1. アーリエル[1] g0GBW4OKg0eDiw 2016年3月09日 04:23:12 : q931E3NW4E : Xao0gDyXwoc[10]
投稿規約理解済みです。
よろしくお願いします。
http://www.asyura2.com/13/nametoroku7/msg/575.html#c1
3. アーリエル[2] g0GBW4OKg0eDiw 2016年3月09日 17:14:01 : q931E3NW4E : Xao0gDyXwoc[11]
ありがとうございます。
http://www.asyura2.com/13/nametoroku7/msg/575.html#c3
1. アーリエル[3] g0GBW4OKg0eDiw 2016年3月09日 19:39:16 : q931E3NW4E : Xao0gDyXwoc[12]
たびたびお手間を取らせてしまい申し訳ありません。記名も若干変更いたします。
http://www.asyura2.com/13/nametoroku7/msg/576.html#c1
3. アーリエル[4] g0GBW4OKg0eDiw 2016年3月09日 22:33:52 : q931E3NW4E : Xao0gDyXwoc[13]
恐れ入ります。
「パスの設定ミス」とは、こちらでパスに使う目的で事前に用意していた数字が、登録の際に設定し間違えて登録してしまったということです。
パスワードを控えてなかったために、亡失同様のヘマをしてしまったということです。
名前に関してもご指摘のように再度設定しなおしたいと考えます。
ですので、お手数ばかりおかけしますが、再度、同様の登録用投稿をさせていただきたいと思います。
http://www.asyura2.com/13/nametoroku7/msg/576.html#c3
4. アーリエル[5] g0GBW4OKg0eDiw 2016年3月09日 23:07:29 : q931E3NW4E : Xao0gDyXwoc[14]
「若干記名を変える」と私がしたコメントの意味とは、
はじめに登録させていただいたHNハンドルネームに対し、
これもパス設定ミス同様、当初、私が使いたいと考えていたものではないものを誤って登録してしまったということです。
いま、この時点で、つまり登録後にミスが発覚した時点で、すでに登録済であるHNを変えたいと今の私は考えている、ということです。
このことは長く使っていく名前に対する思い入れの表れだと受け取ってください。
確かに伝わりづらい伝文でした。
http://www.asyura2.com/13/nametoroku7/msg/576.html#c4
6. アーリエル[6] g0GBW4OKg0eDiw 2016年3月10日 16:12:00 : q931E3NW4E : Xao0gDyXwoc[16]
大変お手間を取らせてしまいました。改めて登録お願いいたします。
では改めてよろしくお願いします。
http://www.asyura2.com/13/nametoroku7/msg/576.html#c6
1. アーリエル[7] g0GBW4OKg0eDiw 2016年4月07日 15:33:15 : q931E3NW4E : Xao0gDyXwoc[21]
よろしくお願いします。
http://www.asyura2.com/13/nametoroku7/msg/585.html#c1
1. アーリエル[8] g0GBW4OKg0eDiw 2016年4月10日 16:53:13 : q931E3NW4E : Xao0gDyXwoc[29]
地球を独楽のように軸のある回転モーターのようにたとえるのは誤っている。
自然界には、ヴィクトルシャウベルガーの著作が示すように、二つの回転モデルが存在する。
われわれ人間が使ってきたモーターモデルは軸を利用する破壊的スピンであり、
台風のような中心が無風であるといった回転力が自然界の利用するエネルギーモデルである。
よって地球の回転もまた同じ原理だろうと考える。
爆縮の仕組みは、意識と空間との関わり、次元間のしくみが理解できるものの頭の中では解明されていることだと思う。
電子スピンはいわば創造のモデルであり、引力もまたそのように生まれていると考えられる。
http://www.asyura2.com/14/idletalk41/msg/334.html#c1
1. アーリエル[9] g0GBW4OKg0eDiw 2016年4月11日 00:34:30 : q931E3NW4E : Xao0gDyXwoc[30]
☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆
また、「BI制度に依存せずとも、今すぐにはじめられる」といったアイデアなどもあれば募集します。
内容は誰もが納得する、具体的なものであることがのぞましいです。
ただし、望ましき国家社会において「社会保障」と名のつく制度とは、
社会全体の円滑な運営を実現するためのものであるのですから、
単に人々の日々の暮らしを支えるとするだけのネガティヴな枠組みに収まらないものが望ましいはずです。
単なるセーフティネットという受け皿にとどまるのでは、
社会生活における人々の意識はネガティヴな意識に飲まれてしまいます。
思い切って踏み込んだ政策を誰も実行に移せないというのは、
すでに社会全体は粘着質な枠組み(負のスパイラルネット)に足を絡めとられているからです。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆
なお、個人の感想ですが、BI制度が実現すれば、それを期に、
一気に物事の価値観は自然な様相へと向けて流れ動いていく、
つまり自然に突き動くままに、様変わりしていくのだと予想します。
施行による混乱があちこちで起こるだろうと容易に予測するというなら、
前もって具体的にどういったことが起こりそうなのかをここで提示しあってみましょう。
そして、全体は起こりえる困難をどう補填しあって、助け合っていけるのかをポジティヴにシミュレートしてみませんか。
よって、できるだけ多くの職業、また利権を持つ立場から、素直な意見を集めたいのです。
そしてそれらに対してわれわれとしてはどう向きあえるのか、どう向き合うのが本当に正しいといえるのか、それを皆にも考えてみてほしいのです。
3. アーリエル[10] g0GBW4OKg0eDiw 2016年4月12日 15:57:21 : q931E3NW4E : Xao0gDyXwoc[34]
>”日”氏
まずはありがとうございます。
あなたは世間体や周囲の空気に振り回されることなく、
しっかりと自分の意志に基づいて行動される方なので、
あなたの言葉は力強く感じることができます。
新たな時代に入りました。物事が進展しやすくなっています。
人の意思だけが、人間社会のひずみに隠れてきたものを明らかにするのです。
誰もがまだ自覚していないかもしれませんが、
意識による個々のつながりを感じています。
私とルーツを共にする方々は、誰もがまったく同じことを日々考えているのがわかります。
そしてこれは私の意志でかかれています。
いわば、自己満足のために書かれたものです。
しかしそこには、多くの方々の思いを代弁する意味がこめられてもいます。
以後のことはそれほど考えていません。
ただ自然に任せて、何かしらの反応がなくても、
長い目でそれが芽吹くのをただ待つだけです。
また自分の意思でやりたいということが生まれれば、そこに従って行動します。
吾、利得る。
ここでの私の名前は、言葉のaerielにかけて、そういう意味と、
本当の空気感を求める意識の現われにかけて、名づけました。
本当に自分のためになることのために動く、ということは、
全体のために動くことと一緒だということを伝えたいつもりです。
それらは本来、まったく一緒のものです。
もう降板されましたが、とあるニュースキャスターが、
悪辣な犯罪を報道する際の前置きで、よく口癖のようにこういっていました。
「人が人を信頼する、性善説の上に人間社会は成り立っているのですがね」・・と。
ぬぐいきれぬ違和感を感じたことはいうまでもありません。
現行の社会性はその性善説に基づいて生まれてはいないのであって、
逆に善性の芽をつぶす為の社会性であるのだと私は考えています。
性善説がいくら正しくとも、現行の社会性でいくらそれを言っても、
例えてそれは、
「鋼の強度を確かめようとしてどこまでしなるか、折れるまで観察しているようなもの」
でしかないわけです。
ですから、常識といった価値観や社会性に依存するのではなく、
まずは誰もが、自分の足で立つ。
社会が健全なものであるためには、その基本的な「立つ」という姿勢を
正しい考えの下に一から見直す、ということにほかならないと考えるのです。
直接自分の心や体は何を求めているかに耳を澄まし、そこに従って行動する。
今は、その基本的な動作を一から覚えなおす時だと考えます。
「立つことなんてことはだれでもできる」と誰もが思っていますが、
ほとんどの人は「立つということをよく理解していない」。
基本がおざなりだから、座ることも、歩くことも、寝ることすらままならない。
シンプルなものほど奥深く、立つことだけを極めるのにいくつもの人生を費やしてもいいと考える人もいるはずです。
私もその一人です。
それだけ体得すればそこに恩恵を得るということです。
人は物事を捉える為に何かしらのレッテルを貼り、それを判別します。
そこに自身の優越性も感じ取ります。そのためには必ずなんらかの判断指針を必要とします。
そのように人々は常識といった判断指針、狭量な価値観を常に用いて、
頭の理解のみに依存する傾向がある生き物なので、
そこには当然同質の社会性を作り、また依存せざるをえない状況を作り上げることになるのです。
ですからいまこのときとは、そうして頭を働かすことと同じくらい、
自然な自分の感性に耳を傾けることが大事だといえるのです。
しかし、まずはご忠告、ありがとうございました。
では。
http://www.asyura2.com/14/idletalk41/msg/337.html#c3
2. アーリエル[11] g0GBW4OKg0eDiw 2016年4月22日 02:53:46 : q931E3NW4E : Xao0gDyXwoc[89]
>1
私たちは、知覚とするものによって自分たちやその世界の様相を感じ取ることができるとしています。
そこで私たちが知覚とするものとは、一般的には、物理的な身体の五感を指しています。もうひとつ足して六感ともしていますがそれは科学的な根拠をもって説明できないとされます。
私たちはそこに何があるかを捉え、把握するために、それら感覚器官に頼り、そこより得る情報と、経験則や観察眼、または学習にて得た価値観といった観念的な判断指針に照らして、物事の真偽や、性質などを総合的に判断しています。そして、以後、その判断内容が新しく刷新されるまで、そこに依存するものとしています。
以下は、お尋ねであるかもしれない「魂」についての独自の追加視点的解釈です。
***********
魂:「たま(意識本体:精)」と「しい(生物的記憶:根)」の融合体。概念的存在性。天(陽)と地(陰)の交わりに生じるもの。物理的身体(生物的肉体)に接合点(焦点)をもって結ばれている意識的な存在。生物的原理原則と精神的な感応性とイマジネーションの三位一体の場に成立するもの。創造的意思の具現的顕れ。成長と発展性の永続を意味する創造性の源泉から地続きであるもの。また、情熱そのもの。流動的な生命エネルギーの媒体とするもの。生物的経験の蓄積されゆく、複合的霊性を含む多次元的存在の単一次元的側面。
霊性:あらゆる概念の枠組みに縛られることのないエモーション。純粋無垢な魂の状態。その本質。
***********
上記は私の言葉で説明しうる限りの解釈であり、独自的な解釈と今は思っていただいてかまいませんが、元にしたソースが存在しないわけではありません。
