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[番外地11] 苗場の感想 昔を思い出す混雑ぶり by powderblueY | 2013-01-16 中川隆
1. 中川隆[-10992] koaQ7Jey 2024年4月05日 13:43:42 : dytt5OHe7Q : ZVpWS1dJbFU3d1k=[1]
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苗場の感想 昔を思い出す混雑ぶり by powderblueY | 2013-01-16
苗場から帰ってきて、ついでなので、感想をまとめておきます。
また行きたいかって? もう行きません。
白馬や志賀高原の方がずっと楽しいことがわかったから。

到着した翌朝はすばらしい晴天でした。
ゴンドラで上部ゲレンデへ上がり、リフトで筍山山頂へ。

山頂には、スキーを脱いで歩いて行くビューポイントがありました。
主人とジロはさっさとスキーを脱いで、そこへ歩いて行きましたが、
わたしはスキーを脱ぐのがちょっとおっくうだったので、
はな子と待っていたのね。
まだここに来て、滑り始めたばっかりだったし、
今度頂上まで上がってきたときに、ビューポイントへ行けばいいわ、って思って。

そしたら、その日はもう頂上まで上がる機会がなく、
翌日になったら、山頂へ行くリフトが原動機の故障で1日動かず、
(当分、動かないらしい)
結局、もう2度と、ビューポイントへ行く機会はなかったのでした。

やっぱり「旅は一期一会」ねー。
行きたいところ、気に入ったものがあったら、
あとで行こう、あとで見よう、あとで買おう、は厳禁なのであります。
ということを思い知った、苗場スキー場でした。

ちなみに、はな子は「一期一会」を聞いて、
「えっ、イチゴ1円なの? 安いね」
と言ってました。

こちらが主人が撮った頂上からの風景。
http://pwdrblue.exblog.jp/iv/detail/?s=19145314&i=201301%2F16%2F90%2Fc0147790_2335488.jpg
http://pwdrblue.exblog.jp/iv/detail/?s=19145314&i=201301%2F16%2F90%2Fc0147790_23361279.jpg


とても景色のいいスキー場だと思います。
正面を臨むと、

http://pwdrblue.exblog.jp/iv/detail/?s=19145314&i=201301%2F16%2F90%2Fc0147790_2337084.jpg

この真っ白な山もきれいね。

http://pwdrblue.exblog.jp/iv/detail/?s=19145314&i=201301%2F16%2F90%2Fc0147790_23374647.jpg


さてスキー場に関して、よいと思った点はそれくらいで、
コースはあんまりおもしろくないし、
なにより、人が多い、初心者が多い、ボーダーが多い。
ボーダーの中にもマナーのいい人ももちろんいるけれど、
ゲレンデの真ん中で座り込むのはやめてほしい。
後ろからスキーで突き刺さってもいいですか?


苗場名物といわれている「大斜面」という、斜度もありコブもある斜面、
初心者がスピードを制御できなくて、
「きゃーーーーーー」と叫びながら滑ってます、というか、落ちて行ってます。
あぶないです。
初心者は、下りのゴンドラにお乗りください、って書いてあるよ。


スキー場の規模もあまり大きくないし、
正直言って、八方の方が100倍おもしろいです。
今まで、苗場って、ユーミンのコンサートとかあっていいなあ、って何となくあこがれていたけど、
行ってみないとわからないことって、ありますねえ。


でもね、こんなに混雑しているスキー場を見たのは久しぶりで、
バブルの頃を思い出しましたわ。
リフト待ちっていうのも久しぶりの体験。
関東地方には、まだまだスキー・スノボをやる若い人がたくさんいるのね、って
ちょっとうれしくなりました。
志賀高原では、滑っている時は帽子やゴーグルで年齢不詳なんだけど、
レストハウスでそれらを脱ぐと、
「うわっ、シニアばっかり」
って思います。
いや、わたしたちもどっちかというと「若い人」よりは「シニア」に近いですけどね。


ファミリー客もすごーく多いです。
苗場は今シーズンから、小学生以下の子供は毎日リフト無料なの。
未就学児無料ってところは多いけど、
小学生も無料は、太っ腹です。


これはウィスラーカフェという、リフト乗り場近くにあるカフェです。
昼間はランチもいただけるし、
夜はバーになります。
大きな壁面にビデオクリップが映し出されてたり、外人さんも多くて、いい雰囲気。

お天気がよくて、昼は温かく、
まるで春スキーのように、外でランチを食べたりしましたが、
夜はさすがに冷えます。
でもナイター滑ってる人が多いのにもびっくり!

http://pwdrblue.exblog.jp/iv/detail/?s=19145314&i=201301%2F17%2F90%2Fc0147790_022913.jpg


夜8時でも、ゲレンデにはいっぱい人がいて、
リフトも並んでます。
ここだと21時までナイター滑っても、車で東京にその日のうちに帰り着くのかな?


でも、前から行ってみたかった苗場に、とうとう行って来られて、
それはうれしかったです。
http://pwdrblue.exblog.jp/19145314/

また行きたいかって?
いや、多分もう行きません。
八方や志賀高原の方がずっと楽しいことがわかったから。


Commented by だいず at 2013-01-17 16:33 x
苗場に行って来られたのですね。
色々体験もできたようでかまくらづくりやクラフトは楽しそうですが、大変なこともあったようで・・・。
解ります!解ります!
苗場は人が多すぎるし、ホテルが広すぎて面倒くさい。
私は関東出身なので、スキーは上信越方面ばかりでした。
プリンスに友人がいて、苗場に出向するときだけ遊びに行きましたが、
あまりに人が多くてすべらないで帰ったこともありました(笑)
でも、何はともあれ、無事にご家族一緒の思い出ができて良かったです。


Commented by powderblueY at 2013-01-17 23:29
だいずさん
おお、プリンスにお友達が! それ、いいですね。
ブログには書きそびれましたが、プリンスホテルのスタッフの方々は、みなさん親切で、
何を質問しても的確に答えてくださるし、好印象でした。
かまくら作りの担当の方々も、お客さんに喜んでもらおうっていう感じにあふれていて、
手伝ってくださったり、道具の使い方のコツを教えてくださったり、
感じのいい人が多かったです。
ただホテルが大型すぎます。
エレベーター1つ乗るにも列を作って並ぶのには、閉口しました。
でも振り返ってみると楽しかったです。


Commented by uni-uni at 2013-01-18 22:57
本当に巨大なホテルですね。
ホテル内の移動だけで疲れそうですね。
エレベーターに乗るのに列を作るのは初めて聞きました!!びっくり。
奥志賀のお宿とは対照的ですね。
でも次は無いとしても、楽しめたみたいでよかったですね。
私もよっぽどひどいことがない限り、初めて行く場所はわくわくして楽しんじゃうタイプです。


