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[近代史5] 飲んではいけない 中川隆
18. 保守や右翼には馬鹿し[196] lduO54LiiUWXg4LJgs2Ubo6tgrU 2023年5月28日 04:37:09 : 3gN7OKNyzg : YW1mNWtKRGNDeWc=[1]
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ビール1缶でも健康に悪影響 研究で否定される「少量なら健康に良い」
Apr 8 2023
https://newsphere.jp/list/bad_effects_of_alcohol_8/?utm_source=microsoft&utm_medium=cpc_microsoft&utm_campaign=bad_effects_of_alcohol_8_microsoft&msclkid=2a4bf7a6617e188e8dc793d43b5fcd7e

お酒は20歳になってから。飲酒運転は法律で禁止されています。妊娠中や授乳期の飲酒は、胎児・乳幼児の発育に悪影響を与える恐れがあります。

 かつてお酒は「百薬の長」とも言われ、少量のアルコールが健康に良いとする説もよく聞かれた。社交に気分転換にと、お酒はさまざまなシーンで愛されている。だが、こと健康面での効果に注目した場合、わずかな量でもマイナスの影響が生まれることがあるようだ。


◆WHOが警鐘、アルコールの高い発がん性
 世界保健機関(WHO)は1月4日、「いかなる量のアルコール摂取であっても、健康にとって安全ではない」と題するニュースリリースを発表し、「アルコールは有毒であり、精神に作用し、依存性をもたらす物質である」と指摘している。

 国連の国際がん研究機関は数十年前から、アルコールをグループ1の発がん性物質に分類している。グループ1は、アスベストや放射線、タバコなどを含み、ヒトにおいて「発がん性の十分な証拠」がある場合に適用される。


 さらにWHOは、高品質や高価格のお酒であれば安全というわけでもないと注意を促している。飲酒用のアルコール成分であるエタノールは、体内での分解プロセスを通じてがんを引き起こすことがある。このため、お酒の質や価格帯にかかわらずリスクは存在する。

 体内で代謝されたエタノールは、細胞に有害なアセトアルデヒドと呼ばれる化学物質に変化する。WHOでアルコールプログラムを率いるマリッサ・エッサー氏は、米ニューヨーク・タイムズ紙(1月13日)に対し、「DNAを損傷し、身体が修復することを妨げます」「一度DNAが損傷すると、細胞は制御できない形で成長し、がん腫瘍を作ることがあります」と説明している。


◆少量でもダメ……1日1〜2杯でもがんや心血管疾患のリスク
 適量の飲酒ならば健康にプラスの効果を与えるという考えを信じる人も多いが、実際には健康を重視する場合、少量の飲酒であっても避けた方が良いようだ。ニューヨーク・タイムズ紙は、アルコールの摂取は量を問わず有害なおそれがある、との見解を報じている。


 ビクトリア大学・カナダ薬物使用研究所のティム・ナイミ所長は、同紙に対し、「(飲酒による)リスクは、多くの人が『ああ、あの人はお酒の問題を抱えている』と感じるであろうレベルよりもずっと低いところから上がり始めるのです」と説明している。

 たとえばアメリカの食事療法のガイドラインでは、男性ならば1日2杯、女性では1日1杯までを上限とするよう推奨している。しかし、WHOのエッサー氏は同紙に対し、「この範囲内でも特定の種のがんやある種の心血管疾患にはリスクがあるとする新たなエビデンスが存在します」と説明している。


 WHOの前掲のニュースリリースによると、毎日ビールの500ミリリットル缶1本未満の飲酒でも、がんのリスクにつながることがあるようだ。WHOヨーロッパ地域の最新データによると、アルコールに起因するがんの半数は、「軽い」ないしは「中程度」とされる飲酒量の人々で発生している。

 これは、1週間の合計でワイン1.5リットル未満、ビールでは3.5リットル未満(1日あたり500ミリリットル缶1本相当)にあたる。ウイスキーや焼酎などの蒸留酒では、週にわずか450ミリリットル未満の飲酒量でもリスクが確認されているという。


◆「赤ワインは健康に良い」の考え方も変わりつつある
 従来は医療の現場でも、適量の飲酒は健康に良いとの見解が聞かれることがあった。ドイツの研究者であるウルリッヒ・ジョン氏は、ウェブMD誌(2021年11月3日)に対し、「医療現場では長年、少量から中程度の飲酒は、特に心臓血管に関し、健康に寄与すると考えられてきました」と説明している。こと赤ワインの適量摂取について、完全に禁酒するよりも長寿につながるとの見解が目立った。


 だが、同氏が主導した研究により、この考え方は否定されたという。過去の調査において、アルコールを一切摂取しないとされた母集団を分析したところ、以前アルコールの健康被害を経験したためお酒を断っている人々が実に3分の1ほどいることが判明した。これにより、禁酒グループの健康状態がデータ上悪化し、飲酒に健康メリットがあるように見えていたという。

 また、2万5000人以上を対象としたイギリスの研究では、脳にとって安全なアルコール摂取量というものは存在せず、「適度」の飲酒でも脳のほぼすべての部分に悪影響を及ぼすことが明らかになった。


 神経細胞が集中する脳の灰白質(かくはいしつ)と呼ばれる領域において、アルコールの摂取量が多いほど密度が低下することが明らかになった。健康に良いと考えられていた赤ワインを摂取する人々も、例外ではなかったという。

 お酒はコミュニケーションの潤滑油としての役割もあり、一概に飲酒が良くないとは言いきれない面もある。しかし、健康の面から議論する場合、少量ならば有益であるとの見解は徐々に改められてきているようだ。


http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/528.html#c18

[リバイバル3] 酒を飲むとバカになる 中川隆
59. 中川隆[-12552] koaQ7Jey 2023年5月28日 04:39:32 : 3gN7OKNyzg : YW1mNWtKRGNDeWc=[3]
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ビール1缶でも健康に悪影響 研究で否定される「少量なら健康に良い」
Apr 8 2023
https://newsphere.jp/list/bad_effects_of_alcohol_8/?utm_source=microsoft&utm_medium=cpc_microsoft&utm_campaign=bad_effects_of_alcohol_8_microsoft&msclkid=2a4bf7a6617e188e8dc793d43b5fcd7e
お酒は20歳になってから。飲酒運転は法律で禁止されています。妊娠中や授乳期の飲酒は、胎児・乳幼児の発育に悪影響を与える恐れがあります。

 かつてお酒は「百薬の長」とも言われ、少量のアルコールが健康に良いとする説もよく聞かれた。社交に気分転換にと、お酒はさまざまなシーンで愛されている。だが、こと健康面での効果に注目した場合、わずかな量でもマイナスの影響が生まれることがあるようだ。


◆WHOが警鐘、アルコールの高い発がん性
 世界保健機関(WHO)は1月4日、「いかなる量のアルコール摂取であっても、健康にとって安全ではない」と題するニュースリリースを発表し、「アルコールは有毒であり、精神に作用し、依存性をもたらす物質である」と指摘している。

 国連の国際がん研究機関は数十年前から、アルコールをグループ1の発がん性物質に分類している。グループ1は、アスベストや放射線、タバコなどを含み、ヒトにおいて「発がん性の十分な証拠」がある場合に適用される。


 さらにWHOは、高品質や高価格のお酒であれば安全というわけでもないと注意を促している。飲酒用のアルコール成分であるエタノールは、体内での分解プロセスを通じてがんを引き起こすことがある。このため、お酒の質や価格帯にかかわらずリスクは存在する。

 体内で代謝されたエタノールは、細胞に有害なアセトアルデヒドと呼ばれる化学物質に変化する。WHOでアルコールプログラムを率いるマリッサ・エッサー氏は、米ニューヨーク・タイムズ紙(1月13日)に対し、「DNAを損傷し、身体が修復することを妨げます」「一度DNAが損傷すると、細胞は制御できない形で成長し、がん腫瘍を作ることがあります」と説明している。


◆少量でもダメ……1日1〜2杯でもがんや心血管疾患のリスク
 適量の飲酒ならば健康にプラスの効果を与えるという考えを信じる人も多いが、実際には健康を重視する場合、少量の飲酒であっても避けた方が良いようだ。ニューヨーク・タイムズ紙は、アルコールの摂取は量を問わず有害なおそれがある、との見解を報じている。


 ビクトリア大学・カナダ薬物使用研究所のティム・ナイミ所長は、同紙に対し、「(飲酒による)リスクは、多くの人が『ああ、あの人はお酒の問題を抱えている』と感じるであろうレベルよりもずっと低いところから上がり始めるのです」と説明している。

 たとえばアメリカの食事療法のガイドラインでは、男性ならば1日2杯、女性では1日1杯までを上限とするよう推奨している。しかし、WHOのエッサー氏は同紙に対し、「この範囲内でも特定の種のがんやある種の心血管疾患にはリスクがあるとする新たなエビデンスが存在します」と説明している。


 WHOの前掲のニュースリリースによると、毎日ビールの500ミリリットル缶1本未満の飲酒でも、がんのリスクにつながることがあるようだ。WHOヨーロッパ地域の最新データによると、アルコールに起因するがんの半数は、「軽い」ないしは「中程度」とされる飲酒量の人々で発生している。

 これは、1週間の合計でワイン1.5リットル未満、ビールでは3.5リットル未満(1日あたり500ミリリットル缶1本相当)にあたる。ウイスキーや焼酎などの蒸留酒では、週にわずか450ミリリットル未満の飲酒量でもリスクが確認されているという。


◆「赤ワインは健康に良い」の考え方も変わりつつある
 従来は医療の現場でも、適量の飲酒は健康に良いとの見解が聞かれることがあった。ドイツの研究者であるウルリッヒ・ジョン氏は、ウェブMD誌(2021年11月3日)に対し、「医療現場では長年、少量から中程度の飲酒は、特に心臓血管に関し、健康に寄与すると考えられてきました」と説明している。こと赤ワインの適量摂取について、完全に禁酒するよりも長寿につながるとの見解が目立った。


 だが、同氏が主導した研究により、この考え方は否定されたという。過去の調査において、アルコールを一切摂取しないとされた母集団を分析したところ、以前アルコールの健康被害を経験したためお酒を断っている人々が実に3分の1ほどいることが判明した。これにより、禁酒グループの健康状態がデータ上悪化し、飲酒に健康メリットがあるように見えていたという。

 また、2万5000人以上を対象としたイギリスの研究では、脳にとって安全なアルコール摂取量というものは存在せず、「適度」の飲酒でも脳のほぼすべての部分に悪影響を及ぼすことが明らかになった。


 神経細胞が集中する脳の灰白質(かくはいしつ)と呼ばれる領域において、アルコールの摂取量が多いほど密度が低下することが明らかになった。健康に良いと考えられていた赤ワインを摂取する人々も、例外ではなかったという。

 お酒はコミュニケーションの潤滑油としての役割もあり、一概に飲酒が良くないとは言いきれない面もある。しかし、健康の面から議論する場合、少量ならば有益であるとの見解は徐々に改められてきているようだ。
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/723.html#c59

[近代史3] ウイスキーやブランデーをストレートで飲み続けた人の末路は? 中川隆
18. 中川隆[-12551] koaQ7Jey 2023年5月28日 04:39:52 : 3gN7OKNyzg : YW1mNWtKRGNDeWc=[4]
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ビール1缶でも健康に悪影響 研究で否定される「少量なら健康に良い」
Apr 8 2023
https://newsphere.jp/list/bad_effects_of_alcohol_8/?utm_source=microsoft&utm_medium=cpc_microsoft&utm_campaign=bad_effects_of_alcohol_8_microsoft&msclkid=2a4bf7a6617e188e8dc793d43b5fcd7e
お酒は20歳になってから。飲酒運転は法律で禁止されています。妊娠中や授乳期の飲酒は、胎児・乳幼児の発育に悪影響を与える恐れがあります。