蛇足かもしれませんが、言葉の「魂」については、「神」同様、使う場所やお国柄によってさまざまな思想的解釈が存在しているので、現状況下においては、訳者によってさまざまに存在する解釈をそのまま飲み込むことは、それ以後の理解にますます混乱を生じさせる原因になると思われます。
解釈のあいまいさを回避して、言葉で何かを説明、または理解するということ自体を難しいものと捉えることもできますが、そうしたところは何も改善できないものではありません。
今それが可能かについて懐疑的であるあなたに真摯に向き合いたいと思ったため、一応、上の説明で納得がいくかどうかはわからないとした上で、現時点で可能な説明を試みてみました。どうでしょうか。
http://www.asyura2.com/14/idletalk41/msg/348.html#c2
2. アーリエル[12] g0GBW4OKg0eDiw 2016年4月27日 15:47:02 : q931E3NW4E : Xao0gDyXwoc[97]
>1
それをそうだとだけ言って何に満足できるというのか。
あなたの思いはまた、裏返しである。
そしてその原因は社会性、そこにある社会システムにあるといえるだろう。
ここから変えていこうとするならば、常にそこはゼロであり、始まりである。
どこまで落ちても、ゼロでありそこからがはじまりである。
もちろん、どこまで上っても際限はない。そこもまた常にゼロである。
つまり、あなたのいる場所、そして私のいる場所は常にゼロである。
何もない。空っぽである。だがゆえにすべてがある。
安心とはそういうことだ。意識して、ゼロを自身の中に見つけていく作業が必要だ。
逃げない。戦わない。おびえもない。すくみもしない。
むき出しの捨て身。それがもののふである。
火の粉を払い、ただ心を明らかにして人を迎える。
それがいいと私は思っている。
http://www.asyura2.com/14/idletalk41/msg/347.html#c2
1. アーリエル[13] g0GBW4OKg0eDiw 2016年4月28日 16:42:24 : q931E3NW4E : Xao0gDyXwoc[99]
>平 仮名冴門さま
人の本質はいつまでも子供であると私は思います。
そこに大人ぶった威厳が加わると、とんでもないことが起こってしまうというだけです。
私は進化論という学問もまた面白いと思います。
ただしそれをどう利用するかは別問題だということです。
大人であらねばならないという考え方は主に、危険視することと向き合ったときに起こります。つまりその本質は防御膜、鎧、覆い隠してしまうもの、それらに類する価値観を示します。
本来、人の生き方にはなんら間違ったことなど起こりません。
何をしてもよい、ただしかし、それらが人々を制圧することになってはならないだけです。
起きたことに対して、それが単に望ましいか、そうでないかを見極めることは実に簡単なことなのですから。
人々もそのようにして自然のほかの動植物たちと同じく、
望ましい事柄にだけ目を向けて進化していけるはずです。
自然の法則性から意図的に乖離されていると判断する人間の場合は、
自然な進化を促す法則作用を間接的に利用しています。
それは、価値観、心の働きを採用することによって得ています。
つまり、フィルターを通して、一旦ばらばらにした物事を改めて自分たちの価値観に解釈を置き換えて組み立て直すということをやっているわけです。
よって、そこでは当然、いかに純粋な心のあり方を保つことができるかが大事になってきます。
たとえば苦痛に耐えることが大人である、といった価値観があるとします。
本来なら、単に苦痛の原因を解消すれば、避けられる痛みを、
徒に大人っぽさを演出するためだけにわざわざ我慢し続けるということをしてしまいます。
その結果、頑張った大人の証だとして、
体に不要な病気の原因を溜め込むことにもつながるのです。
これは心の痛みを持つことで、罪悪感を無くそうとすることによる自傷行為も同じです。これは幼いときから、善悪の概念を押し付けられた子供に多く見られます。
つまり熱心な宗教活動家に多く見られるものでもあります。
子供もまた周囲の評価がそこに集まると理解すると、そうした部分を真似します。
よって、人の生き方とは何かを求めるなら、ただただ純真な心を持つ子供にのみそれを理解することができるとい言えると思います。
または、純粋な動物のたたずまいに習うほうが大きいといえるかもしれません。
現代においても子供たちは、そうして大人が発する道義的な物言い、つまり、
大人大人した価値観の中にもみくちゃにされているのが現状だと思いますが、
そこで自身の本質的な生命の躍動を生き方にマッチさせることができなくなれば、
すぐに自律神経の失調を引き起こします。
本質的な生命の躍動、喜びの流れをせき止められれば、当然頻繁に起こりうるもので、
それは頭での理解が肌感覚の理解をかき乱しているせいでもあるでしょう。
そしてその混乱は人々から表情を奪います。
無表情になるほどに、感情的に蓄積された混乱は、表面的な行動として外に現れてしまいます。
人々から笑顔が消えれば、とんでもないことが起こるということです。
人間からその本質的な生命の躍動と切り離すような措置はすべきではありません。
危なげなく子を育てたいと思うのであれば、自然な性質を不審に思うのはやめて、
喜びとその楽しみを共感する力を伸ばすために、ただその流れの方向性を与えてやればよいだけです。
つまり、今やっていることが肌の感覚に望ましいと伝えられているかどうかをきちんと問い、感覚的に理解させるのです。それが正しいこととマッチすることだと認識させるのです。
大人は頭で理解するもののみに心を奪われて、体裁だけを気にし、
一般的な価値観にのみ沿って、間違っていると判断できることには、
ただ制限を与えればよいとだけ考えるようになっています。
そこに正しいといえることはありません。
自然界あらゆるものに対して人間独自の価値観を採用し、
そのように人間ご都合主義に振舞っている現状を見直すことは急務の課題です。
本来、子供は夢中になれるものを見つけたら、あとはわき目も振らずまい進します。
子供たちが何かをするのは、誰かの笑顔のためであり、それは大人の価値観や尺度で否定したり介入することはできません。
そのエネルギーをきちんと誰もが肌感覚で理解することが大事です。
このことはとてつもなく重要なことです。
私たちも本質は子供たち同様にいつまでも純真で無垢なままの存在として存在します。
子供たちはそれを見極めています。ですから無理せず、楽しんでいきたいものですね。
http://www.asyura2.com/14/idletalk41/msg/355.html#c1
2. アーリエル[14] g0GBW4OKg0eDiw 2016年4月28日 22:47:45 : q931E3NW4E : Xao0gDyXwoc[100]
>1
あなたは面白おかしい人ですね。
長々と書いていただいて申し訳ないが、私には必要ないよ。
私は仏教用語としての厳密な意味や解釈を日常会話で求めはしない。
だが、私はそれらの言葉の意味を知っているよ。
それらはあなたと問答するためにあるわけでもないことをね。
あなたは鏡に自分の顔を映して、自身の目を覗いてみたらどうだろう。
そこに光明があるかどうかわかるだろう。
http://www.asyura2.com/14/idletalk41/msg/356.html#c2
7. アーリエル[15] g0GBW4OKg0eDiw 2016年4月29日 15:15:55 : q931E3NW4E : Xao0gDyXwoc[101]
>2
ご無沙汰してます・・ですかね。
いま、あらゆる社会の枠組み、価値観の見直し、建て直しが生まれているのではないでしょうか。
義務教育なんてものは必要ないと思いますね。
社会に出る前段階の子供たちの社会生活の場としてみても、
今の大人の社会同様に、暗くゆがんだ社会性もまた、
そのまま生き写しであるようにも感じます。周囲の大人を見て育つのですから、当然だといえますが。
私がもし現在不登校中の子供を育てている親なら、自分の子供の感性と自分で選んだ人生にただ惚れ惚れするかもしれない。
その上できちんと学校で何がしたかったのか聞いてあげることが必要かもしれない。
その子供もまた自分の理解度を頼りに生きている。
そして自分の持つ価値観を確かめようとしている。
またそこに自分らしさを得ようとしている。周囲に合わせようともしている。
けれどもそれでいて、その子は周囲とのずれや温度差を確信している。
息苦しさを覚えている。そして自分の世界を閉じてしまいそうにもなっている。
どれほどの強さを秘めた子かと思う。
ならば、もっとその価値観を活かせる世界に飛び出して生きてみるのが私は正解だと思う。
義務教育の現場など、振り返ってみてどの程度のものかと思う。
私はその力、つまり子供の感性は世界全体にとっての自浄的作用であると信じている。
現社会はその声を大事にしていない。金枠からはみ出すものは無視され隠されてしまおうとする。
その現状をいつまでも放置しておくわけにはいかないと感じる。
http://www.asyura2.com/14/idletalk41/msg/355.html#c7
27. アーリエル[16] g0GBW4OKg0eDiw 2016年4月29日 17:24:26 : q931E3NW4E : Xao0gDyXwoc[102]
>10
>イエスは「すべての人間に平等に光を見た」と聞いています。
>この言葉の意味をあなたならどう理解されますでしょうか。
すみません。これはあなたへの問いではないです。
>11
真摯に上記の私の問いに向き合い、答えていただいてありがとうございます。
まあ、あなたも道元氏の言われる文言をお出しになられるのでしたら、
ほどほどにのめりこむ事をお勧めいたします。
そのうち、これに関連した新しい投稿をするかもしれません。
↓ ↓
「”場”と”空間”:知覚による情報のやりとり」とでも表題を予定していますが、
そこで私からのあなたへ対する納得できる答えを見つけていただきたいと思っています。
ですが、すでに答えていただいたあなたの声にはテキパキと返答しておきたいと思います。
では早速。
> これにかんして、私なりの解釈は
> @イエスと釈迦は 聖者であり真理、覚りに達しておられるので、同様な考え方を
> されている、 つまり、他人と自分を区別しない、平等観をもっておられる。
あなたはそこで、”平等観”という言葉を出しておられますので、
そうした「”なんらかの価値観”に沿って、彼らはそのような判断を下している」、
と、あなたに理解されているということがわかります。
そしてまたその回答は、一般には模範的とされる解釈に沿って返答されているものだということと理解します。
仮に、それがあなたの現時点での「解釈」なのだとしましょう。
そしてあなたは、「では私も真似してみよう」と、
その解釈のとおりに実践に移そうと試みるわけです。
・・ところが、そこであなたは「そんなことはやっぱり無理だ」となってしまうということでしょうか。
そして、あなたが「聖人と凡人」とを区分けしたくなる理由はここにある、ということだと理解します。
あなたが「自身に解釈された価値観」どおりにいくら実践しようとしても、
あなたがそれ以前にすでに持っていた「別の価値観」が、
あなたが新しく受け入れようとする価値観に対して異論を唱える(邪魔する)、というわけですよね。
おもしろいですよね。単にそこには、そもそも自分で自分を蔑んでいるとしか思えない構図が浮かび上がります。
あなたはほかの多くの方々と同じように、何かに”依存的な性質が強い”ということがわかります。
凡人という言葉に示される存在も、聖人の対称にあるとするも、それはそれで特別な存在価値を持ちます。
けれども両者はけして、対立している間柄であるわけではないですよね。
まずは何よりそこで大事なのは、あなた自身がその「価値観」を必要としているかどうかではないですか?
