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[番外地8] 近代日本文学では川端康成と谷崎潤一郎が最高の天才 中川隆
2. 2021年9月20日 04:29:39 : 6C6SEMfD1k : YnZQeFh4aHV2cS4=[1]
ロシア文学ではプーシキン、トルストイ、ドストエフスキーとチェーホフが最高の天才
ドイツ文学ではゲーテとカフカが最高の天才
フランス文学ではボードレールとプルーストが最高の天才
イタリア文学ではダンテが最高の天才
ギリシャ文学ではホメロスとソフォクレスが最高の天才
イギリス文学ではシェークスピとジェイムズ・ジョイスが最高の天才
アメリカ文学ではエドガー・アラン・ポーが最高の天才
日本文学では柿本人麻呂、紫式部、世阿弥と松尾芭蕉が最高の天才
近代日本文学では川端康成と谷崎潤一郎が最高の天才

そういう天才と比べると三島由紀夫はどうしようもない無能な三流作家だ
http://www.asyura2.com/20/ban8/msg/920.html#c2

[番外地8] 近代日本文学では川端康成と谷崎潤一郎が最高の天才 中川隆
3. 中川隆[-16268] koaQ7Jey 2021年9月20日 05:14:58 : 6C6SEMfD1k : YnZQeFh4aHV2cS4=[2]
​ @加藤鯖ト
ロシア文学ではプーシキン、トルストイ、ドストエフスキーとチェーホフが最高の天才
ドイツ文学ではゲーテ、カフカとローベルト・ムージルが最高の天才
フランス文学ではボードレール、マラルメ、ランボー、スタンダールとマルセル・プルーストが最高の天才
イタリア文学ではダンテが最高の天才
ギリシャ文学ではホメロスとソフォクレスが最高の天才
イギリス文学ではシェークスピとジェイムズ・ジョイスが最高の天才
アメリカ文学ではエドガー・アラン・ポーが最高の天才
日本文学では柿本人麻呂、紫式部、世阿弥と松尾芭蕉が最高の天才
近代日本文学では宮沢賢治、石川啄木、中原中也、川端康成と谷崎潤一郎が最高の天才

そういう天才と比べると三島由紀夫はどうしようもない無能な三流作家だ
http://www.asyura2.com/20/ban8/msg/920.html#c3

[番外地8] 近代日本文学では川端康成と谷崎潤一郎が最高の天才 中川隆
4. 中川隆[-16267] koaQ7Jey 2021年9月20日 05:16:57 : 6C6SEMfD1k : YnZQeFh4aHV2cS4=[3]
ロシア文学ではプーシキン、トルストイ、ドストエフスキーとチェーホフが最高の天才
ドイツ文学ではゲーテ、カフカとローベルト・ムージルが最高の天才
フランス文学ではボードレール、マラルメ、ランボー、スタンダールとマルセル・プルーストが最高の天才
イタリア文学ではダンテが最高の天才
ギリシャ文学ではホメロスとソフォクレスが最高の天才
イギリス文学ではシェークスピとジェイムズ・ジョイスが最高の天才
アメリカ文学ではエドガー・アラン・ポーが最高の天才
日本文学では柿本人麻呂、紫式部、世阿弥と松尾芭蕉が最高の天才
近代日本文学では宮沢賢治、石川啄木、中原中也、川端康成、太宰治と谷崎潤一郎が最高の天才

そういう天才と比べると三島由紀夫はどうしようもない無能な三流小説屋だ
http://www.asyura2.com/20/ban8/msg/920.html#c4

[番外地9] 旭川市の女子中学生いじめ疑いで遺族が「名誉棄損」を訴え SNS投稿を開示請求 中川隆
3. 中川隆[-16266] koaQ7Jey 2021年9月20日 05:43:26 : 6C6SEMfD1k : YnZQeFh4aHV2cS4=[4]
>旭川市の女子中学生いじめ疑いで遺族が「名誉棄損」を訴え SNS投稿を開示請求

そもそもどんな名誉棄損のデマでも 7割は真実で残りの3割だけが尾ひれです。
旭川少女凍死事件では学校も教育委員会も警察も、そのデマのかなりの部分は真実だと判断していました。
自殺未遂事件では警察は爽彩さんと母親の関係が原因だと判断して、爽彩さんを精神病院に二か月も入院させて母親とは会わせませんでした。
失踪・凍死事件では警察は爽彩さんと母親の喧嘩が原因の家出だと判断して、初期捜査を殆ど行いませんでした。
そもそも警察は自殺未遂事件で爽彩さんが退院して以降は、爽彩さんを毎月呼び出して、母親との関係、覚醒剤使用の有無等を聞いていた様です。 従って警察は爽彩さんの病状や家庭の状況を完全に把握した上で、失踪・凍死事件は爽彩さんと母親の喧嘩が原因の家出だと判断したのです。

爽彩さんは精神病院に二か月も入院させられていたので、唯のパニック障害なら、退院後も病院でカウンセリングを受けるのが普通ですが、病院ではなく警察に毎月呼び出したというのは、警察は爽彩さんのパニック障害はイジメが原因ではなく、家庭環境や覚醒剤障害が原因だと判断していた可能性が高いのです。

校長や教頭、担任、教育委員会も失踪・凍死事件は中学でのイジメが原因ではなく、家庭の問題だと何度も指摘しています。
第三者委員会のメンバーの大半が精神科医や心理学者で、加害者への聞き取り調査を一切していないのも、旭川少女凍死事件は中学でのイジメが原因ではなく、家庭の問題だと判断しているからです。

▲△▽▼

#282 2021/05/20 08:15
担任の菅野未里先生がこの噂を信じていたのは間違いないみたい
知人とのLINEで「デートと言って断ってやったわ」「子供ほったらかしてる分際で」と送信してる

▲△▽▼

旭川の人々の本心は

『少女が勝手に自分の画像を男子に送り騒いでる』
『彼女の家はモンスターペアレント』
『いじめではなく性的いじりなのに騒いでる』
『橋の上で男子生徒と揉めて、勝手に身投げした』
『2年前の話でしっかり謝罪した』
『彼女が自殺したのは家庭の問題』
『いじめと自殺は関係ない』

朝日新聞も同様の書き方していた
これが旭川の多くの人々の認識
だから2年前の謝罪で終わってるのに犯人扱いされて、未成年なのに家族まで特定されて『名誉毀損』

ほぼこれ

▲△▽▼

因みに、上に書いたのは警察や学校関係者、旭川の一般人がどう判断しているかという事で、真実は誰にもわかりません。
爽彩さんの母親は、爽彩さんは自殺で間違い無い、掲示板や youtube の名探偵さんの話はすべて間違いだ、と繰り返し何度も言っています。

何故か、爽彩さんの母親は爽彩さんの遺体の発見場所の公開をストップさせ、凍死体をどうやって公園に運んだかをわからなくさせました。トイレの裏側の遺体発見場所では、その場所だけ雪が人工的に 1.5mも 積み上げられていたのがわかっています。
爽彩さんの母親は爽彩さんの失踪当日は氷点下17℃の極寒日だった、被害者が自殺したのは間違い無い、吉田は犯人じゃない、といった明らかに間違ったデマを多数発言して、事件に関心を持った人をすべて混乱させ、何が本当か判断できなくしました。

被害者の母親は事件を矮小化しようと必死でデマを拡散しています。

・被害者の母親は爽彩さんの遺体が発見された場所を公開しないでくれと警察に頼んだ

トイレの裏側の遺体発見場所では、その場所だけ雪が人工的に 1.5mも 積み上げられていたのがわかっています。
その事実が明らかにされると他殺だとわかってしまうので、遺体が発見された場所の公開を止めさせたとしか思えません。

「ここ」をわかられると、以下のような疑問がわく

向かいの住宅の通報なので、近所には知れていますし
事件捜査時点で、トイレわきの水場石垣にブルーシートがかけられたので、犯人のみ知るじじつだからというのは「いいわけ」です。
場所の隠蔽、15〜20の天気気温の隠蔽はKが
でもね、ニュースで最初に現場がでてるしね

#22 2021/06/15 00:40
トイレの近くにブルーシートがあったらしいよ
水路からひきあげて置いたかも?

#33 2021/06/29 22:24
そもそも、向かいの住宅から、遺体の一部が見えたから通報したんですよ
ですから、もうそれだけで場所はトイレわきの水路あたりのエリアしかないの。
住宅地がそこだけだから。
車道にも近いし
youtube.com
の天気見ればわかるけど、こんな状態で1ケ月も雪の中でしたなんてありえんのよ
まあ、発見の前日が雪ね(逆に)

で、警察は事件性を否定しないとやばいから、
そこを突かれないおうに土管のなかみたいなリークをしたの。
もう仕組まれてんのよ。

4月22日HTB北海道ニュース
この事件の最初の報道で映されたのは、水路の終点。トイレの建物から10数m離れた個所。花束が水路の石垣の
どこかに置かれてるのも映ってる。

もりりん、ここから360度撮影と、石の場所特定して。
あと、土管との位置関係と、公園の全体との位置関係、道路からの位置関係。行き倒れに不自然ないか、車で運んだっぽいのか。

_______

つまり、遺体の置かれていたのが道路のすぐ近くで人家から良く見える所だとわかると、自殺ではない事がわかってしまうので、遺体発見場所を公開させないのです。

遺体が土管の中で見つかったとすると自殺だと判断されます。
雪上は足跡が付くので、遺体を土管まで運ぶと、見てすぐにわかってしまいますから。

一方、遺体がトイレの裏から見つかったとすると他殺だと判断されます。
トイレの裏は歩道のすぐ傍で人家から良く見える所なので、そんな所で凍死自殺したり、行倒れる可能性は完全にゼロだからです。
http://www.asyura2.com/21/ban9/msg/821.html#c3

[番外地9] 警察は自殺未遂事件後、精神病院で覚醒剤障害の治療を二か月も受けさせ、その後も毎月サアヤさんを呼び出して覚醒剤障害の経過… 中川隆
8. 中川隆[-16265] koaQ7Jey 2021年9月20日 05:44:26 : 6C6SEMfD1k : YnZQeFh4aHV2cS4=[5]
>旭川市の女子中学生いじめ疑いで遺族が「名誉棄損」を訴え SNS投稿を開示請求

そもそもどんな名誉棄損のデマでも 7割は真実で残りの3割だけが尾ひれです。
旭川少女凍死事件では学校も教育委員会も警察も、そのデマのかなりの部分は真実だと判断していました。
自殺未遂事件では警察は爽彩さんと母親の関係が原因だと判断して、爽彩さんを精神病院に二か月も入院させて母親とは会わせませんでした。
失踪・凍死事件では警察は爽彩さんと母親の喧嘩が原因の家出だと判断して、初期捜査を殆ど行いませんでした。
そもそも警察は自殺未遂事件で爽彩さんが退院して以降は、爽彩さんを毎月呼び出して、母親との関係、覚醒剤使用の有無等を聞いていた様です。 従って警察は爽彩さんの病状や家庭の状況を完全に把握した上で、失踪・凍死事件は爽彩さんと母親の喧嘩が原因の家出だと判断したのです。

爽彩さんは精神病院に二か月も入院させられていたので、唯のパニック障害なら、退院後も病院でカウンセリングを受けるのが普通ですが、病院ではなく警察に毎月呼び出したというのは、警察は爽彩さんのパニック障害はイジメが原因ではなく、家庭環境や覚醒剤障害が原因だと判断していた可能性が高いのです。

校長や教頭、担任、教育委員会も失踪・凍死事件は中学でのイジメが原因ではなく、家庭の問題だと何度も指摘しています。
第三者委員会のメンバーの大半が精神科医や心理学者で、加害者への聞き取り調査を一切していないのも、旭川少女凍死事件は中学でのイジメが原因ではなく、家庭の問題だと判断しているからです。

▲△▽▼

#282 2021/05/20 08:15
担任の菅野未里先生がこの噂を信じていたのは間違いないみたい
知人とのLINEで「デートと言って断ってやったわ」「子供ほったらかしてる分際で」と送信してる

▲△▽▼

旭川の人々の本心は

『少女が勝手に自分の画像を男子に送り騒いでる』
『彼女の家はモンスターペアレント』
『いじめではなく性的いじりなのに騒いでる』
『橋の上で男子生徒と揉めて、勝手に身投げした』
『2年前の話でしっかり謝罪した』
『彼女が自殺したのは家庭の問題』
『いじめと自殺は関係ない』

朝日新聞も同様の書き方していた
これが旭川の多くの人々の認識
だから2年前の謝罪で終わってるのに犯人扱いされて、未成年なのに家族まで特定されて『名誉毀損』

ほぼこれ

▲△▽▼

因みに、上に書いたのは警察や学校関係者、旭川の一般人がどう判断しているかという事で、真実は誰にもわかりません。
爽彩さんの母親は、爽彩さんは自殺で間違い無い、掲示板や youtube の名探偵さんの話はすべて間違いだ、と繰り返し何度も言っています。

何故か、爽彩さんの母親は爽彩さんの遺体の発見場所の公開をストップさせ、凍死体をどうやって公園に運んだかをわからなくさせました。トイレの裏側の遺体発見場所では、その場所だけ雪が人工的に 1.5mも 積み上げられていたのがわかっています。
爽彩さんの母親は爽彩さんの失踪当日は氷点下17℃の極寒日だった、被害者が自殺したのは間違い無い、吉田は犯人じゃない、といった明らかに間違ったデマを多数発言して、事件に関心を持った人をすべて混乱させ、何が本当か判断できなくしました。

被害者の母親は事件を矮小化しようと必死でデマを拡散しています。

・被害者の母親は爽彩さんの遺体が発見された場所を公開しないでくれと警察に頼んだ

トイレの裏側の遺体発見場所では、その場所だけ雪が人工的に 1.5mも 積み上げられていたのがわかっています。
その事実が明らかにされると他殺だとわかってしまうので、遺体が発見された場所の公開を止めさせたとしか思えません。

「ここ」をわかられると、以下のような疑問がわく

向かいの住宅の通報なので、近所には知れていますし
事件捜査時点で、トイレわきの水場石垣にブルーシートがかけられたので、犯人のみ知るじじつだからというのは「いいわけ」です。
場所の隠蔽、15〜20の天気気温の隠蔽はKが
でもね、ニュースで最初に現場がでてるしね

#22 2021/06/15 00:40
トイレの近くにブルーシートがあったらしいよ
水路からひきあげて置いたかも?

#33 2021/06/29 22:24
そもそも、向かいの住宅から、遺体の一部が見えたから通報したんですよ
ですから、もうそれだけで場所はトイレわきの水路あたりのエリアしかないの。
住宅地がそこだけだから。
車道にも近いし
youtube.com
の天気見ればわかるけど、こんな状態で1ケ月も雪の中でしたなんてありえんのよ
まあ、発見の前日が雪ね(逆に)

で、警察は事件性を否定しないとやばいから、
そこを突かれないおうに土管のなかみたいなリークをしたの。
もう仕組まれてんのよ。

4月22日HTB北海道ニュース
この事件の最初の報道で映されたのは、水路の終点。トイレの建物から10数m離れた個所。花束が水路の石垣の
どこかに置かれてるのも映ってる。

もりりん、ここから360度撮影と、石の場所特定して。
あと、土管との位置関係と、公園の全体との位置関係、道路からの位置関係。行き倒れに不自然ないか、車で運んだっぽいのか。

_______

つまり、遺体の置かれていたのが道路のすぐ近くで人家から良く見える所だとわかると、自殺ではない事がわかってしまうので、遺体発見場所を公開させないのです。

遺体が土管の中で見つかったとすると自殺だと判断されます。
雪上は足跡が付くので、遺体を土管まで運ぶと、見てすぐにわかってしまいますから。

一方、遺体がトイレの裏から見つかったとすると他殺だと判断されます。
トイレの裏は歩道のすぐ傍で人家から良く見える所なので、そんな所で凍死自殺したり、行倒れる可能性は完全にゼロだからです。
http://www.asyura2.com/21/ban9/msg/757.html#c8

[近代史5] 中国の恒大集団を中心とした不動産バブルの崩壊 中川隆
5. 2021年9月20日 06:10:25 : 6C6SEMfD1k : YnZQeFh4aHV2cS4=[6]
恒大集団倒産と中国不動産バブル崩壊で空売りすべき銘柄リスト
2021年9月19日 GLOBALMACRORESEARCH
https://www.globalmacroresearch.org/jp/archives/15609


恒大集団の破綻危機と中国不動産バブルの崩壊懸念が金融市場で話題になっており、これまでも記事で取り上げてきた。

恒大集団の倒産危機と中国不動産バブル崩壊懸念まとめ

ジョージ・ソロス氏、中国版リーマンショックによるバブル崩壊を警告


状況の概要は伝えているが、次に考えるべきは投資家がどうすれば良いのかということである。今回はそれについて書いてみたい。

恒大集団の倒産危機

詳細はこれまでの記事を参照してほしいが、状況はこうである。中国最大級の不動産ディベロッパーである恒大集団の倒産危機が話題になっている。負債総額は2兆元以上と言われており、これは中国のGDP102兆元のおよそ2%に相当する。

とんでもない金額の負債を積み上げたわけだが、問題はこの負債がどう処理されるかである。恒大集団は負債の山を抱えているが、資産を一切持っていないわけではない。恒大集団の2020年のアニュアルレポートによれば、2兆3,000億元の資産を持っている。

データが昨年末である上に、負債は額面の金額をきっちり請求される一方で資産は帳簿に載っている金額で売れるとは限らないから、実際には恒大集団は2兆3,000億元を持っているわけではないが、その内訳の大半は不動産であり、具体的には次のようになっている。

未完成の不動産: 1兆2,579億元
投資用不動産: 1,659億元
売出し中の完成済み不動産: 1,485億元
合計で1兆6,000億元程度の不動産が計上されている。恒大集団はディベロッパーなので手持ちの資産には未完成の物件が多い。

恒大集団の不動産投げ売り

さて、債権者は借金を返してもらうために恒大集団にこれらの不動産を売らせることになる。中国の不動産市場には少なめに見積もってもGDPの1%分の売り圧力がかかることになる。

金融業界ではこれが中国の不動産市場だけの問題なのか、それとも金融市場の他の部分にも波及するのかということが議論されている。しかし特にアメリカやヨーロッパの投資家は「中国の不動産市場」の意味をあまり理解していないようである。

以前にも書いたが、中国人にとって不動産とは特別な資産である。中国人の不動産信仰は厚く、彼らは不動産は長期的には決して下落しないと考えており、不動産を所有することが人生の目標であるような人も少なくない。

中国人にとってメインの投資とは不動産なのであり、株式や債券ではないのである。ここが重要である。中国にとっての不動産市場とはアメリカにとっての株式市場なのである。

だから2015年に中国の株式市場が崩壊したとき、それは中国にとって大した問題ではなかった。以下は上海総合指数のチャートである。


しかし今回は中国人の資産形成の支柱である不動産市場の問題である。そしてそれはGDP1%分の売り圧力だけの問題ではない。

中国の不動産バブル

恒大集団が立ち行かなくなったのは、不動産が売れなかったからである。大手不動産ディベロッパーが倒産するほど建設した物件が売れないということは、需要が供給をかなり大幅に下回っているということである。

供給過剰であるからには今後供給は減少してゆくほかない。真っ先にダメージを受けるのは当然ながら恒大集団のような不動産会社である。

空売り投資家にとってどうかと言えば、まず恒大集団自体の株価は既に地に落ちている。


しかし長江実業や新世界発展などの他の不動産会社はまだ2021年の取引レンジを脱するほどの下落にはなっていないようである。ここでは長江実業の株価チャートを掲載しておこう。


より広範囲な影響

さて、ここからはよりマクロな視点から頭を働かせてみよう。中国の不動産会社がどうなるにしても、今の時点でも明らかなのは中国の不動産市場が供給過剰に陥っているということである。これから供給が少なくなるということは、建設のために使われる機材や資材が使われなくなるということである。

まず頭に浮かぶのはショベルなどの建設機械を作っている米国のCatapillarや日本のコマツだろう。まずはCatapillarの株価を掲載しておこう。


次はコマツである。


これらの企業も影響を受けるだろう。しかし中国銘柄として真っ先に名前の上がるこれらの企業は、意外にも売上高に占める中国の建設関連の割合はそれほど大きくなく、両者とも10%以下である。

そこで投資家としてはより直接的に影響を受ける銘柄を探す必要が出てくる。中国で建物が作られなくなればどうなるか? 建設機械の他に建設のために必要なものは何だろうか?

