http://www.maroon.dti.ne.jp/gokyo/index.htmlより
転写開始
(本の目次です。本文は下の方にありますbyこーるてん)
AA1025著
KGBスパイの日記 悪魔に魅入られた男
マリー・カール編
訳者不詳
訳 者 序
賛 辞
第一章
名前のない男
第二章
KGB高官の伯父
第三章
秘密結社最高首脳と会う
第四章
心を見透かす宗教者
第五章
「邪魔者は消せ」
第六章
修道服を脱ぎ捨てよ
第七章
告解ゲーム
第八章
黒髪の女
第九章
初めての恋
第十章
不思議のメダイ
第十一章
マリア信仰破壊計画
第十二章
カテキズム2000
第十三章
秘蹟破壊指令
第十四章
人間の栄光
第十五章
「黒髪」からの手紙
第十六章
第二ヴァチカン会議の秘密
終わりに
英訳版は Internet Archive(注1)その他で公開されています。
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イルミナティの極秘指令
解 説
指令書の本文
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訳者序
これは恐るべき記録である。旧ソ連・KGB国家秘密警察による、宗教破壊のための極秘計画を明らかにする手記なのだ。著者は「世界最高の秘密結社」から、宗教破壊担当に任じられ、ローマに送り込まれた秘密工作員だった。
この本は出版するために書かれたものではない。彼の日記に過ぎず、いずれ処分される運命にあった。だが、予期せぬ出来事から、この極秘の手記が露見する事態が起きた。著者は、一九六〇年代にフランスで交通事故に合い、急遽運ばれた病院で息を引き取ったのだ。
付きっきりで看病に当たったカトリックの看護婦、マリー・カールは、身元確認のために、唯一の所持品だったアタッシュケースを開けた。そこから、一〇〇枚近くの紙にタイプ打ちされた、ほとんど自叙伝に近い日記を発見した。
著者の名は「AA1025」としか書かれていなかったが、日記には、彼の行なってきたことが詳細に記録されていた。
そこには、ポーランドの孤児がいかにしてソ連秘密警察の最高幹部の養子になり、無神論を世界に蔓延させるスパイとして養成されたか、カトリックの内部崩壊を誘うために、彼がいかにして司祭になり、神学校でどのような破壊計画を立案、実現に運んだかが書かれていた。
暗号名AA1025は、「一〇二五番目の偽司祭」の意味だった。彼は、世界最大の宗教、ローマカトリックを内部破壊する、一〇二五人目のスパイ司祭として送り込まれたのである。
この日記に書かれている、カトリック破壊の極秘計画は、一九六〇年代初頭の第二バチカン会議以来、教会に起こっている大変化に無気味なほど符合する。
対面ミサへの変更、跪きの廃止と手による聖体拝領、グレゴリオミサの廃止、祭壇のテーブル化などの典礼の「刷新」、カテキズム(要理)の改変、新共同訳聖書の破壊的「意義」も明らかにされている。読めば読むほど、現状との符号に驚愕せざるを得ない。
これらは、「刷新」と呼ばれ、和解を中心テーマとする今日のキリスト教においては前向きな改革と見られているが、刷新は表の事実でしかない。刷新を隠れ蓑とする、神を死に至らしめる計画が、この半世紀に極秘で進められてきているのだ。
彼らが最終的に目指しているのは、全世界から宗教と名の付くもの、信仰と名のつくものを、すべて滅ぼすことにある。カトリックはその踏み台に過ぎない。
ソ連崩壊に伴って、共産主義は力を失っているように見えるが、解体以前に彼らがばら撒いた破壊の種は、確実に成長している。著者は、第三バチカン会議で教会にとどめを刺すとまで言っている。それは、世界統一宗教に橋渡しする、世界普遍教会を樹立するためなのだ。
本書は、衆人の預かり知らぬところで暗躍する、最高の秘密結社、イルミナティの極秘宗教戦略を暴露する、貴重な内部資料のひとつである。
賛 辞
著者のマリー・カールは、多くの賛辞を読者から得ている。一番特徴的なものをここに引用しよう。
この本に提示されている事例は、悲しむべきことに、想像の所産ではないのです。記憶が正しければ、『貧しい教への援助・ブレチン』最近号に、ロシア問題のスペシャリストが、…司教は実際に工作員であり、彼がロシアで一万の教会を閉ざしたことを認めています。
ほとんどの人が知らずにいる “悪魔の体制” の核心を発掘し、抽象論をかます教授先生のようにではなく、いわば現在進行形で、詳しく解説してくれたことに感謝。悪魔に憑かれた男の “情熱” が伝わってくるようです。
辛辣だが、この物語は現実に立脚したものだと信じます。私は教会の中に、司祭と恐らくは司教の中にも、AAがいることを確信しています。
ろくに聖書も読まない国民にこの小著がどの程度影響を与えるだろうかと自問しています。確かに、真の宗教者は福音書に通じています。そこには、抽象論はほとんどありません。神学のすべてがそこにあるのです。彼らはAA1025を理解するでしょう。
次の賛辞は、著者の文通相手から寄せられたもの。名前は変更していない。彼らは著者の私的文通者である。
マリー・カール著、AA1025を、三回読み返しました。この本を読むようすべてのカトリック信徒に求めるのが私の務めだと信じます。教皇パウロ6世が、教会の自壊、つまり内部からの崩壊に対して、カトリック信徒に警戒を呼びかけた真意を理解しようとすれば、必要なことです。
- イラ・ブラサ大司教
(カナダ、ケベック州、テルブルック)
マリー・カールの本、“AA1025” は、辛辣なドキュメントです。これは広く知らしめる必要があります。信仰者の目を共産主義者の悪魔的計画に開かせるからです。私は数十冊注文しました。
- ジョルジョ・パントー神父
(カナダ、ケベック州、スリーリヴァー、司教座聖堂参事会員)
カトリック教会に潜入し内部からの転覆を図るために共産党が採用している戦略を知りたいと思う人は、“AA1025” を読む必要があります。これは人の喉元をつかむ恐るべき体験談です。魔女狩りを組織するのではありません。手遅れになる前に知らしめるために。
- ジョセフ・デアンジョー神父
(カナダ、ケベック州、ドフェー、イエズス会)
第一章 名前のない男。
自分はなぜこのような日記を書く気になったのだろう。不思議なことだ。だが、夜毎夢の中で私に書くことを強いているものが、昼間にも書くよう急き立てているのだろう。
いずれにしろ、大した問題ではあるまい。この日記を読む人間は一人もいない。時が来れば日記は始末してしまおう。
私は名もない男である。家族も、故郷も、財産もない。ブルジョワや官僚から蔑視されている者の一人だ。
自分に良くしてくれようとした者たちのために、私は愚かにも苦しんだ。そこから幸福が生まれるかもしれないことを、知っていればよかったのだ。だが、自分は若過ぎて、不幸からも輝かしい未来が生まれるということが、そのときは分からなかった。
最初、私は名もない子供だった。あれは三歳の頃だった。泣きじゃくりながら、ポーランドの路上をさまよっていた。一九二〇年だから、逆算して、自分が一九一七年に生まれたことだけは確かだ。
それにしても、どこから、また誰から私は生まれたのだろう。私はほとんど話ができなかったようだ。私のポーランド語は貧弱で、ロシア語はもっとひどかった。ドイツ語はまったく理解できなかった。
自分は一体誰だったのだろう。私は自分の名前すら言葉に出せなかった。結局、この世に生まれてきたからには、自分には名前があり、呼びかけに答えていたはずなのだ。今後は、義理の親の選んだ名前に満足しなければならない。
五〇年後の今も、気持ちはだいぶ和らいできたが、…博士と…夫人を思い出すたびに、怒りがこみ上げてくる。
彼らはいい人達だった。気前が良く、鷹揚な人達だった。彼らには子供がいなかった。それで私を養子にしたのだ。実の子以上に、私は愛されたと信じている。彼らは、不妊によって突き落とされた絶望の淵から、私によって救い上げられた。だから私を愛したのだ。
彼らは私を天からの贈り物と考えたに違いない。彼らは、自分たちの身に起こったことを、何もかもかに神のせいにするほど、強い信仰を持っていたからだ。
むろん、まるでゲームのように、私にも同じことをするように教育した。彼らは立派な徳を持っていた。二人が陰口をたたくのを一度も聞いたことがない。
路上で、ひとり激しい泣き声をあげている私を見つけたとき、二人はまだ若かった。年は三五歳ぐらい。お似合いのカップルで、二人をつなぐ大袈裟ともいえる愛情を、私はすぐに感じ取った。二人が互いを見つめてキスし合う光景を見たときには、楽しさが歓喜に変わったものだ。
彼らは「私の」父であり母だった。私は、子供じみた情熱をもって、この所有形容詞を口ずさんでいた。母は、特に私を溺愛したが、それは私にとっては耐えられないものだった。どうしてそうならなければならないのか。自分にはその理由がわからなかった。
私は、生まれつき内気で、勉強好きな性格だった。彼らに面倒をかけたことはない。女々しかったというのではない。激しく戦うこともできた。だが、戦うには、乱暴になる必要も、悪者になる必要もない。
私の両親、特に母は、私が良い性格だと思いこんでいたが、彼らが知らなかったのは、運良く、私の意志が彼らの意志と合っていたに過ぎないということだ。私は大きな野心を懐いていたが、彼らがそれを認めていた。少年が望んでいたのはそれだけだったのだ。
私が、勉強でかなりの成績を収め、一四歳になった年に、私たちはローマとパリに旅行することを決めた。私は、嬉しさのあまり、なるべく眠らないよう頑張った。眠りが時間の浪費に思え、その分を旅行の準備にかけたいと思ったのだ。事前にこれらの都市について知識を深めておきたかった。
ある晩、意に反して瞼が重くなってきたときに、眠気をなくすのにいい薬を父が持っているのではないかと考えた。それで、足音を忍ばせて居間に行った。
すると、隣室から二人の話し声が聞こえてきた。二人は、私のパスポートのことで相談しあっていたが、このときに、私が「実の子ではない」と言ったのだ!
まるで、落雷に打たれたかのようだった。この気持ちが人に理解できるであろうか。少なくとも、似たような境遇の小説家であれば、この気持ちが分かるかもしれない。だが、あえて言えばそれ以上のものだった。人間はこのような気持ちを言い表せる言葉を持ってはいない。
この瞬間に生じた心の傷は、はかれないほど特殊で、生まれたばかりの赤子のように小さなものだった。それは赤子のように徐々に成長していたが、自分にはそれがわからなかった。私はできれば死にたいと願い、心はますますその方向に傾いた。
心臓の鼓動がどれほど速まったことか。その間にも、全身は大理石のように硬直した。心臓の鼓動が元に戻ったときに、ようやく身動きが取れるようになった。頭の天辺からつま先まで苦痛に襲われた。それまで、自分は痛みというものを知らなかった。だから、最初の一撃で完全にやられ、自分の人生が左右されるほどになったのだ。
傷ついた心は、親から離れるよう私を急き立てた。私は、着の身着のままでこの衝動に従った。できることなら下着さえ捨てて行きたかった。彼らに関わるいっさいを捨てたかったのだ。
私の親は、確かに「彼ら」と呼ばれて当然の人間たちだった。その気持ちは今も変わらない。私が向けた彼らへの憎しみの値は、彼らが私に向けた愛情に等しい。
真実愛していると言いながら、彼らは私を欺いていたからだ。私は彼らをけっして許さない。何一つ許さない。それが自分の信条なのだ。
論理的には、彼らに感謝するべきであろう。自分が今や、世界最強の秘密結社の一員になっているのも、元を正せば彼らが原因なのだ。
私は神の個人的な敵になった。本当は存在していない神の「死」を、今や、全世界に教育宣伝する人間になっているからである。
心の傷が、遠くウラジオストクまで走るよう、自分を急き立てた。私は出発した。だが、何十時間も経つうちに、元気な体もさすがに消耗し、壁にもたれて息をつかねばならなくなった。壁がぼんやりとし始めて、私はその場に崩れた。遠くからかすかに人の声が聞こえた。
「おお、なんて可哀そうな子でしょう!」
私は、母性愛を見せようとする女を絞め殺してやろうと、振り向いた。
だが、殺人計画は、不快感に阻止された。あまりに女の顔が醜くかったからだ。このような不気味な人間の肌に触れるのも嫌だった。私は話そうとしたが息が詰まった。
二人の女は私にアルコールを飲ませようとした。私はそれを吐き出して、即座に眠りについた。明るい日の光に目が覚めた。一人の女がベッド脇に座り、私を見つめていた。彼女が私をそこに運んでくれたのだ。前と同一人物であったのかもしれないが、もう化粧は取っていた。私は話しかけた。
「昨日はひどい顔だったね。」
彼女は静かに答えた。
「それをいうなら、一昨日でしょう。」
道理で腹ペこのはずだ。私は食物をねだった。女は男に食べさせるよう運命付けられているものだ。
「家出してきたのね。名は(誰々)でしょう」との声に心がやわらいだ。
私は、次の言葉を待ち、あえて答えずにいた。すると、彼女はこう付け足した。
「ロシアに入る手助けならできますよ。」
「なぜロシアへ行きたいと分かるのです。」
「うわ言のように、そう言っていましたよ。」
「それで、私の名前を知っているのですか。」
「いいえ、新聞で見たのです。ご両親は、帰りなさいとおっしゃっていますよ。叱らないからと。」
「両親などいないんだ!」と私は言った。
彼女は、私がけっして戻らないことを理解したに違いない。こう言ったからだ。
「ロシアに私の親戚がいます。国境越えを助けて上げましょう。」
その言葉に希望の光を感じた。それで、昼に下校する友達に、手紙を手渡してくれるよう、彼女に頼んだ。彼女は私のために役立つことを喜んでいるようだった。
私は暗号で書いた短い手紙を手渡した。私たちは、暗号を遊びに使い、それを知る者は誰もいなかったのだ。この劇的な状況で、私はそれまで遊びとしか考えてこなかったものを使うことになった。
友人は裕福で、彼の両親は、必要以上の小遣い銭を彼に与えて甘やかしていた。それで、要りもしないものを買うために彼が貯めているはずの金を、当てにしたわけである。彼が私に強い友情を寄せていることは分かっていた。それは、互いに感じあっていたものだが、彼は、友情を何より重んじ、私のためなら貯金を全部はたく男だった。
ロシアへの密入国を隠さなければなおさらだ。彼は、ロシアの豪胆な国柄に憧れていたからだ。父親とうまく行かなかった彼は、母の国、ロシアのほうを愛していた。また、私の密入国を決して人に言わない男だ。
私は、彼の伯父がレニングラードで役人をやっていることも思い出し、伯父の住所を聞き、推薦してくれるよう依頼しておいた。女が出かける直前に、私は、追伸を付け加えた。
「僕は “党” に加わりたいのだ。“党” で偉い人間になりたいのだ。」
それは、復讐ともなるものだった。
女は、友人の家の前で待っていたが、幸運だった。彼は二時に帰ってきたからだ。友人は、彼女を信じ、荷物を手渡した。そこには私への暗号書簡と、伯父に宛てた推薦状と、かなりの額の金があった。本当にいい奴だ。
私は、彼の伯父がロシア政府でどんな要職についているかは気にかけなかったが、隠し隔てのない付き合いをすることに決めた。望む階級につくには、ユニークなこの男と、率直に付き合ったほうがいいと考えたのだ。
最初に会ったときに、伯父は私をたいそう良く理解し、私は彼を喜ばせたと思う。伯父は、まず、“党” の原則と語学を勉強する必要を説いた。全ては、私の勉強にかかっていた。私は、どんなことでも一番になり、先生を追い越すでしょうと答えた。
自分の心の内を話せる人を持つのはいいことだ。私には彼しかいない。そう伯父に話した。彼は、皮肉な笑いで答えながらも喜んだ。その瞬間、伯父を出し抜いた気がした。
逃亡して以来、はじめての快感だった。この気持ちは長く続かなかったが、自分にとっては良い兆しだった。
私は六年間、わき目もふらずに勉強した。唯一の楽しみは、学期の休みごとに伯父を訪問することと、「世界無神論」の党首になるという確信に立って神を憎むことだった。
第二章 KGB高官の伯父。
伯父は、私の唯一の友人であり、私を真実理解してくれる唯一の男だった。わたしは女には興味がなかった。むしろ嫌悪感さえ懐き、女の尻を追い回す奴には無性に腹が立ったものだ。
最大限学び取るという私の決心は、脅威的暗記力に大きく支えられた。一冊の本を注意深く読めば、もったいぶった表現で書かれているところさえ暗唱することができた。だが、特に大事な部分だけを記憶する才能があった。
ずば抜けた知性によって、私は、価値のある考えだけを保持し、どんな優れた教授でも批判する方法を心得た。
「党」の基盤である無神論への傾倒が私の情熱をそそり、それは留まるところを知らなかった。六年に及ぶ熱心な勉強を終えてから、伯父は、ある晩私を事務所に呼び寄せた。それまでは、彼とは家でしか話したことはない。
その日、私は予想していた通り、伯父が国家警察の幹部であることを知った。彼は、私を動揺させる(と彼が信じる)重大な提案をした。
「これから、軍事的国際的な無神論を実行するために、おまえを送り出す。おまえは、あらゆる宗教、特によく組織化されているカトリック教会と戦わなければならない。そのために、おまえは神学校に入り、ローマ・カトリック教会の司祭になるのだ。」
沈黙が私にできる唯一の答えだった。その間、私は無関心さを装っていたが、内心喜びに浸っていた。伯父は、満足し、その気持ちを隠そうとはしなかった。彼は静かに話し続けた。
「神学校に入るため、おまえはポーランドへ帰り、義理の親と和解し、それから司教に身を委ねなければならない。」
このときばかりは反発を覚えた。伯父と関わって以来、はじめて自分を抑制できなくなってきた。彼は、それを見て満足し、むしろ楽しんでいるようにさえ見えた。
「だから、大理石になり切っていないというんだ」
この言葉が私の気持ちを一掃煽った。私は冷ややかに答えた。
「自分は何が起ころうとも変わりません。自分のままです」
伯父はくつろいだ様子に見え、楽しんでいるようでもあった。まるで、私の仕事も未来も(したがって党のそれも)、この日の決断とは関係ないかのようである。
彼はこう付け加えた。
「大理石は美しい。それは秘密諜報員にならんとする者が昔から使ってきたものだ。だが、ここでは、義理の親に最大の愛情を見せることが必要なのだ」
私は臆病になり、哀れっぽくたずねた。
「六年間も神学校に行ってですか。」
彼は罪を非難するかのような厳しい口調になった。
「そうだと言ったら、どう答える気だ」
彼は、こう付け加えた。
「秘密諜報員は冷血でなければならない。心を持たず、何物も愛さず、自分自身さえ愛してはならない。彼は “党” の所有物なのだ。党は、予告もなく、生きたまま彼を呑み込む。このことをよく覚えておけ。われわれは、おまえがどこにいようとおまえを見張っている。おまえが厚かましくなれば即座に除く。よく理解しろ。自分の過失でなくとも、おまえの身が危険になったとしてもわれわれに頼ってはならない。おまえは除かれるのだ」
私は答えた。
「よく分かっています。ですが、私は彼らに感じている憎しみを、あなたから隠したことはありません。」
「憎しみは、レーニンに倣い、神への憎しみ以外、われわれの仕事に入らせてはならない」と彼は答えた。
「われわれは、おまえを母国、ポーランドの本物の司教に受け入れさせねばならない。だが、その国で宗教研究をさせるのが、われわれの意図ではない。それどころか、おまえは大西洋の向こうの国に送られるだろう。だが、これは極秘だ。その命令を受けたら、おまえは驚いた振りをする。われわれは、ドイツを支配しているあの馬鹿者のために、ヨーロッパ戦争にびくびくさせられている。そこで、どこか別の国、例えばカナダでおまえに勉強をさせるほうがいいだろう。理由は他にもある。ヨーロッパの神学校は、アメリカよりも厳格だからな」
