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西岡昌紀 kLyJqo@5i0k 全コメント
[国際12] シャルリ・アブド襲撃事件と「ヘイト・スピーチ」規制法−−マルコポーロ廃刊事件の当事者より   西岡昌紀
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http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1949362292&owner_id=6445842


昨年(2015年)パリで起きたシャルリ・エブド襲撃事件から1年が経ちました。事件から1周年の日に、この無慈悲なテロ事件の犠牲と成った人々の御冥福をお祈り致します。


私(西岡)は、思想・信条の自由、言論・表現の自由を断固として支持します。マルコポーロ廃刊事件の当事者として、歴史観であれ宗教であれ、言論を法律で規制する事、及び暴力によって言論・表現の自由を制約しようとする者全てに私は反対します。

誰かの発言が間違って居ると言ふなら、或いは不適切だと言ふなら、言論によって反論すれば良いのです。物理的暴力も、法律による規制も、言論の戦ひで勝ち目の無い人間が選ぶ手段です。

キリスト教であれ、ユダヤ教であれ、イスラム教であれ、共産主義であれ、シオニズムであれ、オウム真理教であれ、反日真理教であれ、暴力を用いない限りは、何を信じようと、個人の自由です。しかし、自身の信じる事柄を他人に強制する権利は誰にも有りません。

そして、自分の思想・信条と異なる考えを法律で規制しようとしたり、暴力によって攻撃する事は絶対に許されません。


そうした私の言論の自由擁護の表現として、拙著の一部をここにお送り致します。
               ↓
http://blog.livedoor.jp/nishiokamasanori-rekishiokangaeru/archives/52050190.html
(クリックしてお読み下さい)


シャルリ・エブド襲撃事件における暴力も、日本で台頭しつつある「ヘイト・スピーチ規制」と言ふ名の法律による言論統制も、言論には言論をと言ふ民主主義社会の原則に対する脅威です。私は、こうした言論に対する暴力や法規制に断固として反対します。

重ねて、シャルリ・エブド襲撃事件の犠牲と成った全ての人々の御冥福をお祈り致します。


2016年1月8日(金)

西岡昌紀


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パリの警察署で刃物男を射殺、「イスラム国」関連か
http://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=52&from=diary&id=3793890


[パリ 7日 ロイター] - パリ北部の警察署で7日、刃物を持った男が「アラー・アクバル(神は偉大なり)」と叫びながら侵入を図り、警官に射殺された。男は自爆ベルトのようなものを身に着けていたが、その後偽物と判明した。

7日は、パリにある風刺週刊紙「シャルリエブド」本社が襲撃され、計17人が殺害された事件からちょうど1年となる。

検察当局などによると、男は1995年生まれのモロッコ出身で、過激派組織「イスラム国」の旗と同組織によるとされるアラビア語の犯行声明を記した紙も所持していたという。

トビラ司法相は、男とイスラム過激主義との関連はこれまでのところ分かっていないと仏テレビ局に語った。


http://www.asyura2.com/15/kokusai12/msg/286.html

[国際12] シャルリ・エブド襲撃事件から1年   西岡昌紀
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http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1949361978&owner_id=6445842#feedback



昨年(2015年)パリで起きたシャルリ・エブド襲撃事件から1年が経ちました。事件から1周年の日に、この無慈悲なテロ事件の犠牲と成った人々の御冥福をお祈り致します。



事件の犠牲者への鎮魂として、そして、私が愛するパリに平安が蘇る事を心から祈って、パリの光景を描いた短編小説をお送り致します。
                 ↓
http://blog.livedoor.jp/nishiokamasanori-alacarte/archives/51198755.html 
(クリックしてお読みください)



私がここに描いた様なパリは、もしかすると、もう無くなってしまったのかも知れません。



重ねて、犠牲と成った人々の御冥福をお祈り致します。









2016年1月7日(木)





西岡昌紀






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■「パリは隙だらけ」週刊誌襲撃から一年目に再び起きたテロ
(ニューズウィーク日本版 - 01月08日 16:31)
http://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=171&from=diary&id=3794713

 昨年1月にパリの風刺週刊誌シャルリ・エブドの本社が襲撃されて17人が殺害されてからちょうど一年目にあたる今週7日、パリ北部の警察署に刃物を持った男が「アラー・アクバル(神は偉大なり)」と叫びながら侵入し、警察に射殺された。

 フランス検察当局などによると、この男はテロ組織ISIS(自称イスラム国、別名ISIL)の旗やISISによるものという犯行声明が書かれた紙を持っていた。

 今回の犯行とISISの関連はまだわかっていないが、昨年の襲撃事件からちょうど一年目の日に事件が起きたことに、パリの市民は衝撃を受けている。

「この日、特にパリは緊張していた」と、地政学講師のミシェル・レミューは話している。「テロリストたちが、市民の身近に存在していることを思い知らせるために何らかの行動を起こすだろうと、多くの市民は予測していた」

「(我々は)隙だらけだ。まったく隙だらけだ」と、レミューは嘆いている。

 レミューの友人で、シャルリ・エブドに寄稿していた精神科医のエルザ・チャヤットは、昨年襲撃事件が発生した時、編集部にいたために殺害された。「私は57歳だが、その時は赤ん坊のように泣いた。エルザがどれだけ柔軟で、偏見の無い女性だったか。移民に対しても固定観念は持っていなかった。とてもオープンな人だった」

 パリ在住のイギリス人作家ルーシー・ワダムは、この一年でパリの街が大きく変わったと話している。「シャルリ・エブド襲撃事件の後も、パリの人々はそれまでのやり方を変えず、街頭に出てデモに参加していた。フランスの歴史の中で繰り返されてきたのと変わらない反応だった」

「しかし昨年11月の同時テロの衝撃は余りに強烈だった。パリの人々は怒りの中で、街頭デモで何かを変えられるとは信じられなくなってしまった」

 現在パリは静まり返っているが、それは「非常事態宣言が理由なのかどうかはわからない」とワダムは言う。むしろ、フランスが直面する危機に対して、街頭デモで意思表示をしようという気持ちが人々から失われたのではないか、という。「この一年でパリは、本当に劇的に変わってしまった」

 学生のガブリエル・ノーリンは、7日の事件が起きた時、付近で地下鉄に乗っていた。駅が閉鎖されて、乗客は地下鉄から降ろされた。乗客は怖がってはいなかったが、むしろ迷惑そうだったという。

「この3日間、ニュースで繰り返し(これまでの)テロのことをやっていて......だから今回も最初にテロのことが頭に浮かんだ。本当に意識の中に叩きこまれている」


ジョシュ・ロウ


http://www.asyura2.com/15/kokusai12/msg/288.html

[社会問題9] STAP細胞問題と「松本サリン事件」−−小保方晴子さんは、もう一人の河野義行さんである。   西岡昌紀
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http://blog.livedoor.jp/nishiokamasanori/archives/8334763.html
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1949904351&owner_id=6445842


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 この事件は、きわめて劇場的、魔女狩り的に進行し、ただひたすら小保方氏を叩くだけの報道ばかりが繰り返されてきた。STAP細胞のあるなしにかかわらず、そうした一方的な傾向に危うさを感じる人は少なくなかったようである。筆者もその一人である。ここであえて「STAP細胞は本当になかったのだろうか」という疑問を投げかけることは、大多数の顰蹙をかうことが予想されるけれども、このような少数意見を述べることのできる社会こそが健全な社会であると筆者は信じる。

(佐藤貴彦(著)『STAP細胞 残された謎』(パレード・2015年)11ページ)
http://www.amazon.co.jp/STAP%E7%B4%B0%E8%83%9E-%E6%AE%8B%E3%81%95%E3%82%8C%E3%81%9F%E8%AC%8E-Parade-books-%E4%BD%90%E8%97%A4%E8%B2%B4%E5%BD%A6/dp/4434212273/ref=sr_1_2?ie=UTF8&qid=1452562919&sr=8-2&keywords=%E4%BD%90%E8%97%A4%E8%B2%B4%E5%BD%A6


佐藤貴彦(さとうたかひこ)名古屋大学理学部卒 著書:『ラカンの量子力学』など
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小保方晴子さんは、「松本サリン事件」(1994年)でぬれ衣を着せられた河野義行氏と同じです。


これは、STAP細胞が有るのか無いのかとは全く別の問題です。小保方さんが、「捏造」を行なった証拠は何も有りません。それどころか、小保方さんが「捏造」を行なったと言ふ側の人々の主張は、二転三転して居ます。特に、若山照彦教授の言って居る事は、本当に、二転三転して居ます。


例えば、これをお読みください。

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 若山氏は、アメリカの細胞生物学者・ノフラー氏のインタビューに対して、次のように述べていた(Knoepfler Lab Stem Cell Blog 『Interview with Dr.Teru Wakayama on STAP stem cell』2014年2月27日)。
−−「STAP細胞がES細胞やiPS細胞の混入の結果である可能性はありますか?混入が起こり得るとしたらどのような状況ですか?」
若山「私はSTAP細胞からSTAP幹細胞を複数回樹立しました。混入がその度に起こるとは考えづらいです。さらに、私はSTAP幹細胞を129B6GFPマウスから樹立しました。その当時、我々はその系統のES細胞を持っていませんでした。私がSTAP幹細胞を樹立したとき、大方のSTAP細胞は、Oct4−GFPをよく発現していました。この状況では、STAP幹細胞の樹立は胚細胞からES細胞を樹立するより簡単なんです。さらに、包括的なmRNA発現データもSTAP細胞がES細胞ではないことを示唆しています」
 ここで若山氏は、「その当時、我々はその系統(129B6)のES細胞を持っていませんでしや」と述べている。つまり、そもそも該当するES細胞が研究室に存在していなかったのであれば、それを混入させることはできない。


(佐藤貴彦(著)『STAP細胞 残された謎』(パレード・2015年)52〜53ページ)
http://www.amazon.co.jp/STAP%E7%B4%B0%E8%83%9E-%E6%AE%8B%E3%81%95%E3%82%8C%E3%81%9F%E8%AC%8E-Parade-books-%E4%BD%90%E8%97%A4%E8%B2%B4%E5%BD%A6/dp/4434212273/ref=sr_1_2?ie=UTF8&qid=1452562919&sr=8-2&keywords=%E4%BD%90%E8%97%A4%E8%B2%B4%E5%BD%A6


佐藤貴彦(さとうたかひこ)名古屋大学理学部卒 著書:『ラカンの量子力学』など
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又、小保方さんも、こう述べて居ます。


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 ES細胞とは異なるSTAP細胞の特徴として、ES細胞はキメラマウスを作製しても胎児の組織しか形成できないが、STAP細胞からキメラマウスを作製すると胎児だけではなく胎盤の組織も形成すると発見したのは若山先生だった。若山先生は2014年2月のネイチャー誌のインタビューに応じており、STAP細胞が胎盤を形成する能力を有していることを自ら発見したと証言している。記事の中には「彼(若山先生はさらに、新たに受精した胚を除き、小保方氏によって作用られた細胞が胎盤などの組織を形成できる唯一のものであることから、細胞が別のものに置き換えられていた可能性はありえないと念を押した。『私(若山先生)が自分で実験して見つけたんだ。実験結果は絶対に真実だ』という若山先生の発言が掲載されている。
 このように、この記事の中では自分で実験して見つけたんだ、と明言されている。しかし、それから4カ月後の6月、若山先生は記者会見の中で記者さんからの「胎盤への寄与は誰が見つけたのですか」との質問に対し、「忘れた」と回答されている。


(小保方晴子(著)『あの日』(講談社・2016年)209ページ)
http://www.amazon.co.jp/%E3%81%82%E3%81%AE%E6%97%A5-%E5%B0%8F%E4%BF%9D%E6%96%B9-%E6%99%B4%E5%AD%90/dp/4062200120/ref=sr_1_1?ie=UTF8&qid=1453984325&sr=8-1&keywords=%E3%81%82%E3%81%AE%E6%97%A5

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一体、若山教授の言ふ事は、何故、こうも変はるのでしょうか?

それにも関はらず、マスコミは、若山教授の発言の一貫性の無さは不問に付し、小保方さんだけを「捏造」をしたと決めつけ、小保方さんに対する暴力的な取材、「報道」を重ねて来ました。

中でも、毎日新聞の須田桃子の取材活動は、犯罪に近い物が有った事が伺えます。


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 特に毎日新聞の須田桃子記者からの取材攻勢は殺意すら感じさせるものがあった。脅迫のようなメールが「取材」名目でやって来る。メールの質問事項の中にリーク情報や不確定な情報をあえて盛り込み、「こんな情報も持っているのですよ、返事をしなければこのまま報じますよ」と暗に取材する相手を追い詰め、無理やりにでも何らかの返答をさせるのが彼女の取材方法だった。


(小保方晴子(著)『あの日』(講談社・2016年)183ページ)
http://www.amazon.co.jp/%E3%81%82%E3%81%AE%E6%97%A5-%E5%B0%8F%E4%BF%9D%E6%96%B9-%E6%99%B4%E5%AD%90/dp/4062200120/ref=sr_1_1?ie=UTF8&qid=1453984325&sr=8-1&keywords=%E3%81%82%E3%81%AE%E6%97%A5

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又、NHKの報道には捏造の可能性が濃厚です。

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 かつてネットの掲示板、2ちゃんねる(6月18日)に次のような怪文書が載せられ話題になった。

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 小保方が引越しのどさくさに若山のところから盗んだ細胞が箱ごと発見されたことも公表しろよ。丹羽のTSもたくさん出てきただろ。

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 NHKの取材は、この2ちゃんねるの怪文書の内容を裏付ける形となった。しかし、注意してほしい。ここでは、「小保方がどさくさに盗んだ」となっている。
 若山研の引越しは2013年以降である。この時点では、すでにSTAP細胞作製の実験はほぼ終了している。若山氏と小保方氏がキメラマウスの作製に成功したのは2011年11月であるから、実験が終った後にES細胞を盗んでも意味がない。捏造に用いることは不可能なのである。
 ただ、NHKの番組では「引越しのどさくさに盗んだ」とまでは言っていない。しかし、「小保方氏が引越しのどさくさに留学生のES細胞を盗んだ」というこの話は、この後も小保方氏が告発されるネタとして用いられている。出所が同じ話であることは間違いない。
 また、この番組では、きわめて紛らわしい編集がなされている。すなわち、この番組では、(1)STAP細胞にアクロシンGFPが組み込まれていた。(2)若山研では、アクロシンGFPを組み込んだES細胞がつくられていた。(3)留学生の作ったES細胞が小保方氏の冷凍庫から見つかった。−−−という話が順番に述べられている。したがって、この番組の流れからすれば、「アクロシンGFPの入ったES細胞=留学生の作製したES細胞」であるかと想像
した視聴者は多かったであろうと思われる。ところが、後になってわかることだが、留学生の作製したES細胞は、STAP細胞の捏造に用いられたとされるアクロシンES細胞とは何の関係もなかたのである。
 STAP細胞にアクロシンGFPが組み込まれていたことを述べておいて、その後にアクロシンの組み込まれていないES細胞が小保方氏の冷蔵庫に見つかったことをことさら問題にするという番組の編集の仕方は、かなり不自然に感じられる。STAP細胞実験とは何の関係もないES細胞のことを追及したところで、なんら事件解決の役には立たないからである。

 
(佐藤貴彦(著)『STAP細胞 残された謎』(パレード・2015年)22〜23ページ)
http://www.amazon.co.jp/STAP%E7%B4%B0%E8%83%9E-%E6%AE%8B%E3%81%95%E3%82%8C%E3%81%9F%E8%AC%8E-Parade-books-%E4%BD%90%E8%97%A4%E8%B2%B4%E5%BD%A6/dp/4434212273/ref=sr_1_2?ie=UTF8&qid=1452562919&sr=8-2&keywords=%E4%BD%90%E8%97%A4%E8%B2%B4%E5%BD%A6


佐藤貴彦(さとうたかひこ)名古屋大学理学部卒 著書:『ラカンの量子力学』など
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そして、毎日新聞やNHKの異常な報道の背後には、小保方さんに異常な憎悪と悪意を抱く理研の職員の影が見てとれます。

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 私のもとにはCDBの幹部(GD)か初期の頃から論文執筆に参加していた著者しか知らないはずの内容の問い合わせがメディアから相次いだ。そのために何度も理研のコンプライアンス部門に個人情報を含む情報流出の通報をしたが、まったく効果がなかった。リーク情報に関する取材のため、三木弁護士の事務所には連日、ビルのドアが壊れるのではないかと危惧するほどの大勢の記者さんが押しかけていたそうだ。
 CDBのGDにマスコミにリークしている人がいるなんて信じたくなかったが、三木弁護士と新聞記者さんの会話の中であるGDの名前が出た際、「明らかにそのGDから情報提供を受けているようだった」の三木弁護士から聞き、強いショックを受けた。笹井先生の「辛い」の真意がわかった気がした。私と若山先生では通らなかった論文を助けようと尽力してくれただけなのに、なぜか多くの人から責められている。その状況を作ってしまった原因が自分にあることを痛感し、申し訳なさで心が痛んだ。


(小保方晴子(著)『あの日』(講談社・2016年)174ページ)
http://www.amazon.co.jp/%E3%81%82%E3%81%AE%E6%97%A5-%E5%B0%8F%E4%BF%9D%E6%96%B9-%E6%99%B4%E5%AD%90/dp/4062200120/ref=sr_1_1?ie=UTF8&qid=1453984325&sr=8-1&keywords=%E3%81%82%E3%81%AE%E6%97%A5

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 こうした理研内部からの小保方さんへの攻撃と、それに連携した毎日新聞やNHKの行動を見ると、この事件の背景には、一体何が在ったのだろう?と思はずには居られません。
 


仮に小保方さんが、「捏造」を行なったと言ふなら、その挙証責任は、そう主張する側に有ります。それにも関はらず、マスコミは、「お前が魔女でないなら魔女でない証拠を見せろ」とでも言ふ様な挙証責任のすり替えを行なひ、小保方さんが「捏造」を行なったと言ふ結論が先ありきの報道を重ねて来ました。

「松本サリン事件」(1994年)の時と、全く同じではありませんか。

マスコミは、河野義行さんに濡れ衣を着せたあの「松本サリン事件」から、何を学んだのでしょうか?