Commented by powderblueY at 2013-01-20 07:31
uni-uniさん
そうなんです、しかもこの巨大なホテルが満室になるほど
スキー・スノボをやる人が今でもいるんだ〜って感動しました。
でも何をするにも、並ぶ並ぶで、時間の無駄が多いです。
ほんと、奥志賀のホテルとは対極でした。
東京の人って並ぶことが平気なんですかね〜。
わたしは普段の生活で並ぶということは皆無なので、疲れも倍増です。
でもよく知ったなじみの旅行先もいいけれど、
初めてのところはわくわくしますよね。
下調べとか、とっても楽しかったです。
http://pwdrblue.exblog.jp/19147752/
http://www.asyura2.com/23/ban11/msg/639.html#c1

[番外地11] スキーブームの全盛期、鉄道系スキー場の主役といえば、何といっても苗場スキー場(新潟県)だろう。当時の運営会社は国土計画… 中川隆
1. 中川隆[-10991] koaQ7Jey 2024年4月05日 14:07:15 : dytt5OHe7Q : ZVpWS1dJbFU3d1k=[2]
<■101行くらい→右の▽クリックで次のコメントにジャンプ可>
スキーブームの全盛期、鉄道系スキー場の主役といえば、何といっても苗場スキー場(新潟県)だろう。当時の運営会社は国土計画だった。オーナーが堤義明氏だったことから、西武鉄道とは切っても切り離せない関係だった。
苗場プリンスホテルに宿泊して苗場スキー場でスキーをすることはスキーヤーのあこがれ。ゲレンデ直結、しかもプールがあったり、ユーミンのライブが開催されたりと、スキー以外の魅力も苗場プリンスにはあった。

カネがない貧乏スキーヤーは、近くの廉価な民宿に泊まって苗場スキー場に日参した。ゲレンデに押し寄せる大量のスキーヤーをさばくために、苗場には高速リフトやゴンドラが次々と造られた。1994年には道路を挟んで隣接するスキー場を買収し、苗場の別ゲレンデにしてしまった。

全盛期の苗場スキー場 その1  1989年(平成元年) - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=xcCvZ7Wv7Lk

バブル絶頂期の苗場。
夜11時までナイター営業がありホテル内も深夜まで賑わっていて、不夜城と呼ばれていました。

全盛期の苗場スキー場 その2 1992年(平成4年) - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=qT1VqW2OJRc

▲△▽▼

田中角栄 『日本列島改造論』の妄想とそれに騙されてスキー上級者でなければとても滑れない欠陥スキー場 の苗場を作ったアホの堤義明

田中角栄 は、国費で全国の道路建設を可能にする法案、道路三法を議員立法で成立させます。
道路三法が出揃った1年後の1956年、初当選時に訴えた三国山脈を貫くトンネルの工事が着工されます。そして、その3年後の1959年に三国国道が開通。これにより初めて、新潟と関東とを自動車で直接行き来できるようになりました。

三国国道の開通は、新潟に新たな産業を生み出しました。それがスキーです。三国国道の開通から2年後の1961年に三国トンネルのすぐ側に開業したのが、苗場国際スキー場でした。その苗場国際スキー場をつくったのが、西武グループの堤義明です。

万座温泉をはじめ、中里、伊吹山と次々とスキー場の建設計画を進めていくうちに、堤義明は「オリンピックが開けるような大規模なスキー場はつくれないものか」と考えるようになります。堤義明がオーストリアから招聘した職業スキー教師連盟会長をスキー場建設予定地に連れて行き、評価を聞くと、彼はその予定地と国道を挟んだ反対側の山を指し、「こちらなら大丈夫」と言います。その反対側の山が、苗場だったのです。

苗場でのスキー場開発を巡って、堤義明と田中角栄とがめぐり逢います。
ちょうどそのころ、湯沢町長の角谷虎繁は、町に中学校をつくるための資金源として杉林を売却したい意向を持っていた。その杉林というのが、なんと苗場山の一角であった。 角谷は、田中角栄に相談した。角谷町長は、新潟3区選出の代議士田中角栄の息のかかった人物であった。

田中は、1957年7月、33歳の若さで、郵政大臣に就任していた。自民党の若き実力者として着々と地歩を固めていた。政治家として活躍する一方で、地元の越後交通の社長も兼任していた。

「先生に買っていただければ、いいんですが」

田中は「コンピューター付きブルドーザー」との異名を取る頭の回転の速さで、即座に答えた。 「おれのところは、バスと鉄道が専門だ。スキー場などに、興味はない」

「どこか買っていただけるところは、ないものでしょうか」

田中は、例のダミ声で言った。

「 よっしゃいま すぐ、東急に電話してやるよ」

東急と田中とは、東急の常務である田中勇(のち日本エアシステム会長)を通じて縁があった。

田中勇は、角栄も噛んだ越後交通の前身会社の中越自動車、長岡鉄道、栃尾電鉄3社の合併で一役買い、中越自動車の買収を手がけた。

自らも、中越自動車の社長に就任していた。

角栄の手がける仕事の東急側の窓口が、勇であった。

田中角栄の後援会越山会の中心である長岡支部長にも座っていた。 角栄と勇は、いわば盟友ともいえた。

が、その東急もいらないという。

義明は、角谷が、田中に相談した土地が、これから自分が買うつもりでいる土地だとは、思ってもいない。

義明も、角谷町長のもとに、社員を派遣したところであった。 「苗場の100万坪は、わたしどものほうでお引き受けしましょう」 角谷町長は、その一件を、田中角栄に相談した。

「東急のライバルの西武グループに、売っていいでしょうか」

「なんにするつもりだ」

「それは、わかりません」

田中は言った。

「いっぺん、その西武の責任者に会わせろ」

田中の意向は、義明に伝わった。

義明は、田中と会うことにした。

義明は、豊島区目白の田中邸で田中に会うなり切り出した。

「わたしのところは、スキー場は造りますけど、バスはやりません。越後交通のバスで、スキー場までお 客さまを運んでいただきますので、お互い不可侵条約を結びましょう」

田中は、越後交通の社長もしていた。

「おっ、わかった。それでいい」

“わかったの角さん”と呼ばれるだけあり、決断は早かった。

田中は、扇子でせわしそうにあおぎながら続けた。

「もとより、おれは、スキー場には、なんの興味もない。そちらがそういうなら、仲良くやろうじゃない か」

義明は、湯沢町所有の苗場山の杉林100万坪を、湯沢町から5億円で買った。 新潟県湯沢町のなえば地区の「苗場国際スキー場」(のち苗場スキー場)は、国際競技の出来るスキー場として、1961年2月7日、ついにオープンにこぎつけた。
350人収容の宿泊施設、スキーハウスと、レストランのほか、貸しスキーや診療所まであるスキーセンターも完成させた。