コモディティ市場への影響

ここで鉄鉱石と銅という名前が出てきた読者が居るならば、十分にマクロな投資家だと言えるのではないか。投資アイデアとはこのように考えるのである。

鉄鉱石は世界の輸入の75%を中国が担っている。当然ながらその多くは建設に使われる。

鉄鉱石に関して個人投資家でもアクセスしやすい投資先と言えば、例えば米国ETFのVanEck Steel ETF (NYSEARCA:SLX)があるだろう。


これは鉄鉱石の採掘企業などを纏めたETFである。その輸入の75%を担う中国の不動産市場が崩壊すれば、この程度の下げでは絶対に終わらないはずである。

また、銅も中国の建設業界で使われており、中国が世界の輸入の43%を担っている。銅価格のチャートを掲載しておこう。


これらの銘柄は中国の不動産バブルとともに育ってきたと言っても過言ではない。中国の不動産バブルとともに育った銘柄は、中国の不動産バブルが崩壊すれば下落を免れないだろう。

中国の景気後退

更により大きな視点から眺めてみよう。最初に述べたように、不動産は中国人の資産形成の中核を担っている。

大雑把に言ってGDPの1%分が不動産市場で投げ売りされ、もう1%分は債権者の損失となる。Reustersによれば、恒大集団の本社には投資家が集まって「金を返せ!」と叫んでいる。

恒大集団に投資をして資金を失った投資家、そして不動産価格下落で損をする非常に多くの中国人は、資金を作るために手持ちの資産を売ったり、消費を控えたりするだろう。恒大集団の負債総額がGDP2%分ならば、その影響は合計で恐らく3%から4%には及ぶはずである。

この危機を乗り越えるためには中国政府は利下げなど何らかの緩和を行わなければならない可能性が高くなる。そうなれば人民元は下落すると考えるのが自然だろう。以下はドル元のチャート(上方向がドル高元安)である。


まだまだ恒大集団の件を織り込んでいるとは言い難い。

結論

ここまで書いたが、恐らく本命は人民元、鉄鉱石、銅だろう。しかし他の銘柄についても特に買い持ちにしている投資家は気をつけなければならない。読者も自分のポートフォリオに中国の不動産にかかわるものが含まれていないかチェックすべきである。

市場はまだほとんど動いていない。しかし他の投資家よりも早く先を考え先を予測した者が金融市場では利益を手に入れることができる。

以下の記事も合わせてここの記事が読者の参考になれば幸いである。

恒大集団の倒産危機と中国不動産バブル崩壊懸念まとめ
ジョージ・ソロス氏、中国版リーマンショックによるバブル崩壊を警告


https://www.globalmacroresearch.org/jp/archives/15609
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/1107.html#c5

[番外地9] 旭川市の女子中学生いじめ疑いで遺族が「名誉棄損」を訴え SNS投稿を開示請求 中川隆
4. 中川隆[-16264] koaQ7Jey 2021年9月20日 06:32:35 : 6C6SEMfD1k : YnZQeFh4aHV2cS4=[7]
>旭川市の女子中学生いじめ疑いで遺族が「名誉棄損」を訴え SNS投稿を開示請求

そもそもどんな名誉棄損のデマでも 7割は真実で残りの3割だけが尾ひれです。
旭川少女凍死事件では学校も教育委員会も警察も、そのデマのかなりの部分は真実だと判断していました。
自殺未遂事件では警察は爽彩さんと母親の関係が原因だと判断して、爽彩さんを精神病院に二か月も入院させて母親とは会わせませんでした。
失踪・凍死事件では警察は爽彩さんと母親の喧嘩が原因の家出だと判断して、初期捜査を殆ど行いませんでした。
そもそも警察は自殺未遂事件で爽彩さんが退院して以降は、爽彩さんを毎月呼び出して、母親との関係、覚醒剤使用の有無等を聞いていた様です。 従って警察は爽彩さんの病状や家庭の状況を完全に把握した上で、失踪・凍死事件は爽彩さんと母親の喧嘩が原因の家出だと判断したのです。

爽彩さんは精神病院に二か月も入院させられていたので、唯のパニック障害なら、退院後も病院でカウンセリングを受けるのが普通ですが、病院ではなく警察に毎月呼び出したというのは、警察は爽彩さんのパニック障害はイジメが原因ではなく、家庭環境や覚醒剤障害が原因だと判断していた可能性が高いのです。

校長や教頭、担任、教育委員会も失踪・凍死事件は中学でのイジメが原因ではなく、家庭の問題だと何度も指摘しています。
第三者委員会のメンバーの大半が精神科医や心理学者で、加害者への聞き取り調査を一切していないのも、旭川少女凍死事件は中学でのイジメが原因ではなく、家庭の問題だと判断しているからです。

▲△▽▼

#282 2021/05/20 08:15
担任の菅野未里先生がこの噂を信じていたのは間違いないみたい
知人とのLINEで「デートと言って断ってやったわ」「子供ほったらかしてる分際で」と送信してる

▲△▽▼

旭川の人々の本心は

『少女が勝手に自分の画像を男子に送り騒いでる』
『彼女の家はモンスターペアレント』
『いじめではなく性的いじりなのに騒いでる』
『橋の上で男子生徒と揉めて、勝手に身投げした』
『2年前の話でしっかり謝罪した』
『彼女が自殺したのは家庭の問題』
『いじめと自殺は関係ない』

朝日新聞も同様の書き方していた
これが旭川の多くの人々の認識
だから2年前の謝罪で終わってるのに犯人扱いされて、未成年なのに家族まで特定されて『名誉毀損』

ほぼこれ

▲△▽▼

因みに、上に書いたのは警察や学校関係者、旭川の一般人がどう判断しているかという事で、真実は誰にもわかりません。
爽彩さんの母親は、爽彩さんは自殺で間違い無い、掲示板や youtube の名探偵さんの話はすべて間違いだ、と繰り返し何度も言っています。

何故か、爽彩さんの母親は爽彩さんの遺体の発見場所の公開をストップさせ、凍死体をどうやって公園に運んだかをわからなくさせました。トイレの裏側の遺体発見場所では、その場所だけ雪が人工的に 1.5mも 積み上げられていたのがわかっています。
爽彩さんの母親は爽彩さんの失踪当日は氷点下17℃の極寒日だった、爽彩さんが自殺したのは間違い無い、吉田は犯人じゃない、といった明らかに間違ったデマを多数発言して、事件に関心を持った人をすべて混乱させ、何が本当か判断できなくしました。

被害者の母親は事件を矮小化しようと必死でデマを拡散しています。

・被害者の母親は爽彩さんの遺体が発見された場所を公開しないでくれと警察に頼んだ

トイレの裏側の遺体発見場所では、その場所だけ雪が人工的に 1.5mも 積み上げられていたのがわかっています。
その事実が明らかにされると他殺だとわかってしまうので、遺体が発見された場所の公開を止めさせたとしか思えません。

「ここ」をわかられると、以下のような疑問がわく

向かいの住宅の通報なので、近所には知れていますし
事件捜査時点で、トイレわきの水場石垣にブルーシートがかけられたので、犯人のみ知るじじつだからというのは「いいわけ」です。
場所の隠蔽、15〜20の天気気温の隠蔽はKが
でもね、ニュースで最初に現場がでてるしね

#22 2021/06/15 00:40
トイレの近くにブルーシートがあったらしいよ
水路からひきあげて置いたかも?

#33 2021/06/29 22:24
そもそも、向かいの住宅から、遺体の一部が見えたから通報したんですよ
ですから、もうそれだけで場所はトイレわきの水路あたりのエリアしかないの。
住宅地がそこだけだから。
車道にも近いし
youtube.com
の天気見ればわかるけど、こんな状態で1ケ月も雪の中でしたなんてありえんのよ
まあ、発見の前日が雪ね(逆に)

で、警察は事件性を否定しないとやばいから、
そこを突かれないおうに土管のなかみたいなリークをしたの。
もう仕組まれてんのよ。

4月22日HTB北海道ニュース
この事件の最初の報道で映されたのは、水路の終点。トイレの建物から10数m離れた個所。花束が水路の石垣の
どこかに置かれてるのも映ってる。

もりりん、ここから360度撮影と、石の場所特定して。
あと、土管との位置関係と、公園の全体との位置関係、道路からの位置関係。行き倒れに不自然ないか、車で運んだっぽいのか。

_______

つまり、遺体の置かれていたのが道路のすぐ近くで人家から良く見える所だとわかると、自殺ではない事がわかってしまうので、遺体発見場所を公開させないのです。

遺体が土管の中で見つかったとすると自殺だと判断されます。
雪上は足跡が付くので、遺体を土管まで運ぶと、見てすぐにわかってしまいますから。

一方、遺体がトイレの裏から見つかったとすると他殺だと判断されます。
トイレの裏は歩道のすぐ傍で人家から良く見える所なので、そんな所で凍死自殺したり、行倒れる可能性は完全にゼロだからです。
http://www.asyura2.com/21/ban9/msg/821.html#c4

[番外地9] 旭川市の女子中学生いじめ疑いで遺族が「名誉棄損」を訴え SNS投稿を開示請求 中川隆
5. 中川隆[-16263] koaQ7Jey 2021年9月20日 06:35:29 : 6C6SEMfD1k : YnZQeFh4aHV2cS4=[8]
>旭川市の女子中学生いじめ疑いで遺族が「名誉棄損」を訴え SNS投稿を開示請求

そもそもどんな名誉棄損のデマでも 7割は真実で残りの3割だけが尾ひれです。
旭川少女凍死事件では学校も教育委員会も警察も、そのデマのかなりの部分は真実だと判断していました。
自殺未遂事件では警察は爽彩さんと母親の関係が原因だと判断して、爽彩さんを精神病院に二か月も入院させて母親とは会わせませんでした。
失踪・凍死事件では警察は爽彩さんと母親の喧嘩が原因の家出だと判断して、初期捜査を殆ど行いませんでした。
そもそも警察は自殺未遂事件で爽彩さんが退院して以降は、爽彩さんを毎月呼び出して、母親との関係、覚醒剤使用の有無等を聞いていた様です。 従って警察は爽彩さんの病状や家庭の状況を完全に把握した上で、失踪・凍死事件は爽彩さんと母親の喧嘩が原因の家出だと判断したのです。

爽彩さんは精神病院に二か月も入院させられていたので、唯のパニック障害なら、退院後も病院でカウンセリングを受けるのが普通ですが、病院ではなく警察に毎月呼び出したというのは、警察は爽彩さんのパニック障害はイジメが原因ではなく、家庭環境や覚醒剤障害が原因だと判断していた可能性が高いのです。

校長や教頭、担任、教育委員会も失踪・凍死事件は中学でのイジメが原因ではなく、家庭の問題だと何度も指摘しています。
第三者委員会のメンバーの大半が精神科医や心理学者で、加害者への聞き取り調査を一切していないのも、旭川少女凍死事件は中学でのイジメが原因ではなく、家庭の問題だと判断しているからです。

▲△▽▼

#282 2021/05/20 08:15
担任の菅野未里先生がこの噂を信じていたのは間違いないみたい
知人とのLINEで「デートと言って断ってやったわ」「子供ほったらかしてる分際で」と送信してる

▲△▽▼

旭川の人々の本心は

『少女が勝手に自分の画像を男子に送り騒いでる』
『彼女の家はモンスターペアレント』
『いじめではなく性的いじりなのに騒いでる』
『橋の上で男子生徒と揉めて、勝手に身投げした』
『2年前の話でしっかり謝罪した』
『彼女が自殺したのは家庭の問題』
『いじめと自殺は関係ない』

朝日新聞も同様の書き方していた
これが旭川の多くの人々の認識
だから2年前の謝罪で終わってるのに犯人扱いされて、未成年なのに家族まで特定されて『名誉毀損』

ほぼこれ

▲△▽▼

因みに、上に書いたのは警察や学校関係者、旭川の一般人がどう判断しているかという事で、真実は誰にもわかりません。
爽彩さんの母親は、爽彩さんは自殺で間違い無い、掲示板や youtube の名探偵さんの話はすべて間違いだ、と繰り返し何度も言っています。

何故か、爽彩さんの母親は爽彩さんの遺体の発見場所の公開をストップさせ、凍死体をどうやって公園に運んだかをわからなくさせました。トイレの裏側の遺体発見場所では、その場所だけ雪が人工的に 1.5mも 積み上げられていたのがわかっています。
爽彩さんの母親は爽彩さんの失踪当日は氷点下17℃の極寒日だった、爽彩さんが自殺したのは間違い無い、吉田は犯人じゃない、といった明らかに間違ったデマを多数発言して、事件に関心を持った人をすべて混乱させ、何が本当か判断できなくしました。

爽彩さんの母親は事件を矮小化しようと必死でデマを拡散しています。

・爽彩さんの母親は爽彩さんの遺体が発見された場所を公開しないでくれと警察に頼んだ

トイレの裏側の遺体発見場所では、その場所だけ雪が人工的に 1.5mも 積み上げられていたのがわかっています。
その事実が明らかにされると他殺だとわかってしまうので、遺体が発見された場所の公開を止めさせたとしか思えません。

「ここ」をわかられると、以下のような疑問がわく

向かいの住宅の通報なので、近所には知れていますし
事件捜査時点で、トイレわきの水場石垣にブルーシートがかけられたので、犯人のみ知るじじつだからというのは「いいわけ」です。
場所の隠蔽、15〜20の天気気温の隠蔽はKが
でもね、ニュースで最初に現場がでてるしね

#22 2021/06/15 00:40
トイレの近くにブルーシートがあったらしいよ
水路からひきあげて置いたかも?

#33 2021/06/29 22:24
そもそも、向かいの住宅から、遺体の一部が見えたから通報したんですよ
ですから、もうそれだけで場所はトイレわきの水路あたりのエリアしかないの。
住宅地がそこだけだから。
車道にも近いし
youtube.com
の天気見ればわかるけど、こんな状態で1ケ月も雪の中でしたなんてありえんのよ
まあ、発見の前日が雪ね(逆に)

で、警察は事件性を否定しないとやばいから、
そこを突かれないおうに土管のなかみたいなリークをしたの。
もう仕組まれてんのよ。

4月22日HTB北海道ニュース
この事件の最初の報道で映されたのは、水路の終点。トイレの建物から10数m離れた個所。花束が水路の石垣の
どこかに置かれてるのも映ってる。

もりりん、ここから360度撮影と、石の場所特定して。
あと、土管との位置関係と、公園の全体との位置関係、道路からの位置関係。行き倒れに不自然ないか、車で運んだっぽいのか。

_______

つまり、遺体の置かれていたのが道路のすぐ近くで人家から良く見える所だとわかると、自殺ではない事がわかってしまうので、遺体発見場所を公開させないのです。

遺体が土管の中で見つかったとすると自殺だと判断されます。
雪上は足跡が付くので、遺体を土管まで運ぶと、見てすぐにわかってしまいますから。

一方、遺体がトイレの裏から見つかったとすると他殺だと判断されます。
トイレの裏は歩道のすぐ傍で人家から良く見える所なので、そんな所で凍死自殺したり、行倒れる可能性は完全にゼロだからです。
http://www.asyura2.com/21/ban9/msg/821.html#c5

[近代史3] ロマ(ジプシー)が嫌われる理由 中川隆
13. 2021年9月20日 07:04:30 : 6C6SEMfD1k : YnZQeFh4aHV2cS4=[9]
ロマ問題は1000年も解決しない。ローマ教皇が「対話と融和」と言っても無駄
2021.09.18
https://blackasia.net/?p=1699


ヨーロッパは偉そうに「多文化共生」など言っているが、流浪の異民族ロマにやっていることはまったく「多文化共生」ではない。いまだにローマ教皇が「ロマとの対話と融和」を訴えていること自体が、多文化共生という机上の空論の「底知れぬ空虚さ」を示している。(鈴木傾城)


ロマは欧州のどこの民族とも価値観を共有しない民族
ローマ教皇は2021年9月14日にスロバキア東部のコシツエという街で、ロマ共同体を訪れて交流を行ったことが「VATICAN NEWS」で報道されている。

ヨーロッパは日本のように島国ではないので、様々な民族が国境を越えて行き来する。多くの民族は土着して、その国の「国民」となっていくのだが、中には定住するのを拒絶し、旅の生活を続ける民族も出てくる。

ヨーロッパではその最大勢力が「ロマ」である。単純な強盗や万引きなどの事件には、流れ者の民族であるロマも関わってくることが多い。

もちろんロマの人たちが全員「盗人」ではない。真面目な人や正業で成功した人もいる。しかし、彼らの一部が強盗・万引き・ドラッグ売買に関わっているのは否定できず、ありとあらゆる場所で嫌悪されているのが実情だ。

スロバキアにもロマが流れ込んでいるのだが、その一部がこの国に定住し、コシツエで大きな共同体を形成している。

このコシツエのロマ居住区は電気こそ通っているものの、ガスや水道は一日数時間ほどしか利用できないようなエリアで、まさに貧困地区である。スロバキアのスラムエリアと言っても過言ではない。ロマ人の「ゲットー」である。

ローマ教皇はここで「偏見から対話へ、閉鎖から融合へと移ることが必要」と説いた。しかし、言うのは簡単だが現実は壮絶なまで大きな溝が横たわっている。

ロマは欧州のどこの民族とも価値観を共有せず、帰属意識も持たず、それが今も続いている。現地の法も守らない人が多い。だから、スロバキアの人々のみならず、欧州全体でロマは激しく嫌われ、避けられ、排除され続けているのだ。


