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雅子さま、安倍晋三氏との浅からぬ縁と強い追悼のお気持ち 国葬開催決定に影響か

2022.07.22 07:00

女性セブン


 天皇皇后両陛下としては最大限の追悼の意を、安倍晋三氏の死去に際して示された。平成から令和にかけて、国の安寧のために共に身を捧げたというシンパシーだけではないだろう。雅子さまは、皇太子妃として皇室に入られるずっと以前から、安倍氏とは浅からぬ縁をお持ちだった。

 広々とした和室の床の間の前に、祭壇が設けられている。中心には、ノーネクタイの安倍晋三元首相が笑みをたたえる遺影があり、《紫雲院殿政譽清浄晋寿大居士》と刻まれた位牌と骨壺が並んでいる。

 東京・渋谷区富ヶ谷の安倍邸の一室は、弔問客が絶えない。その祭壇を取り囲むのは、大きな白い生花、紅白の供物、色とりどりの果物。それらに添えられた大きな文字に弔問客は目を奪われる。

「天皇皇后両陛下」

 それらはすべて、両陛下からの供物だという。

 7月11日午後、増上寺(東京・港区)で行われた安倍氏の通夜に、両陛下の焼香の名代として、側近である侍従が派遣された。

「両陛下は安倍元総理に、一般の香典に当たる祭粢料、供物、生花を贈られました。大物政治家の葬儀の祭壇といえば、並べられた供花に数多くの名札が立つのが通例ですが、安倍元総理の場合はたった1つだけ、『天皇皇后両陛下』の名札が置かれたのが印象的でした。そもそも、両陛下が首相経験者の葬儀に侍従を派遣することはめったにありません。昭和に安倍元総理の祖父である岸信介氏、平成に小渕恵三氏のケースがあったくらいでしょう」(自民党関係者)

 岸田文雄首相は14日、安倍氏の「国葬」を今秋に行う方針を発表した。

「当初、自民党内では別の形での大々的な葬儀の開催が検討されていました。しかし、岸田総理が急転直下の決断をし、異例の発表となりました。実はこの決定の背景に、雅子さまの強い追悼のお気持ちがあったそうです」(政界関係者)

戦後の国葬は昭和天皇と吉田茂

 安倍氏の国葬は9月に日本武道館(東京・千代田区)で行われる見通しだ。費用は全額が国費で賄われる。国葬の歴史は戦前にさかのぼる。政治部記者の解説。

「戦前は『国葬令』という法令がありました。天皇や皇族の葬儀を国葬で行うのに加え、国に功績のある人物が亡くなった際に天皇の決定があれば国葬にできるというものでした。実際、岩倉具視や伊藤博文の葬儀は国葬として執り行われました。しかし戦後、政教分離の観点から制度が疑問視され、1947年に国葬令は失効しました」

 戦後、首相経験者は「内閣・自民党合同葬」や、そこに財界などからの有志が加わる「国民葬」で送られることが一般的となった。

「唯一の例外は、1967年、戦後日本の復興に尽力した吉田茂元首相の死去です。当時の佐藤栄作内閣が特例として閣議決定し、国葬にこぎ着けました」(前出・政治部記者)

 戦後、国葬で送られた人物は、吉田氏のほかに昭和天皇しかいない。岸田氏は、安倍氏が国葬にふさわしい理由として、首相在任期間が憲政史上最長の8年8か月にわたること、国際社会からの評価が高いことなどを挙げた。

「果たして安倍氏を、全額を国費で賄う国葬にすべきなのか、『合同葬』や『国民葬』が妥当ではないかという声もあり、国民の間で少なからず賛否両論あることは事実です」(前出・政治部記者)

 現在の自民党内で中心的な存在である安倍派からの強い要望はあったにせよ、議論の時間もなく早々に岸田氏が国葬を決めた背景を、前出の政界関係者が明かす。

「皇后の雅子さまが、安倍元総理の突然の死に大きなショックを受けられ、悼まれるお気持ちがとても強いそうです。遺族の気持ちを案じつつ、しっかりとした形で送りたいと願われているという情報が、政府サイドに伝わったというのです。