こうやって堤義明が開発した苗場国際スキー場は、大人気のレジャースポットになります。
しかし、苗場国際スキー場は傾斜がきつ過ぎてスキーの上級者でなければとても滑れない欠陥スキー場でした。
結局、苗場に来るのはナンパ目当ての、スキーには何の関心も無い若い男女客だけでした。


恋はゲレンデから? 何もかもが輝いていた バブル時代を彩ったスキーの思い出

「スキーに行く」といって、単に滑って満足して帰るのは少数派です。真のスキーの目的とは、すでにいい感じになりかけている女性への押しの一手。あるいは、現地での出会いです。

 スキー板は、出会いのための小道具でしかありません。そのためスキー場選びにあたっては、意中の女性と出掛けて関係が深まりそうか、あるいは男女の出会いが生まれそうかが重要だったのです。
中でも「ナンパ天国」として知られていたのは、やはり苗場スキー場です。

スキーを口実に出会いを求めた男女
 ご存じの通り、苗場プリンスホテル(新潟県湯沢町)はスキー場のみならず、プールにレストランに映画館までがある、一大レジャースポットです。
 そもそもが、スキーを口実に出会いを求める男女が来る場所。それ以外になんの目的があるのか――という常識が出来上がっていたのです。
映画「私をスキーに連れてって」の白いスキーウエアは数年間にわたって流行しましたが、あれはナンパのための制服だったといえます。
http://www.asyura2.com/23/ban11/msg/638.html#c1

[番外地11] スキーブームの全盛期、鉄道系スキー場の主役といえば、何といっても苗場スキー場(新潟県)だろう。当時の運営会社は国土計画… 中川隆
2. 中川隆[-10990] koaQ7Jey 2024年4月05日 14:09:19 : dytt5OHe7Q : ZVpWS1dJbFU3d1k=[3]
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スキーブームの全盛期、鉄道系スキー場の主役といえば、何といっても苗場スキー場(新潟県)だろう。当時の運営会社は国土計画だった。オーナーが堤義明氏だったことから、西武鉄道とは切っても切り離せない関係だった。
苗場プリンスホテルに宿泊して苗場スキー場でスキーをすることはスキーヤーのあこがれ。ゲレンデ直結、しかもプールがあったり、ユーミンのライブが開催されたりと、スキー以外の魅力も苗場プリンスにはあった。

カネがない貧乏スキーヤーは、近くの廉価な民宿に泊まって苗場スキー場に日参した。ゲレンデに押し寄せる大量のスキーヤーをさばくために、苗場には高速リフトやゴンドラが次々と造られた。1994年には道路を挟んで隣接するスキー場を買収し、苗場の別ゲレンデにしてしまった。

全盛期の苗場スキー場 その1  1989年(平成元年) - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=xcCvZ7Wv7Lk

バブル絶頂期の苗場。
夜11時までナイター営業がありホテル内も深夜まで賑わっていて、不夜城と呼ばれていました。

全盛期の苗場スキー場 その2 1992年(平成4年) - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=qT1VqW2OJRc

▲△▽▼

田中角栄 『日本列島改造論』の妄想とそれに騙されてスキー上級者でなければとても滑れない欠陥スキー場 の苗場を作ったアホの堤義明

田中角栄 は、国費で全国の道路建設を可能にする法案、道路三法を議員立法で成立させます。
道路三法が出揃った1年後の1956年、初当選時に訴えた三国山脈を貫くトンネルの工事が着工されます。そして、その3年後の1959年に三国国道が開通。これにより初めて、新潟と関東とを自動車で直接行き来できるようになりました。

三国国道の開通は、新潟に新たな産業を生み出しました。それがスキーです。三国国道の開通から2年後の1961年に三国トンネルのすぐ側に開業したのが、苗場国際スキー場でした。その苗場国際スキー場をつくったのが、西武グループの堤義明です。

万座温泉をはじめ、中里、伊吹山と次々とスキー場の建設計画を進めていくうちに、堤義明は「オリンピックが開けるような大規模なスキー場はつくれないものか」と考えるようになります。堤義明がオーストリアから招聘した職業スキー教師連盟会長をスキー場建設予定地に連れて行き、評価を聞くと、彼はその予定地と国道を挟んだ反対側の山を指し、「こちらなら大丈夫」と言います。その反対側の山が、苗場だったのです。

苗場でのスキー場開発を巡って、堤義明と田中角栄とがめぐり逢います。
ちょうどそのころ、湯沢町長の角谷虎繁は、町に中学校をつくるための資金源として杉林を売却したい意向を持っていた。その杉林というのが、なんと苗場山の一角であった。 角谷は、田中角栄に相談した。角谷町長は、新潟3区選出の代議士田中角栄の息のかかった人物であった。

田中は、1957年7月、33歳の若さで、郵政大臣に就任していた。自民党の若き実力者として着々と地歩を固めていた。政治家として活躍する一方で、地元の越後交通の社長も兼任していた。

「先生に買っていただければ、いいんですが」

田中は「コンピューター付きブルドーザー」との異名を取る頭の回転の速さで、即座に答えた。 「おれのところは、バスと鉄道が専門だ。スキー場などに、興味はない」

「どこか買っていただけるところは、ないものでしょうか」

田中は、例のダミ声で言った。

「 よっしゃいま すぐ、東急に電話してやるよ」

東急と田中とは、東急の常務である田中勇(のち日本エアシステム会長)を通じて縁があった。

田中勇は、角栄も噛んだ越後交通の前身会社の中越自動車、長岡鉄道、栃尾電鉄3社の合併で一役買い、中越自動車の買収を手がけた。

自らも、中越自動車の社長に就任していた。

角栄の手がける仕事の東急側の窓口が、勇であった。

田中角栄の後援会越山会の中心である長岡支部長にも座っていた。 角栄と勇は、いわば盟友ともいえた。

が、その東急もいらないという。

義明は、角谷が、田中に相談した土地が、これから自分が買うつもりでいる土地だとは、思ってもいない。

義明も、角谷町長のもとに、社員を派遣したところであった。 「苗場の100万坪は、わたしどものほうでお引き受けしましょう」 角谷町長は、その一件を、田中角栄に相談した。