忽然と現れて、好きなところに「勝手に住み着く」
この「ロマ」がヨーロッパに約1000万人いるというのだから、尋常ではない。国を持たず、流浪する民族が1000万人と言えば、さすがに目立つ。

ロマが定住する最大の国はルーマニアなのだが、ルーマニアもひどく貧しい国であり、そんな貧しい国に定住しているロマはどん底の貧しさであると言われている。

ロマがルーマニアに200万人近くいて、人口の一割を占めているとは言っても、この1割のロマが受け入れられているというわけではない。受け入れられているというよりも、やはりルーマニアでも嫌われていて「泥棒」の代名詞となっている。

ロマは、人種も文化も宗教も気質も何もかもヨーロッパ人とは違っている。時には言葉すらも通じない。

それでいて忽然と現れて、好きなところに勝手に住み着くのだから、地域住民から見たらまさに不法侵入者でしかない。しかも、この民族の子供たちは万引き・置き引き・窃盗をするために他人にまとわりつく。

ヨーロッパの多くの国の観光地で、窃盗・万引き・置き引きが毎度のように発生するが、ロマの子供たちがやっていることが多い。「ロマの子供たちには学はないが、泥棒の仕方だけは親に学ぶ」とヨーロッパ人は吐き捨てるように言っている。

さらに彼らはその街や村にやって来ると、公園やら原っぱのようなところで誰の許可もなく勝手にキャンプを張る。

そして、ガラクタにしか見えないものを持ち込み、ゴミも周辺に放り出してゴミ山を作り出す。環境が手に負えなくなったら、ゴミ山を残してさっさと移動していく。これでは地域住民に好かれるわけがない。

そんな民族が1000万人もいる。だから、ヨーロッパではそれこそ1000年も昔からロマは頭痛の種だった。ロマはヨーロッパ中をさまよい歩き、今もその流浪と地域社会との軋轢で嫌悪と拒絶の対象になっている。

文化は受け入れられても、民族は排除されてしまった
もちろん、悪い話ばかりではない。ロマはロマの文化がある。彼らは以前「ジプシー」と呼ばれていたが、彼らの文化は一部では崇拝を呼ぶほど信奉者も多い。

彼らは陽気で歌や踊りが大好きだ。その中で、最もよく知られているのはジプシー特有のけたたましい音楽だろう。女性がスカートをなびかせ、足を踏み鳴らし、激しく踊るその様は見ている者を陶酔すら呼び起こすものである。

このジプシーの文化は、やがてヨーロッパ中の音楽にも取り入れられ、その踊りもまたヨーロッパ人に大きな影響を与えた。特に大きな影響を与えたのはスペインだ。

スペインに流れ着いたジプシーたちが、その土着の音楽と自分たちの音楽を融合させて生まれた独特の音楽は「フラメンコ」と呼ばれるようになった。

フラメンコは15世紀にはすでにスペインで定着していたわけで、その歴史は相当古い。まさに歴史的音楽であると言える。私自身も、フラメンコは情熱的で素晴らしい音楽であり、踊りであると思っている。

とは言っても、このロマ自身がスペインで広く受け入れられたというわけではなく、やはり忌避されていたのである。

フラメンコという文化はスペインの文化になったが、皮肉にもそれを伝えた「ロマ」は相変わらず嫌われて、スペインのどこに言っても迫害され続けていた。

ジプシーと言えば、「占い」もまたひとつのビジネスだが、この占いもまたキリスト教徒から見れば「悪魔の業《わざ》」のように見えたわけで、キリスト教徒から見て不吉なものでもあった。

占いと言えば、日本でもタロットカードの占いは有名だが、このタロットカードはジプシー文化から生まれている。


「多文化共生」など絵空事であると誰もが知っている
ロマの流浪と文化は本当に異質であり、泥棒文化が嫌われ、長い歴史の中で何度も地域住民と衝突して、今もヨーロッパはロマとどのように折り合いを付けたらいいのか分からないまま、困惑し、嫌い、排除している。

もっとも、そのロマも流浪する生活を頑なに守る人々が減っており、そのほとんどが定住するようになっているという。

ところが、定住しても独自文化を守ろうとして、地域の教育も無視するので、どこの国でもロマの人々は極貧の生活を強いられている。定住はしたものの、地域と同化したわけではないということである。

ロマを支援する人々は、支援も理解も足りないと訴えるのだが、当のロマ自体が支援も理解も拒絶して自分たちの独自文化の中に引きこもることもあり、問題の解決は容易ではない。

また、地域に同化させようと努力するロマや、それを支援する人たちがいる一方で、逆にロマを強制的に排除して国から追い出してしまおうとする動きも巨大だ。

イタリアは、ロマの人たちが公営住宅に入れないように、政府が自らロマ排除に動いていた。今回、ローマ教皇が対話と融和を訴えたスロバキアでも、政府当局は繰り返し機動隊を投入してロマのキャンプを叩き潰して追い出している。

ロマが200万人も定住するルーマニアでも、ロマの排除は徹底的だ。政府は国民に対してロマと距離を置くことを勧めており、就職も住居も結婚もロマとは交わらないように積極的排除している。

ヨーロッパでは表では「多文化共生」など絵空事を言っているが、ロマにやっていることはまったく「多文化共生」ではない。結局のところ、それは無責任が理想主義者が言っている絵空事に過ぎないのである。

そもそも、ローマ教皇が今のこの時代になっても人々に「ロマとの対話と融和」を訴えていること自体、多文化共生が実現できない空虚な理想であることを示している。


『ジプシーと呼ばれた少年(マイキー ウォルシュ)』
https://www.amazon.co.jp/gp/product/B08MZYPDKQ/ref=as_li_qf_asin_il_tl?ie=UTF8&tag=asyuracom-22&creative=1211&linkCode=as2&creativeASIN=B08MZYPDKQ&linkId=4f4e2cb12d913322de145bbebef9f07e

https://blackasia.net/?p=1699
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/324.html#c13

[近代史5] 成仏不動産 | 事故物件の買取・売却・流通専門サイト 中川隆
13. 2021年9月20日 07:33:16 : 6C6SEMfD1k : YnZQeFh4aHV2cS4=[10]
【ゆっくり解説】今、あなたが住んでいる家は大丈夫ですか?
2021/09/19



http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/503.html#c13
[リバイバル3] 敷金礼金ゼロで家賃半額も…超安値の「いわく付き」事故物件に人気殺到!首都圏にも多数 中川隆
54. 中川隆[-16262] koaQ7Jey 2021年9月20日 07:33:54 : 6C6SEMfD1k : YnZQeFh4aHV2cS4=[11]
【ゆっくり解説】今、あなたが住んでいる家は大丈夫ですか?
2021/09/19



http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/662.html#c54
[近代史6] 最美の音楽は何か? _ ジョスカン・デ・プレ ミサ曲『祝福された聖処女』 中川隆
1. 中川隆[-16261] koaQ7Jey 2021年9月20日 09:26:41 : 6C6SEMfD1k : YnZQeFh4aHV2cS4=[12]
ジョスカン・デ・プレ ミサ曲『祝福された聖処女』

Josquin Des Prez - Missa De Beata Virgine & Missa Ave Maris Stella - YouTube
https://www.youtube.com/playlist?list=OLAK5uy_nrz43WQ4uNuXiANvS0ahEVJu4qusfeIRo




http://www.asyura2.com/21/reki6/msg/664.html#c1
[近代史6] 最美の音楽は何か? _ シュッツ『音楽による葬儀』 中川隆
1. 中川隆[-16260] koaQ7Jey 2021年9月20日 10:01:49 : 6C6SEMfD1k : YnZQeFh4aHV2cS4=[13]
シュッツ 音楽による葬儀(Musikalische Exequien) 深い悲しみと祈り
2020-asyuracom-22




これは、ルター派の葬儀の形式に則った音楽で、ドイツ語訳の聖書や聖歌の文言に作曲された、ドイツ語によるレクイエムと呼ぶべき作品です。(ブラームスも影響を受けたところもあり、最初のドイツ・レクイエムとも呼ばれる曲です。)

シュッツがドレスデン宮廷楽団の楽長の時代、親交のあったポストゥムス・ロイス公が自分の死期が近いことを悟ってシュッツに作曲を依頼した作品でした。
ロイス公は生前に自分の棺を作らせ、その蓋などに自ら選んだ聖句やコラールの詩を刻んでいました。自らの葬儀の音楽も用意しようと言うことで、棺に刻まれた聖句やコラールの文言を基に作曲することを依頼したわけです。ロイス公の葬儀は1635年2月に行われました。この曲はその後1636年に出版されています。

曲は3つの部分からなっています。

第1部「ドイツ葬送ミサの形式によるコンツェルト」SWV279
ミサ曲のキリエとグローリアに相当する部分になります。(歌詞はドイツ語です。)

第2部「モテット」SWV280
礼拝の説教に相当する部分とされ、詩篇73編25、26の歌詞に作曲されています。

第3部「シメオンのカンティクム」SWV281
葬儀では棺を地中におろした時に演奏されました。ルカ福音書第2章29-32節に作曲された音楽です。




最初は淡々とした雰囲気に感じますが聴き進むうちに深い悲しみと祈りが心に痛切に迫ってくるようです。

ヘレヴェッヘの音楽は柔らかな手触りと温もりを感じさせるようでした。





ジョン・エリオット・ガーディナー John Eliot Gardiner

イングリッシュ・バロック・ソロイスツ

ヒズ・マジェスティーズ・サックバッツ&コルネッツ

モンテヴェルディ合唱団

A:アシュリー・スタッフォード

T:フリーダー・ラング



こちらはとても透明感の高い演奏です。ヘレヴェッヘの演奏とは大分感じか違いますが、こちらも美しい演奏です。


Schütz: Musikalische Exequien
https://www.amazon.co.jp/dp/B00B9ZFBMC?ascsubtag=p_YFFMb7wRtk2qIiuVj9bvz1&linkCode=ogi&psc=1&tag=asyuracom-22&th=1


普通「ドイツ・レクィエム」と言えば、ブラームスの名曲を指しますが、ドイツ音楽隆盛の歴史はこの人から始まったと言えるシュッツにも「ドイツ・レクィエム」があります。最初は淡々とした印象しか受けないかもしれませんが、何度も聴くうちに全ての音符が心に響いてくるようになり、気がつけば虜になるという、不思議な音楽の力を持つのがシュッツの音楽。合唱を愛する人なら、自分の葬式で流したい曲のナンバーワンになるかも。(Amazon 商品の説明 より)

https://ameblo.jp/crystalwind2011/entry-12626795162.html

http://www.asyura2.com/21/reki6/msg/665.html#c1
[番外地8] 近代日本文学では川端康成と谷崎潤一郎が最高の天才 中川隆
5. 中川隆[-16259] koaQ7Jey 2021年9月20日 10:37:33 : 6C6SEMfD1k : YnZQeFh4aHV2cS4=[14]
ロシア文学ではプーシキン、トルストイ、ドストエフスキーとチェーホフが最高の天才
ドイツ文学ではゲーテ、ヘルダーリン、ハイネ、リルケ、カフカとローベルト・ムージルが最高の天才
フランス文学ではボードレール、マラルメ、ランボー、スタンダールとマルセル・プルーストが最高の天才
イタリア文学ではダンテが最高の天才
ギリシャ文学ではホメロスとソフォクレスが最高の天才
イギリス文学ではシェークスピアとジェイムズ・ジョイスが最高の天才
ノルウェー文学ではイプセンが最高の天才
アメリカ文学ではエドガー・アラン・ポーが最高の天才
日本文学では柿本人麻呂、紫式部、世阿弥と松尾芭蕉が最高の天才
近代日本文学では宮沢賢治、石川啄木、中原中也、川端康成、太宰治と谷崎潤一郎が最高の天才

そういう天才と比べると三島由紀夫はどうしようもない無能な変態三流小説屋だ
http://www.asyura2.com/20/ban8/msg/920.html#c5

[番外地8] 近代日本文学では川端康成と谷崎潤一郎が最高の天才 中川隆
6. 中川隆[-16258] koaQ7Jey 2021年9月20日 10:55:15 : 6C6SEMfD1k : YnZQeFh4aHV2cS4=[15]
ロシア文学ではプーシキン、トルストイ、ドストエフスキーとチェーホフが最高の天才
ドイツ文学ではゲーテ、ヘルダーリン、ハイネ、リルケ、カフカとローベルト・ムージルが最高の天才
フランス文学ではボードレール、マラルメ、ランボー、スタンダールとマルセル・プルーストが最高の天才
イタリア文学ではダンテが最高の天才
ギリシャ文学ではホメロスとソフォクレスが最高の天才
イギリス文学ではシェークスピアとジェイムズ・ジョイスが最高の天才
ノルウェー文学ではイプセンが最高の天才
アメリカ文学ではエドガー・アラン・ポーが最高の天才
中国文学では杜甫、李白が最高の天才
日本文学では柿本人麻呂、紫式部、世阿弥と松尾芭蕉が最高の天才
近代日本文学では宮沢賢治、石川啄木、中原中也、川端康成、太宰治と谷崎潤一郎が最高の天才

そういう天才と比べると三島由紀夫はどうしようもない無能な変態三流小説屋だ
http://www.asyura2.com/20/ban8/msg/920.html#c6

[リバイバル3] トムラウシ山遭難事故 中川隆
20. 2021年9月20日 12:05:44 : 6C6SEMfD1k : YnZQeFh4aHV2cS4=[16]
【ゆっくり解説】やめておけ!無視したハイカー達、真夏の山で凍えてしまう。
2021/09/19



http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/717.html#c20
[近代史5] 日本人の起源 中川隆
8. 2021年9月20日 13:17:16 : 6C6SEMfD1k : YnZQeFh4aHV2cS4=[17]
雑記帳
2021年09月19日
縄文時代と古墳時代の人類の新たなゲノムデータ
https://sicambre.at.webry.info/202109/article_20.html


 縄文時代と古墳時代の人類の新たなゲノムデータを報告した研究(Cooke et al., 2021)が報道されました。日本列島には、少なくとも過去38000年間ヒトが居住してきました。しかし、その最も劇的な文化的変化は過去3000年以内にのみ起き、その間に住民は急速に狩猟採集から広範な稲作、さらには技術的に発展した「帝国」へと移行しました。これらの急速な変化は、ユーラシア大陸部からの地理的孤立とともに、アジアにおける農耕拡大と経済強化に伴う移動パターンを研究するうえで、日本を独特な縮図としています。

 農耕文化の到来前には、日本列島には土器により特徴づけられる縄文文化に区分される、多様な狩猟採集民集団が居住していました。縄文時代は最終氷期極大期(Last Glacial Maximum、略してLGM)に続く最古ドリアス期に始まり、最初の土器破片は16500年前頃までさかのぼり、世界でも最古級の土器使用者となります。縄文時代の生存戦略は多様で、人口密度は時空間により変動し、定住への傾向がありました。縄文文化は3000年前頃となる弥生時代の始まりまで続き、その頃となる水田稲作の到来により日本列島に農耕革命がもたらされました。弥生時代の後には古墳時代が1700年前頃に始まり、政治的中央集権化と帝国の統治が出現し、日本を定義するようになりました。

 日本列島の現代の人口集団の起源に関する長く提唱されてきた仮説では二重構造モデルが提案されており、日本人集団は先住の「縄文人」と後に弥生時代になってユーラシア東部本土から到来した人々との混合子孫である、と想定されました。この二重構造モデル仮説は、もともとは形態学的データに基づいて提案されましたが、学際的に広く検証され評価されてきました。遺伝学的研究により、現代日本人集団内の人口層別化が特定されており、日本列島への少なくとも2回の移住の波が裏づけられます(関連記事)。

 以前の古代DNA研究も、現代日本人集団への「縄文人」と「弥生人」の遺伝的類似性を示してきました(関連記事1および関連記事2および関連記事3および関連記事4および関連記事5)。それでも、農耕への移行とその後の国家形成段階の人口統計学的起源および影響はほとんど知られていません。歴史言語学的観点からは、日本語祖語(日琉祖語)の到来は弥生文化の発展および水田稲作の拡大と対応している、と理論化されています。しかし、弥生時代と古墳時代では考古学的文脈および大陸との関係が異なっており、知識や技術の拡大には大きな遺伝的交換が伴っていたのかどうか、不明なままです。

 本論文は、日本列島の先史時代から原始時代(先史時代と歴史時代の中間で、断片的な文献が残っている時代)までの8000年にわたる古代人12個体の新たに配列されたゲノムを報告します(図1)。本論文が把握している限りでは、これは日本列島の年代の得られた古代人ゲノムの最大のセットとなり、最古の縄文時代個体と古墳時代の最初のゲノムデータが含まれます。また既知の先史時代日本列島の古代人のゲノムも分析に含められました。具体的には、縄文時代後期の北海道礼文島(関連記事)の2個体(F5とF23)、愛知県田原市伊川津町の貝塚(関連記事)で発見された縄文時代晩期の1個体(IK002)、長崎県佐世保市の下本山岩陰遺跡(関連記事)の弥生文化と関連する2個体です。以下は本論文の図1です。
画像

 下本山岩陰遺跡の2個体の骨格は、「移民型」よりもむしろ「縄文人的」な特徴を示しますが、他の考古学的資料は弥生文化との関連を明確に裏づけます。この形態学的評価にも関わらず、下本山岩陰遺跡の2個体は「縄文人」と比較して現代日本人集団との遺伝的類似性の増加を示しており、大陸部集団との混合が弥生時代後期にはすでに進展していたことを示唆します。これら日本列島古代人のゲノムは、草原地帯中央部(関連記事)および東部(関連記事)やシベリア(関連記事)やアジア南東部(関連記事)やアジア東部(関連記事1および関連記事2)にまたがるより大規模なデータセットと統合され、縄文時代の先農耕人口集団と、日本列島現代人の遺伝的特性を形成してきたその後の移民との混合をよりよく特徴づけることが、本論文の目的です。


●先史時代および原始時代の日本列島の古代人ゲノムの時系列

 本論文は、6ヶ所の遺跡で発掘された14個体のうち、新たに配列に成功した12個体のゲノムデータを報告します。平均網羅率は0.88〜7.51倍です。6ヶ所の遺跡は、縄文時代早期となる愛媛県久万高原町の上黒岩岩陰遺跡、縄文時代前期となる富山県富山市の小竹貝塚および岡山県倉敷市の船倉貝塚、縄文時代後期となる千葉県船橋市の古作貝塚、縄文時代後期の平城貝塚(愛媛県愛南町)、古墳時代終末期となる石川県金沢市の岩出横穴墓です。12個体のうち9個体は縄文文化と関連しており、内訳は、上黒岩岩陰遺跡が1個体(JpKa6904)、小竹貝塚が4個体(JpOd274とJpOd6とJpOd181とJpOd282)、船倉貝塚が1個体(JpFu1)、古作貝塚が2個体(JpKo2とJpKo13)、平城貝塚が1個体(JpHi01)です。残りの3個体は古墳時代末期となる岩出横穴墓で発見されています(JpIw32とJpIw31とJpIw33)。これら12個体で親族関係は確認されませんでした。

