74. 核ボタン握るボケプー[65] imqDe4Neg5OIrILpg3uDUIN2gVs 2024年3月03日 13:53:58 : rPNfaUWQZQ : ZmNGNHV6eXk4WHM=[1]
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キリスト教の教義である三位一体は、政治でも好んで用いられる言葉である。「地方自治・三位一体の改革」「三位一体の労働市場改革」、さらに「アベノミクスの三本の矢」などとも云われる。では、戦後日本の民主主義の三位一体とは何だろう。政治板の名うての論客は言われる──
「党議拘束による強行可決を遂行する自民党」「法案を練る官僚集団」「納税者が預けた公金を受取る企業」
── と。まさにこれを現状日本の三位一体と呼ばざるを得ない。それが今日の衰退する一方の日本の資本主義を招いた。国民は租税負担の中心であるが、日本式民主主義のもとでは、つねに政治的決定の蚊帳の外に置かれる。それどころか、国民の信託を受けた国会そのものが蚊帳の外に出される。
こういう一党独裁の政治を招く背景には、おそらく民主主義の根幹である、個人主義、契約による政府といった政治観の深度を反映していると思われる。個人が互いの衝突を避けるために政府を作ったという歴史的バックボーンの深度である。それが浅いと、主権在民や法の下の平等、国家による自由と国家からの自由などといった理念もおろらく深くは浸透しない。
民主主義の三位一体とは、政・財・官には非ず、「個人、契約、政府」である。個人は税を搾られて終わるだけの存在ではない。政府の契約相手でもある。今日の政党でそれを最もよく伝えようとしているのは山本太郎・れいわ新選組のような新しい存在である。彼らには疲弊・腐敗した日本の民主主義を目覚めさせる聖霊の役割を期待しているのだ。
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