「東急のライバルの西武グループに、売っていいでしょうか」

「なんにするつもりだ」

「それは、わかりません」

田中は言った。

「いっぺん、その西武の責任者に会わせろ」

田中の意向は、義明に伝わった。

義明は、田中と会うことにした。

義明は、豊島区目白の田中邸で田中に会うなり切り出した。

「わたしのところは、スキー場は造りますけど、バスはやりません。越後交通のバスで、スキー場までお 客さまを運んでいただきますので、お互い不可侵条約を結びましょう」

田中は、越後交通の社長もしていた。

「おっ、わかった。それでいい」

“わかったの角さん”と呼ばれるだけあり、決断は早かった。

田中は、扇子でせわしそうにあおぎながら続けた。

「もとより、おれは、スキー場には、なんの興味もない。そちらがそういうなら、仲良くやろうじゃない か」

義明は、湯沢町所有の苗場山の杉林100万坪を、湯沢町から5億円で買った。 新潟県湯沢町のなえば地区の「苗場国際スキー場」(のち苗場スキー場)は、国際競技の出来るスキー場として、1961年2月7日、ついにオープンにこぎつけた。
350人収容の宿泊施設、スキーハウスと、レストランのほか、貸しスキーや診療所まであるスキーセンターも完成させた。

こうやって堤義明が開発した苗場国際スキー場は、大人気のレジャースポットになります。
https://www.yamadakoji.com/entry/ski-movement


しかし、苗場国際スキー場は傾斜がきつ過ぎてスキーの上級者でなければとても滑れない欠陥スキー場でした。
結局、苗場に来るのはナンパ目当ての、スキーには何の関心も無い若い男女客だけでした。

恋はゲレンデから? 何もかもが輝いていた バブル時代を彩ったスキーの思い出

「スキーに行く」といって、単に滑って満足して帰るのは少数派です。真のスキーの目的とは、すでにいい感じになりかけている女性への押しの一手。あるいは、現地での出会いです。

 スキー板は、出会いのための小道具でしかありません。そのためスキー場選びにあたっては、意中の女性と出掛けて関係が深まりそうか、あるいは男女の出会いが生まれそうかが重要だったのです。
中でも「ナンパ天国」として知られていたのは、やはり苗場スキー場です。

スキーを口実に出会いを求めた男女
 ご存じの通り、苗場プリンスホテル(新潟県湯沢町)はスキー場のみならず、プールにレストランに映画館までがある、一大レジャースポットです。
 そもそもが、スキーを口実に出会いを求める男女が来る場所。それ以外になんの目的があるのか――という常識が出来上がっていたのです。
映画「私をスキーに連れてって」の白いスキーウエアは数年間にわたって流行しましたが、あれはナンパのための制服だったといえます。
https://ecnavi.jp/mainichi_news/article/28a5f6fb406a67fafe9aff43e888e38c/
http://www.asyura2.com/23/ban11/msg/638.html#c2

[番外地11] スキーブームの全盛期、鉄道系スキー場の主役といえば、何といっても苗場スキー場(新潟県)だろう。当時の運営会社は国土計画… 中川隆
3. 中川隆[-10989] koaQ7Jey 2024年4月05日 14:12:45 : dytt5OHe7Q : ZVpWS1dJbFU3d1k=[4]
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スキーブームの全盛期、鉄道系スキー場の主役といえば、何といっても苗場スキー場(新潟県)だろう。当時の運営会社は国土計画だった。オーナーが堤義明氏だったことから、西武鉄道とは切っても切り離せない関係だった。
苗場プリンスホテルに宿泊して苗場スキー場でスキーをすることはスキーヤーのあこがれ。ゲレンデ直結、しかもプールがあったり、ユーミンのライブが開催されたりと、スキー以外の魅力も苗場プリンスにはあった。

カネがない貧乏スキーヤーは、近くの廉価な民宿に泊まって苗場スキー場に日参した。ゲレンデに押し寄せる大量のスキーヤーをさばくために、苗場には高速リフトやゴンドラが次々と造られた。1994年には道路を挟んで隣接するスキー場を買収し、苗場の別ゲレンデにしてしまった。

全盛期の苗場スキー場 その1  1989年(平成元年) - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=xcCvZ7Wv7Lk

バブル絶頂期の苗場。
夜11時までナイター営業がありホテル内も深夜まで賑わっていて、不夜城と呼ばれていました。

全盛期の苗場スキー場 その2 1992年(平成4年) - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=qT1VqW2OJRc

▲△▽▼

田中角栄 『日本列島改造論』の妄想とそれに騙されてスキー上級者でなければとても滑れない欠陥スキー場 の苗場を作ったアホの堤義明

田中角栄 は、国費で全国の道路建設を可能にする法案、道路三法を議員立法で成立させます。
道路三法が出揃った1年後の1956年、初当選時に訴えた三国山脈を貫くトンネルの工事が着工されます。そして、その3年後の1959年に三国国道が開通。これにより初めて、新潟と関東とを自動車で直接行き来できるようになりました。

三国国道の開通は、新潟に新たな産業を生み出しました。それがスキーです。三国国道の開通から2年後の1961年に三国トンネルのすぐ側に開業したのが、苗場国際スキー場でした。その苗場国際スキー場をつくったのが、西武グループの堤義明です。

万座温泉をはじめ、中里、伊吹山と次々とスキー場の建設計画を進めていくうちに、堤義明は「オリンピックが開けるような大規模なスキー場はつくれないものか」と考えるようになります。堤義明がオーストリアから招聘した職業スキー教師連盟会長をスキー場建設予定地に連れて行き、評価を聞くと、彼はその予定地と国道を挟んだ反対側の山を指し、「こちらなら大丈夫」と言います。その反対側の山が、苗場だったのです。

苗場でのスキー場開発を巡って、堤義明と田中角栄とがめぐり逢います。
ちょうどそのころ、湯沢町長の角谷虎繁は、町に中学校をつくるための資金源として杉林を売却したい意向を持っていた。その杉林というのが、なんと苗場山の一角であった。 角谷は、田中角栄に相談した。角谷町長は、新潟3区選出の代議士田中角栄の息のかかった人物であった。

田中は、1957年7月、33歳の若さで、郵政大臣に就任していた。自民党の若き実力者として着々と地歩を固めていた。政治家として活躍する一方で、地元の越後交通の社長も兼任していた。

「先生に買っていただければ、いいんですが」

田中は「コンピューター付きブルドーザー」との異名を取る頭の回転の速さで、即座に答えた。 「おれのところは、バスと鉄道が専門だ。スキー場などに、興味はない」

「どこか買っていただけるところは、ないものでしょうか」

田中は、例のダミ声で言った。

「 よっしゃいま すぐ、東急に電話してやるよ」

東急と田中とは、東急の常務である田中勇(のち日本エアシステム会長)を通じて縁があった。

田中勇は、角栄も噛んだ越後交通の前身会社の中越自動車、長岡鉄道、栃尾電鉄3社の合併で一役買い、中越自動車の買収を手がけた。

自らも、中越自動車の社長に就任していた。

角栄の手がける仕事の東急側の窓口が、勇であった。

田中角栄の後援会越山会の中心である長岡支部長にも座っていた。 角栄と勇は、いわば盟友ともいえた。

が、その東急もいらないという。

義明は、角谷が、田中に相談した土地が、これから自分が買うつもりでいる土地だとは、思ってもいない。

義明も、角谷町長のもとに、社員を派遣したところであった。 「苗場の100万坪は、わたしどものほうでお引き受けしましょう」 角谷町長は、その一件を、田中角栄に相談した。