 縄文時代の9個体のミトコンドリアDNA(mtDNA)ハプログループ(mtHg)はすべてN9bかM7a系統で、両者は縄文時代集団と強く関連しており、現代では日本列島外では稀です。縄文時代の9個体のうち3個体は男性で、そのY染色体ハプログループ(YHg)はすべてD1b1(現在の分類名はD1a2a1だと思いますので、以下D1a2a1で統一します)で、現代日本人には存在しますが、他のアジア東部現代人にはほぼ見られません。対照的に、古墳時代の3個体のmtHgはアジア東部現代人と共通しています(B5a2a1bとD5c1aとM7b1a1a1)。そのうち1個体は男性で、YHgはO3a2c(現在の分類名はO2a2bだと思いますので、以下O2a2bで統一します)で、これはアジア東部全域、とくに中国本土で見られます。

 本論文のデータをユーラシア東部の人口統計のより広い文脈に位置づけるため、日本列島古代人のゲノムが既知の古代人および現代人のデータと組み合わされました。本論文では、現代日本人集団はSGDP(Simons Genome Diversity Project)もしくは1000人ゲノム計画3期のデータであらわされます。ただ要注意なのは、現代の日本列島全体では祖先からの異質性が存在しており、この標準的な参照セットでは充分には把握できないことです。本論文で分析された他の古代および現代の人口集団は、おもに地理的もしくは文化的文脈のいずれかで分類されています。


●異なる文化期間の遺伝的区別

 f3統計(個体1、個体2;ムブティ人)を用いて、古代と現代両方の日本列島の人口集団の個体の全てのペアワイズ比較間で共有される遺伝的浮動を調べることで、時系列内の遺伝的多様性が調べられました(図2A)。その結果、縄文時代と弥生時代と古墳時代の異なる3個体群のまとまりが明確に定義され、古墳時代個体群は現代日本人とまとまり、文化的変化には遺伝的変化が伴う、と示唆されます。縄文時代データセットにおける大きな時空間的変異にも関わらず、ひじょうに高水準の共有された浮動が12個体全ての間で観察されます。弥生時代2個体は相互に他の個体と最も密接に関連しており、古墳時代の3個体とよりも縄文時代の個体群の方と高い類似性を有しています。古墳時代と現代の日本列島の個体群は、この測定では相互にほぼ区別ができず、過去1400年間のある程度の遺伝的継続性が示唆されます。

 さらに主成分分析を用いて、大陸部人口集団に対する日本列島古代人のゲノム規模常染色体類似性が調べられました。古代人が、アジア南部と中央部と南東部と東部のSGDPデータセットの、現代の人口集団の遺伝的変異に投影されました(図2B)。その結果、日本列島古代人はPC1軸に沿って各文化名称に分離する、と観察されます。全ての縄文時代個体は密集しており、他の古代人口集団やアジア南東部および東部現代人とは離れて位置し、持続した地理的孤立が示唆されます。弥生時代の2個体はこの縄文人クラスタの近くに現れ、以前に報告された遺伝的および地理的類似性を裏づけます(関連記事)。しかし、この弥生時代の2個体はアジア東部人口集団の方へと動いており、弥生時代2個体における追加のユーラシア大陸部祖先系統(祖先系譜、祖先成分、ancestry)の存在が示唆されます。ユーラシア東部の古代人はPC2軸に沿って南から北への地理的勾配を示します。それは、中国南部→黄河→中国北部→西遼河→悪魔の門→アムール川→バイカル湖です。古墳時代の3個体は黄河クラスタの多様性内に収まります。

 ヒト起源配列(Human Origins Array)データセットでのADMIXTURE分析も、縄文時代末以後の日本列島への大陸部からの遺伝子流動の増加を裏づけます(図2C)。縄文時代個体群は異なる祖先的構成要素(図2Cの赤色)を示し、これは弥生時代2個体でも高水準で見られ、古墳時代の3個体と現代日本人では低水準のままです。弥生時代の2個体には新たな祖先的構成要素が現れ、アムール川流域やその周辺地域で見られる特性と類似した割合です。これらには、アジア北東部現代人で支配的なより大きな構成要素(図2Cの水色)と、ずっと広範なアジア東部現代人祖先系統を表すより小さな構成要素(図2Cの黄色)が含まれます。このアジア東部人構成要素は、古墳時代と現代の日本列島の人口集団で支配的になります。以下は本論文の図2です。
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●地理的孤立による縄文人系統の深い分岐

 「縄文人」の他の人口集団からの分離は、以前の研究で提案されているように、ユーラシア東部人の間で「縄文人」が異なる系統を形成する、という見解を裏づけます(関連記事)。この分岐の深さを調べるため、TreeMixを用いて他の古代人および現代人17人口集団と「縄文人」の系統発生関係が再構築されました(図3A)。その結果、「縄文人」の分岐は、上部旧石器時代ユーラシア東部人、具体的には北京の南西56km にある田园(田園)洞窟(Tianyuan Cave)で発見された4万年前頃の男性個体(関連記事)およびモンゴル北東部のサルキート渓谷(Salkhit Valley)で発見された34950〜33900年前頃の女性個体(関連記事)と、アジア南東部狩猟採集民のホアビン文化(Hòabìnhian)個体の早期の分岐後ではあるものの、アジア東部現代人や、3150〜2400年前頃となるのチョクホパニ(Chokhopani)のネパール古代人や、バイカルの狩猟採集民(前期新石器時代)や、極東ロシアのプリモライ(Primorye)地域の悪魔の門洞窟(Chertovy Vorota Cave)個体(関連記事)や、末期更新世アラスカの幼児個体USR1(関連記事)を含む他の標本の分岐前と推測されます。

 さらに、f4統計(ムブティ人、X;ホアビン文化個体/悪魔の門新石器時代個体、縄文人)を用いての対称性モデル検定により、この系統樹の他の深く分岐した狩猟採集民2系統間の「縄文人」の位置が確証されました。これらの結果から示されるのは、縄文時代開始以降の本論文のデータセットにおける全てのアジア東部個体は、より早期に分岐したホアビン文化個体よりも「縄文人」の方と高い類似性を有するものの、悪魔の門新石器時代個体との比較ではより低い類似性を有している、ということです。これは、以前に提案された「縄文人」をホアビン文化個体関連系統とアジア東部関連系統の混合とするモデル(関連記事)よりもむしろ、ユーラシア東部の異なる狩猟採集民3系統の推定される系統発生を裏づけます。また、検証された全ての移住モデルにわたって、「縄文人」から現代日本人への遺伝子流動が一貫して推定され、8.9〜11.5%の範囲の遺伝的寄与を伴います。これは、本論文のADMIXTURE分析(図2C)から推定された現代日本人の平均的な「縄文人」構成要素9.31%と一致します。これらの結果は、縄文人の深い分岐と現代日本人集団への祖先的つながりを示唆します。

 集団遺伝学モデル化を適用して、「縄文人」系統の出現年代が推定されました。本論文の手法は、ROH(runs of homozygosity)のゲノム規模パターンを用いて、最古にして最良の標本であるJpKa6904で観察されたROH連続体に最も適合するシナリオを特定します。ROHとは、両親からそれぞれ受け継いだと考えられる同じアレルのそろった状態が連続するゲノム領域(ホモ接合連続領域)で、長いROHを有する個体の両親は近縁関係にある、と推測されます。ROHは人口集団の規模と均一性を示せます。ROH区間の分布は、有効人口規模と、1個体内のハプロタイプの2コピー間の最終共通祖先の時間を反映しています(関連記事)。

 8800年前頃となる縄文時代個体JpKa6904は高水準のROHを有しており、とくに短いROH(最近の近親交配よりもむしろ人口の影響に起因します)の頻度はこれまで報告された中で(関連記事)最高です(図3B)。このパターンは、縄文時代個体群で共有される強い遺伝的浮動と相まって、縄文時代人口集団が深刻な人口ボトルネック(瓶首効果)を経た、と示唆します。人口規模と分岐年代のパラメータ空間検索では、縄文人系統は20000〜15000年前頃に出現したと推定され、その後は少なくとも縄文時代早期まで、1000人程度のひじょうに小さな人口規模が維持されました(図3C)。これはLGM末における海面上昇および大陸部からの陸橋の切断と一致しており、日本列島における縄文土器の最初の出現の直前です。

 次にf4統計(ムブティ人、X;縄文人、漢人/傣人/日本人)を用いて、「縄文人」がユーラシア大陸部の上部旧石器時代の人々と、分岐した後から日本列島において孤立する前に接触したのかどうか、検証されました。検証対象の上部旧石器時代個体のうち、31600年前頃のヤナRHS(Yana Rhinoceros Horn Site)個体のみが漢人や傣(Dai)人や日本人よりも「縄文人」と有意に密接です。この類似性は、これら参照人口集団を他のアジア南東部および東部人と置き換えても依然として検出可能で、「縄文人」と古代北シベリア人の祖先間の遺伝子流動を裏づけます。ヤナRHS個体も含まれる古代北シベリア人は、LGM前にユーラシア北部に広範に存在した人口集団です(関連記事)。

 最後に、縄文時代人口集団内の時空間的な変動の可能性が調べられました。縄文時代の早期と前期と中期・後期・晩期で定義される3つの時代区分集団は、古代および現代のユーラシア大陸部人口集団と類似の水準の共有された遺伝的浮動を示し、これら3時代区分における日本列島外からの遺伝的影響はわずか若しくはなかった、と示唆されます(図3D)。このパターンは、f4統計(ムブティ人、X;縄文人i、の縄文人j)で観察される、有意な遺伝子流動の不在によりさらに裏づけられます。縄文人iと縄文人jは、縄文時代の3時代区分集団の任意の組み合わせです。これら「縄文人」は同様に、地理により区分されたさいに(本州と四国と礼文島)、大陸部人口集団との遺伝的類似性において多様性を示しません。「縄文人」内で唯一観察される違いは、本州の遺跡群間のわずかに高い違いで、本州と他の島々との間の限定的な遺伝子流動を伴う島嶼効果を示唆します。全体的にこれらの結果は、縄文時代人口集団内の限定的な時空間にわたる遺伝的変異を示しており、アジアの他地域からの数千年にわたるほぼ完全な孤立との見解を裏づけます。以下は本論文の図3です。
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●弥生時代における水田稲作の拡散

 弥生文化と関連する西北九州の2個体(図1)は、「縄文人」とユーラシア大陸部両方の祖先系統を有する、と明らかになりました(図2)。本論文のqpAdm分析は、「弥生人」が「縄文人」の混合していない子孫である、とのモデルを却下します。これは、この西北九州の弥生時代2個体を「縄文人」系統の一部に分類した以前の形態学的評価とは対照的です。西北九州の弥生時代2個体における非「縄文人」の祖先的構成要素は、日本列島に稲作を導入した人々によりもたらされた可能性があります。まずf4統計(ムブティ人、X;縄文人、弥生人)を用いて、あらゆる古代のユーラシア東部人口集団が「縄文人」よりも「弥生人」の方と高い遺伝的類似性を有するのか、検証されました(図4A)。その結果、黄河流域人口集団も含めてユーラシア大陸部の標本抽出された古代の人口集団のほとんどは、「弥生人」との有意な遺伝的類似性を示しません。黄河流域では稲作農耕が長江下流域からまず拡大しました。長江流域はジャポニカ米の起源地と仮定されています。

 しかし、「弥生人」との過剰な類似性は稲作と文化的関連を有さない人口集団で検出されました。それは中国北東部の西遼河流域の青銅器時代個体(WLR_BA_o)とハミンマンガ(Haminmangha)の中期新石器時代個体、バイカル湖のロコモティヴ(Lokomotive)前期新石器時代個体とシャマンカ(Shamanka)の前期新石器時代個体とウスチベラヤ(UstBelaya)前期青銅器時代個体、シベリア北東部のエクヴェン(Ekven)鉄器時代個体です。この類似性は、他の青銅器時代西遼河個体(WLR_BA_o)と同じ遺跡で発見された別の2個体(WLR_BA)では観察されませんでした。以前の研究でも、WLR_BA_oとWLR_BAでは系統構成要素に大きな違いが観察されていました(関連記事)。この2個体はWLR_BA_o(1.8±9.1%)よりもずっと高い黄河関連祖先系統(81.4±6.7%)を有しており、検証された古代黄河流域人口集団が「弥生人」の有していた非「縄文人」祖先系統の主要な供給源になった可能性は低そうです。

 ユーラシア大陸部祖先系統の6つの可能性がある供給源をさらに区別するため、次にqpWaveを用いて「弥生人」が「縄文人」と各候補供給源の2方向混合としてモデル化されました。混合モデルはこれらのうち3つで確実に裏づけられます。つまり、バイカル湖の狩猟採集民と西遼河中期新石器時代もしくは青銅器時代個体で、高水準のアムール川地域祖先系統を有します。これらの集団はすべて、支配的なアジア北東部祖先的構成要素を共有しています(図2C)。これら各3集団を第二供給源として用いると、qpAdmではそれぞれ55.0±10.1%、50.6±8.8%、58.4±7.6%の「縄文人」の混合率が推定され、西遼河中期新石器時代および青銅器時代個体を単一の供給源人口集団に統合すると、「縄文人」の混合率は61.3±7.4%となります。

 さらにf4統計(ムブティ人、縄文人;弥生人1、弥生人2)により、「縄文人」祖先系統は「弥生人」2個体間で同等と確認されます。これらの結果は、在来の狩猟採集民と移民の西北九州の弥生時代共同体への寄与がほぼ同等の比率であることを示唆します。この同等性はユーラシア西部の農耕移民と比較した場合とくに注目に値し、ユーラシア西部では最小限の狩猟採集民からの寄与が多くの地域で観察されており、その中にはユーラシアの島嶼地理的極限として日本列島を反映している、ブリテン諸島やアイルランドも含まれます(関連記事1および関連記事2)。本論文の混合モデルで用いられた西遼河人口集団は自身では稲作農耕を行なっていませんでしたが、日本列島への農耕拡大の仮定的な経路のすぐ北方に位置しており、本論文の結果はそれを裏づけます。これは、中国北東部の山東半島から遼東半島(朝鮮半島北西部)へと続き、その後で朝鮮半島を経由して日本列島へと到達しました。

 弥生文化が日本列島へどのように拡大したのか、外群f3統計を用いてさらに調べられ、「弥生人」と各「縄文人」との間の遺伝的類似性が測定されました。その結果、共有された遺伝的浮動の強さが「弥生人」の位置からの距離と有意に相関している、と明らかになりました(図4C)。つまり、縄文時代の遺跡が弥生時代の遺跡に近いほど、その遺跡の「縄文人」は「弥生人」とより多くの遺伝的浮動を共有します。この結果は朝鮮半島経由の稲作の導入と、その後の日本列島南部における在来の「縄文人」集団との混合を裏づけます。以下は本論文の図4です。
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●古墳時代の移民の遺伝的祖先系統

 歴史的記録は、古墳時代におけるユーラシア大陸部から日本列島への継続的な人口集団の移動を強く裏づけます。しかし、古墳時代3個体のqpWaveモデル化は、「弥生人」と適合する「縄文人」祖先系統とアジア北東部祖先系統の2方向混合を却下します。したがって、以前の形態学的研究と同じく、本論文のf3外群統計や主成分分析やADMIXTUREクラスタで裏づけられるように、「古墳人」はその祖先的構成要素の観点では遺伝的に「弥生人」と異なっています。古墳時代個体群の遺伝的構成に寄与した追加の祖先的集団を特定するため、f4統計(ムブティ人、X;弥生人、古墳人)を用いて「古墳人」と各ユーラシア大陸部人口集団との間の遺伝的類似性が検証されました(図5A)。その結果、本論文のデータセットにおける古代もしくは現代の人口集団のほとんどは、「弥生人」よりも「古墳人」の方と有意に密接と明らかになりました。この知見は、弥生時代標本と古墳時代標本のゲノムを分離する6世紀間に日本列島へ追加の移住があったことを示唆します。

 「弥生人」と、「古墳人」に有意により近いと本論文のf4統計から特定された人口集団との間の2方向混合の検証により、この移住の起源を絞り込むことが試みられました。この混合モデルは検証された59人口集団のうち5人口集団でのみ、P>0.05と確実に裏づけられました。次にqpAdmを適用して「弥生人」と各起源集団からの遺伝的寄与が定量化されました。2方向混合モデルは、さまざまな参照セットからの裏づけを欠いていたので、追加の2人口集団においてその後で却下されました。残りの3人口集団(漢人と朝鮮人と黄河後期青銅器時代・鉄器時代集団)は「古墳人」への20〜30%の寄与を示します。これら3集団はすべて強い遺伝的浮動を共有しており、そのADMIXTURE特性では広くアジア東部祖先系統の主要な構成要素で特徴づけられます。

 「古墳人」における追加の祖先系統の起源をさらに選抜するため、「弥生人」祖先系統を「縄文人」およびアジア北東部人祖先系統と置換することにより、3方向混合が検証されました。その結果、漢人のみが祖先系統の供給源としてモデル化に成功し(図5B)、あらゆるあり得る2方向混合モデルよりも3方向混合が大幅によく適合します。「弥生人」と「古墳人」との間で「縄文人」祖先系統が約4倍に「希釈」されていることを考えると、これらの結果から、国家形成段階でアジア東部人祖先系統を有する移民が大規模に流入した、と示唆されます。以下は本論文の図5です。
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 次に、弥生時代と古墳時代の両方で観察されたユーラシア大陸部祖先系統が、アジア北東部とアジア東部の祖先系統の中間水準を有する同じ供給源に由来する可能性について調べられました。「古墳人」の2方向混合により適合すると明らかになった唯一の候補は、黄河流域の後期青銅器時代および鉄器時代個体群(YR_LBIA)でしたが、これは参照セット全体では一貫していませんでした。「縄文人」を除いて「弥生人」との統計的に有意な遺伝子流動を示さない(図4A)にも関わらず、YR_LBIAと「縄文人」との間の2方向混合モデルも「弥生人」に適合する、と明らかになりました。この黄河流域人口集団は、qpAdmにより推定されるように、アジア北東部祖先系統を約40%、アジア東部祖先系統を約60%(つまり漢人)有する中間的な遺伝的特性を有しています。したがって、これは特定のモデルで「弥生人」と「古墳人」の両方に適合する中間の遺伝的特性で、「弥生人」では37.4±1.9%、「古墳人では」87.5±0.8%の流入となります。これらの結果は、単一の供給源からの継続的な遺伝子流動が、「弥生人」と「古墳人」との間の遺伝的変化の説明に充分である可能性を示唆します。

