18. 2022年3月18日 20:04:59 : 5hTavKu6KE : ZmpPdEplVUNEekU=[1]
明治神宮御苑は、1915年に内務外局明治神宮造営局が造営施工を行ったが、施工に対し、wikiによれば“全国の役所、学校、団体、個人などから献木の申し込みが殺到し、献木の総数は9万5559本にのぼった。この中には、東京市小学児童からの5270本の献木もあり、また、個人でサカキ、ヒサカキ併せて1万本もの献木をした篤志家もいた一方、乏しい年金をすべて献木のために使い、十数本の松を献上した人もいたとのことである。献木は、三百数十種にのぼり、わが国の樹林に存在するほとんどの樹木を網羅していたほどといわれるが、特に多かったのは、マツ、ヒノキ、サワラ、カシ、シイ、クス、イヌツゲ、サカキなどであった”と言う。
こうして形成された明治神宮の森、言い換えれば東京の新しい鎮守の森は、単なる森でなく日本人の心の故郷なのである。ここの森がいかに神聖な場所として存在してるか、今もこの森の一木一葉は切り取ることは勿論、落ち葉さえ持ち運ぶことは厳禁されてるという。加えて、この森は単に明治天皇の遺徳を尊称する場所としてだけでなく、野鳥その他が生育する現在東京の自然生態系の、すなわちエコロジーの視点から、大きな要素となってるのである。そのような森の木を、マンション建設で1000本も伐り倒すという、先人たちが100年後の美観考えて造営した心に対する冒涜は勿論、正にエコロジーへの挑戦だ。
かって明治時代も似たことがあった。全国の神社合祀令に対し、恐れながらとお上の決定に対し、敢然と一人で立てついた男がいた、南方熊楠だ。東北大震災後の海岸線堤防造営に関し、宮脇さんの森の防波堤構想が、以前阿修羅で論議されたことがあったが、この宮脇構想に関して、南方熊楠の事例を参考にコメを載せたが、参考になるので再掲する。
< 「現代に南方熊楠が再来したら何というか」
森の防波堤構想は、現代版南方熊楠に通じる考えだ。1909年、政府は全国の鎮守の森を伐採し、集落の神社を破壊しようとした。1村1社に統合し、地域の小神社は廃し、有名神社だけ残そうとしたわけだ。この政府の命令に、猛烈な反対運動を展開したのが南方熊楠であった。彼の反対の論旨は、鎮守の森は苔・粘菌の宝庫であり、絶滅されてはたまんないということもあったが、それ以上に、鎮守の森の果たしている経済的・文化的・社会的役割を重視する視点であった。例えば、鎮守の森に聳え立つ樹齢重ねた巨木は、これを目印に鳥が飛んでくる。鳥は、一旦止まってから、周辺の田畑へ降り立ち、害虫を食べる。こうして、巨木の周辺の田畑は虫害免れ、その経済的効果は全国合算で巨額に達するとした。こうした巨木を伐採する損失は、計り知れないとした。文化的・社会的役割も、祭りや遊ぶ場を通して生活に密着してきたのが神社と鎮守の森であり、これを破壊することは心の破壊であり、その損失は金銭で計れないと言った。ここに見えるのは、各生物・植物は勿論、人間が営む暮らしや社会生活・文化も、夫々がバラバラでなく、自然と一体となって繋がっているという、生態学の視点だ。こうした生態系を守る視点から、彼は反対運動をたちあげた。これは現代のエコロジー(生態学)の視点だが、このエコロジーという言葉自体も、現代に100年先駆け最初に使ったのが、南方であった。
現代に南方熊楠が再来したら何というか。国土も山野も、すっかり放射能に汚染させてしまい、人間だけでなく動植物にも壊滅的打撃与えてしまい、我々は南方に合わせる顔がない全くない。しかし、ボヤイテいるばかりにはいかない。TPPで、経済だけでなく社会・文化・伝統等も破壊されようとしている。日本をこれ以上破壊させてよいのか。南方を中心とする10年間に及ぶ神社合祀反対運動はついに実を結び、国会で「神社合祀無益」の決議が採択され、南方は最終的に勝利した。“ネイチャー”誌論文寄稿計51回、昭和天皇とも学問的友誼結ぶ、柳田國男にも支援された、南方のような知的行動力ある巨人だからこそ勝利したともいえるが、我々も負けてばかりいるわけにいかない。 >