「東急のライバルの西武グループに、売っていいでしょうか」

「なんにするつもりだ」

「それは、わかりません」

田中は言った。

「いっぺん、その西武の責任者に会わせろ」

田中の意向は、義明に伝わった。

義明は、田中と会うことにした。

義明は、豊島区目白の田中邸で田中に会うなり切り出した。

「わたしのところは、スキー場は造りますけど、バスはやりません。越後交通のバスで、スキー場までお 客さまを運んでいただきますので、お互い不可侵条約を結びましょう」

田中は、越後交通の社長もしていた。

「おっ、わかった。それでいい」

“わかったの角さん”と呼ばれるだけあり、決断は早かった。

田中は、扇子でせわしそうにあおぎながら続けた。

「もとより、おれは、スキー場には、なんの興味もない。そちらがそういうなら、仲良くやろうじゃない か」

義明は、湯沢町所有の苗場山の杉林100万坪を、湯沢町から5億円で買った。 新潟県湯沢町のなえば地区の「苗場国際スキー場」(のち苗場スキー場)は、国際競技の出来るスキー場として、1961年2月7日、ついにオープンにこぎつけた。
350人収容の宿泊施設、スキーハウスと、レストランのほか、貸しスキーや診療所まであるスキーセンターも完成させた。

こうやって堤義明が開発した苗場国際スキー場は、大人気のレジャースポットになります。
https://www.yamadakoji.com/entry/ski-movement


しかし、苗場国際スキー場は傾斜がきつ過ぎてスキーの上級者でなければとても滑れない欠陥スキー場でした。
結局、苗場に来るのはナンパ目当ての、スキーには何の関心も無い若い男女客だけでした。

恋はゲレンデから? 何もかもが輝いていた バブル時代を彩ったスキーの思い出

「スキーに行く」といって、単に滑って満足して帰るのは少数派です。真のスキーの目的とは、すでにいい感じになりかけている女性への押しの一手。あるいは、現地での出会いです。

 スキー板は、出会いのための小道具でしかありません。そのためスキー場選びにあたっては、意中の女性と出掛けて関係が深まりそうか、あるいは男女の出会いが生まれそうかが重要だったのです。
中でも「ナンパ天国」として知られていたのは、やはり苗場スキー場です。

スキーを口実に出会いを求めた男女
 ご存じの通り、苗場プリンスホテル(新潟県湯沢町)はスキー場のみならず、プールにレストランに映画館までがある、一大レジャースポットです。
 そもそもが、スキーを口実に出会いを求める男女が来る場所。それ以外になんの目的があるのか――という常識が出来上がっていたのです。
映画「私をスキーに連れてって」の白いスキーウエアは数年間にわたって流行しましたが、あれはナンパのための制服だったといえます。
https://ecnavi.jp/mainichi_news/article/28a5f6fb406a67fafe9aff43e888e38c/

▲△▽▼

金儲けと女にしか関心が無かった堤義明

プリンスの墓標 堤義明怨念の家系
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/373.html
http://www.asyura2.com/23/ban11/msg/638.html#c3

[番外地11] 苗場の感想 昔を思い出す混雑ぶり by powderblueY | 2013-01-16 中川隆
2. 中川隆[-10988] koaQ7Jey 2024年4月05日 14:14:19 : dytt5OHe7Q : ZVpWS1dJbFU3d1k=[5]
<■116行くらい→右の▽クリックで次のコメントにジャンプ可>
苗場の感想 昔を思い出す混雑ぶり by powderblueY | 2013-01-16
苗場から帰ってきて、ついでなので、感想をまとめておきます。
また行きたいかって? もう行きません。
白馬や志賀高原の方がずっと楽しいことがわかったから。

到着した翌朝はすばらしい晴天でした。
ゴンドラで上部ゲレンデへ上がり、リフトで筍山山頂へ。

山頂には、スキーを脱いで歩いて行くビューポイントがありました。
主人とジロはさっさとスキーを脱いで、そこへ歩いて行きましたが、
わたしはスキーを脱ぐのがちょっとおっくうだったので、
はな子と待っていたのね。
まだここに来て、滑り始めたばっかりだったし、
今度頂上まで上がってきたときに、ビューポイントへ行けばいいわ、って思って。

そしたら、その日はもう頂上まで上がる機会がなく、
翌日になったら、山頂へ行くリフトが原動機の故障で1日動かず、
(当分、動かないらしい)
結局、もう2度と、ビューポイントへ行く機会はなかったのでした。

やっぱり「旅は一期一会」ねー。
行きたいところ、気に入ったものがあったら、
あとで行こう、あとで見よう、あとで買おう、は厳禁なのであります。
ということを思い知った、苗場スキー場でした。

ちなみに、はな子は「一期一会」を聞いて、
「えっ、イチゴ1円なの? 安いね」
と言ってました。

こちらが主人が撮った頂上からの風景。
http://pwdrblue.exblog.jp/iv/detail/?s=19145314&i=201301%2F16%2F90%2Fc0147790_2335488.jpg
http://pwdrblue.exblog.jp/iv/detail/?s=19145314&i=201301%2F16%2F90%2Fc0147790_23361279.jpg


とても景色のいいスキー場だと思います。
正面を臨むと、

http://pwdrblue.exblog.jp/iv/detail/?s=19145314&i=201301%2F16%2F90%2Fc0147790_2337084.jpg

この真っ白な山もきれいね。

http://pwdrblue.exblog.jp/iv/detail/?s=19145314&i=201301%2F16%2F90%2Fc0147790_23374647.jpg


さてスキー場に関して、よいと思った点はそれくらいで、
コースはあんまりおもしろくないし、
なにより、人が多い、初心者が多い、ボーダーが多い。
ボーダーの中にもマナーのいい人ももちろんいるけれど、
ゲレンデの真ん中で座り込むのはやめてほしい。
後ろからスキーで突き刺さってもいいですか?