私は、わずかに抵抗の姿勢を見せたが、すぐに見破られた。伯父は話し続けた。
「おまえがまる六年間、こもりっきりで、厳しい勉学に耐えたことはよく分かっているが、それは問題ではない。世界で何が起こっているかをおまえに学ばせる必要があるのだ。世界にその信仰を捨てさせるよう、世界に向かって話せるほうが良い。まったく怪しまれずに若者たちを神学校に送っても、彼らを取られてしまえば、何の意味があろうか。いいか、おまえは、死に至るまで司祭であり続けるのだ。信心深く純潔な司祭として振舞うのだ。いずれにしろ、私はおまえを知っている。おまえは頭のいい男だ」
すると、伯父は私のするべき特殊任務について、幾つかの指示を与えた。私はこの任務に自分の命を賭けるのだ。
私は、神学校に入るやいなや、自分に教え込まれたものを、全て打ち壊す方法を見つけることになっていた。だが、そうするためには、注意深く、知的に、すなわち感情をいっさい交えずに、教会史を研究しなくてはならない。
特に、迫害が殉教しか結果しないという事実を見失ってはならない。これがため、カトリックはクリスチャンの生みの親のように宣伝されている。そこで、殉教者は一切出してはならない。どの宗教も恐怖に根ざしていることを、けっして忘れてはならない。先祖伝来の恐怖心だ。すべて宗教は恐怖心から生まれるのである。したがって、恐怖心を超えれば、宗教をも超えるのだ。
だが、それだけでは十分ではない。伯父は言った。
「おまえにかかっているのだ。正しい方法を発見することは。」
私は喜びに酔った。伯父は、さらにこう付け足した。
「おまえは、世界に広めたいと思うスローガンを、それを選んだ理由を説明しながら、毎週、ごく簡潔に私に報告するのだ。一定のときが経過したら、おまえはネットワークと共に直接行動に移る。おまえには命令を遂行する部下が、十人与えられる。彼ら十人は、それぞれ、任務遂行のための部下を十人持つ。
おまえの指令に直接従う十人は、おまえを知ることは決してない。私を通してでなければ、おまえに連絡を取ることはできない。だから、おまえが告発される恐れはまったくない。
われわれはすでに、カトリックが植え付けられているすべての国々に、多くの司祭を送り込んでいるが、おまえたちは互いに知り合うことはない。司教も一人いる。おまえは彼と接触するかもしれないが、そうなるかどうかは、おまえの昇進にかかっている。
われわれはどこにでもスパイを送り込んでいる。彼らは世界中の新聞に目を光らせている。おまえには、定期的にその要約を送ることになるだろう。
おまえ自身の考えが、いつ人々の心に入ったかを知るのは簡単だ。おまえの考えがよければ、どこかの馬鹿な作家が、さも自分の考えであるかのように、それを発表するだろう。
作家ほど自惚れの強い奴らはいない。われわれにはこういう作家が必要なのだ。彼らを訓練する必要はない。彼らは、頼まずとも、知らぬうちにわれわれのために働いてくれるのだ。」
私は、戦争が勃発した場合、どのようにして接触を図ればいいいいのか、と彼に聞いた。
彼はすべてを予見していた。適切なときに、私は自由主義諸国から手紙を受け取るだろう。私に当てられた極秘暗号名「AA1025」が打たれているので、手紙が本物であることはすぐに分かる。「AA」とは「アンチ・アポストル」(偽司祭)の略である。
このとき、私の任務が一〇二五番目なのだろうかと思ったが、この推理があたっていることを知り、私は驚きのあまり声をあげた。
「私以前に、この任務に就いた司祭や神学生が、一〇二四人もいるというのですか!」
「その通りだ」と彼は冷静に言った。私は、落胆はしなかったが、自尊心を傷つけられた。この一〇二四人を殺してやりたいと思ったが、「こんなに多くの人間が本当に必要なのですか」とだけ言った。
伯父は、笑っているだけである。私は、自分の気持ちを隠していることができなくなった。
「これ以上人員を増やしたら、良い仕事を達成することはできないと思いますよ。」
だが、彼は私の好奇心を満たそうとはしなかった。私は、少なくとも彼らの何人かと接触できるかどうかを知りたかったのだが、一人も知ることはないと伯父は言った。
まったく理解できない言葉だ。
「いったい、互いに散り散りになって、協力も競争もできない状態で、どうしていい仕事ができるでしょうか。」
「協力について言えば」と彼は答えた。「それは心配するな。私たちがそれを確実にする。上の階級にある者にしか、その動きは分からないようになっているのだ。競争について言えば、党を愛する気持ちにかかっている。」
これ以上話す言葉がなかった。自分がトップに立つときまで、党は無神論において価値ある何物も実現できないと本当に言えるだろうか。だが、私はそれを信じた。
第三章 秘密結社最高首脳と会う。
この記念すべき晩が過ぎてから、伯父は幾つかの秘密と何ともスリリングな文書について学ばせるために、私を招いた。
このメモが出版されることはないが、慎重を期して、文書には触れまい。
同じ週に、各国の役に立つ住所と電話番号を手に入れた。どの情報源も、戦争が近々勃発することを告げていた。
私は、ヨーロッパを離れたいという気持ちに急き立てられた。自分が死んでも、徴兵されて仕事が遅れただけでも、人類の福祉は危機に立たされるからだ。
伯父は、国際政治について話し合うため、私を事務所にこさせたが、私はこの分野にあまり関心を持てなかった。
伯父はこの点で私を責め、無神論は政治の一部に過ぎないのだと話した。私は、心の中では無神論が一番重要だと考えていた。
私の心を読んでか、伯父はこう言った。
「無神論が何より大事だというおまえの考えは正しいが、それでも、この問題をよく知っておかなくてはならないのだ。」
私はいやいや同意しながら、こう付け加えた。
「これからの戦いに出す全般的な指令について、私は特別な案を考えているのです。」
このときに、伯父の顔に満足の色が広がった。私は、やや反抗的態度で、伯父の顔を見た。
「話してみろ。但し、簡潔にな」と伯父は言った。
「宗教的情熱に対して戦いを挑むより、ユートピア的な方向でそれを煽る必要があると思います」
彼は黙って聞いていた。私の考えを消化しようとしているようだ。
「いいだろう。例を述べてみろ。」
私が手にしていたのは、長期計画である。その瞬間に、自分が全世界を手中に入れているような感覚を覚えた。
私は、静かに説明した。
「すべての宗教を統合する普遍的宗教を、何としても樹立するよう、指導者、特に教会指導者を動かすのです。この案を成功に導くためには、われわれは宗教者、特にローマ・カトリック信徒に、彼らが生きている振りをしている独特な真理について、罪悪感を懐かせなければなりません。」
「次の案も理想論ではあるまいな。」
「いいえ、とんでもない」と私はきっぱり言った。
私は十四歳までは、正真正銘の、非常に熱心なカトリック信徒だったのだ。プロテスタント、イスラム教徒、ユダヤ教徒の中にも、聖なる宗教者がいることを彼らに示すのは、かなり容易であると信じている。
「それは認めるとして」と彼は言った。「だが、他宗教はどんな感情を懐くだろう。」
「色々でしょう」と私。「これについてはもっと自分でも調べなければなりません。しかし、一番重要なのは、カトリック教会を、徹底的に叩くことです。この教会が一番危険です」
「それで、おまえがすべての教会に運営させたいと考えている、その普遍的宗教とは、どのようなものなのだ。」
「非常に単純なものです。単純でなければなりません。誰もがそこに入れるようにするため、時に応じて、“創造主” とか “善” とか、神の観念を曖昧にします。この神は、災難時にしか役立ないようになるでしょう。それで、各聖堂は、先祖の恐怖心で充満するようになるでしょうが、他のときには、もぬけの殻になるでしょう。」
伯父は、しばらく考えてから、おもむろに言った。
「カトリックの司祭たちは、危険性にすぐに気付いて、おまえの計画に敵対すると思うが。」
私は鋭く答えた。
「もう起こっていることなのです。この考えは、非カトリックの指導者たちが立ち上げているのです。カトリック教会は、いつもこういう計画には門を閉ざしてきました。だからこそ、私は、その考えを変えさせる方法を探ろうとしているのです。簡単ではないことはわかっています。二〇年、あるいは五〇年を要するかもしれませんが、最後には成功するでしょう。」
「どんな手段を使おうというのだ。」
「多くの巧妙な手段に訴えます。カトリック教会を、ボールに例えましょう。それを壊すには、小さな穴を幾つか開けるだけでいい。そうすれば、最初の形とは似ても似つかぬものになるのです。辛抱強くする必要があります。多くの考えがあります。一見すると、子供っぽい案のように見えるかもしれませんが、こうした小細工がみな、非常に有効な見えざる武器となるのです。」
「ならば、具体的なプランを聞くとしようか。」
私は、ゆっくりと書類に手を延ばすと、自分の計画書の詰まった封筒をつかみ出した。私は、この文書を彼のデスクの上に広げた。伯父はそれをすぐに読み出したが、こんな展開になるとは思いもしなかった。私に大きな期待をかけている証拠と見た。
かなり時間をかけて資料を読み終えると、伯父は、私を見て言った。
「委員会で審議させることにしよう。八日後のこの時間にここに来なさい。答が出ているだろう。その間、おまえはポーランドに出発する準備をするのだ。これを受け取れ。」
そう言うと、彼は私に厚い封筒を手渡した。自分が持ったことのないほどの紙幣が、中に詰まっていた。
私は映画館に通い、沢山の本を購入した。それをどう送るべきか分からなかったが、伯父がすべてを手配してくれると思った。八日間、ろくに眠ることもできないほど、精神は高ぶった。
彼女を作るべきだろうかとの思いが湧いてきた。これは、初めての感覚だったが、自分の精神が興奮するのを思って、これは無価値なことだと考えた。こんな低俗な動物的行動は、目下、最高首脳が検討を進めている自分の計画に、不運を招くに過ぎないと感じた。
多くのランクを飛び越し、自分以前にいた一〇二四人を超えることが、何より大切なのだ。
ある晩、自分の脳細胞がいい影響を受けるかどうかを確かめようと、私は酒を試してみた。だが、好ましい影響は何もなかったので、酒は宗教よりも有害だと確信できた。
ついに、伯父の事務所に戻る日が来たとき、心臓の鼓動がいつもより速まっていたが、不快には思わなかった。誰にも気付かれなければそれでいい。
伯父は私をじっと見てから、薄ら笑いを浮かべて、「チーフ(長官)がおまえに合いたがっている」とだけ述べた。そのような高官が文句をいうためにわざわざやってくるとは思えないので、私は動じなかったが、この有名な「チーフ」の姿には、戦慄を覚えた。
戦慄という語は正しい。三〇年後の今も、彼の姿を思い出し、存在を感じると目をつぶりたくなる。彼はそれほどの存在感を持っていた。
彼の前では、全員が操り人形に見えた。私はその感覚を今でも嫌悪する。
彼の存在感は怪物のそれだった。残虐、暴力、サディズム、策略、野蛮が、一人の人間に結晶したような存在だ。
拷問を楽しむために牢獄に行くような男に違いないと思った。だが、私は残虐さは大嫌いだ。そのようなものは、弱さの現れであると考えている。
どんな弱さも嫌悪していたので、残酷さの塊のような存在の前で卑屈にしている伯父に、私は我慢がならなかった。
この人物は、私の目をじっと見据えることから始めた。何を見ているのだろう。私には見るものなど何もない。
それから、チーフは、私が一番望んでいることは何か、と聞いてきた。「党の勝利」と言うのは簡単だったが、真実は心の奥に秘めていた。
それから、彼は、吐き捨てるように言った。
「今からおまえをわれわれの秘密工作員とする。毎週、指令を受け取れ。おまえの熱心さに期待する。すべての宗教を中から潰すには、いかにも長い年月がかかるだろう。だが、おまえの出す指令は、特にジャーナリスト、作家、神学者の中に叩き込んでおかねばならない。我々には、全世界の宗教書に目を光らせ、指令の効き目具合を報告してくる特殊チームがある。だから、最善を尽くして喜ばせろ。大いに期待しているぞ。おまえはすべてを独力で理解したようだからな。」
チーフは、間抜けではない。彼は、私の仕事ぶりを耳にするようになるだろう。それは確信できる。
私はまた、未来における自分の成功を疑うクリスチャンの弱さを熟知していた。
「慈悲」という名の弱さだ。この言葉を聞くたびに、どんな種類の罪責感でも植え付けることができる。罪責感は常に抵抗力を弱める。医学的、数学的な抵抗力だ。たとえ、二つが両立するものではなくとも、私はこの二つと繋がっている。
私は、誇りをもってチーフに別れを告げ、淡々と礼を言った。自分が圧力をかけられたとは思わせたくなかった。
ふたたび、伯父と二人だけになった。このあまりに有名なチーフについては、意見を指し挟むことは控えた。
むしろ、この人物が極めて不愉快な人間だったことを嬉しく思った。おかげで、世界の大物に対する恐怖心が消え失せたからである。
そして、いつも通りの結論に落ち着いた。世界でもっとも偉大な男は自分なのだ!
第四章 心を見透かす宗教者。
自分には俳優顔負けの演技力がある、そう確信して私はポーランドへ旅立った。
苦学生として六年間を孤独に過ごし、二一歳にして、思いやりのある、従順かつ敬虔な若者として戻るのだ。必死で神学校に入ろうとするのだから、敬虔以上である。自分の初舞台としては、まさに打ってつけである。
私は、義母を簡単に騙せると考えていたが、博士はどうなのか。私は彼の診断を恐れた。この男は、自分が人生で恐れを感じた唯一の人間だ。ともかく、何としても、どんな犠牲を払ってでも、彼を騙さなければならない。
彼の援助がなければ神学校に入学できないからではない。自分の力を証明するためにも、決して怪しまれてはならないのだ。博士は、私にとって、自分の価値の試金石であった。
私は、彼が帰宅する以前に、短時間義母と過ごせるよう、午後六時ごろに「家」のベルを鳴らした。ドアを開けたのは彼女だった。ずいぶん老けたようで、化粧はしていない。具合が悪そうにみえる。彼女は震えだした。それから泣き出した。
謝罪することによってこの件が落着し、博士が帰宅する以前に忘れられてしまえるよう、私は、長いこと留守にしていたことを詫び、許しを願った。
男の前で男として懺悔する気持ちはさらさらない。彼女がともにいれば、私たちはすぐに再会を喜び、将来の計画を打ち明けることができるだろう。
彼女は、私が立派な司祭になることしか望んではいないので、私はすぐにこの件を切り出した。哀れな女はこれをとても喜んだ。これなら、幾らでも騙せるだろう。
彼女は、どうしてそんな気持ちになったのかと質問した。漠然と色々な説明を考えてはいたが、事前に光景を決めてしまわない方がいいと考えていた。予め考えたものは、その場の発想ほどには優れてはいないのが普通である。
私は、彼女の信頼を勝ち得るのに打ってつけの「御出現」物語を作り上げた。博士なら、このような話に疑いを持つだろう。だが、超自然現象が彼女の弱みなのだ。
二人の意見を分裂させ、こちらの立場を強めればいい。私について議論しているあいだは、私はひとりでいられる。
そこで、私は、天からの御出現の話を彼女にして、自己矛盾に陥ることのないよう、この話を細部にわたって慎重に記憶に焼きつけた。
自分がパドアの聖アンソニーのご出現を受けたと話したのは、皮肉なことだった。紛失物を見つける聖人として有名なこの人が、失われた子羊の世話もするということだろうか。
この聖人はあまりに人気が高いため、およそどんな奇跡を彼に当てはめることができる。そこで、パドアの聖アンソニーは、両腕に幼児イエズスを抱きかかえた姿で、私の元に現れたということにした。
この話をしながら、美しい信心の場面を創作してもよかったが、二人が甘美な信心談に浸っているところに、博士が帰宅した。
理性ある存在の登場である。だが、彼が私を信じていないことは、すぐに見て取れた。勝負は難しい局面に来たが、俄然面白味を増してきた。
自分の養父を信じ込ませるのが、私の任務なのだ。少なくとも、彼が私を信じている振りをするところにまで持ってこなければならない。
だが、第一夜はかなり難航した。博士は、自分が出会った中でも、珍しいほど知性的な男だった。これまでにないほど面白い勝負になった。
翌日、私は、司教に会わせてほしいと二人に頼んだ。養母は司教とは子供のときからの知り合いである。彼は私を丁寧に迎えたが、熱中してはくれなかった。
彼は、召し出しを煽るより、撥ねつける方を得策と考えるカトリックに違いない。真の召し出しであれば、どんな難関をも突破できるという考えである。幸いにも、私はこの種の考え方には慣れていたので、少しも困惑しなかったが、こういう考えに混乱する者も少なくないだろうと思う。
自分に関して言えば、私はクリスチャンとしての謙遜を保つ術を心得ていた。司教が自分を不愉快に思うはずはない。
彼は、司教区の司祭と、もう一人、心を読むことで有名なある信仰者に会うよう私に勧めた。この信仰者は、ただの妄想と明らかな召し出しとを識別して、誤った召し出しを看破できるというのだ。
まず、司祭に会いに行った。男らしく、また単純な信仰の持ち主だった。彼は、自分の司教区に召し出しの花が咲くことを望んでいた。この朗報を告げるためなら、何でもしてくれそうな勢いだ。
私は、自分の聖なる情熱を博士の心に印象付けるため、司祭を家での晩餐会に招くよう、義母に願った。集いはうまく行った。司祭は子供のような霊魂を持っていたからだ。この滅多にない現象を前に、列聖審査に通じていた義父は、罪責感を感じ始めた。誠実なクリスチャンに聖人を拒めるはずがない。
このようなわけで、読心術に長けているという信仰者に会いに行くときには、私はかなり気が楽になっていた。だが、この男は、最初に会ったときには、とても耐えられない存在に思えた。彼は、ゆっくりした話し方と、頻繁に起こる沈黙で影響を与えているようにみえた。
ともかく、私は、真の召し出しを言葉に表そうと、あらゆる手を尽くした。私は心の中では笑っていた。自分の心に秘めた思いが、相手になど伝わるはずがない。別の思いを秘めていることなど、どうして相手に分かるものか。
面談は長時間に及んだが、私は次第にこれが好きになってきた。私は雄弁に語り、自分の言葉に耳を傾けた。むろん、謙遜の徳を忘れなかった。これほど容易に真似できる徳はない。とても楽しい勝負でさえあった。
私は謙遜ばかりか、他の多くの徳を装うことができるのだ。パドアの聖アンソニーの出現談については、あえて話さずにいた。
これについては、母から話が行っているに違いない。これについては沈黙していたほうが得策だ。
だが、一人の女性とも関係してはいないこと、セックスには関心のないこと、子供を作るときのみそれは善であると思っていると彼に話した。これも召し出しのしるしの一つに数えられるはずである。
党の中で自分が選択した仕事を言い表すのに、この召し出しという語を使えると思った。女性に対する自分の無関心さは、そのための条件なのだ。使徒も偽使徒も、自分の使徒職とのみ結婚するべきなのだ。
それで、使徒職という語が出てくるときには、私は特に雄弁になった。自分が熱心な使徒になろうとしていることは、明らかに伝わったはずだ。
この宗教者は、嘘をつかせようと、私を何度も罠にはめた。幼稚なやり方だ。知的な男は、嘘は使ってはならないこと、ごく稀な場合にしか使ってはならぬことを知っている。仮に、自分が嘘をつかざるを得ないと感じたとしても、私の記憶容量は余りに大きいので、自己矛盾を起こすようなことはない。