 かつてお酒は「百薬の長」とも言われ、少量のアルコールが健康に良いとする説もよく聞かれた。社交に気分転換にと、お酒はさまざまなシーンで愛されている。だが、こと健康面での効果に注目した場合、わずかな量でもマイナスの影響が生まれることがあるようだ。


◆WHOが警鐘、アルコールの高い発がん性
 世界保健機関(WHO)は1月4日、「いかなる量のアルコール摂取であっても、健康にとって安全ではない」と題するニュースリリースを発表し、「アルコールは有毒であり、精神に作用し、依存性をもたらす物質である」と指摘している。

 国連の国際がん研究機関は数十年前から、アルコールをグループ1の発がん性物質に分類している。グループ1は、アスベストや放射線、タバコなどを含み、ヒトにおいて「発がん性の十分な証拠」がある場合に適用される。


 さらにWHOは、高品質や高価格のお酒であれば安全というわけでもないと注意を促している。飲酒用のアルコール成分であるエタノールは、体内での分解プロセスを通じてがんを引き起こすことがある。このため、お酒の質や価格帯にかかわらずリスクは存在する。

 体内で代謝されたエタノールは、細胞に有害なアセトアルデヒドと呼ばれる化学物質に変化する。WHOでアルコールプログラムを率いるマリッサ・エッサー氏は、米ニューヨーク・タイムズ紙(1月13日)に対し、「DNAを損傷し、身体が修復することを妨げます」「一度DNAが損傷すると、細胞は制御できない形で成長し、がん腫瘍を作ることがあります」と説明している。


◆少量でもダメ……1日1〜2杯でもがんや心血管疾患のリスク
 適量の飲酒ならば健康にプラスの効果を与えるという考えを信じる人も多いが、実際には健康を重視する場合、少量の飲酒であっても避けた方が良いようだ。ニューヨーク・タイムズ紙は、アルコールの摂取は量を問わず有害なおそれがある、との見解を報じている。


 ビクトリア大学・カナダ薬物使用研究所のティム・ナイミ所長は、同紙に対し、「(飲酒による)リスクは、多くの人が『ああ、あの人はお酒の問題を抱えている』と感じるであろうレベルよりもずっと低いところから上がり始めるのです」と説明している。

 たとえばアメリカの食事療法のガイドラインでは、男性ならば1日2杯、女性では1日1杯までを上限とするよう推奨している。しかし、WHOのエッサー氏は同紙に対し、「この範囲内でも特定の種のがんやある種の心血管疾患にはリスクがあるとする新たなエビデンスが存在します」と説明している。


 WHOの前掲のニュースリリースによると、毎日ビールの500ミリリットル缶1本未満の飲酒でも、がんのリスクにつながることがあるようだ。WHOヨーロッパ地域の最新データによると、アルコールに起因するがんの半数は、「軽い」ないしは「中程度」とされる飲酒量の人々で発生している。

 これは、1週間の合計でワイン1.5リットル未満、ビールでは3.5リットル未満(1日あたり500ミリリットル缶1本相当)にあたる。ウイスキーや焼酎などの蒸留酒では、週にわずか450ミリリットル未満の飲酒量でもリスクが確認されているという。


◆「赤ワインは健康に良い」の考え方も変わりつつある
 従来は医療の現場でも、適量の飲酒は健康に良いとの見解が聞かれることがあった。ドイツの研究者であるウルリッヒ・ジョン氏は、ウェブMD誌(2021年11月3日)に対し、「医療現場では長年、少量から中程度の飲酒は、特に心臓血管に関し、健康に寄与すると考えられてきました」と説明している。こと赤ワインの適量摂取について、完全に禁酒するよりも長寿につながるとの見解が目立った。


 だが、同氏が主導した研究により、この考え方は否定されたという。過去の調査において、アルコールを一切摂取しないとされた母集団を分析したところ、以前アルコールの健康被害を経験したためお酒を断っている人々が実に3分の1ほどいることが判明した。これにより、禁酒グループの健康状態がデータ上悪化し、飲酒に健康メリットがあるように見えていたという。

 また、2万5000人以上を対象としたイギリスの研究では、脳にとって安全なアルコール摂取量というものは存在せず、「適度」の飲酒でも脳のほぼすべての部分に悪影響を及ぼすことが明らかになった。


 神経細胞が集中する脳の灰白質(かくはいしつ)と呼ばれる領域において、アルコールの摂取量が多いほど密度が低下することが明らかになった。健康に良いと考えられていた赤ワインを摂取する人々も、例外ではなかったという。

 お酒はコミュニケーションの潤滑油としての役割もあり、一概に飲酒が良くないとは言いきれない面もある。しかし、健康の面から議論する場合、少量ならば有益であるとの見解は徐々に改められてきているようだ。
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/529.html#c18

[近代史5] 酒は文化財 _ 長生きできなくてもいいから、毎日美味しいお酒を飲もう 中川隆
8. 中川隆[-12550] koaQ7Jey 2023年5月28日 04:40:27 : 3gN7OKNyzg : YW1mNWtKRGNDeWc=[5]
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ビール1缶でも健康に悪影響 研究で否定される「少量なら健康に良い」
Apr 8 2023
https://newsphere.jp/list/bad_effects_of_alcohol_8/?utm_source=microsoft&utm_medium=cpc_microsoft&utm_campaign=bad_effects_of_alcohol_8_microsoft&msclkid=2a4bf7a6617e188e8dc793d43b5fcd7e
お酒は20歳になってから。飲酒運転は法律で禁止されています。妊娠中や授乳期の飲酒は、胎児・乳幼児の発育に悪影響を与える恐れがあります。

 かつてお酒は「百薬の長」とも言われ、少量のアルコールが健康に良いとする説もよく聞かれた。社交に気分転換にと、お酒はさまざまなシーンで愛されている。だが、こと健康面での効果に注目した場合、わずかな量でもマイナスの影響が生まれることがあるようだ。


◆WHOが警鐘、アルコールの高い発がん性
 世界保健機関(WHO)は1月4日、「いかなる量のアルコール摂取であっても、健康にとって安全ではない」と題するニュースリリースを発表し、「アルコールは有毒であり、精神に作用し、依存性をもたらす物質である」と指摘している。

 国連の国際がん研究機関は数十年前から、アルコールをグループ1の発がん性物質に分類している。グループ1は、アスベストや放射線、タバコなどを含み、ヒトにおいて「発がん性の十分な証拠」がある場合に適用される。


 さらにWHOは、高品質や高価格のお酒であれば安全というわけでもないと注意を促している。飲酒用のアルコール成分であるエタノールは、体内での分解プロセスを通じてがんを引き起こすことがある。このため、お酒の質や価格帯にかかわらずリスクは存在する。

 体内で代謝されたエタノールは、細胞に有害なアセトアルデヒドと呼ばれる化学物質に変化する。WHOでアルコールプログラムを率いるマリッサ・エッサー氏は、米ニューヨーク・タイムズ紙(1月13日)に対し、「DNAを損傷し、身体が修復することを妨げます」「一度DNAが損傷すると、細胞は制御できない形で成長し、がん腫瘍を作ることがあります」と説明している。


◆少量でもダメ……1日1〜2杯でもがんや心血管疾患のリスク
 適量の飲酒ならば健康にプラスの効果を与えるという考えを信じる人も多いが、実際には健康を重視する場合、少量の飲酒であっても避けた方が良いようだ。ニューヨーク・タイムズ紙は、アルコールの摂取は量を問わず有害なおそれがある、との見解を報じている。


 ビクトリア大学・カナダ薬物使用研究所のティム・ナイミ所長は、同紙に対し、「(飲酒による)リスクは、多くの人が『ああ、あの人はお酒の問題を抱えている』と感じるであろうレベルよりもずっと低いところから上がり始めるのです」と説明している。

 たとえばアメリカの食事療法のガイドラインでは、男性ならば1日2杯、女性では1日1杯までを上限とするよう推奨している。しかし、WHOのエッサー氏は同紙に対し、「この範囲内でも特定の種のがんやある種の心血管疾患にはリスクがあるとする新たなエビデンスが存在します」と説明している。


 WHOの前掲のニュースリリースによると、毎日ビールの500ミリリットル缶1本未満の飲酒でも、がんのリスクにつながることがあるようだ。WHOヨーロッパ地域の最新データによると、アルコールに起因するがんの半数は、「軽い」ないしは「中程度」とされる飲酒量の人々で発生している。

 これは、1週間の合計でワイン1.5リットル未満、ビールでは3.5リットル未満(1日あたり500ミリリットル缶1本相当)にあたる。ウイスキーや焼酎などの蒸留酒では、週にわずか450ミリリットル未満の飲酒量でもリスクが確認されているという。


◆「赤ワインは健康に良い」の考え方も変わりつつある
 従来は医療の現場でも、適量の飲酒は健康に良いとの見解が聞かれることがあった。ドイツの研究者であるウルリッヒ・ジョン氏は、ウェブMD誌(2021年11月3日)に対し、「医療現場では長年、少量から中程度の飲酒は、特に心臓血管に関し、健康に寄与すると考えられてきました」と説明している。こと赤ワインの適量摂取について、完全に禁酒するよりも長寿につながるとの見解が目立った。


 だが、同氏が主導した研究により、この考え方は否定されたという。過去の調査において、アルコールを一切摂取しないとされた母集団を分析したところ、以前アルコールの健康被害を経験したためお酒を断っている人々が実に3分の1ほどいることが判明した。これにより、禁酒グループの健康状態がデータ上悪化し、飲酒に健康メリットがあるように見えていたという。

 また、2万5000人以上を対象としたイギリスの研究では、脳にとって安全なアルコール摂取量というものは存在せず、「適度」の飲酒でも脳のほぼすべての部分に悪影響を及ぼすことが明らかになった。


 神経細胞が集中する脳の灰白質(かくはいしつ)と呼ばれる領域において、アルコールの摂取量が多いほど密度が低下することが明らかになった。健康に良いと考えられていた赤ワインを摂取する人々も、例外ではなかったという。

 お酒はコミュニケーションの潤滑油としての役割もあり、一概に飲酒が良くないとは言いきれない面もある。しかし、健康の面から議論する場合、少量ならば有益であるとの見解は徐々に改められてきているようだ。
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/623.html#c8

[近代史5] 世界で唯一成功した共産国家はバブル崩壊までの日本だけだった 中川隆
3. 中川隆[-12549] koaQ7Jey 2023年5月28日 13:57:08 : 3gN7OKNyzg : YW1mNWtKRGNDeWc=[6]
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雑記帳
2023年05月27日
小野寺史郎『戦後日本の中国観 アジアと近代をめぐる葛藤』
https://sicambre.seesaa.net/article/202305article_27.html

https://www.amazon.co.jp/%E6%88%A6%E5%BE%8C%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E4%B8%AD%E5%9B%BD%E8%A6%B3-%E3%82%A2%E3%82%B8%E3%82%A2%E3%81%A8%E8%BF%91%E4%BB%A3%E3%82%92%E3%82%81%E3%81%90%E3%82%8B%E8%91%9B%E8%97%A4-%E4%B8%AD%E5%85%AC%E9%81%B8%E6%9B%B8-122-%E5%B0%8F%E9%87%8E%E5%AF%BA-%E5%8F%B2%E9%83%8E/dp/4121101227


 中公選書の一冊として、中央公論新社より2021年11月に刊行されました。電子書籍での購入です。本書は、日本における中国予測がよく外れる要因として、中華人民共和国の不透明性ばかりではなく、日本社会の中国観も大きいのではないか、との認識から、近現代日本の中国観を検証します。日本の中国観は、その時の日中関係に大きく影響を受け、中国を実態以上に美化したり貶めたりしたのではないか、というわけです。確かに、日本社会の中国観には過大評価も過小評価もあり、適切な評価ができているのかとなると、かなり疑問ではあります。