2016年1月29日(金)


西岡昌紀(内科医)

http://blog.livedoor.jp/nishiokamasanori/archives/7225996.html


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■【小保方さん手記】「悪の象徴にされた」と恨み節 「殺意感じさせる」毎日記者を名指し非難 揺れる心情、被害者意識−赤裸々に
(産経新聞 - 01月28日 18:43)
http://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=3&from=diary&id=3825754

2016年01月28日 18:43 産経新聞


 「これまでの生き方全部が間違っていたのか」「自分の過ちによって起こったこと」といった自責の念。「(マスコミの)取材攻勢は殺意すら感じさせるものがあった」「張り巡らされた伏線によって仕掛けられた罠(わな)」などの恨み節。STAP細胞をめぐる騒動の主人公だった理化学研究所の元研究員、小保方晴子氏が28日、講談社から出版した「あの日」と題する手記には、一連の経緯についての謝罪から、被害者意識に満ちた反発まで、小保方氏の揺れ動く心情が赤裸々につづられていた。

 小保方氏は前書きで「世間を大きくお騒がせしたことを心よりお詫(わ)び申し上げます」と謝罪。「私はここまで責められるべき悪人なのだと思うと、(中略)呼吸をすることさえ悪いことのように思えた」「これまでの生き方全部が間違っていたのか」「ただただ涙がこぼれた」と自責の念を吐露した。一見、すべてを明らかにして懺悔(ざんげ)するかのような印象を受ける。

 ところが、続いて「人生をやり直すことができたとしても、私はやはり研究者の道を選ぶ」として一転、自らの立場を主張。「誰かを騙(だま)そうとして図表を作成したわけでは決してありません」「一片の邪心もありませんでした」と潔白を強調している。

>「調査する人達の線引き」

 本編では、STAP細胞の研究から論文の発表、その後の騒動の経緯などを詳細に説明しながら、自らの心情を語っている。それらを通じてにじみ出ているのは、潔白の主張と被害者意識、そして論文の共著者であり実験などで指導を受けていた若山照彦・山梨大教授への不信感だ。

 STAP細胞の疑惑が深まり、理研などの調査が進む過程について、「日を追うごとに、私個人に対するバッシングは過激さを増していった。この時すでに私は、私に対してなら、何をしても、何を言っても許される悪の象徴にされてしまっていると感じていた」として、“被害者”としての立場を訴えている。

 また、「すでに、この混乱に乗じて誰を罰したいのか、調査する人たちの間で明確な線引きが行われているように感じられた」「まるで私が恣意的(しいてき)に細胞をすり替えたのではないか、と世間に邪推させるための最初の伏線が敷かれた」と自説を展開。「みんなで決めた悪には、どんなひどいことを言ってもやっても許される社会の残酷さ」と主張した。

「毎日記者の取材に殺意すら」

 過熱報道を繰り広げたマスコミへの反発も大きい。小保方氏は「個人攻撃的な報道がどんどん流された」「真実が書かれた記事が果たしていくつあっただろうか」と強調。特に毎日新聞については、記者個人を名指ししたうえで、「取材攻勢は殺意すら感じさせるものがあった」「私のことを社会的に抹殺しようとしているように思えた」などと主張している。

 疑惑が発覚してからの経緯については、「私がES細胞を混入させたというストーリーに収束するように仕組まれているように感じた」と自らの潔白を主張。若山氏がそれに加担していることを強くにおわせ、「研究室の中の細胞やマウスを研究室の主宰者である若山先生が知らないはずはない」とした。


http://www.asyura2.com/12/social9/msg/633.html

[国際12] 故・コラソン・アキノ大統領は、何故、日露戦争の日本を賞賛したか    西岡昌紀
(2009年8月3日ミクシイ日記再録)
http://mixi.jp/edit_diary.pl?id=1244418449
http://blog.livedoor.jp/nishiokamasanori-rekishiokangaeru/archives/53692494.html


コラソン・アキノ元大統領について、誰も書かない事が有るので、私が書く事にします。

フィリピン革命から間も無い1986年11月、故・アキノ大統領が、日本を訪れた際の事です。

この際の宮中晩餐会で、アキノ大統領が行なったスピーチを、私は、たまたま、生放送で見て居ました。そして、その時、彼女が語った言葉に、震えるほどの驚きを覚えた事を、私は、今も良く覚えて居ます。

彼女は、昭和天皇に対する答礼のスピーチの中で、日露戦争(1904−1905)の事を語り出したのです。

今、そのスピーチの全文をインターネットで探しましたが、どうしても見つかりません。そこで、記憶で書きますが、アキノ大統領は、その生放送されたスピーチの中で、日露戦争における日本の勝利を絶賛して、この様な事を語ったのです。

「私たち(フィリピン人)は、日本の勝利を見て、そうだ、自分たちにも出来るのだ、と確信したのです。そして、独立の為に、立ち上がったのです。」

それは、本当に、日本の近代史に対する最大級の賞賛でした。日露戦争における日本の勝利が、アジアに大きな驚きと刺激を与えた事は周知の事ですが、アキノ大統領は、それが、フィリピンにおいても同じであった事を語り、独立を求める当時のフィリピン人達が、日本の勝利に歓喜し、日本を尊敬した事を、驚くほど率直な言葉で語ったのです。東南アジアの元首が、日露戦争における日本の戦いに対して、公の場で、この様な熱烈な賞賛の言葉を放つ事があろうとは、想像だにした事が無かった私は、本当に驚いた事を覚えて居ます。


(この時、アキノ大統領は、Yes,we canと言った気がします)

その翌日だったと記憶しますが、私は、新聞で、こんな事を読んだと記憶します。

この晩餐会の直前、昭和天皇とアキノ大統領は、別室で対面し、歓談して居たのだそうです。そこで、昭和天皇と同大統領は、非常に話がはずんだと言ふ事ですが、その時、昭和天皇が、不意に、「先の戦争では、大変な御迷惑をお掛けしました。」と言って、アキノ大統領に謝罪の言葉を口にした、と言ふのです。昭和天皇のその言葉に、アキノ大統領は、大変、驚いたと言ふ事です。と言ふのは、そんな事を語るのが晩餐会の目的でもなければ、外交儀礼上も、そうした事は語らない事に成って居たからだと読んだ記憶が有りますが、とにかく、アキノ大統領は、大変驚いたのだそうです。そして、「陛下、そんな事をおっしゃる必要は無いのです」と言って、昭和天皇の言葉を制止しようとしたと、私は、読んで居ます。(何処かの国々とは大違いですね)ところが、昭和天皇は、その言葉をやめずに、更に、アキノ大統領に、そうした言葉を言ひ続けたと、私は、読んだ記憶を持って居ます。(記憶なので、完全に正しいかどうか分かりません。当時の新聞を見れば確かめられると思ふので、調べられる人は調べてみて下さい。)その私的な談話の後で、晩餐会は開かれ、アキノ大統領は、日露戦争の勝利に言及して、日本の近代史を絶賛して居るのです。

ここから先は、私の想像です。

私は、アキノ大統領は、当初、全く別のスピーチをする予定だったのではないか?と、私は思ふのです。

それが、晩餐会の直前、昭和天皇の口から聞いたその言葉に、アキノ大統領は、感動したのだと思ひます。そして、その感動から、急遽、全く別のスピーチをしたのではなかったか?昭和天皇の言葉に対する真の答礼として、日露戦争の勝利を引き合いにして日本の近代史を絶賛し、「フィリピンの建国者たちは、日露戦争の日本の勝利を見て、自分たちにも出来るのだと、思ったのです」と、言ったのではなかったか?私は、今も、そう思ふのです。

しかも、アキノ大統領は、昭和天皇のその言葉を聞きながら、それを言質として利用する様な事は全くして居ません。彼女は、人間として、正直で、善良な人だったのだと、私は、思ひます。


(チェコのハヴェル(Havel)大統領と較べたく成ります)


心より御冥福をお祈りします。

平成21年(2009年)8月3日(月)


                  西岡昌紀

(転送・転載は自由です)


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http://news.mixi.jp/view_news.pl?id=916634&media_id=2

<アキノ元大統領死去>長男が「母の遺志」と国葬を拒否
(毎日新聞 - 08月01日 19:43)


 【マニラ矢野純一】アキノ元大統領の長男ノイノイ・アキノ上院議員は1日、「母の遺志」として、国葬を拒否することを明らかにした。


 同氏は「母は以前から普通の市民に戻ったとして、国葬を拒否することを決めていた」と説明。政府側からの接触も一切無いという。


 遺体は同日午後、マニラ首都圏のカトリック系の学校施設内に移され、5日に予定されている埋葬まで、弔問を受け付ける。故人の遺志で、マニラ首都圏の霊園内にある夫のベニグノ・アキノ元上院議員の墓の隣に埋葬するという。


 一方、訪米中のアロヨ大統領は「国家の宝だった」と哀悼の意を表明、フィリピン政府は1日から10日間、喪に服すると発表した。



http://www.asyura2.com/15/kokusai12/msg/461.html

[近代史02] 子供達の2・26事件    西岡昌紀
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http://blog.livedoor.jp/nishiokamasanori/archives/8374112.html
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1950616164&owner_id=6445842


1.外来にて


 私は、神経内科の医者である。神経内科とは、脳や脊髄、末梢神経などの病気を診る内科の一分野である。しばしば混同される心療内科などとは全く違った科である。又、名前が紛らわしい神経科とは精神科の事であり、これも全く違ふ科である。病気の名前を挙げれば、脳梗塞、パーキンソン病、など、或いは、頭痛を診療するのが、神経内科である。神経内科が取り扱う病気の種類は実に多い。

 そうした神経内科が扱う病気の中には、いわゆる「物忘れ」や「ぼけ症状」を商状とする病気も含まれている。たとえば、アルツハイマー病がそうである。又、日本の神経病理学者、小阪憲司氏が発見した「びまん性レビー小体病」なども、そのひとつである。高齢化が進む中、こうした「物忘れ」や「ぼけ症状」を自分から心配して、或いは家族が心配して、神経内科を受診する人々は、本当に増えて居る。
(私は、「認知症」と言う言葉は使はない。この言葉は、「痴呆」の代替語として使われるようになった言葉だが、「認知症」と言う言葉は、この病気の内容を正しく反映してゐないと思うからである。又、「痴呆」と言う言葉が差別的だとも思わないので、私は、「認知症」という言葉は使わず、「痴呆」という言葉を使ってゐる)


 だから、神経内科の医者である私の外来には、そうした「物忘れ」や「ぼけ症状」を心配してやって来るお年寄りが本当に多い。どちらかと言えば、心配した家族に連れられて来る患者さんが多いが、自分から心配して来る患者さんも居る。とにかく、今、日本中で、そういう患者さんが、沢山、神経内科の外来を訪れているのであり、私の外来も例外ではない。大変な時代だと、外来をやりながら、感じてゐる。その私には、或る、密かな「楽しみ」がある。その事についてお話ししようと思ふ。


2.東京大空襲の記憶


 私は、神奈川県で勤務医をしてゐる。神経内科医であるその私の外来にやって来るのは、当然だが、私の病院の周辺に住む患者さん達が大部分である。従って、「物忘れ」や「ぼけ症状」を心配して、私の神経内科外来にやって来るお年寄りたちも、大抵は、私の病院の近くに住むお年寄りたちである。そんな、私の病院周囲に住むお年寄り達を多く診察する内に、私は、或る事に気がついた。それは、私の病院の近くに住み、私の病院に来るお年寄りの多くが、子供時代を東京で過ごした人々であると言ふ事である。
 それは、そうした「物忘れ」を心配した子供たちに連れて来られるお年寄りたちに、昔の記憶を確かめるために、「どちらのお生まれですか?」と聞いている内に気がついた事である。そんな東京に生まれ、子供時代を東京で過ごしたお年寄りたちに、私は、しばしば、戦争中の記憶を尋ねる事があった。「空襲に遭いましたか?」「疎開はしましたか?」と言った質問をしたのである。大抵の場合、こうした昔の事は良く覚えている患者さんが多い。

 そんな中で、或るお年寄りに「東京大空襲を覚えていますか?」と尋ねた事があった。すると、そのお年寄りは「はい」と答えて、こんな話をした。戦争中、子供だったそのお婆さんは、熱海に疎開していたと言う。東京大空襲(昭和20年3月10日)の時、熱海から見る東の空が真っ赤になった事を良く覚えていると、そのお婆さんは、述べた。その言葉を聞いた時、私は、その光景を想像した。漆黒の夜の闇の中で、熱海から見た東京の空が赤々と燃えている光景を、私は思い浮かべた。その時、子供だったこのお婆さんは、何を思ったのだろうか?東京に居たであろうこのお婆さんの両親の事を思ったのではないか?いや、このお婆さんの御家族は、皆、無事だったのだろうか?そんな事が頭に浮かんだ。その時から、私は、もう空襲の話を聞くのはやめた。たかが私の診察などで、お年寄りの辛い記憶を呼び覚ます事に何の意味が有るのか。私は、空襲の話は聞かない事にしたのだった。


3.2.26事件の記憶


 その後、私は、東京大空襲の代はりに、外来にやって来るお年寄りに、子供時代の記憶を確かめる目的で、東京で起きた別の歴史的な出来事について尋ねるようになった。


 それは。2・26事件(昭和11年2月26日)である。生年月日を確かめた上で、2.26事件の有った昭和11年(1936年)に小学生以上であったお年寄りたちに、私は、「2・26事件を覚えていますか?」と尋ねてみたのである。すると、驚くべき事に、当時、小学校に入学していた年齢のお年寄りであれば、私の記憶では、ほぼ全員が、「はい」と答えたのである。そして、そうしたお年寄り達全員が、口をそろえて言った言葉が有る。それは、「すごい雪でした」と言う言葉なのであった。


 私は、驚いた。一般に、アルツハイマー病をはじめとする疾患において、どんなに健忘が進んでも、遠い過去の記憶は保たれてゐる事が多い事は広く知られている。だから、「物忘れ」がひどく成ったお年寄りたちが、仮に、自分の住所を言えなくなったとしても、子供時代の記憶は失はずにいる事は、驚きに値しない。だが、それでも、当然ながら、あらゆる事を明瞭に記憶している訳はない。ところが、東京に生まれ育ち、2・26事件の際、小学生に達していたお年寄り達は、例外無くと言っていいだろう。誰もが、2・26事件の日を明瞭に記憶しているのである。だから、私が、「2・26事件を覚えていますか?」と質問すると、「はい」と答え、「すごい雪でした」と言って、あの朝の事を、まるで昨日の事のように語り出すのである。

 それを見て驚くのは、そんなお年寄りを病院に連れて来た子供たちである。こうしたお年寄りたちを私の病院に連れて来るお年寄りの子供達は、大体、私に近い50代以上の人々である。彼らは、自分たちの親が、さっき言った事をもう忘れているとか、物をあちらこちらに置き忘れるとか言った状態になったのを心配して神経内科に連れて来る。自分たちの親の記憶は、もうボケ切っている、と思って親を連れて来る人も多い。ところが、「ボケ切ってしまった」と思ってゐたお年寄りが、目の前で、はるか昔の「2・26事件」の事を昨日の事のように語り始めるのを目にして、本当にびっくりするのである。彼らにしてみれば、「物忘れ」が進みきった自分の親たちが、目の前で、学校の授業で聴いた記憶がある、くらいの話でしかない「2・26事件」を自ら覚えて居て、医者に向かって語り出すと言ふ光景は、信じられない物なのである。そんなお年寄りたちの反応と、それに驚く子供たちの表情を、私は、何度も見る事となる。
 私は、面白くなってしまった。


4.母と2・26事件


 今思ふと、私が、2・26事件の事を、東京生まれのお年寄りに尋ねるようになったのには、もうひとつ別の理由があった。それは、三年前他界した私の母が、そうしたお年寄りたちと同じように、2・26事件の日を鮮烈に記憶してゐたからである。2・26事件が起きた時、私の母は、満7歳だった。私の母は、東京に生まれ、虎ノ門で育った。母は、お茶の水にあった文化学院というリベラルな学校で小学生時代を過ごしたが、当時7歳だった私の母は、生前、2・26事件の日の事をこのように語ってゐた。


「あの日の事、すごく良く覚えてる。すごい雪の日だった。そして、学校に行ったら、家のお手伝いさんが迎えに来て、私を連れて帰ったの。普段、お手伝いさんが迎えに来るなんで事は無かったから、びっくりしたのを覚えてる」

 私は、母の口から、この話を数度聞いている。最初に聞いたのは、私が十代だった頃だから、母が40代だった頃である。当然、母のこの記憶は正確であった筈である。そんな母の言葉を聞いて私の印象に残っている事は、母が、とにかく、その日の雪が「すごかった」と強調してゐた事だった。そして、当時、5人家族だった母の家に居たお手伝いさんが、その雪の中、虎ノ門の家からお茶の水まで、7歳だった母を迎えに来た事に、母が驚いたという部分もとても印象的であった。それは、もちろん、2・26事件が起きた事を知った私の祖父母のいずれかが、事態の成り行きを心配して、そのお手伝いさんを迎えに行かせた事を意味しているが、「そんな事は初めてだった」と言った母の言葉に、私は、その日の緊迫した空気を感じたものである。

 母のこの話を何度か聞いていたからだろう。私は、母と同世代のお年寄りが私の外来に来て、そのお年寄りが東京生まれであると知ると、2・26事件の年(昭和11年・1936年)に何歳だったかを確かめたうえで、「2・26事件を覚えていますか?」と尋ねる事が、楽しみになって来たのである。そして、そうしたお年寄りたちが、母と同様、「すごい雪だった」と言うのを聞くたびに、遠いその日の雪の情景が、自分自身の記憶ででもあるかのように、感じ始めたのである。


5.子供達は何を見たか?


 私が、「物忘れ」を心配する子供たちに連れられて来院するお年寄りたちに「2・26事件」の記憶の有無を尋ねるようになったのは、もちろん、診察の一部としてである。だが、そのうちに、私は、この質問をするのが、とても楽しく成ってしまった。そして、色々なお年寄りが語る、子供の目で見た2・26事件の日の東京の情景を聞くうちに、それらの中に、単なる「子供の記憶」で片づけられない貴重な証言が含まれているかも知れない事に、私は、気が付き始めたのである。

 例えば、数年前来院したある男性のお年寄りは、こんな話を聞かせてくれた。「私の家は、四ッ谷にありました。あの日は四ッ谷に居ましたが、四ッ谷で、大砲の音が聞こえました。」2・26事件は、市街戦に発展する事は無かった筈である。しかし、この男性は、四ッ谷で「大砲の音」が聴こえたと言ふのである。これは、何を意味するのだろうか?何か、別の音を聞き間違えたのではないか?と私は思っている。或いは、何かの理由で、群が空砲を撃ったのだろうか?などとも思うが、答はわからない。又、或る女性のお年寄りは、私の母と同様、お茶の水に居たと言う。この女性は、特段、変わった事は記憶してゐないようだったが、それは、逆に言えば、その日の東京が、反乱軍が占領した地域の外では平穏だった事の現はれとも取れそうである。
 母の場合も、虎ノ門の自宅からお茶ノ水の小学校(文化学院)まで、母がいつもと同じように市電で登校し、そして、母を迎えに来たお手伝いさんも、恐らくは市電でお茶ノ水に来たのだろうから、その日の市電がいつも通りに走っていた事は、母の語った事からも伺えるのである。
 このように、「たかが子供の話」と思われるかも知れない話の数々は、ジグソー・パズルのかけらのピースのように、聞き集めて行くと、歴史の一面を語る立派な証言である事に、私は気がついたのであった。


6.母の帰宅の謎


 「謎」も有る。上述の様に、当時7歳だった私の母は、お茶ノ水の学校に着いて間も無く、虎ノ門の家から母を追いかけて学校に迎えに来たお手伝いさんに連れられて帰宅した。だが、母のこの話について、不思議な点が有る事を、数年前、私は、或る人から指摘された。


 それは、2・26事件が起きたその日、お手伝いさんが母を迎えに学校に来たのが、非常に早いと言ふ事である。
 2・26事件について知識の有るその人によれば、驚くほど早いと言ふのである。即ち、小学校低学年の母が、学校に着いて間も無く、お手伝いさんが迎えに来たと言ふのだから、それは、午前中の比較的早い時間だった筈である。しかし、或る人が指摘してくれた事なのだが、これは、事件の推移の中で、そんなに早い時間帯に、一般人が状況を把握してゐたと言ふのは、驚きだと言うのである。これは、何を意味するのだろうか?一体、何故、私の祖父母は、その人が指摘する様な早い段階で、状況の推移を知ってゐたのだろうか?