この宗教者は、私が六年間、消息を絶った理由を知りたがっていた。さすがに、このときばかりは心が動揺した。過去を思い出せば、自分をロシアに行かせた心の痛みが戻ってくる。だが、この男は、私が共産主義者になっているのではないかと感じていたのである。
そこで、私は自分は政治には無関心であるとだけ言った。六年間留守にした理由については、話せなかった。
ときには弱い人間を見せることも大事だ。こうすると、上に立つ人間は、逆にかばってくれるものだ。
私は、消息を断っていたことを激しく後悔しているといい、私の召し出しで母の気持ちは報われていることを理解させようとした。
この老人は、老母の唯一の望みを奪うことによって、彼女の気持ちを傷つけたいとは思わないだろう。むろん、そんな言葉は使わなかった。そうあって欲しいと心の中で望んだだけである。
進むにつれて、次第に話は丁寧になってきた。私は満足を感じ、最後に友人として別れた。
だが、教会からは何の音沙汰もなかった。まるで、新しい神学生の受け入れを急いでいないかのように、長いときが過ぎた。
私自身は、ロシア経由で全世界に届けられているはずの次の指令に、熱心に取り組んでいた。
だが、最後に、司教館に呼ばれたときには、目の前が真暗になった。宗教者は私が召し出しを受けてはいないと考えている、そう司教は話したのだ。
第五章「邪魔者は消せ」。
義母は病に伏せり、病院で看護されていた。父は、信心の反作用からか、私に親切にし始めた。父は、これからのことを尋ねた。私は、諦めてはいないけれど、教会が本当に私を必要としていないのであれば、医師になる覚悟ですと答えた。
むろん、私は、緊急の電報を伯父に打った。私の私書箱になっている司祭を通して、返事はすぐに来た。簡潔だったが、内容にはちょっと驚かされた。「邪魔者は消せ」とあったのだ。
無論、私は、秘密諜報員として、特殊訓練を受けていた。攻撃する方法と護身術も熟知していた。今回の場合、事故死を膳立てすべきか心臓発作に見せかけるかについて長いこと自問した。簡単に言えば、悲劇を起こすか、手心を加えるかということだ。
決着をつける場所は、修道院以外の場所が最適と考えた。
その結果、私は文通相手に、この宗教者を何とか彼の家に招いて欲しい、と頼んだ。幸いにも、二人は知り合いだった。
私は、この宗教者が自分に召し出しの印が認められないと結論した理由が知りたいのだと説明したが、これは嘘ではない。
これは私にとって重要なことだった。どうすれば自分の宗教行為を完璧にできるかが分かるからだ。
そればかりか、今回の逆転劇で、すっかり私は取り乱していた。それから、この宗教者の決意を変えることにも望みを託していた。
この二度目の会見を待つあいだ、私は注意深く、自分の本来の仕事に携わっていた。私は、次のように書いた。
教会の分裂によって起きてきた醜聞を、クリスチャンに意識させることが、きわめて重要だ。キリスト教には三種類ある。カトリック、正教、三〇〇余りのプロテスタント諸派。
ナザレのイエスの最後の祈りを強調すること。これは今まで注目されたことのない* 祈りだ。
*〔管理人注〕元の訳は「聞かれたことのない」でした。しかし、私達信者の間でそのお祈りが「聞かれたことがない」ということはありません。英語版を見れば「was never heard」となっています。これを「耳傾けられたことがない」と訳すことができます。しかし、日本語としてはまだ不自然です。「注目されたことのない」と差し替えました。
「 “一つ” であれ。父と私とが “一つ” であるように」
この点について、特にカトリック側に良心の呵責を増大させること。
キリスト教諸派に分裂を呼んだ責任は、カトリックにあることを強調すること。彼らが妥協しないためにシスムと異端が起こったのだ。
何としても償いたいと思わせるまで、カトリックに自責の念を感じさせる。
使徒信条を損なわずに、カトリックをプロテスタント(その他)に近づけるための、あらゆる手段を見つけなければならないと説き伏せる。
使徒信条だけは保持させる。ここで注意。使徒信条は、ほんの少しだけ変更させなければならない。カトリック信徒は「私はカトリック教会を信じます」と祈る。プロテスタントは「普遍の教会を信じます」と祈る。どちらも同じ意味だ。カトリックは「普遍」の意味だ。
少なくとも、教会の発祥においてはそうだった。だが、時代を経るにつれて、「カトリック」はより深い意味をもつようになった。それは、ほとんど魔術的意味を持つに至っている。
そこで、われわれは使徒信条のこの言葉を削除する必要がある。万人の最善の利益のため、プロテスタントとの一致のために。
さらに、信仰と使徒信条が危険にさらされることがないのなら、どのカトリック信徒も、プロテスタントを喜ばせるものを見つけ出すよう努めねばならない。
常に、慈善事業と同胞愛の拡大に彼らの心を駆り立てる。けっして神を語らせてはならない。その代わりに、人間の偉大さを語らせる。少しづつ、少しづつ、言葉と心の態度に修正を加えてゆく。
人間を第一としなければならない。人間への信頼を培わせる。すべての善意が一つとなって溶け込む「普遍の教会」を組織することによって、人はその偉大さを現わすのだ。人間の善意、誠実、尊厳は、いつも目に見えないでいる神よりも、遥かに尊い。それを分からせる。
カトリック教会と正教会に見える贅沢さと芸術は、プロテスタント、ユダヤ人、イスラム教徒が一番嫌う部分だ。それをはっきりさせる。
この無用の見世物を無くして、よりよい福祉に振り向けるなければならないことを示す。聖像破壊の情熱を煽る。若者は、像、絵、聖具箱、僧衣、オルガン、キャンドル、ステンドグラス、カテドラル等のガラクタを、すべて破壊しなければならない。
「いつか、あなた方は、妻帯した司祭と、土地の言葉で行なわれるミサを見ることでしょう」こんな預言を全世界に広めるのもいい。
一九三八年にこんなことを言ったのは、私が最初だ。その同じ年に、私は、聖職者になる権利を求めるよう、女たちを動かした。それから、教区のミサとは異なるミサも推奨した。食事の前に父母が家庭で挙げるミサのことだ。
次々と、色々な考えが頭に入ってきたが、ますますもって興奮するものばかりだった。
この計画をみな暗号で記録し終えた頃に、翌日にあの宗教者がくることになったとの連絡が、友人から入った。私は行動方針を決定していた。それをごく単純化しようと考えた。
彼は、私がやってくるのを見ても、驚いた素振りを見せなかった。友人は、私について話をしてくれるよう頼んだが、無駄だったので、降参の合図をした。
だが、私は落胆するどころか、いかにも誠実そうなこの男を、柔らかく攻撃することにした。私は、自分が司祭職に入ることを拒むのは、殺人と同罪だと指摘した。
彼はこう答えた。
「自分には何も動機がありません。主が、私の霊魂を照らし、あなたが司祭職に入る価値のない人であることをお示しになったのです。」
自分が苛立ってきたことを認めなければならない。答えになっていない。だが、最後に、彼が嘘を言ってはいないことを信じた。事実、彼は、一種の直感以外、私を完全に拒否する動機を持ってはいなかったのだ。
全く、非科学的な話である。その上、彼は、自分のしていることが何ら正統性を得ていないということにさえ、気付いてはいなかった。完璧に魔術によって動かされているのだ。
私は、自分は他の場所で司祭になる決心をしていると言った。だが、彼は、天使のような微笑をもって、こう言ってのけたのだ。
「それに固執するのは悪いことです。」
「あんたを殺してでも、神学校に入るつもりだ。」
すると、彼はこう言ったのだ。
「そう思っていました。」
私は、馬鹿にされたような気分になった。私たちは、長いこと沈黙したまま、互いの目を凝視し合った。
最後に、相手はこう言った。
「あなたは自分が何をしているのか、分からないのです。」
その瞬間、私は、地の果てまで逃げたい気持ちにかられた。その男は、自分には説明のつかぬ力を持っていたのだ。
だが、わが友人が合図を送った。彼は、私が弱腰になっていると感じたのだ。伯父の指令にそむけば、自分はお終いである。何としても、この邪魔者を消さねばならない。自分の価値を、今証明しなければならないのだ。
私は立ちあがると、怪我をさせずに相手を死に至らしめた。私のような人間は、ありとあらゆる特殊訓練を受けている。それは、日本伝来の技だ。当時の西洋人は、攻撃や護身、殺人にさえ、素手だけでどれほど驚異的な力が発揮できるかを、ほとんど知らなかった。私はロシア人だったが、この点において、日本人はエキスパートであると信じる。
その翌日、体が吹き出物に覆われ、私は恐怖に包まれた。体が弱くなった証拠である。肝臓が緊張に耐えられなくなった証拠だ。だが、朗報が入り、私は狂喜した。
父は、私が神学校に入れなくなったために本当に苦しんでいると考え、司教に嘆願しに行ったのである。その願いが聞き届けられたのだ!
第六章 修道服を脱ぎ捨てよ。
こうして、私は神学院に堂々と入学する準備を進めた。
入学許可を伝える電報がローマから着くと、病み上がりの母はまた泣き出したが、私はこれで子供時代の家を離れられると、安堵の溜息をついた。
もう二度と郷里に戻ることはない。ローマでは、私が司祭職を受け入れるときに専任となる教授と、実に面白い話を交わした。
彼は、我々のネットワークの一員だったのだ。彼は非常に楽観的な考えを持っていた。特に、聖書に通じ、聖書を英訳し直す仕事に取り組んでいた。
もっとも驚かされたのは、彼がこの仕事の唯一の協力者に選んだのが、ルーテル派の牧師だったことだ。牧師は、古代の遺物に思える自分の母教会とは、すでに袂を分かっていた。
この協力体制は、もちろん極秘である。聖書、特に新約聖書から引き出されるカトリックの教理体系を、全部除こうというのが、彼ら二人の目的だった。
マリアの処女性、御聖体におけるキリストの現存、そして復活は、彼らによれば、完全に始末するべき課題であった。人間の尊厳は、それだけの犠牲を払う価値がある。
教授は、合理的なミサの挙げ方を私に伝授した。今後六年で、私自らがそれを挙げることになるからだ。彼は、奉献のことばを一切発音しなかった。だが、少しも怪しまれぬよう、少なくとも語尾だけは、ほとんど類似する言葉を発音していた。
彼は、同じことをするよう私に助言した。ミサをイエズスの犠牲のように思わせるものすべてを、僅かづつ、僅かづつ削除するのだ。こうなれば、ミサ全体は、プロテスタントの聖餐式と同じく、ただの食事会と化す。彼は、これしか方法はないとさえ言った。
彼はまた、新しいミサの秩序を考案するのに忙しくし、私にも同じことをするように言った。色々に違ったミサを民衆に提供することが何としても望ましい、と彼は考えていた。
家族や小グループには、ごく短いミサ、祝日にはより長いミサがある。だが、彼によれば、労働者階級にとっての真の祝いは、自然の中での散歩だった。日曜日を、自然に捧げられた日と考えさせるところにまで漕ぎ付けるのは容易だ、と彼は考えていた。
彼は、仕事上、ユダヤやイスラム、東洋や他の宗教の面倒まで見る時間はもてないが、その仕事は非常に重要で、自分の取り組んでいる聖書の新しい翻訳以上に大事なものになるだろう、と言った。そして、人間を最大限高め推奨する要素を、キリスト教以外のすべての宗教から探し出すよう、私に助言した。
私は、自分のように党に関わっている、他の神学者や学生について話してくれるよう求めたが、彼は知らない振りをした。それでも、あるフランス人の住所を教えてくれた。彼は聖歌の教授で、私が退屈な勉強をするために六年行かなければならない町に住んでいた。
この男は完全に信頼できる、たっぷり金を払えば、俗人の衣類を彼の家においておくなど、慎重な配慮をしてくれるだろうとも保証した。
もちろん、彼は、それ以外にも、ローマ中を案内して回り、この町で一番敬われている聖人たちの伝説についても披露してくれた。
聖人の名をすべて暦から消し去る必要がある。これもまた、われわれの目標の一つだ。だが、われわれは、神を始末するよりも、聖人全員を始末することのほうが、はるかに時間のかかることを知っていた。
ある日、カフェテラスで休んでいたときに、彼は私にこう言った。
「この街から、宗教服がひとつ残らず消え去ったときのことを想像してみろ、男も女もだ。何という空虚。何と素晴らしい空虚! 私は、ここローマで、修道衣がいかに重要なものであるかを知ったのだ。どの街角からも、教会からも、それが消え去ると誓おう。外套を着ながらでも、ミサは簡単に挙げられるのだ」
修道服のない街を想像することに始まる、この小さな勝負は、私にとって一種の反射行動になった。私は、この黒い僧服に絶えず憎悪を燃やすようになった。
修道服は何も語らないが、何と雄弁な言語だろう。修道服はどれも、信徒にも、未信徒にも、それに身を包んでいる者が、見えざる神に捧げられていることを告げているのだ。
この滑稽な衣を着ざるを得なくなったときに、私は二つのことを自分に約束した。
司祭への召し出しが、なぜ、どのようにして、若者たちに来たのかを理解すること。第二に、修道服を脱ぎたいという気持ちを修道士に起こさせることである。
私は、この目的に大きな情熱を燃やすことを自分に誓った。自分にとっては、これは比較的容易なことだ。だが、若者たちに召し出しが起こる理由が理解できなかった。
召し出しは、とても真実とは信じられないほど簡単に起こる。だが、四歳から十歳の少年たちが共感する司祭を知ると、その司祭を模倣したい気持ちに駆られるという話は、本当のようだ。
修道服に対する自分の憎悪が、その瞬間に理解できた。俗人と違う生き方をしている合図を出さなければ、それが本当であれ、想像上のものであれ、子供たちは司祭の力を感じ取ったりはしないはずなのだ。
違いをつくりだしている一つがコスチュームである。コスチュームは、それを着ている人間の教えをすべて物語っているとさえ言える。
私にとって、修道服は、全能と称される神と、歩くたびに賜物と区別をちらつかせるこの男たちが、結婚していることを示すものだった。
それを思えば思うほど、怒りが込み上げてきた。だが、子供時代と思春期を、カトリック信仰の篤い家で過ごせたことは幸いだった。
私は、偽司祭としての自分の価値は、このことから来ていると信じている。私は、経験からそれを知ったのだ。
私は最高の工作員になろうと思った。このやりがいのある仕事の最高指導者になるのだ。嬉しさが込み上げてきた。
俗人と変わらぬ生活をする司祭たちに会えば、子供は彼らを模倣したいとは思わなくなるだろう。彼らは「誰をも」見なければならなくなる。こうして、司祭から遠く引き離すことができる。 真に模倣すべき人間の選択は、それほど大きなものなのだ。
万人に向けて解放されるべき、この「普遍教会」に所属する新司祭は、均一であってはならない。
彼らは同じ教えを説かなくなる。少なくとも、神学面で協調できなくなれば、各自の支持者は数えるほどになる。
彼らは、横で監視しているわれわれの仲間にびくつくようになる。要するに、彼らに唯一合意できるのは、博愛の問題だけになる。
こうして、ついに神はいなくなるのだ。
結局のところ、これはそんなに難しい問題ではない。こんな方法を、どうしてこれまで誰も考え出せずにいたのか不思議だ。ある花が開くのに適した世紀があるということなのだろう。
神学校での最初の生活は、もっとも楽しいものだった。
戦争より神への奉仕を選んだ、富豪の最愛の一人息子という履歴が、私をみなの関心の的にした。誰もが、勇敢なポーランド人青年に共感を見せた。
私にとって、神の栄光は祖国よりも尊いのだと誰もが言った。「何という聖性だろうか」と。私は、謙遜を装って、彼らを言わせるままにしておいた。
私は、何事においても一番になると自分に約束した。
語学力は天才的だった。私は、ラテン語とギリシャ語を必死になって勉強した。
また、フランス人の友人と共に聖歌の特訓をした。
この神学校は全く厳格ではなかった。性格形成についてもうるさくなかった。
競技でも力を発揮したが、日本伝来の素手で戦う技は人には見せなかった。簡単にいえば、何もかもうまく行ったので、面白くなくなり、刺激を求めだしていたのである。
自分がもっとも心を引かれる教授に告解しに行こうと思い立ったのもそのためだ。
第七章 告解ゲーム。
そこで、私は「青い目」と呼ばれてみなから親しまれている気高い年寄りに告解しに行くことにした。
彼の子供のような眼差しを前に、この私さえ跪くこと度々だった。実験に彼を選んだ理由はそこにある。自分自身は、彼がどうやって告解の秘密をもって行動し、私に退学を命ずるかどうかを知りたかったのだ。
それが危険なことだとは考えなかった。私はどんなことでも一番だったので、とても有利な立場にあった。この一団の中では最優秀な学生なのだ。
告解を聴いてくれるよう、「青い目」に願い、何もかも話し始めた。
大事なところはみな喋った。自分が共産主義者であること、国家秘密警察の工作員であること、自分に召し出しがないと偽ったポーランド人宗教者を殺したことなど。
ところが、不思議なことに、彼は私の言葉を即座に信じたのだ。みな作り話かもしれないというのにである。
彼は、永遠の救いについて、使い古されたセリフを並べ立てた。
私は大声で笑い出すところだった。この男は、私が僅かでも信仰をもっていると考えているのだろうか。
私は、彼に断言せざるを得なくなった。
「私は神も悪魔も信じてはいないのですよ。」
こんな告解は、多分、彼にとっても初めてのことだったろう。私は彼に同情した。
すると、彼はこう言った。
「いったい、修道会に入って、何を得ようというのか。」
私は、自分の考えを率直に述べた。
「教会を内側から破壊することです。」
「それは大した自惚れだ」と彼は答えた。
私は怒りそうになったが、自慢げに言った。
「すでに千人以上のわれわれの仲間が、神学生、司祭として入り込んでいるのですよ。」
「そんな話は信じない。」
「それはあなたの勝手です。だが、私の認識番号は1025です。死んでいる者もいるかもしれないが、大体千人いると言っていいでしょう。」
それから、長い沈黙を置いてから彼はこう言った。
「わしに何を求めているのか。」
告解の秘密をもって、彼がどんな行動に出るかを見届けたいだけだ、とは言えなかった。そこで、この言葉に留めた。
「私を退学させるつもりでしょう。」
「退学だと! おまえは一番優秀な学生、それに一番信心深い一人ではないか!」
返す言葉を失ったのは私のほうだ。
「このように告解しても、私の正体が分からないのですか。」
すると、彼はこう答えた。
「告解は霊魂の益のために、われらの主、イエズス・キリストによって定められたものなのだ。だから、おまえの告解は無意味だ。」
「私の理解を深めることにもならないというのですか。」
「それどころか、おまえがここから出て行ったら、わしは告解の内容をすべて忘れてしまうのだよ。」
「本当ですか。」
「ともに学んでいるのだから、おまえにもそれ位分かっているだろう。」
「言葉の上では分かっています。しかし、現実には理解できないことです。」
「なら、この信じ難い告解の本当の目的は、そこにあると見て良いのではないかな。」
「そうなのかもしれません。」
「他に目的があるのなら言うがよい。」
「いいえ、ありません」と私は彼に丁寧に答えた。「御一緒に学びたかっただけです。それだけです。」
彼は考え込んでいる様子だった。それから、私にこう言った。
「つまらないことだ。そんなことからは、何も結果しない。」
「何もですか?」
「全く何物も結果しない。分かっているはずだ。」
彼はこう言うと、私一人を置いて出て行った。
翌日、私の友人だと勝手に思い込んでいるクラスメートが、低い声で耳打ちした。
「昨夜、“青い目” は、礼拝堂で徹夜で祈っていたそうだ」