あなたもまた、無理やりなんらかの義務を自身に果たさせようとだけする、
半ば、強制的な支配観の中に息苦しく生きてきた記憶があるように私は感じています。
>「善と悪」 凡人と聖者では判断がちがってきます、多分
> 凡人(私をふくめて)は自分に都合のよいことが善 でその反対は悪
> と考えたがる。自分中心です大体は。
あなたは自分を”凡人”としているので、「自己中心です大体は。」のこの言葉は、
これは自己嫌悪することになりながらも、そこから抜け出して、その”凡人”批判も同時にしています。
なんでも都合よくひっくり返して全の反対にあるものを敵対視(悪と標榜する)、
という判断指針(善悪の概念)は、
白(人)が善なら黒(人)は悪、といった、なんとも不条理な価値観をたくさん生む原因ともなりました。
昼働くことが正しくて、夜働くことはいかがわしいといったものも、
色が黒いと健康的で、色が白いと不健康といったものも、
そうした「無思考による判断による理解」の業のなせるものです。
そのようにすべての判断、そしてまたその判断により下される結論とは、
何かしら必ず「価値観」とするフィルターを通して得られるものであるはずです。
聖人と謳われる彼らも、凡人と揶揄するあなた方も、互いに肉体を持っている間は、
そこには共有した資質として肉体的感覚、また同質の知覚を通して、
情報を共有したり、コミュニケーションによるつながりを得る間柄にあります。
であるからには、そこにおける本質はまったく同じであるということです。
では何が違うのかと考えたときに、あなたは価値観が違うといっておられるわけです。
そしてそれは価値観を駆使するという部分では正解ともいえます。
しかし、彼らの伝えようとしていることは、あなた方にとって未知なる概念であることを忘れないでください。
(つまり、あなた方の常識や概念、そして価値観によって、
自然にあるものの姿をひどく歪んで見ているのです)
相手の価値観を理解し、共有したうえで、彼らは、あなた方の理解力に応じた答えを見つけ出し、
それを伝えようとしているのです。→方便の必要性
彼ら(聖人とされる人々)の多くは教えを説く際によく比喩を使います。
なぜなら既存の人間的な価値観や概念を避ける必要があるからです。
→誤認識、誤解釈させないため
(つまりそうしないかぎり伝えることすら難しい、
人々が理解できていない未知の概念というものを)そうして伝えようと試みているのです。
方便により伝えられるものは、その概念の本質です。
それを聞く側の想像性が試されることにもなります。
(ここに理解できることは、私たちは新たなツールとして未知の概念や知識を手にする挑戦を
常に嬉々として自身の中に見出すべきだということです。)
彼らの為した事とはあなた方の価値観にとって、驚くべき奇跡と映るのですが、
それは科学分野から一歩たりとも外へ出ないものです。
よって彼らの奇跡とは、現人類の現行の科学知識で単に認識されていないだけで、
自然界に当たり前に存在する無視されている恩恵とすべきものに対して、
意識を促すための気づきを与えようとしていただけだということが理解できるはずです。
凡人とは、ある特定の価値観に依存的になることにより、そこに属さないものを一切認識せず、
そのことで、そこにあるはずの恩恵をすべて無視してしまっていいるということです。
→驕りの宗教、自惚れの科学、人間都合主義
そして聖人とされる部類の存在とは、
自然界に「単なる自然な存在価値であるもの」、そしてそれらの恩恵に対しての気づきを
促そうとしていたに過ぎないということが理解できます。
しかし先ほどの価値観の話に戻れば、
彼らはそこで、人々と同様の価値観を用いて、人々と同じ「判断」はしたかということですが、
「判断」まではしていたとしても、そのことによる「結論」は一切していなかったとみるべきです。
悪というものを認識し、それを敵視せよなどとは一切教えていないはずですから。
つまり、パウロと日蓮はそこから外れてしまいすね。
しかし考えてみれば、当時の混乱を極めた時代において育った人々の理解度に合わせれば、
善悪の概念を用いるほかなかったと判断してしまったわけです。
もちろんそれは誤りだったと彼らは理解しているはずですが、人々はその価値観に依存していた。
そして人々がそれを求めたのです。
ですから、その時代はそこに理解しやすい方便ツールを用いるほかなかったわけです。
しかし、彼らはその善悪の概念を使ったとしても、
つまりそのツール自体をまったく評価していないと見るべきだというのが私の見解でもあります。
また彼らもそこに同意するでしょう。
つまり、優れているとする教師が、いかに真理とするもの、
つまり世界がいかにして存在するかを方便を用いてこれまでこの世界に現れて大なり小なり伝えてきたとしても、
それを書きとめて解釈する側の人間が、原理だけを守り、善悪の概念だけにずっと依存してきたとすれば、
根本的な解釈の誤りはいつまでも見直される機会を得ず、以後もそのまま、ずっと誤りのまま伝えられ続けるだけとなります。
よって私もまた、宗教は要らないと強く言うわけです。惰性でこのまま続けても何も意味しませんし、世界はますます混乱していくだけでしょう。
すみません。思いのほか長くなってしまいました。
さらにこの三倍もの文量が控えています。
いったん、ここで止めて、別投稿にしたいと思います。
http://www.asyura2.com/14/idletalk41/msg/354.html#c27
34. アーリエル[17] g0GBW4OKg0eDiw 2016年4月30日 01:50:43 : q931E3NW4E : Xao0gDyXwoc[103]
>nakid
まあ、あなたが何を言おうがわめこうが私はかまいませんよ。
こうしてあなたのおかげて注目を浴びるだけ、好都合です。
満足のいくまでどうぞ好きなだけおつづけなさいませ。
別にあなたの言っていることを私は否定してはいませんよ。
多様性が花開く中において、さまざまな比較対象は当然必要です。
そしてあなたがいくら私の拙い駄文を批判したところで、
私は痛くもかゆくも感じていません。
相手にしていただいて恐縮です。そしてお気に召さぬようで何よりです。
>ドクトル88
あなたは随分賢い方ですね。
なにやら信頼がもてる感じがします。
ちょっとさぼっておりますが、のちほど上げますので、
お時間が許せば、続きをぜひ読んでいただければと思います。
http://www.asyura2.com/14/idletalk41/msg/354.html#c34
15. アーリエル[18] g0GBW4OKg0eDiw 2016年4月30日 14:41:43 : q931E3NW4E : Xao0gDyXwoc[104]
>8
業界の後ろ盾のことをいっているのですかね?
それとは違いますが、どんなサークルであってもそこであった仲間は不思議と縁が深いといった感慨は確かに私にもあります。
>おねいさんへ
>義務教育に関して
「必要ない」とする部分とはあなたの意見に寄り添います。
それは、制度そのものに対していっているわけではないからです。
教育とはそれを受ける側をさして「与えられるもの」としますが、
自ら進んで吸収していく中で実質的な学びとは得られるものですよね。
「選択肢」がないとする部分では「義務」であり、
それ以外は選択肢があるとしますが、自由度がないと感じるのは間違いないと思います。
選択教科を選ぶということに対しても、やはり自由度は著しく低いと思います。
未来に何をしたいかがまず彼らに明確なビジョンとしてなければ、
そこにただありていの教科を並べても、何も身につくはずはありません。
はっきりいえば、教師という職のあり方が問われるのです。
そうした彼らにとってふさわしい存在としての役割が必要だと思います。
ただ教科内容を叩き込むだけのつながりでは抵抗が生まれるだけです。
すべて「義務」という言葉に問題は凝縮されているように感じます。
時に情操教育にとってもさまざまな弊害となる資質をもそこにはらんでいるといえるでしょう。
つまり、押しつけがましい国の教育基準となるもの自体、彼らを差別的な生き物に変える性質わもつのです。そうしたものはあるべきではないと私は思います。
まずは彼ら独自に自分たちに何が必要かを見極める目を持たせ、それを建設的な方向へと教育者であるものが促し、そのまま伸ばしてやれるということがふさわしい教育であると私は理解しています。
そのことをまず先に伝えて、あなたの意見に全般同意する旨もここに伝えます。
aerial
http://www.asyura2.com/14/idletalk41/msg/355.html#c15
36. アーリエル[19] g0GBW4OKg0eDiw 2016年4月30日 17:31:15 : q931E3NW4E : Xao0gDyXwoc[105]
>35
・・・ともかく、あなたのことは信頼に足ると理解しました。
今後気軽に私に至らない点や質問があれば、その箇所を抜き出して質問してください。
私がそれに気づいた限りにおいて返信させていただきます。
nakidを擁護するわけではないのですが、ただ、心理療法かは存じませんが、ヒーリング効果とはすべて「催眠療法」の原理で行われています。
つまり、「そのものが自身を治している」のです。
ヒーラー側に、それを促す技術があるということです。
このことは現代医療にも同じことが当てはまると言えます。
さらにいえば、ジャングルの奥地のシャーマンの儀式、
あらゆる厄払い、すべてそのような働きによる、といえます。
nakid曰く、「かつて人間は現代よりも単純だった・・」とするのは何も間違っていないと思います。そのことで恩恵を受けていたといえば聞こえはいいでしょう。
それ自身の”場”についての解釈を理解すればなぞは解けます。