 その事の不思議さを指摘されて、私は、その理由を考えて見た。そして、或る事に思い当たった。それは、私の祖父(母の父)である。私の祖父は、町田佳声(1888−1981)と言う民謡学者である。
 祖父は、戦後、全国を旅して日本の民謡を録音し、採譜して出版した学者であり、作曲家でもあったが、戦前は、始め新聞記者となり、その後は、NHKの職員に転職したと言う経歴の持ち主である。 


 2・26事件が起きた昭和11年(1936年)、その私の祖父が、新聞社に勤めてゐたか、或いは既にNHKの職員になっていたのかは分からないのだが、どちらかではあった筈である。つまり、祖父は、2・26事件が起きた日、報道機関に居た筈なのである。その日、既に登校した私の母を帰宅させるために、早い段階でお手伝いさんを母の学校に向かわせたのは、報道機関に居て、早くに情報を得ていた祖父だったのではないか?と、私は思ふのである。
 更に興味深い問題は、それで居ながら、母は何故、一旦は登校したのか?と言ふ事である。つまり、その日の早朝、青年将校たちが高橋是清蔵相をはじめとする重臣たちを襲撃した直後には、報道機関の職員であった祖父も、その事を知らなかったのである。携帯電話など無かったこの時代、報道機関に勤めて居た祖父も、自宅では反乱軍決起の報はまだ知らず、出勤して、事態を知らされたのだろう。その祖父が、虎ノ門の自宅に近い職場に出勤して青年将校の決起を知り、直ちに、お手伝いさんを母の学校に向かわせたのではないか?と、私は推察してゐる。それは、多分、母が虎ノ門の自宅を出て、お茶の水の学校に向かった直後の事だったのだろう。
 だから、母を迎えにお茶ノ水の学校に向かったお手伝いさんは、母が言ったように、「学校に行ったら、すぐ、お手伝いさんが現われた」のに違い無い。この母の登校と祖父が事態を知るまでの短い時間に、この日、反乱軍決起の情報の伝わり方がどのくらいの速さであったのかが伺える事は興味深い。
 又、更に言えば、当時の祖父の勤務先が新聞社だったのかNHKだったのかは生憎不明だが、当時祖父が勤務していた報道機関から、祖父は自宅にこれを知らせる事は出来たのである。つまり、当日の報道管制がどの程度のものであったかを知る上でも、「お手伝いさんがすぐに迎えに来た」と言う母の話は興味有るものに思われるのである。
 そして、更には、母の登校時にも、お手伝いさんが学校に現われた時間帯にも、市電は普通に走っていたのだろうし、お手伝いさんが学校に来るまで、母が何も異常を感じて居なかった事は、この日の午前中、反乱軍によって占領された区域の外では、市民生活がいつもと同じであった事を反映してゐると言えそうである。このように、一人の子供の話の中に、2・26事件の日、東京がどのような状況にあったかを知るヒントが幾つも有る事は面白い事ではないだろうか。


7.東京の雪


 2・26事件を想起する時、私が思ひ出す言葉が有る。それは、ポーランドの映画監督、アンジェイ・ワイダ監督が言った「悲劇は、正義と正義が戦う時に起こるのです」と言う言葉である。ワイダ監督は、愛国者同士が衝突し、お互いを殺し合う事を念頭にこの言葉を口にしたのであるが、私は、2・26事件を想起する時に思ひ出す。私がこの言葉を思ひ出すのは、2・26事件においては、決起した青年将校たちの中にも、殺された重臣の中にも、日本を愛する人々が居たと確信しているからである。だから、この事件は、まさしく、ワイダ監督が言うように、悲劇であたっと、思ふのである。

 その日銃撃された重臣たちの全てがそうではなかっただろう。だが、少なくとも、高橋是清などは、日本を愛した青年将校と、違う立場からではあったが、やはり日本を愛した人物であったと私は思ふ。その高橋是清が、同じく日本を愛していた青年将校によって殺された事の悲劇は、まさに、ワイダ監督が言う通りの「正義と正義が戦う時に起こる」悲劇であった。知れば知るほど、そして、考えれば考える程、私は、この事件の悲劇性を痛感する。


 だが、その一方で、そんな悲劇が首都を舞台に起きていたその日、東京では、多くの子供たちが、大雪に驚き、そして、雪に胸を躍らせて、学校に行ったのである。その雪を、その日子供だった人々は、今も覚えてゐる。そして、どんなに「ボケ」たと言われても、そんなに子供たちがその「ボケ」を心配しても、その日の雪だけは、2・26事件の日の雪だけは、決して忘れなず、藪医者に聞かれれば、「よくぞ聞いてくれました」と言う表情で、語り始めるのである。

 私は、ここに「日本」を感じる。あの深刻な「正義と正義が戦った」悲劇が起きた日にも、子供達は、雪を見てはしゃぎ、そして、いつまでも忘れないのである。そんな2・26事件の子供たちが、あの日の雪について、私達に語りかけてくれる時間は残り少ない。その残された時間の貴重さに気が付くべきではないだろうか。


8.歴史の生き証人たち

 
 話を私の仕事に戻そう。「ボケ」を心配して来院するお年寄りとその御家族に接すると、テレビをはじめとするマスコミが、いかにこうしたお年寄りの「ボケ」の問題で不安をあおり、人々に強迫観念を植え付けているかが痛感される。
 お年寄りの「ボケ」は、家族にとっては、もちろん、深刻な課題である。だが、そんなお年寄りたちの物忘れや勘違いをアラさがしばかりする事に、当の神経内科医である私は疑問を感じてゐる。残念ながら、この領域において、今の医学は、人々が期待するほどには進んでゐない。いや、非常に遅れてゐると言うのが真実である。
 しかし、テレビをはじめとするマスコミは、「認知症」と呼ばれる疾患分野の医学が物凄く進歩していて、病院に行けば、ものすごい検査やものすごい治療が待ってゐるかの様な幻想を振り舞ひてゐる。


 真実は、これと程遠く、この分野の医学は、そうしたお年寄りとその御家族の期待に応えられるところまでは全くもって到達してゐない。それにも関わらず、テレビの「健康番組」は、最初に病気について不安をあおり、それから医学ぬ対する過大な期待を抱かせるといういつもの番組作りを繰り返し、お年寄りとその御家族を神経内科外来に殺到させている。何と罪作りな事だろう、と私は思ふ。

 医学は無力である。そう言ってはいけないのであれば、医学は、少なくとも、テレビの健康番組が伝えるほどすごい物ではない。医学の現実とそれを伝えるマスコミ報道の間には大変な差が有り、アルツハイマー病をはじめとする痴呆性疾患では特にその差が大きい。MRIなど、この領域の疾患を診断する上では、実はそれほど役に立たないし、「ボケ」に対する薬も、まだ、人々が期待するほど劇的な効果を示す物は無いと言うのが実情である。少なくとも、今の医学が、こうした問題に対して出来る事は、本当に、極くわずかである。御家族が大変なのはわかるが、これが現実である。

 その一方で、これは、既に両親を亡くした私が自省をこめて言う事だが、老いた親を持つ人々は、もっと親たちの話に耳を傾けるべきであろう。お年寄り達は、本当に、驚くほどよく昔の事を覚えてゐる。その話の中には、それを語る人が居なくなれば失われてしまふ歴史の断片が必ず含まれている筈である。そうしたお年寄り達が語る歴史の光景に耳を傾け、後世に伝へるべく、心に刻むべきではないだろうか。


平成28年(西暦2016年)2月26日(金)
2・26事件から80年目の朝に

                         西岡昌紀(内科医)


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http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/879.html

[社会問題9] 三つのチーク県の民謡−−東日本大震災から5年   西岡昌紀
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http://blog.livedoor.jp/nishiokamasanori/archives/8388333.html
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1950976802&owner_id=6445842

東日本大震災から5年が経ちました。

今年は、5年前と同じ様に、金曜日の3月11日です。

あの日の事が、思ひ出されて、辛い一日でした。

私は今、あの震災を主題にした、短い小説を書いて居ます。
                ↓
http://archives.mag2.com/0000249630/20160311152125000.html
(クリックして下さい)


本当は、今日(3月11日(金))までに書きあげる積もりだったのですが、仕事に追はれて、今日の時点では、ここまでしか書けませんでした。

私なりのささやかな供養の積もりです。

お読み頂けたら、望外の幸ひです。

慎んで、震災の犠牲と成った方達の御冥福をお祈り致します。

平成28年(西暦2016年)3月11日(金)

西岡昌紀(にしおかまさのり)

http://archives.mag2.com/0000249630/20160311152125000.html

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■「今も心は泣いてんだ」 震災5年、手を合わせる
(朝日新聞デジタル - 03月11日 12:06)
http://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=168&from=diary&id=3893140


海を望む場所に建てられた慰霊碑に向かって手を合わせる牧野駿さん=11日午前6時46分、宮城県南三陸町、西畑志朗撮影
 多くの命を奪った東日本大震災の発生から、11日で5年を迎えた。津波は大切な人との思い出の場所も奪った。土地のかさ上げ工事が進み、新たにつくった祈りの場も変わろうとしている。残された家族は亡き人を思い、それぞれの場所で、静かに手を合わせた。


■「今も心は泣いてんだ」

 牧野駿さん(77)は11日午前6時40分、宮城県南三陸町歌津地区の自宅近くの慰霊碑で、手を合わせた。眼下に広がる海は穏やかだ。「5年前は寒かった。全然違うね」

 町職員だった長男の典孝さん(当時46)の名が、地区で犠牲になった118人と共に刻まれている。毎朝手を合わせてきた。

 産業振興の仕事をしていた典孝さんはあの日、仕事で山にいた。震災が起きると防災対策庁舎に駆けつけ、津波に襲われた。1年半後に遺体が見つかった。

 その後、防災対策庁舎は震災を伝える象徴となり、大型バスで多くの人たちが訪れるようになった。「息子が死んだ場所を、見たくない」。牧野さんはほとんど足を運んでいない。

 旧歌津町長だった牧野さんには、地区の人から「静かに手を合わせる場所がほしい」と声が届くようになった。震災の翌年、自身が所有するヒノキ林に「鎮魂の森」をつくり始めた。

 昨春、森に自費で慰霊碑を建てた。刻まれた息子の名を見てほっとした。反対側には「倶会一処(くえいっしょ)」の文字。みんな浄土で会えるという意味だと聞き、地獄を見たこのまちにぴったりだと思った。

 森から町を見下ろしても、津波にさらわれたままでまだ何もない。息子が生きていたら、復興に力を尽くしただろう。そんな姿がふとした時に思い浮かぶ。でも、典孝さんの妻や3人の子どもとの間で典孝さんのことを話題にできないでいる。

 「今も心は泣いてんだ。形見なんていらない。ただ、生きていればって」(中林加南子)


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http://www.asyura2.com/12/social9/msg/643.html

[原発・フッ素46] オッペンハイマーは何故死んだか?     西岡昌紀

http://blog.livedoor.jp/nishiokamasanori/archives/8533046.html


        オッペンハイマーは何故死んだか?

1.あるタクシー運転手の言葉

 ジュリアス・ロバート・オッペンハイマー(Julius Robert Oppenheimer:1904-1967)は、広島・長崎に投下された原爆の製造を指揮したアメリカの物理学者である。戦後70年間、世界は彼の名前を忘れた事はなかった。それどころか、広島と長崎への原爆投下と不可分の名前として、彼の名は、世界中の人々によって想起され、口にされて来た。ほんの一例であるが、ジャーナリストの高山正之氏は、こんな回想をして居る、氏が、アメリカを訪れた際の出来事である。


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  ロサンゼルス空港で乗ったタクシーの運転手が、こっちが日本人だと知って「申し訳ないことをした」といきなり謝ってきた。
 彼はソ連崩壊のあとウクライナからやってきたユダヤ人で、彼らのコミュニティには日本にまつわる言い伝えがあった。
 ユダヤ十二部族のうち二部族が消えたと旧約聖書にあるが、その一つが日本人だったというのだ。
 なのに「(ユダヤ系の)オッペンハイマーはその日本に落す原爆を作った」というのが謝罪の理由だった。
 そんなことがきっかけで、ウエストハリウッドにある彼の家にも遊びに行くようになった。(後略)


(高山正之「変見自在」(週刊新潮/2005年7月28日号・154ページ)より)


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 オッペンハイマーに対する評価は様々である。しかし、このユダヤ人のタクシー運転手を含めて、戦後世界に生きる者は、国籍、人種、そして歴史観を問わず、彼の名を意識し続けて来たと言ってよいだろう。
 そのオッペンハイマーについて、私が考え続けて来たひとつの「謎」がある。それは、オッペンハイマーは、なぜ死んだのか?という「謎」である。以下は、その「謎」に関する話である。



2.オッペンハイマーの喉頭癌

 オッペンハイマーは、1967年2月18日、この世を去った。その7日後、1967年2月25日、プリンストン大学で行われた彼の告別式には、ハンス・ベーテをはじめとする著名な物理学者が参列し、ジュリアード弦楽四重奏団が、彼が生前愛したベートーヴェンの弦楽四重奏曲作品131が演奏した。(藤波茂(著)『ロバート・オッペンハイマー/愚者としての科学者』(朝日選書・1996年)参照)これが、原爆の父、オッペンハイマーの最後であった。

 オッペンハイマーの命を奪った病気は、喉頭癌であった。彼は、喉頭癌(のどの癌)をわずらい、その1年前には、その事を知り、自分の死期をも悟っていたと言う。(同書参照)これが、広島と長崎に投下された原爆の父、ロバート・オッペンハイマーの晩年と死であった。これは、オッペンハイマーに関する本を読めば、誰もが知る事のできる彼の最後である。そう言うと、誰もが、彼のその死のどこが「謎」なのだ?と、私に問うに違いない。彼のこの死について、私が「謎」と呼ぶのは、一体、何であるのか?皆さんもそれをいぶかしく思うに違いない。それは、オッペンハイマーが彼の命を奪った喉頭癌を発症したのはなぜだったのか?という問題なのである。アメリカにおける「原爆の父」は、なぜ喉頭癌にかかったのか?私は、この問題を考え続けてきた。そして、この問いを自問自答しようとする内に、アメリカの現代史の闇の部分に触れた思いを味わったのである。

3.原爆投下後の報道

 時計の針を巻き戻そう。今から70年前の1945年(昭和20年)8月6日、広島に原爆が投下された。続く8月9日、2発目の原爆が長崎に投下された。この2発の原爆によって、多くの生命が奪われ、この2都市は灰燼と帰した。そして、8月15日、昭和天皇のラジオ放送(玉音放送)によって、日本人は、戦争が終わった事を知らされた。誰もが知る70年前の夏である。それから日本はアメリカ軍による占領を受けるのであるが、8月6日と9日の原爆投下の後、原爆を投下したアメリカの軍・政府上層部が、日本からもたらされた広島・長崎の人的被害に関する報道によって震撼させられていた事は、十分に知られていない。

 インターネットはもちろん、テレビすら無かった1945年8月、原爆の被害を地上の視点から世界に伝えたのは、日本のラジオ放送であった。当時、日本のラジオは、もちろん、日本政府と軍の厳しい検閲の下に置かれていた。そして、その検閲の下、アメリカが投下した原爆についての日本国内での報道は厳しく抑制されていた。しかし、それとは対照的に、日本の海外向けのラジオ放送は、原爆がもたらした惨禍を世界に英語で発信していたのである。そして、その日本からの英語によるラジオ放送は、或る事実を伝える事で、原爆を投下したアメリカと世界に衝撃を与えたのである。それは、原爆投下直後には死を逃れた人々の中に、爆風による圧死や火傷による死はまぬがれたにもかかわらず、全身状態を悪化させて死亡する例が多々見られるという報道であった。これは、それらの人々が、原爆の放射線を浴びた事によって起こした急性放射線障害の結果としか考えられなかった。そして、日本からの英語放送が伝えたこの事実は、日本と戦った連合国側のジャーナリストの関心を集めたのである。

 アメリカは、日本からのこうした報道に動揺した。日本が降伏して10日が経った1945年8月25日、原爆製造を軍人として指揮したグローブス将軍は、同僚のリー中佐と、電話で次の様に話している。


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グローブス [報告を読む]爆発から2週間で3万人を焼死させた・・・。

リー 紫外線−−というのですか?

グローブス イエス。

リー ばかみたいですね。・・・私はこれはうまい宣伝だといいたいですね。連中はやけどをしたのです。熱でうんとやけどをしたのです。

グローブス[読む]ジャップの特派員によれば、爆弾が落ちてから3日後に死者3万人、2週間後に6万人になって、なお増え続けている。死体を見つけているのは確かだ。

リー 時限火傷を負っています。・・・

グローブス それからこう書いてあって、これを君にとくに聞きたかった・・・・「爆撃から1週間後、復興現場で作業中の米軍兵士を検査したところ、白血球が半減し、赤血球も極度に不足していた」

リー 私も読みました。まやかしではないですかね?・・・

グローブス 二つとも減るのか?

リー かもしれません。でも宣伝ではないですか?

