69. 安倍の策謀と暗躍の歴史[1] iMCUe4LMjfSWZILGiMOW9ILMl_COag 2021年9月09日 17:34:18 : 7HHNSNcZGk :TOR Uk5yUlNkbkhONkU=[8]
4.阿倍氏・膳氏系図解説及び論考
阿倍氏は皇別氏族である。膳氏と同じく8孝元天皇の子供「大彦」を始祖としている。
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大彦命は崇神天皇と同時代で、4世紀初めの人物と考えられる。
雄略天皇は、5世紀中頃から後半と推定されている。
150ー170年間に8代は充分合理的な範囲である。
ヲワケの系譜は阿倍氏より膳氏に近いとも言われている。高橋氏との関係あり。高橋は地名である。天理市櫟本町(旧高橋邑)上記鉄剣の系譜の中に多加披次獲?居なる人物がいる。
阿倍氏・膳氏自身の話からは、一寸ずれてしまったが、阿倍氏・膳氏の原点を知る意味では重要と判断した。
阿倍氏は、記紀記録上では建沼河別以降、特別な記事はなく28宣化天皇の時「大麻呂」が「大夫」となったと初出するまでない。
一説では、、26継体天皇が北陸から大伴氏・蘇我氏らにより擁立される過程でこれを支援する形で中央に出てきたとされる。
蘇我氏とは良き関係にあった模様である。
阿倍氏は布勢臣系と引田臣系に忍国の子供の時代に分かれる。
布勢臣系は主に朝廷関係で活躍。引田系は軍事面で活躍したとされる。
<布勢臣系>
鳥子は推古朝で大夫となり、その子「倉梯麻呂」は孝徳朝で左大臣にまでなった。
その娘小足媛は、孝徳天皇妃となり有馬皇子を産み、うまくいけば天皇の外戚の可能性があった。
その妹橘娘は、天智天皇妃となり、阿倍氏は蘇我氏に次ぐナンバー2であった。
次ぎの「御主人}は、壬申の乱で天武方につき文武朝で右大臣になった。
その子広庭は参議にまではなったが、この頃より藤原氏の圧力が強まり、低落する。
これ以降阿倍氏で参議以上の人物は平城天皇朝参議「兄雄」と仁明天皇朝の大納言「安倍安仁」だけである。この安仁の系図は異系図が多く、布勢臣系では、倉梯麻呂の流、布勢耳麻呂の流、また引田臣系の真老流などある。
布勢臣系の女性で注目すべき人物は、粳虫の娘「古美奈」である。当時勢力を伸ばしてきた藤原式家の嫡男良継に嫁ぎ、乙牟漏・諸姉の二人の娘を産んだ。
「乙牟漏」は50桓武天皇の后となり、51平城天皇、52嵯峨天皇を産んだ。桓武朝のトップレディである。
「諸姉」は式家嫡男百川の室となり、49光仁天皇妃産子、51平城天皇妃帯子、50桓武天皇妃旅子を産んだ。この旅子の子供が53淳和天皇である。
これに裏で絡んでいたのが安倍氏だったのである。
しかし、朝廷内では藤原氏に押さえられ低迷を続けた。
ここに安倍氏の名を天下に知らしめた人物が登場する。即ち陰陽師「安倍晴明」である。
筆者系図では2通りの系図を示したが、安倍晴明の系図は異系図が多い。
謎に包まれた人物には違いない。安倍氏本流には違いなさそうである。
筆者は概略系図の方が真実に近いのではと思っている。
詳細系図の方が一般的だがどうも前後の人物の生没年の関係からこちらには無理があるように思える。
この晴明の流こそ明治時代にまで繋がっている堂上公家である「土御門家」になる訳である。村上源氏にも土御門家が存在したが、それが消滅後、安倍氏流が土御門家を名乗った。
正に陰陽師の総元締め的地位を確保したのである。
<引田臣系>
忍国の子「歌麻呂」の流である。
飛鳥時代の将軍「阿倍比羅夫」の蝦夷征伐は有名である。
その孫に遣唐使「阿倍仲麻呂」がいる。仲麻呂の業績については紀でも大きく記事とされている。
一方嫡流である宿奈麻呂は、大納言にもなった人物で、この流から「陸奥安倍氏」が産まれたのである。
安倍貞任の「前九年の役」は有名。
この娘婿が八幡太郎源義家であり義国を産んだ。ここから、新田氏・足利氏に別れ鎌倉・室町時代を造る武士団が産まれるのである。
またこの貞任の累孫として奥州の大名家となる、安東、安藤、秋田氏が輩出された。
一方貞任の弟「宗任」の娘が奥州藤原氏の祖「基衡」に嫁ぎ、秀衡を産み平泉文化を花開かせた。
即ち安倍氏は奥州においてその後の日本の歴史うえ重要な人物の源となったわけである。
<膳氏(高橋氏)>
膳氏は若狭国造として勢力を張った。一方本流は、「傾子」の娘が聖徳太子の愛妃となりその娘春米女王と天皇候補の山背大兄皇子が結ばれて一気にその力を得たようである。
そのため蘇我氏と反するようになったらしい。
壬申の乱では天武方につきその功績により、八色の改姓では、朝臣の姓を授けられ、その後間もなく「高橋朝臣」に改姓した。安曇氏とともに以後宮内省内膳司の長官の地位に任じられ、志摩守は高橋氏の世襲となった。
いずれにせよ、膳氏は高橋朝臣と改姓され、これ以降歴史の表舞台に登場することはない。
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