 しかし、より広範な分析では、遺伝子流動の単一の供給源は移住の2回の異なる波よりも可能性が低そうである、と強く示唆されます。まず、ADMIXTUREで特定されたアジア東部祖先系統へのアジア北東部祖先系統の割合は、「弥生人(1.9:1)」と「古墳人(1:2.5)」との間で際立って異なっていました(図2C)。次に、ユーラシア大陸部の類似性におけるこの対比は、f統計のさまざまな形態でも観察され、「弥生人」がアジア北東部祖先系統との有意な類似性を有する、というパターンが繰り返されるのに対して、「古墳人」は漢人や黄河流域古代人口集団を含む他のアジア東部人とは緊密なまとまりを形成します(図5A)。

 最後に、DATESにより「古墳人」における混合年代から2つの波のモデルへの裏づけが見つかります。中間的な人口集団(つまり、YR_LBIA)との単一の混合事象は、1840±213年前頃に起きたと推定され、これは3000年前頃となる弥生時代の開始のずっと後になります。対照的に、2つの異なる供給源との2回の別々の混合事象が想定されるならば、結果の推定値は弥生時代および古墳時代のそれぞれの開始年代と一致する年代に適合し、「弥生人」に関しては「縄文人」祖先系統とアジア北東部祖先系統との間の混合は3448±825年前、「古墳人」に関しては「縄文人」祖先系統とアジア東部祖先系統の混合は1748±175年前と推定されます。これらの遺伝学的知見は、弥生時代と古墳時代におけるユーラシア大陸部からの新たな人々の到来を記録する、考古学的証拠および歴史的記録の両方によりさらに裏づけられます。


●現代日本人における「古墳人」の遺伝的影響

 本論文で検証対象となった古墳時代の3個体は、遺伝的に現代日本人と類似しています(図2)。これは、古墳時代以降日本列島(の本州・四国・九州を中心とする「本土」)の人口集団の遺伝的構成に実質的な変化がないことを示唆します。現代日本人標本で追加の遺伝的祖先系統の兆候を探すため、f4統計(ムブティ人、X;古墳人、縄文人)を用いて、ユーラシア大陸部人口集団が「古墳人」と比較して現代日本人のゲノムと優先的な類似性を有するのかどうか、検証されました。その結果、古代の人口集団の一部は現代日本人よりも「古墳人」の方と高い類似性を示しますが、そのうちどれも「古墳人」に存在する祖先系統の追加の供給源としてqpAdmでは裏づけられません。意外にも、「古墳人」を除いて現代日本人との追加の遺伝子流動を示す古代もしくは現代の人口集団は存在しません。

 本論文の混合モデル化では、現代日本人集団は「縄文人」もしくは「弥生人」祖先系統の増加がないか、現代のアジア南東部人かアジア東部人かシベリア人に代表される追加の祖先の導入なしに、「古墳人」祖先系統により充分に説明される、と確証されます。現代日本人集団は「古墳人」における3方向混合として同じ祖先的構成要素の組み合わせを有しており、「古墳人」と比較して現代日本人においてアジア東部祖先系統のわずかな上昇があります。これは、ある程度の遺伝的連続性を示唆しますが、絶対的ではありません。

 「古墳人」と現代日本人集団との間の連続性の厳密なモデル(つまり、「古墳人」系統固有の遺伝的浮動がない場合)は却下されます。しかし、「古墳人(13.1±3.5%)」と比較して、日本人集団(15.0±3.8%)における「縄文人」祖先系統の「希釈」はなく、ユーラシア大陸部からの移住により「縄文人」祖先系統が顕著に減少した弥生時代と古墳時代の場合とは対照的です。「混合なし」モデルを伴うqpAdmによる「古墳人」と日本人との間の遺伝的クレード(単系統群)性を検証すると、「古墳人」は日本人とクレードを形成する、と明らかになりました。これらの結果から、歯の特徴と非計量的頭蓋特徴でも裏づけられているように、国家形成までに確立された3つの主要な祖先的構成要素の遺伝的特性が、現代日本人集団にとって基盤となりました。


●考察

 本論文のデータは、現代日本人集団の三重祖先系統構造の証拠を提供し、混合した「縄文人」と「弥生人」起源の確立された二重構造モデルを洗練します(図6)。「縄文人」はLGM後の日本列島内の長期の孤立と強い遺伝的浮動のため独自の遺伝的変異を蓄積し、それは現代日本人の内部における独特な遺伝的構成要素の基礎となりました。弥生時代はこの孤立の終わりを示し、遅くとも2300年前頃に始まるアジア東部本土からのかなりの人口集団の移住を伴いました。しかし、日本列島の先史時代および原始時代となるその後の農耕期と国家形成期に日本列島に到来した人々の集団間では、明確な遺伝的差異が見つかります。「弥生人」の遺伝的データは、形態学的研究で裏づけられるように、日本列島におけるアジア北東部祖先系統の存在を記録していますが、「古墳人」では広範なアジア東部祖先系統が観察されました。「縄文人」と「弥生人」と「古墳人」の各クラスタを特徴づける祖先は、現代日本人集団の形成に大きく寄与しました。以下は本論文の図6です。
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 「縄文人」の祖先的系統は、他のアジア東部の古代人および現代人とは深く分岐しており、アジア南東部に起源があった、と提案されています。この分岐の年代は以前には38000〜18000年前頃(関連記事)と推定されていました。ROH特性を有する本論文のモデル化では、8800年前頃の「縄文人」の分析によりこの年代が20000〜15000年前頃の下限範囲に絞り込まれています(図3)。日本列島は28000年前頃となるLGM開始の頃には朝鮮半島を通って到来できるようになり、ユーラシア大陸部と日本列島との間の人口集団の移動が可能となりました。海面上昇によるその後の17000〜16000年前頃となる対馬海峡の拡大により、「縄文人」系統はユーラシア大陸部の他地域から孤立したかもしれず、それは縄文土器製作の最古の証拠とも一致します。本論文のROHモデル化は、「縄文人」が縄文時代早期には1000人以下の小さな有効人口規模を維持した、と示しており、その後の縄文時代もしくは日本列島のさまざまな島々全域で、そのゲノム特性にほとんど変化が観察されませんでした。

 上述のヨーロッパの大半における新石器時代への移行で記録されているように、農耕拡大はしばしば人口集団の置換により特徴づけられ、多くの地域で観察される狩猟採集民人口集団からの寄与はごく僅かです。しかし、先史時代の日本列島における農耕への移行には、置換というよりもむしろ同化の過程が含まれており、西北九州の遺跡ではほぼ均等な在来の「縄文人」と新たな移民からの遺伝的寄与があった、との遺伝的証拠が見つかりました。これは、日本列島の少なくとも一部が、弥生時代開始期における農耕移民と匹敵する「縄文人」集団を支えていた、と示唆しており、それは一部の縄文時代共同体で行なわれていた高水準の定住に反映されています。

 「弥生人」に継承されたユーラシア大陸部の構成要素は、本論文のデータセットではアムール川祖先系統を高水準で有する西遼河流域の中期新石器時代および青銅器時代の個体群により最もよく表されます(HMMH_MN およびWRL_BA_o)。西遼河流域の人口集団は時空間的に遺伝的には不均質です(関連記事)。6500〜3500年前頃となる中期新石器時代から後期新石器時代への移行は、黄河祖先系統の25%から92%の増加により特徴づけられ、アムール川祖先系統は75〜8%へと激減し、これは雑穀農耕の強化と関連しているかもしれません。しかし、西遼河流域では3500年前頃に始まる青銅器時代に人口構造が変わり、それはアムール川流域からの人々の明らかな流入に起因します。これは、トランスユーラシア語族とシナ語族の下位集団間の集中的な言語借用の始まりと一致します。「弥生人」への過剰な類似性は、古代アムール川流域人口集団もしくは現代のツングース語族話者人口集団と遺伝的に密接な個体群で観察されます(図4)。

 本論文の知見から、水田稲作が、西遼河流域周辺のどこかに居住していたものの、さらに北方の人口集団に祖先系統の大半の構成要素が由来する人々により日本列島にもたらされ、稲作の拡大は西遼河流域の南側に起源があった、と示唆されます。古墳文化の最も顕著な考古学的特徴は、鍵穴型の塚にエリートを埋葬する習慣で、その大きさは階級と政治権力を反映しています。本論文の検証対象となった古墳時代の3個体はそうした古墳に埋葬されておらず、この3個体は下層階級だった、と示唆されます。この3個体のゲノムは、日本列島へのおもにアジア東部祖先系統を有する人々の到来と、「弥生人」集団との混合を記録します(図5)。この追加の祖先系統は、本論文の分析では複数の祖先的構成要素を有する漢人により最もよく表されます。最近の研究では、新石器時代以降人々が形態学的に均質になっていると報告されており、それは古墳時代の移民がすでに高度に混合していたことを示唆します。

 いくつかの一連の考古学的証拠は、おそらくは弥生時代と古墳時代の移行期における朝鮮半島南部からの可能性が最も高い、日本列島への新しい大規模な移民の到来を裏づけます。日本列島と朝鮮半島と中国の間の強い文化的および政治的類似性は、中国の鏡と貨幣、鉄生産のための朝鮮半島の原材料、剣など金属製道具に刻まれた漢字を含む、いくつかの輸入品からも観察されます。海外からのこれらの資源の入手は、日本列島内の共同体間の激しい競争を引き起こしました。これは、支配のための、黄海沿岸などユーラシア大陸部の国家との制度的接触を促進しました。したがって、古墳時代を通じて継続的な移住と大陸の影響は明らかです。本論文の知見は、この国家形成段階における、新たな社会的・文化的・政治的特徴の出現と関わる遺伝的交換の強い裏づけを提供します。

 本論文の分析には注意点があります。まず「弥生人」については、弥生文化と関連する骨格遺骸が形態学的に「縄文人」と類似している地域(西北九州)の2個体のみに分析が限定されています。他地域もしくは他の年代の弥生時代個体群は異なる祖先的特性を有しているかもしれません。たとえば、ユーラシア大陸部的もしくは「古墳人」的祖先系統です。次に、本論文の標本抽出は無作為ではなく、本論文で分析された古墳時代の個体群は同じ埋葬遺跡に由来します。弥生時代と古墳時代の人口集団の遺伝的祖先系統における時空間的変異を調べて、本論文で提案された日本列島の人口集団の三重構造の包括的な見解を提供するには、追加の古代ゲノムデータが必要です。

 要約すると本論文は、農耕と技術的に促進された人口集団の移動が、ユーラシア大陸部の他地域から孤立していた数千年を終わらせた前後両方の期間において日本列島に居住していた人々のゲノム特性を変化させたことについて、詳細な調査を提供します。これら孤立した地域の個体群の古代ゲノミクスは、人口集団の遺伝的構成への大きな文化的変化の影響の程度を観察する、特有の機会を提供します。


●私見

 以上、本論文についてざっと見てきました。本論文は縄文時代と古墳時代の複数個体の新たな核ゲノムデータを報告しており、とくにこれまで佐賀市の東名貝塚遺跡の1個体(関連記事)でしか報告されていなかった西日本「縄文人」の核ゲノムデータを、広範な年代と地域の複数個体から得ていることは、たいへん意義深いと思います。これにより、時空間的にずっと広範囲の「縄文人」の遺伝的構造がさらに詳しく明らかになりました。また、愛媛県久万高原町の上黒岩岩陰遺跡の1個体(JpKa6904)の年代は8991〜8646年前頃で、現時点では核ゲノムデータが得られた日本列島最古の個体になると思います。日本列島において更新世の人類遺骸の発見数がきわめて少ないことを考えると、この点でも本論文の意義は大きいと思います。

 本論文でまず注目されるのは、「縄文人」は時空間的に広範囲にわたって遺伝的にかなり均質な集団だった、と改めて示された点です。本論文で分析対象とされていない、7980〜7460年前頃となる東名貝塚遺跡の1個体や千葉市の六通貝塚の4000〜3500年前頃の個体群(関連記事)も、既知の「縄文人」と遺伝的に一まとまりを形成します。さらに、弥生時代早期となる佐賀県唐津市大友遺跡で発見された女性個体(大友8号)も、既知の「縄文人」と遺伝的に一まとまりを形成します(関連記事)。時空間的により広範囲の「縄文人」の核ゲノムデータがさらに蓄積されるまで断定はできませんが、本論文が指摘するように「縄文人」は長期にわたって遺伝的には孤立した集団だった可能性が高そうです。これは以前から予測されていたので(関連記事)、とくに意外ではありませんでした。縄文時代にアジア東部大陸部から日本列島にアジア東部祖先系統を有する個体が到来し、日本列島で在来の「縄文人」と混合して子供を儲けた可能性は高そうですが、「縄文人(的な遺伝的構成の個体)」のゲノムで明確に検出されるほどの影響は残らなかったのだろう、というわけです。

 一方で朝鮮半島南端では、8300〜4000年前頃にかけて「縄文人」的な遺伝的構成要素が持続していたようで、遼河地域の紅山(Hongshan)文化集団的な遺伝的構成要素と「縄文人」的な遺伝的構成要素とのさまざまな混合割合の個体が存在し、中には遺伝的にはほぼ「縄文人」と言える個体も確認されています(関連記事)。上黒岩岩陰遺跡の1個体(JpKa6904)から、遅くとも9000年前頃までには「縄文人」的な遺伝的構成は確立していたようですから、朝鮮半島南端の8300〜4000年前頃の個体の「縄文人」的な遺伝的構成要素は、日本列島から朝鮮半島に渡った「縄文人」によりもたらされたのでしょう。ただ、この朝鮮半島南端の8300〜4000年前頃の個体群は、日本列島や朝鮮半島の現代人に強い遺伝的影響を残していないかもしれません。

 「縄文人」の起源について本論文は、ホアビン文化個体関連系統とアジア東部関連系統の混合とするモデル(関連記事)よりも、ユーラシア東部系集団において、ホアビン文化集団よりも後にアジア東部現代人の主要な祖先集団と20000〜15000年前頃に分岐した、とのモデルの方が妥当と推測しています。しかし、現生人類(Homo sapiens)とネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)や種区分未定のデニソワ人(Denisovan)など非現生人類ホモ属との混合でさえたいへん複雑で、単純な系統樹で表すことが困難ですから(関連記事)、現生人類集団間の関係を単純な系統樹で表すことには慎重であるべきだと思います。もちろん、現生人類がアフリカから世界中の広範な地域に拡散する過程で、LGMのような寒冷期もあり、集団の孤立と遺伝的分化が進みやすかったでしょうから、系統樹で表すことに合理性があることも確かだと思います。しかし、多くの集団は遺伝的に大きく異なる集団間の複雑な混合により形成されたでしょうから、単純な系統樹で表すことに問題があることも否定できないと思います。

 具体的に本論文の系統樹の問題点として、モンゴル北東部のサルキート渓谷で発見された34950〜33900年前頃の女性個体(サルキート個体)が挙げられます。サルキート個体は本論文の系統樹では、出アフリカ現生人類集団がユーラシア東西系統に分岐した後、ユーラシア東部系集団で最初に分岐した、と位置づけられています。サルキート個体の分岐後のユーラシア東部系集団では、まずパプア人、次に田園個体、その後でホアビン文化集団が分岐し、「縄文人」はその後の分岐となります。しかし、他の研究ではサルキート個体は田園個体と同じ系統に位置づけられています(関連記事)。この違いは、サルキート個体にはユーラシア東部系集団と遺伝的に大きく異なるユーラシア西部系集団からの一定以上の遺伝的影響があるため(関連記事)と考えられます。

 本論文の系統樹は正確な人口史を正確には表せていない可能性があり、「縄文人」が遺伝的に大きく異なる集団間の混合により形成された可能性は、まだ否定できないように思います。より具体的には、出アフリカ現生人類集団のうち、ユーラシア東西系統の共通祖先と分岐した集団(ユーラシア南部系集団)が存在し、ユーラシア東部系集団とユーラシア南部系集団との複雑な混合により「縄文人」もホアビン文化集団も形成され、それぞれの(複数の)祖先集団も相互に遺伝的には深く分岐していた、と想定しています(関連記事)。

 本論文の見解で大きな問題となるのは、「弥生人」を佐世保市の下本山岩陰遺跡の2個体に代表させていることです。本論文でも、「弥生人」を形態学的に「縄文人」との類似性が指摘されている西北九州の弥生時代人骨の下本山岩陰遺跡の2個体に代表させていることについて、地域もしくは他の年代の弥生時代個体群は異なる祖先的特性を有しているかもしれない、と指摘されていました。じっさい、弥生時代中期となる福岡県那珂川市の安徳台遺跡の1個体(安徳台5号)は形態学的に「渡来系弥生人」と評価されていますが、核ゲノム解析により現代日本人の範疇に収まる、と指摘されています(関連記事)。同じく弥生時代中期の「渡来系弥生人」とされる福岡県筑紫野市の隈・西小田遺跡の個体も、核ゲノム解析では現代日本人の範疇に収まります。現代日本人の平均と比較しての「縄文人」構成要素の割合は、安徳台5号がやや高く、隈・西小田遺跡の個体はやや低いと推定されています。

 弥生時代の日本列島の人類集団は遺伝的異質性がかなり高かったと考えられます(関連記事)。読売新聞の記事によると、篠田謙一氏は「弥生人の遺伝情報は、地域や時代で差があり、現代の日本人に近い例もある。当時の実態を解明するには、解析する人骨をさらに増やす必要がある」と指摘しており、その通りだと思います。安徳台5号も隈・西小田遺跡個体も下本山岩陰遺跡の2個体に先行し、下本山岩陰遺跡の2個体の頃(2001〜1931年前頃)には、少なくとも九州において現代日本人に近い遺伝的構成の集団が存在したわけですから、下本山岩陰遺跡の2個体を「弥生人」の代表として、弥生時代後期〜古墳時代にかけて日本列島にユーラシア大陸部から大規模な移民が到来した、との本論文の見解にはかなり疑問が残ります。

 本論文が検証対象とした岩出横穴墓の3個体は古墳時代終末期となり、年代は紀元後6〜7世紀です。同じ古墳時代でも岩出横穴墓の3個体よりは古い和歌山県田辺市の磯間岩陰遺跡の第1号石室1号個体(紀元後398〜468年頃)および2号個体(紀元後407〜535年頃)は、核ゲノム解析の結果、「縄文人」構成要素がそれぞれ52.9〜56.4%と42.4〜51.6%と推定されています(関連記事)。おそらく弥生時代だけではなく古墳時代にも、本州・四国・九州を中心とする日本列島「本土」の人類集団にはかなりの遺伝的異質性があり、時空間的な違いがあったと考えられますが、今後同一遺跡もしくは地域内で「古墳人」の核ゲノムデータが蓄積されていけば、階層差も確認されるようになるかもしれません。日本列島における現代人のような遺伝的構造の形成は、古墳時代の後もよく考慮しなければならないように思います。