私は老いた聴罪神父を見つめた。彼は、寝ずに夜を過ごした人のようには見えなかった。だが、彼が講義を進める間、私はその夜のことを黙想していた。彼は、オリーブの園でのイエズスの苦しみを真似していたのかもしれない。
「青い目」は、自分からこの杯を遠ざけてほしいと祈っていたのかもしれない。だが、この告白から逃れることはできなかったのだ。
あの告解を忘れるのは、彼にとってほとんど不可能なことではないかと私は思った。
彼は、祈りの中で、私が回心するか、自分から出ていくよう願っていたに違いない。
それとも、私を追い出す方法を見つけ出そうとしていたのだろうか。
そんな考えが頭に昇ってくるたびに、「いやいや、自分は何も覚えてはいないのだ」と心の中で叫んでいたのだろう。
この告解とは無関係なことで、私の悪口をたたくことが、彼にできるだろうか。それはまったくありえない。完璧な神学生の見本でなかったならば、私は告解になど行かなかったのだ。
彼は、共産主義者がどんな犠牲をも厭わないことを知らなかったのだろうか。この人々は、犠牲的行ないができるのはクリスチャンだけと信じているのだ。
それからというもの、私は「青い目」を注意深く観察し続けた。そして、彼がいつもと変わらないことを知った。
彼は、いつも通り穏やかで、親切だった。
本当のことをいえば、私は彼が好きになっていた。伯父への手紙で彼に触れるときには、自分を咎めそうになったほどである。だが、告解の件だけは書かなかった。書いても彼らには理解できまい。
数ヶ月後に、私は他の教授にも告解したい気持ちに襲われた。本当は、単調な毎日と、周囲を喜ばせてばかりいなければならない自分に、嫌気が差していたのだ。ちょっと暴れたかったのだ。
それで、私はすべての教授に告解しに行った。そして、彼ら全員に、恐るべき秘密を伝えることができたと喜んだ。
だが、私のような人間が存在するということ、将来どんな問題でも起こせるということに、彼らがどうして我慢していられるのか理解できなかった。
だが、しばらくして、私は問題視され始めた。実を言えば、この刺激が欲しかったのだ。
彼らは、私が修道会を受け入れるのを阻止する方法を探っているのではないか、と私は想像した。闘志は二倍になり、ますます自信を強めた。
全世界におよぶ反宗教活動を推進するのが自分の役目なのだ。
仕事の暗号化を伯父から求められなかったのは、幸いだった。私はただ、週に一つの計画を作成するだけでよかった。
次々にアイデアがあふれてきて、この仕事には飽きることがなかった。逆に、自分にとっては喜びであり、支えでさえあった。
告解ゲームを楽しんでいた頃に、私は特に、教理のある点に敏感になっていた。彼らの言うところの、「従順の聖徳」である。
従順は、特に教皇に関係する。私はこの問題を理解できないまま、いろいろな角度から引っくり返した。
そこで、機会あるごとに、カトリック信徒が教皇に向ける信頼を冷笑するよう指令を出した。
それがいかに難しい注文であるかが、自分には理解できていなかったのだが、ともかく、教皇を批判させるよう、カトリックを煽動しなければならないと考えたのだ。
ある仲間は、バチカンのすべての文書に目を通し、誰でもいいから不愉快にさせられる、どんな些細な言葉でも見つけ出す任務についた。
教皇を批判する人々の質は問わない。唯一重要なのは、教皇が批判されるということなのだ。
一番理想的なのは、教皇が、保守派とモダニストの両陣営を不愉快にさせるということだ。
従順の徳は、この教会の中心的しきたりの一つだ。私は、彼らに良心の呵責を増幅させて、これを弱体化させることを考えた。
キリスト教の分裂に対する責任を、カトリックの誰もが感じなければならない。
この四世紀あまりのあいだ、彼らがプロテスタントに向けてきた侮辱の数々を償う方法を、カトリック各人に探らせるのだ。
私は、プロテスタントの感情を害するものをみな列挙し、もっと彼らに慈愛(チャリティー)を向けるべきだと提起した。
慈愛には利点がある。それによってどんな愚行にも誘うことができる。
当時、私は、自分の計画が露見して、神をなきものにせんとする方法が、多くの者に気取られるのではないかと心配していた。
その後の展開によって、このような不安が誤っていたことが分かった。
「善の敵が最大の敵」というフランスのことわざがある。
プロテスタントに向けた私の同胞愛が、キリスト教全体の破滅を目指していることなど、誰も気付きはしなかったのだ。
プロテスタントが信仰(あるいは、違った「信仰」)を持ってはいないとか、自分の任務がプロテスタントとは無関係であるとかいうつもりはない。
だが、私は、彼らがカトリックに改宗してはならないこと、逆に、プロテスタントに歩み寄るべきはローマカトリックであることを示すことによって、彼らを目覚めさせる。
バチカン会議の声明の時でさえ、私は全世界にメッセージを打ち出した。
それは、指令と予言を含むものだ。
予言はこうである。神ご自身が、大いなる奇跡、目を見張るばかりの奇跡によって、キリスト教徒の一致を実現される。だから、これに干渉してはならない。広い心、真に寛大な心をもたない限りは。
言葉をかえれば、神が「きれいな心の中で」壮大な奇跡を演じることを許すため、カトリック信徒はみな、心を空っぽにしておかなければならない。現代のカトリック信徒にとって、心のきれいな人間とは、あらゆる手段を尽くしてプロテスタントを喜ばせる人でなければならない。
指令も、ごく簡単なものだった。プロテスタントがカトリックに改宗することを、厳禁するということだ。
自分がこの点を重視したのは、改宗者の数が加速していたからだ。
カトリックがプロテスタントの改宗者を受け入れ続けている限り、偉大な奇跡は起こり得ないことを、私はどこででも強調した。私は、神の働きに干渉してはならないことを、はっきり知らしめた。人々は私に傾聴し従った。
奇跡を演じたのは、彼らの神ではない、この私なのだ。
私は今でも喜びに震えている。これは、私の大成功のうちに数えられるだろう。
第八章 黒髪の女。
神学校生活二年目の終わりに、私は今後も続けて行けるのかどうかを真剣に自分に問いかけていた。
意志力だけでは十分ではなく、憎しみだけで生きていくには若すぎた。それでも、この憎しみが膨れあがっていくのを私は見た。
最初は神に向けられていたこの憎しみは、回りの全員に拡大した。私が全員をどれほど憎んでいるかさえ、彼らには分からなかった。
よく彼らに耐えることができたと今でも思う。私は、本当に孤独な人間なのだ。社交性は、自分には無用だったとしても、人間的な暖かさという僅かな安らぎさえ、青年時代にはなかった。
実際、毎土曜日に通うあの聖歌の教授しか、私にはいなかった。彼とは、ある面では言葉を交わさずとも理解し合えたが、彼には私の広範囲な使命の現実性がまったく理解できてはいなかった。
だが、彼の家にいると、真実くつろげるのが救いだった。彼がいなかったら、私は抵抗する力さえ持てなかったかもしれない。
この手記が出版されないのは幸いだ。仲間にとっていい見本にはなるまい。
私は、世間の行事に招かれるようにとの指令も受けていた。どこからどうやってくるのか分からないが、指令は私の元に来たため、従わざるを得なかった。
私は、伯父に手紙を書くときにも、このようなつまらぬ任務の価値について、あえて尋ねようともしなかった。
私がこの種のことを不愉快に思うと知っていたのだろう。彼は、世間を知っておくのもためになると最初から言っていた。
それは認めるが、役に立つような発見は一度もしたことがない。
ある晩、私は、特別豪華な大レセプションに顔を出していた。ある若い娘の横顔に視線を移した。突然、彼女の周囲が全て消え、自分の感覚さえ失せた。彼女は、長い首をして、ピサの斜塔よりもほっそりとし、かき乱したくなるような豊かな黒髪をもち、わがままそうな横顔と同時に、子供っぽさも残っていた。
息を呑んで彼女を見た。彼女は私を見なかったが、まるで二人しかいないような感覚に陥った。私は顔を盗み見しようと、大声を出し、こちらを振り向かせようとしたが、彼女は振り向かなかった。
どれくらいの時間陶酔に浸っていたか分からない。
だが、その時に、見知らぬ若者から声をかけられたのだ。彼はすべてを呑み込んでいた。
「Xさんにご紹介しましょうか」と言ってきたからだ。
彼は私の名を知っていたが、私を大学生と誤解していた。このような社交の場で、私を神学生と思う人間は一人もいない。
それから少しして、この若者は「黒髪」に私を紹介した。(彼女の名前は書くまい。)
私は、呼吸法のおかげで落ち着きを取り戻していた。自分は完全に別の人間になっていた。一瞬の間にだ。その晩中、私は自分に何事が起きたのか、理解しようと努めた。この新しい気持ちを楽しむことで余りに忙しかった。
私は、少しの時間「黒髪」と話をした。だが、彼女の気を引くことはできなかった。彼女を独り占めにして、誰も知らない小さな家に移し、そこで自分を待つと約束させたい、そんな気持ちで頭が一杯だった。
彼女は困らせるような真剣なまなざしで人を見る、黒い大きな瞳を持っていた。
彼女がダンスに誘われた時には、私を彼女から引き離した男を殺さないよう、手を背後で固く握り締めていた。ダンスは悪魔的な発明だ。他の男とダンスしている妻に我慢していられる男の気が知れない。
ワルツを踊る彼女を見た。ドレスも素晴らしかったが、彼女のしなった首に、私の目は恍惚となった。それは処刑人の斧に差し出されているかのように見えた。
この娘が残酷な死にかたをする運命にあると、なぜ自分が思い込んだのかは分からない。この感覚が、彼女を全員から引き離したいという気持ちをいっそう強めた。
こんなアホどもの中で、いったい彼女は何をしているのだろう。彼女はどんな仕事をしているのだろう。
自分だけを待っていてくれるよう、何としても彼女を説得しなければならない。この目的を遂げるためなら、何でもしようと思った。彼女は私のものだ。それだけだ。
だが、彼女は老いた夫婦と一緒だった。どうしたら、また会えるだろうか。
彼女は、私には全く注目してはいなかった。最後に一瞥しただけである。この一瞥は何を意味しているのだろう。またお会いできますかという意味だろうか。そうかもしれない。
いずれにせよ、私は彼女の考えをこれ以上案じるのはやめることにした。
自分のものだと結論したからには、彼女の気持ちをこちらに向けさせるだけだ。同意しないかもしれないが、試すだけの価値はある。
わたしは彼女の名前しか知らなかったので、彼女を探す仕事を聖歌の教授に託した。
彼はこの仕事をとても面白がった。彼は私にこう言った。
「おまえも人間だったということだ」
私のどこが非人間的だと彼が思っていたのかは分からないが、この言葉には当惑させられたが、釈明しようとしなかった。
調べには時間がかかったが、私は自分を落ちつかせようと、何倍もの情熱を仕事に向けた。
この頃、私は、カトリックをプロテスタントに受け入れられるようにするための計画を、市場に打ち上げることで大忙しだった。
カトリックは、プロテスタントが母教会の囲いに戻ってくると期待しすぎた。彼らはその傲慢さを無くすべき時に来ていたのだ。
慈善事業がそれを彼らに義務付けた。慈善事業がうまくいかなくても大丈夫だ。
私は、ラテン語ミサの廃止、聖職者の着衣、像、絵、蝋燭、祈祷台の廃止(彼らが跪かずにすむため)を、同じ響きで何度となく繰り返されるよう、確信をもって予言した。
それから、十字の印を禁止する活発な宣伝活動にも着手した。このしるしは、ローマカトリックとギリシャ正教でしか行なわれていない。
十字の印と跪きは、みな滑稽な習慣だ。
私はまた(一九四〇年代だった)、祭壇がなくなって裸の机に替えられること、キリストが神ではなく人と見なされるため、十字架もなくなると予言した。
ミサはただの会食に過ぎない。誰もが、未信者さえ招かれるようになると主張した。
そして、次の予言に行きついた。現代人のための洗礼は、滑稽な魔術と化している。全浸礼であろうとなかろうと、洗礼は、大人の宗教のために廃止しなければならない。
私は、教皇を排除するための効果的手段を発見しようとしたが、そうする可能性を発見できなかった。
「汝はペトロなり。この岩の上にわれは教会を立てん。地獄の門もそれに勝つことあたわず」というキリストの言葉が、狂信的ローマの発明なのだと言わない限り、教皇はいつまでも力を持ち続けるだろう。
だが、どうしてそれを証明できるだろうか。可能だと言うだけでは不充分だ。私は、教皇を必ずや愚者と思わせることに成功できると期待して、自分を慰めた。
大切なことは、彼が何か新しいことを始めるたびに、難しすぎて従えないような古い習慣を復活させる時にも、反対声明を出すことだった。
それだけではなく、離婚者の再婚、一夫多妻、避妊、安楽死、同性愛など、プロテスタントの、たとえ一つの教派でも許可されているものは、すべてカトリックの間で正式に許可されなければならない。
世界教会は、すべての宗教、未信者の哲学者さえ受け入れなければならないため、キリスト教諸教会は個々の所有権を放棄しなければならないのである。
そこで、私はおおがかりな粛清を行うよう要請した。
見えざる神を拝む狂信的心も精神も、容赦なく除く必要がある。
無視した奴らもいるが(その名前は言うまい)、ジェスチャーの力、感覚に訴えかける力を、私は見逃しはしなかった。注意深く観察すれば、私が、厳しい宗教の中から、愛を感じさせるものをみな覆い隠したことが分かるはずだ。
それを厳しいものにしておくのも大事な仕掛けなのだ。この狂気の神が、つまるところ、人間の発明したものに過ぎないということを、仄めかしているのだ。自分の一人子を十字架にかけるために送るほど残酷な神であるということだ。だが、私は、自分の憎しみが著作の中に現れぬよう、細心の注意を払った。
これらの指令書と予言に大喜びしていたときに、わが聖歌教授が電話をしてきた。彼女を見つけたというのだ。しかも、その晩に開かれるコンサートに私を招待してきた。そこで彼女に会えるだろうということだった。
幸いにも、私は外出許可を得ることができた。私は歌が上手なことでも知られていたし、教会は音楽家に対しては寛容だ。私は彼女に再会した。前以上に美しかった。本当に、本当に、美しく、私は気がおかしくなりそうになった。
彼女は、翌土曜日に、わが聖歌教授の家で開かれる茶会に出ることを、すすんで承諾した。
私は、大学センターに住んでいるふりをした。
声楽の教授は、アキレスの名前をもっていたので、アキレス伯父と自分を呼ぶように言った。そうすることによって、家族を持っていると思わせるつもりなのだろう、そう私は理解した。
だが、この件については有り難いとは思わなかった。私が真剣に結婚を考えるよう希望していることが、彼の態度から読み取れたからだ。
どうして、彼はこんな馬鹿げた考えを持てるのだろう。それは、私が召し出しに相応しくない、と彼が感じている印なのだ。だが、彼は、私が社会主義者としての召し出しにどれほどの力と真剣さを傾けているか、まったく知らずにいるのだ。
だが、そのことを考えているうちに、この無理解が自分の偽装の力を証明するものであり、逆に好都合であることが分かってきた。真実偉大な人間であるには、平凡で、馬鹿にさえ見せかけていることが肝要だ。人前で自分を見せびらかす人間は、実際に弓を引く者ではないのである。
「黒髪」は、アキレス伯父の家を満喫している様子だった。
私は、自分のスラブ人としての魅力をたっぷり披露した。それは誰から教わったものでもない、本能的なものである。自分がそれに大きな誇りを持っていることを伝えなければならなかった。
夢の女性は、その日は、簡素な青いドレスを着て、首には飾りを一つだけつけていた。「不思議のメダイ」と呼ばれる、聖母の大きなメダルだ。
この飾りに目が引き戻されるたびに、自分が非難されているような感覚を覚えた。私は、できればそれを彼女の首からひきちぎり、窓から放り投げてやりたいと思った。
第九章 初めての恋。
私は、真実に直面しなければならなかった。生まれて初めて恋をしたのだ。知性で本能を抑えられない哀れな奴と同じく、恋をしてしまったのだ。
だが薬が一つだけあった。いつも通り、防衛に全力を尽くし、プロレタリアート精神を貫くことだ。
当時、私は聖書対話という大掛りなキャンペーンを立ち上げていた。それは、四世紀にわたってプロテスタントが実施してきた自由な聖書解釈を強調して、カトリック信徒に神の言葉を根気強く読ませるという計画である。
このような自由によって、真の大人と人生の支配者の多くの世代が生まれたことを私は示した。このような極めて敬虔な手段によって、教皇制の支配を捨てさせ、プロテスタントを新時代の主人にさせるよう、カトリック信徒を動かしていた。
プロテスタントには、優勢な立場をあてがってはいたが、プライドを持たせず、彼らを弱めることを怠らなかった。
弱体化は、数限りないセクトをつくりだすことによって自然発生してくる。この文脈では、カトリックは仲裁者の役割を果たすことはできない。彼らは、自分たちを改革することで精一杯だからだ。
原点に戻って、輝かしい現代化を実現しなければならないと彼らを説き伏せるのは、簡単だった。
あらゆる国語の新聖書訳を、今の文体で提供し直す仕事を遅らせないよう、私はハッパをかけた。私は、生き生きとした競い合いに注目した。
費用の面については何も言わなかったが、この面が教会関係者の監視の目を免れないことに気がついた。
神の言葉の現代化によって、教会の頑固な態度が崩れることが多くなった。それは、ごく自然な方法によって起きてきた。滅多に使われず、理解しづらい言葉が出て来れば、ごく簡単な語に置き換える。
そうすれば、本来の意味が崩れてくるのは当然だ。文句のつけようがあるだろうか。
そればかりか、これら新しい翻訳が、われわれが大きな期待をかけている「聖書対話」に門戸を開いた。
この対話によって、聖職者はそれこそどこにでも派遣されるようになり、平の信徒が一人前に行動する自由を持つようになる。
私は、異宗教間聖書会議さえ提起した。本当の目的はここにあったのだ。コーランなどの東洋の書物を、良く解釈することによって、さらに目標を拡大できる。
「黒髪」を忘れるために、私は幾つか鍵となる問題点を強調することによって、聖書対話の会議をたくさんお膳立てした。
自分の好きな対話の一つが、教皇に関するものだった。自分の本当の邪魔者はこの人物だからだ。
「この人物」と言うときには、彼の称号の元になっている聖書の箇所をも意味している。これらの聖句は、彼らのいう「分裂したクリスチャン」と同じく、私にとっても当惑させるものだ。
「勝つ」(prevail)の語が現代人に理解できなくなっていると考え、これを「できる」(be able)という語に差し替えた男には、本当に感謝している。
彼は、「ハデスの門はけっしてそれに勝つことはない」を「ハデスの門はそれに対してけっして何もできない」と訳し直した(訳注:マタイ福音書十六18)。
これが、特にフランス語圏での聖書対話会議を非常にやり易くしてくれたのだ。
地獄が教会に対して何もできないと主張するこの預言が、完璧に誤っていることは、誰でもすぐに分かるだろう。カトリックのやることにばかり味方する、この神の保護に対する古い信仰が、こうして崩れれば、誰もが安心を覚えるはずだ。
「黒髪」と三度目に出会ってからまもなく、彼女の母国フランスは、ヒットラーの軍勢に侵略され、抵抗さえ諦めたかに見えた。
この時期に、私は誇り高い彼女に上手な手紙を書き、彼女を慰めようとした。
彼女は、郊外を一緒にドライブすることに同意した。彼女には、伯父から借りている車があった。
実際には、彼女は伯父の家に住んでいたのだが、本当の家族はフランスの占領地の真っ只中に住んでいたのだ。彼女は、故国に戻りたがっていた。その非常に人間的な反応に、私はとても嬉しくなった。
私はこのような自尊心が好きだ。このような自尊心は高めたほうがいい。どれほど彼女に仲間になってほしいと思ったことか。