 本書は、とくに第二次世界大戦後の日本における中国近現代史研究から、日本の研究者の中国観と論点を検証します。そのさい本書はまず、中国の問題が特殊的なのか他地域とも共通する普遍的なものなのか、という区分を採用します。近代日本の世界認識は大まかに、歴史学とも連動して日本と西洋と東洋(≒中国)という三区分に基づいており、日本と西洋の共通性(普遍性)および日本と東洋の相違性(中国の特殊性)を強調すると「脱亜論」に傾き、日本と東洋の文化的共通性を強調し、西洋「文明【当ブログでは原則として「文明」という用語を使いませんが、この記事では本書からの引用のさいに「文明」と表記します】」の普遍性を否定する立場では、「アジア主義」と親和的になります。ただ本書は、「脱亜論」にしても「アジア主義」にしても、戦前にはアジアにおいて日本が最も「開花」していたことを大前提としていた、と指摘します。

 次に本書は、時間軸による区分を取り上げます。現在に至る中国の歴史的な連続性を強調するか、近代以降の変化をより重視するのか、という観点です。後者については、アヘン戦争、ダイチン・グルン(大清帝国)末の近代化改革、辛亥革命、五四運動、国民党政権の成立、中華人民共和国の成立、改革開放政策の開始など、どれを画期としてより重視するのか、異なります。一般的に、中国の特殊性を重視する場合は中国の歴史的連続性を、中国の普遍的性格を強調する場合は近代以降の変化を重視する傾向が強くなっています。さらに本書は、日本における中国研究に、自国史である日本史(国史)および先進的な西洋に学ぶための西洋史研究との違いがあるのではないか、との観点を提示します。

 本書の主要な対象は二次世界大戦後の日本における中国近現代史研究ですが、その前提として、第二次世界大戦終結までの近代日本における中国観が概観されます。本書の指摘で重要と思われるのは、戦前の日本において主流はあくまでもヨーロッパ化で、東洋史やアジア主義の人々は本質的に非主流派であり、トップエリートに届かなかったか、「非常に変わり者」だった、ということです。そのため、戦前では日中間の問題について、中国を専門としない知識人やジャーナリストの発言機会も多かった、というわけです。大正年間から昭和初期にかけては知識層の間でマルクス主義が一気に強く浸透し、日本の中国観もマルクス主義の影響を強く受けます。もちろん、マルクス主義を前提とする知識層の間でも中国、さらには自国である日本の現状および歴史的過程の認識が異なることもありましたが、ともかく当時の知識層においてマルクス主義は「科学的」とされ、その知的権威は絶大なものでした。これが戦後の日本社会における中国観の重要な前提となります。

 戦後歴史学の特徴は、戦前の日本の国家や社会への批判と反省、西欧近代の理念への関心の高まり(近代主義)、マルクス主義に基づく発展法則の普遍的適用です。ただ本書は、「戦後歴史学」と「戦後中国史学」との間の微妙な違いも指摘します。戦後中国史学では、近代主義で強調された共同体から自立した個人の析出という問題への関心は強くなく、これは進んだ西欧と遅れたアジアという近代主義の構図への反発が強かったからでした。また、大日本帝国の崩壊により、日本とアジアとの直接的関係が弱まったことにより、学界ではアジア研究が再び傍流追いやられた側面もありました。本書は戦後日本における中国研究を、戦前との連続性は強いものの、中華人民共和国の成立という新たな事態を眼前にして研究の刷新が呼びかけられた東洋史、マルクス主義に基づいて現代中国研究と中国史研究の一体化を目指した中国研究(東洋史もマルクス主義の影響を大きく受けるようになりましたが)、独自の立場から両者を批判した竹内好など、アメリカ合衆国の研究手法を導入した現状分析を挙げます。本書は、戦後10年程、程度の差はあれ戦前への反省が共有されていたことなどから、この時点では相互の批判も抑制的だった、と指摘します。

 1955年頃以降、「国民的歴史学運動」の挫折や「昭和史論争」やスターリン批判などを経て、立場の相違に起因する対立や論争が激化していきます。マルクス主義を前提とする側でも、日本共産党と一線を画す「新左翼」が現れます。この時期の中国史研究でとくに問題となったのは、現実と学問との関係の位置づけ、日本における中国研究の意味といった立場性と、ヨーロッパを基準とした「近代主義」的歴史観への批判です。立場の相違に起因する対立や論争では、とくに文化大革命の影響が大きく、これをどう評価するかが立ち位置を大きく規定したところもありました。とくに積極的に文革を支持したことで知られるのは、安藤彦太郎です。一方、文革否定論の立場はさまざまで、日本共産党支持によるものや、現状分析からのものなどがあり、文革の評価をめぐる対立はきわめて深刻でした。ただ本書は、当時の日本で中国研究に直接的には関わらない人々の間では、文革はおおむね異常事態として批判的に評価されており、学生運動への毛沢東思想の影響はひじょうに小さかった、と指摘します。しかし、中国研究では文革支持派が勢力を有し、文革批判派を排除したばかりか、後に文革の実態が明らかになっても、文革支持派のほとんどは沈黙し、明確な総括はなされなかった、と本書は評価します。そのため、この時に排除された文革批判派の多くは、その後も長く被害者意識と(元)文革支持者に対する敵対感情を抱き続けた、というわけです。

 1972年、米中接近に伴って日本も中国への接近を加速し、同年9月には日本と中華人民共和国の国交が成立します。ここから1989年6月4日の天安門事件の頃までは、日中ともに双方への感情が良好でした。ただ、反帝国主義の観点に立っていた日本のマルクス主義系の中国研究者にとっては、根本的な立脚点の喪失を意味した、と本書は評価しています。この時期の中国史研究の大きな特徴は、中華人民共和国成立の衝撃による、共産党と毛沢東の勝利を必然とした中国近現代史観の偏りが批判され、中国共産党の歴史観で低く評価されたり軽視されていたりした事象、たとえば国民党や国民政府の研究の必要性が指摘されたことです。1980年代には、中国が自らの経済的後進性を認め、東側陣営全体の行き詰まりが明らかになっていく中で、中国研究に限らず学問全体でマルクス主義の影響力が急速に失われていきました。この時期には、文革以前に編集が開始されていた史料類の大量刊行の始まりにより、日本の中国研究は実証水準を上昇させるとともに、研究は細分化していきました。

 こうした日中の「蜜月関係」の時代を経て、1989年6月4日の天安門事件以降、日中関係の悪化が見られ、中国が経済的に急成長し、ついには日本を追い抜いて大きな差をつけたことで、日中の立ち位置が近代の大半とは異なる状況となります。天安門事件で中国政府が自国正当化のため独自性を持ち出したことで、一般では中国特殊論が強く主張されたこともありましたが、中国研究では、そうした中国特殊論を批判し、その普遍性を重視する見解が依然として有力でした。またこの時期には、台湾や華僑の研究も発展します。この時期には、中国共産党の体制教義的な歴史観とは大きく異なるような、中国共産党と農村との関係についての実証的研究も進みました。ただ、こうした中華人民共和国史の研究は、中国共産党の政治的正当性に直接的に関わるため、現実の政治情勢から強い影響を受けることになり、習近平政権下では研究への統制が強化され、研究環境は悪化したようです。それとも関連しているのでしょうが、日中関係の悪化とともに中国研究を志望する学生が減少していることも、大きな問題となっています。
https://sicambre.seesaa.net/article/202305article_27.html
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/117.html#c3

[近代史4] 戦後日本のバブル崩壊以前の一億総中流社会は共産主義者ばかりの GHQ が意図的に作ったものだった 中川隆
7. 中川隆[-12548] koaQ7Jey 2023年5月28日 13:57:28 : 3gN7OKNyzg : YW1mNWtKRGNDeWc=[7]
<■133行くらい→右の▽クリックで次のコメントにジャンプ可>
雑記帳
2023年05月27日
小野寺史郎『戦後日本の中国観 アジアと近代をめぐる葛藤』
https://sicambre.seesaa.net/article/202305article_27.html

https://www.amazon.co.jp/%E6%88%A6%E5%BE%8C%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E4%B8%AD%E5%9B%BD%E8%A6%B3-%E3%82%A2%E3%82%B8%E3%82%A2%E3%81%A8%E8%BF%91%E4%BB%A3%E3%82%92%E3%82%81%E3%81%90%E3%82%8B%E8%91%9B%E8%97%A4-%E4%B8%AD%E5%85%AC%E9%81%B8%E6%9B%B8-122-%E5%B0%8F%E9%87%8E%E5%AF%BA-%E5%8F%B2%E9%83%8E/dp/4121101227


 中公選書の一冊として、中央公論新社より2021年11月に刊行されました。電子書籍での購入です。本書は、日本における中国予測がよく外れる要因として、中華人民共和国の不透明性ばかりではなく、日本社会の中国観も大きいのではないか、との認識から、近現代日本の中国観を検証します。日本の中国観は、その時の日中関係に大きく影響を受け、中国を実態以上に美化したり貶めたりしたのではないか、というわけです。確かに、日本社会の中国観には過大評価も過小評価もあり、適切な評価ができているのかとなると、かなり疑問ではあります。

 本書は、とくに第二次世界大戦後の日本における中国近現代史研究から、日本の研究者の中国観と論点を検証します。そのさい本書はまず、中国の問題が特殊的なのか他地域とも共通する普遍的なものなのか、という区分を採用します。近代日本の世界認識は大まかに、歴史学とも連動して日本と西洋と東洋(≒中国)という三区分に基づいており、日本と西洋の共通性(普遍性)および日本と東洋の相違性(中国の特殊性)を強調すると「脱亜論」に傾き、日本と東洋の文化的共通性を強調し、西洋「文明【当ブログでは原則として「文明」という用語を使いませんが、この記事では本書からの引用のさいに「文明」と表記します】」の普遍性を否定する立場では、「アジア主義」と親和的になります。ただ本書は、「脱亜論」にしても「アジア主義」にしても、戦前にはアジアにおいて日本が最も「開花」していたことを大前提としていた、と指摘します。

 次に本書は、時間軸による区分を取り上げます。現在に至る中国の歴史的な連続性を強調するか、近代以降の変化をより重視するのか、という観点です。後者については、アヘン戦争、ダイチン・グルン(大清帝国)末の近代化改革、辛亥革命、五四運動、国民党政権の成立、中華人民共和国の成立、改革開放政策の開始など、どれを画期としてより重視するのか、異なります。一般的に、中国の特殊性を重視する場合は中国の歴史的連続性を、中国の普遍的性格を強調する場合は近代以降の変化を重視する傾向が強くなっています。さらに本書は、日本における中国研究に、自国史である日本史(国史)および先進的な西洋に学ぶための西洋史研究との違いがあるのではないか、との観点を提示します。

 本書の主要な対象は二次世界大戦後の日本における中国近現代史研究ですが、その前提として、第二次世界大戦終結までの近代日本における中国観が概観されます。本書の指摘で重要と思われるのは、戦前の日本において主流はあくまでもヨーロッパ化で、東洋史やアジア主義の人々は本質的に非主流派であり、トップエリートに届かなかったか、「非常に変わり者」だった、ということです。そのため、戦前では日中間の問題について、中国を専門としない知識人やジャーナリストの発言機会も多かった、というわけです。大正年間から昭和初期にかけては知識層の間でマルクス主義が一気に強く浸透し、日本の中国観もマルクス主義の影響を強く受けます。もちろん、マルクス主義を前提とする知識層の間でも中国、さらには自国である日本の現状および歴史的過程の認識が異なることもありましたが、ともかく当時の知識層においてマルクス主義は「科学的」とされ、その知的権威は絶大なものでした。これが戦後の日本社会における中国観の重要な前提となります。