あなたの理解する仏陀はそのセンスに恵まれていたということだと思います。
催眠は術者と被験者の療法のセンスと相性が大きく関係します。
http://www.asyura2.com/14/idletalk41/msg/354.html#c36
37. アーリエル[20] g0GBW4OKg0eDiw 2016年4月30日 21:00:02 : q931E3NW4E : Xao0gDyXwoc[106]
>dr88
すでにあなたは自分に必要な理解には十分に到達されて、ご自身そこに納得されているように感じうけます。
私も他者の価値観に対して、共感はしても、関与しなくていい話題にまで、
積極的に関与しようといった暇は持ち合わせておりませんので、
私の返信とする文がもし、読むのが苦痛だな、と感じるなら、即スルーされて結構です。
これは何もあなたの価値観を破壊しようといったことが目的で書かれているわけではありません。
ただ、あなたが興味を持ってこの話題に積極的に関心を持つというなら、
それに答えようというだけのことです。それゆえに、私も楽しんで書かせていただいております。よって、私は自己中心的に、自分中心にいて、
文章を書き上げた時点の段階で、すでに十分私は利とするものを得ております。
まずはそのことを前置きしつつ、つづきを新しい投稿のなかに混ぜ込んで書くことにします。
21. アーリエル[21] g0GBW4OKg0eDiw 2016年5月01日 14:36:12 : q931E3NW4E : Xao0gDyXwoc[109]
まぁ、ともかく、これからの世代(子供たち)が自分たちの理解をもって、
社会を変えていくと思いますし、そこには当然私たちも頼まれれば加勢したいと考えますが、
自分たちの世代で得たことだけを押し付けることはやめたいと考えます。
→義務感への抵抗とはそのような押し付けに対して身構えることにより生まれますが、
それは裏を返せば、期待に答えなければならないという思いの表れです。
よって、そこには単に、「逃げるな、けれど戦うひつようもない」とだけ伝えればよいと考えます。
ただ、自分が正しいと思うことのみを行動に起こせばそれでいいと思っています。
社会を俯瞰することで問題視することにぶつかっても、
そこから建設的な議論へむけては、常に希望観測を含めた見解を導いていきたいところです。
本質的には自然の秩序性とは、環境保全、全体のバランスを保つ働きであるということと理解できますが、
その働きを人間社会に当てはめて考えれば、当然義務感という言葉の性質は、
不自然な様相を示すものと感じられます。
もちろん、人間がそれを採用してみようと決めたわけですから、そこに一旦は従ってみることに異論はありません。
けれど、そこで新たにどういう結論が生まれるかは別の話ですので、
一度できたものだからというだけで、改善の余地があるのにもかかわらず、それを押し通すだけということには異を唱えます。
それは安保法案に対しても同様のことが言えるのであり、それが全体にとって芳しくない結果を招くものだと感じる時点で、それはすぐにでも改善されるべきものです。
つまり、義務というものについても、法案といったものに関しても、権限といったものがそこに付随してきます。
言葉に重圧が掛けられていると感じられるというのは、そこに、
自然にあってしかるはずの柔軟性というものが欠けているのです。
千と千尋を言うのであれば、劇中のサイン(契約/盟約)といった実際は何の効力もないものに人々は(自ら)魔法を掛けられて縛られていくというシーンがそれです。
脱線しますが、私は安保法案は災害の緊急性にのみ対応する、限定的なものとして必要性を感じますが、もちろん全体として反対する立場のものです。
戦争は人災であり、それを回避するには別の方法があるのであり、そのことを無視することにつながるものだと考えるからです。
天災による被災も人災による被災も、そこには緊急対策が必要ですが、現行の法案がその働きを阻害するものであるというのは考えられません。
あるに越したことはないという考えももてません。
今回の安保法案に関しては、その適用範囲のあいまいさが問題視できる部分であるわけですが、人々の間にある認識のズレをついたもので、その隙間をついて、権力の横暴性が見え隠れしているということには単純に薄気味悪いといった感覚を得ています。
人々がどう存在するかに対しては、全体の人々、社会全体が責任を持つことになります。
ですから、一部の権力機構だけに物事が単純に動かされてしまうというあり方は全体に問われてしかるべきです。
話を戻せば、基本人々は、そうした不自然な要素の一切を必要とせずとも、
きちんとその本能を発揮するものだということを今後学んでいく機会に恵まれていくと考えており、私もまたわずかでも及ばずながら、そこに携わりたいと考えます。
自然に習えば、「全体性としての人々」とは、上も下もなく自然に触れ合い、
常に誰かとの均一的なバランスの兼ね合いを感じる中にて、
自らその場に必要とするものを互いに補い合う、そうした働きを示していくことのできる存在であると考えます。そして現行の社会性がそれを単に阻害しているとも考えています。
ですから、義務という法的な権限の下に、特定の個人に限定して責任の一切を付与し、
そこに絶対的な義務と称する働きを与えるだけというのは、
この自然な法則性への解釈を限定したものに変えてしまっているだけになると思っているのです。
子供時分には、そうした解釈まで理解できないとするのでしょうが、
当然そのための教育とはそうして社会全体でまかなっていかなくてはなりません。
赤ん坊のときは、もちろん周囲の大人の保護を利用するほかないのですが、
現在の大人の解釈とは、単にその限定された期間で得た「保護の必要性」というものを
子供の扱い方全般に拡大(延長)して適用しているのであって、
その認識を少し変えて、もっと実質的な教育理念をもって、
子供たちには自然な価値観というもの、単なる宗教的、
また道義的な価値観や善悪の倫理観を押し付けるだけではなく、
方法としてもっと自然の感性に触れさせ、そこに理解できるものをともに見つけ出してあげるという作業が必要かと思います。
そこにあるのは”義務”と呼ぶようなものではなく、
理性の外側に意味される「自然な役割」という様相であると思います。
そうしたことから教育とは、教鞭をとるものが大人ぶる環境を作ることではなく、
単に親元や周囲から愛情が注がれる環境を作りもすればよいということになるはずですが、
ある意味、大人たちの用意した枠組みを外れて、
勝手に社会性を吸収して子供たちは育つのですから、
これまでの人間的理解が想像で作り上げた価値観をいますぐはずしても、
たいした差はないと考えます。
現行の社会におけるあらゆる事業の成立は、本質的な生命倫理を破壊しつくした上に存在しますから、
その逆も当然生まれることになるだろうと思います。
けれどもそれらを分解しても、すぐに必要なものは新たに組み立てられるとも理解しますし、
自然に沿った考えの下に沿うのですから、時間もかからず、スピーディに物事は進んでいくでしょう。
現在のように、すべてが法の言葉の権限の基に、
あらゆる活動の自由性が制限されているというのは、
私は真の自立のための教育から、大人も子供も、
目を逸らし続けることにしかなっていないと考えています。
単に事件を起こした子供を刑法の低年齢科へ適用するか否か、
というような貧しい人間的感性をさらけ出す話題にしかならないというのは、
如何に現行の社会性が歪んでしまっているかを如実に示すものだと理解します。
http://www.asyura2.com/14/idletalk41/msg/355.html#c21
49. アーリエル[22] g0GBW4OKg0eDiw 2016年5月01日 22:21:44 : q931E3NW4E : Xao0gDyXwoc[111]
私の立場を改めてここに明示するならば、厳格に「宗教は必要ない」という立場であり、
形式ばった秘儀や儀式といったものになんら関心もありません。
誰かにそれが必要だととも私は理解しません。必要ないものは必要ないものでしかありません。
ですが、それぞれの宗門にて、喧騒の街中にほっとする場所が現代において存在し、
人々は心の安寧を目的としてその価値観を利用しているということをも理解します。
そうしたあり方に限定してあるならば、そこには一言も誰も文句などないものでしょう。
あなた方の不安や疑念は不透明であるものに対してであり、
そこに改めて、すべてを開示する必要性を感じることによるものでしょう。
あ、それから、宗教が必要ないとすることが、=神などいない、また要らない、
とするような意見となる訳ではない、ということもここに伝えておくこととします。
そのことはまったく別の話です。
>38
「パウロの失敗」とする部分とは、舌足らずであったと反省します。
→宗教というものを確立させてしまったことにあります。
改めて感想を漏らすなら、あなた方の求めてきた価値観、
また世界とは実に狭量的なものだと感じます。
あなた方がそこに魅力を感じるというならそれを続ければよいことで、
関心のない私にはまったくそれらは関係しないことです。
ただそれだけです。
私が述べたことは、事実として、それを理解するものは同様のソースから得ています。
それらはすでに私の生まれる以前に世界中に拡散されているものです。
この流れで仏教界についてまで語るつもりはないですが、
あなたの抱え持つ不安は多くの人間が抱えるものと同様と理解します。
しかし、それはあなた御自身の問題であり、解決する者もあなた以外ないはずです。
そうした質問こそ、nakidに打診すればよろしいでしょう。
あらゆる不安は解消することができます。
その力はあなたにもあるのですよ?