グローブス もちろん宣伝だ。科学者はきっとバカな振る舞いをするし、新聞、ラジオはニュースをほしがるから。

リー もちろんです。ジャップの科学者どももバカではないし、これを大いにタネにして・・・

(アージュン・マキジャニ(著)ジョン・ケリー(著)関元(訳)『WHYJAPAN?−−原爆投下のシナリオ』(教育社・1985年)109〜110ページ)

http://www.amazon.co.jp/Why-Japan-%E2%80%95%E5%8E%9F%E7%88%86%E6%8A%95%E4%B8%8B%E3%81%AE%E3%82%B7%E3%83%8A%E3%83%AA%E3%82%AA-%E3%83%AF%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%89%E3%83%96%E3%83%83%E3%82%AF%E3%82%B9-%E9%96%A2/dp/4315501980/ref=sr_1_1?ie=UTF8&qid=1431399728&sr=8-1&keywords=WHY+JAPAN%3F+%E3%83%9E%E3%82%AD%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%83%8B

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 二人が電話で語り合ったこの懸念は的中した。日本からのこうした報道に関心を持った連合国側のジャーナリストが、原爆による急性放射線障害の問題に関心を持ちだしたのである。

 イギリスのロンドン『デイリー・エクスプレス」の記者であったウィルフレッド・バーチェットは、そうしたジャーナリストの一人であった。彼は、9月2日にミズーリ号艦上で日本側が降伏文書に署名した翌日(9月3日)、東京から21時間の汽車旅をして、早くも広島入りしている。そして、原爆が、放射線によって、熱線と爆風による死をまぬがれた生存者の生命を奪っている事を奉じた連合国側で最初のジャーナリストとなった。彼は、9月5日のデイリー・エクスプレス紙に掲載された記事の中でこう書いている。


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「広島では、最初の原子爆弾が市を破壊し、世界を震撼させてから30日が過ぎたが、今なお人びとは不思議にも、恐ろしくも死につづけている。爆弾では負傷していない人びとが、何かわからないもの、私には原子病としか呼びようがないもので死んでいくのである。広島は爆撃された都市にはみえない。巨大な地ならしローラーが通り過ぎ、すべてを踏み潰して壊滅させた市のように見える。私は、これが世界への警告として届くように、事実をできるだけ淡々と書いている」(フィリップ・ナイトリー(著)芳地昌三(訳)『戦争報道の内幕』(時事通信社・1987年)268ページより引用)

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 敵国であった日本の報道ならば「日本のプロパガンダ」と呼ぶ事もできなくはなかった。しかし、連合国側(イギリス)のジャーナリストが、自ら広島を訪れ、こう書いたのである。この記事に、アメリカは反論した。

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 バーチェットの報道は放射線病をはじめて書いたものであった。アメリカ当局はこれにすばやく反応した。軍報道関係者は、バーチェットの記事に反論するため東京で記者会見を開いた。スポークスマンは放射線病のようなものはないと語った。バーチェットが東京に戻り、ちょうど時間に間に合って会見場に入ったとき、スポークスマンが彼のことを「日本の宣伝の犠牲者になった」と非難しているところだった。

 広島からは全特派員が締め出され、バーチェットは追放命令を受け(アメリカのとりなしで、その後命令は取り消された)、そしアメリカでは原爆開発計画として知られていたマンハッタン計画の責任者レスリー・R・グローブス陸軍少将は、きっぱりとこう言いきった。「放射線についてのこの話はナンセンスそのものである」


(フィリップ・ナイトリー(著)芳地昌三(訳)『戦争報道の内幕』(時事通信社・1987年)269ページ)

http://www.amazon.co.jp/%E6%88%A6%E4%BA%89%E5%A0%B1%E9%81%93%E3%81%AE%E5%86%85%E5%B9%95%E2%80%95%E9%9A%A0%E3%81%95%E3%82%8C%E3%81%9F%E7%9C%9F%E5%AE%9F-%E3%83%8A%E3%82%A4%E3%83%88%E3%83%AA%E3%83%BC-%E3%83%95%E3%82%A3%E3%83%AA%E3%83%83%E3%83%97/dp/4788787032/ref=sr_1_fkmr0_2?ie=UTF8&qid=1431306941&sr=8-2-fkmr0&keywords=%E6%88%A6%E4%BA%89%E5%A0%B1%E9%81%93%E3%81%AE%E5%86%85%E5%B9%95

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4.グローブス将軍は何を恐れたか?

 皆さんは、当惑を覚えないだろうか?今日、原爆が広島と長崎で人々に放射線障害を与え、多くの命を奪った事は常識となっている。しかし、原爆投下直後には、それは、「常識」ではなかったのである。もちろん、放射線が時に人体に有害な作用をもたらす事は知られていた。しかし、原爆の放射線が、原爆の衝撃波や熱線とは別に、それ自体で、生存した被爆者の命を次々に奪うという事実は、当時の人々にとって驚くべきことだったのである。

 上に引用した電話の会話が示すように、それは、原爆を製造したグローブス将軍にとってもそうであった。この事実が世界に報道される事は、原爆を製造したアメリカの政府・軍にとって由々しき事態であった。その理由は、まず、何よりも、原爆の非人道性が世界に知られる事によって、アメリカが国際世論の矢面に立たされる事もあったに違いない。しかし、更には、次のような背景もあった事を考えるべきである。


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 1945年7月16日のニューメキシコ州の原爆実験(暗号名トリニティー)による米国人の被害も少なくなかった。これにはマンハッタン計画の従業員とニューメキシコ州民が関係していた。爆発は予想よりはるかに強力で、大量の放射性のほこり(爆弾の素材のプルトニウムと、ストロンチウム90などの核分裂物質)を吹き上げ、爆発地点の周辺は強力な放射能を浴びた。

 従業員には若干の安全措置がとられたが、爆発のデータを計画担当者が戦争努力に不可欠と考えたため、これを爆心地点で採集する「ボランティア」が求められた。たくさんの人々が応募し、限界値に定められた5ラドを超える放射能を浴びた。

(アージュン・マキジャニ(著)ジョン・ケリー(著)関元(訳)『WHYJAPAN?−−原爆投下のシナリオ』(教育社・1985年)102ページ)

http://www.amazon.co.jp/Why-Japan-%E2%80%95%E5%8E%9F%E7%88%86%E6%8A%95%E4%B8%8B%E3%81%AE%E3%82%B7%E3%83%8A%E3%83%AA%E3%82%AA-%E3%83%AF%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%89%E3%83%96%E3%83%83%E3%82%AF%E3%82%B9-%E9%96%A2/dp/4315501980/ref=sr_1_1?ie=UTF8&qid=1431399728&sr=8-1&keywords=WHY+JAPAN%3F+%E3%83%9E%E3%82%AD%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%83%8B

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 即ち、日本への原爆投下に先立って、アメリカがニューメキシコ州で原爆実験を行なった際、多くのアメリカ人が被曝(ひばく)していたという事実である。これは、アメリカの軍・政府にとって、訴訟の火種と成り得る問題であった。又、放射線の人体への影響がそれまで予想されていた影響を上回る物であったという事実は、戦後、アメリカが核開発を進めて行く中で、被曝のリスクが高い核兵器製造現場で働く労働者を確保して行く上でも、不都合な物であったことは明らかである。実際、原爆開発の指揮をとったグローブス将軍が、原爆実験を含めた原爆開発の過程で、「法的な問題」を恐れていたという事実を、上の著作を書いた二人の歴史家(アージュン・マキジャニ及びジョン・ケリー)は、指摘している。


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 実験から数ヵ月後、ニューメキシコ州では乳児死亡率が相当に増え、以前の年の8月、9月より、また以降の年よりもはるかに増えた。実験地点から北東にあたる地域の局所的な増加はマンハッタン計画の当局者に報告されたが、調査した形跡は見られない。キャスチーン・タッカーの予備的な分析によれば、乳児死亡率の最高が出生1000人あたり130人から180人に増えたうちの相当部分が、実験の死の灰による可能性がある。つまりニューメキシコ州の実験で赤ん坊が数十人死んだかもしれない。もちろんこれは暫定的な言い方であって、問題提起と今後の調査のために行うものである。

 われわれがこれを必要と考えるのは、一つには実験計画の当初から、安全対策が法的反響への恐れに左右されたとみられるからである。グローブスが1945年4月18日に実験現場を訪れた時「まず発した質問は法的な問題だった」このため大量の放射能が検出されたにもかかわらず、住民に知らせも、避難もさせなかった。放射能の重大な被害の可能性を認めることを拒否する態度は原爆実験計画に一貫している。それが広島、長崎の住民の放射能障害の調査にも悪影響を及ぼした。


(アージュン・マキジャニ(著)ジョン・ケリー(著)関元(訳)『WHYJAPAN?−−原爆投下のシナリオ』(教育社・1985年)107ページ)

http://www.amazon.co.jp/Why-Japan-%E2%80%95%E5%8E%9F%E7%88%86%E6%8A%95%E4%B8%8B%E3%81%AE%E3%82%B7%E3%83%8A%E3%83%AA%E3%82%AA-%E3%83%AF%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%89%E3%83%96%E3%83%83%E3%82%AF%E3%82%B9-%E9%96%A2/dp/4315501980/ref=sr_1_1?ie=UTF8&qid=1431399728&sr=8-1&keywords=WHY+JAPAN%3F+%E3%83%9E%E3%82%AD%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%83%8B

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 このように、原爆を落とされた日本から、日本人の英語ラジオ放送とイギリス人ジャーナリストの記事が伝えた原爆による急性放射線障害の深刻さは、原爆を製造したマンハッタン・プロジェクトの責任者グローブス将軍にとって、何としても否定したい情報だったのである。

 ここで、「原爆の父」オッペンハイマーが再登場する。

5.オッペンハイマーの役割

 このように、日本からの報道を切っ掛けに、原爆による急性放射線障害の恐ろしさが世界の関心を集め始めた1945年9月11日、アメリカは、一枚の写真を公開した。それは、原爆投下に先立つ同年7月16日、人類史上初の原爆実験が行なわれたニューメキシコ州のトリニティー実験場の爆心に立つグローブス将軍と、「原爆の父」オッペンハイマーの写真である。今日に至るまで、オッペンハイマーについて語られる際、しばしば使われる有名な写真であるが、この写真は、グローブス将軍が、新聞記者たちを7月16日に原爆が爆発した砂漠の爆心地に連れて行き、彼らの前で撮らせた写真である。

 この写真が意味する事は、明らかである。原爆を作った科学者オッペンハイマー自身が、今、こうして、2か月ほど前に原爆が爆発した砂漠の中の爆心地に立っている。原爆を作った科学者が、こうして爆心に立っているのである。これでも日本人が言い出した原爆の放射線障害の報道を信じるのですか?と言う意味である。そして、その狙い通り、この写真が公開されてからは、日本を占領するアメリカ軍の検閲が効を奏し始めたこともあって、原爆による急性放射線障害の問題は、報じられなくなって行った。この写真の中で、原爆が爆発した砂漠の爆心地に立っているのが、グローブス将軍だけであったなら、それはさほど説得力を持たなかったかも知れない。しかし、原爆を開発した「アメリカの誇り」と呼ぶべき科学者が、自らそこに立っているのである。アメリカ人が、日本から報じられた原爆による急性放射線障害の報告を「日本人(ジャップ)のプロパガンダだった」と思ったとしても不思議はない。これが、この時、オッペンハイマーが演じた役割だったのである。

 ここで、話を本題に戻そう。私は、一人の医者として、何年も以前から、或る事を考えている。それは、この時、原爆爆発から2か月ほど経った時点で、ニューメキシコのこの爆心地に立った事が、オッペンハイマーが後年喉頭癌を発症した事と関係が無かったか?と言う疑問である。その疑問についての私の考察を以下に述べよう。


6.永井隆博士の指摘

 1945年9月11日、オッペンハイマーが、ニューメキシコ州の原爆実験場を訪れ、爆心に立った際の写真を見て、私が思い出す事がある。それは、広島。長崎に原爆が投下された後、残存放射能が強く残る両市市内に入った人々に現われた医学的異常である。例えば、次の事例を読んで頂きたい。これは、放射線医学の権威である西尾正道氏の著作の一節である。


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 以前より、広島原爆の被災者である医師の肥田舜太郎氏は内部被曝の問題を告発してきたが、それは次のような「爆発の1週間後に広島市内に入って発病し、血を吐いて亡くなった夫人」のエピソードを原点としている。

 その夫人は、1944年に松江市で県庁の職員と結婚し、45年7月初め松江の実家で出産した。8月7日、大本営発表で広島が壊滅したと聞いた彼女は、転勤で広島県庁に勤めていた夫を探して、8月13日から20日まで毎日広島の焼け跡を歩きまわる。原爆炸裂時たまたま地下室にいたため脚を骨折したが、一命をとりとめた夫と救護所で再会。当初元気でった彼女は、救護所で重症患者の治療や介護を手伝っているうち、熱が出、紫斑が現われ、鼻血が止まらなくなり、日に日に衰え、9月8日、抜けた黒髪を吐血で染めて、ついに帰らぬ人となる。「1週間後に入市したが明らかに原爆症と思える症状で死亡した松江の夫人は、内部被曝問題への私の執念の原点ともなった」(肥田舜太郎・鎌仲ひとみ「内部被曝の脅威−−原爆から劣化ウラン弾まで」筑摩新書、2005年、37〜40ページ)。原爆の直撃は受けず1週間後に入市し、8日間毎日焼け跡を歩き、急聖原爆症を発症、1ヵ月たらずで死亡した妻。2人の生死を分けたものは何か。
 これは残留放射線はないと米国の公式見解が嘘であったことを物語る証拠そのものである。

(西尾正道 (著)『がんセンター院長が語る 放射線健康障害の真実』(旬報社・2012年)56〜57ページ)
http://www.amazon.co.jp/%E3%81%8C%E3%82%93%E3%82%BB%E3%83%B3%E3%82%BF%E3%83%BC%E9%99%A2%E9%95%B7%E3%81%8C%E8%AA%9E%E3%82%8B-%E6%94%BE%E5%B0%84%E7%B7%9A%E5%81%A5%E5%BA%B7%E9%9A%9C%E5%AE%B3%E3%81%AE%E7%9C%9F%E5%AE%9F-%E8%A5%BF%E5%B0%BE%E6%AD%A3%E9%81%93/dp/4845112620/ref=sr_1_1?s=books&ie=UTF8&qid=1380592130&sr=1-1&keywords=%E6%94%BE%E5%B0%84%E7%B7%9A%E5%81%A5%E5%BA%B7%E9%9A%9C%E5%AE%B3%E3%81%AE%E7%9C%9F%E5%AE%9F

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 このように、原爆投下直後に、肉親の安否を尋ねるなどして、残留放射能が高かった広島 長崎に入市した人々には、様々な医学的異常が観察されている。これは、広島の事例であるが、次の記述に注目して頂きたい。これは、長崎で自らが有被爆者となった医師、永井隆博士(1908−1951)が、1949年に出版した著作の一節である。


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 この上野町は爆発点より六百米(メートル)の近距離にあって、当時現場にいた住民は防空壕の置く深く潜(ひそ)んでいた一人の子供を除いて全部死亡した所、灰と瓦礫(がれき)の町である。ここに爆撃直後三週間以内に壕舎住居を始めた人々には重い宿酔(ふつかよい)状態が起こりそれが一カ月以上も続いた。また重い下痢に罹(かか)って苦しんだ。特に焼けた家を片づけるため灰を掘ったり瓦(かわら)を運んだり、また屍体の処理に当たった人の症状は甚(はなは)だしかった。症状はラジウム大量照射をうけた患者の起すものに似ており、確かに放射線の大量連続照射の結果であった。
 一カ月後から居住を始めた人々の症状は軽かったが、やはり宿酔と消化器障碍(しょうがい)がみられた。蚊(か)や蚤(のみ)の刺痕(しこん)や小さい創(きず)が化膿しやすく、白血球の軽度の減少があるらしかった。
 三月後からはもう著明な障害は起こらないようになった。住民はどんどん家を建てて居住を開始した。それは復員後と疎開者と引揚(ひきあげ)者が主である。ところが白血球を調べてみると居住開始後一カ月すると異常な増加を示し平常数の倍になる。これは微量放射線の連続全身照射にみられる症状である。


(永井隆(著)『長崎の鐘』(日本ブックエーズ・2010年)149〜151ページ)
http://www.amazon.co.jp/%E9%95%B7%E5%B4%8E%E3%81%AE%E9%90%98-%E5%B9%B3%E5%92%8C%E6%96%87%E5%BA%AB-%E6%B0%B8%E4%BA%95-%E9%9A%86/dp/4284800779/ref=sr_1_2?ie=UTF8&qid=1432614666&sr=8-2&keywords=%E9%95%B7%E5%B4%8E%E3%81%AE%E9%90%98%E3%80%80%E6%B0%B8%E4%BA%95%E9%9A%86%E3%80%80%E5%B9%B3%E5%92%8C
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 永井博士のこの記述は、原爆投下後の長崎で多くの被爆者を医師として観察した科学者の記述である。広島の場合と同様、原爆が投下された際には市内にいなかった人々が、原爆投下後の市内に入った結果、身体に異常を生じた事を永井博士は述べている。ここで、注目すべきは、原爆投下から3か月以降に長崎に移住した人々に関する記述である。永井博士は、「著明な障害は起こらないようになった」と述べている。しかし同時に、それらの人々も、調べてみると、白血球増多という異常を呈したと博士は書いている。つまり、原爆の爆発から3か月以上後に長崎に移住した人々の場合、一見すると健常であるように見えながら、例えば、白血球数の増加といった異常が矢張り見られた、という意味である。

 永井博士のこの記述を頭の片隅において、オッペンハイマーがした事の意味を考えてみよう。

7.はたして、核実験場訪問は無関係か?

 オッペンハイマーが、ニューメキシコの原爆爆発地点(爆心地)に立ったのは、そこで原爆が爆発してからほぼ2か月後であった。2か月前、そこで爆発したのは、長崎に投下されたのと同じプルトニウム爆弾である。その点は同じ条件なのである。そこで、永井隆博士の記述を念頭において彼のこの行動を考えてみよう。すると、一見すると健常であるように見えながら、白血球数増加のような異常を起こしていた「原爆の爆発から3か月以上後に長崎に移住した人々」同様、ニューメキシコの爆心地で、オッペンハイマーの体が、放射線の影響を受けた可能性はあったのではないだろうか?と、私は思うのである。もちろん、オッペンハイマーがニューメキシコの砂漠で爆心地に立ったのは短時間である。しかし、永井博士が白血球増加が見られたことを指摘している「3か月以上後に長崎に移住した人々」よりも、被曝した線量率(単位時間当たりに被曝した線量)は、爆発から2か月弱の時点で、爆心地その物に立ったオッペンハイマーの方がずっと高かったであろう事が推察されるのである。これは、彼の喉頭癌発症と無関係であろうか?