 本論文は日本列島の人類集団の遺伝的構成において、縄文時代から弥生時代の移行期と弥生時代から古墳時代の移行期に大きな変化を見出し、「弥生人」にはアジア北東部祖先系統の影響が「縄文人」祖先系統に近いくらいの割合で見られ、「古墳人」ではアジア北東部祖先系統が優勢になる、と推測しています。しかし最近の別の研究では、現代日本人の遺伝的構成は低い割合の「縄文人」関連祖先系統と高い割合の遼河地域の夏家店上層文化集団関連祖先系統の混合と推定されており、朝鮮半島中部西岸に位置する2800〜2500年前頃のTaejungni遺跡の個体(Taejungni個体)の遺伝的構成が現代日本人に類似している、と指摘されています(関連記事)。これは、現代日本人の基本的な遺伝的構成が朝鮮半島において形成され、一方で朝鮮半島の人類集団ではその後で大きな遺伝的変化があり、現代朝鮮人のような遺伝的構成が確立したことを示唆します。

 上述のように「弥生人」は遺伝的異質性が高かったと考えられ、中には遺伝的に現代日本人の範疇に収まる集団も存在しました。本論文で提示された古代ゲノムデータとともに、本論文では取り上げられなかった日本列島の弥生時代個体群や朝鮮半島の古代人のゲノムデータも含めて、日本列島の人口史を再検討する必要があると思います。本論文と他の研究を組み合わせて解釈した現時点での大まかな想定は、朝鮮半島において紀元前二千年紀後半〜紀元前千年紀前半にかけて、遼河地域青銅器時代集団的な遺伝的構成の集団と「縄文人」構成要素を高い割合で有する集団が混合して現代日本人の基本的な遺伝的構成が形成され、その集団が弥生時代に日本列島に到来して在来の「縄文人」と混合し(縄文時代晩期に日本列島に存在した「縄文人」の現代日本人における遺伝的影響は数%程度かもしれません)、その後で紀元前千年紀後半以降に朝鮮半島では黄河流域集団に遺伝的により近づくような大規模な遺伝的変化があり、そうした集団が古墳時代から飛鳥時代にかけて日本列島に継続的に到来し、奈良時代以降の日本列島内の歴史的展開を経て現代「本土」日本人が形成された、というものです。


参考文献:
Cooke H. et al.(2021): Ancient genomics reveals tripartite origins of Japanese populations. Science Advances, 7, 38, eabh2419.
https://doi.org/10.1126/sciadv.abh2419


https://sicambre.at.webry.info/202109/article_20.html
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/465.html#c8

[近代史5] 縄文人の起源 中川隆
27. 中川隆[-16257] koaQ7Jey 2021年9月20日 13:17:45 : 6C6SEMfD1k : YnZQeFh4aHV2cS4=[18]
雑記帳
2021年09月19日
縄文時代と古墳時代の人類の新たなゲノムデータ
https://sicambre.at.webry.info/202109/article_20.html


 縄文時代と古墳時代の人類の新たなゲノムデータを報告した研究(Cooke et al., 2021)が報道されました。日本列島には、少なくとも過去38000年間ヒトが居住してきました。しかし、その最も劇的な文化的変化は過去3000年以内にのみ起き、その間に住民は急速に狩猟採集から広範な稲作、さらには技術的に発展した「帝国」へと移行しました。これらの急速な変化は、ユーラシア大陸部からの地理的孤立とともに、アジアにおける農耕拡大と経済強化に伴う移動パターンを研究するうえで、日本を独特な縮図としています。

 農耕文化の到来前には、日本列島には土器により特徴づけられる縄文文化に区分される、多様な狩猟採集民集団が居住していました。縄文時代は最終氷期極大期(Last Glacial Maximum、略してLGM)に続く最古ドリアス期に始まり、最初の土器破片は16500年前頃までさかのぼり、世界でも最古級の土器使用者となります。縄文時代の生存戦略は多様で、人口密度は時空間により変動し、定住への傾向がありました。縄文文化は3000年前頃となる弥生時代の始まりまで続き、その頃となる水田稲作の到来により日本列島に農耕革命がもたらされました。弥生時代の後には古墳時代が1700年前頃に始まり、政治的中央集権化と帝国の統治が出現し、日本を定義するようになりました。

 日本列島の現代の人口集団の起源に関する長く提唱されてきた仮説では二重構造モデルが提案されており、日本人集団は先住の「縄文人」と後に弥生時代になってユーラシア東部本土から到来した人々との混合子孫である、と想定されました。この二重構造モデル仮説は、もともとは形態学的データに基づいて提案されましたが、学際的に広く検証され評価されてきました。遺伝学的研究により、現代日本人集団内の人口層別化が特定されており、日本列島への少なくとも2回の移住の波が裏づけられます(関連記事)。

 以前の古代DNA研究も、現代日本人集団への「縄文人」と「弥生人」の遺伝的類似性を示してきました(関連記事1および関連記事2および関連記事3および関連記事4および関連記事5)。それでも、農耕への移行とその後の国家形成段階の人口統計学的起源および影響はほとんど知られていません。歴史言語学的観点からは、日本語祖語(日琉祖語)の到来は弥生文化の発展および水田稲作の拡大と対応している、と理論化されています。しかし、弥生時代と古墳時代では考古学的文脈および大陸との関係が異なっており、知識や技術の拡大には大きな遺伝的交換が伴っていたのかどうか、不明なままです。

 本論文は、日本列島の先史時代から原始時代(先史時代と歴史時代の中間で、断片的な文献が残っている時代)までの8000年にわたる古代人12個体の新たに配列されたゲノムを報告します(図1)。本論文が把握している限りでは、これは日本列島の年代の得られた古代人ゲノムの最大のセットとなり、最古の縄文時代個体と古墳時代の最初のゲノムデータが含まれます。また既知の先史時代日本列島の古代人のゲノムも分析に含められました。具体的には、縄文時代後期の北海道礼文島(関連記事)の2個体(F5とF23)、愛知県田原市伊川津町の貝塚(関連記事)で発見された縄文時代晩期の1個体(IK002)、長崎県佐世保市の下本山岩陰遺跡(関連記事)の弥生文化と関連する2個体です。以下は本論文の図1です。
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 下本山岩陰遺跡の2個体の骨格は、「移民型」よりもむしろ「縄文人的」な特徴を示しますが、他の考古学的資料は弥生文化との関連を明確に裏づけます。この形態学的評価にも関わらず、下本山岩陰遺跡の2個体は「縄文人」と比較して現代日本人集団との遺伝的類似性の増加を示しており、大陸部集団との混合が弥生時代後期にはすでに進展していたことを示唆します。これら日本列島古代人のゲノムは、草原地帯中央部(関連記事)および東部(関連記事)やシベリア(関連記事)やアジア南東部(関連記事)やアジア東部(関連記事1および関連記事2)にまたがるより大規模なデータセットと統合され、縄文時代の先農耕人口集団と、日本列島現代人の遺伝的特性を形成してきたその後の移民との混合をよりよく特徴づけることが、本論文の目的です。


●先史時代および原始時代の日本列島の古代人ゲノムの時系列

 本論文は、6ヶ所の遺跡で発掘された14個体のうち、新たに配列に成功した12個体のゲノムデータを報告します。平均網羅率は0.88〜7.51倍です。6ヶ所の遺跡は、縄文時代早期となる愛媛県久万高原町の上黒岩岩陰遺跡、縄文時代前期となる富山県富山市の小竹貝塚および岡山県倉敷市の船倉貝塚、縄文時代後期となる千葉県船橋市の古作貝塚、縄文時代後期の平城貝塚(愛媛県愛南町)、古墳時代終末期となる石川県金沢市の岩出横穴墓です。12個体のうち9個体は縄文文化と関連しており、内訳は、上黒岩岩陰遺跡が1個体(JpKa6904)、小竹貝塚が4個体(JpOd274とJpOd6とJpOd181とJpOd282)、船倉貝塚が1個体(JpFu1)、古作貝塚が2個体(JpKo2とJpKo13)、平城貝塚が1個体(JpHi01)です。残りの3個体は古墳時代末期となる岩出横穴墓で発見されています(JpIw32とJpIw31とJpIw33)。これら12個体で親族関係は確認されませんでした。

 縄文時代の9個体のミトコンドリアDNA(mtDNA)ハプログループ(mtHg)はすべてN9bかM7a系統で、両者は縄文時代集団と強く関連しており、現代では日本列島外では稀です。縄文時代の9個体のうち3個体は男性で、そのY染色体ハプログループ(YHg)はすべてD1b1(現在の分類名はD1a2a1だと思いますので、以下D1a2a1で統一します)で、現代日本人には存在しますが、他のアジア東部現代人にはほぼ見られません。対照的に、古墳時代の3個体のmtHgはアジア東部現代人と共通しています(B5a2a1bとD5c1aとM7b1a1a1)。そのうち1個体は男性で、YHgはO3a2c(現在の分類名はO2a2bだと思いますので、以下O2a2bで統一します)で、これはアジア東部全域、とくに中国本土で見られます。

 本論文のデータをユーラシア東部の人口統計のより広い文脈に位置づけるため、日本列島古代人のゲノムが既知の古代人および現代人のデータと組み合わされました。本論文では、現代日本人集団はSGDP(Simons Genome Diversity Project)もしくは1000人ゲノム計画3期のデータであらわされます。ただ要注意なのは、現代の日本列島全体では祖先からの異質性が存在しており、この標準的な参照セットでは充分には把握できないことです。本論文で分析された他の古代および現代の人口集団は、おもに地理的もしくは文化的文脈のいずれかで分類されています。


●異なる文化期間の遺伝的区別

 f3統計(個体1、個体2;ムブティ人)を用いて、古代と現代両方の日本列島の人口集団の個体の全てのペアワイズ比較間で共有される遺伝的浮動を調べることで、時系列内の遺伝的多様性が調べられました(図2A)。その結果、縄文時代と弥生時代と古墳時代の異なる3個体群のまとまりが明確に定義され、古墳時代個体群は現代日本人とまとまり、文化的変化には遺伝的変化が伴う、と示唆されます。縄文時代データセットにおける大きな時空間的変異にも関わらず、ひじょうに高水準の共有された浮動が12個体全ての間で観察されます。弥生時代2個体は相互に他の個体と最も密接に関連しており、古墳時代の3個体とよりも縄文時代の個体群の方と高い類似性を有しています。古墳時代と現代の日本列島の個体群は、この測定では相互にほぼ区別ができず、過去1400年間のある程度の遺伝的継続性が示唆されます。

 さらに主成分分析を用いて、大陸部人口集団に対する日本列島古代人のゲノム規模常染色体類似性が調べられました。古代人が、アジア南部と中央部と南東部と東部のSGDPデータセットの、現代の人口集団の遺伝的変異に投影されました(図2B)。その結果、日本列島古代人はPC1軸に沿って各文化名称に分離する、と観察されます。全ての縄文時代個体は密集しており、他の古代人口集団やアジア南東部および東部現代人とは離れて位置し、持続した地理的孤立が示唆されます。弥生時代の2個体はこの縄文人クラスタの近くに現れ、以前に報告された遺伝的および地理的類似性を裏づけます(関連記事)。しかし、この弥生時代の2個体はアジア東部人口集団の方へと動いており、弥生時代2個体における追加のユーラシア大陸部祖先系統(祖先系譜、祖先成分、ancestry)の存在が示唆されます。ユーラシア東部の古代人はPC2軸に沿って南から北への地理的勾配を示します。それは、中国南部→黄河→中国北部→西遼河→悪魔の門→アムール川→バイカル湖です。古墳時代の3個体は黄河クラスタの多様性内に収まります。

 ヒト起源配列(Human Origins Array)データセットでのADMIXTURE分析も、縄文時代末以後の日本列島への大陸部からの遺伝子流動の増加を裏づけます(図2C)。縄文時代個体群は異なる祖先的構成要素(図2Cの赤色)を示し、これは弥生時代2個体でも高水準で見られ、古墳時代の3個体と現代日本人では低水準のままです。弥生時代の2個体には新たな祖先的構成要素が現れ、アムール川流域やその周辺地域で見られる特性と類似した割合です。これらには、アジア北東部現代人で支配的なより大きな構成要素(図2Cの水色)と、ずっと広範なアジア東部現代人祖先系統を表すより小さな構成要素(図2Cの黄色)が含まれます。このアジア東部人構成要素は、古墳時代と現代の日本列島の人口集団で支配的になります。以下は本論文の図2です。
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●地理的孤立による縄文人系統の深い分岐

 「縄文人」の他の人口集団からの分離は、以前の研究で提案されているように、ユーラシア東部人の間で「縄文人」が異なる系統を形成する、という見解を裏づけます(関連記事)。この分岐の深さを調べるため、TreeMixを用いて他の古代人および現代人17人口集団と「縄文人」の系統発生関係が再構築されました(図3A)。その結果、「縄文人」の分岐は、上部旧石器時代ユーラシア東部人、具体的には北京の南西56km にある田园(田園)洞窟(Tianyuan Cave)で発見された4万年前頃の男性個体(関連記事)およびモンゴル北東部のサルキート渓谷(Salkhit Valley)で発見された34950〜33900年前頃の女性個体(関連記事)と、アジア南東部狩猟採集民のホアビン文化(Hòabìnhian)個体の早期の分岐後ではあるものの、アジア東部現代人や、3150〜2400年前頃となるのチョクホパニ(Chokhopani)のネパール古代人や、バイカルの狩猟採集民(前期新石器時代)や、極東ロシアのプリモライ(Primorye)地域の悪魔の門洞窟(Chertovy Vorota Cave)個体(関連記事)や、末期更新世アラスカの幼児個体USR1(関連記事)を含む他の標本の分岐前と推測されます。

 さらに、f4統計(ムブティ人、X;ホアビン文化個体/悪魔の門新石器時代個体、縄文人)を用いての対称性モデル検定により、この系統樹の他の深く分岐した狩猟採集民2系統間の「縄文人」の位置が確証されました。これらの結果から示されるのは、縄文時代開始以降の本論文のデータセットにおける全てのアジア東部個体は、より早期に分岐したホアビン文化個体よりも「縄文人」の方と高い類似性を有するものの、悪魔の門新石器時代個体との比較ではより低い類似性を有している、ということです。これは、以前に提案された「縄文人」をホアビン文化個体関連系統とアジア東部関連系統の混合とするモデル(関連記事)よりもむしろ、ユーラシア東部の異なる狩猟採集民3系統の推定される系統発生を裏づけます。また、検証された全ての移住モデルにわたって、「縄文人」から現代日本人への遺伝子流動が一貫して推定され、8.9〜11.5%の範囲の遺伝的寄与を伴います。これは、本論文のADMIXTURE分析(図2C)から推定された現代日本人の平均的な「縄文人」構成要素9.31%と一致します。これらの結果は、縄文人の深い分岐と現代日本人集団への祖先的つながりを示唆します。

 集団遺伝学モデル化を適用して、「縄文人」系統の出現年代が推定されました。本論文の手法は、ROH(runs of homozygosity)のゲノム規模パターンを用いて、最古にして最良の標本であるJpKa6904で観察されたROH連続体に最も適合するシナリオを特定します。ROHとは、両親からそれぞれ受け継いだと考えられる同じアレルのそろった状態が連続するゲノム領域(ホモ接合連続領域)で、長いROHを有する個体の両親は近縁関係にある、と推測されます。ROHは人口集団の規模と均一性を示せます。ROH区間の分布は、有効人口規模と、1個体内のハプロタイプの2コピー間の最終共通祖先の時間を反映しています(関連記事)。

 8800年前頃となる縄文時代個体JpKa6904は高水準のROHを有しており、とくに短いROH(最近の近親交配よりもむしろ人口の影響に起因します)の頻度はこれまで報告された中で(関連記事)最高です(図3B)。このパターンは、縄文時代個体群で共有される強い遺伝的浮動と相まって、縄文時代人口集団が深刻な人口ボトルネック(瓶首効果)を経た、と示唆します。人口規模と分岐年代のパラメータ空間検索では、縄文人系統は20000〜15000年前頃に出現したと推定され、その後は少なくとも縄文時代早期まで、1000人程度のひじょうに小さな人口規模が維持されました(図3C)。これはLGM末における海面上昇および大陸部からの陸橋の切断と一致しており、日本列島における縄文土器の最初の出現の直前です。

 次にf4統計(ムブティ人、X;縄文人、漢人/傣人/日本人)を用いて、「縄文人」がユーラシア大陸部の上部旧石器時代の人々と、分岐した後から日本列島において孤立する前に接触したのかどうか、検証されました。検証対象の上部旧石器時代個体のうち、31600年前頃のヤナRHS(Yana Rhinoceros Horn Site)個体のみが漢人や傣(Dai)人や日本人よりも「縄文人」と有意に密接です。この類似性は、これら参照人口集団を他のアジア南東部および東部人と置き換えても依然として検出可能で、「縄文人」と古代北シベリア人の祖先間の遺伝子流動を裏づけます。ヤナRHS個体も含まれる古代北シベリア人は、LGM前にユーラシア北部に広範に存在した人口集団です(関連記事)。

 最後に、縄文時代人口集団内の時空間的な変動の可能性が調べられました。縄文時代の早期と前期と中期・後期・晩期で定義される3つの時代区分集団は、古代および現代のユーラシア大陸部人口集団と類似の水準の共有された遺伝的浮動を示し、これら3時代区分における日本列島外からの遺伝的影響はわずか若しくはなかった、と示唆されます(図3D)。このパターンは、f4統計(ムブティ人、X;縄文人i、の縄文人j)で観察される、有意な遺伝子流動の不在によりさらに裏づけられます。縄文人iと縄文人jは、縄文時代の3時代区分集団の任意の組み合わせです。これら「縄文人」は同様に、地理により区分されたさいに(本州と四国と礼文島)、大陸部人口集団との遺伝的類似性において多様性を示しません。「縄文人」内で唯一観察される違いは、本州の遺跡群間のわずかに高い違いで、本州と他の島々との間の限定的な遺伝子流動を伴う島嶼効果を示唆します。全体的にこれらの結果は、縄文時代人口集団内の限定的な時空間にわたる遺伝的変異を示しており、アジアの他地域からの数千年にわたるほぼ完全な孤立との見解を裏づけます。以下は本論文の図3です。
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●弥生時代における水田稲作の拡散

 弥生文化と関連する西北九州の2個体(図1)は、「縄文人」とユーラシア大陸部両方の祖先系統を有する、と明らかになりました(図2)。本論文のqpAdm分析は、「弥生人」が「縄文人」の混合していない子孫である、とのモデルを却下します。これは、この西北九州の弥生時代2個体を「縄文人」系統の一部に分類した以前の形態学的評価とは対照的です。西北九州の弥生時代2個体における非「縄文人」の祖先的構成要素は、日本列島に稲作を導入した人々によりもたらされた可能性があります。まずf4統計(ムブティ人、X;縄文人、弥生人)を用いて、あらゆる古代のユーラシア東部人口集団が「縄文人」よりも「弥生人」の方と高い遺伝的類似性を有するのか、検証されました(図4A)。その結果、黄河流域人口集団も含めてユーラシア大陸部の標本抽出された古代の人口集団のほとんどは、「弥生人」との有意な遺伝的類似性を示しません。黄河流域では稲作農耕が長江下流域からまず拡大しました。長江流域はジャポニカ米の起源地と仮定されています。

