1. 彼岸楼[26] lN6K3ZhP 2016年8月16日 15:43:40 : zphFMaUgvE : CGjD1PkokeQ[1]
蒲田の富士山さん、今日は、お久しぶりです。
>以上は、あれこれ検索していて、たまたま見つけた文なので、引用元は記しません。
でき得るならば、お手数ですが引用元を記していただければと思っています。因みに件の声明(訣別宣言)については、例えば“華僑青年闘争委員会”でググルとその全文が数箇所のサイトで確認できます。
>あんたも、日本人なら、<お祭り騒ぎ>などと言わずに、もっと考えろよ。とか、おこられるかもしれないですが。
>ウオール街を埋め尽くすデモとかがあった時に、この声明を、ついつい、思い出してしまう。
>アメリカ人のプロレタリアに連帯するのが先か?
1970年7月7日の野音での状況の只中に蒲田の富士山さんが居られなかったものと想定して、敢えて言及しますと、それは“華青闘(華僑青年闘争委員会)”が新左翼(中核派)に対し“出入国管理法制定阻止運動”に関する当事者性(当事者意識&当事者能力)を問うたものだと謂えるでしょう。つまり、最も近しいアソシエイト(協同者)のコミットメントについて問題にしたのであり、当事者意識の不明確さにたいして愛想を尽かしたものと解釈ができるかも知れませんが、アメリカ人のプロレタリアとの連帯がどの程度テーマとして俎上に上って来るかどうかについては疑問を禁じ得ません。
>日本人としてと考えると、薩長にさかのぼるしか出来ない。
>それが、近代日本人の限界であり、自分自身を西洋人として考えるから、隣国人からの批判を正面から受け止める事が出来ない。
明治維新の後裔たちが当時のアジアの状況を十分踏まえた展望の無きまま、もしくは西欧との差異を具に認識せぬまま、西欧世界の雄である米国と一戦を交えて完膚なきまでに打ちのめされた日本(人)が、単なる薩長への回帰によって新たな“当事者性”の構築が可能かどうか、余り期待ができないと思うのですが、如何でしょうか。
Auf Wiedersehen.
[参考図書]:『明治維新の国際舞台』 鵜飼政志著 有志舎 2014年