その力のことを私はここで言って居るつもりです。
「結局、誰もが無知である」とした見解に落ち着こうとする者は、
自身の無力さや決断力の乏しさを、同じ姿を他者に見出すことで、
自身に正当性を与えたり、納得させようとしているだけです。
ただ俯瞰から全体を眺めてみればよろしいのです。
私の投稿に関心がなければ、ただ離れるのがよろしいのです。
誰に依存せずとも、必要とされる気づきは誰のもとにも必ず訪れます。
http://www.asyura2.com/14/idletalk41/msg/354.html#c49
1. アーリエル[23] g0GBW4OKg0eDiw 2016年5月02日 00:04:12 : q931E3NW4E : Xao0gDyXwoc[112]
*キリストの物語とは、その当時の人類の意識(地球意識)が勧請(要請)したものだということ。
人類の意識がひとつの大きな泡の塊ようなものだとすれば、キリスト意識は、
より遥かに多様なさまざまな概念的体系での経験を経て、
人類より遥かに豊富な経験と知識と精神性が集った老齢なる意識、ということになるだろう。
(すべては同時的に存在するということだが、)
人類の泡がその老齢なる巨大な泡に接する時はこれまでも、そしてこれからも、
周期的にあると考えることができる。
その人類である泡に、教師としての泡が接する時、地球には偉大な教師が誕生する。
そのとき、それまでになかった新たな概念が人類に贈与される。
キリストの物語に三人の役割が必要だったのは、
その魂の巨大さにも比例されることだが、
上演される物語が(当時の)人類の許容範疇(尺度)に収まらない、
壮大なものであったからだということとも理解できる。
ひとつの意識は三つに分かれて、それぞれ、その土地とそれぞれの時代背景を要したのである。
そして、私の知る限り、これもまた知る者は知る周知の事実として、
空海と日蓮もまた同様の条件下に生まれたひとつの教師的魂であったということである。
(パウロと日蓮が似ているといったのはこのことを含んでいたため)
これまでもキリストは時代と場所を変えて、規模の大小はあるが、
そのドラマ以前も、それ以後もこの地球上に現れ、人々に必要とするドラマが上演される予定である。
そして最寄の上演は既に始まっていると見ることができる。
+ + + + + + + + + + + + +
http://www.asyura2.com/14/idletalk41/msg/358.html#c1
56. アーリエル[24] g0GBW4OKg0eDiw 2016年5月02日 15:20:58 : q931E3NW4E : Xao0gDyXwoc[113]
>55
基本的にあなたの言動は誤解を生みやすいのだと考えるが、それは私も同様のものだろう。
よくよく読んでみるとあなたの考えと私の考えは基本的に構造は同じのようである。
>50
かつての私はあなたのようにあった時も確かにあるといえるし、あなたのその不安と怒りという感情の出所を理解するが、今はっきりといえることは、そのときの考え、そしてそこから生まれる感情は自分に何も生まない。つまり、自分に偽善的であったということだ。
あなたの崇拝するものを大事にするあまり、自身のきづきをおろそかにすることはない。あなたにもし、敬うべきすばらしい恩師がいるというなら、あなたが自分を裏切ってでも、自分の足で、自分の心で、わが道を確かなものとして歩んでいくことを望み、そして頼もしく思うだろう。
狭義に生きることなかれ。
あなたは今のあなたの生き方にしたがっていけばそれでよい。だが、それで人を巻き込む必要はない。あなたにもきっと理解できるときが来る。
そして私たちの言うことが誤りだというなら、それはそれでいいではないか。
何も人々は自分の信じる道を自分で模索すべきものであり、あなたが誰かの無知さに頭を抱えている必要はないのである。
勧誘をしているつもりでもなければ、私はあるゆる宗門も持たない。
営業マンとしては私は力を発揮するだろうが、自社の特定の商品だけを売り込んだりはしない。
利益にもならないことを理解しながら、私は自然に体のよいものだけを人に勧めて、そしてその会社を自ら辞めるだろう。というか実際そうしてきたのが私だ。
私はどこまでも自分に正直にあるだろう。なぜそこに恥を感じることがあるだろうか。笑うものには笑わせておけばよいだけだ。
http://www.asyura2.com/14/idletalk41/msg/354.html#c56
57. アーリエル[25] g0GBW4OKg0eDiw 2016年5月02日 15:30:53 : q931E3NW4E : Xao0gDyXwoc[114]
失礼。
>55は「>54」の誤り。
>55に対しては特になし。
つまりnakagawake宛て。
http://www.asyura2.com/14/idletalk41/msg/354.html#c57
4. アーリエル[26] g0GBW4OKg0eDiw 2016年5月02日 19:33:42 : q931E3NW4E : Xao0gDyXwoc[116]
>nakid
あなたの知識とするものは中身がない。本質がごっそり抜けている。
そして私への反論になっていない。ただの拒否反応しかみせていない。
それは、もちろんあなただけではないが。
だが、その反応は大方、誰もが正解とみなすだろう。
私は誰かに気に入られようとしてこれを書いているわけではないので、勘違いしないでほしい。
あなた方を脅かすものでないと知るのなら、何も恐れることはない。
これはあなた方を驚かすことになるとは思うが、怯えさせるために書かれているのではないのだから。
まあ、いずれあなたも知ることになる。そのときが楽しみだ。
その時は人々のために本当に必要とされる力であってほしい。
もっと素直に自分をさらけ出したほうがいい。とアドバイスだけしておこう。
http://www.asyura2.com/14/idletalk41/msg/358.html#c4
3. アーリエル[27] g0GBW4OKg0eDiw 2016年5月03日 13:13:14 : q931E3NW4E : Xao0gDyXwoc[117]
あなた方に足りていないのは根本的な理解、それは存在の本質への理解だ。
そもそもあなた方に説いて聞かせようなどとするほどの大層な話はここにはない。
あなた方が知ることができるものとは、自分自身のことでしかない。
そしてそれを知る時、あなたは自身にただ素直なあり方を取り戻す、
ということをただ伝えたいだけである。
あなた方はそれを無防備で危険なことだと認識する。
たとえば、知識がなければ、人にだまされたり、あらぬ宗教に属して、被害を受けたり、最後的には人々を戦争に駆り立てたりするというようなことを想像してまで危惧し、人を引き止める。
そして「正しいもの」だけを人は持つべきで、
それは与えてやらなければならないとして、論理的な正当性までを自分に与えようとする。
そこに誤りが生まれているということだ。
そして、ここにあるのは実に単純な理解だ。
単にそれで足りるものをあなた方はわざわざ避けている。
つまりそこにあるのはそれぞれの個人が持つ、
自身の価値観による行動、その正当性の上塗りのための行為でしかない。
私がいっていることとは、
あなたが自然な存在として、誰に対しても自分の心を開放してそこに向き合うなら、
あなたの中に光明は見出されるというだけのことに過ぎない。
ということだけである。
言葉は要らない。心に感じるものをただ望ましいとする自分の力と見て、
実行に移すということだけでいい。
鏡を使って自分の目を見て感じてみればいい。
あなたに対峙するのはあなた自身だけである。
外側の知識とするものに対して執着があるのは、
あなたがたの概念化に生まれた多くの思い込みによるものであり、
そうした執着を手放せないうちは、あなた方もまたひとつの正義に燃える僧兵として、
そこにある概念の手先としてその砦をただ守ろうとして動くことになるたけだ。
そこにある教義、イニシエーション、戒律、立法、
さまざまな制約じみた威厳があなた方を囲い、
そこであなた方は自身の存在本質をますます見誤る。
あなた方の本質とは、あらゆる概念下の影響から自由である。
あなたはあなたの”場”を持ち、そこに存在し、そこであなたの必要とされているものはすべて得ることができる。
あらゆる判断のために得られる知識は、
あなたがその自然性を自覚したあとでいつでも手に入るものだ。
だがその時には、求めていたとするそれらのものは、
もはやなんの魅力も価値もないものになっているということになるはずである。
人間的な概念に依存しているうちは、
そこにある思想、想念、感情、さまざまなものに取り憑かれる。
それはそれでよいことだ。
だがそこからどうするかがあなたの課題であり、
あなた方はそこで感じたことにたいして考え、それらが自分たちに適合するかどうか、
そしてまた自分たちとはどうありたいのか、どう変わっていきたいかの想いを明確にすることで、進化の道のりに足を踏み込むことができる。
あなた方は常に、先に出会うものすべての答えを知っているが、
あくまでそれをここで知らないとすることで、その想いに得た力の働きを
この概念体系の世界に反映させることになるのである。
頭で理解するのは、そのような理解だけでいい。
要は素直に感じ、素直にその想いの力を発揮するということだけが肝要であり、
意識の中心に自身を迷わせるものはいらないということである。
あなた方世代が、単に次の世代の種子を刺激して、その成長を促進させる役割でしかないとするならそれはそれでけっこうなことだ。
あらゆるものすべては無駄にならない。
http://www.asyura2.com/14/idletalk41/msg/359.html#c3
4. アーリエル[28] g0GBW4OKg0eDiw 2016年5月03日 15:04:06 : q931E3NW4E : Xao0gDyXwoc[118]
>2
言葉足らずにその害毒にまで口をはさんで他者に危険喚起していながら、
その蛇口から垂れ流れた情報に自らを汚染させることにどれたけの意味があるのかは理解できません。
(まあ、言葉足らずなのは自分の書いた本文を見て反省しきりの私も同じですが)
人の自然な感性が、絶えず、そうして刺激に対する耐性を得ようとする行為の陰に
麻痺していく一方であるとするなら、そこには当然、
「(不自然な)人間の価値としての判断指針が必要だ」、といった意見が幅を利かせるようになります。
あらゆる刺激的な事象に興味があるなら、それは個人の判断で追いかけられればよいとは思いますが、
上記の理由から、それらを率先して拡散すべきことに意義があるとはわずかにも思いません。
自分の行動には誰もが後ろ盾や力添えをほしがるものですが、
そのこと自体が自分の力となるわけでもなく、
また自身の存在性に対して、なんらかの正当性を与えることになる訳でもありません。
あなたが自身のとる行動を本心でははっきりと望んでいないと気づいているのなら、
そこには「自制」する働きが足りていないということになります。
そもそも、自然界に存在する力の働きをそのまま伝えるものとして、
言葉というものもまたそこに”その存在性”を示すものであるはずですが、
例えば、「無」や「中心」、「ゼロ」というものは存在しないけれども、
人々の頭の中に何かを描く時に必要な、基準というものをとりわけ理解するために存在するわけです。
「力」という言葉も、概念的なもので、「物理的な力」もあれば、「愛の力」もまたそこにはあるわけです。
人々は、この概念を利用して言葉の論理性というものを展開し、
自然界には存在しない力の働きさえも、さも実在するかのように見せかけることができます。
政治的論理、社会性を背景として出来上がったあらゆる法的根拠などとして使われている言葉はほぼ概念の乱用です。
そこに人々の自然性、つまり言ってみれば、
「自然な善性の働き」をも閉じ込めてしまうものでしかありません。
あなたが、本来望んでいることに対してそれを自制する働きや、
またそのための道理などもあなたの存在性の中に必要とはされていないはずですが、
人々は「人を制する必要性」を常に感じるのは、
言葉の持つ「論理的拘束力」の働きに魅力を感じることに加えて、
その力を守ろうとする意識によるものです。
恥や罪悪感といった価値観を利用してまで、人々を自制するよう促したり、
考えを改めさせるといった働きかけをしたりしますが、実際的にそこにはなんら力はありません。
これは人々を「自制する必要性の認識」による論理性といえますが、
自制すべきと認識する場において、それが果たせないことによる悔やみがそこに拍車をかけます。
しかし、本来ならばそれは、それぞれがそうした場に臨んだとき、
「それをすることを本当に自身が望んでいるのかどうか」をただ自身の胸に問えば、
そこに感覚的に、感覚的に理解されるものであるのです。
そしてそれは雑多な価値観を用いて、そこに照らし合わせて「その行為の正当性を得る」ということではなしに、
自然な感性の元に直接的に理解していなければならないものです。
あなた方の知る教義とするものが如何に制約に満ちたものかは見れば理解できますが、
それらの内容が宗派ごとに違うといったことに関しては、なんらおかしなことはありません。
人々には宗教を必要とする正当性としてのものが、きちんとあるのです。
それは現代社会における法律や規則となんら変わらないものです。
そこで人々が抱いている考えがそれら社会性を生んでいるのです。
つまり本質的に「自身を支配する必要性」というものを信じているためにそれは起こります。
つまり、人間批判を繰り返すものを中心に多く見られることですが、自己批判、他宗差別、すべて、
根本的な問題はそれぞれの個人の問題とするところに収まります。
現在必要とするとした社会依存の論拠となるものとは、
「人々の無知さによる横暴性=無価値な存在性=支配する必要性」を中心として生まれた、
危険性の回避に集約されており、当然そこには、悪(危険視されるもの)が栄えることへの不安があり、
そうした対立の構図が人々のアイデンティティとして生き続けることになります。
本質的にそうしたデータは誤っているといえ、
それらがずっと今日まで一人歩きしてきたのが現状だと言わざるを得ないものです。
あなた方が人々を不安視する原因となるものは、
そうした物事へのきちんとした把握力と対応力、そして自制心がないとすることへの苛立ちから生まれています。
ともかく、そうして外側にある脅威とは、すべてそれぞれの個人の場において形成されており、