それでも、なるべく信仰の問題と、それから政治の問題には触れないように注意した。
この四度目のデートのときにも、彼女は「不思議のメダイ」を首に下げていた。私たちの間で、それが一つの世界をつくっていた。
恋人用につくられた感じの、しゃれた店でお茶を楽しんでいたときに、あるカップルがこちらに向かって控え目に合図をしてみせた。
私は不安に満たされた。男は私の同級生の弟だったのだ。彼の家に招かれたことがあるので、弟は私を知っているはずだ。
自分が神学生であることを、彼が忘れるだろうか。とてもそんな期待は持てなかった。横にいる娘は「黒髪」の従姉妹だ。
私は気が動転した。「黒髪」もそれに気がついた。彼女は、私が安心して、ごく自然に彼女の家を訪問できるよう、叔父と叔母に紹介しようと申し出た。
「どういう口実で」と聞きたくなった。婚約者としてか。
彼女を是が非でも自分のものにしたいが、結婚する意志は毛頭ないなどと、どうして言えるだろう。私は、プロレタリアートの思想に仕えるために、カトリックの独身主義に入ったのだ。結婚など、とんでもないことだ。
彼女に私の情熱を理解することができれば、どんなに素晴らしいだろう。だが、私はこの問題を彼女に打ち明けようとは思わなかった。
彼女の家には行っても構わない。彼女が曖昧な立場を受け入れてくれれば、それで十分なのだ。
だが、彼女は、家族に紹介するという提案に私が乗り気ではないことを知り、感情を害した。最初の喧嘩だったわけではない。それは最初の深刻な誤解だった。
私はアパートを借りる金さえなかった。こんな迷い事に、党は一文たりともカネを出しはしない。それはブルジョワに寝返ることだからだ。
その日、私たちはほとんど別離寸前になった。何か未知の力が二人に立ち向かい、生まれたばかりの愛を引き裂こうとしているかのような感覚を、お互いが感じ取った。
気持ちを確かめるために、話を交わす必要はない。
他の娘と同じように、彼女は、ただ結婚願望に動かされているに過ぎないのだろうかとも考えた。むろん、それは正常な感覚だ。それをもって彼女を責めることはできないが、この場合、破滅は目に見えている。
それで、私は再会を期待せずに、冷たさを装って彼女に別れを告げた。彼女は軽く肩をすくめて応え、ゆっくりと歩き去った。
私は、重たすぎる髪と、沈んだ思いの下で傾く彼女の白い首を見つめながら、石のように立っていた。身動きしないで立っていると、彼女は振り返ってこちらを見た。
二人の間は十メートルほどだ。それから、驚くべきことが起こった。彼女が戻ってきたのだ。ゆっくりと、私の目を見つめながら、こちらに歩いてくる。私の元に帰ってきたのだ。
間近に来ると、彼女はゆっくりと両手を私の肩の上に載せた。彼女は私を見つめ続け、私も身動き一つしなかった。それから、彼女は唇で私の唇に触れた。
自分にとって、これが初めてのキスの経験だった。
第十章 不思議のメダイ。
私が最初から私書箱を設けていたのは幸いだった。鍵を持っているのはアキレス伯父だ。私書箱は、自分の本当の居所を知られたくないときには、本当に便利である。
その記憶のお蔭で毎晩のように目を覚ますことになったあのキスから二、三日して、「黒髪」から素晴らしい手紙が届いた。
彼女は、こう書いてきた。
「絵の勉強をしっかり続けられるように、伯父様が小さな工房を借りてくださいました。土曜日にお出でください。お茶でも御一緒にいかがですか。」
当時、私は歌うのを休んで土曜日は彼女の工房で過ごしていた。彼女は、私の肖像さえ描いてくれた。
真実をいえば、彼女の絵の才能はたいしたもので、自分の性格を写し取るその天才的な腕に、私は誇りさえ感じた。肖像を見ると、彼女にどう思われているかがよく分かった。
私は、彼女の目には、やさしい王子様ではない、より征服者に近い存在だ。残虐さを隠し持つ、より男性的な存在である。
私は、どうして自分の性格が分かるのかと彼女にたずねた。自分が本当は秘密を隠し持っている、どうしようもない欠点を隠し持っていると考えているのかと。この言葉に、彼女は不快感を露わにした。私は彼女にこう言った。
「確かに、この肖像は残虐の炎を隠し持つ、誇り高い征服者の精神を描いている。」
彼女は、この言葉に当惑し、それは私自身の思い込みに過ぎないのだと言った。真実はその逆で、彼女にとっての私、つまり理想の男性像を描いたのだと。理想的な男性に、どうして秘密の欠点があるでしょうとも言った。
私は、隠しているものがないとすれば、どんな欠点があると思うかと聴いてみた。
彼女は、怖いほどの洞察をもって、「象牙の搭が好きなところかしら」と答えた。
仲直りをするために、そのとおりだと答えた。これは嘘ではない。彼女は、「象牙の搭」にこもっている私といつも一緒にいるのだから。
彼女は、まったくその通りだと思うが、その存在を感じ取れるのは私自身であり、彼女自身は空虚さを感じているだけなのだと答えた。
彼女のすべてを自分のものにしたいという気持ちと、彼女には何一つしてやれないというそれとを、どう一致させればいいのだろう。
彼女は、私が心を開く邪魔になっているものは何なのか、と尋ねた。
私は、しばらく返答に困ったが、ついに意を決して、彼女がいつも胸に着けている「不思議のメダイ」を指差した。
彼女は驚きの目で私を見た。
「信仰をもってはいないのですか。」
私は余計な語句を付けずに、「そうです」とだけ答えた。
すると、彼女は、メダイがどんな影響を私に与えたのかを、しきりに知りたがった。
こう答えた。
「僕たちがけっして愛し合えないことを象徴しているような気がする。その意味で邪魔なのだ。」
彼女が考え込んでいるあいだに、さらに力を込めていった。
「それどころか、僕たちが絶対にお互いのものになれないように、わざとそこにいるような気がするんだ。」
すると、彼女はメダイを外して私に手渡した。私は、どうしてやろうかと考えながら、メダイを自分のポケットにしまった。ただの金のメダルであることは分かっている。それを溶かして別の像を刻もうかとも考えたが、それはできなかった。
この仕草によって、彼女は、二人の運命を実に不思議な方法で結びつけたのだ。彼女は、それをどうするつもりかとは聞かなかった。頭の良い女性だ。
この日以来、私はこの問題に少し悩まされるようになってきた。私は、「不思議」の異名を持つこの品物について、知りたいという誘惑にかられるようになった。
この飾り物に奇跡を働く力があると信じるためではない。私の考えによれば、奇跡を行えるものなど、この世に存在しないのだ。
そう言われているものは、ただの人間の妄想の所産か、いつか科学で証明できるものだ。
私は、このメダイが、未信者を信仰に引き戻す力を持つことで有名なことを知った。そんな事実があると信じているわけではない。そんな可能性さえ信じてはいない。
だが、自分の恋人がそんな願いを心に抱いているのだろうかと訝った。それは、私のために諦めた、つまりメダイを捨てたというあの仕草を打ち壊すものだ。この場合、彼女は何一つ捨ててはいないことになる。
俺はそんなに馬鹿だったのだろうか。こんなことに頭を悩ますのも、同じほど馬鹿らしいことではなかろうか。
それから二、三ヶ月ほどして、燃える暖炉の前で、二人で仕上がったばかりの肖像画を見ていたときに、私は彼女に穏やかに問いかけた。
「メダイを手渡したのは、僕を回心させるためだったのか。だとすれば、捨てるのとは意味が全く逆になるのではないか。」
彼女は私の腕に寄り添いながらこう答えた。
「嘘は嫌い。確かに、あなたを回心させたくてメダイを渡したわ。私は、毎日、毎晩、そのことをお祈りしているの。毎日何度も、それこそ十五分に一度の割りでお願いしているのよ。」
私はどう答えて良いか分からなかった。
私は、このメダイも、彼女の祈りも恐れたりはしなかった。自分にとっては、こんなものは子供だましに過ぎないのだ。ところが、まるで自分が敗北したように、苦しむようになってきたのだ。
自分としては、彼女を、仲間としてどうしても欲しかった。メダイ抜きでだ。なぜこれが間になければならないのか。
考えれば考えるほど、このような大恋愛では、男が勝たなければならないと確信するようになった。だが、そんなことは口には出さなかった。
いずれにせよ、彼女が自分と同じ考え方をしない限り、自分のものとはならない。これはプライドの問題ではない、自分が結婚できない理由を彼女に説明しなければならなかった。
彼女が私と同じ考えをもち、任務をすすんで助ける気があれば、秘密の同棲生活をすることに同意していたはずだ。そう私は思った。
私は結婚できないばかりか、完全に人徳のある人間を装わなければならないのだ。
ある冬の夜、私がカーテンを引き、彼女がお茶を用意していたときに、外し忘れたピンが指に刺さったような痛みが走った。
よく見ると、それがとても小さなメダイであることに気がついた。白いメダイだ。ただ小さいというだけで、全く同じメダイである。
振り向くと、彼女がこちらを見ているのを知った。彼女は知っていたのだ。
「カーテンまで回心させる気か」と私はふてくされた。
「馬鹿なことを」と彼女。
「馬鹿なことじゃない。こんな魔除けに、いったい何を期待しているのか知りたいんだ。」
彼女は顔を真赤にした。気持ちが傷つけられたのだ。
「魔除けではありません!」
「なら、何なのだ。」
「これは信心行です。」
「どんな物を信じているのだ。」
「物ではなくて聖母様です。イエズス・キリストのお母様よ!」
こんな話を続けていたくなかったので、私は黙っていた。
彼女はとても低い声で話し続けた。
「メダイは信じなくては駄目よ。紙や木では、まったく意味はないの。それがあなたの邪魔になっていることは分かっているわ。メダイは、本当に、信仰心を広げてくれるものなの。広げるだけではなくて、増してくれるものなの。それを身につけて、仕事場にも置いておくことによって、イエズス様を与えてくださった聖母に、もっともっと、頻繁にお祈りができるようになるのよ。」
彼女は、私のためにメダイを捨てたのではなかった。メダイは他に沢山あったのだ。
そのときには、自分が彼女をこれまで襲えずにいた理由が分からなかった。彼女は、自分がいつもすれすれの状態にいることさえ全く知らなかった。
それから、長い沈黙が続いた。
私は怒りに震え始めていた。憎悪の気持ちを叫びたかったが、こう言うに留めた。
「君は僕のものだ。だから、僕以上に愛する者がいることに、我慢がならないのだ!」
「おかしなことを仰るのね。較べられることではないでしょう。宗教的なことはみな、別な次元に属しているのよ。それは知性にも、心にも、属するものではありません。」
「なら、何に属しているというのだね」と私は苛々しながら言った。
彼女は柔らかく答えた。
「超自然という大きな世界です。」
「そんなもの分かるか!」
「そうでしょうね」彼女は、抗しがたい微笑を浮かべながら言った。
微笑みだけで男を支配できると考えているのだろうか。
この不思議な力だけが自分にのしかかって来るように思えることも度々だった。彼女はゆっくりと微笑む。その効果が出てくるには時間がかかる。
唇が柔らかく、早く全開になってほしいと思うほどゆっくりと開く。
白く光る歯が見えてくると、歓喜に包まれた。私は、この何ともいえない優しさの前に、力を失うのだった。静かな安らぎを求めているときは、特にそうだった。
それから、彼女は、なんとも不可解な質問をした。
「なぜ、私と結婚したくないの?」と言ったのだ。
私は、結婚したくないなどと、一度たりとも言ったことはない。
だが、「黒髪」には占いの素質があるようだ。この才能には度々驚かされてきた。どうして、私の気持ちがこんなによく分かるのだろう。
私は答えた。「結婚はしたくない。だが、どうしてかは言えないんだ。」
彼女は少しため息をついてから、こう言った。
「私が神様を信じているからかしら?」
女は不思議な生き物である。子供から占い師に豹変できる。母もそうだった。
私は答えた。
「恋人は同じものを愛さなければならない。確かに、それが一番の邪魔だ。」
彼女はふたたび微笑ながら答えた。
「あなた以外の人はけっして愛さないでしょう。」
第十一章 マリア信仰破壊計画。
その頃、私は、マリア信仰の破壊に全力を注いでいた。カトリックとギリシャ正教が各種のマリア信仰を保持しているのだが、これがプロテスタントとの間に問題を生じているのだ、と強く訴えた。
分離した愛すべき兄弟たちの方が、より論理的で賢明である。正体も分からぬただの被造物が、われわれの教会で神よりも強力な(あるいは少なくとも優しい)存在になっていると訴えた。私は、この点において神の権利を擁護して楽しんだ。
また、多くのプロテスタントが、マリアがイエズスのあとで何人も子供を持ったと考えていることを力説した。プロテスタントは、長男の出生のときだけマリアの処女性が守られた、と信じているのだろうか。それを語るのは難しい。
だが、それでなくとも、これら自称キリスト教諸派の正確な信仰を決定するのは困難なのだ。事実、どの教派も自分の信じたいことを信じている。
とはいえ、彼らが嫌っているものを知ることは比較的容易だ。そこで、私はロザリオと、マリアに捧げられている幾つもの祝日を除くことを提起した。私の典礼書には、祝日が二五もある。地域的な祝日もこれに加えられる。
次に、メダイと御像、御絵の徹底的な破壊が、私の計画の中にあった。多くの仕事が控えているが、やるだけの価値がある。
だが、ルルドとファティマ、やや重要度の劣るそれ以外の巡礼地を、どうしたら除くことができるだろう。ルルドについて言えば、これほど煩わしい場所はない。それは、プロテスタントの心には、腫れ物のような存在なのだ。
この場所に毎年数百万人の巡礼者が集まっているうちは、普遍教会は足がかりをつかむことはできない。
私は、ルルドで起きた現象について集中的に調査をしたが、大した発見をすることができなかった。初期の証言の間にかなり食い違いがあることが分かったぐらいだ。
ある者は、ベルナデッタの気絶と、彼女が住まいにまで(自分の記憶が正しければ水車小屋)幻によって導かれたと証言していた。これを否定する者もいた。ベルナデッタ自身はそれを認めてはいない。彼女は忘れててしまったのだろうと言う者もいたが、大して重要なことには思えなかった。
私は虚偽に基づく宣伝が大嫌いだ。党は、より優れた福祉が危機にさらされるときには、嘘も使いようだとの考えだが、私自身は品位を重んじる。人はそれによっていっそう強くなれるのだ。
私はまた、党の嘘吐きどもよりも、ずっと自分のほうが上だとさえ感じている。事実だけを相手にするときだけ、人間は成功できるとの考えだ。事実の役立つ部分をどう解釈するかが分かれば十分なのだ。
もう一つの問題がある。マリアをその座から引き降ろすためには、クリスマスの意味を失わせなければならない。だが、クリスマスは、未信者にとってさえ祝日になっている。後者は、その理由さえ知らずにいる。
平和と喜びは非常に望ましく、良い事柄であることに注意しなければならない。他方、ナザレのイエスが神の子でないとすれば、彼の母も重要ではなくなることに安心した。彼女の名前を知る必要さえない。
また、理性によって、イエスの倫理的教えの大部分を敬い続けたいと考えている者にとっては、イエスの幼年時代を敬うことは滑稽なことだ。馬小屋に生まれた子供が何だというのか。どこが特別だというのか。
ところで、プロテスタントは預言者イエスの処女降誕をそれほど信じてはいないが、七億人のイスラム教徒は、コーランによってこの教義を信じていることは、注目に値する。
そこで、人類の半分近くがこの娘を崇拝していると考えざるを得なくなるわけだ。
不可解この上ないことだ。
輪をかけて不可解なのは、イスラム教徒が、イエスをただの預言者としてしか見ず、自然に誕生したといわれている、開祖ムハマッドにも劣る小預言者にしていることだろう。
人間の不可解さには際限がない。
すべてを考慮して、私は、マリアの処女性を否定することが、すべてのクリスチャンを、けっして神ではない男の弟子に変えるための、一番安全な方法だと確信するに至った。
神を殺す以前にナザレのイエスをなきものにすることのほうが、どれほど有効だろう。
福音書も使徒書簡も、実際、新約聖書のすべてが、人間の創り出した言語に過ぎず、誰もが自分の好む言葉を選び、気に入らない言葉を批判し、誇張されているものは否定させる。われわれの目標はまさにここにあるのだ。
東洋では、イコンがマリア信心の中心になっているが、今では、ロシア全域でそれは鎮圧されるに至った。
だが、西洋ではロザリオの人気が高い。十五の奥義を黙想するというこの信心を、何としても滅ぼさねばならない。
それは、三位一体の神に対する信仰を推進させることで、自ずと可能になるだろう。
とりわけ、ロザリオを唱える者たち全員に、罪の意識を持たせることが、どうしても必要になる。
私が全世界に送った指令は、このような内容だった。誰とも結婚せず、「不思議」と呼ばれるその人のメダイを、神学校の自室にぶら下げたときに考え出したものだ。
みなは、メダイの前で、私が奇跡を求めて祈っていたと思っていたのだろうが、私自身は、彼女への憎悪の中で自分を守ろうとしていただけだ。
翌土曜日には、私は「黒髪」と合うことはできなかった。彼女は、伯父夫婦と連れ立って、マリア巡礼に行ってしまったのだ。
私は、怒りを紛らわすしかなかった。彼女が、この問題すべてに別れを告げてしまったように思えた。
そこで、ここしばらく御無沙汰していた聖歌の練習に行くことにした。
アキレスは大喜びだった。私はメダイの一件を彼に告げずにはいられなかった。だが、彼の答えを聞いて驚いた。
彼はこう言ったのだ。
「気をつけろ。メダイについてのその話は、すべて本当のことだ。部屋に置くな。危険を呼ぶぞ。」
「具合でも悪いのか」と私は彼に聞いた。
彼は聞こえないふりをした。だが、メダイを見ただけで気分が悪くなり、その存在に苛立ちを抑えられなかったのだ。
人間の心には理解できない溝がある。わが老教授 --- 彼は熱心な共産主義者なのだが --- こうした言動をしたことで、私は大きな不安に陥った。人生で初めて、任務の成功に疑いを抱いた。
私は、メダイについてもっと彼と話をしたかったが、できなかった。
アキレスはこう言った。
「私は何も信じてはいない。神も、悪魔も、聖母マリアもだ。だが、あのメダイだけは心配だ。それだけだ。」
「あなたは、こんなもので回心させられるとでも、考えているのですか!」
私は、掴んだ両肩を揺さぶりながら、声を張り上げた。
彼は言った。
「違う!ただ、怖いだけなんだ。それだけだ。」
「そんな恐怖心が、どんなに馬鹿げているか、あなたには分からないのですか! このメダイをあなたの家の中に堂々と掛けて、そんな子供っぽい恐怖心を克服してみてはどうです。その方がどんなに名誉なことか。」
彼は何も答えなかった。それで、私はしつこく迫った。彼は疲れ果てたように言った。
「他のことを話そう。」
「いや、僕はこの問題をとことん追及するつもりだ。これには世界の未来がかかっているのですよ。みなが、あんたみたいに、イコンやメダイにびくついたとしたら、共産主義は一体どうなると思います。考えて見ても分かることでしょう!」
彼は考えようとはしなかった。それで、彼の代わりに私が行動を起こすことにした。
私は、敗者の側に留まっているのに我慢がならない性分だ。私にとっては、困難が興奮剤だ。それが何よりの刺激なのだ。
私は大きな音を立ててドアを閉め、彼の部屋を出た。自分が何をやろうとしているかは、よく分かっていた。
翌土曜日、「黒髪」を訪問する前に、私は、金槌と釘とメダイ、それにチェーンを手に持って、アキレスの家に立ち寄った。そして、彼の寝室に直行すると、金槌でベッドの上の方に釘を打ち、「不思議のメダイ」を掛けてやったのだ。