 ここで、広島・長崎両市で原爆投下後、長期に渡って行なわれた被爆者の医学的調査の結果をお読み頂きたい。


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 白血病につづいて、その他の悪性腫瘍(がん)に注意が払われるようになったのは、白血病発生のピークを過ぎた後の1960年ころからである。


(『原爆災害−−ヒロシマ・ナガサキ』(広島市・長崎市 原爆災害誌編集委員会(編)岩波書店・2005年)141ページ)

http://www.amazon.co.jp/%E5%8E%9F%E7%88%86%E7%81%BD%E5%AE%B3%E2%80%95%E3%83%92%E3%83%AD%E3%82%B7%E3%83%9E%E3%83%BB%E3%83%8A%E3%82%AC%E3%82%B5%E3%82%AD-%E5%B2%A9%E6%B3%A2%E7%8F%BE%E4%BB%A3%E6%96%87%E5%BA%AB-%E5%AD%A6%E8%A1%93149-%E5%BA%83%E5%B3%B6%E5%B8%82%E3%83%BB%E9%95%B7%E5%B4%8E%E5%B8%82%E5%8E%9F%E7%88%86%E7%81%BD%E5%AE%B3%E8%AA%8C%E7%B7%A8%E9%9B%86%E5%A7%94%E5%93%A1%E4%BC%9A/dp/4006001495/ref=sr_1_1?ie=UTF8&qid=1431666364&sr=8-1&keywords=%E5%8E%9F%E7%88%86%E7%81%BD%E5%AE%B3

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 オッペンハイマーが喉頭癌を発症したのも、1960年代後半の事である。1945年9月11日、彼がニューメキシコの砂漠で、自身が完成させた原爆の爆心地に立った事は、彼の死因となった喉頭癌の発症と無関係だったのだろうか?


 オッペンハイマーは、喫煙者であった。生前の彼の写真には、彼が愛用のパイプをくわえている写真がある通り、彼は、永年、パイプによる喫煙を愛好していた。この事に注目すれば、パイプを離さなかった彼が、晩年、喉頭癌を発症した事は、不思議ではないようにも思われる。しかし、ここで頭に浮かぶのは、喫煙と放射線への被曝が重なった場合、発癌のリスクが高まる事が指摘されている事である。例を挙げれば、ラドンによる肺癌の発生は、放射線と相乗的に作用することなどが、よく知られている。こうした報告を考慮すれば、喫煙者であったからこそ、短時間とは言え、原爆爆発から2か月も経っていない時点でプルトニウム爆弾が爆発した爆心地に立った事は、彼の癌と無関係だったのだろうか?と、私は考えずにいられないのである。

8.医学は非力である。

 結論を言おう。答えはわからない。オッペンハイマーが喉頭癌を発症した原因の少なくとも一部に、1945年9月11日、彼がニューメキシコの原爆実験場を訪れた事が寄与しているのかどうかはわからない。なぜなら、こうした問題に答えるには、多くの症例との比較が必要であるからである。統計的分析なしに、こうした問いに答える事は不可能である。

 あの日(1945年9月11日)、オッペンハイマーとグローブスに連れられてニューメキシコの爆心地を訪問した新聞記者たちにその後の健康状態に関する情報があれば更なる考察は可能かも知れない。しかし、そうした情報は、見当たらないし、仮にそうした情報があったとしても、彼らの一人一人について、オッペンハイマーと同様、喫煙者であったかどうか、年齢はオッペンハイマーと同年代であったか、など多くの因子を考慮しなければ、あの日の爆心地訪問がオッペンハイマーの発癌に寄与したかどうかはわからないのである。

 医学とは、このように非力な物なのである。こうした事柄を論じる分野を疫学(えきがく)と呼ぶが、疫学は、集団を対象とする科学なので、ひとりの個人について、その人物が「なぜ癌にかかったか?」と問われても、答える事はできない。答える事が可能な場合があるのは、ある集団について、その集団にある病気は多いか、少ないか、その原因は何か?といった問題である。しかも、それも必ず答えられるとは限らない。これが医学なのである。しかし、こうした医学の非力さの中で、科学者たちは、戦後70年間、原爆の被害を受けた人々を見つめて来た。それが、被爆者たちをどれだけ救えたかはわからない。だが、多くの科学者たちは、それを懸命にして来たのである。

 それを思う時、オッペンハイマーという科学者が、原爆を作ったのみならず、原爆の放射線障害を隠すために、政治の手先となって、ニューメキシコの原爆実験場に自ら立って見せ、ジャーナリストたちを、そして世界中の科学者たちを騙そうとした事には、失望する他はない。冒頭に紹介したタクシーの運転手同様、オッペンハイマーと同じ科学(医学)の道に生きて来た一人として、私は、被爆者に謝りたい気持ちである。

 しかし、もし、仮にオッペンハイマーが、広島・長崎の被爆者と同様、原爆の放射線によって命を落としたのだとしたら、それは神が彼に下した怒りだったのではないか?私は、そんな気持ちがしている。

(終はり)


核時代71年(西暦2016年)8月6日(土)
広島の原爆投下から71年目の日に


西岡昌紀(内科医)

西岡昌紀(にしおかまさのり)内科医(神経内科)。主な著書に「アウシュウィッツ『ガス室』の真実/本当の悲劇は何だったのか」(日新報道・1997年)、「ムラヴィンスキー/楽屋の素顔」(リベルタ出版・2003年)、「放射線を医学する/ここがヘンだよホルミシス理論」(リベルタ出版・2014年)他がある。最近の雑誌記事は、「ポーランド知られざる現代史の闇」(月刊WiLL・2015年6月号)。


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http://www.asyura2.com/16/genpatu46/msg/264.html

[戦争b18] あの日、なぜ原爆は投下されたのか?−−長崎原爆投下の謎    西岡昌紀

あの日、原爆はなぜ投下されたのか?−−長崎原爆投下の謎

・2015年4月14日まで(桜・長崎・サック氏など) 060

http://blog.livedoor.jp/nishiokamasanori/archives/8548185.html

1.神は存在するのか?

 カトリック浦上教会は、長崎北部の丘に立つ教会である。かつて浦上天主堂と呼ばれていたこの教会は、隠れキリシタンが多かったこの土地に建てられた為、そう名付けられた教会である。そのカトリック浦上教会が立つ丘の下に、或る物がある。それを読者にお見せしよう。(写真)これが何であるか、皆さんはおわかりであろうか?(写真をご覧ください)

 これは、昭和20年(1945年)8月9日、長崎に原爆が投下された際、原爆で破壊された教会の一部なのである。かつて、この浦上の丘に在った旧浦上天主堂が、原爆で破壊された際、その一部であった旧鐘楼(しょうろう)が丘から落下したのが、この残骸なのである。

 この鐘楼は、71年前、原爆で破壊されるまで、この丘の上で、その鐘の音を響かせていた。だが、原爆によって旧聖堂(浦上天主堂)が被害を受け、鐘楼があったこの丘の上からここまで落下した物なのである。私が、この破壊された鐘楼の前に初めて立ったのは、私が学生だった頃の事である。以来、私は、この鐘楼の前に3回立っている。

 始めて私がこの鐘楼の残骸の前に立った時、私の心に浮かんだ疑問がある。それは、「神は存在するのか?」という疑問である。もう一度、この写真を見て欲しい。この鐘楼は、永く続いた禁教の時代を耐え抜いたこの国のキリスト教徒たちが建てた教会の一部である。原爆が投下された時、この鐘楼が一部であったその教会の中では、信者たちが祈りを捧げていた。その信者たちの上に、キリスト教徒の国から飛んできた飛行機が、原爆を落としたのである。破壊された教会の中に居た信者たちが命を失い、そして、その教会は破壊された。その歴史の証拠が、この残骸である。これを見て、皆さんは、私が抱いた疑問ーー神は存在するのか?−−を共有されないだろうか?

2.なぜ長崎に原爆が投下されたのか?

 神は存在するのか?と言う問いは棚上げしよう。その問いの代わりに、或る謎について考えてみたい。それは、あの日、長崎に原爆が投下されたのは何故だったのか?と言う謎である。

「何故それが謎なのか?」と、皆さんは思うかも知れない。だが、あの日(1945年8月9日)、長崎に原爆が投下された経緯には、今も解明されて居ない謎があるのである。

 今日、言われている「説明」は、次のようなものである。その日(1945年8月9日)、アメリカの爆撃機(B29)ボックスカーは、小倉に原爆(プルトニウム爆弾)を投下すべく北九州に向かった。

しかし、小倉上空は雲におおわれて居て視界が不良であった。その為、同機は、長崎に向かった。長崎も雲におおわれていたが、一瞬、雲の切れ間が出現したため、11時2分、ボックスカーは、長崎に原爆を投下した・・・。これが、今日、語られ、受け入れられている説明である。結論から言えば、この説明自体は事実なのかも知れない。しかし、ここにひとつの謎がある。それは、原爆(プルトニウム爆弾)を積んだボックスカーは、いつ、標的を長崎に変更したのか?という謎なのである。ボックスカーは、小倉上空の視界が不良であった時、直ちに目標を長崎に変更したのであろうか?

その謎について、高瀬穀氏は、こう書いてゐる。

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 長崎へと向かった彼らは、日本の戦闘機の迎撃を警戒していた。本来なら、日本の基地の上空を避けて海上へと迂回して長崎に侵入しようにも、そういう余裕すらなかった。

 日本の戦闘機隊への基地の真上を飛ぶことを承知の上で、スウィーニーらは、「正規のコースより悪い条件のコースに機をのせた」(チンノック『ナガサキ〜』)。この時点で予定より1時間半の遅れだった。

 奇妙なのは、ここから長崎上空へどのような経路を通って行ったのかが、スウィーニーの本を読んでもよくわからないことだ。

 スウィーニーは著書の中でこう記している。

「基地を避けて海上に迂回して、余分な燃料を消費する余裕はなかった。直進する以外に道はない」(中略)「『迂回はできない、ジム』と正確な機首方位に乗せるべく調整しながら、私は答えた。すでに予定より1時間半ほど遅れていた。ファットマンは依然、爆弾倉に収まっていた。長崎に着いたら一発で決めてやるのだ。何が我々を待ちうけているかは神のみぞ知る。私は振り返ってドン・オルバリーに言った。『これ以上悪いことが起きるはずがないよな?』」

 と、ここまで書いて、次はいきなり長崎上空の話になる。

「私は目を疑った。長崎は高度1800メートルから2400メートルのあいだが80から90パーセントの積雲で覆われていた。目視による投下は不可能のようだった。北西から近づいていた我々は、あと数分で攻撃始点に到着するところだった」

 小倉上空から長崎へと行先を変更してから、攻撃始点が見えるまでのコースが何も書かれていないのだ。日本軍の戦闘機の基地の真上を通る覚悟を決めたにしては、この記述はあまりにそっけない。

 元長崎放送記者の伊藤氏は、著書「原子野の『ヨブ記』」の中で、長崎原爆の投下機の”行動”について疑問を呈している。

「当日の第一目標都市小倉から長崎へとむかった投下機のコースも不思議で、直行したのではなく熊本上空までまっすぐ南下し、そのまま九州を横断して南方海上へ離脱する勢いを見せつつ、思いだしたように旋回して長崎へむかっています。このとき機長は一滴のガソリンもむだにしたくない心境に追い込まれていたはずですが」

(高瀬殻(著)『ナガサキ消えたもう一つの「原爆ドーム」』(平凡社・2009年)65〜66ページ)

http://www.amazon.co.jp/%E3%83%8A%E3%82%AC%E3%82%B5%E3%82%AD-%E6%B6%88%E3%81%88%E3%81%9F%E3%82%82%E3%81%86%E4%B8%80%E3%81%A4%E3%81%AE%E3%80%8C%E5%8E%9F%E7%88%86%E3%83%89%E3%83%BC%E3%83%A0%E3%80%8D-%E9%AB%98%E7%80%AC-%E6%AF%85/dp/4582824536/ref=sr_1_2?ie=UTF8&qid=1430386454&sr=8-2&keywords=%E3%83%8A%E3%82%AC%E3%82%B5%E3%82%AD%E3%80%80%E6%B6%88%E3%81%88%E3%81%9F%E3%82%82%E3%81%86%E4%B8%80%E3%81%A4%E3%81%AE


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3.なぜ、熊本上空に向かったのか?

 不思議である。プルトニウム爆弾を積んだB29ボックスカーは、小倉から長崎に向かった。だが、その航路を同機の機長であったスウィーニーは、著書の中で、明らかにしていないのである。一方、そのボックスカーが実際に飛んだ航路は、小倉から長崎に直行する航路ではなく、何と、一旦、熊本上空に南下し、それから旋回して長崎に向かう航路だったと言うのである。何故、そんな遠回りの航路で長崎に向かったのだろうか?


だからこそ、高瀬氏も、そして、上の記事で著書の一節を引用されている伊藤氏も、その事を奇妙に感じているのである。そして、当のスウィーニー機長は、なぜ、小倉から長崎に向かった航路を書かなかったのだろうか?それは、その航路に、この標的の変更が、どのようにになされたか?が反映されているからではないのだろうか?その点について、高瀬氏は、次のような重要な事実を書いている。

 

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 小倉への原爆投下が無理と判断したスウィーニーは、ボックスカーの機首を長崎へと旋回させた(以下スウィーニーの『私はヒロシマ、ナガサキに〜』を参考に記述してみる)。

 同行した僚機であるフレッド・ボックの乗ったB29もそれに従ったが、ここでスウィーニーは失敗をしている。まず、右側にいると思っていたボックの機が左翼側にいたためにわからなくなり、「ボックはどこだ?」と叫んだのである。しかもその時、肘で通信指令用のスイッチを押してしまったため、叫んだ声は日本中で傍受される状態となった。

 そこに、屋久島上空で落ち合えなかったホプキンズ中佐が突然、問い返してきた。

 「チャック?君なのか、チャック?いったいどこにいるんだ?」

 これも不用意な応答だった。

 ホプキンズは、その間にも作戦上の大きな失敗を犯していた。屋久島上空での合流に失敗したとわかったとき、通信を傍受されるために禁止されていた「無線封止」を勝手に破り、テニアンに連絡したのである。

 「スウィーニーは止めたのか?」

 これに対し、テニアンの司令部では、「スウィーニーは止めた」と受け止めた。しかも、日本中に作戦を察知されるような内容の話が伝えられたことで、テニアンはパニックに陥ったという。

 詳細を確認できない司令部では、幹部の多くが、スウィーニーたちは作戦を中止したと考えた。

(高瀬殻(著)『ナガサキ消えたもう一つの「原爆ドーム」』(平凡社・2009年)63〜64ページ)

http://www.amazon.co.jp/%E3%83%8A%E3%82%AC%E3%82%B5%E3%82%AD-%E6%B6%88%E3%81%88%E3%81%9F%E3%82%82%E3%81%86%E4%B8%80%E3%81%A4%E3%81%AE%E3%80%8C%E5%8E%9F%E7%88%86%E3%83%89%E3%83%BC%E3%83%A0%E3%80%8D-%E9%AB%98%E7%80%AC-%E6%AF%85/dp/4582824536/ref=sr_1_2?ie=UTF8&qid=1430386454&sr=8-2&keywords=%E3%83%8A%E3%82%AC%E3%82%B5%E3%82%AD%E3%80%80%E6%B6%88%E3%81%88%E3%81%9F%E3%82%82%E3%81%86%E4%B8%80%E3%81%A4%E3%81%AE

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 つまり、このような失態があったために、スウィニー機長は、ボックスカーが小倉への原爆投下を中止して長崎に向かうまでの間の事を自著に書かなかったのではないか?と推察する事が可能である。

真実は、スウィニー機長と当時の関係者にしかわからない。そして、彼らは既に故人であるから、新たな記録が公開されでもしない限り、真実は不明のままである。だが、そう推察する事は十分可能である。

しかし、それでもなお、あの日、長崎に原爆が落とされた理由には、謎が残るのである。それは、上に引用した高瀬氏の指摘に有る通り、ボックスカーは、或る理由から、小倉に到着した時点で既に燃料の不足が心配されていた事である。それなのに、なぜ、ボックスカーは、小倉から長崎へと直行せず、わざわざ熊本上空を経由して、長崎に向かったのだろうか?

4.小倉上空で何が決断されたか?

 私の考えを言おう。それは、スウィニー機長が、小倉上空で、一旦、その日の原爆投下を中止する決断をしたからである。彼は、小倉上空で、第一目標であった小倉の気象条件が原爆投下に適さない事を見取った後、一旦そこで、その日の作戦(原爆投下)を中止して、帰投する決断をしたのである。そうとしか考えようが無い。何故なら、今日信じられているように、小倉上空で長崎に向かうことを決断したのなら、まっすぐ直線航路で長崎に向かうか、或いは、仮に日本側の迎撃を警戒して海上に出るにしても、玄海灘上空に向かう筈である。わざわざ南方の熊本上空を経由して長崎に行く理由は無い。しかし、彼が現に熊本上空を目指したのは、スウィニー機長が、小倉上空で沖縄に帰投する決断をし、南に向かったからだとしか考えようが無い。そして、一旦帰投を決めて南に向かった後、恐らくは上層部からの指示が有り、矢張り、その日に原爆を投下せよと言う指示を受け、南九州上空で進路を再変更して長崎に向かったのではないか。私には、そうとしか思えないのである。熊本上空に向かったのは、もちろん、標的にリストアップされていなかった熊本に原爆を投下する為ではなく、帰投しようとして、九州南部に差し掛かったあたりで、「長崎に原爆を投下せよ」と言う指示を受け、急遽、長崎に向かったのだろうと、私は、推論する。既に燃料が不足していたにも関わらず、わざわざ遠回りの経路を飛んで、ボックスカーが長崎に向かったのは、そうした変更の反映であったと私は考えるのである。

 それは、何故か?それは、アメリカには、どうしても、その日(8月9日)の内にボックスカーに搭載された原爆を投下しなければならない理由があったからである。

5.プルトニウムの崩壊熱

 長崎に投下された原爆は、プルトニウム爆弾であった。もう一度言おう。一旦、小倉上空に運ばれ、小倉への投下が中止された後、不可解な航路で長崎に運ばれ、投下されたその爆弾は、プルトニウム爆弾であった。プルトニウム爆弾は、大量生産に適し、その理由から、戦後の核兵器はプルトニウム爆弾が主流と成ったが、長崎に投下されたのは、そのプルトニウム爆弾であった。ただし、そのプルトニウム爆弾にも、色々有る。長崎に投下されたプルトニウム爆弾は、その前月、人類初の核実験で使われたトリニティでの原爆と共に、その最も初期のプルトニウム爆弾であった。そして、その最も初期のプルトニウム爆弾には、核兵器として、大きな問題を持っていた。それは、その弾頭に使われたプルトニウムが、非常に大きな崩壊熱を放出していた事である。この最初期のプルトニウム爆弾製造に使用されたプルトニウムは、核弾頭として爆発する前から、既に大きな熱を崩壊熱として放出するプルトニウムだったので、使用にあたって、或る問題が存在していた。それは、その大きい崩壊熱によって、弾頭を組み立てた後、早くに投下、爆発させないと、その原爆の核弾頭が変形してしまう可能性が高かったことである。だから、長崎に投下された原爆は、投下直前に組み立てられていたのである。このプルトニウム爆弾の崩壊熱は、仮に日本が核武装するとした場合、その障害となる大きな問題でもある。それについて、専門家中の専門家の言葉を紹介しよう。