 しかし、「弥生人」との過剰な類似性は稲作と文化的関連を有さない人口集団で検出されました。それは中国北東部の西遼河流域の青銅器時代個体(WLR_BA_o)とハミンマンガ(Haminmangha)の中期新石器時代個体、バイカル湖のロコモティヴ(Lokomotive)前期新石器時代個体とシャマンカ(Shamanka)の前期新石器時代個体とウスチベラヤ(UstBelaya)前期青銅器時代個体、シベリア北東部のエクヴェン(Ekven)鉄器時代個体です。この類似性は、他の青銅器時代西遼河個体(WLR_BA_o)と同じ遺跡で発見された別の2個体(WLR_BA)では観察されませんでした。以前の研究でも、WLR_BA_oとWLR_BAでは系統構成要素に大きな違いが観察されていました(関連記事)。この2個体はWLR_BA_o(1.8±9.1%)よりもずっと高い黄河関連祖先系統(81.4±6.7%)を有しており、検証された古代黄河流域人口集団が「弥生人」の有していた非「縄文人」祖先系統の主要な供給源になった可能性は低そうです。

 ユーラシア大陸部祖先系統の6つの可能性がある供給源をさらに区別するため、次にqpWaveを用いて「弥生人」が「縄文人」と各候補供給源の2方向混合としてモデル化されました。混合モデルはこれらのうち3つで確実に裏づけられます。つまり、バイカル湖の狩猟採集民と西遼河中期新石器時代もしくは青銅器時代個体で、高水準のアムール川地域祖先系統を有します。これらの集団はすべて、支配的なアジア北東部祖先的構成要素を共有しています(図2C)。これら各3集団を第二供給源として用いると、qpAdmではそれぞれ55.0±10.1%、50.6±8.8%、58.4±7.6%の「縄文人」の混合率が推定され、西遼河中期新石器時代および青銅器時代個体を単一の供給源人口集団に統合すると、「縄文人」の混合率は61.3±7.4%となります。

 さらにf4統計(ムブティ人、縄文人;弥生人1、弥生人2)により、「縄文人」祖先系統は「弥生人」2個体間で同等と確認されます。これらの結果は、在来の狩猟採集民と移民の西北九州の弥生時代共同体への寄与がほぼ同等の比率であることを示唆します。この同等性はユーラシア西部の農耕移民と比較した場合とくに注目に値し、ユーラシア西部では最小限の狩猟採集民からの寄与が多くの地域で観察されており、その中にはユーラシアの島嶼地理的極限として日本列島を反映している、ブリテン諸島やアイルランドも含まれます(関連記事1および関連記事2)。本論文の混合モデルで用いられた西遼河人口集団は自身では稲作農耕を行なっていませんでしたが、日本列島への農耕拡大の仮定的な経路のすぐ北方に位置しており、本論文の結果はそれを裏づけます。これは、中国北東部の山東半島から遼東半島(朝鮮半島北西部)へと続き、その後で朝鮮半島を経由して日本列島へと到達しました。

 弥生文化が日本列島へどのように拡大したのか、外群f3統計を用いてさらに調べられ、「弥生人」と各「縄文人」との間の遺伝的類似性が測定されました。その結果、共有された遺伝的浮動の強さが「弥生人」の位置からの距離と有意に相関している、と明らかになりました(図4C)。つまり、縄文時代の遺跡が弥生時代の遺跡に近いほど、その遺跡の「縄文人」は「弥生人」とより多くの遺伝的浮動を共有します。この結果は朝鮮半島経由の稲作の導入と、その後の日本列島南部における在来の「縄文人」集団との混合を裏づけます。以下は本論文の図4です。
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●古墳時代の移民の遺伝的祖先系統

 歴史的記録は、古墳時代におけるユーラシア大陸部から日本列島への継続的な人口集団の移動を強く裏づけます。しかし、古墳時代3個体のqpWaveモデル化は、「弥生人」と適合する「縄文人」祖先系統とアジア北東部祖先系統の2方向混合を却下します。したがって、以前の形態学的研究と同じく、本論文のf3外群統計や主成分分析やADMIXTUREクラスタで裏づけられるように、「古墳人」はその祖先的構成要素の観点では遺伝的に「弥生人」と異なっています。古墳時代個体群の遺伝的構成に寄与した追加の祖先的集団を特定するため、f4統計(ムブティ人、X;弥生人、古墳人)を用いて「古墳人」と各ユーラシア大陸部人口集団との間の遺伝的類似性が検証されました(図5A)。その結果、本論文のデータセットにおける古代もしくは現代の人口集団のほとんどは、「弥生人」よりも「古墳人」の方と有意に密接と明らかになりました。この知見は、弥生時代標本と古墳時代標本のゲノムを分離する6世紀間に日本列島へ追加の移住があったことを示唆します。

 「弥生人」と、「古墳人」に有意により近いと本論文のf4統計から特定された人口集団との間の2方向混合の検証により、この移住の起源を絞り込むことが試みられました。この混合モデルは検証された59人口集団のうち5人口集団でのみ、P>0.05と確実に裏づけられました。次にqpAdmを適用して「弥生人」と各起源集団からの遺伝的寄与が定量化されました。2方向混合モデルは、さまざまな参照セットからの裏づけを欠いていたので、追加の2人口集団においてその後で却下されました。残りの3人口集団(漢人と朝鮮人と黄河後期青銅器時代・鉄器時代集団)は「古墳人」への20〜30%の寄与を示します。これら3集団はすべて強い遺伝的浮動を共有しており、そのADMIXTURE特性では広くアジア東部祖先系統の主要な構成要素で特徴づけられます。

 「古墳人」における追加の祖先系統の起源をさらに選抜するため、「弥生人」祖先系統を「縄文人」およびアジア北東部人祖先系統と置換することにより、3方向混合が検証されました。その結果、漢人のみが祖先系統の供給源としてモデル化に成功し(図5B)、あらゆるあり得る2方向混合モデルよりも3方向混合が大幅によく適合します。「弥生人」と「古墳人」との間で「縄文人」祖先系統が約4倍に「希釈」されていることを考えると、これらの結果から、国家形成段階でアジア東部人祖先系統を有する移民が大規模に流入した、と示唆されます。以下は本論文の図5です。
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 次に、弥生時代と古墳時代の両方で観察されたユーラシア大陸部祖先系統が、アジア北東部とアジア東部の祖先系統の中間水準を有する同じ供給源に由来する可能性について調べられました。「古墳人」の2方向混合により適合すると明らかになった唯一の候補は、黄河流域の後期青銅器時代および鉄器時代個体群(YR_LBIA)でしたが、これは参照セット全体では一貫していませんでした。「縄文人」を除いて「弥生人」との統計的に有意な遺伝子流動を示さない(図4A)にも関わらず、YR_LBIAと「縄文人」との間の2方向混合モデルも「弥生人」に適合する、と明らかになりました。この黄河流域人口集団は、qpAdmにより推定されるように、アジア北東部祖先系統を約40%、アジア東部祖先系統を約60%(つまり漢人)有する中間的な遺伝的特性を有しています。したがって、これは特定のモデルで「弥生人」と「古墳人」の両方に適合する中間の遺伝的特性で、「弥生人」では37.4±1.9%、「古墳人では」87.5±0.8%の流入となります。これらの結果は、単一の供給源からの継続的な遺伝子流動が、「弥生人」と「古墳人」との間の遺伝的変化の説明に充分である可能性を示唆します。

 しかし、より広範な分析では、遺伝子流動の単一の供給源は移住の2回の異なる波よりも可能性が低そうである、と強く示唆されます。まず、ADMIXTUREで特定されたアジア東部祖先系統へのアジア北東部祖先系統の割合は、「弥生人(1.9:1)」と「古墳人(1:2.5)」との間で際立って異なっていました(図2C)。次に、ユーラシア大陸部の類似性におけるこの対比は、f統計のさまざまな形態でも観察され、「弥生人」がアジア北東部祖先系統との有意な類似性を有する、というパターンが繰り返されるのに対して、「古墳人」は漢人や黄河流域古代人口集団を含む他のアジア東部人とは緊密なまとまりを形成します(図5A)。

 最後に、DATESにより「古墳人」における混合年代から2つの波のモデルへの裏づけが見つかります。中間的な人口集団(つまり、YR_LBIA)との単一の混合事象は、1840±213年前頃に起きたと推定され、これは3000年前頃となる弥生時代の開始のずっと後になります。対照的に、2つの異なる供給源との2回の別々の混合事象が想定されるならば、結果の推定値は弥生時代および古墳時代のそれぞれの開始年代と一致する年代に適合し、「弥生人」に関しては「縄文人」祖先系統とアジア北東部祖先系統との間の混合は3448±825年前、「古墳人」に関しては「縄文人」祖先系統とアジア東部祖先系統の混合は1748±175年前と推定されます。これらの遺伝学的知見は、弥生時代と古墳時代におけるユーラシア大陸部からの新たな人々の到来を記録する、考古学的証拠および歴史的記録の両方によりさらに裏づけられます。


●現代日本人における「古墳人」の遺伝的影響

 本論文で検証対象となった古墳時代の3個体は、遺伝的に現代日本人と類似しています(図2)。これは、古墳時代以降日本列島(の本州・四国・九州を中心とする「本土」)の人口集団の遺伝的構成に実質的な変化がないことを示唆します。現代日本人標本で追加の遺伝的祖先系統の兆候を探すため、f4統計(ムブティ人、X;古墳人、縄文人)を用いて、ユーラシア大陸部人口集団が「古墳人」と比較して現代日本人のゲノムと優先的な類似性を有するのかどうか、検証されました。その結果、古代の人口集団の一部は現代日本人よりも「古墳人」の方と高い類似性を示しますが、そのうちどれも「古墳人」に存在する祖先系統の追加の供給源としてqpAdmでは裏づけられません。意外にも、「古墳人」を除いて現代日本人との追加の遺伝子流動を示す古代もしくは現代の人口集団は存在しません。

 本論文の混合モデル化では、現代日本人集団は「縄文人」もしくは「弥生人」祖先系統の増加がないか、現代のアジア南東部人かアジア東部人かシベリア人に代表される追加の祖先の導入なしに、「古墳人」祖先系統により充分に説明される、と確証されます。現代日本人集団は「古墳人」における3方向混合として同じ祖先的構成要素の組み合わせを有しており、「古墳人」と比較して現代日本人においてアジア東部祖先系統のわずかな上昇があります。これは、ある程度の遺伝的連続性を示唆しますが、絶対的ではありません。

 「古墳人」と現代日本人集団との間の連続性の厳密なモデル(つまり、「古墳人」系統固有の遺伝的浮動がない場合)は却下されます。しかし、「古墳人(13.1±3.5%)」と比較して、日本人集団(15.0±3.8%)における「縄文人」祖先系統の「希釈」はなく、ユーラシア大陸部からの移住により「縄文人」祖先系統が顕著に減少した弥生時代と古墳時代の場合とは対照的です。「混合なし」モデルを伴うqpAdmによる「古墳人」と日本人との間の遺伝的クレード(単系統群)性を検証すると、「古墳人」は日本人とクレードを形成する、と明らかになりました。これらの結果から、歯の特徴と非計量的頭蓋特徴でも裏づけられているように、国家形成までに確立された3つの主要な祖先的構成要素の遺伝的特性が、現代日本人集団にとって基盤となりました。


●考察

 本論文のデータは、現代日本人集団の三重祖先系統構造の証拠を提供し、混合した「縄文人」と「弥生人」起源の確立された二重構造モデルを洗練します(図6)。「縄文人」はLGM後の日本列島内の長期の孤立と強い遺伝的浮動のため独自の遺伝的変異を蓄積し、それは現代日本人の内部における独特な遺伝的構成要素の基礎となりました。弥生時代はこの孤立の終わりを示し、遅くとも2300年前頃に始まるアジア東部本土からのかなりの人口集団の移住を伴いました。しかし、日本列島の先史時代および原始時代となるその後の農耕期と国家形成期に日本列島に到来した人々の集団間では、明確な遺伝的差異が見つかります。「弥生人」の遺伝的データは、形態学的研究で裏づけられるように、日本列島におけるアジア北東部祖先系統の存在を記録していますが、「古墳人」では広範なアジア東部祖先系統が観察されました。「縄文人」と「弥生人」と「古墳人」の各クラスタを特徴づける祖先は、現代日本人集団の形成に大きく寄与しました。以下は本論文の図6です。
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 「縄文人」の祖先的系統は、他のアジア東部の古代人および現代人とは深く分岐しており、アジア南東部に起源があった、と提案されています。この分岐の年代は以前には38000〜18000年前頃(関連記事)と推定されていました。ROH特性を有する本論文のモデル化では、8800年前頃の「縄文人」の分析によりこの年代が20000〜15000年前頃の下限範囲に絞り込まれています(図3)。日本列島は28000年前頃となるLGM開始の頃には朝鮮半島を通って到来できるようになり、ユーラシア大陸部と日本列島との間の人口集団の移動が可能となりました。海面上昇によるその後の17000〜16000年前頃となる対馬海峡の拡大により、「縄文人」系統はユーラシア大陸部の他地域から孤立したかもしれず、それは縄文土器製作の最古の証拠とも一致します。本論文のROHモデル化は、「縄文人」が縄文時代早期には1000人以下の小さな有効人口規模を維持した、と示しており、その後の縄文時代もしくは日本列島のさまざまな島々全域で、そのゲノム特性にほとんど変化が観察されませんでした。

 上述のヨーロッパの大半における新石器時代への移行で記録されているように、農耕拡大はしばしば人口集団の置換により特徴づけられ、多くの地域で観察される狩猟採集民人口集団からの寄与はごく僅かです。しかし、先史時代の日本列島における農耕への移行には、置換というよりもむしろ同化の過程が含まれており、西北九州の遺跡ではほぼ均等な在来の「縄文人」と新たな移民からの遺伝的寄与があった、との遺伝的証拠が見つかりました。これは、日本列島の少なくとも一部が、弥生時代開始期における農耕移民と匹敵する「縄文人」集団を支えていた、と示唆しており、それは一部の縄文時代共同体で行なわれていた高水準の定住に反映されています。

 「弥生人」に継承されたユーラシア大陸部の構成要素は、本論文のデータセットではアムール川祖先系統を高水準で有する西遼河流域の中期新石器時代および青銅器時代の個体群により最もよく表されます(HMMH_MN およびWRL_BA_o)。西遼河流域の人口集団は時空間的に遺伝的には不均質です(関連記事)。6500〜3500年前頃となる中期新石器時代から後期新石器時代への移行は、黄河祖先系統の25%から92%の増加により特徴づけられ、アムール川祖先系統は75〜8%へと激減し、これは雑穀農耕の強化と関連しているかもしれません。しかし、西遼河流域では3500年前頃に始まる青銅器時代に人口構造が変わり、それはアムール川流域からの人々の明らかな流入に起因します。これは、トランスユーラシア語族とシナ語族の下位集団間の集中的な言語借用の始まりと一致します。「弥生人」への過剰な類似性は、古代アムール川流域人口集団もしくは現代のツングース語族話者人口集団と遺伝的に密接な個体群で観察されます(図4)。

 本論文の知見から、水田稲作が、西遼河流域周辺のどこかに居住していたものの、さらに北方の人口集団に祖先系統の大半の構成要素が由来する人々により日本列島にもたらされ、稲作の拡大は西遼河流域の南側に起源があった、と示唆されます。古墳文化の最も顕著な考古学的特徴は、鍵穴型の塚にエリートを埋葬する習慣で、その大きさは階級と政治権力を反映しています。本論文の検証対象となった古墳時代の3個体はそうした古墳に埋葬されておらず、この3個体は下層階級だった、と示唆されます。この3個体のゲノムは、日本列島へのおもにアジア東部祖先系統を有する人々の到来と、「弥生人」集団との混合を記録します(図5)。この追加の祖先系統は、本論文の分析では複数の祖先的構成要素を有する漢人により最もよく表されます。最近の研究では、新石器時代以降人々が形態学的に均質になっていると報告されており、それは古墳時代の移民がすでに高度に混合していたことを示唆します。

 いくつかの一連の考古学的証拠は、おそらくは弥生時代と古墳時代の移行期における朝鮮半島南部からの可能性が最も高い、日本列島への新しい大規模な移民の到来を裏づけます。日本列島と朝鮮半島と中国の間の強い文化的および政治的類似性は、中国の鏡と貨幣、鉄生産のための朝鮮半島の原材料、剣など金属製道具に刻まれた漢字を含む、いくつかの輸入品からも観察されます。海外からのこれらの資源の入手は、日本列島内の共同体間の激しい競争を引き起こしました。これは、支配のための、黄海沿岸などユーラシア大陸部の国家との制度的接触を促進しました。したがって、古墳時代を通じて継続的な移住と大陸の影響は明らかです。本論文の知見は、この国家形成段階における、新たな社会的・文化的・政治的特徴の出現と関わる遺伝的交換の強い裏づけを提供します。

 本論文の分析には注意点があります。まず「弥生人」については、弥生文化と関連する骨格遺骸が形態学的に「縄文人」と類似している地域(西北九州)の2個体のみに分析が限定されています。他地域もしくは他の年代の弥生時代個体群は異なる祖先的特性を有しているかもしれません。たとえば、ユーラシア大陸部的もしくは「古墳人」的祖先系統です。次に、本論文の標本抽出は無作為ではなく、本論文で分析された古墳時代の個体群は同じ埋葬遺跡に由来します。弥生時代と古墳時代の人口集団の遺伝的祖先系統における時空間的変異を調べて、本論文で提案された日本列島の人口集団の三重構造の包括的な見解を提供するには、追加の古代ゲノムデータが必要です。

 要約すると本論文は、農耕と技術的に促進された人口集団の移動が、ユーラシア大陸部の他地域から孤立していた数千年を終わらせた前後両方の期間において日本列島に居住していた人々のゲノム特性を変化させたことについて、詳細な調査を提供します。これら孤立した地域の個体群の古代ゲノミクスは、人口集団の遺伝的構成への大きな文化的変化の影響の程度を観察する、特有の機会を提供します。


●私見

 以上、本論文についてざっと見てきました。本論文は縄文時代と古墳時代の複数個体の新たな核ゲノムデータを報告しており、とくにこれまで佐賀市の東名貝塚遺跡の1個体(関連記事)でしか報告されていなかった西日本「縄文人」の核ゲノムデータを、広範な年代と地域の複数個体から得ていることは、たいへん意義深いと思います。これにより、時空間的にずっと広範囲の「縄文人」の遺伝的構造がさらに詳しく明らかになりました。また、愛媛県久万高原町の上黒岩岩陰遺跡の1個体(JpKa6904)の年代は8991〜8646年前頃で、現時点では核ゲノムデータが得られた日本列島最古の個体になると思います。日本列島において更新世の人類遺骸の発見数がきわめて少ないことを考えると、この点でも本論文の意義は大きいと思います。

