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金十字架 i@CPXI6aics コメント履歴 No: 100000
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[雑談・Story41] 子供たちよ、狂った大人たちを真似するな。血の通った人の為の社会を築くために自分と闘いなさい。
もし、あなたがたが周囲の大人の考え方に絆され、反発も出来ずに、自分の中の怖れの感情、怒りの感情にすぐ負けてしまうのならば、あなた方も狂った人間の仲間入りとなる。

そして尚もこの社会は、人の血の通わない人間たちの考え、人の痛みに気付かない社会システムによって動かされていくことになる。

浅く生きようとするな。

自分の痛みを隠すな。

心に気付きなさい。

自分の感情に負けてはならない。

敵などいない。

誰をも憐れむな。

正しいフリをするな。誰かのフリをするな。それは自分ではない。

自分の手の届かない先を行く自分を想い、そこにある自分を追い求めよ。

何かを抑えるな。

不要な事に見向きもするな。

流れを塞き止めるな。

調和のみを求めよ。

抵抗を捨てよ。

今を強く生きよ。

人の痛みを知り、血を通わせよ。
http://www.asyura2.com/14/idletalk41/msg/493.html

[雑談・Story41] 夢による良き兆しの話
けさ二連続で同じ内容の夢を見た。

海外の民衆が大盛り上がりで「世界が変わった」と喜んでいる光景だった。

一幕はバチカンかイスラエルという雰囲気。熱心な信徒達が私の周囲に感じられる。
広場には夥しい数の民衆が集まっており、眼前に聳える悪の枢軸としてある教会建物が、これまたものすごい数の花火が打ち上がる中で「崩壊していく光景」である。
向かって右側の教会の塔部分が崩落すると、そこから天使の輪のような光る煙が天に向かってぽんぽんといくつも立ち昇る。
それをみた民衆の中から、「イエスのサインだ」「世界が変わった」という声が上がると、全体から一斉に歓喜の声が挙がるというものである。私はその声にのまれたまま、次の瞬間にはそれを報道するテレビの前で喜びをかみしめている視点に変わっていた。

一度その歓喜の状態のまま目が覚めて、再び眠りにつくと、

二幕目は、これもまたヨーロッパのどこか。
眼前には海が広がっており、海沿いの石橋の先に島がある。
これまた石橋の上に夥しい民衆とテレビの各国の報道陣が集まっており、空にはけたたましい数のフラッシュと花火が打ち上がって大盛り上がりを見せている。どうもその先にある島が注目を浴びているようだ。
石橋からその先の島の様子を報道している。場所はイギリスか、ヨーロッパ諸国の海沿いの何処かである。思い当たるのはモンサンミッシェルのような大陸から孤立した街と一体化した場所。
するとそこに意識の視点が移動し、われわれのよく知るある国のある総理が出て来た。
「そんな勝手なことをしてもらっちゃ困る!」と叫んでいる。
どうも島で政府が困る立場の人間、皇族レベルの立場の人間のようだが、公務として動いているようだ。
その叫び声はその公務に対してのものらしい。
また視点が別の誰かに変わり、わたしはその島を取材する報道陣から託されたカメラをもって乗り込んでいくために走っているところだった。そこで目が覚めた。

その二つの夢のどちらも、目覚めの時点で非常に歓喜に満ちて興奮して目が覚めている。
何故なら、その二つの夢はどちらも、そこに居る民衆が主役で、大きな祝福と歓喜に包まれているものだったからだ。そしてそのどちらも、「世界が変わった!」と口々に叫んでいる人の姿があった。その両方の夢はまったく本質的に一緒の内容だった。

こうした夢を見るときの私の精神状態は謂わば光の三原色のパラメータすべてをマックスまで高めて眠りについたときである。寝る前にそのようにして就寝するクセをつけている。