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 フランク・フォンヒッペルさんの朝日新聞社からのインタビューへの回答「日本よ核不拡散に動け」(「朝日新聞」2012年6月6日付朝刊)を拝見いたしました。全体的には同意いたします。ただひとつ、同意しかねる問題、たぶん根拠のない軽言と受け止めましたが、ことがことだけに公開質問とさせていただきます。
 朝日新聞社は「使用済み核燃料のプルトニウムは核兵器用と少し組成が違います。核兵器の材料にならないのではとの意見も日本にはありますが」と問いました。私もこれまで同様の疑問を呈してまいりました。その根拠も挙げました。
 朝日新聞社の問いに対し、フランク・フォンヒッペルさんは、「日本に投下された原爆を設計した米国のロスアラモス研究所で理論部長を務めた専門家が、長崎型の設計に基づいて、原爆からのプルトニウムを材料に核爆弾をつくる計算をした。確率論だが、少なくとも長崎に投下された原爆の20分の1ほどの爆発力があるとの結論がでました。20分の1でも、破壊される面積の半径は、長崎での被害域の約四割にもなる。進んだ設計にすれば兵器用と原発用の差は縮む」と回答されました。
 フランク・フォンヒッペルさんの回答には新しい情報は何ひとつありませんでした。原発からのプルトニウムで核兵器を一時的に組み、一時的に実験することは可能です。しかし、実戦配備できません。威力が小さいからではありません。理由は他にあります。
 それは、プルトニウム238(プルトニウム239の(n.2n)反応で生成されます)からの崩壊熱が大きいため、プルトニウム球と周辺の火薬を安定・安全に長時間維持できないためです。兵器級プルトニウムでは、プルトニウム239の割合が93%以上であり、崩壊熱が問題となるプルトニウム238や241の割合はわずかです。たとえば、長崎型では崩壊熱は数十W(ワット)でした。それでも熱問題に配慮して投下直前に組み立てました。原発プルトニウムの場合、崩壊熱は200Wから300Wに達します。わずかソフトボール大のプルトニウム球からそれだけの発熱があるのです。周辺を爆縮用火薬で密閉された容器内ではプルトニウム球は溶融します。ですから一時的に組み、一時的に実験できれも、実戦配備はできません。
 いまの技術では崩壊熱を効果的に除去できません。『米科学アカデミー報告書』にもそのように記されています。その熱問題を解決できたという文献は、私の調査に拠れば存在いたしません。
 世界では、原発プルトニウムで一時的に実験した例は一例だけ存在しますが(米国が英国から入手した商業発電用黒鉛減速炉からの推定純度70%のプルトニウム)、実戦配備された例は公表されていません。みな、重水炉のような専用プルトニウム生産炉で生成した兵器用プルトニウムが利用されています。彼らは、原発プルトニウムを利用できれば、民事施設と軍事施設という二重投資の必要がなくなることを十分認識していますが、それができません。

(桜井淳 (著)「日本『原子力ムラ』行状記」(論創社・2013年)94〜95ページ)
http://www.amazon.co.jp/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%80%8C%E5%8E%9F%E5%AD%90%E5%8A%9B%E3%83%A0%E3%83%A9%E3%80%8D%E8%A1%8C%E7%8A%B6%E8%A8%98-%E6%A1%9C%E4%BA%95-%E6%B7%B3/dp/4846012816/ref=sr_1_2?ie=UTF8&qid=1389508747&sr=8-2&keywords=%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%80%80%E5%8E%9F%E5%AD%90%E5%8A%9B%E3%83%A0%E3%83%A9


桜井淳(さくらいきよし)1946年群馬県生まれ。
1971年東京理科大学大学院理学研究科終了(理学博士)、2008年東京大学大学院総合文化研究科広域科学専攻研究生修了(科学技術社会論で博士論文作成中)、2009年4月から東京大学大学院人文社会系研究科で「ユダヤ思想」や「宗教学」の研究中、2009年9月から茨城新聞社客員論説委員兼務中。
物理学者、社会学者、技術評論家(「元日本原子力研究開発機構研究員、元原子力安全解析所副主任解析員、元原子力産業会議非常勤嘱託)。
学会論文誌32編(ファーストオーサー21編)及び国際会議論文50編(ファーストオーサー40編)。
著書『桜井淳著作集』など単独著書30冊(単独著書・共著・編著・監修・翻訳など50冊)。現在、自然科学と人文社会科学の分野を中心とした評論活動に専念。
(同書巻末の著者略歴全文)
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 これは、日本を代表する原子力分野の専門家である、物理学者の桜井淳博士が、自著の中で、日本の核武装の可能性について論じた文章の一節である。桜井博士のこの文章は、「日本の核武装」と言うホットなトピックスを、その是非ではなく、それが本当に可能か?と言う視点から論じた一文であるが、ここで桜井博士が語っているのは、まさに、このプルトニウムの崩壊熱の問題である。お読みの通り、桜井博士は、しばしば論じられる「日本の核武装」について、日本が保有するプルトニウムは、崩壊熱が大きい為、仮に日本が、保有するプルトニウムで原爆を製造した場合、その崩壊熱によって弾頭が変形してしまうと、予言している。そして、それを理由として、日本が現在保有するプルトニウムでは、日本は、「(核弾頭を)一時的に組み、一時的に実験できれも、実戦配備はできません。」と断言するのである。

6.もし、ボックスカーが帰投していたら

 

 桜井博士のこの文章は、「日本の核武装」を物理学者の視点から論じた一文であり、歴史問題を論じたものではない。だが、この文章の中で同博士が言及している長崎原爆の特性に注目して欲しい。桜井博士は、こう指摘している。

「たとえば、長崎型では崩壊熱は数十W(ワット)でした。それでも熱問題に配慮して投下直前に組み立てました。原発プルトニウムの場合、崩壊熱は200Wから300Wに達します。わずかソフトボール大のプルトニウム球からそれだけの発熱があるのです。周辺を爆縮用火薬で密閉された容器内ではプルトニウム球は溶融します。」(同)

 つまり、仮に日本が、現在保有するプルトニウムで核弾頭を製造した場合と同様、長崎に投下されたプルトニウム爆弾は、その崩壊熱が余りに大きかったため、「熱問題に配慮して投下直前に組み立てました。」、「周辺を爆縮用火薬で密閉された容器内ではプルトニウム球は溶融します。」と言った物理的問題を持っていたと言うのである。

 これは、第一世代のプルトニウム爆弾であった長崎原爆の兵器としての欠点であったと言ってよい。弾頭に使われたプルトニウムの崩壊熱が大きい為、投下直前に組み立てねばならず、時間が経てば、崩壊熱によってプルトニウム球は溶融し、使えなくなるような扱いにくい原爆だったのである。

 更には、8月9日以後、日本列島周辺では天候の悪化が予報されていた。従って、仮に8月9日に原爆を投下できなかったとすれば、再度、原爆投下を決行するのは、翌日ではなく、数日後に成った筈である。従って、仮に、あの日(1945年8月9日)、小倉への原爆投下を中止した後、スウィニー機長が、その日の原爆投下を断念し、基地に帰投してしまえば、小倉に投下される予定だったプルトニウム爆弾ファットマンは、使用不能の原爆になっていた可能性が大きいのである。

7.原爆の経済学

 原爆投下が行なわれた当時のアメリカ軍内部の意思決定プロセスについて、前出のゴードン氏はこう書いている。

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 原子爆弾使用の指揮系統は、軍事史家らがしばしば指摘するように、きわめて不規則であった。この兵器の位置づけに対する指導者層の態度の曖昧さをある程度反映していた。公式には、指揮系統のトップはトルーマンとグローヴス(そして彼の文民の上司スティムソン)で、その下がAAFの総司令官ハップ・アーノルド、その下がスパーツ、さらにその下がスパーツの参謀長カーティス・ルメイであった。グローヴスの伝記作家は、全空軍将校の上に一人の陸軍少将が据えられるという通常では考えられない指揮系統をグローヴスが構想したと考えているが、グローヴスがそれに相当程度関与していたのは明らかである。その際グローヴスは、原爆投下決定に関わる全員が、原子爆弾が必要なだけ(あるいは可能な限り)速やかかつ繰り返し使われるのを確認できるように、指揮系統を構築した。想像しにくいが、実際には彼がほぼ一人でそれを成し遂げたのである。

(マイケル・D・ゴードン(著)林義勝(訳)藤田怜史(訳)武井望(訳)『原爆投下とアメリカ人の核認識』(彩流社・2013年)78ページ)

http://www.amazon.co.jp/%E5%8E%9F%E7%88%86%E6%8A%95%E4%B8%8B%E3%81%A8%E3%82%A2%E3%83%A1%E3%83%AA%E3%82%AB%E4%BA%BA%E3%81%AE%E6%A0%B8%E8%AA%8D%E8%AD%98-%E9%80%9A%E5%B8%B8%E5%85%B5%E5%99%A8%E3%81%8B%E3%82%89%E3%80%8C%E6%A0%B8%E3%80%8D%E5%85%B5%E5%99%A8%E3%81%B8-%E3%83%9E%E3%82%A4%E3%82%B1%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%82%B4%E3%83%BC%E3%83%87%E3%82%A3%E3%83%B3/dp/477911926X/ref=sr_1_1?s=books&ie=UTF8&qid=1430378896&sr=1-1&keywords=%E5%8E%9F%E7%88%86%E6%8A%95%E4%B8%8B%E3%81%A8%E3%82%A2%E3%83%A1%E3%83%AA%E3%82%AB%E4%BA%BA%E3%81%AE


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 これが、小倉上空で小倉への原爆投下を中止した後、スウィニー機長が、一旦基地帰投を決断しながら、再度、その方針が変更され、ボックスカーが、わざわざ遠回りの航路を飛んで、長崎に向かった混乱の背景だろう。そして、燃料不足で、基地への帰投すら危ぶまれたボックスカーが、それでも長崎に向かった背景には、上に述べたプルトニウム弾頭の崩壊熱による弾頭変形の可能性と共に、もうひとつ、次の要因が有ったと推察される。

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 マンハッタン計画に使われた20億ドルと、その他のいくつかの研究、開発、製造計画を比較すると、得るところが大きい。当時たいていの研究開発はこんなに高くはつかなかった。たとえばP−38戦闘機の開発費は85万2千ドルだった。1939年ルーズベルト大統領は航空軍団創設の金を議会に要求した。要求は飛行機5千5百機の設備と生産、必要産業の創設、基地建設と人員2万人の訓練で、推定支出は3億ドルだった。

(中略)

 原爆計画全体を厳密に戦時計画とするならば、使われた二つの原爆への支出は、第二次大戦中に使われ、原爆よりもはるかに破壊効果をあげたすべての通常爆弾への総支出を25パーセント下まわるだけである。すべての地上重火器の調達費はマンハッタン計画の4分の1よりもはるかに低く、また8百万人近くの大軍に支給した全小火器の費用は、マンハッタン計画とほぼ同じだった。

 この莫大な支出が、議会と行政府部内からも、問題にされた。上院議員時代のトルーマンは、上院国防計画特別委員長として、国家の戦争努力の公正確実を期すと豪語していたため、執拗な質問を続けていた。マンハッタン計画の情報を得ようと繰り返し試みて失敗したあげく、彼は1944年3月10日「この計画を調査するための小委員会の任命を考慮せざるをえまい。諸君の緊急要請により、通常の手続きは今回はとらない。したがって、避けることができたはずの無駄使いや不正行為の責任は、今回はあげて陸軍省にある」といった。

(アージュン・マキジャニ(著)ジョン・ケリー(著)関元(訳)『WHYJAPAN?−−原爆投下のシナリオ』(教育社・1985年)114〜116ページ)

http://www.amazon.co.jp/Why-Japan-%E2%80%95%E5%8E%9F%E7%88%86%E6%8A%95%E4%B8%8B%E3%81%AE%E3%82%B7%E3%83%8A%E3%83%AA%E3%82%AA-%E3%83%AF%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%89%E3%83%96%E3%83%83%E3%82%AF%E3%82%B9-%E9%96%A2/dp/4315501980/ref=sr_1_1?ie=UTF8&qid=1431399728&sr=8-1&keywords=WHY+JAPAN%3F+%E3%83%9E%E3%82%AD%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%83%8B

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 これだけの巨費を投じて作られたプルトニウム爆弾が、もし使用されないまま、崩壊熱によって弾頭が変形して使用不能になったとしたら、アメリカ軍内部において、その「責任問題」が生じた事は想像に難くない。又、それは、当時のアメリカのプルトニウム爆弾の弱点をさらす結果にもなった筈である。そう考えると、あの日、アメリカ軍上層部が、何が何でも、8月9日のうちに、日本のどこかに、巨費を投じて製造したプルトニウム爆弾を投下して、「使ってしまいたかった」理由が、理解できるのである。

 これが、あの日、長崎に原爆が投下された理由だったのではないだろうか?

(終はり)

核時代(西暦2016年)8月9日(火)

長崎の原爆投下から71年目の日に


西岡昌紀

西岡昌紀(にしおかまさのり)


1956年東京生まれ。主な著書に「アウシュウィッツ『ガス室』の真実/本当の悲劇は何だったのか?」(日新報道・1997年)、「ムラヴィンスキー・楽屋の素顔」(リベルタ出版・2003年)、「放射線を医学する・ここがヘンだよホルミシス理論」(リベルタ出版・2014年)が有る。


http://www.asyura2.com/16/warb18/msg/402.html

[戦争b18] (書評)会田 法行(著)「被爆者―60年目のことば 」   西岡昌紀
(書評)会田 法行(著)「被爆者―60年目のことば (シリーズ・自然 いのち ひと) 」大型本 – 2005/7

https://www.amazon.co.jp/%E8%A2%AB%E7%88%86%E8%80%85%E2%80%9560%E5%B9%B4%E7%9B%AE%E3%81%AE%E3%81%93%E3%81%A8%E3%81%B0-%E3%82%B7%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%82%BA%E3%83%BB%E8%87%AA%E7%84%B6-%E3%81%84%E3%81%AE%E3%81%A1-%E3%81%B2%E3%81%A8-%E4%BC%9A%E7%94%B0/dp/459108731X/ref=sr_1_1?ie=UTF8&qid=1470833996&sr=8-1&keywords=%E8%A2%AB%E7%88%86%E8%80%85

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5つ星のうち 5.0


今を生きる被爆者たちの写真集--破壊された教会以上の奇跡を伝える本,


2005/8/9

By 西岡昌紀


 長崎の浦上天主堂の丘の下に、不思議な物が在る。それは、レンガ造りの教会の鐘塔である。だが、その鐘塔は、地面に突き刺さった姿で、そこに横たわって居るのである。まるで、墓標の様に。--それは、長崎に原爆が投下された時、その上の丘から吹き飛ばされて、そこに落下した教会の一部なのである。--初めて長崎を訪れた時、私は、その落下した教会の一部を見て、強い衝撃を受けた。長崎は、多くの隠れキリシタンが、永い間、信仰を守り続けて来た土地である。そして、浦上天主堂は、その信仰厚い人々が、祈りを捧げて来た場所であった。しかし、その丘に立つ教会が、1945年8月9日、キリスト教徒の国からやって来た飛行機が投下した原爆によって、吹き飛ばされ、丘の下へと落下したのであった。それも、長崎の頭上を覆う厚い雲が途切れた一瞬に。その、原爆で吹き飛ばされ、落下した教会の一部を見た時、私は、「神は、存在するのだろうか?」と思はずには居られなかった。--この写真集を見て、私は、ふと、長崎の浦上の丘の下に横たわる、あの教会の残骸を思ひ出した。そして、地面に突き刺さる様な姿で、そこに横たわって居たあの聖なる残骸が、私に投げ掛けた問いを再び、自分の中で、自問した。「神は存在するのか?」と。この本が伝える、広島と長崎に生き続ける被爆者達の体験は、それほどに、過酷であり、無慈悲な物である。だが、あれほどの試練を受けながら、なお、この世界に希望を持ち、生き続ける被爆者達が居ると言ふ、この本が伝える事実は、奇跡と呼ぶ他の無い物である。その奇跡の大きさは、私が、あの教会の残骸の前で覚えた絶望より、大きな物かも知れないと、私は、今、思ひ始めて居る。


(西岡昌紀・内科医/長崎の原爆投下から60年目の日に)

*


http://www.asyura2.com/16/warb18/msg/415.html

[マスコミ・電通批評15] 日本テレビ「世界一受けたい授業」の大ウソ−−ヒトラーとジェシー・オーウェンスの真実   西岡昌紀
*


今、テレビを見て居たら、日本テレビで「世界一受けたい授業」と言ふ番組が放送されて居た。ベルリン・オリンピックとヒトラーに関する話だったのだが、その中で、既に完全に否定されて居る真っ赤なウソが語られて居たので以下に指摘する。http://www.ntv.co.jp/sekaju/


1936年のベルリン・オリンピックで、アメリカの黒人選手ジェシー・オーウェンス(Jesse Owens)が優勝した際、黒人と握手をしたくなかったヒトラーが、急いで会場を後にした、と言ふ話だ。この話、真っ赤なウソなのだ。⇒http://www.ihr.org/jhr/v5n1p123.html


日本のテレビ局は、どうして、こう不勉強なのだ。この話は、とっくに否定されて居る。ヒトラーは、黒人と握手したくなくて急いで会場を出たと言ふが、ヒトラーが会場を出たのは、競技の結果が出る前だったのだ。⇒http://www.ihr.org/jhr/v5n1p123.html


競技の結果が出る前に、ヒトラーは、黒人が勝つと知って居たのだろうか?超能力者でない限り有り得ない事だ。ヒトラーは、時間が遅かったので、オーウェンス達が出場する競技の結果が出る前に、会場を出ただけだったのだ。それを「ヒトラーは黒人と握手したくなくて早く帰った」と言って居るのだ。


嘘だと思ふなら、これを読むべきだ。もっとも、日本テレビの職員は、英語を読めないかも知れないが。⇒http://www.ihr.org/jhr/v5n1p123.html


言ふまでも無いが、これは、ヒトラーやナチスをどう考えるかとは、全く別の問題だ。これは、単に、ヒトラーが何時に帰ったか、と言ふだけの問題だ。それを指摘しただけで、「ナチス礼賛」などと言ふ人は居ない筈だが、日本のマスコミなら、言ひかねない。

http://www.ihr.org/jhr/v5n1p123.html


大体、この時代(1936年)に、アメリカの黒人は、アメリカで、どんな扱ひを受けて居たのだ?1950の年代に成っても、バスの座席が白人と黒人で区別されて居たんじゃないのか?そんな国に、ヒトラーがただ早く帰ったと言ふだけの理由で、ヒトラーの「人種差別」など語る資格が有るのか?