外側に感じられる問題、またその原因とはすべて、それぞれ個人的に抱える問題が投影されているに過ぎません。
外側の問題を解消しようと努力するのではなく、それぞれが自分に素直に向き合って、
自分の中身を変えることによって、また外側もそのことで改善されていくに過ぎないということです。
逃げていても何もならないということです。
しかしながら御幣があるとまた言葉足らずになってしまうのでいいますが、
「戦うこともしない」ということです。
ただ望みとするもののみに集中して、人々がその想いをひとつにしていけば、
おのずとすべてはリンクして大きなうねりとなり、新しい時代を呼び込む働きとなります。
不安視することによる心の働きとは、あなたの存在する場において、
それら望みの実現を阻害する抵抗力にしかならない、ということです。
http://www.asyura2.com/14/idletalk41/msg/359.html#c4
30. アーリエル[29] g0GBW4OKg0eDiw 2016年5月06日 16:50:44 : q931E3NW4E : Xao0gDyXwoc[119]
>27
あなたの議論の意図するところは理解しています。
しかし、危惧、懸念が先にたてば、冷静な判断を欠くことでしょう。
人々に「求められているもの」が明確に理解できるのならば、
その必要性は実現化にむけて議論されるものであるでしよう。それは当然の話です。
今回出てきた問題の山は、長らく鬱積してきた、
この国の国民性を現す、精神性の土台をなしてきたものであるはずです。
そこにおいて必要な議論をきちんと終えたとき、
28で書かれた後半の部分が実現に向けて運び出すこととなるはずです。
そこにおいて議論となるものとは、変えていく必要性あるものは変え、
その必要性のないものに関しては変えなくてもいいとするだけの話です。
当たり前にそのスタンスで物事を見ていけば、ただよいだけのことでしょう。
もちろん、いつ、どのようにしてそれら「必要性」が、
多くの人々に観念的に刷り込まれてきたかについては言及する余地が十分に有ります。
ですが、本質部分においては、国民ひとりひとりにその事に対する立場を表明し、意見する責任(権利)はあるものです。
一連の問題の要点となる部分とは、件の懸念となる部分であり、
それは安保法改正という名目の元に、切り分けられるべきものとそうでないものとが混在したままにされているというところでしょう。
この時点において、われわれは、それらをまず明確に、それぞれ個別の案件(別件)として認識し、
それぞれに細部にわたって結論づけるべきもの、という考えを持つことです。
そのことで、以後複雑化する議論に歯止めをかけるべきだと考えます。
どれも一緒くたに、単に政党を支持するかしないかのみに収束する話で決めるべきことではなく、
それぞれの法案はこれこれの理由で、賛成か、また反対かと議論されるべきです。
今回の一件は、このことで人々に改めて、政治のあり方を大きく問うためのきっかけを与えて、
そしてまたそのことで国民もまたそこにあり方が問われることになるのだと思っています。
つまり、ここまで回避し続けてきた議論がこの国の人々にはあるのだと思います。
>限定的な賛成
そこにあるのは、「それ以外ペケ」ですから、全体としてペケだと伝えているものですし、
無視できない認識にまでノーを突きつけることはしない、と伝えたまでです。
確か、政府発行したという小冊子には、記載されている災害時の緊急性の一例として、
事例を挙げて、被災現場における緊急車両優先を法令化する、
といったものがあったことに由来するのですが、
そもそも、”その程度のこと”(つまり誰もが当たり前に認識すること)をわざわざ
罰則付きの人権拘束といった公的権限なるものをつけてまで法令化の義務を
「推進すべきものか」という議論もほしいところです。
そこでの結論には人々が、「自分達という存在をどのように見ているのか」、
そこにある人々の「変わらない価値観」もまた明らかにされるでしょう。
そのほかでいえば、たとえば、
ガソリン燃料や電気使用の制約を一時的に人々に課すといったこともそこに含まれてあるでしょうか。
憶測をも持ち出して、考えられる「事例への対処」に対しては、
こちらも憶測で対処するほかありません。
そもそも「すべては権限のもと法令化すべし」といった趣旨には賛同できません。
議案として論じる必要性として、必ずその法令化がついてくるというのは異常です。
つまり、どんなものでも、一度決まったからといって、変えられないとする議論を当てはめることはできません。
それが人々の必要性に反して、望まれてないものならば、いつの時点でも、
常にその改訂版を作成すればよいだけの話です。
もし安保法が、「刀狩」のような意図的な悪法であることがわかったならば、その時点で、
人々はその「必要性」という正当な改憲理由にのっとって、速やかに改善すればよいだけです。
そもそもが、今のわれわれに必要なのものとは、
法案による人的権限の拘束性といったものではないのです。
それらをいったん皆無にする必要性すら感じるということです。
まずは自身の心というものが一方的な価値観に汚染されていないかを見極め、
それら観念的制約の枠組みから自身を取り外してみることによって、
素直な認識とクリーンな心を取り戻すということです。
そこでは、戦争というものがどれだけ人間性を失った中に行われるものかを理解できるはずです。
われわれも子供達に習ってそうあるべきですが、あらゆるものは、
一度決まったら、何が有ってもそこに人々は服役しなければならない、
変えてはならないとする考えや主張自体こそが、理解できないものだと知ることです。
このたび改めて理解したことは、政権は常に集団的対立の構図を利用しているということで、
ここには集団性を利用した単純化された政治的論法があることをわれわれに教えています。
そこではできるだけ争点を単純にすることだけが大事とされるようです。
政権側から見れば人々を「対立させることによって」、
彼らに何かしらの正当性と推進力を常に「与えてくれる」存在であることが理解できます。
私は以前から言っていますが、
政治とはいざこざのある中に生まれはしません。
今現在の政治の舞台での対立構造は、そのまま国民性を分断するためにしか働きません。
国民も含めて、そこには人のおろかさがあると思っています。
彼らの権力抗争に利用されることにしかなっていないのですから。
改憲派と護憲派の争いといった単純な図式のなかに人々は取り込まれ、
ただいたずらに対立感情を煽られるだけになっていてよいのでしょうか。
そこに煽られるだけでいれば、それは図らずも、政権与党側に加担するにも等しい行動となります。
護憲派とされる人々に対して、改憲理由の不透明さに対する嫌疑があります。
そこにに直接かかるのは、
「変えなくてもいいものを無理やり変えようとする必死さ」です。
その不思議さを感じるところに政府への不信が大きく働くのですから、
そこを明らかにしようとすればよいだけです。
報ステは見てなかったのですが、聞くところによると、
古館氏のときにでていた私も好きな木村草太氏がでていたそうで、
下記のように発言されたとの事。
↓
<<「デモに参加している人の主張には、いろいろあるが、戦争に行きたくないというだけではなく、世界の平和に貢献する方法は憲法9条を生かして実現するという考え方もあるということ。」木村氏>>
↑
私もまさにそのとおり、と同意します。彼は見ていてとてもすがすがしい。
私の素直な私見とするところは、法案の法的権限の有無、その効力以前に、
人々に大事とする守り抜くべきものとは、「自分達の手で平和を実現しようとする」という意思だけであり、
その手立てとなるのはそれぞれの自身の心のあり方だけです。
私は人類というものがいまだ心を育てている途中の段階であると理解します。
人々の心というものが、真には、法的根拠そのものとして働き、
あらゆるシーンが自発的に人々の心を育てる現場だと理解するまでに成長することを望んでいます。
新たにその心をはぐくむための保障整備が生まれればよいだけです。
そこで人々は自分達のコミュニティを保護し維持するための、
新たな人間的な価値観を確立していく知恵を持つと理解しています。
そうして考えれば、単に憲法9条が平和憲法だとみなして、
それのみを維持する必要性を感じて、そこを境に争うことしかできない、というのもおかしな話です。
それだけが頼りであるかのように振舞う姿もまた、
そこ(28)で言われるような感想が割り当てられることになるかと思います。
考えることは、法的権限といった拘束性に対し、
「絶対的に服従してしまわねばならない」と考えること自体、思考停止であるのであって、
それはそこで著しく社会性を失うと予測することによる精神的な怯え、
そして冷静さを欠くことによる激情の現れも、そこへの反発心によるものなのでしょうが、
そもそもそうした”権限の法的根拠を許す”(権限を認める)こと自体、
私はどうにも理解できないことに思えるのです。
何らそこに認めるべき自分の否など認められないのですから当然です。
国民はなべてみなそうあるべきだ、とする考えに持っていこうと、
あらゆる解釈や手段に出ること自体がいかがわしいのです。
実際は法性と心は一体のものです。政治とはそこから発生しているものです。
社会とは人々のために有るのです。
何らかの災害時のおりに、われわれの社会性とは機能すべきかどうかは人々にかかっています。
政府が一任されるべきものでは有りません。
普段から、われわれひとりひとりのこころであらゆるすべての面が機能しているべきであるのは当然のことです。
現実的に、人々が必要とする緊急時における対策というものに対して、
人々がしっかりと明確に議論していくことは大事です。
http://www.asyura2.com/14/idletalk41/msg/355.html#c30
31. アーリエル[30] g0GBW4OKg0eDiw 2016年5月06日 17:50:35 : q931E3NW4E : Xao0gDyXwoc[120]
>26
>誤解
単一的な価値観のみに埋没する時には気づけなかったことも、
目新しい価値観に触れることで、考えを新たにするきっかけも生まれます。
できるだけ私はそうして新たな意識の呼び水ともなりうるものだけをここに書こうとしています。
そこで誤解が生まれることは必然だという気がします。
既存の考えや価値観に対して「対立する構図」を読み取る限りにおいては、
「どちらか一方への押し付け」と受け取られるのは当然のことだからです。
しかしながらそこは慎重に通過することになるでしょう。
敢えて長い間懐疑的なままであったとしても、
一度引っかかった疑問点は容易に見過ごされることはないのですから、
いずれ反復されることになります。
どうした価値観も優劣はなく、それぞれに利用すべき価値のあるものです。
どの時点においても、それぞれが新しいものを手にするかどうかは、
自発的な判断に一任されているということであって、
一方からかけられた圧力などによって、自然な理解など促されはしないのですし、
それぞれの「存在」の根本的な価値とは、
どれかひとつの人間的な価値基準だけに選定されるものではないのですから、
それぞれのタイミングで、自分の必要とするものをそれぞれは得ているということになります。
人間は自身の存在の”場”にあらゆる概念を持ち込んで、
その概念上で価値という認識を得ようとしているにすぎません。
大事なのはその上でそれぞれ自分はどうありたいかということだけです。
他者の批判だけに終始する間は、そこに自分がなく、
ゆえにそこに抱えている自分の価値観というものに、ただ流されているというだけの話です。
http://www.asyura2.com/14/idletalk41/msg/355.html#c31
8. アーリエル[31] g0GBW4OKg0eDiw 2016年5月06日 20:29:05 : q931E3NW4E : Xao0gDyXwoc[121]
>5
ご存知のように、その後180度転換することになるが。
組織的見地というものが人々の信憑性の基礎となりうる、という考えが人々にある限り、
組織的宗教が獲得しようとするものが何かもまた、そこに理解できるものである。
「相場は決まっている」とはじめから結論づけてしまえることを
当時のパウロが理解できていなかったわけではない。そこには回避できない認めざるを得ない事情というものがあったのである。
そこには、人間側の無責任さぶりを改めて感じるものである。
さて、組織的見地による信憑性に対して、
”個人的見地における信念”とは、どういうものだといえるだろうか。
私にも覚えがあるのだが、そのもの自身にしか起こりえない強烈な体験によって、
獲得しうるものであり、そこに組織的見地は常に対立するものとしてある、ということができる。
パウロもまたその強烈な個人的体験によって、それまでの自身を変えてしまった。
ということである。
教義にあることを頭で理解する以前に、先に”経験させられる”という体験を通して、
そのもの自身がそれに向かって必死に究明しようと動き出すことになる。
私のこれまでの半生もまさにそうしたものだった、だから容易に理解できるのである。
つまり、それは全体性のドラマの中で予定されていたことだと言える。
>6
あなたが感じておいでの”パウロ像”はあなた独自のものであり、
それを正しいとみる根拠もまたあなたの中にしかないが、それがあなたに何らかの恩恵を与えるというのなら、ここに書かれていることは何もそれを阻害するものではない。
あなた自身が何かそのことで損害を受ける、というものでない限り、
互いに好きにすればよいだけのこと。
そして、ここに書かれている内容物に関して、興味がなければそれでいいはずだ。
価値観を対立させることによって、あなたが常々何を果たそうとしているかは、
ご自身でご自分の”ハラ”に理解されているはず。
>7
純粋にデータを通して本質を見抜こうとしている努力家の姿勢であることは認めます。
そのことで、人々のためになろうとしているはずですが、
逆に人々に閉塞感を与えてしまっていてはいないかということです。
http://www.asyura2.com/14/idletalk41/msg/358.html#c8
33. アーリエル[32] g0GBW4OKg0eDiw 2016年5月07日 16:28:41 : q931E3NW4E : Xao0gDyXwoc[122]
>32
あなた御自身はその真逆であるとでも主張したい口ぶりですが、
単に矢面に立たず、何の自尊心もないで、批判だけは一人前という人間にしかおもえません。
いかがですか?