これを私流に説明するならば、人のあらゆる感情(≒人格)による個人差と云うものは、例えばプリズムのスペクトル(周波数)値の差であるとする。つまりこの色のパラメータ値を意識的に変化させる努力の程度によって自分たちの人格は常に変化しうる物なのである。当然その数値がマックスで完全な無色透明(白または黒)であれば、その中にあらゆる人の人格が取り込まれてあると言える訳である。

そのためにどうすればいいか。それには、水道の元栓を締めるのと逆をすればよいというのがヒントとなる。普段価値観に流されて動いている時には気付き様も無い程、人はそれぞれ無意識的に自分と云う人格、パラメータ値をいじって行動しそれを楽しんでいるということになる。その時、多分にそれぞれのパラメータ値を変化対応させる為に、それぞれの各パラメータ値を元栓を締めるようにして変化させていると云う事になる。

去年の暮れから、立て続けに大きな変化を感じて来ている。あらゆる物事がわかり始めて来た。

その変化はどれもがひとつの大きな歓喜に向かって続いている。

ここでまた見た夢を挙げたいが、不思議な夢を見続けている。
1メートルもある巨大な伊勢エビを捕まえて、袋に入れようとしても入り切らない。袋を尻尾からも被せていると、立て続けに30センチほどの薄く緑がかった金色のカブトムシが目の前に現れ、それも興奮して捕まえていた。カブトは外来種のようだった。

白に銀色の斑点をもつ美しい鯉が8匹ほど、こちらを向いて、頭をくっつけて川の字に並んで泳いでみせている。何故かその頭に8の数字が書込まれているといったもの。
以前から明晰夢はかなりはっきり記憶されているということがわかっていたが、最近また変化が出て来た。
それが特徴的変化として一つある。

夢は、もう一つの現実だということができるが、われわれはそれを否定してこの現実を唯一の現実として捉えて来た。夢に於いてもそこに於ける体験の本質はやはり感情である。こちら側の現実世界とは違って夢は、その体験の本質である感情の連続である。それが際立っていると理解できる。目覚ましい変化、体験以外のものが一切入り込む余地がないという認識である。

夢の世界がリアルに感じられる程に、われわれが普段、現実認識として持っているものこそ、それが本当には一体どんな意味があるのかということをも改めて考え直すこととなる。
例えば、この間夢から覚めることが出来ずに17時間程ぶっつづけて寝てしまうことがあった。

その時観た夢は、白い幽体でできた龍が次第に我が家に近づき、二階のベランダから家の中に入り込んでくるというものである。
そしてそれが押し入れに入ると白いウサギに変化していた。タツからウに変化した訳である。
そしてハチドリのような小さな野鳥も沢山あつまって、その内の一羽が薔薇の棘のようなものをくちばしにくわえて、その先端を先ずは自分、そして他の鳥、その次に私の左手の甲、親指の根元にその針部分を刺した。すると刺された場所が反応してじわっと丸くアザ痕が出来た。印象としては、何かしらの免疫をつけるためのものらしかった。

その後、「こんなことは夢の世界でしか起きない」と気付いてしまうのだが、それが夢かどうかを確かめる為の方法として、ベタながら「頬をつねる」という行為に出た。すると当然痛く無いわけである。

頬をつまむ肉体の感触は確かにあるのだが、痛みが無い。しかしその肉感は現実感として確かにある。亡くなった家族もそこに同居して居り、当たり前の日常を過ごしているはずなのだが、痛みが無いことに気付いてしまった。何度やっても痛みが無いのだから夢だと理解するのだが、私はそこで完全に物理世界の記憶を取り戻しており、自分が夢の世界に居ることを理解しているのである、
当然、物理世界で寝ているはずの自分の肉体が急に心配になった。それでなんとか戻ろうと必至に自分の大腿部分を手のひらで叩き始めたがそれも叩いている感触は確かにあるのだが、痛みが無いのである