苗場名物といわれている「大斜面」という、斜度もありコブもある斜面、
初心者がスピードを制御できなくて、
「きゃーーーーーー」と叫びながら滑ってます、というか、落ちて行ってます。
あぶないです。
初心者は、下りのゴンドラにお乗りください、って書いてあるよ。


スキー場の規模もあまり大きくないし、
正直言って、八方の方が100倍おもしろいです。
今まで、苗場って、ユーミンのコンサートとかあっていいなあ、って何となくあこがれていたけど、
行ってみないとわからないことって、ありますねえ。


でもね、こんなに混雑しているスキー場を見たのは久しぶりで、
バブルの頃を思い出しましたわ。
リフト待ちっていうのも久しぶりの体験。
関東地方には、まだまだスキー・スノボをやる若い人がたくさんいるのね、って
ちょっとうれしくなりました。
志賀高原では、滑っている時は帽子やゴーグルで年齢不詳なんだけど、
レストハウスでそれらを脱ぐと、
「うわっ、シニアばっかり」
って思います。
いや、わたしたちもどっちかというと「若い人」よりは「シニア」に近いですけどね。


ファミリー客もすごーく多いです。
苗場は今シーズンから、小学生以下の子供は毎日リフト無料なの。
未就学児無料ってところは多いけど、
小学生も無料は、太っ腹です。


これはウィスラーカフェという、リフト乗り場近くにあるカフェです。
昼間はランチもいただけるし、
夜はバーになります。
大きな壁面にビデオクリップが映し出されてたり、外人さんも多くて、いい雰囲気。

お天気がよくて、昼は温かく、
まるで春スキーのように、外でランチを食べたりしましたが、
夜はさすがに冷えます。
でもナイター滑ってる人が多いのにもびっくり!

http://pwdrblue.exblog.jp/iv/detail/?s=19145314&i=201301%2F17%2F90%2Fc0147790_022913.jpg


夜8時でも、ゲレンデにはいっぱい人がいて、
リフトも並んでます。
ここだと21時までナイター滑っても、車で東京にその日のうちに帰り着くのかな?


でも、前から行ってみたかった苗場に、とうとう行って来られて、
それはうれしかったです。
http://pwdrblue.exblog.jp/19145314/

また行きたいかって?
いや、多分もう行きません。
八方や志賀高原の方がずっと楽しいことがわかったから。


Commented by だいず at 2013-01-17 16:33 x
苗場に行って来られたのですね。
色々体験もできたようでかまくらづくりやクラフトは楽しそうですが、大変なこともあったようで・・・。
解ります!解ります!
苗場は人が多すぎるし、ホテルが広すぎて面倒くさい。
私は関東出身なので、スキーは上信越方面ばかりでした。
プリンスに友人がいて、苗場に出向するときだけ遊びに行きましたが、
あまりに人が多くてすべらないで帰ったこともありました(笑)
でも、何はともあれ、無事にご家族一緒の思い出ができて良かったです。


Commented by powderblueY at 2013-01-17 23:29
だいずさん
おお、プリンスにお友達が! それ、いいですね。
ブログには書きそびれましたが、プリンスホテルのスタッフの方々は、みなさん親切で、
何を質問しても的確に答えてくださるし、好印象でした。
かまくら作りの担当の方々も、お客さんに喜んでもらおうっていう感じにあふれていて、
手伝ってくださったり、道具の使い方のコツを教えてくださったり、
感じのいい人が多かったです。
ただホテルが大型すぎます。
エレベーター1つ乗るにも列を作って並ぶのには、閉口しました。
でも振り返ってみると楽しかったです。


Commented by uni-uni at 2013-01-18 22:57
本当に巨大なホテルですね。
ホテル内の移動だけで疲れそうですね。
エレベーターに乗るのに列を作るのは初めて聞きました!!びっくり。
奥志賀のお宿とは対照的ですね。
でも次は無いとしても、楽しめたみたいでよかったですね。
私もよっぽどひどいことがない限り、初めて行く場所はわくわくして楽しんじゃうタイプです。


Commented by powderblueY at 2013-01-20 07:31
uni-uniさん
そうなんです、しかもこの巨大なホテルが満室になるほど
スキー・スノボをやる人が今でもいるんだ〜って感動しました。
でも何をするにも、並ぶ並ぶで、時間の無駄が多いです。
ほんと、奥志賀のホテルとは対極でした。
東京の人って並ぶことが平気なんですかね〜。
わたしは普段の生活で並ぶということは皆無なので、疲れも倍増です。
でもよく知ったなじみの旅行先もいいけれど、
初めてのところはわくわくしますよね。
下調べとか、とっても楽しかったです。
http://pwdrblue.exblog.jp/19147752/

▲△▽▼

金儲けと女にしか関心が無かった堤義明
プリンスの墓標 堤義明怨念の家系
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/373.html
http://www.asyura2.com/23/ban11/msg/639.html#c2

[番外地11] スキーブームの全盛期、鉄道系スキー場の主役といえば、何といっても苗場スキー場(新潟県)だろう。当時の運営会社は国土計画… 中川隆
4. 中川隆[-10987] koaQ7Jey 2024年4月05日 14:34:12 : dytt5OHe7Q : ZVpWS1dJbFU3d1k=[6]
<■112行くらい→右の▽クリックで次のコメントにジャンプ可>
スキーブームの全盛期、鉄道系スキー場の主役といえば、何といっても苗場スキー場(新潟県)だろう。当時の運営会社は国土計画だった。オーナーが堤義明氏だったことから、西武鉄道とは切っても切り離せない関係だった。
苗場プリンスホテルに宿泊して苗場スキー場でスキーをすることはスキーヤーのあこがれ。ゲレンデ直結、しかもプールがあったり、ユーミンのライブが開催されたりと、スキー以外の魅力も苗場プリンスにはあった。

カネがない貧乏スキーヤーは、近くの廉価な民宿に泊まって苗場スキー場に日参した。ゲレンデに押し寄せる大量のスキーヤーをさばくために、苗場には高速リフトやゴンドラが次々と造られた。1994年には道路を挟んで隣接するスキー場を買収し、苗場の別ゲレンデにしてしまった。

全盛期の苗場スキー場 大特集<豪華版> Naeba Ski Resort 1989-1992 (HD-60p) - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=6OQB-ih_FjI&t=519s

映画 私をスキーに連れてって 1987年
https://www.dailymotion.com/search/%E7%A7%81%E3%82%92%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%BC%E3%81%AB%E9%80%A3%E3%82%8C%E3%81%A6%E3%81%A3%E3%81%A6/videos

出演者 原田知世 沖田浩之 田中邦衛
主題歌 松任谷由実 「サーフ天国、スキー天国」

▲△▽▼

田中角栄 『日本列島改造論』の妄想とそれに騙されてスキー上級者でなければとても滑れない欠陥スキー場 の苗場を作ったアホの堤義明

田中角栄 は、国費で全国の道路建設を可能にする法案、道路三法を議員立法で成立させます。
道路三法が出揃った1年後の1956年、初当選時に訴えた三国山脈を貫くトンネルの工事が着工されます。そして、その3年後の1959年に三国国道が開通。これにより初めて、新潟と関東とを自動車で直接行き来できるようになりました。

三国国道の開通は、新潟に新たな産業を生み出しました。それがスキーです。三国国道の開通から2年後の1961年に三国トンネルのすぐ側に開業したのが、苗場国際スキー場でした。その苗場国際スキー場をつくったのが、西武グループの堤義明です。