 戦後歴史学の特徴は、戦前の日本の国家や社会への批判と反省、西欧近代の理念への関心の高まり(近代主義)、マルクス主義に基づく発展法則の普遍的適用です。ただ本書は、「戦後歴史学」と「戦後中国史学」との間の微妙な違いも指摘します。戦後中国史学では、近代主義で強調された共同体から自立した個人の析出という問題への関心は強くなく、これは進んだ西欧と遅れたアジアという近代主義の構図への反発が強かったからでした。また、大日本帝国の崩壊により、日本とアジアとの直接的関係が弱まったことにより、学界ではアジア研究が再び傍流追いやられた側面もありました。本書は戦後日本における中国研究を、戦前との連続性は強いものの、中華人民共和国の成立という新たな事態を眼前にして研究の刷新が呼びかけられた東洋史、マルクス主義に基づいて現代中国研究と中国史研究の一体化を目指した中国研究(東洋史もマルクス主義の影響を大きく受けるようになりましたが)、独自の立場から両者を批判した竹内好など、アメリカ合衆国の研究手法を導入した現状分析を挙げます。本書は、戦後10年程、程度の差はあれ戦前への反省が共有されていたことなどから、この時点では相互の批判も抑制的だった、と指摘します。

 1955年頃以降、「国民的歴史学運動」の挫折や「昭和史論争」やスターリン批判などを経て、立場の相違に起因する対立や論争が激化していきます。マルクス主義を前提とする側でも、日本共産党と一線を画す「新左翼」が現れます。この時期の中国史研究でとくに問題となったのは、現実と学問との関係の位置づけ、日本における中国研究の意味といった立場性と、ヨーロッパを基準とした「近代主義」的歴史観への批判です。立場の相違に起因する対立や論争では、とくに文化大革命の影響が大きく、これをどう評価するかが立ち位置を大きく規定したところもありました。とくに積極的に文革を支持したことで知られるのは、安藤彦太郎です。一方、文革否定論の立場はさまざまで、日本共産党支持によるものや、現状分析からのものなどがあり、文革の評価をめぐる対立はきわめて深刻でした。ただ本書は、当時の日本で中国研究に直接的には関わらない人々の間では、文革はおおむね異常事態として批判的に評価されており、学生運動への毛沢東思想の影響はひじょうに小さかった、と指摘します。しかし、中国研究では文革支持派が勢力を有し、文革批判派を排除したばかりか、後に文革の実態が明らかになっても、文革支持派のほとんどは沈黙し、明確な総括はなされなかった、と本書は評価します。そのため、この時に排除された文革批判派の多くは、その後も長く被害者意識と(元)文革支持者に対する敵対感情を抱き続けた、というわけです。

 1972年、米中接近に伴って日本も中国への接近を加速し、同年9月には日本と中華人民共和国の国交が成立します。ここから1989年6月4日の天安門事件の頃までは、日中ともに双方への感情が良好でした。ただ、反帝国主義の観点に立っていた日本のマルクス主義系の中国研究者にとっては、根本的な立脚点の喪失を意味した、と本書は評価しています。この時期の中国史研究の大きな特徴は、中華人民共和国成立の衝撃による、共産党と毛沢東の勝利を必然とした中国近現代史観の偏りが批判され、中国共産党の歴史観で低く評価されたり軽視されていたりした事象、たとえば国民党や国民政府の研究の必要性が指摘されたことです。1980年代には、中国が自らの経済的後進性を認め、東側陣営全体の行き詰まりが明らかになっていく中で、中国研究に限らず学問全体でマルクス主義の影響力が急速に失われていきました。この時期には、文革以前に編集が開始されていた史料類の大量刊行の始まりにより、日本の中国研究は実証水準を上昇させるとともに、研究は細分化していきました。

 こうした日中の「蜜月関係」の時代を経て、1989年6月4日の天安門事件以降、日中関係の悪化が見られ、中国が経済的に急成長し、ついには日本を追い抜いて大きな差をつけたことで、日中の立ち位置が近代の大半とは異なる状況となります。天安門事件で中国政府が自国正当化のため独自性を持ち出したことで、一般では中国特殊論が強く主張されたこともありましたが、中国研究では、そうした中国特殊論を批判し、その普遍性を重視する見解が依然として有力でした。またこの時期には、台湾や華僑の研究も発展します。この時期には、中国共産党の体制教義的な歴史観とは大きく異なるような、中国共産党と農村との関係についての実証的研究も進みました。ただ、こうした中華人民共和国史の研究は、中国共産党の政治的正当性に直接的に関わるため、現実の政治情勢から強い影響を受けることになり、習近平政権下では研究への統制が強化され、研究環境は悪化したようです。それとも関連しているのでしょうが、日中関係の悪化とともに中国研究を志望する学生が減少していることも、大きな問題となっています。
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[近代史3] 戦後の日本が世界で最も成功した社会主義国、理想の共産社会に近い一億総中流社会になった理由 中川隆
6. 中川隆[-12547] koaQ7Jey 2023年5月28日 13:57:57 : 3gN7OKNyzg : YW1mNWtKRGNDeWc=[8]
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雑記帳
2023年05月27日
小野寺史郎『戦後日本の中国観 アジアと近代をめぐる葛藤』
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https://www.amazon.co.jp/%E6%88%A6%E5%BE%8C%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E4%B8%AD%E5%9B%BD%E8%A6%B3-%E3%82%A2%E3%82%B8%E3%82%A2%E3%81%A8%E8%BF%91%E4%BB%A3%E3%82%92%E3%82%81%E3%81%90%E3%82%8B%E8%91%9B%E8%97%A4-%E4%B8%AD%E5%85%AC%E9%81%B8%E6%9B%B8-122-%E5%B0%8F%E9%87%8E%E5%AF%BA-%E5%8F%B2%E9%83%8E/dp/4121101227


 中公選書の一冊として、中央公論新社より2021年11月に刊行されました。電子書籍での購入です。本書は、日本における中国予測がよく外れる要因として、中華人民共和国の不透明性ばかりではなく、日本社会の中国観も大きいのではないか、との認識から、近現代日本の中国観を検証します。日本の中国観は、その時の日中関係に大きく影響を受け、中国を実態以上に美化したり貶めたりしたのではないか、というわけです。確かに、日本社会の中国観には過大評価も過小評価もあり、適切な評価ができているのかとなると、かなり疑問ではあります。

 本書は、とくに第二次世界大戦後の日本における中国近現代史研究から、日本の研究者の中国観と論点を検証します。そのさい本書はまず、中国の問題が特殊的なのか他地域とも共通する普遍的なものなのか、という区分を採用します。近代日本の世界認識は大まかに、歴史学とも連動して日本と西洋と東洋(≒中国)という三区分に基づいており、日本と西洋の共通性(普遍性)および日本と東洋の相違性(中国の特殊性)を強調すると「脱亜論」に傾き、日本と東洋の文化的共通性を強調し、西洋「文明【当ブログでは原則として「文明」という用語を使いませんが、この記事では本書からの引用のさいに「文明」と表記します】」の普遍性を否定する立場では、「アジア主義」と親和的になります。ただ本書は、「脱亜論」にしても「アジア主義」にしても、戦前にはアジアにおいて日本が最も「開花」していたことを大前提としていた、と指摘します。

 次に本書は、時間軸による区分を取り上げます。現在に至る中国の歴史的な連続性を強調するか、近代以降の変化をより重視するのか、という観点です。後者については、アヘン戦争、ダイチン・グルン(大清帝国)末の近代化改革、辛亥革命、五四運動、国民党政権の成立、中華人民共和国の成立、改革開放政策の開始など、どれを画期としてより重視するのか、異なります。一般的に、中国の特殊性を重視する場合は中国の歴史的連続性を、中国の普遍的性格を強調する場合は近代以降の変化を重視する傾向が強くなっています。さらに本書は、日本における中国研究に、自国史である日本史(国史)および先進的な西洋に学ぶための西洋史研究との違いがあるのではないか、との観点を提示します。

 本書の主要な対象は二次世界大戦後の日本における中国近現代史研究ですが、その前提として、第二次世界大戦終結までの近代日本における中国観が概観されます。本書の指摘で重要と思われるのは、戦前の日本において主流はあくまでもヨーロッパ化で、東洋史やアジア主義の人々は本質的に非主流派であり、トップエリートに届かなかったか、「非常に変わり者」だった、ということです。そのため、戦前では日中間の問題について、中国を専門としない知識人やジャーナリストの発言機会も多かった、というわけです。大正年間から昭和初期にかけては知識層の間でマルクス主義が一気に強く浸透し、日本の中国観もマルクス主義の影響を強く受けます。もちろん、マルクス主義を前提とする知識層の間でも中国、さらには自国である日本の現状および歴史的過程の認識が異なることもありましたが、ともかく当時の知識層においてマルクス主義は「科学的」とされ、その知的権威は絶大なものでした。これが戦後の日本社会における中国観の重要な前提となります。

 戦後歴史学の特徴は、戦前の日本の国家や社会への批判と反省、西欧近代の理念への関心の高まり(近代主義)、マルクス主義に基づく発展法則の普遍的適用です。ただ本書は、「戦後歴史学」と「戦後中国史学」との間の微妙な違いも指摘します。戦後中国史学では、近代主義で強調された共同体から自立した個人の析出という問題への関心は強くなく、これは進んだ西欧と遅れたアジアという近代主義の構図への反発が強かったからでした。また、大日本帝国の崩壊により、日本とアジアとの直接的関係が弱まったことにより、学界ではアジア研究が再び傍流追いやられた側面もありました。本書は戦後日本における中国研究を、戦前との連続性は強いものの、中華人民共和国の成立という新たな事態を眼前にして研究の刷新が呼びかけられた東洋史、マルクス主義に基づいて現代中国研究と中国史研究の一体化を目指した中国研究(東洋史もマルクス主義の影響を大きく受けるようになりましたが)、独自の立場から両者を批判した竹内好など、アメリカ合衆国の研究手法を導入した現状分析を挙げます。本書は、戦後10年程、程度の差はあれ戦前への反省が共有されていたことなどから、この時点では相互の批判も抑制的だった、と指摘します。

 1955年頃以降、「国民的歴史学運動」の挫折や「昭和史論争」やスターリン批判などを経て、立場の相違に起因する対立や論争が激化していきます。マルクス主義を前提とする側でも、日本共産党と一線を画す「新左翼」が現れます。この時期の中国史研究でとくに問題となったのは、現実と学問との関係の位置づけ、日本における中国研究の意味といった立場性と、ヨーロッパを基準とした「近代主義」的歴史観への批判です。立場の相違に起因する対立や論争では、とくに文化大革命の影響が大きく、これをどう評価するかが立ち位置を大きく規定したところもありました。とくに積極的に文革を支持したことで知られるのは、安藤彦太郎です。一方、文革否定論の立場はさまざまで、日本共産党支持によるものや、現状分析からのものなどがあり、文革の評価をめぐる対立はきわめて深刻でした。ただ本書は、当時の日本で中国研究に直接的には関わらない人々の間では、文革はおおむね異常事態として批判的に評価されており、学生運動への毛沢東思想の影響はひじょうに小さかった、と指摘します。しかし、中国研究では文革支持派が勢力を有し、文革批判派を排除したばかりか、後に文革の実態が明らかになっても、文革支持派のほとんどは沈黙し、明確な総括はなされなかった、と本書は評価します。そのため、この時に排除された文革批判派の多くは、その後も長く被害者意識と(元)文革支持者に対する敵対感情を抱き続けた、というわけです。

