メディアや政界では、次の参院選はダブル選挙になるという情報が流れている。とすれば、その時橋下徹氏が何らかの形で安倍政権に協力するはずだ。彼の政界引退宣言を真面目に受け止めてはならない。
なぜ橋下氏はこれほど大きな力を持つにいたったのか、その権力の源泉は何か。我々は改めて考えなければなるまい。
ここでは、『誰が「橋下徹」をつくったか』の著者である松本創氏の論文を紹介したい。
『月刊日本』1月号
松本創「誰が『橋下徹』をつくったか」より
http://gekkan-nippon.com/?p=7902
橋下徹・大阪市長が2015年12月18日をもって退任した。自ら長を務めた大阪市を廃止・解体する「大阪都構想」が5月の住民投票で否決された際に宣言した政界引退表明の公約を実行した形である。
しかし、彼は「いったん私人に戻れば、その後の生活は公約ではない。自由にさせてもらう」と復帰に含みを持たせている。7月の参院選出馬は根強くささやかれているし、むしろそれを期待している政界関係者、マスメディア、有権者も少なくない。
橋下が08年2月に大阪府知事に就任して以来、大阪は空疎な熱狂と不毛な対立に煽られ、混乱と停滞に陥ってきた、と私は見ている。都構想が最たるものだが、それ以外の政策や、彼が標榜した「改革」も掛け声倒れや羊頭狗肉に終わり、強引に導入した制度も──たとえば、公募校長・公募区長のように──不備と不祥事が次々に露呈してきた。大阪の経済・財政状況は一向に改善せず、生活保護は増え続け、教育現場の荒廃が指摘されている。
にもかかわらず、橋下個人の人気は根強い。実績らしい実績はほとんど何も上げていないというのに、彼は相変わらず「改革者」として振る舞い、威勢のよい言葉を吐き続けている。なぜか。そこには主に在阪の新聞・テレビという共犯者≠ェいたからだと私は考えている。「橋下現象」は徹頭徹尾、マスメディアの問題である、と。
彼がなぜあんなに持て囃され、改革者の虚像を作り上げることができたのか。彼を取り巻く「空気」の正体を見極めようと、在阪メディアの関係者を2年半にわたって訪ね歩いた。それらの証言や自ら足を運んだ記者会見、それに橋下や都構想に関する報道を検証し、11月に刊行したのが『誰が「橋下徹」をつくったか──大阪都構想とメディアの迷走』(140B)である。詳細は拙著をご参照いただきたいが、ここでは、橋下とメディアの8年間を駆け足で振り返ってみる。
両者の関係を検証していくと、いくつかの時期に分けられる。拙著ではその変遷を時系列でたどり、各章のタイトルとした。第1章「一体化するメディア」、第2章「検証しないメディア」、第3章「標的になるメディア」、第4章「批判できないメディア」、第5章「忖度するメディア」、第6章「凍りつくメディア」である。順を追って見ていこう。
<一体化するメディア>
「2万%ない」と出馬を完全否定したのをひるがえして立候補、圧勝した07年12月の大阪府知事選から約2年間、橋下とメディアは蜜月関係にあった。売れっ子タレント弁護士だった橋下と「身内」同然の在阪テレビ各局は連日動向を追い回し、何の疑いも持たず権力者と一体化。彼の主張やコメントを垂れ流し、「改革」の名のもと、府庁や教育委員会などの公務員叩き、文化団体や社会的弱者の切り捨てに邁進した。
代表的な例が、毎日放送(MBS)のワイド情報番組『ちちんぷいぷい』。政治・行政取材の経験もない若手アナウンサーを「ちちんぷいぷい政治部キャップ」という設定にして、本人いわく「お友達になれたらいいなという感覚」で登庁時の一言コメントを取り、毎日流し続けた。この政治部ごっこ≠ェ登庁・退庁時の「囲み取材」に発展してゆく。
一方、新聞はタレント政治家への懐疑から、当初は一定の距離を保とうとしたが、8割を超す支持率を誇り、「クソ教育委員会」「ぼったくりバー」などと見出しになりやすい発言を次々と繰り出す橋下にあっさり取り込まれ、「役所や大阪をともに変えるという同志的連帯感」を持つに至る。(以下略)
http://www.asyura2.com/16/senkyo199/msg/463.html