<ガヴァナンス=統治?>
統治というと、政権や官僚、司法が一般住民を上から支配、管理統制するというイメージが強いけれど、英仏伊独羅(希臘κυβερνάω)のガヴァナンスは政府や役所の業務仕様、企業経営の遂行様式、あるいはまた誘導形態というふうに理解されることが多いですね。
上のものが下のものを支配、統治するとか、君子が小人を指導、領導するという、民主主義以前の統治の意味は、現代のガヴァナンスという言葉に、あまりそぐわないというふうに考えられているのでしょう。
日本語には、民主主義時代の用語に、民主主義以前の要素を色濃くしみ込ませたものだとか、帝国主義たけなわの時代の重苦しい歪みに圧迫されたものが多いみたいです。
西洋の文章を日本語に訳してみると、本来非常に民主主義的でリベラルだったはずの原文が、すっかり上意下達風味の権威主義的なものになってしまったり、うまくしても無味乾燥でつまらないものになってしまっている、ということが多いことに気がつくはずです。
<二重国籍とEUの重層構造>
ちょっと話がガヴァナンスという語にのめりこんでいってしまったけれど、本当に書きたかったのはヨーロッパの多層ガヴァナンスと二重国籍のことです。
ヨーロッパの重層構造と二重国籍の効用の共通点というのは、一言で言うと次のようになります。 われわれ市民あるいは国民の一人ひとりが、国家の悪癖や横暴から逃れることが容易になるのは、ガヴァナンスがEUのように、重層的である場合か、あるいは個人個人が二重国籍、多重国籍を持っている場合ということだろう。
ナチス興隆の時代にドイツとアメリカの二重国籍を持っていたユダヤ人やシンチ族、ロマ族、精神障害者はより適切な行動ができただろうし、南米のどこかの居住権を持っていた日本人も、より自由な思考や行動が可能だったのではないかと思うのです。
ヨーロッパの多層ガヴァナンスというのを概観したければ、ウィキペディア英語版でhttps://en.wikipedia.org/wiki/Multi-level_governanceを見ればよいのだけれど、もっと下世話で簡潔に説明すると、こうなります。
EU市民権を持った人、ようするにヨーロッパの多くの国の普通の人はいつでもEU域内のどこへでも引越しできて、ご当地の役所に住民登録したら、明日からタバコ屋でも喫茶店でも、すきなことがはじめられます。イタリアでワイン関係の商売をはじめようと思ったら、マフィアと話しつけなきゃいけないのは、イタリア人だろうがドイツ人だろうが同じことで、そういうとこに国籍差別はないです。
大学の国境超えの転籍も、国内の小中高の転校とほとんど同じだから、留学とか、古風な言い方に意味がないです。わたしがはじめて今はやりの「壁ドン」見たのは、このEUの流動自由な学生生活、エラスムス計画を扱ったフランス・スペイン映画「スパニッシュ・アパートメント」(2002年)だったですね。学費は安いし、奨学金も出るから楽です。ベルギーのレスビアン女子大生がマッチョなスペインカトリック世界に行っても大じょぶという、楽な映画です。まあ、バルセロナだからリベラルってのもあるけど。
<新自由主義と二重国籍>
これをネオリベ、競争万能主義風の言い方で言い換えると、国家権力でさえ、その消費者である国民、市民の自由選択権の前で、他国とその行政サービスを競わざるをえなくなる状態がよく、そのことによってのみ、世界の行政サービスの質が向上する、ということになるはずです。
私はネオリベ主義者じゃないから、こういう思考経路で二重国籍の利点を特に主張しようとは思わないけれど、自民党や官庁の親米保守派の方々は上のように考えて、米国のように二重国籍を容認するのが、論理的には整合性のある生き方ではなかろうかと思います。
よく知らないけれど、私は池田信夫という人は東大経済出身の合理主義右派なのじゃないかと思っていたのだけれど、ぜんぜん違ってたみたいですね。
竹中平蔵氏の場合、別に二重国籍を持たずとも、毎年年初から半年、米国へ居住地を移すことによって、かなりの節税効果が出るらしいですね。そういう面倒なことをやる手間隙をおぎなってあまりある。日米二重国籍があったほうが、そういうことはやりやすいから、より多くの人々が納税先を自由選択できるようになります。
そうすると、日米両国が、税金のよりよい使い方をめぐって、競争しなきゃいけなくなりますね。少なくとも日米で主流の経済学や経営学ではそうなってるはずです。
というわけで、二重国籍は人々の暮らしを楽にする妙手です。それがいやだったら欧州連合みたいに、アジア共同体でモノと金だけじゃなく、人の移動も国内並みに楽にすることが大人のやりかたでしょう。
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