 1972年、米中接近に伴って日本も中国への接近を加速し、同年9月には日本と中華人民共和国の国交が成立します。ここから1989年6月4日の天安門事件の頃までは、日中ともに双方への感情が良好でした。ただ、反帝国主義の観点に立っていた日本のマルクス主義系の中国研究者にとっては、根本的な立脚点の喪失を意味した、と本書は評価しています。この時期の中国史研究の大きな特徴は、中華人民共和国成立の衝撃による、共産党と毛沢東の勝利を必然とした中国近現代史観の偏りが批判され、中国共産党の歴史観で低く評価されたり軽視されていたりした事象、たとえば国民党や国民政府の研究の必要性が指摘されたことです。1980年代には、中国が自らの経済的後進性を認め、東側陣営全体の行き詰まりが明らかになっていく中で、中国研究に限らず学問全体でマルクス主義の影響力が急速に失われていきました。この時期には、文革以前に編集が開始されていた史料類の大量刊行の始まりにより、日本の中国研究は実証水準を上昇させるとともに、研究は細分化していきました。

 こうした日中の「蜜月関係」の時代を経て、1989年6月4日の天安門事件以降、日中関係の悪化が見られ、中国が経済的に急成長し、ついには日本を追い抜いて大きな差をつけたことで、日中の立ち位置が近代の大半とは異なる状況となります。天安門事件で中国政府が自国正当化のため独自性を持ち出したことで、一般では中国特殊論が強く主張されたこともありましたが、中国研究では、そうした中国特殊論を批判し、その普遍性を重視する見解が依然として有力でした。またこの時期には、台湾や華僑の研究も発展します。この時期には、中国共産党の体制教義的な歴史観とは大きく異なるような、中国共産党と農村との関係についての実証的研究も進みました。ただ、こうした中華人民共和国史の研究は、中国共産党の政治的正当性に直接的に関わるため、現実の政治情勢から強い影響を受けることになり、習近平政権下では研究への統制が強化され、研究環境は悪化したようです。それとも関連しているのでしょうが、日中関係の悪化とともに中国研究を志望する学生が減少していることも、大きな問題となっています。
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http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/353.html#c6

[近代史3] GHQ とユダヤ金融資本は戦後の日本を共産化しようとして農地改革、人為的インフレ生成、預金封鎖、日本国憲法制定を行った 中川隆
28. 中川隆[-12546] koaQ7Jey 2023年5月28日 14:00:06 : 3gN7OKNyzg : YW1mNWtKRGNDeWc=[9]
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雑記帳
2023年05月27日
小野寺史郎『戦後日本の中国観 アジアと近代をめぐる葛藤』
https://sicambre.seesaa.net/article/202305article_27.html

https://www.amazon.co.jp/%E6%88%A6%E5%BE%8C%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E4%B8%AD%E5%9B%BD%E8%A6%B3-%E3%82%A2%E3%82%B8%E3%82%A2%E3%81%A8%E8%BF%91%E4%BB%A3%E3%82%92%E3%82%81%E3%81%90%E3%82%8B%E8%91%9B%E8%97%A4-%E4%B8%AD%E5%85%AC%E9%81%B8%E6%9B%B8-122-%E5%B0%8F%E9%87%8E%E5%AF%BA-%E5%8F%B2%E9%83%8E/dp/4121101227


 中公選書の一冊として、中央公論新社より2021年11月に刊行されました。電子書籍での購入です。本書は、日本における中国予測がよく外れる要因として、中華人民共和国の不透明性ばかりではなく、日本社会の中国観も大きいのではないか、との認識から、近現代日本の中国観を検証します。日本の中国観は、その時の日中関係に大きく影響を受け、中国を実態以上に美化したり貶めたりしたのではないか、というわけです。確かに、日本社会の中国観には過大評価も過小評価もあり、適切な評価ができているのかとなると、かなり疑問ではあります。

 本書は、とくに第二次世界大戦後の日本における中国近現代史研究から、日本の研究者の中国観と論点を検証します。そのさい本書はまず、中国の問題が特殊的なのか他地域とも共通する普遍的なものなのか、という区分を採用します。近代日本の世界認識は大まかに、歴史学とも連動して日本と西洋と東洋(≒中国)という三区分に基づいており、日本と西洋の共通性(普遍性)および日本と東洋の相違性(中国の特殊性)を強調すると「脱亜論」に傾き、日本と東洋の文化的共通性を強調し、西洋「文明【当ブログでは原則として「文明」という用語を使いませんが、この記事では本書からの引用のさいに「文明」と表記します】」の普遍性を否定する立場では、「アジア主義」と親和的になります。ただ本書は、「脱亜論」にしても「アジア主義」にしても、戦前にはアジアにおいて日本が最も「開花」していたことを大前提としていた、と指摘します。

 次に本書は、時間軸による区分を取り上げます。現在に至る中国の歴史的な連続性を強調するか、近代以降の変化をより重視するのか、という観点です。後者については、アヘン戦争、ダイチン・グルン(大清帝国)末の近代化改革、辛亥革命、五四運動、国民党政権の成立、中華人民共和国の成立、改革開放政策の開始など、どれを画期としてより重視するのか、異なります。一般的に、中国の特殊性を重視する場合は中国の歴史的連続性を、中国の普遍的性格を強調する場合は近代以降の変化を重視する傾向が強くなっています。さらに本書は、日本における中国研究に、自国史である日本史(国史)および先進的な西洋に学ぶための西洋史研究との違いがあるのではないか、との観点を提示します。

 本書の主要な対象は二次世界大戦後の日本における中国近現代史研究ですが、その前提として、第二次世界大戦終結までの近代日本における中国観が概観されます。本書の指摘で重要と思われるのは、戦前の日本において主流はあくまでもヨーロッパ化で、東洋史やアジア主義の人々は本質的に非主流派であり、トップエリートに届かなかったか、「非常に変わり者」だった、ということです。そのため、戦前では日中間の問題について、中国を専門としない知識人やジャーナリストの発言機会も多かった、というわけです。大正年間から昭和初期にかけては知識層の間でマルクス主義が一気に強く浸透し、日本の中国観もマルクス主義の影響を強く受けます。もちろん、マルクス主義を前提とする知識層の間でも中国、さらには自国である日本の現状および歴史的過程の認識が異なることもありましたが、ともかく当時の知識層においてマルクス主義は「科学的」とされ、その知的権威は絶大なものでした。これが戦後の日本社会における中国観の重要な前提となります。

 戦後歴史学の特徴は、戦前の日本の国家や社会への批判と反省、西欧近代の理念への関心の高まり(近代主義)、マルクス主義に基づく発展法則の普遍的適用です。ただ本書は、「戦後歴史学」と「戦後中国史学」との間の微妙な違いも指摘します。戦後中国史学では、近代主義で強調された共同体から自立した個人の析出という問題への関心は強くなく、これは進んだ西欧と遅れたアジアという近代主義の構図への反発が強かったからでした。また、大日本帝国の崩壊により、日本とアジアとの直接的関係が弱まったことにより、学界ではアジア研究が再び傍流追いやられた側面もありました。本書は戦後日本における中国研究を、戦前との連続性は強いものの、中華人民共和国の成立という新たな事態を眼前にして研究の刷新が呼びかけられた東洋史、マルクス主義に基づいて現代中国研究と中国史研究の一体化を目指した中国研究(東洋史もマルクス主義の影響を大きく受けるようになりましたが)、独自の立場から両者を批判した竹内好など、アメリカ合衆国の研究手法を導入した現状分析を挙げます。本書は、戦後10年程、程度の差はあれ戦前への反省が共有されていたことなどから、この時点では相互の批判も抑制的だった、と指摘します。

 1955年頃以降、「国民的歴史学運動」の挫折や「昭和史論争」やスターリン批判などを経て、立場の相違に起因する対立や論争が激化していきます。マルクス主義を前提とする側でも、日本共産党と一線を画す「新左翼」が現れます。この時期の中国史研究でとくに問題となったのは、現実と学問との関係の位置づけ、日本における中国研究の意味といった立場性と、ヨーロッパを基準とした「近代主義」的歴史観への批判です。立場の相違に起因する対立や論争では、とくに文化大革命の影響が大きく、これをどう評価するかが立ち位置を大きく規定したところもありました。とくに積極的に文革を支持したことで知られるのは、安藤彦太郎です。一方、文革否定論の立場はさまざまで、日本共産党支持によるものや、現状分析からのものなどがあり、文革の評価をめぐる対立はきわめて深刻でした。ただ本書は、当時の日本で中国研究に直接的には関わらない人々の間では、文革はおおむね異常事態として批判的に評価されており、学生運動への毛沢東思想の影響はひじょうに小さかった、と指摘します。しかし、中国研究では文革支持派が勢力を有し、文革批判派を排除したばかりか、後に文革の実態が明らかになっても、文革支持派のほとんどは沈黙し、明確な総括はなされなかった、と本書は評価します。そのため、この時に排除された文革批判派の多くは、その後も長く被害者意識と(元)文革支持者に対する敵対感情を抱き続けた、というわけです。

 1972年、米中接近に伴って日本も中国への接近を加速し、同年9月には日本と中華人民共和国の国交が成立します。ここから1989年6月4日の天安門事件の頃までは、日中ともに双方への感情が良好でした。ただ、反帝国主義の観点に立っていた日本のマルクス主義系の中国研究者にとっては、根本的な立脚点の喪失を意味した、と本書は評価しています。この時期の中国史研究の大きな特徴は、中華人民共和国成立の衝撃による、共産党と毛沢東の勝利を必然とした中国近現代史観の偏りが批判され、中国共産党の歴史観で低く評価されたり軽視されていたりした事象、たとえば国民党や国民政府の研究の必要性が指摘されたことです。1980年代には、中国が自らの経済的後進性を認め、東側陣営全体の行き詰まりが明らかになっていく中で、中国研究に限らず学問全体でマルクス主義の影響力が急速に失われていきました。この時期には、文革以前に編集が開始されていた史料類の大量刊行の始まりにより、日本の中国研究は実証水準を上昇させるとともに、研究は細分化していきました。

 こうした日中の「蜜月関係」の時代を経て、1989年6月4日の天安門事件以降、日中関係の悪化が見られ、中国が経済的に急成長し、ついには日本を追い抜いて大きな差をつけたことで、日中の立ち位置が近代の大半とは異なる状況となります。天安門事件で中国政府が自国正当化のため独自性を持ち出したことで、一般では中国特殊論が強く主張されたこともありましたが、中国研究では、そうした中国特殊論を批判し、その普遍性を重視する見解が依然として有力でした。またこの時期には、台湾や華僑の研究も発展します。この時期には、中国共産党の体制教義的な歴史観とは大きく異なるような、中国共産党と農村との関係についての実証的研究も進みました。ただ、こうした中華人民共和国史の研究は、中国共産党の政治的正当性に直接的に関わるため、現実の政治情勢から強い影響を受けることになり、習近平政権下では研究への統制が強化され、研究環境は悪化したようです。それとも関連しているのでしょうが、日中関係の悪化とともに中国研究を志望する学生が減少していることも、大きな問題となっています。
https://sicambre.seesaa.net/article/202305article_27.html
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/146.html#c28

[近代史02] 中国最後の皇帝 毛沢東 _ 共産革命とは一体何であったのか? 中川隆
35. 中川隆[-12545] koaQ7Jey 2023年5月28日 14:02:44 : 3gN7OKNyzg : YW1mNWtKRGNDeWc=[10]
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雑記帳
2023年05月27日
小野寺史郎『戦後日本の中国観 アジアと近代をめぐる葛藤』
https://sicambre.seesaa.net/article/202305article_27.html

https://www.amazon.co.jp/%E6%88%A6%E5%BE%8C%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E4%B8%AD%E5%9B%BD%E8%A6%B3-%E3%82%A2%E3%82%B8%E3%82%A2%E3%81%A8%E8%BF%91%E4%BB%A3%E3%82%92%E3%82%81%E3%81%90%E3%82%8B%E8%91%9B%E8%97%A4-%E4%B8%AD%E5%85%AC%E9%81%B8%E6%9B%B8-122-%E5%B0%8F%E9%87%8E%E5%AF%BA-%E5%8F%B2%E9%83%8E/dp/4121101227