万座温泉をはじめ、中里、伊吹山と次々とスキー場の建設計画を進めていくうちに、堤義明は「オリンピックが開けるような大規模なスキー場はつくれないものか」と考えるようになります。堤義明がオーストリアから招聘した職業スキー教師連盟会長をスキー場建設予定地に連れて行き、評価を聞くと、彼はその予定地と国道を挟んだ反対側の山を指し、「こちらなら大丈夫」と言います。その反対側の山が、苗場だったのです。

苗場でのスキー場開発を巡って、堤義明と田中角栄とがめぐり逢います。
ちょうどそのころ、湯沢町長の角谷虎繁は、町に中学校をつくるための資金源として杉林を売却したい意向を持っていた。その杉林というのが、なんと苗場山の一角であった。 角谷は、田中角栄に相談した。角谷町長は、新潟3区選出の代議士田中角栄の息のかかった人物であった。

田中は、1957年7月、33歳の若さで、郵政大臣に就任していた。自民党の若き実力者として着々と地歩を固めていた。政治家として活躍する一方で、地元の越後交通の社長も兼任していた。

「先生に買っていただければ、いいんですが」

田中は「コンピューター付きブルドーザー」との異名を取る頭の回転の速さで、即座に答えた。 「おれのところは、バスと鉄道が専門だ。スキー場などに、興味はない」

「どこか買っていただけるところは、ないものでしょうか」

田中は、例のダミ声で言った。

「 よっしゃいま すぐ、東急に電話してやるよ」

東急と田中とは、東急の常務である田中勇(のち日本エアシステム会長)を通じて縁があった。

田中勇は、角栄も噛んだ越後交通の前身会社の中越自動車、長岡鉄道、栃尾電鉄3社の合併で一役買い、中越自動車の買収を手がけた。

自らも、中越自動車の社長に就任していた。

角栄の手がける仕事の東急側の窓口が、勇であった。

田中角栄の後援会越山会の中心である長岡支部長にも座っていた。 角栄と勇は、いわば盟友ともいえた。

が、その東急もいらないという。

義明は、角谷が、田中に相談した土地が、これから自分が買うつもりでいる土地だとは、思ってもいない。

義明も、角谷町長のもとに、社員を派遣したところであった。 「苗場の100万坪は、わたしどものほうでお引き受けしましょう」 角谷町長は、その一件を、田中角栄に相談した。

「東急のライバルの西武グループに、売っていいでしょうか」

「なんにするつもりだ」

「それは、わかりません」

田中は言った。

「いっぺん、その西武の責任者に会わせろ」

田中の意向は、義明に伝わった。

義明は、田中と会うことにした。

義明は、豊島区目白の田中邸で田中に会うなり切り出した。

「わたしのところは、スキー場は造りますけど、バスはやりません。越後交通のバスで、スキー場までお 客さまを運んでいただきますので、お互い不可侵条約を結びましょう」

田中は、越後交通の社長もしていた。

「おっ、わかった。それでいい」

“わかったの角さん”と呼ばれるだけあり、決断は早かった。

田中は、扇子でせわしそうにあおぎながら続けた。

「もとより、おれは、スキー場には、なんの興味もない。そちらがそういうなら、仲良くやろうじゃない か」

義明は、湯沢町所有の苗場山の杉林100万坪を、湯沢町から5億円で買った。 新潟県湯沢町のなえば地区の「苗場国際スキー場」(のち苗場スキー場)は、国際競技の出来るスキー場として、1961年2月7日、ついにオープンにこぎつけた。
350人収容の宿泊施設、スキーハウスと、レストランのほか、貸しスキーや診療所まであるスキーセンターも完成させた。

こうやって堤義明が開発した苗場国際スキー場は、大人気のレジャースポットになります。
https://www.yamadakoji.com/entry/ski-movement


しかし、苗場国際スキー場は傾斜がきつ過ぎてスキーの上級者でなければとても滑れない欠陥スキー場でした。
結局、苗場に来るのはナンパ目当ての、スキーには何の関心も無い若い男女客だけでした。

恋はゲレンデから? 何もかもが輝いていた バブル時代を彩ったスキーの思い出

「スキーに行く」といって、単に滑って満足して帰るのは少数派です。真のスキーの目的とは、すでにいい感じになりかけている女性への押しの一手。あるいは、現地での出会いです。

 スキー板は、出会いのための小道具でしかありません。そのためスキー場選びにあたっては、意中の女性と出掛けて関係が深まりそうか、あるいは男女の出会いが生まれそうかが重要だったのです。
中でも「ナンパ天国」として知られていたのは、やはり苗場スキー場です。

スキーを口実に出会いを求めた男女
 ご存じの通り、苗場プリンスホテル(新潟県湯沢町)はスキー場のみならず、プールにレストランに映画館までがある、一大レジャースポットです。
 そもそもが、スキーを口実に出会いを求める男女が来る場所。それ以外になんの目的があるのか――という常識が出来上がっていたのです。
映画「私をスキーに連れてって」の白いスキーウエアは数年間にわたって流行しましたが、あれはナンパのための制服だったといえます。
https://ecnavi.jp/mainichi_news/article/28a5f6fb406a67fafe9aff43e888e38c/

▲△▽▼

金儲けと女にしか関心が無かった堤義明
プリンスの墓標 堤義明怨念の家系
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/373.html
http://www.asyura2.com/23/ban11/msg/638.html#c4

[番外地11] スキーブームの全盛期、鉄道系スキー場の主役といえば、何といっても苗場スキー場(新潟県)だろう。当時の運営会社は国土計画… 中川隆
5. 中川隆[-10986] koaQ7Jey 2024年4月05日 15:09:26 : dytt5OHe7Q : ZVpWS1dJbFU3d1k=[7]
<■115行くらい→右の▽クリックで次のコメントにジャンプ可>
苗場スキー場はスキーを口実に出会いを求める男女が来る場所だった。
真のスキーの目的とは、すでにいい感じになりかけている女性への押しの一手。あるいは、現地での出会いでした。
スキーブームの全盛期、鉄道系スキー場の主役といえば、何といっても苗場スキー場(新潟県)でした。当時の運営会社のオーナーが堤義明だったことから、西武鉄道とは切っても切り離せない関係でした。

苗場プリンスホテルに宿泊して苗場スキー場でスキーをすることはスキーヤーのあこがれ。ゲレンデ直結、しかもプールがあったり、ユーミンのライブが開催されたりと、スキー以外の魅力も苗場プリンスにはあった。

カネがない貧乏スキーヤーは、近くの廉価な民宿に泊まって苗場スキー場に日参した。ゲレンデに押し寄せる大量のスキーヤーをさばくために、苗場には高速リフトやゴンドラが次々と造られた。1994年には道路を挟んで隣接するスキー場を買収し、苗場の別ゲレンデにしてしまった。