次の土曜日、アキレスはいなくなっていた。彼に何が起こったのかは分からない。
彼の失踪は、少なくとも、代役が見つかるまで、私の活動に大きな支障をきたした。失踪する前に、彼はメダイと、私書箱の鍵を私に戻していた。
第十二章 カテキズム2000。
その年は、新カテキズム(要理)作成のために必死に働いた。
私が創設を夢見ている「普遍教会」に合ったカテキズムだ。
子供たちの心をかたどることが、「自己尊重」を教えるすべての教理にとって、非常に大事な部分である。
子供のときから無神論を教え込むことが大事だというのは、キリスト教の教理の神秘的部分が、私が所属する「真に優れた存在者」以外の者に対して、憧れの気持ちを誘うからだ。
これを教理の問題に当てはめれば、二十世紀末までは、人間がみな不自由人であると考えさせておくのが賢明だ。そのための薬は、西暦二〇〇〇年に与えられると期待していい。
人間の言葉から、特定の用語が完全に削除されなければならない。これらの言葉を、子供がまったく聞かないようにすることが最善である。
それで、宗教的な教えを単に覆い隠すより、全く新しいカテキズムを作成するほうがはるかに好ましい。教会は、しばらくの間、「全世界の良き兄弟たちの集会場」に等しくなる。このカテキズムは、老朽化したキリスト教徒の愛徳(チャリティー)に取って代わる、「友愛」のひとつになるのだ。
「愛徳」(チャリティー)という語も追放し、「愛」(ラブ)という語に置き換えなければならない。この語は人を現実的にして、どんな曖昧な行為にもふけらせることができる。
私は、曖昧な関係が隠し持つ大きな力を尊重してきたし、これからも尊重し続ける。
この新カテキズムを準備しているあいだに、実際の要理から、徐々に修正を加え、あるいは削除するべき部分をすべて抽出した。
また、この確信を「黒髪」にも分かち合いたいとの熱い気持ちが込み上げてきた。
巡礼と聖母マリアが起こすという「奇跡」の話をしてくれることによって、この仕事を楽にしてくれたのは、彼女なのだ。
私は、このような宗教現象は、それがどのようなものであれ、すべて彼女自身がつくりだしたものなのだ、と熱心に説明した。彼女は、呪うように、すべてを否定した。
私は彼女に言った。
「見えないものや感じられないものはみな、君自身がつくりだしたものに過ぎないのだよ。どうして、そんなに怒るのか分からない。」
「分からないというのは、私の信仰がすべて、天から私に啓示されたものであることを、ご存知ないからです。そんなことをみな考え出すなど、とてもできることではありません。」
「君自身がそれを考え出したとは言ってはいない。それは真実だ。君は先祖を模倣しているに過ぎないのだよ。それだけさ。」
「いいえ、模倣以上のものです」と彼女は言った。
私は、たとえば、彼女が信じている「御聖体におけるキリストの現存」は、彼女自身の信仰の強さに応じて現存を現わすが、信仰をまったく持たない人には何の現存もないのだ、と冷静に話した。
彼女はこれを認めようとはしなかったが、私にとっては、プロテスタントの範に倣って、彼女をこの流れに乗せることが重要だった。
私の本当の目的は、信仰をすべて抹殺することだったのだが、これは必死で隠した。その前に、彼女を宙ぶらりんな状態に入れる必要があった。
私は、キリストに癒された人には、常に信仰が求められたという福音書の個所を引いて、信仰といわれるこの力が、本当は治癒を起こしているのだと彼女に説明した。
だが、彼女は子供のように頑固だった。キリストは信仰を高めようとしたのであり、それは体の癒しよりはるかに大きな祝福なのだと言ったのだ。
私は、独創的信仰の外には宗教者は誰もいないと説明した。幼児洗礼が愚かしいのはそのためで、大人になるまで待つべきなのだ、洗礼そのものさえ、いつかは幼稚な古代の魔術的行為として禁止されるようになるのだと。
彼女は泣き出し、「しばらく会うのはやめましょう」と言った。
私もこれに喜んでしたがった。実際、するべきこと、考えるべきことが多く残されていたし、それ以上に、離れていれば彼女ももっと柔軟になると思ったからである。女は悲しみには耐えられないものである。自分はどうかというと、彼女に強い愛着を持ちすぎ、自分の強さを見せつけることができなかった。
私は、大学で二つの講座をとる許可を得、それによって、神学生であることを知られずにこの集団に入れるようになった。長官は、必要と思った時には、いつでも平服を着用することを許可していた。彼は、修道服は廃れたと認めているようだった。これからの司祭は今までとは全く異なるものになることを、私たちは言葉を交わさずとも理解し合えた。
人間が、時代に応じたものになるのは当然のことだ。私の目から見れば、教会は極めて後向きである。トレント会議以来、教会が一歩も前進できていないので、失った時を埋め合わせるべきことを証明することは容易だ。
私はまた、アキレスに代わる人材を見つけなければならなかった。自分では私書箱に行くことも、手紙を暗号化することもできなかったからである。それだけの時間的余裕がなかった。
私には信頼できる男が必要だったが、戦時中で、そのような人材を捜すのは困難だった。最後に、大学のある教授に接触せよとの指令が来た。
初めは、実際的な動きのように思えが、その老教授に会ったときには、不快を覚えた。自分には、人を判断する感がある。この男には裏切りの臭いがした。
いずれにせよ、私書箱の鍵は手渡したが、彼に暗号解読の仕事をさせる前に、上の人間に相談することに決めた。だが、受け取ったのは、問答無用で従えとの指令だ。
私は、このことに大いに悩み、もう一人の連絡員を見つけて、彼に同じ仕事を任せることに決めた。こうすれば、少なくとも戦後に両者を比較することができると考えた。
私は、自分の疑いが正しいに違いないと思った。正しくあって欲しいという気持ちが先立ったが、特に、AA1025の署名をした同じ文書を託した二人の通信員の価値を比較したかった。
教授が裏切り者であれば、戦争のドサクサにまぎれて計画を破壊することを考えていない限り、私の文書を慎重に改竄するはずだ。いずれにせよ、第二の通信員を雇うだけの理由が私にはあった。
私は、苦学生の中に彼を見出した。彼は熱しやすい人間だったが、その情熱が私を捕えた。私は、共に輝かしい未来を作れるのだという希望を彼に植え付けた。エゴイズムや貪欲な精神を刺激するのは党の慣わしではないが、この青年には冷たい愛を培わせる必要があると見た。
この問題を解決している間に、「黒髪」に会いたいという気持ちが強くなってきた。このような気持ちは、軍事共産主義者にも、党の未来の最高指導者にも、相応しいものではなかった。
私はすでに神学校生活を三年過ごし、あと三年が残っていた。それが過ぎてから、私がローマでより高度な教育を受けることに、誰もが賛成した。私は、自分が神学校の教授になるのだと考えた。名前以外すべて異なる、まったく新しい聖職者をつくりだせる教会の中心人物である。
私の人生はすでに決まっていたのだし、それ以外の人生は望んでいなかった。だが、岩のように強い砂の一粒が入り込んでいることを、認めないわけにいかない。
自分が軽薄な男だったら、「黒髪」をおもちゃにしか考えなかっただろう。だが、私は彼女の恋人でさえなかった。
彼女が自分の確信を共有しないあいだは、恋人になる気はない。私は、男女のつながりは完全でなければならないとの信念だ。心と精神の一致がなければ、体の一致もない。
でなければ、売春と変わることはないのだ。
地上のすべての宗教を破壊しようとする男が、二十歳の娘一人言いくるめられずにいる。何たる滑稽な立場に自分はいるのだろうと思った。
彼女とは別れるべきなのかも知れない。戦時下のロシアにいる叔父が、こんなことを知ったら喜ぶまい。その一方で、平和な時代ほどには自分が監視されてはいないことも知っていた。
だが、自分の勇気を削ぐ何かが存在するということが、私としては一番つらかったのだ。
第十三章 秘蹟破壊指令。
新カテキズム --- これは人間の宗教のカテキズムと呼んでも良いものだ --- に携わる中で、私は、一連の要理を作成して、その都度修正と制限を加えるのが好ましいことに気がついた。人間の心が徐々にそれに慣れてくるようにするためだ。
最初の版で、使徒信条の二ヶ条を控え目に修正しなければならない。
まず、「カトリック」の語を「普遍」に差し替えなければならない。これは、いずれも同じ意味だ。この「カトリック」という語によって、プロテスタントが気分を害したり、ローマ典礼の信者たちが、自分をスーパー・クリスチャンと思い込んではならない。
あとで、聖人崇拝も禁止する。神を抹殺することの方がずっと容易であるとはいえ、それ以前に、聖人たちを抹殺せねばならない。
当面は、次のやり方に従う。まずは、正式に認められてはいない聖人、たいしたことをしていない聖人たちをみな抹消する。
それから、宗教改革に対抗した聖人たちも、みな排除する。彼らは、「キリスト者の和解」が全員のテーマになっている今の時代には関係ない。
あとで、最大の異端者たち、特に、ローマ教会に一番の憎悪を燃やした者たちを、深い同情と涙をもって、丁寧に復活させ、列福、さらには列聖にもってゆく。
例えば、マルチン・ルターなどを、まず最初に祭り上げさせるべきである。そして、カトリックの側に何の反応もなければ --- 不愉快に思わなければという意味だ --- この面でのわれわれの活動は、いつも通りの間隔を置いて、慎重に、控え目に進める。
それから勢いをかけて、審判、天国、地獄、煉獄の観念も葬り去る。その方がずっと容易だ。
多くの者は、神の愛はどんな敵意も超えていると信じる習慣がついている。われわれは、この愛を強調しさえすればいい。恐れる必要のない神は、いずれ考慮に値しない神になる。
これこそ、われわれの大目標なのだ。それから、神の十戒は保たせても、教会に対する六戒は抑えなければならない。これほど滑稽なものもない。
教会の六戒を削ることについていえば、大人になったクリスチャン、信徒が金曜日に肉を食べるかどうか気にしないほど、神が大きな存在であることを知っているクリスチャンを、称えなければならない。
一年告解について言えば、司祭が下層階級に対してありふれた犯罪を並べ立てる社交儀礼に差し替える。この種の罪に人々の注意を喚起することが必要だ。
個人的告解は時間の浪費だ。逆に、私が夢に描いている儀式は、心を慣らして、素晴らしい成果を生むことだろう。だが、これには、十分訓練された司祭が必要になる。
日曜日に義務付けられたミサについていえば、現代人には、新鮮な空気と緑の中に入ることが必要なので、土日は自然の中に入るのが望ましいと言えば十分だ。
あくまでミサに固執する者たちには、日曜にではなく金曜を選ぶ権利を与える。金曜の晩が相応しいが、その晩に遠出する者たちは別だ。彼らには木曜日を選ばせる。
最終的には、何より優先すべきは自分の良心に従うことだと教え込む。
「良心に従う」。このプロテスタントの発想は実に素晴らしい。これによって、他を不愉快にさせる規則を出せなくなり、自由気ままを許す規則に差し替えられるようになる。
超自然的な生命と恩寵に関わるものは、無論、すべて消し去る。このような観念は危険だ。
「天にまします」の祈りは、しばらくは保たれるが、「神」というより親しめる言葉を使わざるを得なくする。
その口実を作ってくれるのが、プロテスタントとの共同で、共通の言語に訳し変えた新聖書をすべての国で採用することだ。
それは、過去四世紀にわたるカトリックの傲慢の罪を償う手段になる。
この新しい翻訳が、年長者の信徒を不愉快にさせたとしても、構うことはない。当然予見できることだ。
次にすべきは、七つの秘蹟の全改訂である。プロテスタントには、秘蹟が二つしかないからだ。
キリスト教諸派はみな洗礼を守っているが、これは真先に消し去らねばならない秘蹟だ。それは比較的容易だろう。秘蹟は子供騙しだ。十字の印や聖水と同じほど子供っぽい。
まず洗礼は大人だけ、それなしには生きられないと信じる者だけに限定する。
いったいどこからこんな考えが湧いてくるのか分からない。私は天才なのだ。毛穴のすべてから天才が吹きでてくるようだ。
むろん、洗礼によって原罪が無くなるという考えも抹消しなければならない。罪は、純文学的な創作に過ぎないのだから。アダムとイブの物語は語ってもいいが、笑う材料としてだ。
洗礼は「普遍キリスト教」に属するしるしに過ぎず、誰でも洗礼を授けることができるが、全員が洗礼を受けなくとも一向に構わないと教え込む。
われわれは、非キリスト教諸宗教に生きる聖なる魂を称えるために、これを利用しなければならない。これによって、彼らは罪責感に囚われるようになる。
実に素晴らしい考えだ。
当然、聖霊を信じ、司教にしか行えない「堅信礼」は、何としても抹消しなければならない。
この態度によって、ユダヤ人とイスラム教徒ばかりか、新プロテスタントを不快にする三位一体のドグマが、公然と非難されるようになる。聖木曜日に聖油を祝別する必要はなくなるだろう。これはまるで魔法の行為だ。
儀式その他の外面的な行為なしでも信仰を保てることに注意する必要がある。この信仰の方が気高いのだから。われわれはまた、異教徒、ユダヤ人、イスラム教徒、共産主義者の間にも見られる優れた徳を、強く訴えなければならない。自分たちの教会に、他教会より多くの聖人がいることを恥じているカトリック信徒もいるからだ。
改悛の秘蹟については、経験ある指導司祭による、良心の吟味しか行わない社会儀礼に差し替え、のちに一部のプロテスタント教会で行われているような、全般的免償に変える。
現代の司祭は、終わりのない告解の時間と、そこから来る重荷を除かれるようになる。この共同体告解は、年に二度、イースターとクリスマスに行う。
若い司祭たちは、厳格な社会主義思想を叩き込まれるようになるだろう。社会的罪を詳しく調べる中で、人々の心をマルクス主義に向けることが彼らの目標になるのだ。
他人に対する正義の欠如だけが、懺悔の動機になる。人間を信頼する者がキリスト教徒であることを、すべての者に確信させなければならない。
誰もが自分にこの問いかけをするようになるだろう。「他の人々は私を信頼できるだろうか。」
この儀式では、神という語は使われない。いずれにせよ、「秘蹟」と呼ばれなくなるのだ。秘蹟という語も抹殺しなければならない。
むろん、免償について語る者は、一人もいなくなるだろう。この語の意味するものさえ知る者はいなくなるのだ。
終油の秘蹟(Sacrament of Extreme Unction)について言えば、それに代わる別の語を見つけ出す必要がある。これは病人に直接関わるものなので、刷新の当初からそれを除くことはできまい。
だが、永遠のいのち、審判、天国、煉獄、地獄といった観念を、癒されたいという願望に置き換えるようにしなければならない。
そのうち、医師が治療の職務を遂行する上で、司祭の手を必要としないことを分からせる。
「病者の秘蹟(Sacrament of the Sick)」という表現を選ぶことになるだろう。永遠の生命という考えを避けるために、軽い病気のときにもこの秘蹟を許すようにする。
とはいえ、私は何も心配はしていない。秘蹟はみな、姿を消すようになるだろう。誰もこんなことに時間をとらなくなるだろう。
聖職者に力を与える修道会の秘蹟については、それは保持しておこう。普遍教会では、社会主義政策のために働く教師となる司祭が必要になるからだ。
これらの司祭たちは、例えば、童話を使って祭りをつくりだせる。民衆には祭りが必要だからだ。
だが、これらの祭りは、まったく人間のためのものであり、どんな神をも暗示するものであってはならない。
結婚は不要な秘蹟ではないが、家族の祝い事にのみ留まるという条件が付く。
宗教的結婚だけが唯一正しい結婚であるという旧いものの考え方を、みな排除してしまわなければならない。民間の結婚だけを唯一必要なものとすべきである。
こうすれば、権威あるこの教会も、離婚と離婚者の再婚を禁じることはできなくなるだろう。ナザレのイエスが、この意見に反対する言葉を出しているのはよく知っているが、現代人に適した教えだけをどう選ぶかについて、すでに指令は出してある。
結婚に縛られることは、人間の幸せを損なう重荷だ。子供の幸せを云々する者たちは、子供は国家に属するときこそ、ずっと幸せになることを忘れているのだ。むろん、司祭が結婚を望めば、彼らにも結婚ができるようにさせる。修道会の秘蹟は女たちにも開かせる。
第十四章 人間の栄光。
聖餐の秘蹟を徹底的に調べる始める前に、私は自分の成果を、学生の文通相手と「黒髪」に郵送した。
学生は非常に熱心になり、ある日大学で私に接触を求め、一連の文書を手渡した。
彼は、顔を火照らせて、これらに評論を加え、是非とも出版して欲しいと頼んだ。
原則的には、私たちは人前では話を交わしてはならなかったのだが、戦争のことを考えて、ことを起こさなければならないと考えた。
学生と人前で話し、文書を交換しても危険はなかった。
大学で二つの講座を正式に取るや否や、バイクを購入し、ほっとした。これで、他の生徒たちと一緒に遠出をしなくて済む。
学生の論文は、実に素晴らしいものだった。自分には作家の才能がなかったので、嫉妬さえしたほどだ。
だが、まもなく、この流暢な論文が、どれほど大きな力になってくれるかを、知るようになった。
われわれは理想的な協力関係を築いた。私は、堅い論理でアイデアを提供し、彼がその中から一番いい所、少なくとも彼の立派な論文を鼓舞する部分を選別するのだ。
自分の考えが文学に花開かせると思うだけで、才能が刺激された。この連携プレーでは、天才は私であり彼は芸人に過ぎない。
自分の発案になる論文をかなりの稿料で定期的に掲載してくれる評論も、すぐに見つかった。
私は、それらを戦争をしていないすべての国々に送付し、翻訳と普及を依頼した。
だが、戦争が終結するまでは、さほど成果が上がらないことを認めなければならなかった。
学生には、上から押し付けられた教授以上の信頼を置いていたので、もう一つの私書箱を作り、その鍵を手渡した。
彼は十分な報酬を受けていたので、私のことを神様のように思った。私のためなら、命さえ惜しまない男だ。
「黒髪」から音沙汰がなかったので、自分の考えを反映したものだとの説明を付けて、学生の論文を彼女にも定期的に送ってやった。
「黒髪」は、学生の才能に敏感に反応し、私のよりこちらの論文のほうがずっといいと書いてきた。
私は大笑いした。論文には、自分が発案したものしか載ってはいなかったからだ。
これによって、文学的な才能が、チョコレートをかぶせるように、どんな新しい計画も大衆に呑み込ませるのに役立つことを確信した。
この間ずっと、「黒髪」は私をアトリエに招かなかった。ある日、大学の回り廊下で、自分のものと思い込んでいた彼女と出くわし、怒りをぶちまけた。
彼女は、古美術の講義を受けることに決まったのだ。彼女は、私の新カテキズムの計画に答えを考えているところなので、いずれそのことで静かに議論しましょうと言った。
議論? 私は、自分の考えを邪魔立てする議論には出会った試しがない。
だが、是非会いたいので、喜んで議論には応じようと答えた。
だが、心の中では、女は愛する男の意見には全面的に従うべきことを分からせてやるのだ、と考えていた。
私は、新カテキズム完成のために、聖餐の秘蹟に取り組んでいるところだとだけ言った。彼女は、溜息をついた。涙が目から溢れ、何も答えずに去った。
私は、このようなスリリングな著作の最初で、聖体の真の定義を書きたいと思った。
「聖体とは何か」という問いに答えれば、どのカトリックもこう答えるに違いない。
「パンとぶどう酒のもとで、イエズス・キリストの血と肉と霊と神性を実質的に含む秘蹟」
たったこれだけだ!!!
