[ペンネーム登録待ち板6] 習近平氏、異例の3期目へ
習近平氏、異例の3期目へ…中国共産党大会きょう開幕:2022/10/16
【北京=川瀬大介、田川理恵】中国共産党の第20回大会は16日、北京の人民大会堂で開幕する。党中央宣伝部の幹部は15日に記者会見し、開幕日に 習近平(シージンピン) 総書記(国家主席)が行う中央委員会報告(政治報告)の起草チームのトップを習氏自身が務めたと発表した。過去に党トップが交代した党大会では新たなトップが起草を主導するのが慣例となってきた。習氏が異例の3期目政権を発足させるのは確実な情勢となった。
同幹部は、大会会期を22日まで7日間とする日程も発表した。党大会には全国から選ばれた約2300人と党長老らが、約9700万人の党員を代表して参加する。最終日に党規約の改正案採択や約200人の中央委員の選出などを行う。党規約には、習氏への忠誠表明を意味するスローガン「二つの確立」が盛り込まれ、習氏の党内の権威が一層高まる見通しとなっている。閉幕翌日の23日にも、第20期中央委員会第1回総会(1中総会)が開催される。次期の政治局常務委員(現行7人)ら指導部メンバーの選出を経て、習氏の3期目政権が始動する。
中国共産党大会の開幕を前に、北京市内の歩道橋で、通行人の動きに目を光らせる治安担当者。後方のスクリーンには党大会の開幕を祝うメッセージが表示されていた(15日)=片岡航希撮影
人民大会堂周辺では15日、警察官らが数メートル間隔に立ち、通行人の身分証を確認するなど目を光らせた。13日には市内の高架橋に習氏を痛烈に批判する横断幕が掲げられたと伝えられており、治安当局は、最大の政治イベントである党大会に混乱をもたらさないよう、警戒レベルをさらに高めている。
米政府系のラジオ自由アジア(RFA)によると、市内の高架橋など各所に24時間態勢で治安要員を配置する措置が取られている。
* 習近平国家主席のプロフールとは ?
来歴[編集]
1953年6月15日、北京市に生まれる。69歳です。1965年、中学校である北京市八一学校に入学したが、1966年5月の文化大革命の発生により学校が解散された。この事により習の学校教育が中断された[12]。習は世界最強の囲碁棋士の1人に数えられる聶衛平と北京25中学からの友人で、聶によれば中国人民解放軍の劉衛平少将との3人で「北京25中学の三平」と呼ばれていたとされる[13]。八大元老でもあった父の習仲勲が迫害された文化大革命において反動学生として批判された。紅衛兵によって十数回も批判闘争大会に引き出され、4度も監獄に放り込まれた[14]。
習近平在清華の宿舍
1969年1月から7年間陝西省延安市延川県に下放される中、1974年1月に中国共産党に入党した[15]。下放された同地で生産大隊の党支部書記を務めている。1975年、時は文化大革命の期間中で全国普通高等学校招生入学考試が中断しており、中学1年以降に正式な教育を受けていない。しかし、「工農兵学員」という模範的な労働者・農民・兵士(個人の政治身分)の推薦入学制度を経て、国家重点大学の清華大学化学工程部に無試験で入学し、有機合成化学を学んだ[16]。1979年4月に同大学を卒業した後、国務院弁公庁及び中央軍事委員会弁公庁において、副総理及び中央軍事委員会常務委員の耿飈の秘書をかけ持ちで務めた。1985年にアメリカ合衆国を視察で訪問し、当時のアイオワ州知事で後に駐中国大使のテリー・ブランスタッドと親交を結んでホームステイをした[17]。1998年から2002年にかけて、清華大学の人文社会科学院大学院課程に在籍し、法学博士の学位を得た。しかし、海外の複数メディアから、論文の代筆の疑惑が報じられている[18]。廈門副市長、福州市党委員会書記を経て、2000年に福建省長となった。2002年11月、張徳江に代わって49歳で浙江省の党委員会書記に就任し、この時期に浙江省軍区党委員会第一書記、南京軍区国防動員委員会副主任、浙江省国防動員委員会主任を兼任した。2006年9月、上海市で大規模な汚職事件が発覚し、当時の市党委員会書記の陳良宇が罷免された。翌年の2007年3月24日、書記代理を務めていた上海の韓正市長に代わって上海市党委員会書記に就任した。これにより、第17期の党中央政治局入りは確実とみられた。同年10月の第17期党中央委員会第1回全体会議(第17期1中全会)において、一気に中央政治局常務委員にまで昇格するという「2階級特進」を果たし、中央書記処常務書記、中央党校校長に任命された[注 4]。上海市党委員会書記は兪正声が引き継いだ。中央党校校長時代は「幹部は歴史を学べ。世界四大文明の中で中華文明だけが中断せずに今日まで続いている」と述べた。後年にエジプト・イラク・インドなどを集めた「世界古代文明フォーラム」の共同設立[20]を唱える習の歴史観や思想戦略が既に形成されていたとされる[21]。
金正恩体制からは張成沢の粛清と党総書記就任後の習の韓国訪問に始まり、国連の対北経済制裁決議で米中は一致し、訪中した崔竜海の冷遇と対照的な韓国の大統領朴槿恵の厚遇や訪朝した劉雲山の映像削除など中朝関係の冷却化が伝えられた一方で中朝友好協力相互援助条約による軍事同盟や経済的には北朝鮮が貿易の9割超も中国に依存する関係を続け[62][63][64]、2018年3月に最高指導者就任後初の外遊で訪中を「当然の崇高な義務」と表明[65][66][67]した金正恩と初対面してからは「きみ」(你)「あなた」(您)と呼び合い[68]、同年6月に行われた史上初の米朝首脳会談の際は移動用に政府専用機を金正恩に貸し[69]、習の誕生日に中朝の血盟を強調する祝賀をおくった金正恩は翌2019年の自らの誕生日まで4度も中国を訪問し[70][71]、同年6月に中国の指導者としては14年ぶりに訪朝した習に殆ど同行して習の顔を描いたマスゲームで歓待するなど友好ぶりをアピールした[72][73]。
2019年3月にこの年で最初の外遊先にイタリアを選び、コリエーレ・デラ・セラへの寄稿でローマ帝国とのシルクロードや北京(大都)でクビライに謁見したマルコ・ポーロなどを引き合いにイタリアとの歴史的な繋がりを強調し[74]、イタリアは先進7カ国(G7)で初めて習の唱える「一帯一路」に協力する覚書を締結する国となった[75]。
http://www.asyura2.com/10/nametoroku6/msg/15985.html
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