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[雑談・Story41] <六蔵氏専用スレッド> 日
2. 2020年6月04日 16:30:23 : uFX2iat5EM : ZERDSWUyOWpEbXM=[1]
コロナの影響か、経済の煽りの影響か、どちらにしても既に家賃を払えず、住む家を手放す・追い出されるという人々が現れていると、昨晩NHKのドキュメンタリーで報じられておりました。国や行政は「そうならないよう」政策を指導していたはずですが、案の定、「尻つぼみ」や「肩すかし」の結果に終わったように伺えます。

「国の幇助から漏れる人々」がいること自体、本来的に国家を運営するものにとっては恥ずべきものと思います。それを出さないための政策が基本、民主国家のルールづくりとしてなされて然るものです。しかもそうしたところに助け舟が出されることになるのは、現状、かなりギリギリまで追いつめられてからのことだと理解します。

当然ながら身の丈を越えた所有は手放す必要があるかとは思います。ですが、そうした以前に何故それほど苦しい生活に追いやられてしまう人々がいるのかを考えた時、そこには様々な理由があるにしろ、一概にそれらすべて自己責任と責め立てることは出来ないものだと思います。

先ずは誰もがそうなってしまわないための社会デザインこそが必要であると理解します。
何より先決であることを何処かと置いおとぎ話の話にしてはいけません。現実を無視して現実を語る事は出来ないと思います。

戦後から殆どかわらぬ社会通念のまま、人々は常識やお決まりの認識を正しいもの、善いものと頭に入れては来たものの、より良くするために改善しようとは思い立つことは出来なかったのだと思います。またその問題は、そうした立場を理解する側が常に少数点として切り捨てられていたことも原因であったと理解します。
それは古い慣習としての同調圧力と、戦時中にそうして築かれて来た国民学校の軍部指導の教育によるものです。そこでほぼ等しく情愛と勇猛のドラマと認識を共有し合う仲間を失うことへの恐怖認識が与えられ、萎縮し、思考停止してしまっているというだけです。
ややもするとすぐその圧力は表に解かれ、対立を煽る観念の枝葉に別れ、同胞同士が罵り合う結果となります。

物事に優先的な序列をつけたがる社会、つまり中身の優美さが見えにくい文化性では、必ずその末端にそうした社会の歪みの煽りの影響を被る側が生まれます。末端である程純粋で無抵抗で、粗悪な社会が生み出す圧力はその抵抗の低い方へと押し流されて行きます。そしてそこに苦しみに堪えて沈黙を強いられる人々が生まれます。それは抑圧に堪えかねた社会から押寄せるハラスメント的圧力です。
社会が一定にその憤懣を抱えることで、そこでもっとも無抵抗なものが被害者となります。そこでは加害側が無自覚であることが問題です。
そうして国の中心がそのように「自分のことで手一杯」の状況であることもまた、状況の改善が期待できない理由のひとつとなります。

一方で、政府は大企業には大変手厚くしてきました。
ひとたび国策とした利権の温床で繋がった企業が破綻しかけようものなら、あらゆる手を駆使してすばやくそれらを庇護します。
もっともらしい理由として「経済を優先させるため」が挙げられますが、しかしそこでは従業員は大量解雇されます。こうしたことが本当にしょっちゅう起きます。そのことが、社会、しいては一般国民の暮らしにとって多大なる弊害となっています。そのことで国民間には常に一定に、「埋まらない格差と差別」と「優先順位」が決定づけられることとなります。これで上級と下級とに国民を位階別に分けられても大変心外で遺憾である訳です。

そもそも、民間の企業の損失を補填する場合、もはや特定権益のための企業であってはならないはずです。国家がその負債を買い上げする訳ですから、国民がそれを幇助すると云う形であるのです。その時点でまずその企業体が本当に国民に益するものなのかを吟味するのは国民側であり、もしそした場合も、公的な運営企業として転身させるか、国民全体に利益を分配して公的機関として国民全体に寄与するものに作り替えねばならないと考えます。
個人が起業したその企業内容だけが国民に益するものであるのか、必要であるかどうかはごく客観的に国民側にその決定権があるはずです。それらを満たすかどうかの条件で篩にかけるべきです。それが嫌なら経営者はそれを赦す所に本籍を移管し、そこに助けてもらえばよいだけでしょう。

そもそも国家とは、人が互いに共助し、そこで得る学びにより、上質な価値観を育み、さらに上を目指して行くことを主として作られたものと考えます。
「そこに生まれた命すべてを幇助し、養うべき族柄とみなし」ひとりとして漏らさず養える力を作る・蓄えることを前提とすべきものと理解します。それが難しいとするのは、その自治区分の規模が限度を超えているからで、それはもともと歴史的に見てそうであったように、地方、或いは町単位に区切るのが正解だと思います。

それが「できない」とするのは「何処かに嘘がある」というだけで、言い分としては破綻しています。

組織というのも「枠組みありきでは成功しない」ものであることは今や誰もが理解する所です。国家という大層な「金型」に圧し填められるのではなく、国家の中に於いて人々が活き活きとする暮らし方を理想として描くことを可能とする実験的な取り組みはこの国でも可能だと思います。そうしたアイデアを暖めている人々が日本に多いことは知られていることです。

