[ペンネーム登録待ち板6] ロシア劣勢、兵士集めに躍起 !
ロシア劣勢、兵士集めに躍起 受刑者も投入、総動員には慎重
2022年9月20日
ウクライナ軍の反撃によって東部ハリコフ州から撤退を余儀なくされるなど劣勢に陥ったロシアが、兵士の確保に躍起となっている。国内では総動員令を求める声も出始めているが、プーチン政権は慎重な構え。世論への影響を見極めつつ、民間軍事会社を通じて受刑者を戦線に投入するなど補充を図っている。
ハリコフ州でのロシア軍の後退が明らかになった直後の13日、政権の「体制内野党」、共産党のジュガーノフ委員長は下院で「戦争が起きている。総動員が必要だ」と訴えた。党は発言を修正したが、ウクライナ侵攻を戦争でなく「特別軍事作戦」と位置付けるプーチン政権の一線を踏み越えた発言だった。
*プーチン大統領のプロフールとは ?
生い立ち
レニングラード(現・サンクトペテルブルク)に生まれ、レニングラード国立大学で法律を学び、1975年に卒業した。KGBの対外情報部員として16年間勤務し、中佐まで昇進したが、1991年に辞職し、サンクトペテルブルクで政治活動を開始した。その後、1996年にモスクワに移り、ボリス・エリツィン政権に参加した。連邦保安庁長官、連邦安全保障会議事務局長を経て、1999年8月に首相に就任した。同年12月にエリツィンが辞任し、プーチンは大統領代行に指名された。2000年のロシア大統領選挙を制して大統領に初当選。2004年には再選を果たした。当時の憲法上は大統領就任が連続2期までに制限されていたため、2008年から2012年にかけてはドミートリー・メドヴェージェフに大統領職を譲り、自身は首相を務めた。2012年の大統領選挙で大統領に復帰し、2018年に再選された。2021年4月、国民投票を経て、あと2回再選に立候補できるようにすることを含む憲法改正案に署名し、大統領の任期を2036年まで延長する可能性がある[4][5]。
1952年10月7日、ソビエト連邦の一部であるロシア・ソビエト連邦社会主義共和国のレニングラード(現在のサンクトペテルブルク)にて、父ウラジーミル・スピリドノヴィチ・プーチン(1911年2月 – 1999年8月)と母マリア・イワーノヴナ・シェロモーワ(1911年10月 – 1998年7月)との間に誕生する。両親が41歳の時に第三子として生まれた。2人の兄はいずれもプーチンが生まれる前の1930年代に死亡(1人目は幼くして、2人目はレニングラード包囲戦の間にジフテリアで死亡)していたため、プーチンは一人っ子として育った。父は活動に熱心な共産党員の無神論者で、母は工場などで働く信仰心が深いロシア正教徒だった[12]。父はソビエト連邦海軍に徴兵され、1930年代には潜水艦隊に配属となり、第二次世界大戦では内務人民委員部(NKVD)の破壊工作部隊に所属し[13]、独ソ戦(大祖国戦争)で傷痍軍人となった。戦後は機械技師としてレニングラードの鉄道車両工場で働いた。
プーチンの父方の祖父であるスピリドン・イワノヴィチ・プーチン(1879年12月 – 1965年3月)はプロの料理人であった。第一次世界大戦中、彼はサンクトペテルグラードの高級ホテル「アストリア」の料理長の職にあり、ラスプーチンに給仕していた。革命後はウラジーミル・レーニンに給仕し[14]、ヨシフ・スターリンにも彼のダーチャ(別荘)の1つにて給仕を行った。[15]
プーチンは自伝で少年時代を振り返り、家庭環境はあまり裕福で無く、少年時代はレニングラードの共同アパートで過ごしたと語っている。1960年9月1日に共同アパートと同じ通りにある第193小学校に通い始める。小学生だったプーチンにドイツ語を教えていた教師によると、プーチンは母親似であるが、頑固で勤勉な性格は父親から受け継いでいたという。また、記憶力は抜群で頭の回転も速かったが、問題児で悪ふざけを繰り返していたと証言している。プーチン自身も後に幼少時代は相当な悪童であったと告白している。しかし6年生になると変化し、成績も上がり、ピオネール入団も許可された。この頃にはサンボと柔道も始めている。小学校卒業後、プーチンは化学の中等専門学校に入学した。
http://www.asyura2.com/10/nametoroku6/msg/15937.html
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