そして、もう一度言ふが、この話はウソなのだ。そして、そんなとっくに否定されたデマをありがたがって放送してゐる日本のテレビとは、一体、何なのだ?http://www.ihr.org/jhr/v5n1p123.html


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http://www.asyura2.com/16/hihyo15/msg/237.html

[国際15] 「皇帝は歴史の奴隷である」(トルストイ)−−ペレス前イスラエル大統領の死に思ふ   西岡昌紀
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http://blog.livedoor.jp/nishiokamasanori-rekishiokangaeru/archives/66157358.html


http://mixi.jp/view_diary.pl?pt=1475242890&content_id=4217509&route_trace=010002700000&destination=diary%2F6445842-1955827355&sig=7c18b3d10a7993a103faa81d6054dce3fe3a524a&from=news&id=1955827355&owner_id=6445842


トルストイの『戦争と平和』に、忘れられない一文が有る。−−「皇帝は、歴史の奴隷である。」−−と言ふ文だ。即ち、皇帝が命じて国家を動かすと言ふのは見かけだけで、真実は、皇帝は、歴史の流れに沿って動いてゐるだけだ、と言ふ意味だ。最近、この文を思ひ出す事が二度有った。


『戦争と平和』の中で、トルストイが「皇帝は、歴史の奴隷である。」と言ふ一文を書いたのは、ナポレオンの侵攻に対抗して、ロシア軍が決起する場面においてだ。それは、皇帝が、居並ぶロシア軍兵士の前で、出陣の号令を掛ける場面だ。その光景に対するトルストイの言葉が、この一文なのだ。


即ち、一見、それは、皇帝の命令によって、ロシアがナポレオンに対して立ち上がったかの様に見える光景である。しかし、真実は、皇帝が命令したから戦争が始まったのではなく、戦争が不可避に成ったから、皇帝は、戦ひを命じる役を演じてゐるだけだ、と言ふ事なのだ。


それが、『戦争と平和』における「皇帝は、歴史の奴隷である。」と言ふ言葉の意味である。


自分は、『戦争と平和』のこの一文を、最近、二度思ひ出す機会が有った。


一度目は、『シン・ゴジラ』を見た時だ。ゴジラに翻弄される日本の総理大臣も、アメリカの大統領補佐官も、皆、「歴史の奴隷」に見えた。−−日米の政治家たちを、見事に「歴史の奴隷」として描いた庵野秀明監督は凄い。


そして、二度目は、2日前のシモン・ペレス前イスラエル大統領(1923−2016)の訃報に接した時だ。ペレス氏も、トルストイが「歴史の奴隷」と呼んだ役割を演じた人物だったと、自分は思ふ。


頓挫した中東和平におけるペレス氏の役割は、まさしく、「歴史の奴隷」だった。何故なら、世界は、中東和平を必要としてゐたからだ。それが実現しなかった事が、現在の世界の混乱の原因のひとつだと自分は思ってゐる。


もちろん、ペレス氏の政治家としての生涯を全肯定するのではない。多くのパレスチナ人から見れば、彼も、「シオニスト」の一人に過ぎない、と言はれるであろう事は、良く知ってゐる。又、逆に、イスラエル右派からは、ペレス氏が、無責任な「左翼政治家」と批判されてゐる事も知ってゐる。


政治は結果だ。だから、オスロ協定が破綻し、中東和平が実現しなかったと言ふ結果から見れば、彼は『シン・ゴジラ』の大河内総理大臣と同様、敗者である。それは、わかって居る。


だが、ペレス氏の訃報に接して思ふ事は、氏が取り組んだ事は肯定的に評価されるべきだ、と言ふ事だ。ペレス氏のやり方が稚拙であったと言ふ批判はもちろん有るだろうし、「シオニストはシオニスト」と言ふパレスチナ人多数派の冷めた感情は百も承知して居る。だが、それでも、自分はそう思ふ。


ペレス氏は、稚拙ではあっただろう。そして、そもそも、パレスチナに対する侵略を行なった側(シオニスト)の一人である事は、言ふまでも無い。しかし、それでも自分は言ふ。限界と批判されるべき点は有ったが、ペレス氏は、ユダヤ人が進むべき道が何であるかを理解してゐた政治家ではあったと。


これが、トルストイの言ふ「歴史の奴隷」の意味である。優れた政治家は、皆、自分が「歴史の奴隷」である事を理解して居る筈だ。ペレス氏は、歴史が自分に何を命じてゐるかを正しく理解した「奴隷」であったと、自分は思ふ。


イスラエルとシオニズムを批判する事が多い自分だが、中東和平の実現を志向したペレス氏(1923−2016)の評価すべき点は、公平に評価したい。御冥福をお祈りする。


2016年(平成28年)9月30日(金)


西岡昌紀


http://blog.livedoor.jp/nishiokamasanori-rekishiokangaeru/archives/52050190.html

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ペレス前大統領の棺、イスラエル国会に 各国要人ら追悼
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2016年09月29日 23:26 朝日新聞デジタル

朝日新聞デジタル


写真イスラエルの国会で29日、ペレス前大統領の棺に追悼に訪れた人たち=渡辺丘撮影
イスラエルの国会で29日、ペレス前大統領の棺に追悼に訪れた人たち=渡辺丘撮影

 28日に死去したノーベル平和賞受賞者のイスラエルのシモン・ペレス前大統領の棺が29日、エルサレムの国会に移され、ネタニヤフ首相やビル・クリントン元米大統領ら各国要人や多くの市民が追悼に訪れた。


 30日の国葬には、オバマ米大統領やオランド仏大統領らが参加。日本から、日イスラエル友好議員連盟会長の中谷元・前防衛相が首相特使として派遣される。


 ローマ・カトリック教会のフランシスコ法王は28日、弔電で「平和へのたゆみない努力に改めて感謝している。彼の思い出と何年にもわたる貢献が、私たち皆が人々の和平と和解へ向けて動くよう鼓舞することを望む」と哀悼の意を示した。(エルサレム=渡辺丘)

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http://www.asyura2.com/16/kokusai15/msg/456.html

[国際15] 「検閲は怖くない。怖いのは、映画を作る側の自主規制だ。」−−アンジェイ・ワイダの遺言  西岡昌紀
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http://blog.livedoor.jp/nishiokamasanori/archives/8621875.html
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1956198349&owner_id=6445842

アンジェイ・ワイダの遺言


1.虫の知らせ?

 それは、「虫の知らせ」だったのだろうか?「体育の日」の休日であった10月10日(月)、私は、時間が有ったので、朝と夕方、私にしてはかなり長い時間、ピアノを練習した。その際、朝から、何故か、ショパンの『革命』を何度も何度も弾いたのである。

 周知のとおり、『革命』は、ショパンがドイツに滞在して居た際、故国ポーランドでポーランドを支配して居たロシアに対する「革命」が勃発したものの、その「革命」がロシアによって鎮圧され、多くのポーランド人が殺される悲劇に終わった事を知った際、激情に駆られて作曲した練習曲である。

 その日、朝と夕方、ピアノを長時間弾くことが出来た私は、何故か、その日に限って、本当に、その『革命』ばかり練習したのである。そして、夜、家に帰って驚いた。ポーランドの映画監督アンジェイ・

ワイダ(1926−2016)が死去した事をインターネットで知ったからである。

 私は、もちろん、ワイダ監督と面識は無い。だが、若い頃から、ワイダ監督の作品に深い影響を受けて来た人間である。これは「虫の知らせ」だったのだろうか?と、私は思った。

2.ワイダとポーランド


 10月9日、『灰とダイヤモンド』、『地下水道』、『大理石の男』、そして、『カティンの森』などの作品で知られるポーランドの映画監督アンジェイ・ワイダ(1926−2016)が死去した。90歳だった。

 若い頃、ワイダ監督の作品に深い影響を受けた一人として、同監督の死去には感慨を抱いた。彼の映画から受けた影響と感化は、私にとって非常に貴重な物であった。又、思いだしたのは、ポーランドで民主化運動が高まっていた1981年の夏、たまたま、日本で複数のポーランド人と関わりを持った時期に、私が会ったポーランド人たちが、全員、ポーランドの戦後の暗部を取り上げたワイダの『大理石の男』を絶賛していた事を思い出した。その時、一人の映画監督が、ひとつの国民の代弁者になり得る事を痛感した事が忘れられない。

 2011年に日本で公開された『カティンの森』は、題名が示す通り、「カティンの森事件」と呼ばれる、ソ連によるポーランド人将校大量殺害を主題にした作品であるが、ワイダ監督の父親も、その犠牲者であった事を知ったのは、ポーランドが民主化された後の事であった。「愛国者」とは、ワイダ監督の為にある言葉ではないか、と私は思う。ただし、ワイダ監督は、決して、盲目的な「愛国者」ではなかったと、私は思う。それは、例えば、ワイダ監督の次の言葉などに現れている。

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ワイダ  ヒロイズムはポーランド人にとっては欠かせない要素である。しかし、私の描くヒロイズムにはあるアイロニーがある。ヒロイズムはしばしば別の目的に利用される。ナポレオン時代に、ポーランド人はナポレオンを革命的な皇帝だと思った。そこでナポレオンに従ったポーランド軍は、サント・ドミンゴという島に派遣された。ところがそこでは黒人が自由をめざしてフランスに反抗しているのを弾圧する側にまわされた。自由を望むポーランド人が、自由を望む人びとを弾圧することになったのだ。

(佐藤忠男『現代世界映画』(評論社・1970年)382ページ)
http://www.amazon.co.jp/%E7%8F%BE%E4%BB%A3%E4%B8%96%E7%95%8C%E6%98%A0%E7%94%BB-1970%E5%B9%B4-%E4%BD%90%E8%97%A4-%E5%BF%A0%E7%94%B7/dp/B000J92LXQ/ref=sr_1_1?ie=UTF8&qid=1363910933&sr=8-1

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 こうした自国民への醒めた目を持っていたことも、ワイダ監督の優れた資質であったと思う。個人的な事を言うが、私は、イラク戦争の後、ポーランド軍がイラクに派遣されたのを見た時、ワイダ監督のこの言葉を思い出した事を述べておく。

3.日本美術との出会い

 そのワイダ監督について、日本人が記憶すべきことは、ワイダ監督が、深く、日本と日本文化を愛した事である。その日本と日本への愛情の深さは、「親日的」などと言う言葉で言い現されるようなものではない。特に、美術や映画をはじめとする日本文化に対するワイダ監督の見識の深さは、単なる「親日家」などと言う人物のそれではなく、優れた芸術家でなければ持ちえない深いものであった。その一例を示そう。

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−−黒沢の名が出たのでお聞きしたいが、日本映画には関心をお持ちですか?

ワイダ もちろん、ほんとに大きな関心をもっています。世界に、真に民族的な映画がふたつある。・・・・・いや、みっつと言いたいところだが・・・。ひとつはアメリカ映画で、もうひとつは日本映画です。ふたつの国は、自国内の観客の数が多いので、外国で受けることを気にしないでつくっている。つまり媚態がない。まあロシヤ映画にもそういうことがいえますね。ヨーロッパの映画は、外国に対する媚態がある。日本映画の構図の美しさはまったく独特で、一眼見ただけでこれは日本映画だと分ります。広い空間に人間がひとりだけいるというような構図ですね。調和があり、ハーモニーがある。歴史ものだけではない。『野火』のような作品でも、ひじょうに大きな風景の中に人間がひとりだけ立っていて、形而上的なものを感じる。風景と人間の間に、一種のヒエラルキーがある。ちょっとなんとも比較できない非常に美しいものだ。北斎という画家は富士山を百とおり描いたそうですね。日本の残酷ものについていえば、ひじょうに私に近いものを感じるのだが、それが理想的な完璧なものになっている。神さまの眼でみているような秩序を感じるのだ。人間は問題をもっているけれど、そのバックには偉大な秩序がある。


(佐藤忠男『現代世界映画』(評論社・1970年)383〜384ページ)
http://www.amazon.co.jp/%E7%8F%BE%E4%BB%A3%E4%B8%96%E7%95%8C%E6%98%A0%E7%94%BB-1970%E5%B9%B4-%E4%BD%90%E8%97%A4-%E5%BF%A0%E7%94%B7/dp/B000J92LXQ/ref=sr_1_1?ie=UTF8&qid=1363910933&sr=8-1

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 初めてこのインタビューを読んだ時、ワイダ監督が、「日本映画の構図」について、これだけ深い分析と感情を持っている事を知って驚かされた事が忘れられない。私達日本人は、それ(日本映画の構図)に余りにも慣れ過ぎていて、こうした事に気が付かないが、ポーランド人であり、そして、元々画家を志した映画人であったワイダ監督は、こうした視点から日本映画を見、そして、北斎にまで言及して、その「日本映画の構図」の背景に在る日本の文化について、考察を行なっていたのである。

 ワイダ監督が日本文化と出会ったのは、第二次世界大戦中の事であった。ポーランドがドイツの占領下に在った1944年、当時18歳だったワイダ監督は、ポーランドの古都クラクフで、ドイツが開いた浮世絵展で、日本の浮世絵を見た。それが、ワイダ監督と日本美術の出会いであったと言う。この時の浮世絵との出会いは、若き日のワイダ監督にとって、強烈な体験だったようで、その時の浮世絵との出会いが、戦後、美術学校に入学する切っ掛けのひとつに成ったようである。

 ワイダ監督の日本美術、特に浮世絵への愛情はその後も失なわれる事無く、1987年(昭和62年)に、京都賞を受賞した際には、何と、受賞した4500万円の賞金を全額寄付し、自身が浮世絵と出会った場所であるクラクフに、日本美術の美術館を建てたほどである。そして、上のインタビューでも語られている通り、黒澤明や市川崑の作品をはじめとする日本映画への愛情、情熱も、非常に深い物であった。

ワイダ監督は、それほど、日本と日本文化を愛したのである。

4.ワイダの遺言

 そのワイダ監督が、生前、残した言葉の中で、私が、日本人が、いや、全世界の人々が記憶し続けるべきであると思う言葉がある。それは、1980年代の始め、ポーランドで民主化運動が起こり、ソ連の介入が懸念され始めた頃、日本を訪れたワイダ監督が、NHKのインタビューに答えて語った言葉である。「(社会主義国ポーランドで)映画を作る際、検閲が、障害になりませんでしたか?」と言う意味の質問に対して、ワイダ監督が口にした「答え」がそれである。検閲が、映画作りの障害ではないか?と言うNHKの質問に対して、ワイダ監督は、こう答えたのである。

「検閲は怖くない。怖いのは、映画を作る側の自主規制だ。」

 この言葉を聞いた時の感動は忘れる事が出来無い。処女作『世代』から、『灰とダイヤモンド』、『地下水道』、『大理石の男』などで、「社会主義ポーランド」の検閲に対峙し続けて来たワイダ監督が、「検閲は怖くない」と言ったのである。そして、「怖いのは、映画を作る側の自主規制だ。」と言ったのである。

 私は、この言葉は、当時の「社会主義」ポーランドだけの問題ではなく、「民主主義社会」とされる日本や欧米でも意味を持つ言葉だと思っている。そして、この言葉は、映画のみならず、小説をはじめとする文学でも、そして、言論、報道、の世界でも全く同じ意味を持った警告であると強く確信するものである。怖いのは、検閲ではないのである。怖いのは、作品を作る側、言論、報道を行なう側の自主規制なのである。「検閲」と闘い続けたワイダ監督の言葉であるからこそ、この言葉は、金言だと、私は思うのである。実際、私は、何事についてであれ、自分が「言論」を行なう時、いつも、ワイダ監督のこの言葉を思いだしている。

 ワイダ監督のこの言葉は、私達日本人のみならず、全世界の芸術家、言論人、に対する遺言である。

 ワイダ監督の御冥福をお祈りする。

(終はり)

西岡昌紀(にしおかまさのり)1956年東京生まれ。北里大学医学部卒。内科医(神経内科)。主な著書に「アウシュウィッツ『ガス室』の真実/本当の悲劇は何だったのか?」(日新報道・1997年)、「ムラヴィンスキー/楽屋の素顔」(リベルタ出版・2003年)、「放射線を医学する/ここがヘンだよ『ホルミシス理論』」(リベルタ出版・2014年)が有る。趣味は、ピアノ、クラリネット。

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http://www.nikkei.com/article/DGXLASGU06004_Q6A011C1000000/


アンジェイ・ワイダ氏が死去 映画監督

2016/10/10 10:11

ロイター

 【欧州総局】ポーランドの映画監督、アンジェイ・ワイダ氏が9日、死去した。90歳。入院中だった。ワルシャワ蜂起など史実に材を取った作品を撮り続けた。第2次大戦前後のポーランド社会の流転を描いた「灰とダイヤモンド」(1958年)など「抵抗三部作」が著名。2000年には米アカデミー賞名誉賞を受賞した。親日家としても知られた。

 26年ポーランド北東部のスバウキ生まれ。第2次大戦中は侵攻したナチス・ドイツに対する抵抗運動に参加。戦後、クラクフ芸術大を経てウッジ映画大に進んだ。

 デビュー作の「世代」に続く「地下水道」(56年)がカンヌ国際映画祭審査員特別賞を受賞。ポーランドの対ソ連地下抵抗運動を描いた代表作「灰とダイヤモンド」と共に、抵抗三部作と呼ばれる一連の作品で不動の地位を確立した。

 81年には民主化を率いた自主管理労組「連帯」を取り上げた「鉄の男」でカンヌ映画祭の最高賞、パルムドールを獲得。民主化前後の89―91年には上院議員を務め、連帯議長から大統領に就任したワレサ氏の諮問機関「文化評議会」の議長に就いた。

 晩年まで創作意欲は衰えず、07年にはソ連によるポーランド軍人らの大量虐殺事件が題材の「カティンの森」を発表。13年には「ワレサ 連帯の男」で再びポーランドの民主化への歩みを取り上げた。

 若き日に浮世絵などの日本美術に感銘を受けたのが芸術を志すきっかけだったこともあり、親日家だった。87年に受賞した京都賞の賞金を基金に母国の古都クラクフに日本美術技術センター「マンガ」を設立した。同センターは日本の伝統工芸品や美術作品で中・東欧随一のコレクションを誇る。


(日本経済新聞)


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http://www.asyura2.com/16/kokusai15/msg/654.html

[中国10] 兵馬俑に古代ギリシャ人の痕跡−−古代東アジア文明の起源は西方か?   西岡昌紀

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中国で、紀元前3世紀の欧州由来のDNAが発見され、兵馬俑が、渡来した古代ギリシャ人によって作られた可能性が出て来た、との報道が為された。


自分は、全然驚かない。秦(しん)の制度は、古代ペルシャのサトラップ制に似て居るとが、始皇帝がペルシャ人であった可能性は以前から論じられて居た。


それから、古代日本にペルシャ人が来て居たと言はれても、何も驚かない。正倉院にペルシャ由来のガラス玉が有るのなら、ペルシャ人が古代の日本に居たって、何も不思議ではない。これも、何が、驚きなのだろうか。


最近のこうした東アジアにおける「西方」の人間たちの存在を示唆する報道から思ひ出されるのは、故・鹿島昇氏の研究だ。


弁護士であり、歴史家でもあった鹿島氏は、始皇帝はユダヤ人であったと論じてゐた。そこまで言っていいかどうかはわからないが、氏の研究には、一定の正しさが有ったのではないか。


