2. 松陰・松下村塾の虚像[1] j7yJQYFFj7yJupG6j22CzIuVkZw 2022年8月01日 14:45:40 : nvmzAu5yHk :TOR c0dmYzdLVHAyZms=[4]
http://www.f-jichiken.or.jp/column/H29/yoshioka%20297.html
○吉田松陰というウソ
私たちが教えられてきた偉大な思想家という吉田松陰像は、残念ながらウソである。松陰とは、ひと言でいえば、乱暴者の多い中でも特に過激な若者の一人に過ぎない。思想家、教育者などとはほど遠く、それは明治が成立してから山縣有朋らがでっち上げた虚像である。
松陰といえば、誰でも松下村塾を開いて維新の志士たちを育成した指導者、と答えるだろう。ところが松下村塾は、陽明学者ともみられる叔父であり師でもある玉木文之進の私塾である。松陰が松下村塾を主宰していたという事実は存在しない。実像としては、松下村塾に集まった仲間のリーダー格というような存在であった。
松陰といえば、安政の大獄により、大老の井伊直弼が処刑したことになっているが、当時は尊皇攘夷派の粗っぽい一人に過ぎず、井伊は松陰のことなどはよく知らない。いざ処刑という段になって、井伊は長州藩に意向を聞いているが、その回答が松陰の行動を暴発とし、「斬首やむなし」というものであった。不逞の輩が一人処刑されただけのことであった。
松陰や松下村塾が注目されるようになったのは、山縣有朋が「師」として拾い上げたことによる。その後、長州閥の勢力膨張に歩調を合わせて、すなわち日本の軍国主義化に乗って、気がつけば松陰は神様(地元の萩市や東京・世田谷区には松陰神社がある)になっていたのだ。
つまり、松陰の唱えた侵略を肯定する膨張主義の考え方は、薩長を中心とした軍部の手により大東亜戦争にまで引き継がれ、戦争へと突き進んでいった。すなわち「明治維新」とは、明治精神に回帰しようとする「昭和維新」が燃え盛ったことによって、ひるがえって一般化した言葉であり、思想概念なのだ。
○狂気のルーツ・水戸黄門
水戸浪士が桜田門外の変を起こし、大老井伊直弼に対して「天誅」を実践したことは、あまりにも有名であるが、このような狂気のテロリズムを生んだ背景に、尊皇攘夷を柱とした水戸学がある。そして、水戸学を生んだルーツが水戸黄門(光圀)である。
長州テロリストたちがテロリズムを正当化する論拠とした水戸学とは、実は「学」というような代物ではなかった。空虚な観念論の積み重ねであり、己の気分を高揚させて自己満足にひたるための”檄文”程度のものと考えて差し支えない。
光圀は、藩政では検地をおこなっている。しかし当時、1間は6尺3寸であったがこれを6尺としたため、計算上、28万石の水戸藩は36万9千石に膨れあがった。こうすることで、御三家である尾張藩62万石、紀州藩55万5千石と、張り合いたかったのだ。だが間の悪いことに、検地の年から3年続けて水戸は飢饉に襲われ、実際の取れ高は15万石程度に落ち込んでしまい、領民や家臣団はますます困窮することになった。
この藩は貧乏であったが、もともと豊饒とはいえない土地に加え、上記したような見栄と体裁のための暴挙が行われたうえ、さらに、藩財政に過大な負担をしいて無意味な『大日本史』編纂に執着した光圀こそが、その元凶であった。
テレビドラマなどで好々爺のように描かれる光圀は、第二代水戸藩主であるが、光圀こそが狂気のルーツであり、その実像は、女遊びが激しく、頻繁に試し斬りをやったりしている。人を斬ることに快感を覚えていたのではないか。
光圀は公家好きであったことから尊皇に結びつき、後世、薩長政権になってから見直され、それが今に伝わる「水戸黄門」を生んだ背景でもある。その折り、女狂いや試し斬りの光圀という実態は消去されたのだ。