http://www.asyura2.com/14/idletalk41/msg/355.html#c33
26. アーリエル[33] g0GBW4OKg0eDiw 2016年5月12日 15:31:13 : q931E3NW4E : Xao0gDyXwoc[134]
>9,10
同格においてはいけない、おかなければならない、といった基準で、
すべての存在のあり方を順位付けようとする時点で、
その価値観は根本的に自分の立場を制限するために働きもし、それは、
物事の本質にたどり着くことを自ら放棄するようなことだとも言えます。
価値観を大事にするのと執着するのとでは意味が違いますが、
ある意味、そこに毒されていながら、そのことに気づけないままであるというのが、
現代までに続いたあらゆる病理の根源であると思います。
特定の価値観の元に理性は働きもしますが、
そこにある理性の働きがそもそも正しいと判断するのは人間的な価値観のみです。
そこで徐々に感性の働きが蝕まれてきた、ということだと言えはしないでしょうか。
それは、聖書などをいくら繰り返し読んでもたどり着かない見地であるということができます。
むしろどうしたものも、そうして繰り返すことによって、
なんら人々の求めるものに辿りつかないことを知るとき、
人はそこから納得して自分の力で離れることができるのでしょう。
その時には、それに変わる新たな見地を求めることになるはずですが、
それは同様の宗教観などではない、ということに自然となるはずです。
結局のところ、そうして、その時代時代にあわせて、
ありていの人間的な解釈に収まりを見せるだけというのなら、
なにも特定の観念的な価値観など、はじめから人は必要とはしないものです。
私はそもそも本というものを読んで何かを得ようという考えを持たなかった人間です。
押し付けられる価値観に対しては、ことに極端な反発を繰り返してきました。
ただし、自分では判断しようのない体験をしたときだけに限り、
手にとりはしましたが、パラパラとめくるだけで、
十分それが必要な情報かそうでないかを感覚的に察知し、
目の止まった場所だけ吸収する、ということをやってきました。
ですから、何かを探していて、真っ先に手に取り、
一番先に開いたページに必要な情報が載っている、
ということが当たり前に日常で起こりえたのですが、これに関しても、
私の心からの知人となる方々は、同様の経験をしている事がわかるために、
そのことで一瞬にして意気投合し、それ以上言葉を交わさずとも、
そこに深いつながりを感じ取ることになるわけです。
私も10代20代前半は、激しい気性の持ち主だったとも言え、
体験主義的な様相の中に、自分の考えを確立することに躍起でした。
感覚的な判断ですべてイエスサインがでたので、
他人の持つ余計な価値観や観念を極力持ち込むことはありませんでした。
そのことによって、自然と独自的に「自己的見地による信念」にたどり着いたのです。
そうして信念がひとつ自分の中心にあるとわかると、
あらゆる自分の必要とする情報が、自然な流れで、
多くの専門的な人物などを介して集まってきて、
不思議なことで毎日が彩られるといった恵まれた環境を感じていたものです。
私はその一風変わった人々との関わりの中で、多くの立場に接し、
立場によるさまざまなものの見方、そしてそこにある流儀や、
物事の解釈もまた多様にあっていいのだということを理解することができました。
つまり、どれかだけが正しいとする考えを私はそこで持つことができなかったのです。
しかしながら、そのどれもが、それぞれの多様な価値観に対応して、必要であるのです。
よって私は独自に、自身の納得する、それらをまとめるひとつの解釈を求める旅に出ることになったのです。
私の場合はまず”経験ありき”で、必要なきづきの為の体験を”させられ”ました。そう思っています。
神秘的な体験後、自分がそのことについてひとり理解を深めていくと、
しばらくしてそこにはまた自然と、その独自的考えが正しいものかどうかの答え合わせが待っているわけです。
そして言うまでもなく、すべて正解だったと気づいたときには、
必然的にそこでその独自的見解へ対し、より自信を深めることにつながったわけです。
けれども今の私は、そうした自信というものがまた驕りにつながるものと感じ、
自分のより上の気づきを阻害するものだとして、すでに過去のものにしてきました。
それらすべてはたったひとつの気づきのためでしかなかったと理解しています。
今はより統合された自分を感じています。
そしてそこに自己として執着するものがほとんど消えてしまいました。
批判的な態度、つまり抵抗感情を自分の中から消すことによってそれはいつでも可能となります。
それら批判的な感情は恐れや怯えとつながり、自己の本来の能力を制限するものは、
すべて自分の価値観のフィルタを通すことによって得られるものです。
ですから、そうした感情によって自分を制限したくない、
また心から望ましい自分にたどり着きたいと願うのであれば、
その自身の価値観の見直しを自分の手ですることです。
もし現代に、キリストや釈迦といった人物が現れていると仮定するなら、
人々は新たな自分の能力を開花するための価値観を手に入れることができるのかもしれませんが、
たんにそこに依存的になり始めるだけであれば、
それは相変わらず、そこに宗教的な枠組みが生まれてしまうだけかもしれません。
ですから、次に現れる時がいつかは、
”時宜にあわせて適宜に現れる”ということとして理解されているものです。
つまり同じ過ちはしないのです。
人々は常に、そこに価値観による振り回された自分の姿を感じ取ることです。
そうしてその自分の望まない姿を十二分に感じ取ればよく、
自己の存在性の本質に気づきたいと願うのであれば、まず、
その望まない自分の姿を自らの手で、意思の力で変える、
ということだけがそのもの自身に要求されることです。
今私が感じていること、そして伝えたいこととは、
いままさに、その機会が訪れている、その恵まれた機会を逃すなということです。
つまり、自身で作り上げているすべての個人的な問題を
一挙に解決できる機会はもうすでに訪れているのです。
私はそのことを日々感じ取っています。
そこにのみ目を向けられるべきでしょう。
かつて作り上げた自分の思い込み、価値観によって今まだ、
狂気の淵を彷徨い歩き、苦しんでいる者がいるとしたら、
それを自分の力で、そこにある観念を塗り替えることが容易となっています。
すべての転生における集大成がいまこの時期のあなた方一人ひとりに現れていると考えることは無難なものです。
>nakid
私は私以外の者に”私の肩代わりになって意見される”ことを好まない。
だからご辞退いただいたまで。
けれどそこで、私自身はあなたに意見しないとは一言も言っていない。
そもそもこちら側からはそちら側に反論する理由が見当たらない。
ただひとつあるとすれば、私がなんらかの”専門家”を自称したことは一度もないということだ。
そしてあなたの意見はどれもすべて、
信憑性の域をでない組織的見地によるものであるはずだが、
それを「正しい」と一点張りできる姿勢にも理解できない。
まああなたの言い分では、正しいとするから正しいとする、だけだろう。
そして宗教的に依存する人々を批判するという一方で、
あなたもまたその宗教的教義に依存的なままであり、
もしくは同質の依存的性質をずっと抱え続けたままであり、
ともに狂気の淵を彷徨う仲間を勧誘しつづけているだけのような気がする。
私は、「批判を受けることを前提」に書かれたものであるが、
あなたに返す言葉がないというのはそれ以前の問題だ。
ともかく、あなたが抱えるあなた個人で片付ける問題を外側に求めていることは理解できる。
あなたの投稿姿勢、その動機、そこにある狂気、
すべてはあなた自身で作り上げたものだ。
自分の手で作り上げたものは自分の力で抜け出せばいい。
誰もあなたを助けるものはいない。そんなことはできないからだ。
自分が何を望んでいるかにきちんと気づいてやることだ。
あなたはまず自分を信じなさい。
そのことであなたは真に人から信じられるものとになる。
誰も先にあなたを批判して攻めたりはしていない。
そこに気づくことだ。
自分で自分を責め立てているに等しいことが理解できれば、単にやめればいい。
できなくとも、誰もそれで何も困らない。それが楽しいなら、好きにすればいい。
http://www.asyura2.com/14/idletalk41/msg/358.html#c26
43. アーリエル[34] g0GBW4OKg0eDiw 2016年6月18日 04:01:11 : q931E3NW4E : Xao0gDyXwoc[213]
>姉御さま
メールなどであれば、あなたが私に対して疑問に思ういくつかの話のソースをそっと提供できるのですが。
やはり、ここでは茶を濁すことで精一杯となります。
まあ、ここにはもともとそういった目的で訪れている訳ではないですから別にいいのですが。
それにしても、除草剤を撒けば、自分たちの都合のよい環境を整えようとすることができると考えるものが居るようですが、何かしら理解力があるとするなら、自分たちのやっていることがどれだけ馬鹿げたことかを理解する知恵を持ってほしいものです。
はやくそのような世の中になってほしいと思いますし、私はそのために議論をしにきたのでした。
〜 〜 〜 〜
ここしばらく、ある種作り上げたアバターを演じてきましたが、限界ですね。
もともと仮面をかぶってまで”人間のフリ”をしつづけたいとは思えない私です。
そこには、ある種”虚妄という信仰”が必要だということがよくわかりました。
人間社会とは、誰もが何かを信じているつもり、
人間であるそぶりをしつづけているだけだと理解します。
ここでは当初目的としていたものを展開することの無益さをほどなく理解しました。
ここにいる論者に何か期待していた事が間違いだったのでしょうか。
この場所の存在意義をいまここでみつめていても致し方ないので、
すでに違う場所での活動を想定しています。
具体的に面白いアイデアが湧いておりますので、
ここはもう敬遠しようと思っています。
ここにいる論者で期待できる人をしいてあげるなら、『仁王像』さんくらいですかね。