 明治の時代、国葬はそもそも天皇や皇族を葬送するものであり、天皇の決定でのみ、皇族でない人を国葬とできました。いまは存在しないルールですが、両陛下の追悼のお気持ちは、岸田総理の背中を押した可能性があるのではないでしょうか」

 通夜の日、宮内庁次長は定例会見で「天皇皇后両陛下は安倍元総理の突然の訃報に接し、大変残念に思い、心を痛めておられ、ご遺族の皆様の悲しみを案じていらっしゃるのではないかと拝察している」と述べた。

「両陛下が踏み込んだお気持ちを表明する際、直接ではなく、側近がその内心を推察して“代弁”する形を取ることが多い。今回は、雅子さまの強いお気持ちが『拝察』につながったのではないでしょうか」(宮内庁関係者)

知られざる2人の関係

 雅子さまと安倍氏。その縁は、「皇太子妃と総理大臣」という公の関係となる、ずっと以前にさかのぼる。

「雅子さまの実父で外交官の小和田恆さんは、福田赳夫氏が外相や首相の時代に、福田氏の秘書官を務めました。福田氏は小和田さんを厚く信頼していて『小和田さんは福田氏の知恵袋』といわれたほどです。その福田氏が率いた福田派の『プリンス』と呼ばれ、後継者だったのが、安倍元総理の父・安倍晋太郎氏でした」(別の政治部記者)

 こんなエピソードがある。森喜朗氏が1977年、福田改造内閣で官房副長官に指名されたときのこと。

「当時、小和田さんは福田氏の秘書官で、官房長官の晋太郎氏とは密に仕事をしていた。森氏は、組閣名簿が読み上げられて初めて、自分が副長官に指名されたことを知ったそうです。驚く森氏のところに、小和田さんから『早く官邸に来てください』と電話が入った。慌てて駆けつけると、晋太郎氏が待っていて『遅い!』と一喝。当時の官邸では、小和田さんと晋太郎氏は“名コンビ”といったところでした」(前出・政治部記者)


 1982年、中曽根内閣で晋太郎氏が外務大臣になると、その秘書官に、本格的に政界入りを目指す次男の晋三氏が登用された。一方の雅子さまは、米ハーバード大学で学業を修め、1985年に帰国された。

「その頃、秘書官が“連絡係”として外務省幹部の自宅を訪れることは珍しくなく、安倍氏もたびたび小和田邸を訪れていた。安倍氏はよく周囲に“私は政治家になる前に、東大生だった頃の雅子さまとよく顔を合わせていたんだ”と話していました」(前出・別の政治部記者)

 1987年春、雅子さまは外務省のキャリア官僚となられた。

「入省の際、晋太郎氏は小和田さんとの縁もあったので、雅子さまにお祝いを伝えたり、助言を送ったり、いろいろ気にかけたそうです」(前出・政治部記者)

 1993年は、2人のその後の人生を大きく変える年となった。雅子さまは結婚され、皇太子妃となられた。安倍氏は、1991年に急死した晋太郎氏の地盤を引き継いで初の衆院選に挑み、当選を果たした。

 皇后と首相。それぞれの立場で令和の時代が始まった。

「印象深いのは、2019年のトランプ前米大統領来日です。雅子さまは得意の語学を生かされた接遇、安倍さんはゴルフ接待と、それぞれのやり方で、トランプ夫妻と親交を深めた。常に世界を意識してきたお二人だったからこその“おもてなし”は、歴史的な成功をおさめたといえるでしょう」(外務省関係者)

 雅子さまと安倍氏の共通項について、皇室ジャーナリストが思いを巡らせる。

「雅子さまは安倍さんと同じように、父の姿を追って進む道を決められました。また、立場こそ違えど、常に世界を見据えて生きてこられた。『もっと世界とかかわりたい』という思いは共通だったのではないかと思います。30年以上前から、同じ時代を生きてきた、ある意味での“盟友”の死です。雅子さまが安倍さんのしかるべき弔いを切望されていることは、自然なことでしょう」

 9月、国葬には両陛下も出席される予定だ。

※女性セブン2022年8月4日号
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