全盛期の苗場スキー場 大特集<豪華版> Naeba Ski Resort 1989-1992 (HD-60p) - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=6OQB-ih_FjI&t=519s

映画 私をスキーに連れてって 1987年
https://www.dailymotion.com/search/%E7%A7%81%E3%82%92%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%BC%E3%81%AB%E9%80%A3%E3%82%8C%E3%81%A6%E3%81%A3%E3%81%A6/videos

出演者 原田知世 沖田浩之 田中邦衛
主題歌 松任谷由実 「サーフ天国、スキー天国」

▲△▽▼

田中角栄 『日本列島改造論』の妄想とそれに騙されてスキー上級者でなければとても滑れない欠陥スキー場 の苗場を作ったアホの堤義明

田中角栄 は、国費で全国の道路建設を可能にする法案、道路三法を議員立法で成立させます。
道路三法が出揃った1年後の1956年、初当選時に訴えた三国山脈を貫くトンネルの工事が着工されます。そして、その3年後の1959年に三国国道が開通。これにより初めて、新潟と関東とを自動車で直接行き来できるようになりました。

三国国道の開通は、新潟に新たな産業を生み出しました。それがスキーです。三国国道の開通から2年後の1961年に三国トンネルのすぐ側に開業したのが、苗場国際スキー場でした。その苗場国際スキー場をつくったのが、西武グループの堤義明です。

万座温泉をはじめ、中里、伊吹山と次々とスキー場の建設計画を進めていくうちに、堤義明は「オリンピックが開けるような大規模なスキー場はつくれないものか」と考えるようになります。堤義明がオーストリアから招聘した職業スキー教師連盟会長をスキー場建設予定地に連れて行き、評価を聞くと、彼はその予定地と国道を挟んだ反対側の山を指し、「こちらなら大丈夫」と言います。その反対側の山が、苗場だったのです。

苗場でのスキー場開発を巡って、堤義明と田中角栄とがめぐり逢います。
ちょうどそのころ、湯沢町長の角谷虎繁は、町に中学校をつくるための資金源として杉林を売却したい意向を持っていた。その杉林というのが、なんと苗場山の一角であった。 角谷は、田中角栄に相談した。角谷町長は、新潟3区選出の代議士田中角栄の息のかかった人物であった。

田中は、1957年7月、33歳の若さで、郵政大臣に就任していた。自民党の若き実力者として着々と地歩を固めていた。政治家として活躍する一方で、地元の越後交通の社長も兼任していた。

「先生に買っていただければ、いいんですが」

田中は「コンピューター付きブルドーザー」との異名を取る頭の回転の速さで、即座に答えた。 「おれのところは、バスと鉄道が専門だ。スキー場などに、興味はない」

「どこか買っていただけるところは、ないものでしょうか」

田中は、例のダミ声で言った。

「 よっしゃいま すぐ、東急に電話してやるよ」

東急と田中とは、東急の常務である田中勇(のち日本エアシステム会長)を通じて縁があった。

田中勇は、角栄も噛んだ越後交通の前身会社の中越自動車、長岡鉄道、栃尾電鉄3社の合併で一役買い、中越自動車の買収を手がけた。

自らも、中越自動車の社長に就任していた。

角栄の手がける仕事の東急側の窓口が、勇であった。

田中角栄の後援会越山会の中心である長岡支部長にも座っていた。 角栄と勇は、いわば盟友ともいえた。

が、その東急もいらないという。

義明は、角谷が、田中に相談した土地が、これから自分が買うつもりでいる土地だとは、思ってもいない。

義明も、角谷町長のもとに、社員を派遣したところであった。 「苗場の100万坪は、わたしどものほうでお引き受けしましょう」 角谷町長は、その一件を、田中角栄に相談した。

「東急のライバルの西武グループに、売っていいでしょうか」

「なんにするつもりだ」

「それは、わかりません」

田中は言った。

「いっぺん、その西武の責任者に会わせろ」

田中の意向は、義明に伝わった。

義明は、田中と会うことにした。

義明は、豊島区目白の田中邸で田中に会うなり切り出した。

「わたしのところは、スキー場は造りますけど、バスはやりません。越後交通のバスで、スキー場までお 客さまを運んでいただきますので、お互い不可侵条約を結びましょう」

田中は、越後交通の社長もしていた。

「おっ、わかった。それでいい」

“わかったの角さん”と呼ばれるだけあり、決断は早かった。

田中は、扇子でせわしそうにあおぎながら続けた。

「もとより、おれは、スキー場には、なんの興味もない。そちらがそういうなら、仲良くやろうじゃない か」

義明は、湯沢町所有の苗場山の杉林100万坪を、湯沢町から5億円で買った。 新潟県湯沢町のなえば地区の「苗場国際スキー場」(のち苗場スキー場)は、国際競技の出来るスキー場として、1961年2月7日、ついにオープンにこぎつけた。
350人収容の宿泊施設、スキーハウスと、レストランのほか、貸しスキーや診療所まであるスキーセンターも完成させた。

こうやって堤義明が開発した苗場国際スキー場は、大人気のレジャースポットになります。
https://www.yamadakoji.com/entry/ski-movement


しかし、苗場国際スキー場は傾斜がきつ過ぎてスキーの上級者でなければとても滑れない欠陥スキー場でした。
結局、苗場に来るのはナンパ目当ての、スキーには何の関心も無い若い男女客だけでした。

恋はゲレンデから? 何もかもが輝いていた バブル時代を彩ったスキーの思い出

「スキーに行く」といって、単に滑って満足して帰るのは少数派です。真のスキーの目的とは、すでにいい感じになりかけている女性への押しの一手。あるいは、現地での出会いです。

 スキー板は、出会いのための小道具でしかありません。そのためスキー場選びにあたっては、意中の女性と出掛けて関係が深まりそうか、あるいは男女の出会いが生まれそうかが重要だったのです。
中でも「ナンパ天国」として知られていたのは、やはり苗場スキー場です。

スキーを口実に出会いを求めた男女
 ご存じの通り、苗場プリンスホテル(新潟県湯沢町)はスキー場のみならず、プールにレストランに映画館までがある、一大レジャースポットです。
 そもそもが、スキーを口実に出会いを求める男女が来る場所。それ以外になんの目的があるのか――という常識が出来上がっていたのです。
映画「私をスキーに連れてって」の白いスキーウエアは数年間にわたって流行しましたが、あれはナンパのための制服だったといえます。
https://ecnavi.jp/mainichi_news/article/28a5f6fb406a67fafe9aff43e888e38c/

▲△▽▼

金儲けと女にしか関心が無かった堤義明
プリンスの墓標 堤義明怨念の家系
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/373.html
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