今回の中国の兵馬傭に関する報道の中で、BBCが、「マルコポーロが中国を訪れるずっと前から西と東の交流があったのかもしれません」http://trib.al/GblbbZ0 などと寝ぼけたコメントをしてゐる。そんな事、当たり前ではないか。ほんの一例だが、景教(ネストリウス派キリスト教)が支邦に存在した事は、「マルコポーロが中国を訪れるずっと前から西と東の交流があった」事を語ってゐる。BBCのこのコメントは、この放送局のレベルの低さを物語って居る。


自分は、故・鹿島昇氏の見解を全て支持する者ではない。だが、氏の見解の中には。極めて興味深い部分が有る。そのひとつは、「借史」と言ふ考え方だ。古代社会において、「歴史」は、しばしば、他の歴史の「盗作」だったとする考え方だ。鹿島氏は、そうした歴史の「盗作」を「借史」と名付けた。これは、鹿島氏の仮説だが、極めて興味深い仮説だ。


鹿島昇氏は、例えば、司馬遷の「史記」は、古代オリエント史からの「盗作」なのだと言ふ。古代オリエントの歴史を、人名や地名だけ支邦の物に置き換えて書かれたのが司馬遷の「史記」で、「史記」の内容は大部分(全て?)が架空の「歴史」なのだと鹿島氏は言ふ。これが、鹿島氏の言ふ「借史」だ。


鹿島氏が言ふ様に、司馬遷の「史記」が、古代オリエント史からの「盗作」なのかどうか、自分には判断する能力は無い。だが、こう言ふ仮説の存在は、もっと知られていいだろう。アカデミズムの人達は、在野の歴史家の仮説だからと言ってこうした仮説を無視するのではなく、正面から検討するべきである


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http://www.bbc.com/japanese/37628254

古代中国・秦の始皇帝の陵墓近くで発掘された「兵馬俑」の調査で、マルコ・ポーロが中国を訪れた13世紀よりも1500年以上前に中国と西洋文明が接触していたことが示唆された。


考古学者たちによると、等身大の兵馬俑の陶製像が古代ギリシャから発想得ていた可能性がある。紀元前3世紀の中国で、ギリシャの職人が地元の労働者を指導していたかもしれないという。

「東方見聞録」を書いた13世紀のベネチア商人マルコ・ポーロの旅が、詳しい記録が残るものとして最初の西洋による中国訪問だと従来は言われてきた。


これに対して、秦始皇帝陵博物院の李秀珍研究員は、「シルクロードが正式に開かれる前に、中国最初の皇帝と西洋との間に緊密な連絡があった証拠がある。従来考えられていたよりもずっと早い時期だ」と語った。

別の研究では、ヨーロッパ人だけが持つ種類のミトコンドリアDNAが中国最西部の新疆ウイグル自治区で見つかっており、始皇帝よりも前の時代に西洋人が同地域に定住していた可能性が示唆されている。

始皇帝は紀元前259年に生まれ、210年に没したImage copyright Public domain
Image caption 始皇帝は紀元前259年に生まれ、210年に没した

兵馬俑は1974年に、始皇帝の陵墓から約1.5キロ離れた場所で農業従事者によって発見された。

しかし、陵墓が築かれる前に実物大の陶製像を作る習慣はなかった。より古い時代の発掘品には、高さ20センチ程度の単純な形の像しかない。

技術や形態の大々的な変化は、どうやって可能になったのか。その理由を解明しようとするなかで、李研究員は中国の外から影響があったという考えに行き着いた。

李研究員は、「我々は現在、発掘現場で見つかった兵士や曲芸師の像、ブロンズ像は、古代ギリシャの彫刻と芸術の影響を受けたものだと考えている」と語った。

ウィーン大学のルーカス・ニッケル教授は、始皇帝陵墓で最近見つかった曲芸師の像が、古代ギリシャからの影響説を支持していると話す。

兵馬俑をめぐる研究はBBCのドキュメンタリー番組で紹介される予定だ
Image caption 兵馬俑をめぐる研究はBBCのドキュメンタリー番組で紹介される予定だ

始皇帝は、アレクサンドロス大王の遠征によって中央アジアにもたらされたギリシャの彫像の影響を受けたとニッケル教授は考えている。アレクサンドロス大王は紀元前323年に没し、その約60年後に始皇帝は生まれている。

ニッケル教授は、「ギリシャの彫刻師が(兵馬俑を制作する)現場にいて地元の人を訓練していたのかもしれない」と話す。

このほか研究者らは、始皇帝の陵墓の規模が当初考えられていたよりも巨大で、エジプトの「王家の谷」にあるピラミッドの200倍以上ある可能性を示す新たな証拠を発見している。

また、始皇帝の後宮で高位にあったとみられる女性の体が切断された後の骨や、石弓の矢が食い込んだ男性の頭蓋骨などを発見している。

この頭蓋骨は、始皇帝の長男、扶蘇の頭だと考えられており、始皇帝の死後に起きた権力闘争で殺害されたとみられている。

(英語記事 Western contact with China began long before Marco Polo, experts say)

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http://www.asyura2.com/16/china10/msg/178.html

[中国10] 「世界四大文明」の虚構−−イデオロギーとしての古代史   西岡昌紀

「世界四大文明」の虚構


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浦沢直樹氏の劇画『マスター・キートン』は、考古学者であり、元イギリス特殊部隊(SAS)隊員であり、そして、保険会社の調査員でもある人物を主人公とする物語だ。自分は、この劇画が大好きだ。


(『マスター・キートン』第1巻)
https://www.amazon.co.jp/MASTER%E3%82%AD%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%B3-%E5%AE%8C%E5%85%A8%E7%89%88-%E3%83%93%E3%83%83%E3%82%B0%E3%82%B3%E3%83%9F%E3%83%83%E3%82%AF%E3%82%B9%E3%82%B9%E3%83%9A%E3%82%B7%E3%83%A3%E3%83%AB-%E6%B5%A6%E6%B2%A2-%E7%9B%B4%E6%A8%B9/dp/4091841619/ref=sr_1_4?ie=UTF8&qid=1477360568&sr=8-4&keywords=%E3%83%9E%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%80%80%E3%82%AD%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%B3

その『マスター・キートン』の第一話だっただろうか。主人公のキートンが、娘の学校の世界史の教科書を読んで、その内容を酷評する場面が有る。キートンは、娘が使ってゐる「世界四大文明」に関する記述を酷評し、古代文明は、もっと沢山存在した、と学校の教師に向かって言ふ。


「世界四大文明」なんて、発掘法が未熟だった時代の考古学が生んだ概念で、古代文明は、もっと世界中あちらこちらに存在して居たと言ふのだ。なるほど、「世界四大文明」なんて無意味な概念なのだ。


しかし、自分は、ここでキートンの言葉に疑問を持つ。それは、古代、何故、そんなに多くの文明が、発生したのか?と言ふ疑問だ。本当に、そんなに多くの文明が、地球上の色々な場所で、独立して発生したのだろうか?そもそも、かつて言はれた「四大文明」だって、独立して発生した物だったのだろうか?


四つか、或いはそれ以上か知らないが、地球上の複数の場所で、文明は、それぞれが無関係に、独立して発生したのだろうか?

キートンの言葉に依れば、2桁の数の文明が、古代、色々な場所で発生したと言ふ。では、それらの複数の古代文明は、皆、お互いに無関係に、独立して発生した物だったのだろうか?そうだとすれば、これは、凄い偶然ではないだろうか。


素人の愚見をお許し頂ければ、自分には、古代の地球上で、そんなに多数の文明が、お互いに無関係に、独立して発生したとは、到底思へないのだ。

そこから、自分は、一つの仮説に導かれる。それは、古代に存在した多数の文明は、実は、共通の起源を持って居たのではないか?と言ふ仮説だ。即ち、文明は、ひとつの共通の起源を持つのではないか?と言ふ事だ。


裏を返せば、「世界四大文明」をはじめとする、古代文明の同時多発発生説は、現代の考古学の限界から来る錯覚か、或いは、現代のイデオロギーが投影された幻影ではないか言ふのが、自分の考えだ。


ここで言ふ「現代のイデオロギー」とは何か?それは、諸民族が持つ自己の文明への思ひ入れだ。或いは、ナショナリズムと言ってもいい。

例えば、インダス文明が、「独立して」発生したと考える事の背景には、インド人たちのナショナリズムと、そのインド人の願望にに応えようとしたアカデミズムの見方が投影されては居なかったと言ひ切れるのだろうか?

或いは、黄河文明が、「独立して」発生したと考える事の背景には、自分達の先祖が偉大だったと信じたい漢民族の思ひ入れ、或いはナショナリズムが投影されては居ないだろうか?

かつて、イタリアの歴史かクローチェ(Croce)は、「全ての歴史は、現代史である。」と言ったが、この問題(文明の起源は単一かそれとも複数か?)も、「古代史」の問題であると同時に、「現代史」なのではないだろうか。

最近、BBCが、中国の兵馬傭作製にあたり古代ギリシア人が技術指導した可能性が出て来た事を報道した。兵馬傭から採取したミトコンドリアを調べた結果、西洋人のDNAが発見されたと言ふのだ。


自分は、全く驚かなかったが、中国人は、驚いた様である。と言ふより、この報道に対して、中国人の間からは反発が発生した様である。


矢張り、中国人たちは、自分達の古代文明が、他の文明の影響を受けて居たとは思ひたくないのである。だから、こうした新しい発見に反発するのだろう。


中国人たちは、自分達の古代文明が、他の文明の影響を受けて居たとは思ひたくない様である。だから、こうした新しい発見に反発するのだろう。


なるほど、矢張り、クローチェの言葉(「全ての歴史は現代史である。」)は、正しい様だ。

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http://www.asyura2.com/16/china10/msg/179.html

[国際15] 1938年のハロウィン−−「火星人来襲」は、アメリカの軍と心理学者による実験ではなかったか?  西岡昌紀
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http://blog.livedoor.jp/nishiokamasanori/archives/8631003.html
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1956490600&owner_id=6445842

毎年、ハロウィンの時期が来ると、想起させられる歴史上の事件が有ります。それは、1938年10月30日に、アメリカで起きた「火星人来襲」事件です。その日、ラジオが放送したH・G・ウェルズのSF「火星人来襲」が引き起こしたパニックです。


(ラジオドラマ「火星人来襲」について)
http://www.siruzou.jp/utyuu/6982/


そのラジオ・ドラマの冒頭で叫ばれた「火星人が来襲しました!」と言ふ台詞が、余りにも緊迫感に溢れて居たので、多くの人々が、それが現実だと思ひ、パニックが発生したと言ふ事件です。この事件は、その後、心理学者たちによって、繰り返し研究されて居ます。


この「火星人来襲」事件について、私は、或る仮説を持って居ます。証拠は何も在りませんが、永年、思ってゐる或る仮説です。それは、この事件は、アメリカの軍と心理学者が行なった実験だったのではないか?と言ふ仮説です。


私は、当時のアメリカ軍が、アメリカが戦争に突入した場合に、当時の新しいメディアであるラジオが、空襲などに際して、アメリカ国民にどの様な反応を引き起こすかを確かめようと、心理学者と共同で、計画的に社会実験をやったのではないか?と疑ってゐます。


そして、自分は、更にこんな想像をして居ます。ラジオ・ニュースが引き起こしうるパニックの大きさに驚いた当時のアメリカの軍と心理学者たちは、この事件を見て、ラジオを敵国の社会にパニックを起こす事に利用しようと考えたのではないか?と。


(社会心理学者から見た「火星人来襲」事件)
http://mediaresearch.blog.jp/archives/1887616.html


証拠は有りません。しかし、想像を言はせてもらえば、この事件の後、この事件(「火星人来襲」事件)について研究し、論文を発表したアメリカやイギリスの心理学者たちは、実は、このパニックの計画に関与して居たのではないでしょうか?私は、そう疑ってゐます。

私が、「火星人来襲」事件についてこの様な仮説を抱くに至ったのには、理由が有ります。それは、昔、そもそも「ナチのガス室」の話を最初に言ひ出したのは、誰だったのか?を調べる内に、戦争中のイギリスのラジオ放送がこの話を流布して居た事を知ったからです。


第二次大戦中、イギリスは、ラジオを利用して、ドイツ占領下のヨーロッパ大陸に対して、様々な宣伝を行なって居ました。そうしたイギリスの宣伝の中に、今日、多くの人が信じて疑はない「ナチのガス室」の話が有ったのです。


以下に引用するのは、私が書いた記事の一部ですが、この事を念頭に、これをお読み下さい。


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 アウシュヴィッツに収容された一人にマリア・ファンヘルヴァーデン(Maria Vanherwaarden)という女性がいる。全く無名の人ではあるが、この人が一九八八年の三月に、カナダのトロントで述べた証言は極めて興味深いものである。
 彼女は、一九四二年にアウシュヴィッツ及びそこに隣接するビルケナウ強制収容所に収容されたのであるが、列車で移送される途中、同乗したジプシーの女性から、アウシュヴィッツに着いたら、彼女たちは皆「ガス室」によって殺されてしまうのだという話を聞かされた。当然、彼女は、ジプシーが語ったその話に恐怖を抱いた。
 興味深いのは、その後である。彼女の証言によると、アウシュヴィッツに到着すると、彼女たちは服を脱ぐよう命令された。そして、窓のないコンクリートの部屋に入れられ、シャワーを浴びるよう言われたという。ここで、彼女たちの恐怖は頂点に達した。列車の中でジプシーの女性から「ガス室」で殺されるという話を聞かされていたからである。ところが、彼女の頭上のシャワーから出てきたものは、「ガス」ではなく、水だったのである。
 読者は、この証言をどう思うであろうか?このような証言は、他にもいろいろあるのだが、戦後半世紀もの間、何故か、こういう証言は「ガス室」が存在したと主張する人々によって徹底的に無視されてきたのである。証言は、証言でしかない。しかし、一つの事柄について対立する証言がある時、物証も検証せずに、一方の「証言」だけを取り上げ、他方を検討すらしないというやり方が、正当なものといえるであろうか?
 このファンヘルヴァーデンという女性の証言で興味深いことは、彼女の証言に出てくるジプシーの女性が、何処で「ガス室」の噂を聞いたかという問題である。それを確かめる方法はないが、それに関連して、アメリカの歴史家マーク・ウェーバーは、戦争中、連合軍が、ラジオやビラによってドイツ占領下のヨーロッパに対してこの「ガス室」の噂を意図的に流布させていたことを『アウシュビッツ神話と真実』の中で指摘している。
 すなわち、戦争中の心理作戦としてのプロパガンダの一つに、この「ガス室」の話が織り込まれていたのである。


(西岡昌紀「戦後世界史最大のタブー/ナチ『ガス室』はなかった」(マルコポーロ・1995年2月号)より)


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この話(「ガス室」)は何処から出てきた話だったのか?私はそれを考え続けて来ました。


「ナチのガス室」と言ふ話を一番最初に語ったのが誰だったのか?は、わかりません。しかし、この話をドイツ占領下のヨーロッパ大陸に、戦時中広めた物のひとつは、ラジオでした。私は、その点に関心を持ち続けて来ました。


飛行機から撒かれたビラも「ガス室」の話を流布するのに役立って居ます。しかし、ラジオの力はそれ以上だったのではないでしょうか?そして、ラジオが「噂」を流布する力に、アメリカとイギリスは、開戦前から着目して居たのではないか?と、私は思ふのです。


私は、アメリカやイギリスは、日本とドイツに対する無差別爆撃にリンクさせて、そのラジオ放送で、日本人とドイツ人の間にパニックを起こそうとしたと見て居ます。(これについては、証拠が有ります)

又、イギリスのラジオがドイツ占領下のヨーロッパ大陸に向けて、「ドイツがガス室を使って人を殺して居る」と言ふ話を流布した目的も、ドイツ占領下のヨーロッパ諸国に、社会的混乱を引き起こそうとしたしたのが、目的であったのだろうと推察して居ます。


そして、そこには、当然、心理学者の関与が有った筈だと、私は確信して居ます。


私には、その様な第二次大戦中の戦時報道が、戦後世界におけるマスコミの世論誘導、情報操作の原型であると思はれるのです。


これは、極めて現代的な問題です。

「マルコポーロ廃刊事件」の切っ掛けと成った私の記事は、私のこうした問題意識から生まれた物でした。

これこそが、自分が「ナチのガス室」への疑問を書いた最大の動機でした。しかし、私のこうした問題意識を理解してくれた人は本当にわずかでした。


(「戦時歩道は終わらない」(文・西岡昌紀))
http://blog.livedoor.jp/nishiokamasanori/archives/8532441.html

戦時報道と言ふ物を、1995年と言ふ、「戦後50年」の年に検証したいと言ふのが、私の動機でした。そして、その背景には、戦後世界におけるマスコミの世論誘導に対する問題意識が有りました。

しかし、今に至るまで、私のこうした問題意識を理解してくれる人は、残念ながら、多くはありません。

(「マルコポーロ廃刊事件」(文・西岡昌紀))
http://blog.livedoor.jp/nishiokamasanori-rekishiokangaeru/archives/52050190.html

1938年の「火星人来襲」事件と「ナチのガス室」は、心理学者たちの研究を通じて、繋がって居るのではないか?と、私は思ってゐます。

2016年10月31日(月)

西岡昌紀(内科医)


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米ハロウィーン、大統領選関連の仮装が人気 「嫌な女」がスターに
http://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=52&from=diary&id=4264779


写真

[ニューヨーク 27日 ロイター] - 米大統領選の投票日が近付く中、米国では今年のハロウィーンに、大統領選からヒントを得た「嫌な女」や「嘆かわしい集団」に扮する人たちが多く出現しそうだ。


アトランタ出身のマーケティング部長のテッド・ライトさん(49)は、自身と妻がそれぞれ「悪いやつら(bad hombres)」と「嫌な女(nasty woman)」に扮する計画だと述べた。この言葉は、10月19日の大統領選の候補者による討論会で、トランプ氏がメキシコの移民らやクリントン氏に対して発した言葉だ。


「これも、礼儀正しく議論するのが大変難しい今回の選挙の一つだ」と語るライトさん。共和党員だが、トランプ氏に投票するつもりはないという。


また、シカゴ在住のハナー・ヘンプリーさん(22)も「嫌な女」に扮する計画。「トランプ氏がヒラリー氏を『嫌な女』と呼んだ時、ヒラリー氏に連帯感を感じだ」という。


一方、シカゴで働くジェーク・ウエストさんは、友人らと「嘆かわしい集団(basket of deplorables)」を作る計画。「嘆かわしい集団」は、クリントン氏が資金集めの集会で、トランプ氏の支持者らを形容した言葉だ。


10月31日のハロウィーンを前に、クリントン氏とトランプ氏のマスクは、ハロウィンコスチューム専門店「スピリット・ハロウィン」で一番の売れ筋商品になっている。同店の広報によると、26日までに、オンラインストアでクリントン氏のマスクは売り切れになったという。


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http://www.asyura2.com/16/kokusai15/msg/868.html

   

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