ほかにもいるかとは思いますが、何をしたくてここにきているのか、イマイチよくわかりません。
私はここに集う方たちの、問題に対する意識の高さの度合いというものを見ていました。
問題を改善に向かわせるための意思のかかわりの力強さとは、
問題に関わる存在に対する愛情の一途さだけであると感じています。
未解決の問題に対する議論においてはその思いの強さと意志力が何よりの頼りとなります。
私も時間があれば、仁王像氏とのつながりを得るために、議論のひとつも参加したかったと思い、書きかけていたものもありますが、時間の許すところにありませんでした。
仁王像氏、こちらから関りはありませんでしたが、ありがとうございました。
>仁王像氏へ議論のあり方について
他人へ責任を委譲したままなされる無責任な議論など、はなから議論とは呼べませんよね。
全体の問題を自分の問題として認識できないなら、どんな問題を取り上げたとしても、
そこにはまともな知恵も、解決策としてのまとまりを得ることもないはずです。
そして代わりにそこにあるのは罵倒と批判だけです。
ここにいるみなさん、こまごまと大層知恵はあるようなのですが、
根本的な議論の本義的な部分にまったく結びついていかない。
そこで語られる厳密な互いの知識の解釈の如何に終始することはあっても、
耳に新しい他者の解釈についてはまったく触れずにスルーするか、
懐疑的なの目を向けるのが定例のようで。
議論に必要なものとは決まりきった手順を踏むことなどではないはずですが、
知識はあくまで”その知識単体としてのみ息づくことが許される”とでも言いたげに、
義務的に理解されるもののみを知恵と見做してそれを壊せないわけです。
つまり、気転の利いた応用というものがまったく存在していない。
そこでは、すでに誰かが提唱しているものだったり、
実践されたることによる信憑性を担保として、取り扱える知識としているのですね。
これは知識の持ち方として、ひどく「なさけない自体」であるとおもいます。
われわれの社会に今、必要な議論の始まりとは、まずは既成の概念の枠組みを壊すためのものでなくてはならない。
そして議論のゴールとは、当然、問題が解決された場所、
つまり、誰もが求める、納得できる新たな枠組みが再構築を果たす場所でなくてはならない。
そこではそれぞれ自分らが持つ、人間的であることに対する、
知性的なおごりが仇となっているように思えます。
そこに持たれる知識によって、自由で柔軟な発想が制限されてしまっている。
人の持ち味としてのよさもそこで掻き消えている。
馬鹿げたことだと思います。
ここにいる誰もが、積極的に問題に関与しようという意識は感じられるのですが、
それぞれの主張の始まりが「自分は悪くない」、『自分に責任はない』からのスタートですから、その先が続かない。
はじめから問題は棚上げ。はじめから責任転嫁。
で、議論なんか存在しない。単なる無責任な立場からの愚痴の言い合い。
「あいつが、こいつが」『左が右が』「リベラルが保守が」『自国が他国が』。
無責任を通り越して、関与だけは積極的であろうとするから、
罵りと批判に終始する。
挙句の果ては、「見よ、私はコピペしただけ」と支離滅裂。
誰も自分の言葉で語れない。常に何かに怖れている。
よって、私の議論に参加していただきたい論者はあなた以外ここにはいないと理解しました。
ということで、ここでの作業終わり。
終わりに一言。
「”自分の利益のために、無益に事に従事する他人をネタにする人間性”が一番度し難い」
17. アーリエル[35] g0GBW4OKg0eDiw 2016年7月09日 13:56:50 : q931E3NW4E : Xao0gDyXwoc[257]
頭の脳を使わず、心で考える。それは可能でしょうか?
胎児の肉体は脳が形成される以前に、心臓の鼓動を機能させます。
それは心臓そのものに脳細胞が存在するからです。
それは一元性の思考を生む唯一の動力です。
何をも排除せず、感情も肉体も、それぞれの独自的働きのすべてを受け入れ、
自分の中に敵視した反応をすることなく、ただすべての有り様を包み込み、信頼する。
胸に息を吸い込むように世界を受け入れて、それまで自分だったものを吐ききる。
脳の過剰な反応へと意識するのを薄めていき、次第に腹へ、そして胸へと集中していく。
人間のスペックを最高のもの(覚醒)へと導くのは、人の頭、
つまり脳ではなく心、つまり心臓で決まります。
原始脳である心臓、そして腸、そして脳下垂体と松果体をひとつのエネルギーの循環の帯でつなぐようなイメージです。
腹で話をしたり、胸で話をしたり、肉体の知識、概念から離れていきます。
人間的な価値観に依存せぬようにしていくことに、少しずつ慣らしていきます。
私もまた、ここで何かに敵対しているわけではありません。
けれども、誰が見ても明らかであるように、戦中の狂ったものが再び地表にようやく表れてきました。
その異質な世界観によって人々は目覚めを促されます。
それはある側面で、彼らもまたわれわれの覚醒を手助けする役柄であると捉えることは可能なものです。
人は切羽詰らないと動こうとしません。それもまたひとつの変わるべき転機で、変容の一つです。
これが、自分たちを自縛して苦しませる真似をやめるためのよい機会となります。
あとは、みなで、誰もが敵対しない世界、狂わなくてすむ社会、それを作ればよいだけです。
何をしたらよいか「わからない」。だからいつまでも、変わるための行動を誰も起こせない。
それならば、皆が「何をすればよいかがわかる」ようになればよいだけです。
そうではないですか?
誰もが当たり前に望ましいものを当たり前に享受できる社会がどのような歯車で動くのか、その仕組みを誰もが理解すれば、それをただ実践すればよいとだけ思う、そして動くようになる。
そして、それを世界に輸出すればいい。それだけの話です。
よって、今ここでも為されているように、
ただ何かと反発、敵対を繰り返していても仕方がない。
それでは何も変わるはずがない。
今の政権与党、野党、ともども、同じことの繰り返しで何も換えられるはずがない。
誰も助け合わない。
人の上に立つとするものがこれでは国民は分断されるだけです。
こんな馬鹿な国ともいえないところに私たちは住んでいるのです。
これはわれわれ一人ひとりのあり方もまた問われているということです。
彼らを無能だと思えば、何の役職ももたない国民であっても、それら人々に代わって知恵を出さなくてはならない。
与党は最大の無能集団です。ですから暴力沙汰にのみ訴えるのです。そして彼らほど怯えた思想集団はいません。劣等感の塊です。
そこに敵対するだけの野党もほぼ一緒です。
敵対しても始まらない。
その形を変えなければならないのです。
ある意味、彼らはその無能さぶりで、われわれを覚醒へと促してこれたのです。
必ずそのように改善へと変化を促すしくみに物事はなっている。
全体がそこにただ習ってだけいれば、全体がいつまでも代わり映えのしないまま、
無能で無価値なままとなる。
自身で抑圧をかけている。いつかそれが爆発する。ISISの若者同様、自滅の道を選ぶということです。
他者に依存していても始まらない。
だからそれをこうして最前線において、意識してきた人々が、
その新たな社会の仕組みの雛形をつくり、
それを皆で考えるための議論の基盤をつくる、ファーストステップとしての役割がある。
もちろん、選挙に行っても仕方ないということでもなく、ここで隠された情報を見るなということでもない。
それらと同時に、プラスアルファのことをしてください、
自分たちの問題を「私は関係ない、私は悪くない、あいつらが悪い」
そうして責任転嫁、問題の棚上げをしながらも、対して罵倒を浴びせることにだけは積極的に問題に関与しようとし続ける。
そのあり方に疑問を呈しているのです。
怒りで頭に血を上らせて、同様に馬鹿になることに夢中。
それで次にどうするのか?ということです。
22. アーリエル[36] g0GBW4OKg0eDiw 2016年7月09日 17:40:18 : q931E3NW4E : Xao0gDyXwoc[265]
>21
心という言葉もまた解釈によって定義づけが為されるものです。
それが何か「わからない」ではなく、「わかるものにしなくてはならない」のだと思います。
「心」、「人間」、そして「そこになすべきもの」、それは私にはすでにわかっています。
誰かが仮定したものを後追いで常に頼りにしていくだけでは、学問としては程度が低いものとされてしまいます。
自分の中で違和感を感じていたら、それを自身の感性と意識で明確にすることです。
言葉にまとめる必要はありません。それは誰も聞きません。それで人を変えることはできません。あなた自身を満足させ、他者を変えるのは唯一あなた自身の想いを現した行動だけです。
理性といったもの。心は即ち理である、としたのは王陽明ですが、
それに対して、「人の心というものは信じられない」とする一派である
支離の立場が現在の官僚制の大元になっています。
日本にもそれらを広めるものたちはおりました。しかしことごとく斬首されています。
人が国を収めるとは、人の上に立つということであり、
その人の上に立つものが人を信じられないというのでは、
そうした国は歴史が示すように、ことごとく壊滅します。当たり前のことです。
心を意識的な人間社会を理解するためのデータベースとするなら、
それはまだまだ半分ほどに差し掛かったばかりで、
まだ未開発のものといったほうがいいでしょう。
よっていまだ心とは、そうして、人のためのツールとして完成途中のものであるということです。そしてそれを完成に導くのもまた人であり、そこに続くものは常に社会と対立してきました。
心はまた概念的な価値観を理解し、人々を解放へと導くために使われるものです。
それに対して、常に表面的なものだけを取り繕っていれば人間として看做されるという考えが今です。
それを私は「人間のフリ」そして「自分であるフリ」、また「何かであるフリ」をしつづけることにしかなっておらず、それは自分への裏切り行為であるといっています。
http://www.asyura2.com/14/idletalk41/msg/391.html#c22
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