この問題を解決するには、真剣な取り組みが必要だ。太刀打ちできない信仰だからではない。慎重を期して、正面攻撃を避けるということだ。
この、いわゆる「パンとぶどう酒におけるキリストの現存」は、間接的に叩く必要がある。真っ向から攻撃すれば、カトリックは反撃してくる。迫害は常に信仰を強化する結果になるので、これほど危険なことはない。
そこで、「現存」の語には触れずに、この信仰を壊す、ないしは弱めるものすべてを解明することが必要だ。*
*〔管理人注〕元の訳、<そこで、「現存」の語には触れずに、この信仰を壊す、ないしは弱めるものすべてを明るみに出す。> を差し替えさせてもらいました。英訳版では「It is therefore necessary not to mention "Real Presence" and to shed some light on all that can destroy or weaken this conviction.」
「ミサ」という語を修正することがどうしても必要になる。語そのものを廃止し、「主の晩餐」とか「聖餐」に変えるのがよい。
ミサの刷新によって、彼らのいう「奉献」の重要性は低められ、聖体拝領は取るに足りないものになるに違いない。これは長期計画だ。いかなる部分もおろそかにしてはならない。
そこで、まず注目すべきは、犠牲をささげるときに、司祭が信徒の群れに背を向け、見えざる神、目前の巨大な十字架に象徴される神に直接話しかけているように見せる光景だ。
司祭は神によって選ばれ、同時に、神を仰ぐ者たちの代表でもあるわけだ。このとき、彼は権力も印象付けるが、孤独も印象付ける。自分が大きく孤立し、ほとんど見捨て去られている、人々に近づいたほうがずっと幸せになれると感じさせたほうがいい。
この考えがうまく成功すれば、高祭壇を廃棄処分にして、丸裸の小卓に差し替える可能性を提起する。司祭はこの小卓を挟んで参会者に向き合う形になるだろう。
聖体に関係し、この机を必要とする典礼の一部は、可能な限り短くなり、神の言葉の教えに関する部分が、かなり増やされるだろう。
カトリック信徒が驚くほど聖書に無知であることはよく知られている。だから、ミサ典礼にこんな修正を加えたところで、彼らはこれを正しい修正とみて疑いもしないだろう。
カトリック信徒が聖書の長々しい引用に喜んで耳傾けるという意味ではない。彼らは何も理解しない場合の方がほとんどなのだ。だが、少なくとも真の社会主義の司祭たちが訓練されるまで、彼らが理解する必要性はない。
ミサ典礼を構成する式次第は、聖公会とルーテル派のそれに注意深く比較しなければならない。これら三つの派が受け入れられるひとつか各種の式次第を推奨するためだ。このやり方に込められた素晴らしい利点は誰もが気づくに違いない。それは同じ言葉に正反対の意味を与えるものなのだ。
改宗か曖昧さ以外、取るべき選択はない。私が選ぶのは、信徒に「真の神の現存」を捨てさせる方法だ。プロテスタントが改宗することなくミサで聖体拝領をするのを目にすれば、カトリック信徒は、古くから伝わる「真の神の現存」に自信を持てなくなるだろう。
この「現存」は、そう信じるときのみ存在するに過ぎないのだと彼らに説明する。こうして、彼らは自分たちがキリスト教の創造者であると感じるようになり、彼らの中で一番の知恵者は、必要とされる結論をいかにして引き出すかを知ることになるだろう。
さらに、キリストの「真の現存」の考えを弱めるために、厳粛な作法はみな取っ払わなければならない。刺繍を施した祭服もなくなる。聖なる音楽もなくなる。特に、グレゴリオ聖歌は過去の遺物にして、ジャズ的な音楽を持ち込む。十字を切る作法もなくす。
跪きもなくなる。信仰者は、跪きの習慣を自ら破らなければならなくなるだろう。聖体拝領を受けるときに、これは完全に禁じられることになるのだ。
聖なる感覚をすべて抹殺するために、もうすぐ聖体は手で受けるようになるだろう。
(すでに選ばれた)特定の者たちに、司祭と同じく、二種の聖体を受けさせるのは悪いことではなかろう。ぶどう酒を受けない者たちは、激しく嫉妬するようになり、キリスト教をすべて捨てたくなるだろう。その方が望ましい。
それから、平日にはミサを行わぬよう、強く推奨する必要がある。現代人は時間を浪費しないものだ。
もうひとつの優れた方法は、家庭で食前か食後に行う家族ミサである。この目的のために、父母には修道会の秘蹟を受けることが許されるようになる。このやり方がどんなに優れているか、みな分かるはずだ。これによって、宗教行事を行うのに、金のかかる場所を使う必要がなくなってくる。
礼拝における神聖さをすべて滅ぼすために、司祭は土地の言葉でミサ全体を進め、特に、聖体奉挙式はただのナレーションにするよう求められる。この方が現実感がある。
特に司祭に言わせてはならないのは、「これは私の体、これは私の血」という言葉だ。それは、この言葉を語るキリストの場所を彼が占めることになるからだ。すべての者に、司祭がナレーションをしているに過ぎないと感じさせるようにせよ。
それから、犠牲の問題があってはならない。十字架の犠牲を毎度新しくするミサの犠牲のことだ。こんな言葉を受け入れるプロテスタントは一人もいないのだ。ミサは、人類同朋体のよりすぐれた幸せのための会食でしかない。
それに、普遍教会が設立されるときには、家族以外では、ミサそのものも存在する理由がなくなる。家族とは、もっとも熱狂的な者たちの意味だ。この種の者たちには我慢するしかない。だが、家に閉じこもっている限り、彼らは毒にも薬にもなるまい。
ミサの典礼文の祈りは最大限簡略化され、奉納、聖変化、交わりの三つだけが許されるようになるだろう。
簡略化し人間化された別の典礼書を持ち込むのに成功すれば、次世代の教化のために、ミサには「聖ピオX世の祈り」と呼ばれるものがいくつかあったことを思い起こすのがいい。中世の反啓蒙主義に人類を閉じ込めるのに大貢献した祈りだ。奉納の祈りはその種の典型だろう。
もっといい祈りがあるのではないか。私は、幾つか奉納文とミサの他の祈りも考案するよう、すべての修道院に提案する。奉納文はパンを奉納する祈りだから、単にこう言ったほうが意味が通ると自分は考える。
「私たちは、人が造ったパンをここにもってきました。人の食べ物として出されなければならないものです。」
いずれにせよ、この儀式を聖なるものにみせる傾向のある言葉遣いはことごとく撤去しよう。
ひとつだけ例を出そう。古いミサでは常にこう祈ったものである。
「イエズスは聖なる御手にパンをおとりになった…」
われわれの用語から「聖なる」の語を消し去る必要がある。われわれは「聖なる御手」とは言わない。代わりに、「彼はパンを取り、それを祝福した」等々というのだ。
これは、この仕事を達成する精神のよき実例になるだろう。今は時間がないが、あとで自分用にミサをひとつかそれ以上、試しに考案してみよう。
他方、これは僧侶の仕事だ。無論、ミサが三つの必須の祈りだけから構成されるようになれば、各自の趣味趣向にしたがって、詩篇や賛美歌、講演や説教で残りを埋め合わせることが許されるようになる。
このミサは会食に過ぎないのだから、使用するテーブルは、一〜二人が腰掛けるに十分な大きさでなくてはならない。私は、信者たちが食べるために、不便を我慢して一斉に席から立ち上がるのをいつも滑稽に感じてきた。拝領台に対してしばしば跪くことさえある。これは誤っている。ただの手すりをどうして「台」と呼ぶのか。
それで、どの教会も、一〜二人が腰掛けられる食卓だらけにすべきである。最後の晩餐では十三人がいたと信じられているが、誰もがこの数を嫌がるだろう。それで、パンを裂く前にユダが去ったという信仰を利用する。
さて、これにはさらに多くの数の司祭が必要になる。司祭を増やすのは簡単だ。これにはある種の善意、ある種の善行だけが求められるのだ。面倒な学問は一切必要ない。無論、独身者である必要もない。それでも、独身のもたらす力から益したいと思う者は、僧あるいは隠者になるだろうし、学問を望む者は神学者になるだろう。
多くの種類の司祭が出てくるだろうが、一般的な司祭は、家で食事毎にミサを行う既婚者の男だ。ミサは「主の晩餐」に過ぎないのだから、もはや、崇敬の行為ではなく社交儀礼に過ぎなくなる。
想像上の恵みに対して感謝することはなくなる。与えられもしない許しを施すこともなくなる。未知の奥義(ミステリー)を願うことはなくなり、人間のすべてを願う儀礼になるのだ…
普遍教会は、こうして、全くもって人間の栄光に向けられたものとなる。それは人間の偉大さ、その力、その逞しさを称える教会である。人間の権利に対して香を焚き、人間の勝利を謳歌する教会になるのだ。
第十五章「黒髪」からの手紙。
最初のカテキズムに関する仕事を終了した頃に、「黒髪」から一通の長い手紙を受け取った。驚くべき内容だった。
愛する方へ。
あなたの確信を伝えてくださって有難う。私の心は完全にあなたに開かれるようになりました。心は何を語りかけているでしょう。あなたを愛しているということ、それはお分かりですね、分かりすぎるほどに。
あなたは、自分の理想をすべて私にも共有してほしいとお思いです。でも、私にその気持ちはありません。ただ、あなたに叫びたいだけです。
「気を付けなさい、死の罠が待ち構えています」と。
どうか、最後まで読んでください。どうか、怒らずに手紙を最後まで読み、よく考えてくださることを祈ります。確かに、あなたは、私と同じほど自分が正しいとお考えですが、私はこのように申しましょう。
歴史を振り返ってください。教会は不滅です。
あなたは時間を浪費しているのです。力を浪費しているのですよ。あなたは神に優ることはできません。このことをよくお考えください。あなたが神を信じないからといって、神が存在しないことにはならないのです。
あなたには理解しやすいことだと思います。あなたは、同じことを正反対の意味で信じているのですから。私が信じているから、あなたは神が存在しないと想像なさっているのです。信じる信じないに、究極的な力がないことは事実です。
しかし、あなたのまわりの何もかもが、神の存在をうたっているのです。あなたは植物の種子を造ったことがありますか。自然の法則を造ったことがありますか。葉の一枚でさえ、あなたが造り、自分のものにできているものがありますか。あなた自身さえあなたのものではないのです。
奇妙な神なき教会をつくりだすことに成功したとしても、あなたが勝ったわけではありません。それによって、神が低められるわけではありません。どんなに手を尽くしても、神を低めることもできなければ、殺すこともできません。
私は、こんな子供っぽい戦いに取り組んでいるあなたのために泣いています。あなたが滅ぼそうとしている神は、どこにもいる万物の主人。あなたは神によってのみ生きているのです、神によってのみ、生き続けているのです。
教会を揺らすことには成功するかもしれません。それは過去二千年間に何度となく起こってきたことです。しかし、そのたびに、教会はより美しく、より強く復興しました。
愛する方、イエズス・キリストの教会は、永遠のいのちを約束されているのですよ。
それは、私の口を介して、聖三位一体はけっして教会を見捨てないこと、教会に向けられるいかなる攻撃も、ただ信仰を清めるために許されている試練に過ぎないことをあなたに叫んでいます。
信仰の力を失わせるためにすべてを混交する、完璧な人間至上主義の教会に加わり、多くの霊魂が滅びることでしょう。しかし、カトリック教会は立ち続けるのです。あなたが迫害すれば、教会は地下に潜るでしょう。それでも、教会の魂は永遠に立ち続けるのです。天来の啓示に従順であることが、この教会のしるしなのですから。
その特別な領域はあなたが見慣れているものとは違います。その領域は超自然的な、聖なるものなのです。ですから、私たちが知的か否かということは問題ではありません。
可哀想なあなた、あなたは頭が良すぎるのです。そればかりか、子供の頃にある深い傷を負いましたね。それがどのようなものかを聞くつもりはありません。
あなたは、静かな気持ちで過去を見つめられる歳になっているのではありませんか。あなたは無意識に復讐を求めているように私には見えます。それは気高い態度といえるでしょうか。
あなたは、十四歳まではとても敬虔な少年だったと話してくださいましたね。それで、私がこの手紙であなたに求めているのは、よくお考えになってくださいということだけです。あなたはよく分かっているからです。無神論の家庭に生まれたのであれば、信仰の領域が別な世界にあることが分かってもらえない、と私も諦めていたでしょう。
神と教会に対するあなたの憎しみは、あなたが単なる反逆児ではなく、信じるがゆえの反逆児であることの証拠ではないでしょうか。このような人々は、もっとも手ごわい相手であるといわれています。私は心からあなたに同情しています。あなたは早くに失われてしまったからです。私は少しも怖くはありません。少しもです。
あなたは、ご自分の曲がった教義によって、ある程度の霊魂を勝ち得るかもしれません。聖職者の一部さえも。(私はそう信じているわけではありません。)
しかし、あなたはすべての霊魂を勝ち得ることはけっしてないばかりか、逆に、聖人の群れを強化する結果になるでしょう。可哀相なあなた、あなたは神の教会を攻撃していると思っていても、全能者のみ手の中ではおもちゃに過ぎないのです。
あなたは自分に力があるとお思いですが、力を揮えるのは、神様がお許しになっているあいだだけです。主がいつかこう言われるときが来ます。
「もはやこれまで。私は苦しむ者たちの祈りを聞いた。私の敵を滅ぼすことによって、彼らを慰めることにしよう。」
その日を恐れなさい。神の敵は、自分が敵でいることによって永遠を犠牲にしたことを知り、絶望に襲われるでしょう。でも、そのときには遅すぎるのです。
あなたは聖なる教会が人間の組織と同程度の力しかないかのように振舞っていますが、私たちは、世界の山々をすべて覆すに足るほどの力をすべて手にしているのです。しかし、たとえ私たちを殺しても、私たちの特権をつくりだしている力まではあなたには破壊できません。あなたがそばにいても遠くにいても、常にキリストが私たちのあいだにおいでです。
私は主に話しかけ、主はあなたをご覧になっています。どのようなお気持ちでご覧になっていることでしょうか!
私はあなたのことを主にお話しています。夢の中でさえ。あなたは自分が自由で力ある男だと信じています。それは大変な間違いです。たとえ、今日死んでも、私はあなたの自由に、少なくともそのような自由の使い方に対して戦い続けます。
愛する方、どうか笑わないでください。笑ってはなりません。それより、あなたの子供時代をよく思い返してください。目には見えなくとも非常に手強い、それでいてとても柔和なこの力がよく分かるはずです。
私の心と霊魂は、尽きることのない、破壊できない力を所有しているのです。それをよくお考えください。感情が吹き込むものをすべて心から除いてください。故意に耳を閉ざしても、故意に目を閉ざしてもなりません。それは心ある人に相応しい態度ではありません。
しかし、あなたは憎しみ、神への憎しみに根ざす愛に、心を向けているのです。憎しみは裏切られた愛の叫びであることが多いことをご存知ですか。私自身は、神様はある特別な愛をもってあなたを愛しておいでになること、忍耐をもってあなたを待っていてくださることを信じています。
神さまにお祈りする気持ちが今のあなたにはないので、私があなたに代わって償いを捧げているのですよ。あなたの名の下に、一日千回、全能の主に、御子と至聖の母マリア様、有名無名の諸聖人全員の徳行を捧げているのです。私は一日中、眠りながらも、歓びと確信をもってお捧げしているのです。
あなたはミサ典礼を変えて、それを会食に格下げしようとお考えです。何という真似事でしょう。
ミサは、最初の聖木曜日以来、なぜ何十億回も捧げられてきたとお思いですか。一日中、それこそ毎秒のように、礼拝の香の煙となって天に立ち昇っているとお思いですか。
私は、御子が繰り返し人類の救いに身を捧げるこの「愛のいけにえ」に、心をひとつにしているのです。私は、神様につながって、私自身をお捧げしているのです、これほど小さな私を。
私は、主に較べれば “無” ですから、このようなささげものは滑稽に見えるかもしれません。もちろん、私は無なのです…それは私たちの誰もが十分に承知していることです。それが分からない人は哀れです。
信者と未信者とのあいだには大きな違いがあると私は信じます。信者は、受け取るものを捧げます。それはとても大きなものです。未信者は、支配し、命令し、見つけ、君臨し、破壊することしか考えません。そのように、ミサ聖祭で神様に自分をお捧げするときには、私は神様が私にくださったものすべてをお返ししているのです。
私は、神様がくださった贈り物と愛徳を、感謝のしるしとしてお返ししているのです。
天と私たちのあいだで続けられている愛の交換のすべてを知っただけでも、あなたは恐怖に砕かれることでしょう。そのときには、自分の物真似がどんなものかが分かるからです。
私はあなたのために涙を流すばかりです。私はこの涙を高価な真珠としてお捧げしています。
あなたは苦しみを受け、反逆に向かいました。あなたが十字架をみつめ、平和と許しの力を与えられるよう謙虚に主に祈っていたならば、自分に与えられた悲しみに対して自ら主に感謝するようになるほどの心の平和を感じていたはずです。
苦しみは恵み深い贈り物です。ですから、神は愛するぶどうの木としてあなたをお扱いになり、より多くの実を結べるよう、刈り込みをしてくださっていたのです。ぶどうの蔓は自分では刈り込みはできませんから。
しかし、あなたが取った仕事は、どんな果実を実らせるのでしょう…それは、苦く、寂しい、絶望的な果実なのですよ。
私があなたに対して孤軍奮闘しているとお思いですか。とんでもないことです。私の祈りは天国に入った聖徒の大群衆によって聞かれ、伝わっているのです。
どうか笑わないでください。霊魂の不滅は、あなたがどれほど力を尽くしても滅ぼせない、あなたの中の唯一のものです。
霊魂の不滅。この言葉をよく心に刻んでください。それは、死が存在しないことを正しく示す言葉なのです。どの家も、この言葉を金の文字で居間の壁に刻み付けるべきです。死を恐れ、その思いを忌み嫌うのではなく、死は存在しないことを知らなくてはなりません。
これほど大切なことがあるでしょうか。
愛する人、涙がけっして乾くことのない場所にあなたが永遠にいることを知るくらいなら、あなたはこの地上で私を愛してくださらないことをむしろ望みます。
私はあなたを愛しているからです。
第十六章 第二ヴァチカン会議の秘密。
私は、偽使徒の情熱を倍にして、「黒髪」に返事を出した。子供じみた戦いも終わりに近づいた頃に、沢山の攻撃計画を立案し、これらが三〇年で完璧に実現されると考えた。一九七四年は、無神普遍教会の記念すべき創設年になるだろう。
超自然に対する憎しみが、私に天才を与えてくれたばかりか、二重の仕事に信じ難い力を与えてくれた。自分は神学を研究していたので、好成績を修めることが重要だった。実際、自分が何でも一番だったことに狂喜した。そして、真の信者を守らぬ神など最初から存在していなかったのだと確信するようになった。
「超自然」という語が、人に子供騙しの作り話を信じ込ませ、幕の内側を見させないようにしているのだ。私は、この悪い劇場を取り壊すことを決意し、不自然で、説明できないものをみな新約聖書から削る作業を仲間に託した。
この仕事は非常に有益だ。注釈者の言葉を真に受ければ、自分が神であると、キリスト自らが信じていたことになる。だが、彼の実際の言葉と、弟子たちが追加したそれとを区別するのは不可能だ。したがって、常識に当てはまらぬことは、みな削除しなければならない。
前にも書いたが、一番大事なことは、子供の問題に取り組むことだ。子供の柔軟な心に強い感化を及ぼすことが不可欠だ。私は、揺るぎ無い確信をもって、自由についての指令を出した。自分で歩き喋れるようになるや否や、どの子供にも自由を与えなければならないという指令だ。
大人が子供を日曜日毎にミサに無理やり連れて行くというのは、全く恥ずべきことである。同意を得ることなく、子供をカテキズム勉強会に入れるのも、同じほど恥ずべきことだ。外で遊びたい時にも聖体拝領を受けなければならないと子供が思い込むのも、そこに原因がある。
生まれた途端に受ける幼児洗礼についてはいうまでもない。これこそスキャンダルの元凶であろう。私は、子供に向けた力強い情報キャンペーンを張るよう指令した。
従順な偽善的クリスチャンになれと言われたときに、世界のどの子供たちも否定の言葉を語れなければならない。
数え切れぬ子供たちが、喜びに満ちて、「私はクリスチャンではない。神を信じない。古く役立たずな親のように愚かではない」と堂々言える日がきたら、どんなに素晴らしいことか。
一方で、私は、どうしても「黒髪」に会いたくて仕方がなかったが、予想もしないときに、念願が適うことになった。
ある提案を受けてほしいとの親切な招待が、彼女の方から来たのだ。
太陽の眩しいある土曜日に、「黒髪」が待つアトリエに走った。「黒髪が待っている」、この気持ちが分かる者がいようか。
「黒髪」は、完全に私のものになっていた。誰もそれを見られないよう彼女の髪を切ってやりたいと思ったほどだ。髪を切ってやりたい! 何たる犯罪的な思いを自分は懐いているのだろう。
ひとつ要求があると私に告げたときにも、彼女はまったく優しく、愛情に溢れていた。私は身震いを起こしたほどだ。
だが、彼女が求めたのは、きれいと言われる私の両手を描くことだけだった。可愛い考えだが、女というのはまったく理解し難い生物だ。
私はその日の午後中、我慢しながらポーズをとっていた。天使なら --- そんなものがいたとすれば --- さぞ私を羨んだことだろう。私のこの手をだ。
スケッチは床の上で次々手早く画かれた。私は陶酔の境地に浸っていた。それは完全な幸せと呼ぶべきものだ、そう私は思った…少なくとも、今までの人生であれほどの幸せを感じた瞬間はない。
誰も信じてはくれないだろうが、この間の私たちの結合は、つまらぬ体の結合にこれほどの幸せがつくりだせるだろうかと思うほど、それほどに強く、完全なものだった。時間が止まったような気分だった。
スケッチが終わると、私の可愛い敵は、この手はきっと素晴らしいことをするでしょうといった。私は真実戸惑った。自分の両手は、本当は、死と殺人の臭いを放っているからだ。
その日、彼女は、私が髪の毛を弄ぶことを許してくれた。私は色々な髪結いを試した。髪を解き、丸め、それからもう二度と見られないかのように、つらい犠牲のためにそれを用意しているかのように、丁寧にブラシをかけた。
この日に、なぜこれほどまで奇妙な感覚を覚えたのだろう。本当に不思議な日だった。どこからこんな奇妙な感覚が来たのか、今でも分からない。
私たちは悲劇的な辛さのなかで別れをした。「次の土曜日に会いましょう」、「次の土曜日に」、ふたりが同時にそう言った。まるで、この希望が預言書に書かれているかのように、あたかも別れの唯一の理由がそこにあるかのように、すべての壁を早く乗り越えたいと思っているかのように… 壁を乗り越えるのだ!!!
ところが、私は、土曜日に黙想会を開始することをすっかり忘れ去っていた。二、三日中に修道会入りすることになっていた。
それで、私は短い手紙を「黒髪」に書き、上手な嘘をつくりださなければならなかった。ローマにもうすぐ行く、一緒についてきて欲しいと率直に書き加えたかった。だが、この六年間神学院で耐え忍んだより、もっと悪い隷属に自分が入ろうとしている、私の中の何もかもがそう訴えているというのに、率直な言い方などできるわけがない。
私は、ローマで永遠の都の歯車にとらえられるのだ。自分はとらえられても、機械を壊す、修復不可能なほどにそれを壊すに違いない砂利になるのだ、と言い聞かせて自分を慰めた。
こうして、私は、最後の儀式、私を永遠に司祭に定める儀式に準備するために、黙想週間を開始した。私は永遠など信じてはいなかったので、この考えに悩まされはしなかった。それは歯医者で治療を受けるのと同じで、通らなければならない悪い瞬間なのだ。
大事なのは信仰をもつということだ。そして、私の信仰は彼らのそれにふさわしかった。これはどういう意味か。私の信仰は彼らのそれに優っていたということだ。それは恐怖心にみちた子供じみた信仰ではない。ジャーナリストたちがいうように、大いなる日がついに到来した。
聖堂に入ったときに、私は完全に謙遜な人間になり切っていた。隠れたプライドとより高い目標に支えられていれば、徳を装うなど簡単なことだ。
私は頭を垂れて、厳粛さのなかで静かに進んだ。
そのときに、押し殺したような叫びと悲鳴、動揺が、左の方から聞こえてきた。普通はここで目を上げてはならない。だが、私は良心(彼らが私のためにつくりあげたそれのこと)に背いて目を上げた。
気絶した娘を抱え上げる若者たちの姿がそこにあった。彼女のベールは床に落ち、長い黒髪は、ばらばらに乱れて聖堂の床を引きずった。この光景から視線をそらして周囲を見回すと、かつての私書箱役の教授が、私を睨みつけているのに気がついた。
いったいここで何をしているのだろう。この男が「黒髪」を聖堂に入れたのだろうか。視線を交した瞬間に、この男に狂気じみた勝利の表情を見て取った。
私は真相を突き止め、誰がこんなふざけたことをしたにせよ、たっぷり落とし前をつけると自分に約束した。このようなわけで、その日は悲しみの中で過ごした。
誰からどんな疑いをもたれようとも、私は気にしなかった。これ以上敬虔を装うことも、自分の将来の聖性を預言する、甘い声を聞きたいとも思わなかった。
幸いなことに、あの学生が私に挨拶しにきた。私の唯一の友だ。起こったことを手短かに話して、彼に調査を依頼した。真相を突き止め、張本人を殺してやりたかった、声を大にして叫びたかった。自分を守り、彼女を守るため、特に彼女を守るために。だが、もはや後の祭だった、遅すぎたのだ。
自分からすべてを彼女に話す勇気さえあったら、彼女は黙って苦しみを甘受し、私を密かに愛することを受け入れていたかもしれない。
翌日、私はアメリカへの渡航に備えていた。この国で、もっとも重要なプロテスタントの教派を訪れ、彼らを管理する方法を探り出すのだ。その時までは、プロテスタント世界に深く根を下ろしている大事な信仰の要素を、無視せざるを得なかった。だが、ローマでの研究を続行する前に、この問題の側面を熟知しておくことが、どうしても必要なのだ。
出発直前になって、学生がニュースをもって駆け寄ってきた。この知らせに苦しみのどん底に突き落とされた。「黒髪」がカルメル修道女会に入ったのだ。しかも、私のためにである。彼女は、もはや私のために、どんな小さな恋人の歓びをももつことはない。むしろ死んでくれたらいいと思った。
いずれにせよ、私は全世界の修道会、特に観想修道会を門戸開放させるのだと自分に誓った。私は鉄格子に反対するかなり力強いキャンペーンを張り、頭の弱い修道女たちを通して、教皇にも嘆願書を送り付けた。
鉄格子はもともと、親に無理強いされて修道会に叩き込まれた娘たちが、逃亡しないようにとの配慮から設置されたものだ。それを修道女たちに思い出させてやった。逃亡と、それから手紙の交換を防ぐためのものだったので、格子は二重にされた上、木戸によってさらに強化されたのだ。
私は、この聖なる牢獄の記憶をすべて取っ払うために、できる限りのことをした。とりわけ、これら聖別された処女たちの名誉の気持ちを刺激した。誰にでも開かれている家の中で自由に修道生活をするという願いを刺激するためだ。
後に、還俗するよう彼女たちを説き伏せることによって、さらに大きな前進を見た。世界は彼女たちを必要としているのだ。それから、特別な服装によって自分たちの正体をさらさなければ、もっと善いことができるのだと彼女たちを説き伏せた。
この問題については、羨ましいほど豊富な語彙を使って本を全巻書くだけの頭をもつ著者たちがいた。私も、修道女たちの頭を剃る習慣に猛反対して戦った。私は彼女たちが病院で手術を受けるときに恥をかくと訴えた。こんな昔の慣習のために、若い召し出しが愚かしくも失われているのだと主張した。
また、夏に大きな重荷になり、冬に寒さを効果的に凌げない古い修道服をも攻撃した。私はすべての規律と教会法を、男によって慎重に改正するのが望ましいと提起した。男が寛容を示せば、女は大胆になりだす傾向がある。
だが、自分の仕事の大きな拡大を見つめたときに、私は全体から見ればごく小さなものではあったが、静かなる抵抗に躓いた…穏健で、かなり秘密めいたカルメル修道会から、返事が一通も来なかったのだ。
一方には世俗があり、他方にこの牢獄がある。私は世俗に対しては指令者だったが、後者においては囚人だった。私の仕事はこんなことに影響を受けたりはしなかった。
とはいえ、「黒髪」の犠牲の無意味さを思ったときには怒りが爆発しそうになった。何という空しい犠牲だろう!
