46. 韓半島と長州と暴力団[1] itiUvJOHgsaSt49CgsaWXJfNkmM 2021年8月25日 18:01:40 : nQGXH1Tho6 :TOR akFLLmhrTUtiT0E=[126]
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/57496
後編
(以下、抜粋転載)
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天皇の末裔
大室天皇──近所の人からは、そう呼ばれていたという。
1996年に92歳で亡くなった大室近佑(おおむろ・ちかすけ)さんのことだ。
明治天皇にすり替わったとされる大室寅之祐の弟の孫。
つまり、近佑さんにとって寅之祐は大叔父にあたる。
実はこの近佑さんの存在もまた、「田布施システム」を信じる一部の人に、いくばくかの"根拠"を与えていた。
大室家に向かう間、私が思い浮かべていたのは、町の人によって語られる、存命中の近佑さんの姿だった。
「変わった人じゃった」。町の古老はそう述懐した。
「長いあごひげが特徴の、仙人みたいな風貌でしたな。町の中に出てきては『わしゃ、天皇じゃ!』と叫んでいたこともあっ
た」
そう、「天皇の末裔」であることを町内で訴えていたばかりか、自らが天皇であるのだと叫んでいた。
少なくとも町内でまともに取り合う人はいない。
露骨に嫌な顔をする人がいた。
避けて通る人がいた。
遠くからニヤニヤ笑いながら見ている人がいた。
多くの人は無視してやり過ごした。
「だから、本人としてはますます腹立たしく思うわけだ。
天皇じゃ、天皇じゃ言うても、見向きもされんわけだから、怒りっぽくもなってなあ……」
怒鳴られた人も少なくないという。
田布施の農村風景
「悪人ではありません」
「大室天皇」の偏屈ぶりは町中に知れ渡っていた。
鹿島氏以外にも、近佑さんを天皇の末裔だと信じ込む人がいた。
隣町の柳井市に住む郷土史家・松重正さんである。
松重さんは何度も大室家に通い、近佑さんから「秘話」を聞き出し、信じ込み、地域では数少ない「明治天皇すり替え説」支
持者となった。
鹿島が「すり替え説」に基づいた本を書き上げることができたのは、地元の地理や歴史に詳しい松重さんの助けがあったから
だ。
その松重さんも、2017年10月に92歳で亡くなっている。
ようやく探し当てた松重さんの長男(60歳)は、「親父が"大室天皇"を信頼していたことは事実です」と言葉少なに語った。
松重さんは若いころ(戦後まもなく)は日本共産党の活動家で、県委員会の幹部まで務めたという。
しかし党内抗争に巻き込まれて離党。
その後は自民党員となり、保守系政治家として柳井の市議などを務めたという。
「そうした経歴を持つだけに、権力を支えるものは何か、といったことを常に考えていました。
私にはよくわかりませんが、正史には存在しない"何か"を親父は"発見"してしまったのでしょう」
そう述べて、やはり困った顔を見せるのだった。
松重さんが「発見」したのは、近代日本の夜明け前に、深い闇が仕掛けられたこと、そして大室天皇の存在だったのだろう。
「いまさら私に何ができるでしょうか」
田畑に囲まれた山の麓に大室家はあった。
家の前には「大室遺跡」と記された案内碑が建っている。
近所の人によると、近佑さんが存命中、弥生時代の土器がこの場所から発見されたのだという。
大室家の敷地内ということから、「大室遺跡」と名付けられた。
大室家の敷地内にある遺跡
家の敷地から土器が出てくることじたい、大室家の神秘性を思わせるには十分な話だ。
そもそも田布施町内で「田布施システム」を信じている人など、おそらくいない。
しかし──私は初めて足を運んだ田布施に、何か独特の雰囲気を感じたのは確かだ。
そこに、かつて「王国」があった
「そう、何かあるかもしれんねえ、この町には」
生真面目な表情でそう話すのは、地元の郷土史家・林扶美夫さん(82歳)だ。
林さんは陰謀論者でもなければ、安易にデマに加担するような人ではない。
古くから「田布施地方史研究会」の代表を務め、地元に関する歴史発掘に努めてきた歴史家だ。
当然、「田布施システム」なるものは一笑に付す。
そんな林さんでも、田布施には不思議な歴史の文脈が流れているのだという。
「かつて、このあたりは熊毛王国と呼ばれていました」
天皇すり替えどころの話ではない。
王国である。
ただし、弥生時代の話だ。
「熊毛地方(田布施を含む近隣地域のこと)は、かつて瀬戸内海の要所であり、人や文化の集積地点として栄えました」
大和朝廷が完成するまで、人口が集中する地域は独自の小国家をつくった。
そのひとつが「熊毛王国」だったらしい。
町内に古墳が多いことも田布施の特徴だ。
現在、確認されている古墳の数は85基。
山口県で最古の古墳である国森古墳も田布施の町はずれにある。
また、そうした海上交通の要所という"地の利”から、大和朝廷成立後も、朝鮮半島や中国大陸とは交易の中継点として繋がり
をもった。
この地に渡来人が住み着くケースも少なくなかった。
「田布施システム」を"朝鮮人支配"と結びつける説も、実はそこが根拠となっている。
実際、7世紀の「白村江の戦い」(朝鮮半島の白村江を舞台とした倭国・百済遺民の連合軍と、唐・新羅連合軍との戦争)では
、戦後、多くの朝鮮半島出身者が日本に渡り、その一部は田布施で下船し、そのまま定着したという。
「いまでも、その痕跡は町内に残っていますよ」と、林さんが教えてくれたのは、「神籠石(こうごいし)」の存在だ。
「要するに"朝鮮式山城"と呼ばれる遺跡です」
日本に渡った朝鮮半島の人々は、敵の来襲に備えて山城をつくった。
切り石を、レンガを積むように並べる手法は中国大陸由来とされ(万里の長城も同様の積み方である)、これが後に「朝鮮式
山城」と呼ばれるようになった。
「つまりね」と林さんが続ける。
「遠い地域の文化が残されている。
人が行き来している。
こんな小さな町でも、歴史を紐解けば、世界と繋がっているんだよ」
林さんが「何かある」というのはそういうことだ。
神籠石が物語るもの
私は神籠石、つまりは朝鮮式山城を探すべく、町のはずれ、光市との境界にある石城山の山中に入った。
アップダウンの激しい山道を歩き、突然視界が開けたその先に、神籠石は残っていた。
確かに形状は「レンガ積み」だ。
日本の城壁で用いられる石垣(菱形の石を組み合わせた形状)とはまったくの別物だ。
田布施の山中に残る朝鮮式山城
こんな山奥に、朝鮮半島の文化が生きていた。接点があった。
「朝鮮人支配」などというバカバカしい偏見の正体は、おそらくこれだろう。
「支配」なんかじゃない。
これは、異なった地域が、国が、それぞれの歩みを進めながら、どこかで繋がっていたという証拠なのだ。
そうした文化の交差点で、たまたまふたりの総理大臣が輩出された。
権力構造を説明するに都合の良い「天皇すり替え説」が生まれ、それを信じる人々がいた。
それだけの話だ。
「システム」を匂わせるものなど、この町には何一つ残っていない。
田布施に残るのは、歴史の営みだ。
東アジアの槌音だ。
そして、歴史をつくってきた人々の息遣いだ。
整然と積み上げられた神籠石が、そう訴えているようにも思えた。
(文中一部敬称略)
http://www.asyura2.com/21/senkyo282/msg/679.html#c46