再び気付くと、夢からやっと覚めていたが、かなりの時間寝ていたことがわかった。普通ならば身体の維持を害するレベルの長時間である。しかし、身体は楽だった。
もしかすると、あの意識のまま自由にあちらの世界を楽しんであれば、そのまま意識が帰って来れなくなっていたのではないかとすら考えられる。しかし、自らそこに気付くことができ、そこからの体験は非常に面白いものだった。

どんなことからも何か一つは学ぶ機会を得る。

私はこのことでもあれこれ考えることになったのだが、あちらで痛みが無い事を当たり前とすれば、逆にいま、ここに居るわれわれとは、実は余りにも、「痛み」とするものに固執、執着していることになるのではないかと考えるに至っている。現実を自らの意識的創造物だと捉えることが出来ている人間であれば、それが何を意味するかも理解できることだろう。

痛みというものに執着するとは裏を返せば、楽と云うものをもまた不自然に求め過ぎることになっている。
われわれはもう少し自分を痛みから守ることばかりに意識を向かせること無く、その無駄を一切意識し、考えることも無く、自然な好奇心、そこにある積極性を保つことに意識を向けるべきではないかと今更ながらに思うのである。

限りある時間をわれわれは自分の独自の表現に使い切ることが出来ることが一番の倖せであると考える。
ここに居る使命とはいわば自己的独自的表現を生み出すということにある。
自分を評価して欲しい為に何かをするのではない。
あくまで独自性をもって、われわれ自身の存在そのものの力を使い切ることが、今ここに在る全体への貢献になり、評価に繋がることなのだ。

自然なありのままの在り方を探るとは、やはり不自然な観念的作用を排除することになるのだろうが、余りにもそこに対しても執着しなくていい。それにも増して、生き急ぐ必要もないのだから、目的物にとらわれて、自分を周囲に合わせて作り替えてしまう必要も無いのだと知る。

意識的に日々、自分の求めるもの、望ましい自分が何かを考え、自分の意識状態に常に気付き、調和とは何かを考え続けること。それが自分と向き合い闘うと云う事になる。己に克つとは、それはけして自分を打ち負かすということにはならないのだから、ただ、ただ、自分のしたいこと、自分であるものと調和し、自然であるものと調和することに意識を向けて、そして価値観に絆されること無く、自分の存在の本質部分の意思の力を信じて言って欲しいと思う。

不食を始める意思を持つくらいなら、まず意識を常に一定に保つというくらいのところから始めるのが良いのではと感じる。怒りにとらわれてもロクなことは無い。狂った人格に取り憑かれずとも正しいと感じることなら、いくらでもただ淡々と積極的にやればよい。自分と調和を合わせることになることとは何かを理解すれば良い事。
http://www.asyura2.com/14/idletalk41/msg/504.html

[雑談・Story41] 日本国家懐疑的自虐史観に立脚する人の愚の極み 宗教と政治の在り方
護憲?新憲法改正? 解釈の捉え違いを私的思惑の為に利用する。


これは単に、歴史史観へ対する捉え方、執着によって生まれた思想であると理解する。

日本会議に属する人間の抱えていく人の苦しさとは何か。何故それが民族の気高さと繋がり得るのか。

私の祖父は皇族と国家に尽くした。戦地から幸運(不幸?)にも負傷軍人として帰還し、命を落とすことにならなかった。
皇族と共にお国のために彼の人生はあった。
しかし端から見ていて、私にはそれが痛々しかった。
彼の心が常に戦地と皇室に囚われていた事に関しては、そこにある思想の根強さと云うものを常に感じとって来た。
彼の心の真意、本音の部分に容易に触れられない。
それが私の苦痛であった。

皇族とは直接関係のない、名前だけを語った物品販売のカタログがしょっちゅう送られてきたが、晩年になるほど激しく高騰していたことも思い出される。あこぎな連中も跋扈していた。