私の仕事が着々と進行していた頃に、公会議が開催されるとの噂が、私の情熱をいっそう煽った。私は、教皇の指示によって幾つか文書が用意されつつあることを知った。
私は明確な役割を果たせることを上に確信させた。それで最高のポストをあてがわれた。すべてが私にかかっていた。財源は文字通り無尽蔵にあった。
私は、あとで優れた仕事を果たすことになる、左翼の評論と多くのジャーナリストに金をばら播いた。希望はすべて、会議文書の変更にかかっていた。私は進歩的で大胆な神学者たちを通してこれをすでに提起していた。
私は野心が彼らを導くと考えた。野心は最強の駆動力だ。私は、公式文書、つまり教皇が指示した文書のコピーをすべて入手した。
ところが、これらは私にとって大変動、まったくの災いだったのだ。自分の言葉に慎重にならざるを得なくなった。公会議終了からだいぶ経った今でさえ寒気を感じる。
これらの文書が編纂されて広く普及されれば、自分のやってきたことはみな、あるいはそのほとんどが、無と化してしまうのだ。
最後に、私の情熱と、特に無尽蔵に使える金の力によって、モダニストの文書 --- 我ながら何たる臆病なモダニストかと思う --- を会議に持ち込んだ。公文書と、図々しくも差し替えるためである。この手先の早業が、会議全体を、いまだ立ち直れぬほどの仰天した空気で満たした。今後も立ち直れまい。図々しさが常に勝つ証拠だ。
だが、私はまったく満足できなかった。この会議は私が希望通りのものではなかったのだ。われわれは第三ヴァチカン会議を待たなければならない。そこでこそ、完全勝利を見込めるだろう。
第二ヴァチカンについていえば、そこで何が起きたかいまだ理解できずにいる。われわれの刷新の試みが効力を発揮するその瞬間に、何か目に見えぬ悪魔が入り込み、すべてを邪魔したかのようだった。本当に不可解で腹立たしい出来事だった。
だが、幸いにも、このとき以来巧妙な方法を心得て、あらゆる種類の痛快な刷新をわれわれは立ち上げてきた。「会議の精神」の名の下に行うということだ。
この「会議の精神」という表現が、以来、私の切り札になった。自分にとっては、これはトランプ遊びと変わりはしない。だが、私が釘と金槌をもって臨めるのは、第三ヴァチカン会議しかない。神を十字架に釘づけにするためではない。神を棺桶に打ち込むためだ。
終わりに
ブリーフケースには、第三ヴァチカン公会議に関する文書は含まれていなかった。だが、そのような文書が存在し、比較研究され、いっそう改悪されている可能性は十分ある。
小さな手帳には、ロシア語のメモが幾つかあった。それを注意深く翻訳してみて、この怪我人の今後の計画が少しだけ明るみにでた。
ミシェルのような人にとっては、第二ヴァチカン公会議は、歴史がほとんど気にも留めない試験的打ち上げに過ぎなかったのである。しかし、第三ヴァチカン公会議は、キリスト教とマルクス主義の結合を確定する。教理の多様性と、妥協を許さぬ社会主義的ドグマという性格が、もっとも注目すべき変化になる。キリスト教であれどの宗教であれ、一つの巨大組織を形成する宗教はみな、共通の指標、つまり「魔術」に低められ、彼らのいう「純粋なるもの」、つまりマルクス主義のコントロールする現実的力がその潜在力になるという。
ミシェルの文書の返還を誰も求めなかったのには驚かされた。しかし、彼は偽名で車を買い、この旅を誰にも言わずにいたのかもしれない。
どこに「黒髪」がいるのかは、私にも分からない。多分、彼女は今も、由緒ある信仰を大切にするカルメル修道会にいるのだろう。
この本も、いつかカルメル会にも広く浸透するようになり、黒髪は私がミシェルのために祈っていることを知ると思う。
(終)
イルミナティの極秘指令。
解 説
これは、イルミナティのグランドマスターから、カトリック内部の各秘密工作員(偽司祭)に配られた極秘指令書である。
指令書は、一九六二年三月に、第二バチカン会議での決戦に備えさせるため、彼らの最高権力者から、カトリック教会内部に潜伏する共産主義メイソンの各同志宛てに出されたものだが、その内容は、本書に書かれている偽司祭の計画に驚くほど一致している。
指令書が配られたのは、ヨハネス二三世が在任中のことだったが、教皇はバチカン会議の開催を見ることなく、翌年一九六三年六月に死去した。
教会の敵は次期教皇を待ち、新しく即位したパウロ六世がこの計画案を受け入れるだろう(これは虚偽である)とのコメントを添えて、再度この指令書を出した。
AA1025は、教会のドグマを変更できなかった意味で、第二バチカン会議に敗北したことを認めているが、会議文書の語法に影響を及ぼし、致命的な曖昧さをそこに含み込むことには成功した。
それによって、軟弱な司教たちが、「会議の精神に則って」の口実の下、これらの文書を現代的に解釈し直す好機を与える結果になった。
この意味では、彼らは戦いの火蓋を切ることに成功したと言えるであろう。この指令書の内容と、今の教会で現実に起きていることを比較すれば、多くの一致に驚かされるはずである。
彼らが最終目標に据えているのは、彼らの代表として働く傀儡教皇を擁立することで、この偽教皇をもって、統一世界宗教を樹立せんとするものである。そのための準備段階についても指令が出されているが、まだ実現には至っていない。
指令書の一から二十までは、故志村辰也神父によって別途に邦訳され、「聖母のブルーアーミー」会員に配布されたことがある。その最後に添付されたコメントより引用する。
これは、“FIDELIS ET VERUS”(May,1987)に掲載された、イルミナティの組織に関する記事の抄訳で、組織の指導者であるグランド・マスターから、公教会で聖職者になっている各会員に宛てた指導書である。もちろん、個人の救霊を損ない、カトリック教会を内部的に破壊するのが目的である。
イルミナティ(ILLUMINATI)は、アダム・ヴァイスハウプト(Adam Weishaupt・1748-1830)によって設立された悪魔崇拝の団体で、政治、経済、宗教の世界統一を目指している。フリーメーソンと同一組織と考えて差支えない。
各項目は、おおよそ、実行事項と、それを行う時の偽りの宣伝、その効果の三つから成っている。彼らの手法の特徴は、破壊的意図や挑戦的態度を隠して、巧みな偽りのうたい文句によって、一見表面的でしかないような宗教行動の変化を加えることで、知らないあいだに深い心理的な影響を与え、信仰生活を堕落させることにある。
何でもないかのように受け入れられてしまうその行動変容は、ことごとく神への軽視を言外に意味しているものなので、習慣になっていると気づかないうちに、聖なるものの感覚や超自然の存在への思考を損ない、結果として、内的生活の破壊をもたらすように計算されている。
さらに、彼らの隠れた意図などまったく知らずにいる多くの善意の人々は、偽りのうたい文句を鵜呑みにして、これを自らの信条として取り込み広めていくという相乗効果も生じている。この指令は現在大成功を収めている。
教会内の秘密結社についての参考資料
『カトリック教会文書資料集』(エンデルレ書店)。
今の教皇聖下になってからも何度も出されている、バチカンからのフリーメーソンに関する通達(1981、1984、1985、etc.)
『秘密結社フリーメーソンの陰謀』(デルコル神父著、大分聖ヨゼフ修道院・世の光社、1990年改訂版)
『第2バチカンの光と陰』(澤田昭夫著、世の光社、1990年)
『悪魔に愛された女』(シスター・マリ・エメリー著、J・ガッツェ神父原訳。成甲書房、2000年4月)
『へロデの呪い・暴かれたユダヤ古写本』(A・カウリー著、J・ガッツェ神父復刻、中央アート出版社、2002年2月)
………………………………………………………………………………………………………………
イルミナティの極秘指令。
1962年3月、ローマのフリーメイソンの連合(coalition)は、カトリック教会を破壊することを目的とする34条からなるガイドラインを発行した。その文書の冒頭にはこうある。
発効 1962年3月
(バチカン II のアジョルナメント)
全ての魔術師たち(warlocks)はこれらの重要指令に関する進捗状況について報告しなければならない!
参照(注2)
※ カトリック信者は早合点してはならない、「これは教会外のフリーメイソンたちに宛てたものだろう」などと。いや、違うだろう、これは「教会内」のそれらに宛てたものだろう。
それは、バチカン II〔1962年10月11日〜1965年12月8日〕の直前、イタリアの悪名高いフリーメイソンのP2ロッジから発行された。
参照(注3)
指令書本文
1.カトリック教会の守護者ミカエルを、ミサ中であるか否かを問わず、すべての祈祷から、完全に削除せよ。ミカエルのすべての像を取り除け。それは、人々をキリストから引き離すからであると言え。
2・金曜日に肉食をしないことや、断食のごとき四旬節中の償いの慣習を止めさせよ。いかなる自己否定の行為も止めさせよ。それを、喜び、幸福、隣人愛の行いに置き換えよ。キリストは、すでにわれわれのために天国を勝ち得ているので、人間の努力は不要であると言え。
3・プロテスタントの牧師を結集し、ミサの改訂と非聖化を行え。キリストの現存を疑わせるよう人々を動かし、聖体拝領は単なる食事と象徴でしかないという、プロテスタントの信条にいっそう近づけよ。
4・すべてのラテン語典礼、信心、歌を止めさせよ。それは、神秘と崇敬の気持ちに導くから。それは意味不明な呪文のごときものであると言え。こうすれば、人々は、司祭が彼らよりも優れた知性を持っているとは思わなくなる。
5・教会でベールをかぶらぬよう、女たちを先導しろ。髪は性的なものであるから。民主主義の理念に則り、女性侍者、女性司祭になるよう女たちを動かせ。女性解放運動に着手せよ。
6・聖体拝領のときに、跪きを止めさせよ。聖体拝領のときに、子供たちが両手を合わせるのを止めさせるよう、修道女を仕向けよ。神はありのままの彼らを愛するのだと言え。彼らが完全に気を緩めるよう仕向けよ。
7・聖なるオルガン音楽をやめさせよ。ギター、口琴、太鼓、足踏みを持ち込め。イエズスとの私的祈りと対話が、これによって妨げられるであろう。イエズスに子供たちを召し出す機会を与えてはならない。
8・神の母や、聖ヨゼフに対する聖歌を廃止し、プロテスタントの歌に換えよ。それは偶像崇拝であると言え。これによって、プロテスタントこそ真の宗教で、カトリックと同等だと、カトリック教会自身が認めているという誤解が生まれる。
9・イエズスに向けられているものも含め、すべての聖歌を取り替えよ。聖歌は、幼いころの自己否定と神への償いの宗教生活から受けた、甘美な平和を思い起こさせる。ともかく、以前の典礼は誤っていたことを確信させるために、新しい歌を持ち込め。各ミサで、最低一つは、イエズスに触れず、人間愛を謳歌する歌を使うようにせよ。若者は隣人愛に熱心になるだろう。
10・祭壇から、聖人の聖遺物をことごとく排除せよ。次に、祭壇そのものも排除せよ。そこで黒ミサを密かに行うときに、生きた生け贄を捧げるのに使えるよう、異端的で祝別されていない机にすり替えよ。教会でのミサは、聖人の聖遺物を収めた祭壇の上でのみ捧げるという教会法を廃止させよ。
11・聖櫃の聖体の前でミサをする習慣を一掃せよ。どのような聖櫃もミサに使われることを許してはならない。祭壇を夕食机のようにせよ。それが聖なるものではなく、会議机やトランプ台のように、多目的に使えるよう、持ち運び自由なものにせよ。それから、聖体拝領後に、司祭が食休みをしていることを意味するよう、この机に椅子を最低一脚は備えるようにし、司祭をそこに座らせよ。ミサのとき、けっして司祭に跪いたり、片膝をついたりさせてはならない。人間は跪いて食事をしないのだから。
12・徐々に、聖人を教会の典礼暦から削除しろ。司祭が、聖福音書に記録されていない聖人について話をする権利を禁じること。これを好ましく思わぬプロテスタントが、教会にいるかもしれないからと言え。
13・聖福音書を紹介するときに、「聖」の語を取り除け。聖ヨハネによる福音書というところを、ただ単に、ヨハネによる福音と言え。これは、それらをもはや崇敬する必要がないことを暗に意味しているのだ。プロテスタントの聖書と同じになるまで、聖書を改訳し続けよ。
14・すべての個人的祈祷書を取り除き、破壊せよ。これは、聖心、聖母、聖ヨゼフの連祷や、聖体拝領のための準備を止めさせる手立てになり、同じく、聖体拝領後の感謝の祈りも、形ばかりのものに変える効果がある。
15・すべての像と天使の絵を取り除け。われわれの敵の像を周囲に置いておく必要が、どこにあるか。それは神話であり、お伽話なのだと言え。
16・下級聖品の祓魔師を排除せよ。これには全力を尽くせ。真の悪魔などは存在しないという考えを蔓延させろ。それは悪を暗示する聖書独特の語法であって、悪者がいなければ善い話は成立しなくなるからだと言っておけ。これで、彼らは地獄も信じなくなり、そこに行くこともまったく恐れなくなる。地獄は、神から離れることに過ぎないと言っておけ。それがどうして、そんなに悪いのかと言え。
17・イエズスはただの人間に過ぎず、彼には兄弟姉妹がいて、支配者階級を憎悪していたと教示しろ。彼は、売春婦の弟子、特にマグダラナのマリアを愛したのだと言い広めよ。彼は教会や会堂にとって無用の人物だったと言い広めよ。
18・修道女たちの虚栄心、女としての魅力、その美貌を褒め称えることによって、彼女たちを還俗させられることを、けっして忘れてはならない。修道服を捨てさせよ。それと一緒に、ロザリオも投げ捨てることだろう。修道院内部に、意見の衝突があることを世間に訴えろ。そうすれば召し出しも底をつく。
19・すべてのカテキズム(カトリック要理)を焼き払え。宗教教育者には、神の愛の代わりに、神の民の愛を教示するよう宣伝しろ。人前をはばからず愛するのは大人のしるしであると言え。セックスを宗教部門の一般用語とせよ。セックスを新宗教とせよ。
20・修道女の召命を減らすことによって、すべてのカトリック学校を閉鎖に追い込め。修道女は、低賃金の社会福祉労働者で、教会は裕福ではないが、安楽な生活ができる程度の金と財産があると言え。
21・大学での最高権を滅ぼすことによって、教皇を滅ぼせ。政府は喜んで資金をはずんでくれると言うことによって、大学を教皇から引き離せ。「無限罪の御宿りスクール」を「コンプトン・ハイスクール」に変えるなど、ミッション系の学校の名称を世俗的名称に変更せよ。それを、エキュメニカルと呼べ。
22・その職務に年齢制限をおくことによって、教皇の権威を攻撃せよ。年齢制限を少しづ下げさせろ。教皇の過労を防ぐためのものであると言え。
23・司教会議を設置することによって、教皇を弱体化させるよう激励せよ。イギリス国王が上院と下院に支配され彼らから指令を受けているように、教皇も表看板に過ぎなくなる。それから、司祭レベルの会議を設置して、司教の権威を弱める。司祭は、最終的に望む名声を得られると言え。それから、司祭を支配する平信徒グループを結成させて、司祭の権威を弱めよ。枢機卿さえ教会を去るほどに、憎悪が高まってくるだろう。教会は、今や民主主義になったのだといえ。新しい教会組織を称えよ。
24・平信徒から寄せられる尊敬を失わしめることによって、司祭の召命を減らせ。一人の司祭の政治スキャンダルによって、千の召し出しが失われることだろう。好きな女のためにすべてを捨てる、落ちこぼれ司祭をほめたたえよ。彼らを英雄とたたえよ。還俗した司祭を褒めちぎり、彼らは司祭職ができなくなるよう圧力をかけられた殉教者なのだと言え。
25・司祭不足を理由に、教会を閉鎖に追い込め。それは経費節約のための、正しい経済行為なのだといえ。神はどこででも祈りの声を聞くのだから、教会は浪費にすぎないと言い広めよ。
26・平信徒の委員会と信仰の弱い司祭たちを使って、聖母マリアの新しい出現や、報じられる奇跡、特に大天使聖ミカエルの出現があれば、即刻これを非難し、否認せよ。第二バチカン会議以後、絶対にどんなものも認めぬようにせよ。そのようなメッセージに従い、あるいは繰り返し、あるいはそれについて考えることさえ不従順に当たると言え。
27・新教皇が選出される度に教皇庁を解散する法案を通せ。これによって、教皇庁が、多くの革新派とモダニストの溜り場となることは必至である。
28・偽教皇を選出せよ。彼はプロテスタントと、またユダヤ人さえも、カトリック教会に引き戻せるのだと言え。司教に投票権を与えることによって、偽教皇を選出できることを知れ。あまりに多くの教皇が候補に立つため、妥協する教皇として、偽教皇が舞台に立つ。
29・小学校二学年、三学年の子供たちが初聖体を受ける前に告解をする慣習を取り除け。こうすれば、四学年、五学年、それ以上になったときに、彼らは告解をしなくなる。こうすれば、告解そのものが消滅するだろう。
30・女性と平信徒に聖体を配らせろ。平信徒の時代なのだと言え。舌によってではなく、プロテスタントと同様、手で聖体を受けさせろ。キリストもそのようにしたのだと言え。聖体の一部を黒ミサ(サタンミサ)のためにとっておけ。次には、一人一人聖体を受ける代わりに、ボールに一杯入っているホスチアを各自が取って、教会を出られるようにせよ。彼らは、こうして神の賜物を日常生活に持ち込むことができるのだと言え。聖体自動販売機を設置し、これを聖櫃と呼べ。
31・偽教皇が支配するようになってから司教会議(シノドス)や司祭協議会、平信徒顧問会を解散せよ。宗教者が許可なく政治問題に加わることを禁止せよ。神は謙遜を愛し、栄光を求める者を憎むからだと言え。
32・後任者を選ぶ絶対権を教皇に与えよ。破門という苦痛を与えて、神を愛するすべての者に獣の刻印を押してやれ。
33・教皇不可謬説以外、過去の教理はみな虚偽だったと宣伝せよ。イエズス・キリストは革命家の一人であったのであり、教理を作りはしなかったのだと言え。真のキリストはもうすぐ来るのだと言え。
34・教皇に従う者すべてに、世界統一宗教拡大のための聖戦を戦うよう指令せよ。サタンは、失われた黄金がどこにあるかを知っている。容赦なく世界を征服しろ。これによって、彼らが憧れてやまなかったもの ─ 平和の黄金時代 ─ を人類に与えられるのだ。
転写終了
文中の注@AB
文中のリンクが貼れないのでコメント欄にあります⤵
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