 中公選書の一冊として、中央公論新社より2021年11月に刊行されました。電子書籍での購入です。本書は、日本における中国予測がよく外れる要因として、中華人民共和国の不透明性ばかりではなく、日本社会の中国観も大きいのではないか、との認識から、近現代日本の中国観を検証します。日本の中国観は、その時の日中関係に大きく影響を受け、中国を実態以上に美化したり貶めたりしたのではないか、というわけです。確かに、日本社会の中国観には過大評価も過小評価もあり、適切な評価ができているのかとなると、かなり疑問ではあります。

 本書は、とくに第二次世界大戦後の日本における中国近現代史研究から、日本の研究者の中国観と論点を検証します。そのさい本書はまず、中国の問題が特殊的なのか他地域とも共通する普遍的なものなのか、という区分を採用します。近代日本の世界認識は大まかに、歴史学とも連動して日本と西洋と東洋(≒中国)という三区分に基づいており、日本と西洋の共通性(普遍性)および日本と東洋の相違性(中国の特殊性)を強調すると「脱亜論」に傾き、日本と東洋の文化的共通性を強調し、西洋「文明【当ブログでは原則として「文明」という用語を使いませんが、この記事では本書からの引用のさいに「文明」と表記します】」の普遍性を否定する立場では、「アジア主義」と親和的になります。ただ本書は、「脱亜論」にしても「アジア主義」にしても、戦前にはアジアにおいて日本が最も「開花」していたことを大前提としていた、と指摘します。

 次に本書は、時間軸による区分を取り上げます。現在に至る中国の歴史的な連続性を強調するか、近代以降の変化をより重視するのか、という観点です。後者については、アヘン戦争、ダイチン・グルン(大清帝国)末の近代化改革、辛亥革命、五四運動、国民党政権の成立、中華人民共和国の成立、改革開放政策の開始など、どれを画期としてより重視するのか、異なります。一般的に、中国の特殊性を重視する場合は中国の歴史的連続性を、中国の普遍的性格を強調する場合は近代以降の変化を重視する傾向が強くなっています。さらに本書は、日本における中国研究に、自国史である日本史(国史)および先進的な西洋に学ぶための西洋史研究との違いがあるのではないか、との観点を提示します。

 本書の主要な対象は二次世界大戦後の日本における中国近現代史研究ですが、その前提として、第二次世界大戦終結までの近代日本における中国観が概観されます。本書の指摘で重要と思われるのは、戦前の日本において主流はあくまでもヨーロッパ化で、東洋史やアジア主義の人々は本質的に非主流派であり、トップエリートに届かなかったか、「非常に変わり者」だった、ということです。そのため、戦前では日中間の問題について、中国を専門としない知識人やジャーナリストの発言機会も多かった、というわけです。大正年間から昭和初期にかけては知識層の間でマルクス主義が一気に強く浸透し、日本の中国観もマルクス主義の影響を強く受けます。もちろん、マルクス主義を前提とする知識層の間でも中国、さらには自国である日本の現状および歴史的過程の認識が異なることもありましたが、ともかく当時の知識層においてマルクス主義は「科学的」とされ、その知的権威は絶大なものでした。これが戦後の日本社会における中国観の重要な前提となります。

 戦後歴史学の特徴は、戦前の日本の国家や社会への批判と反省、西欧近代の理念への関心の高まり(近代主義)、マルクス主義に基づく発展法則の普遍的適用です。ただ本書は、「戦後歴史学」と「戦後中国史学」との間の微妙な違いも指摘します。戦後中国史学では、近代主義で強調された共同体から自立した個人の析出という問題への関心は強くなく、これは進んだ西欧と遅れたアジアという近代主義の構図への反発が強かったからでした。また、大日本帝国の崩壊により、日本とアジアとの直接的関係が弱まったことにより、学界ではアジア研究が再び傍流追いやられた側面もありました。本書は戦後日本における中国研究を、戦前との連続性は強いものの、中華人民共和国の成立という新たな事態を眼前にして研究の刷新が呼びかけられた東洋史、マルクス主義に基づいて現代中国研究と中国史研究の一体化を目指した中国研究(東洋史もマルクス主義の影響を大きく受けるようになりましたが)、独自の立場から両者を批判した竹内好など、アメリカ合衆国の研究手法を導入した現状分析を挙げます。本書は、戦後10年程、程度の差はあれ戦前への反省が共有されていたことなどから、この時点では相互の批判も抑制的だった、と指摘します。

 1955年頃以降、「国民的歴史学運動」の挫折や「昭和史論争」やスターリン批判などを経て、立場の相違に起因する対立や論争が激化していきます。マルクス主義を前提とする側でも、日本共産党と一線を画す「新左翼」が現れます。この時期の中国史研究でとくに問題となったのは、現実と学問との関係の位置づけ、日本における中国研究の意味といった立場性と、ヨーロッパを基準とした「近代主義」的歴史観への批判です。立場の相違に起因する対立や論争では、とくに文化大革命の影響が大きく、これをどう評価するかが立ち位置を大きく規定したところもありました。とくに積極的に文革を支持したことで知られるのは、安藤彦太郎です。一方、文革否定論の立場はさまざまで、日本共産党支持によるものや、現状分析からのものなどがあり、文革の評価をめぐる対立はきわめて深刻でした。ただ本書は、当時の日本で中国研究に直接的には関わらない人々の間では、文革はおおむね異常事態として批判的に評価されており、学生運動への毛沢東思想の影響はひじょうに小さかった、と指摘します。しかし、中国研究では文革支持派が勢力を有し、文革批判派を排除したばかりか、後に文革の実態が明らかになっても、文革支持派のほとんどは沈黙し、明確な総括はなされなかった、と本書は評価します。そのため、この時に排除された文革批判派の多くは、その後も長く被害者意識と(元)文革支持者に対する敵対感情を抱き続けた、というわけです。

 1972年、米中接近に伴って日本も中国への接近を加速し、同年9月には日本と中華人民共和国の国交が成立します。ここから1989年6月4日の天安門事件の頃までは、日中ともに双方への感情が良好でした。ただ、反帝国主義の観点に立っていた日本のマルクス主義系の中国研究者にとっては、根本的な立脚点の喪失を意味した、と本書は評価しています。この時期の中国史研究の大きな特徴は、中華人民共和国成立の衝撃による、共産党と毛沢東の勝利を必然とした中国近現代史観の偏りが批判され、中国共産党の歴史観で低く評価されたり軽視されていたりした事象、たとえば国民党や国民政府の研究の必要性が指摘されたことです。1980年代には、中国が自らの経済的後進性を認め、東側陣営全体の行き詰まりが明らかになっていく中で、中国研究に限らず学問全体でマルクス主義の影響力が急速に失われていきました。この時期には、文革以前に編集が開始されていた史料類の大量刊行の始まりにより、日本の中国研究は実証水準を上昇させるとともに、研究は細分化していきました。

 こうした日中の「蜜月関係」の時代を経て、1989年6月4日の天安門事件以降、日中関係の悪化が見られ、中国が経済的に急成長し、ついには日本を追い抜いて大きな差をつけたことで、日中の立ち位置が近代の大半とは異なる状況となります。天安門事件で中国政府が自国正当化のため独自性を持ち出したことで、一般では中国特殊論が強く主張されたこともありましたが、中国研究では、そうした中国特殊論を批判し、その普遍性を重視する見解が依然として有力でした。またこの時期には、台湾や華僑の研究も発展します。この時期には、中国共産党の体制教義的な歴史観とは大きく異なるような、中国共産党と農村との関係についての実証的研究も進みました。ただ、こうした中華人民共和国史の研究は、中国共産党の政治的正当性に直接的に関わるため、現実の政治情勢から強い影響を受けることになり、習近平政権下では研究への統制が強化され、研究環境は悪化したようです。それとも関連しているのでしょうが、日中関係の悪化とともに中国研究を志望する学生が減少していることも、大きな問題となっています。
https://sicambre.seesaa.net/article/202305article_27.html
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/537.html#c35

[近代史4] 関東軍の中枢は共産主義者の巣窟であった。 中川隆
5. 中川隆[-12544] koaQ7Jey 2023年5月28日 14:03:42 : 3gN7OKNyzg : YW1mNWtKRGNDeWc=[11]
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雑記帳
2023年05月27日
小野寺史郎『戦後日本の中国観 アジアと近代をめぐる葛藤』
https://sicambre.seesaa.net/article/202305article_27.html

https://www.amazon.co.jp/%E6%88%A6%E5%BE%8C%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E4%B8%AD%E5%9B%BD%E8%A6%B3-%E3%82%A2%E3%82%B8%E3%82%A2%E3%81%A8%E8%BF%91%E4%BB%A3%E3%82%92%E3%82%81%E3%81%90%E3%82%8B%E8%91%9B%E8%97%A4-%E4%B8%AD%E5%85%AC%E9%81%B8%E6%9B%B8-122-%E5%B0%8F%E9%87%8E%E5%AF%BA-%E5%8F%B2%E9%83%8E/dp/4121101227


 中公選書の一冊として、中央公論新社より2021年11月に刊行されました。電子書籍での購入です。本書は、日本における中国予測がよく外れる要因として、中華人民共和国の不透明性ばかりではなく、日本社会の中国観も大きいのではないか、との認識から、近現代日本の中国観を検証します。日本の中国観は、その時の日中関係に大きく影響を受け、中国を実態以上に美化したり貶めたりしたのではないか、というわけです。確かに、日本社会の中国観には過大評価も過小評価もあり、適切な評価ができているのかとなると、かなり疑問ではあります。

 本書は、とくに第二次世界大戦後の日本における中国近現代史研究から、日本の研究者の中国観と論点を検証します。そのさい本書はまず、中国の問題が特殊的なのか他地域とも共通する普遍的なものなのか、という区分を採用します。近代日本の世界認識は大まかに、歴史学とも連動して日本と西洋と東洋(≒中国)という三区分に基づいており、日本と西洋の共通性(普遍性)および日本と東洋の相違性(中国の特殊性)を強調すると「脱亜論」に傾き、日本と東洋の文化的共通性を強調し、西洋「文明【当ブログでは原則として「文明」という用語を使いませんが、この記事では本書からの引用のさいに「文明」と表記します】」の普遍性を否定する立場では、「アジア主義」と親和的になります。ただ本書は、「脱亜論」にしても「アジア主義」にしても、戦前にはアジアにおいて日本が最も「開花」していたことを大前提としていた、と指摘します。

 次に本書は、時間軸による区分を取り上げます。現在に至る中国の歴史的な連続性を強調するか、近代以降の変化をより重視するのか、という観点です。後者については、アヘン戦争、ダイチン・グルン(大清帝国)末の近代化改革、辛亥革命、五四運動、国民党政権の成立、中華人民共和国の成立、改革開放政策の開始など、どれを画期としてより重視するのか、異なります。一般的に、中国の特殊性を重視する場合は中国の歴史的連続性を、中国の普遍的性格を強調する場合は近代以降の変化を重視する傾向が強くなっています。さらに本書は、日本における中国研究に、自国史である日本史(国史)および先進的な西洋に学ぶための西洋史研究との違いがあるのではないか、との観点を提示します。