https://nightlander.hatenablog.com/entry/20150515/1431679604
吉田松陰像の嘘。
長州の志士たちの中でも、最も嘘で固められているのが、吉田松陰であると著者はいう。松陰は、乱暴者が多い長州人の中でも、特に過激な若者に過ぎず、いわば地方都市の悪ガキであると著者は決めつける。松陰が開いたとされる松下村塾は、実は松陰の叔父の玉木文之進が開いたものであったという。松陰が神格化されるのは、維新後しばらく経ってから、自らの出自を権威づけたかった山県有朋の手によってであるという。松陰の思想というのも稚拙なもので、北海道の開拓、北方の占拠、琉球の日本領化、朝鮮の属国化、満州、台湾、フィリッピンの領有などを主張している。奇妙なことに、長州閥が支配する帝国陸軍を中心とした勢力は、松陰が主張した通りにアジアを侵略し、そのあげく日本を滅ぼしてしまうのだ。
松陰の思想のルーツは水戸学。
著者は、さらに松陰や長州の志士たちを駆り立てた思想のルーツは「水戸学」にあると指摘する。吉田松陰は、水戸学の中心人物である藤田東湖を崇拝したという。著者によると「水戸学は学問といえるような代物ではなく、空虚な観念論を積み重ね、それに反する生身の人間の史実を否定し、己の気分を高揚させて自己満足に浸るためだけの檄文£度のものと考えて差し支えない。この気分によって水戸藩自身が、四分五裂し、幕末には互いに粛清を繰り返すという悲惨な状況に陥った。」という。水戸で生まれた浅薄な狂気の思想が長州を狂気に駆り立て、幕府を滅ぼし、その後も水戸藩ゆかりの人物たちによって日本ファシズム運動として受け継がれていく。この流れが昭和初期に5.15事件や2.26事件を惹き起こし、日本を大東亜戦争へと導いていく。戦後にいたっても、三島由紀夫の楯の会の学生たちは水戸学の信奉者であったという。この水戸学を生み出した張本人が2代目藩主である水戸光圀(水戸黄門)と9代目の徳川斉昭であると著者はいう。水戸の攘夷論の特徴は「誇大妄想、自己陶酔。論理性の欠如」につきると著者はいう。大言壮語しているうちに、自己陶酔に陥っていく。この傾向は長州軍閥にそのまま継承され、昭和陸軍が、結局、軍事という最も論理性を求められる領域で論理性を放棄し、自己陶酔と膨張本能だけで中国戦線を拡大していったことにつながっていったという。
有能なテクノクラートが揃っていた幕末の幕府官僚たち。
第4章の水戸学の章で、著者は徳川斉昭を海防参与という職に就かせた老中、阿部正弘について語る。狂信的な攘夷主義と勤皇主義を唱える水戸の徳川斉昭を、「海防参与」に就かせ、国政に関わらせたことは阿部の最大の失策であったと著者は主張する。しかし阿部は、その後の近代につながる政策を次々と打ち出した。日米和親条約の締結、講武所や長崎海軍伝習所の設立、西洋砲術の導入と推進、大船建造の禁の緩和、優秀な若手人材の起用など。中でも、動乱の時代の幕政を担った若い官僚たちの活躍には目を見張るものがあるという。例えば勘定奉行の川路聖謨(かわじ としあきら)は北方四島をめぐる対露交渉でプチャーチンと外交交渉を重ね、ロシア側の譲歩を引き出している。もしも薩長勢力による倒幕が成功せず、江戸幕府が、慶喜が想定したようなイギリス型公儀政体を創り上げ、小栗上野介が実施しようとした郡県制を採り、優秀な官僚群がそれぞれの役割を発揮すれば、長州・薩摩の創った軍国主義国家ではなく、スイスや北欧諸国に類似した独自の立憲国家に変貌した可能性は十分にあったと著者は語る。
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