して、国連加盟
国間の「歴史戦」を煽(あお)り、世界平和を損なうための国際機関
になっている。」というご指摘は的を射ているなと

現在のバイデン米国が英国とどういう関係にあるかはウクライナでの
対ロシア軍事行動に対する関わり方で判然とするのではないかと

一部では既にウクライナに「5,000人の米国軍兵士」が待機し戦争準備
を行っているという情報も

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

下記は佐渡で亡くなられた順徳天皇に関する情報

大日本帝国陸軍の多くが「法華経」を信奉していた事
佐渡出身の「北一輝」と「吉田松陰」と「岸家」との関係
「南朝勢力」と「北朝勢力」との対立

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

https://www.niikei.jp/89515/
https://www.niikei.jp/wp-content/uploads/2021/05/63b51a0bf9b085c6d15bc86c46e4b76d.png

佐渡島出身の山田詩乃武氏が、「順徳天皇 −御製で辿る、その凛冽たる生涯−」を出版、佐渡配流から800年の節目の年

2021-05-17 9か月前

題字は、安倍晋三前内閣総理大臣の母親の安倍洋子氏

新潟県佐渡島出身の山田詩乃武氏が、「順徳天皇 −御製で辿る、その凛冽たる生涯−」を出版することになり、すでにAmazonで先行予約が始まっている。全国書店などでの正式の刊行販売は6月10日以降になる予定。

出版社はPHPエディターズ・グループ。題字は、安倍晋三前内閣総理大臣の母親で名筆として知られる安倍洋子氏、推薦文は外交評論家の加瀬英明氏、表紙画は真野新町出身の日本画家、新澤由貴氏。定価1,800円(税抜)。

Amazonの書評などによると、若き帝・順徳天皇は、承久の乱のかどで佐渡に流され、悲運の生涯を送ったという。有職故実の書『禁秘抄』などの著作からうかがわれる、たぐいまれなる才を惜しまれながら、珠玉の御製を残し、自ら去って行った。
なぜ「小倉百人一首」の掉尾を、順徳天皇の御製が飾るのか。
なぜ、45の男盛りで、自ら世を去らなければならなかったのか。
その答えは、本書にある。

そうした中、真野新町生まれで幼少より順徳天皇の存在は身近だったという著者が、現地を徹底調査、さらに史料をくまなく洗い出し、御製を随所にちりばめながら、順徳天皇の在島22年の生涯を、見事によみがえらせたのが本作品だ。

【出版社からのコメント】
いままで研究書も少なく、ベールに包まれていた順徳天皇の生涯が、
まったく新しい視点で1冊の本にまとまりました。
格調高い文体で、歴史を辿る喜びを味わわせてくれます。
ぜひ、多くの方にこの感動を共有いただきたく思います。

【外交評論家 加瀬英明氏】

順徳天皇は歴代天皇のなかでも秀逸な歌人であり、佐渡島に配流されて、悲劇、多感、耽美的な生涯を閉じた。日本語は今日でも美と、自然との和を求める言霊が宿る祈りの言葉であって、和歌として結晶している。
皇室が百二十六代にわたって、常若の和歌の伝統を守ってきたが、ここにいま世界が持続可能な地球環境を求めている、答えがある。

今年は承久の変(乱)と順徳上皇が佐渡に御遷幸されて800年という大きな節目の年。また、来年のNHK大河ドラマは、順徳上皇を佐渡島に配流した北条義時が主人公の「鎌倉殿と13人」に決まっている。そうした中での出版ということもあり、今年注目を集める1冊になりそうだ。

なお、山田氏は姉妹本として、『守成 −小説 順徳天皇物語−』(仮称)を執筆中で今秋、上梓の予定。


https://takatokihojo.hatenablog.com/entry/2016/09/17/021742

近くにある真野御陵は、順徳院の火葬塚である。 現在は宮内庁書陵部の管理になっておる。まあ、誰もいないんじゃけどな

環京の思いを断ち切った鎌倉幕府を、順徳院はさぞかし恨みに思ったであろう。幕府としても仕方がない措置とはいえ、順徳院が怨霊として祟るのではないかとガクブルだったようで、佐渡院から順徳院へと諡号がなされている。