これら戦後生まれた靖国の思想は「過去に縛られる」ところから発生している。
自虐史観というものから発生したその心の苦しみに対して、そこから離れられない、しかし解き放たれたい、という思想に染まった人間の心に巣食う葛藤との闘いである。
自分達を「不遇な民族」と看做すところを立脚点としてはじまっているのである。
ただただ、不健全な不浄さを蒔き散らすだけの思想だと断言する。

これに対しては、ユダヤ民族に見られる不遇さや、キリスト教徒の原罪思想にも通ずる人の不自由さ、と一緒のものを感じる。

つまりこれらは思想概念の悪用である。それが宗教であり、それが力を発揮するのは、政治が権力志向の者に乗っ取られ、私的思惑に利用される時である。
人類に対する最大の屈辱と侮辱がそれである。ただ悪害であると言わざるを得ない。

そもそも、神道とは政治そのもので在る。"宗教とは政治に利用されて来た"と云う意味ではない。
神道とは思想でも宗教でもない。神道とは政治そのものとして機能すべき知識である。
そしてあるべき宗教とは、すべての自然の恩恵が人々の精神の和合の中に、循環する為の生きた知恵そのもので在る。
これが何故に権力志向の為の道具と成り得ることとなっているかをよくよく考えてもらいたい。

つまり、そこにある思想的運動とは、そうした「不遇さ」を嘆く立場を主体とし、そこからの脱却を呼びかけるところから始まっているのである。

そもそも平和理念のためだけに発足した神々のいる国家と云うものがあるなら、その神の意思を身勝手にも人間の創り上げた特定の思想(特定の思想団体のみを保護するとした偏向曲解)によって解釈を変えて良い訳が無い事くらい、誰でもわかるはずのものだろう。

謂わばここでは皇族の祖である神、アマテラス神の真意をまったく理解していないといえるものであるはずだ。

改憲問題はその神の真意を徒にねじ曲げ、その神の意思を受け継ぐ皇族の立場を私的に利用するものである。
そしてまた進退についても、その意思を皇族直々に発する事も無いままに、第三者的な判断で変えてしまう事が出来るとさえ考える。

神の意思である平和理念、そして国家建立の意思、国民の公益性すべてに背いたまったく筋の通らない思想であると考える。
これについては、生きていたならば、我が祖父も甚大なる怒りを持ってそこに言葉を発していただろう。

私は、天皇皇族に対して何ら恨み等も無い。祖父の居たときは、苦痛を与える存在であった事は間違いない。
しかし私にとっては、ただただ、人としてそこに敬えるだけの存在であることは事実である。ここにある想いは思想教育によって培われたものではない。私はむしろそこから離れる事によって、客観性を手にした稀な人間の部類であると自認する。

あくまで私見だが、私は「皇族であることによる想い」というものを想像し考えるに、特に天皇象徴制になってからの皇族にとって、同じ人間としてどれだけ「その身を粉にして来たか」のみを感じ取る。
そして無私の立場をどのようにして維持、貫くかを悩んで来たことに対して、想像しがたいほどの心中を察する事となる。私自身その生き方にすごく関心があるのだと考える。

ついでにその祖であるアマテラス男神の心中さえも考えると次のような言葉が私の胸から飛び出すのである。

過去に囚われるなと云いたい。自らを傷つける事を止めよ。それは誰の意思でもない。

神の意思であり真理であるものとは、万物全てとの和合である。天津神も國津神もいずれ和合する。

くだらぬ世迷い言から離れよ。

如何なる屈辱と塗炭の苦しみを味わったと言え、それはすべて人なら染むる為に自ら志願した経験である。

正義なる闘い等は無いのである。すべては己に克つ。それだけである。

これは私の心から発するものである。

思想を悪用し人々を惑わす事を即刻止めよ。
志士の本懐にこれ以上泥を塗る真似をするな。
http://www.asyura2.com/14/idletalk41/msg/506.html

   

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