 本書の主要な対象は二次世界大戦後の日本における中国近現代史研究ですが、その前提として、第二次世界大戦終結までの近代日本における中国観が概観されます。本書の指摘で重要と思われるのは、戦前の日本において主流はあくまでもヨーロッパ化で、東洋史やアジア主義の人々は本質的に非主流派であり、トップエリートに届かなかったか、「非常に変わり者」だった、ということです。そのため、戦前では日中間の問題について、中国を専門としない知識人やジャーナリストの発言機会も多かった、というわけです。大正年間から昭和初期にかけては知識層の間でマルクス主義が一気に強く浸透し、日本の中国観もマルクス主義の影響を強く受けます。もちろん、マルクス主義を前提とする知識層の間でも中国、さらには自国である日本の現状および歴史的過程の認識が異なることもありましたが、ともかく当時の知識層においてマルクス主義は「科学的」とされ、その知的権威は絶大なものでした。これが戦後の日本社会における中国観の重要な前提となります。

 戦後歴史学の特徴は、戦前の日本の国家や社会への批判と反省、西欧近代の理念への関心の高まり(近代主義)、マルクス主義に基づく発展法則の普遍的適用です。ただ本書は、「戦後歴史学」と「戦後中国史学」との間の微妙な違いも指摘します。戦後中国史学では、近代主義で強調された共同体から自立した個人の析出という問題への関心は強くなく、これは進んだ西欧と遅れたアジアという近代主義の構図への反発が強かったからでした。また、大日本帝国の崩壊により、日本とアジアとの直接的関係が弱まったことにより、学界ではアジア研究が再び傍流追いやられた側面もありました。本書は戦後日本における中国研究を、戦前との連続性は強いものの、中華人民共和国の成立という新たな事態を眼前にして研究の刷新が呼びかけられた東洋史、マルクス主義に基づいて現代中国研究と中国史研究の一体化を目指した中国研究(東洋史もマルクス主義の影響を大きく受けるようになりましたが)、独自の立場から両者を批判した竹内好など、アメリカ合衆国の研究手法を導入した現状分析を挙げます。本書は、戦後10年程、程度の差はあれ戦前への反省が共有されていたことなどから、この時点では相互の批判も抑制的だった、と指摘します。

 1955年頃以降、「国民的歴史学運動」の挫折や「昭和史論争」やスターリン批判などを経て、立場の相違に起因する対立や論争が激化していきます。マルクス主義を前提とする側でも、日本共産党と一線を画す「新左翼」が現れます。この時期の中国史研究でとくに問題となったのは、現実と学問との関係の位置づけ、日本における中国研究の意味といった立場性と、ヨーロッパを基準とした「近代主義」的歴史観への批判です。立場の相違に起因する対立や論争では、とくに文化大革命の影響が大きく、これをどう評価するかが立ち位置を大きく規定したところもありました。とくに積極的に文革を支持したことで知られるのは、安藤彦太郎です。一方、文革否定論の立場はさまざまで、日本共産党支持によるものや、現状分析からのものなどがあり、文革の評価をめぐる対立はきわめて深刻でした。ただ本書は、当時の日本で中国研究に直接的には関わらない人々の間では、文革はおおむね異常事態として批判的に評価されており、学生運動への毛沢東思想の影響はひじょうに小さかった、と指摘します。しかし、中国研究では文革支持派が勢力を有し、文革批判派を排除したばかりか、後に文革の実態が明らかになっても、文革支持派のほとんどは沈黙し、明確な総括はなされなかった、と本書は評価します。そのため、この時に排除された文革批判派の多くは、その後も長く被害者意識と(元)文革支持者に対する敵対感情を抱き続けた、というわけです。

 1972年、米中接近に伴って日本も中国への接近を加速し、同年9月には日本と中華人民共和国の国交が成立します。ここから1989年6月4日の天安門事件の頃までは、日中ともに双方への感情が良好でした。ただ、反帝国主義の観点に立っていた日本のマルクス主義系の中国研究者にとっては、根本的な立脚点の喪失を意味した、と本書は評価しています。この時期の中国史研究の大きな特徴は、中華人民共和国成立の衝撃による、共産党と毛沢東の勝利を必然とした中国近現代史観の偏りが批判され、中国共産党の歴史観で低く評価されたり軽視されていたりした事象、たとえば国民党や国民政府の研究の必要性が指摘されたことです。1980年代には、中国が自らの経済的後進性を認め、東側陣営全体の行き詰まりが明らかになっていく中で、中国研究に限らず学問全体でマルクス主義の影響力が急速に失われていきました。この時期には、文革以前に編集が開始されていた史料類の大量刊行の始まりにより、日本の中国研究は実証水準を上昇させるとともに、研究は細分化していきました。

 こうした日中の「蜜月関係」の時代を経て、1989年6月4日の天安門事件以降、日中関係の悪化が見られ、中国が経済的に急成長し、ついには日本を追い抜いて大きな差をつけたことで、日中の立ち位置が近代の大半とは異なる状況となります。天安門事件で中国政府が自国正当化のため独自性を持ち出したことで、一般では中国特殊論が強く主張されたこともありましたが、中国研究では、そうした中国特殊論を批判し、その普遍性を重視する見解が依然として有力でした。またこの時期には、台湾や華僑の研究も発展します。この時期には、中国共産党の体制教義的な歴史観とは大きく異なるような、中国共産党と農村との関係についての実証的研究も進みました。ただ、こうした中華人民共和国史の研究は、中国共産党の政治的正当性に直接的に関わるため、現実の政治情勢から強い影響を受けることになり、習近平政権下では研究への統制が強化され、研究環境は悪化したようです。それとも関連しているのでしょうが、日中関係の悪化とともに中国研究を志望する学生が減少していることも、大きな問題となっています。
https://sicambre.seesaa.net/article/202305article_27.html
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/1055.html#c5

[近代史4] 近衛上奏文 中川隆
8. 中川隆[-12543] koaQ7Jey 2023年5月28日 14:04:03 : 3gN7OKNyzg : YW1mNWtKRGNDeWc=[12]
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雑記帳
2023年05月27日
小野寺史郎『戦後日本の中国観 アジアと近代をめぐる葛藤』
https://sicambre.seesaa.net/article/202305article_27.html

https://www.amazon.co.jp/%E6%88%A6%E5%BE%8C%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E4%B8%AD%E5%9B%BD%E8%A6%B3-%E3%82%A2%E3%82%B8%E3%82%A2%E3%81%A8%E8%BF%91%E4%BB%A3%E3%82%92%E3%82%81%E3%81%90%E3%82%8B%E8%91%9B%E8%97%A4-%E4%B8%AD%E5%85%AC%E9%81%B8%E6%9B%B8-122-%E5%B0%8F%E9%87%8E%E5%AF%BA-%E5%8F%B2%E9%83%8E/dp/4121101227


 中公選書の一冊として、中央公論新社より2021年11月に刊行されました。電子書籍での購入です。本書は、日本における中国予測がよく外れる要因として、中華人民共和国の不透明性ばかりではなく、日本社会の中国観も大きいのではないか、との認識から、近現代日本の中国観を検証します。日本の中国観は、その時の日中関係に大きく影響を受け、中国を実態以上に美化したり貶めたりしたのではないか、というわけです。確かに、日本社会の中国観には過大評価も過小評価もあり、適切な評価ができているのかとなると、かなり疑問ではあります。

 本書は、とくに第二次世界大戦後の日本における中国近現代史研究から、日本の研究者の中国観と論点を検証します。そのさい本書はまず、中国の問題が特殊的なのか他地域とも共通する普遍的なものなのか、という区分を採用します。近代日本の世界認識は大まかに、歴史学とも連動して日本と西洋と東洋(≒中国)という三区分に基づいており、日本と西洋の共通性(普遍性)および日本と東洋の相違性(中国の特殊性)を強調すると「脱亜論」に傾き、日本と東洋の文化的共通性を強調し、西洋「文明【当ブログでは原則として「文明」という用語を使いませんが、この記事では本書からの引用のさいに「文明」と表記します】」の普遍性を否定する立場では、「アジア主義」と親和的になります。ただ本書は、「脱亜論」にしても「アジア主義」にしても、戦前にはアジアにおいて日本が最も「開花」していたことを大前提としていた、と指摘します。

 次に本書は、時間軸による区分を取り上げます。現在に至る中国の歴史的な連続性を強調するか、近代以降の変化をより重視するのか、という観点です。後者については、アヘン戦争、ダイチン・グルン(大清帝国)末の近代化改革、辛亥革命、五四運動、国民党政権の成立、中華人民共和国の成立、改革開放政策の開始など、どれを画期としてより重視するのか、異なります。一般的に、中国の特殊性を重視する場合は中国の歴史的連続性を、中国の普遍的性格を強調する場合は近代以降の変化を重視する傾向が強くなっています。さらに本書は、日本における中国研究に、自国史である日本史(国史)および先進的な西洋に学ぶための西洋史研究との違いがあるのではないか、との観点を提示します。

 本書の主要な対象は二次世界大戦後の日本における中国近現代史研究ですが、その前提として、第二次世界大戦終結までの近代日本における中国観が概観されます。本書の指摘で重要と思われるのは、戦前の日本において主流はあくまでもヨーロッパ化で、東洋史やアジア主義の人々は本質的に非主流派であり、トップエリートに届かなかったか、「非常に変わり者」だった、ということです。そのため、戦前では日中間の問題について、中国を専門としない知識人やジャーナリストの発言機会も多かった、というわけです。大正年間から昭和初期にかけては知識層の間でマルクス主義が一気に強く浸透し、日本の中国観もマルクス主義の影響を強く受けます。もちろん、マルクス主義を前提とする知識層の間でも中国、さらには自国である日本の現状および歴史的過程の認識が異なることもありましたが、ともかく当時の知識層においてマルクス主義は「科学的」とされ、その知的権威は絶大なものでした。これが戦後の日本社会における中国観の重要な前提となります。

 戦後歴史学の特徴は、戦前の日本の国家や社会への批判と反省、西欧近代の理念への関心の高まり(近代主義)、マルクス主義に基づく発展法則の普遍的適用です。ただ本書は、「戦後歴史学」と「戦後中国史学」との間の微妙な違いも指摘します。戦後中国史学では、近代主義で強調された共同体から自立した個人の析出という問題への関心は強くなく、これは進んだ西欧と遅れたアジアという近代主義の構図への反発が強かったからでした。また、大日本帝国の崩壊により、日本とアジアとの直接的関係が弱まったことにより、学界ではアジア研究が再び傍流追いやられた側面もありました。本書は戦後日本における中国研究を、戦前との連続性は強いものの、中華人民共和国の成立という新たな事態を眼前にして研究の刷新が呼びかけられた東洋史、マルクス主義に基づいて現代中国研究と中国史研究の一体化を目指した中国研究(東洋史もマルクス主義の影響を大きく受けるようになりましたが)、独自の立場から両者を批判した竹内好など、アメリカ合衆国の研究手法を導入した現状分析を挙げます。本書は、戦後10年程、程度の差はあれ戦前への反省が共有されていたことなどから、この時点では相互の批判も抑制的だった、と指摘します。

 1955年頃以降、「国民的歴史学運動」の挫折や「昭和史論争」やスターリン批判などを経て、立場の相違に起因する対立や論争が激化していきます。マルクス主義を前提とする側でも、日本共産党と一線を画す「新左翼」が現れます。この時期の中国史研究でとくに問題となったのは、現実と学問との関係の位置づけ、日本における中国研究の意味といった立場性と、ヨーロッパを基準とした「近代主義」的歴史観への批判です。立場の相違に起因する対立や論争では、とくに文化大革命の影響が大きく、これをどう評価するかが立ち位置を大きく規定したところもありました。とくに積極的に文革を支持したことで知られるのは、安藤彦太郎です。一方、文革否定論の立場はさまざまで、日本共産党支持によるものや、現状分析からのものなどがあり、文革の評価をめぐる対立はきわめて深刻でした。ただ本書は、当時の日本で中国研究に直接的には関わらない人々の間では、文革はおおむね異常事態として批判的に評価されており、学生運動への毛沢東思想の影響はひじょうに小さかった、と指摘します。しかし、中国研究では文革支持派が勢力を有し、文革批判派を排除したばかりか、後に文革の実態が明らかになっても、文革支持派のほとんどは沈黙し、明確な総括はなされなかった、と本書は評価します。そのため、この時に排除された文革批判派の多くは、その後も長く被害者意識と(元)文革支持者に対する敵対感情を抱き続けた、というわけです。