この「徳」という字はどうやら不幸な身の上の天皇の怨霊化を防ぐために諡号の時に用いられているようで、孝徳、文徳、崇徳、安徳、顕徳(のちに後鳥羽に追号)、そして順徳……みなそうじゃな。

嘉永五年(1852)2月、宮部鼎蔵と吉田寅次郎は東北旅行の途上に、佐渡を訪れ、真野御陵に立ち寄ったという記録がある。御陵の前には、それを顕彰する碑があった。

まず、こちらが宮部鼎蔵。

陪臣命を執り羞づるなきをいかんせん。
天日、光を失ひ北陬(佐渡)に沈む。
遺恨千年又何ぞ極まらん。
一刀断たざりき賊人の頭

で、こちらは吉田寅次郎。

異端邪説斯の民を誣ふるは、復た洪水禽獣の倫に非ず。
苟も名教維持の力に非ずんば、人心まさに義と仁を滅せんとす。
憶ふ昔姦賊国均を秉り、至尊蒙塵して海浜に幸したまふ。
六十六州悉く豺虎、敵愾勤王一人もなし。
六百年後壬子の春、古陵に拝す遠方の臣。
猶お喜ぶ人心は竟に滅せず、口碑今に於いて伝ふ、事新たなるを。

はあ……よくわからん。よくわからんのじゃが、要するに北条に対して悲憤慷慨していることだけは、かろうじてわかる。しかし、じゃな……

https://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/t/takatoki_hojo/20160911/20160911175311.jpg
https://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/t/takatoki_hojo/20160914/20160914005736.jpg
https://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/t/takatoki_hojo/20160914/20160914005754.jpg

長くなってきたからもうやめるけど、宮部鼎蔵や吉田松陰が憤る北条義時公・泰時公は、北畠親房や水戸学も高い評価をしていて、後鳥羽院、順徳院のほうがおかしいといってるんじゃが、そこはどう考えておるんじゃ? 後鳥羽院も順徳院も、大好きな歌の道を極めておればよかったんじゃよ。少なくともあの時代、朝廷に国政をしきる力なんぞ、なかったじゃろうから承久の乱ははっきりいって無謀。その後の後醍醐天皇の建武の新政も同じじゃよ。

もちろん、義時公、泰時公と違ってわしが暗愚だったことを言い逃れするつもりはない。鎌倉幕府は滅んでしまったわけで、メタクソにいわれても反論の余地もないからな。なんか、話が明後日の方にいってしまったので、本日はこれにてもうおしまい。


真野御陵
時代の経過によって、火葬塚は荒廃した。佐渡奉行曽根五郎兵衛吉正は、1678年(延宝6)修復おこない陵域8,250uを修築した。
1889年(明治22)6月1日、京都府愛宕郡大原村(現京都市)大原陵が治定された以降、「順徳上皇の火葬塚」となった。


吉田松陰・宮部鼎蔵詩碑,
吉田松陰は1851年(嘉永4)22歳のとき、東北を旅した。白河からは宮部鼎蔵と会津街道を通って越後に向かい、1852年(嘉永5)2月27日に苦労の末佐渡に渡った。2月28日、順徳天皇の真野陵を拝して、悲憤の漢詩を詠んだ。


http://www.asyura2.com/22/senkyo285/msg/348.html#c47

   前へ

▲このページのTOPへ      ★阿修羅♪ > 佐渡院から順徳院へ jbKTbolAgqmC54@Hk7@JQILW > 100000  g検索 jbKTbolAgqmC54@Hk7@JQILW

★阿修羅♪ http://www.asyura2.com/  since 1995
 題名には必ず「阿修羅さんへ」と記述してください。
掲示板,MLを含むこのサイトすべての
一切の引用、転載、リンクを許可いたします。確認メールは不要です。
引用元リンクを表示してください。