世界がそうであるように、一つの国家の中にも、それぞれ独立した自治権が行使されて地方が運営されてあるべきです。その中でそれぞれの風土にあった人々の働きや智慧が育まれてきました。そうした人々の強みとしての働きを打ち消すことなく、それを活かしたモデルとして、実験的に先ずは何でも大掛かりにやってみたらいいんだと思います。
まず自国ファーストとして地方独自に地域内における人々の暮らしを安定化に結びつける国力を蓄えることを可能にするのです。その基盤を確立した上で国家全体への貢献を視野に入れる。その方が物事の順列としては筋道が通っています。

そうしてこれまで以上に、対等な関係性で互いに益する所で繋がりを持つとした、柔軟で確かな繋がりである「共和国家」的あり方を模索するのがよいと考えます。

一国家を名乗っても、その資格を国民全体から受けぬままに、特定の受益者だけがのさばりを見せるだけのならず者国家では不協和音が鳴り止むことはありません。

まず正しく国としてのあり方をどうするかは国民全体が等しく決めるべきものと思います。
また、それぞれの地方がどうあるかもそれぞれの地方が自治権を行使してとり決めなければならないことです。そこでSNSを介して討論すればよく、政治家推薦の自称有識者専門懐疑ではなく、各地域区分から選任を受けた代表が話合いをし、第三者もネット上で参加すれば良いと思います。
利権とがっぷり四つで中央政府からの「支持待ち」トップやお飾りリーダーはもはや地方でも「お払い箱」となる訳です。

取りまとめるリーダーなる立場がこれからの時代、必要か不要かは、人々がリーダーを「どのような観点から必要とするのか」に重点が置かれた上で議論されるのが良いかと思います。

リーダーとして名乗りを挙げるものがいても、当然その自覚に見合った働きが必要とされることになるため、人々をただ無理矢理束ねるだけであれば、必ず自然な斥力作用の結果、分裂と分断が起こることになると思います。今や出鱈目をそのままにしておくことは赦されないため、人々がリーダーを欲し、またその本人が力不足を自認するなら、その不足分は常にそれぞれ国民の力に委ねられるほかありません。

本来であれば、初めから広く人々の智慧や力に頼るほかなく、その段取りがうまく、人々から好かれる人間性であればいいはずです。そしてまた、オープンで特定の権益団体に巻かれぬような対策がとれる心の強さも必要とされます。個人的にはブータンの国王や愛媛県の知事はすごく好感が持てます。本音で人々と語り合える立場の人間が必要であるはずです。

とあるこの国の財務大臣が、都が「独自の給付策」を打出した時、「都は財源があるから良いが地方はどうするのかね」と口をとんがらせました。この言葉はわたしの心の中に決定的なものとなっています。地方は独立して経済を回せばいい、と言い放ったも同じです。そして今日の日本国民の置かれた状況を如実に伝えたものだったと思います。

それは財源の豊かな都市部以外、地方は国の庇護する元に無い、ということです。

例えばそれは、日本国土を世界の縮図としてみた時、7都府県に指定された都市部は「先進国」で、それ以外の地方は「安い人件費で賄える資源国」のような扱いと認識であったということを明言した形となります。これが本音であり、この国の真相である訳です。

これでは一国を維持する財源などいくら集めてもつくり置きしても、「あってない」状況と一緒ということであるはずです。そのように彼らはやりくりしているのです。しいてはそのことは、日本国民はいまでは完全に世界経済の巨悪に呑まれて、日本独自の風土の良さや、国土の資源、人々の活力の維持なども到底期待できなくなってしまった、ということであると思います。本当にそのとおり、90年以降、そのようであったのだから、全くたまったものではありません。

地方の自治権は「お飾り」ではありません。

そこに住む人々が当たり前に行使できるものです。地方ごとの人々の働きで、地元に活力を取り戻す、自分たちが活力を得る展望ある住処へと、僅かずつでも出来ることを実践し、変えて行かねばなりません。
この戦況に等しい状況を明るく正しく生き残っていくためには、この期に及んで大企業だけを幇助する政府のように「あらん限りの智慧を出して」対策を練ることが重要です。

不足しているとする経済の穴を独自に埋めるアイデアと行動力が必要です。その努力を始めなくてはなりません。

人々の暮らしをより良いものにするために、「持てる力」を閉ざしたり、惜しむ必要などなく、考えは無限大に広げていく、まずその準備段階として「安定と平和に暮らすための基盤」を実現させること、そして常に「よりよい暮らしに全体を変えていきたい」とする「願望を持つこと」、そして「そのための提案を皆ですること」がひとりひとりに求められます。

国民生活を守るとは、まず自分たちを守ること、自分以外の人々がすべて生きられる町を作ることでそれ以上のより良いものが実現できます。

それは「国民に活力を与える事」であると理解します。ですから人を「助ける」というのもまず、「人々が助けを求めやすい環境を整える」ことであるはずです。

「自発的に自分の能力を開花できる」そのための取り組みを中心に、経済を再デザインする必要があります。

まずは基本的に人が不足なく暮らせる様にすること、次にそこで「人としての心地良さ」を養えるようにすること。それが「国力の中身」の意味するところとなります。それが目指す目標です。

その基本をどうしたら為せるのかについては、何をすれば良いかひとりひとりがぼーっと力まず考えれば自ずとアイデアが湧いてきます。

それが上手く行くかどうかをまず不特定多数の人間の目にさらし、変更を繰り返しながら形にして行きます。それほど難しい作業ではないと理解します。
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