 1972年、米中接近に伴って日本も中国への接近を加速し、同年9月には日本と中華人民共和国の国交が成立します。ここから1989年6月4日の天安門事件の頃までは、日中ともに双方への感情が良好でした。ただ、反帝国主義の観点に立っていた日本のマルクス主義系の中国研究者にとっては、根本的な立脚点の喪失を意味した、と本書は評価しています。この時期の中国史研究の大きな特徴は、中華人民共和国成立の衝撃による、共産党と毛沢東の勝利を必然とした中国近現代史観の偏りが批判され、中国共産党の歴史観で低く評価されたり軽視されていたりした事象、たとえば国民党や国民政府の研究の必要性が指摘されたことです。1980年代には、中国が自らの経済的後進性を認め、東側陣営全体の行き詰まりが明らかになっていく中で、中国研究に限らず学問全体でマルクス主義の影響力が急速に失われていきました。この時期には、文革以前に編集が開始されていた史料類の大量刊行の始まりにより、日本の中国研究は実証水準を上昇させるとともに、研究は細分化していきました。

 こうした日中の「蜜月関係」の時代を経て、1989年6月4日の天安門事件以降、日中関係の悪化が見られ、中国が経済的に急成長し、ついには日本を追い抜いて大きな差をつけたことで、日中の立ち位置が近代の大半とは異なる状況となります。天安門事件で中国政府が自国正当化のため独自性を持ち出したことで、一般では中国特殊論が強く主張されたこともありましたが、中国研究では、そうした中国特殊論を批判し、その普遍性を重視する見解が依然として有力でした。またこの時期には、台湾や華僑の研究も発展します。この時期には、中国共産党の体制教義的な歴史観とは大きく異なるような、中国共産党と農村との関係についての実証的研究も進みました。ただ、こうした中華人民共和国史の研究は、中国共産党の政治的正当性に直接的に関わるため、現実の政治情勢から強い影響を受けることになり、習近平政権下では研究への統制が強化され、研究環境は悪化したようです。それとも関連しているのでしょうが、日中関係の悪化とともに中国研究を志望する学生が減少していることも、大きな問題となっています。
https://sicambre.seesaa.net/article/202305article_27.html
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/1126.html#c8

[近代史3] 昭和天皇を震え上がらせた共産主義の恐怖とは 中川隆
6. 中川隆[-12542] koaQ7Jey 2023年5月28日 14:04:31 : 3gN7OKNyzg : YW1mNWtKRGNDeWc=[13]
<■133行くらい→右の▽クリックで次のコメントにジャンプ可>
雑記帳
2023年05月27日
小野寺史郎『戦後日本の中国観 アジアと近代をめぐる葛藤』
https://sicambre.seesaa.net/article/202305article_27.html

https://www.amazon.co.jp/%E6%88%A6%E5%BE%8C%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E4%B8%AD%E5%9B%BD%E8%A6%B3-%E3%82%A2%E3%82%B8%E3%82%A2%E3%81%A8%E8%BF%91%E4%BB%A3%E3%82%92%E3%82%81%E3%81%90%E3%82%8B%E8%91%9B%E8%97%A4-%E4%B8%AD%E5%85%AC%E9%81%B8%E6%9B%B8-122-%E5%B0%8F%E9%87%8E%E5%AF%BA-%E5%8F%B2%E9%83%8E/dp/4121101227


 中公選書の一冊として、中央公論新社より2021年11月に刊行されました。電子書籍での購入です。本書は、日本における中国予測がよく外れる要因として、中華人民共和国の不透明性ばかりではなく、日本社会の中国観も大きいのではないか、との認識から、近現代日本の中国観を検証します。日本の中国観は、その時の日中関係に大きく影響を受け、中国を実態以上に美化したり貶めたりしたのではないか、というわけです。確かに、日本社会の中国観には過大評価も過小評価もあり、適切な評価ができているのかとなると、かなり疑問ではあります。

 本書は、とくに第二次世界大戦後の日本における中国近現代史研究から、日本の研究者の中国観と論点を検証します。そのさい本書はまず、中国の問題が特殊的なのか他地域とも共通する普遍的なものなのか、という区分を採用します。近代日本の世界認識は大まかに、歴史学とも連動して日本と西洋と東洋(≒中国)という三区分に基づいており、日本と西洋の共通性(普遍性)および日本と東洋の相違性(中国の特殊性)を強調すると「脱亜論」に傾き、日本と東洋の文化的共通性を強調し、西洋「文明【当ブログでは原則として「文明」という用語を使いませんが、この記事では本書からの引用のさいに「文明」と表記します】」の普遍性を否定する立場では、「アジア主義」と親和的になります。ただ本書は、「脱亜論」にしても「アジア主義」にしても、戦前にはアジアにおいて日本が最も「開花」していたことを大前提としていた、と指摘します。

 次に本書は、時間軸による区分を取り上げます。現在に至る中国の歴史的な連続性を強調するか、近代以降の変化をより重視するのか、という観点です。後者については、アヘン戦争、ダイチン・グルン(大清帝国)末の近代化改革、辛亥革命、五四運動、国民党政権の成立、中華人民共和国の成立、改革開放政策の開始など、どれを画期としてより重視するのか、異なります。一般的に、中国の特殊性を重視する場合は中国の歴史的連続性を、中国の普遍的性格を強調する場合は近代以降の変化を重視する傾向が強くなっています。さらに本書は、日本における中国研究に、自国史である日本史(国史)および先進的な西洋に学ぶための西洋史研究との違いがあるのではないか、との観点を提示します。

 本書の主要な対象は二次世界大戦後の日本における中国近現代史研究ですが、その前提として、第二次世界大戦終結までの近代日本における中国観が概観されます。本書の指摘で重要と思われるのは、戦前の日本において主流はあくまでもヨーロッパ化で、東洋史やアジア主義の人々は本質的に非主流派であり、トップエリートに届かなかったか、「非常に変わり者」だった、ということです。そのため、戦前では日中間の問題について、中国を専門としない知識人やジャーナリストの発言機会も多かった、というわけです。大正年間から昭和初期にかけては知識層の間でマルクス主義が一気に強く浸透し、日本の中国観もマルクス主義の影響を強く受けます。もちろん、マルクス主義を前提とする知識層の間でも中国、さらには自国である日本の現状および歴史的過程の認識が異なることもありましたが、ともかく当時の知識層においてマルクス主義は「科学的」とされ、その知的権威は絶大なものでした。これが戦後の日本社会における中国観の重要な前提となります。

 戦後歴史学の特徴は、戦前の日本の国家や社会への批判と反省、西欧近代の理念への関心の高まり(近代主義)、マルクス主義に基づく発展法則の普遍的適用です。ただ本書は、「戦後歴史学」と「戦後中国史学」との間の微妙な違いも指摘します。戦後中国史学では、近代主義で強調された共同体から自立した個人の析出という問題への関心は強くなく、これは進んだ西欧と遅れたアジアという近代主義の構図への反発が強かったからでした。また、大日本帝国の崩壊により、日本とアジアとの直接的関係が弱まったことにより、学界ではアジア研究が再び傍流追いやられた側面もありました。本書は戦後日本における中国研究を、戦前との連続性は強いものの、中華人民共和国の成立という新たな事態を眼前にして研究の刷新が呼びかけられた東洋史、マルクス主義に基づいて現代中国研究と中国史研究の一体化を目指した中国研究(東洋史もマルクス主義の影響を大きく受けるようになりましたが)、独自の立場から両者を批判した竹内好など、アメリカ合衆国の研究手法を導入した現状分析を挙げます。本書は、戦後10年程、程度の差はあれ戦前への反省が共有されていたことなどから、この時点では相互の批判も抑制的だった、と指摘します。

 1955年頃以降、「国民的歴史学運動」の挫折や「昭和史論争」やスターリン批判などを経て、立場の相違に起因する対立や論争が激化していきます。マルクス主義を前提とする側でも、日本共産党と一線を画す「新左翼」が現れます。この時期の中国史研究でとくに問題となったのは、現実と学問との関係の位置づけ、日本における中国研究の意味といった立場性と、ヨーロッパを基準とした「近代主義」的歴史観への批判です。立場の相違に起因する対立や論争では、とくに文化大革命の影響が大きく、これをどう評価するかが立ち位置を大きく規定したところもありました。とくに積極的に文革を支持したことで知られるのは、安藤彦太郎です。一方、文革否定論の立場はさまざまで、日本共産党支持によるものや、現状分析からのものなどがあり、文革の評価をめぐる対立はきわめて深刻でした。ただ本書は、当時の日本で中国研究に直接的には関わらない人々の間では、文革はおおむね異常事態として批判的に評価されており、学生運動への毛沢東思想の影響はひじょうに小さかった、と指摘します。しかし、中国研究では文革支持派が勢力を有し、文革批判派を排除したばかりか、後に文革の実態が明らかになっても、文革支持派のほとんどは沈黙し、明確な総括はなされなかった、と本書は評価します。そのため、この時に排除された文革批判派の多くは、その後も長く被害者意識と(元)文革支持者に対する敵対感情を抱き続けた、というわけです。

 1972年、米中接近に伴って日本も中国への接近を加速し、同年9月には日本と中華人民共和国の国交が成立します。ここから1989年6月4日の天安門事件の頃までは、日中ともに双方への感情が良好でした。ただ、反帝国主義の観点に立っていた日本のマルクス主義系の中国研究者にとっては、根本的な立脚点の喪失を意味した、と本書は評価しています。この時期の中国史研究の大きな特徴は、中華人民共和国成立の衝撃による、共産党と毛沢東の勝利を必然とした中国近現代史観の偏りが批判され、中国共産党の歴史観で低く評価されたり軽視されていたりした事象、たとえば国民党や国民政府の研究の必要性が指摘されたことです。1980年代には、中国が自らの経済的後進性を認め、東側陣営全体の行き詰まりが明らかになっていく中で、中国研究に限らず学問全体でマルクス主義の影響力が急速に失われていきました。この時期には、文革以前に編集が開始されていた史料類の大量刊行の始まりにより、日本の中国研究は実証水準を上昇させるとともに、研究は細分化していきました。

 こうした日中の「蜜月関係」の時代を経て、1989年6月4日の天安門事件以降、日中関係の悪化が見られ、中国が経済的に急成長し、ついには日本を追い抜いて大きな差をつけたことで、日中の立ち位置が近代の大半とは異なる状況となります。天安門事件で中国政府が自国正当化のため独自性を持ち出したことで、一般では中国特殊論が強く主張されたこともありましたが、中国研究では、そうした中国特殊論を批判し、その普遍性を重視する見解が依然として有力でした。またこの時期には、台湾や華僑の研究も発展します。この時期には、中国共産党の体制教義的な歴史観とは大きく異なるような、中国共産党と農村との関係についての実証的研究も進みました。ただ、こうした中華人民共和国史の研究は、中国共産党の政治的正当性に直接的に関わるため、現実の政治情勢から強い影響を受けることになり、習近平政権下では研究への統制が強化され、研究環境は悪化したようです。それとも関連しているのでしょうが、日中関係の悪化とともに中国研究を志望する学生が減少していることも、大きな問題となっています。
https://sicambre.seesaa.net/article/202305article_27.html
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/754.html#c6

   

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