4. 岸田吟香と宝塚[1] it2TY4vhjYGCxpXzkss 2022年1月29日 23:06:35 : XxzTeJc1es :TOR TTBYbmF5RmMuRzY=[8]
https://www.cscd.osaka-u.ac.jp/user/rosaldo/Tung_Wen_College.html
「東亜同文書院大学(とうあどうぶんしょいんだいがく;东亚同文书院、The Tung Wen College)は、東亜同文会[東亞同文會](現在の「霞山会」)が設置した中華民国上海市に本部を置いていた日本の私立大学である。 1939年に設置され、1945年に廃止された。大学の略称は東亜同文書院」ウィキ日語)
1890 荒尾精、9月上海に日清貿易研究所を設立し、日中貿易実務担当者の育成に着手。日清貿易研究所(1890-1893)は彼の死後設立された東亜同文書院の前身
1898 それぞれ別組織であった東亜会と同文会及び「興亜会 (亜細亜協会)」を始めとする既存のアジア主義諸団体が合体して「東亜同文会」が東京・赤坂溜池に設立
1899 日本の東亜同文会によって中国(清朝)南京城北に南京同文書院が設立。初代(および3代)院長の根津一(Hajime NEZU, 1860-1927)
1901 南京同文書院の閉鎖に伴い上海へ移設されて、東亜同文書院大学の前身となる高等教育機関東亜同文書院が設置された(「上海同文書院」の通称)
1902 民間有志の拠金や日本政府の補助金を得て、中国からの留学生を対象とする東京同文書院が東京府東京市神田区に設置される。
1929 6月日犬養毅、頭山満講演。
1946 3月東亜同文会解散。4月上海に残留していた学生・教職員が帰国。5月に本間は関係者を集め新大学の設立を決議する。
6月には新大学設立事務所を豊橋に設置した。新大学(愛知人文大学)の学長には、当初本間が有望視されていたが、本間自身が「多くの青 年学徒を戦地に送った」責任があるとして、固辞。東亜同文会の理事を務めていた枢密顧問官の林毅陸前慶應義塾総長に白羽の矢を立てた。就任の交渉には本間 自身が出向き、「学生の将来に対する責任」を訴えて説得。この言葉で林の心は動かされ、承諾の返事が引き出されたという
11月15日 大学令による愛知大学の設立が認可。この時の文部大臣は一高・東大の同級生であった田中耕太郎(1890 -1974)であった。なお、新大学設立に際しGHQから「東亜同文書院大学そのままの大学は認可しない」との条件が付けられ、本間は「新大学(愛知大 学)は東亜同文書院大学とは無関係」との声明を出さざるをえなかった。教職員も新たに書院大学の関係者を採用することができなくなり、外地にあり同じく閉 鎖を余儀なくされた京城帝国大学、台北帝国大学の関係者を集めることにより人員不足を克服
https://note.com/yukiomatukawa/n/n062a778c236f
東亜同文書院
松川行雄(ストラテジスト/小説家)
2020年2月11日 23:20
かつて戦前の上海は、アジア最大の都市だった。世界中の悪徳、不潔、堕落の集積回路でもあったが、東京など吹けば飛ぶような存在でしかなかった。
フランス租界と各国の共同租界が中心部を占めており、事実上無法地帯だったから、逆に言えば最大限の自由がそこにあった。
三井物産などは、本社を上海に移す予定だったくらいだ。太平洋戦争が始まったために、この計画は頓挫したが、今でも当時の三井物産上海支店のビルは、裏通りに面して存在している。
少なくとも、わたしが90年代に最後に訪れたときにはまだあった。まだあるだろう。エントランス外壁上部に、「三井洋行」とくっきり彫られていたの覚えている。
その上海に、日本でも最もグローバルな最高学府が存在した。東亜同文書院だ。
東亜同文書院大学は、1901年(明治34年)5月26日、東亜同文会によって清朝時代、上海に設立された日本人を対象とする高等教育機関東亜同文書院を前身とする。
中心は商務科であったが、その他に政治科、農工科、中国人を対象とした中華学生部も一時設置されていた。
1921年(大正10年)に専門学校に昇格し、1939年(昭和14年)12月には大学に昇格。
1945年(昭和20年)8月、日本の敗戦に伴い学校施設を中国に接収され、翌年学生、教職員の帰国によって閉学した。44年間のうちに、5000人の有為の学徒を世に送り出した。
学生の大半は各府県が学費を負担する府県費生であったが、外務省や南満州鉄道、商社からの委託生ほか、私費生も一部受け入れていた。
しかし末期には日本軍が学生に対し情報提供を依頼するケースもあり、これらの事情があいまって大旅行を「スパイ活動」と見なす中国側の疑惑を呼んだ。
逆に、中国共産党の勧誘も密かに進み、学生の間には共産主義を標榜し、学内外でビラ配布など、反戦反日運動に身を投じて捕縛されるものも続出した。
実際、校風は自由だったのだ。マルクスなど共産主義の関係蔵書も図書館には豊富にあり、規制は無かった。