 本論文でまず注目されるのは、「縄文人」は時空間的に広範囲にわたって遺伝的にかなり均質な集団だった、と改めて示された点です。本論文で分析対象とされていない、7980〜7460年前頃となる東名貝塚遺跡の1個体や千葉市の六通貝塚の4000〜3500年前頃の個体群(関連記事)も、既知の「縄文人」と遺伝的に一まとまりを形成します。さらに、弥生時代早期となる佐賀県唐津市大友遺跡で発見された女性個体(大友8号)も、既知の「縄文人」と遺伝的に一まとまりを形成します(関連記事)。時空間的により広範囲の「縄文人」の核ゲノムデータがさらに蓄積されるまで断定はできませんが、本論文が指摘するように「縄文人」は長期にわたって遺伝的には孤立した集団だった可能性が高そうです。これは以前から予測されていたので(関連記事)、とくに意外ではありませんでした。縄文時代にアジア東部大陸部から日本列島にアジア東部祖先系統を有する個体が到来し、日本列島で在来の「縄文人」と混合して子供を儲けた可能性は高そうですが、「縄文人(的な遺伝的構成の個体)」のゲノムで明確に検出されるほどの影響は残らなかったのだろう、というわけです。

 一方で朝鮮半島南端では、8300〜4000年前頃にかけて「縄文人」的な遺伝的構成要素が持続していたようで、遼河地域の紅山(Hongshan)文化集団的な遺伝的構成要素と「縄文人」的な遺伝的構成要素とのさまざまな混合割合の個体が存在し、中には遺伝的にはほぼ「縄文人」と言える個体も確認されています(関連記事)。上黒岩岩陰遺跡の1個体(JpKa6904)から、遅くとも9000年前頃までには「縄文人」的な遺伝的構成は確立していたようですから、朝鮮半島南端の8300〜4000年前頃の個体の「縄文人」的な遺伝的構成要素は、日本列島から朝鮮半島に渡った「縄文人」によりもたらされたのでしょう。ただ、この朝鮮半島南端の8300〜4000年前頃の個体群は、日本列島や朝鮮半島の現代人に強い遺伝的影響を残していないかもしれません。

 「縄文人」の起源について本論文は、ホアビン文化個体関連系統とアジア東部関連系統の混合とするモデル(関連記事)よりも、ユーラシア東部系集団において、ホアビン文化集団よりも後にアジア東部現代人の主要な祖先集団と20000〜15000年前頃に分岐した、とのモデルの方が妥当と推測しています。しかし、現生人類(Homo sapiens)とネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)や種区分未定のデニソワ人(Denisovan)など非現生人類ホモ属との混合でさえたいへん複雑で、単純な系統樹で表すことが困難ですから(関連記事)、現生人類集団間の関係を単純な系統樹で表すことには慎重であるべきだと思います。もちろん、現生人類がアフリカから世界中の広範な地域に拡散する過程で、LGMのような寒冷期もあり、集団の孤立と遺伝的分化が進みやすかったでしょうから、系統樹で表すことに合理性があることも確かだと思います。しかし、多くの集団は遺伝的に大きく異なる集団間の複雑な混合により形成されたでしょうから、単純な系統樹で表すことに問題があることも否定できないと思います。

 具体的に本論文の系統樹の問題点として、モンゴル北東部のサルキート渓谷で発見された34950〜33900年前頃の女性個体(サルキート個体)が挙げられます。サルキート個体は本論文の系統樹では、出アフリカ現生人類集団がユーラシア東西系統に分岐した後、ユーラシア東部系集団で最初に分岐した、と位置づけられています。サルキート個体の分岐後のユーラシア東部系集団では、まずパプア人、次に田園個体、その後でホアビン文化集団が分岐し、「縄文人」はその後の分岐となります。しかし、他の研究ではサルキート個体は田園個体と同じ系統に位置づけられています(関連記事)。この違いは、サルキート個体にはユーラシア東部系集団と遺伝的に大きく異なるユーラシア西部系集団からの一定以上の遺伝的影響があるため(関連記事)と考えられます。

 本論文の系統樹は正確な人口史を正確には表せていない可能性があり、「縄文人」が遺伝的に大きく異なる集団間の混合により形成された可能性は、まだ否定できないように思います。より具体的には、出アフリカ現生人類集団のうち、ユーラシア東西系統の共通祖先と分岐した集団(ユーラシア南部系集団)が存在し、ユーラシア東部系集団とユーラシア南部系集団との複雑な混合により「縄文人」もホアビン文化集団も形成され、それぞれの(複数の)祖先集団も相互に遺伝的には深く分岐していた、と想定しています(関連記事)。

 本論文の見解で大きな問題となるのは、「弥生人」を佐世保市の下本山岩陰遺跡の2個体に代表させていることです。本論文でも、「弥生人」を形態学的に「縄文人」との類似性が指摘されている西北九州の弥生時代人骨の下本山岩陰遺跡の2個体に代表させていることについて、地域もしくは他の年代の弥生時代個体群は異なる祖先的特性を有しているかもしれない、と指摘されていました。じっさい、弥生時代中期となる福岡県那珂川市の安徳台遺跡の1個体(安徳台5号)は形態学的に「渡来系弥生人」と評価されていますが、核ゲノム解析により現代日本人の範疇に収まる、と指摘されています(関連記事)。同じく弥生時代中期の「渡来系弥生人」とされる福岡県筑紫野市の隈・西小田遺跡の個体も、核ゲノム解析では現代日本人の範疇に収まります。現代日本人の平均と比較しての「縄文人」構成要素の割合は、安徳台5号がやや高く、隈・西小田遺跡の個体はやや低いと推定されています。

 弥生時代の日本列島の人類集団は遺伝的異質性がかなり高かったと考えられます(関連記事)。読売新聞の記事によると、篠田謙一氏は「弥生人の遺伝情報は、地域や時代で差があり、現代の日本人に近い例もある。当時の実態を解明するには、解析する人骨をさらに増やす必要がある」と指摘しており、その通りだと思います。安徳台5号も隈・西小田遺跡個体も下本山岩陰遺跡の2個体に先行し、下本山岩陰遺跡の2個体の頃(2001〜1931年前頃)には、少なくとも九州において現代日本人に近い遺伝的構成の集団が存在したわけですから、下本山岩陰遺跡の2個体を「弥生人」の代表として、弥生時代後期〜古墳時代にかけて日本列島にユーラシア大陸部から大規模な移民が到来した、との本論文の見解にはかなり疑問が残ります。

 本論文が検証対象とした岩出横穴墓の3個体は古墳時代終末期となり、年代は紀元後6〜7世紀です。同じ古墳時代でも岩出横穴墓の3個体よりは古い和歌山県田辺市の磯間岩陰遺跡の第1号石室1号個体(紀元後398〜468年頃)および2号個体(紀元後407〜535年頃)は、核ゲノム解析の結果、「縄文人」構成要素がそれぞれ52.9〜56.4%と42.4〜51.6%と推定されています(関連記事)。おそらく弥生時代だけではなく古墳時代にも、本州・四国・九州を中心とする日本列島「本土」の人類集団にはかなりの遺伝的異質性があり、時空間的な違いがあったと考えられますが、今後同一遺跡もしくは地域内で「古墳人」の核ゲノムデータが蓄積されていけば、階層差も確認されるようになるかもしれません。日本列島における現代人のような遺伝的構造の形成は、古墳時代の後もよく考慮しなければならないように思います。

 本論文は日本列島の人類集団の遺伝的構成において、縄文時代から弥生時代の移行期と弥生時代から古墳時代の移行期に大きな変化を見出し、「弥生人」にはアジア北東部祖先系統の影響が「縄文人」祖先系統に近いくらいの割合で見られ、「古墳人」ではアジア北東部祖先系統が優勢になる、と推測しています。しかし最近の別の研究では、現代日本人の遺伝的構成は低い割合の「縄文人」関連祖先系統と高い割合の遼河地域の夏家店上層文化集団関連祖先系統の混合と推定されており、朝鮮半島中部西岸に位置する2800〜2500年前頃のTaejungni遺跡の個体(Taejungni個体)の遺伝的構成が現代日本人に類似している、と指摘されています(関連記事)。これは、現代日本人の基本的な遺伝的構成が朝鮮半島において形成され、一方で朝鮮半島の人類集団ではその後で大きな遺伝的変化があり、現代朝鮮人のような遺伝的構成が確立したことを示唆します。

 上述のように「弥生人」は遺伝的異質性が高かったと考えられ、中には遺伝的に現代日本人の範疇に収まる集団も存在しました。本論文で提示された古代ゲノムデータとともに、本論文では取り上げられなかった日本列島の弥生時代個体群や朝鮮半島の古代人のゲノムデータも含めて、日本列島の人口史を再検討する必要があると思います。本論文と他の研究を組み合わせて解釈した現時点での大まかな想定は、朝鮮半島において紀元前二千年紀後半〜紀元前千年紀前半にかけて、遼河地域青銅器時代集団的な遺伝的構成の集団と「縄文人」構成要素を高い割合で有する集団が混合して現代日本人の基本的な遺伝的構成が形成され、その集団が弥生時代に日本列島に到来して在来の「縄文人」と混合し(縄文時代晩期に日本列島に存在した「縄文人」の現代日本人における遺伝的影響は数%程度かもしれません)、その後で紀元前千年紀後半以降に朝鮮半島では黄河流域集団に遺伝的により近づくような大規模な遺伝的変化があり、そうした集団が古墳時代から飛鳥時代にかけて日本列島に継続的に到来し、奈良時代以降の日本列島内の歴史的展開を経て現代「本土」日本人が形成された、というものです。


参考文献:
Cooke H. et al.(2021): Ancient genomics reveals tripartite origins of Japanese populations. Science Advances, 7, 38, eabh2419.
https://doi.org/10.1126/sciadv.abh2419


https://sicambre.at.webry.info/202109/article_20.html
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/195.html#c27

[近代史5] 弥生人の起源 中川隆
23. 中川隆[-16256] koaQ7Jey 2021年9月20日 13:18:22 : 6C6SEMfD1k : YnZQeFh4aHV2cS4=[19]
雑記帳
2021年09月19日
縄文時代と古墳時代の人類の新たなゲノムデータ
https://sicambre.at.webry.info/202109/article_20.html


 縄文時代と古墳時代の人類の新たなゲノムデータを報告した研究(Cooke et al., 2021)が報道されました。日本列島には、少なくとも過去38000年間ヒトが居住してきました。しかし、その最も劇的な文化的変化は過去3000年以内にのみ起き、その間に住民は急速に狩猟採集から広範な稲作、さらには技術的に発展した「帝国」へと移行しました。これらの急速な変化は、ユーラシア大陸部からの地理的孤立とともに、アジアにおける農耕拡大と経済強化に伴う移動パターンを研究するうえで、日本を独特な縮図としています。

 農耕文化の到来前には、日本列島には土器により特徴づけられる縄文文化に区分される、多様な狩猟採集民集団が居住していました。縄文時代は最終氷期極大期(Last Glacial Maximum、略してLGM)に続く最古ドリアス期に始まり、最初の土器破片は16500年前頃までさかのぼり、世界でも最古級の土器使用者となります。縄文時代の生存戦略は多様で、人口密度は時空間により変動し、定住への傾向がありました。縄文文化は3000年前頃となる弥生時代の始まりまで続き、その頃となる水田稲作の到来により日本列島に農耕革命がもたらされました。弥生時代の後には古墳時代が1700年前頃に始まり、政治的中央集権化と帝国の統治が出現し、日本を定義するようになりました。

 日本列島の現代の人口集団の起源に関する長く提唱されてきた仮説では二重構造モデルが提案されており、日本人集団は先住の「縄文人」と後に弥生時代になってユーラシア東部本土から到来した人々との混合子孫である、と想定されました。この二重構造モデル仮説は、もともとは形態学的データに基づいて提案されましたが、学際的に広く検証され評価されてきました。遺伝学的研究により、現代日本人集団内の人口層別化が特定されており、日本列島への少なくとも2回の移住の波が裏づけられます(関連記事)。

 以前の古代DNA研究も、現代日本人集団への「縄文人」と「弥生人」の遺伝的類似性を示してきました(関連記事1および関連記事2および関連記事3および関連記事4および関連記事5)。それでも、農耕への移行とその後の国家形成段階の人口統計学的起源および影響はほとんど知られていません。歴史言語学的観点からは、日本語祖語(日琉祖語)の到来は弥生文化の発展および水田稲作の拡大と対応している、と理論化されています。しかし、弥生時代と古墳時代では考古学的文脈および大陸との関係が異なっており、知識や技術の拡大には大きな遺伝的交換が伴っていたのかどうか、不明なままです。

 本論文は、日本列島の先史時代から原始時代(先史時代と歴史時代の中間で、断片的な文献が残っている時代)までの8000年にわたる古代人12個体の新たに配列されたゲノムを報告します(図1)。本論文が把握している限りでは、これは日本列島の年代の得られた古代人ゲノムの最大のセットとなり、最古の縄文時代個体と古墳時代の最初のゲノムデータが含まれます。また既知の先史時代日本列島の古代人のゲノムも分析に含められました。具体的には、縄文時代後期の北海道礼文島(関連記事)の2個体(F5とF23)、愛知県田原市伊川津町の貝塚(関連記事)で発見された縄文時代晩期の1個体(IK002)、長崎県佐世保市の下本山岩陰遺跡(関連記事)の弥生文化と関連する2個体です。以下は本論文の図1です。
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 下本山岩陰遺跡の2個体の骨格は、「移民型」よりもむしろ「縄文人的」な特徴を示しますが、他の考古学的資料は弥生文化との関連を明確に裏づけます。この形態学的評価にも関わらず、下本山岩陰遺跡の2個体は「縄文人」と比較して現代日本人集団との遺伝的類似性の増加を示しており、大陸部集団との混合が弥生時代後期にはすでに進展していたことを示唆します。これら日本列島古代人のゲノムは、草原地帯中央部(関連記事)および東部(関連記事)やシベリア(関連記事)やアジア南東部(関連記事)やアジア東部(関連記事1および関連記事2)にまたがるより大規模なデータセットと統合され、縄文時代の先農耕人口集団と、日本列島現代人の遺伝的特性を形成してきたその後の移民との混合をよりよく特徴づけることが、本論文の目的です。


●先史時代および原始時代の日本列島の古代人ゲノムの時系列

 本論文は、6ヶ所の遺跡で発掘された14個体のうち、新たに配列に成功した12個体のゲノムデータを報告します。平均網羅率は0.88〜7.51倍です。6ヶ所の遺跡は、縄文時代早期となる愛媛県久万高原町の上黒岩岩陰遺跡、縄文時代前期となる富山県富山市の小竹貝塚および岡山県倉敷市の船倉貝塚、縄文時代後期となる千葉県船橋市の古作貝塚、縄文時代後期の平城貝塚(愛媛県愛南町)、古墳時代終末期となる石川県金沢市の岩出横穴墓です。12個体のうち9個体は縄文文化と関連しており、内訳は、上黒岩岩陰遺跡が1個体(JpKa6904)、小竹貝塚が4個体(JpOd274とJpOd6とJpOd181とJpOd282)、船倉貝塚が1個体(JpFu1)、古作貝塚が2個体(JpKo2とJpKo13)、平城貝塚が1個体(JpHi01)です。残りの3個体は古墳時代末期となる岩出横穴墓で発見されています(JpIw32とJpIw31とJpIw33)。これら12個体で親族関係は確認されませんでした。

 縄文時代の9個体のミトコンドリアDNA(mtDNA)ハプログループ(mtHg)はすべてN9bかM7a系統で、両者は縄文時代集団と強く関連しており、現代では日本列島外では稀です。縄文時代の9個体のうち3個体は男性で、そのY染色体ハプログループ(YHg)はすべてD1b1(現在の分類名はD1a2a1だと思いますので、以下D1a2a1で統一します)で、現代日本人には存在しますが、他のアジア東部現代人にはほぼ見られません。対照的に、古墳時代の3個体のmtHgはアジア東部現代人と共通しています(B5a2a1bとD5c1aとM7b1a1a1)。そのうち1個体は男性で、YHgはO3a2c(現在の分類名はO2a2bだと思いますので、以下O2a2bで統一します)で、これはアジア東部全域、とくに中国本土で見られます。

 本論文のデータをユーラシア東部の人口統計のより広い文脈に位置づけるため、日本列島古代人のゲノムが既知の古代人および現代人のデータと組み合わされました。本論文では、現代日本人集団はSGDP(Simons Genome Diversity Project)もしくは1000人ゲノム計画3期のデータであらわされます。ただ要注意なのは、現代の日本列島全体では祖先からの異質性が存在しており、この標準的な参照セットでは充分には把握できないことです。本論文で分析された他の古代および現代の人口集団は、おもに地理的もしくは文化的文脈のいずれかで分類されています。


●異なる文化期間の遺伝的区別

 f3統計(個体1、個体2;ムブティ人)を用いて、古代と現代両方の日本列島の人口集団の個体の全てのペアワイズ比較間で共有される遺伝的浮動を調べることで、時系列内の遺伝的多様性が調べられました(図2A)。その結果、縄文時代と弥生時代と古墳時代の異なる3個体群のまとまりが明確に定義され、古墳時代個体群は現代日本人とまとまり、文化的変化には遺伝的変化が伴う、と示唆されます。縄文時代データセットにおける大きな時空間的変異にも関わらず、ひじょうに高水準の共有された浮動が12個体全ての間で観察されます。弥生時代2個体は相互に他の個体と最も密接に関連しており、古墳時代の3個体とよりも縄文時代の個体群の方と高い類似性を有しています。古墳時代と現代の日本列島の個体群は、この測定では相互にほぼ区別ができず、過去1400年間のある程度の遺伝的継続性が示唆されます。

 さらに主成分分析を用いて、大陸部人口集団に対する日本列島古代人のゲノム規模常染色体類似性が調べられました。古代人が、アジア南部と中央部と南東部と東部のSGDPデータセットの、現代の人口集団の遺伝的変異に投影されました(図2B)。その結果、日本列島古代人はPC1軸に沿って各文化名称に分離する、と観察されます。全ての縄文時代個体は密集しており、他の古代人口集団やアジア南東部および東部現代人とは離れて位置し、持続した地理的孤立が示唆されます。弥生時代の2個体はこの縄文人クラスタの近くに現れ、以前に報告された遺伝的および地理的類似性を裏づけます(関連記事)。しかし、この弥生時代の2個体はアジア東部人口集団の方へと動いており、弥生時代2個体における追加のユーラシア大陸部祖先系統(祖先系譜、祖先成分、ancestry)の存在が示唆されます。ユーラシア東部の古代人はPC2軸に沿って南から北への地理的勾配を示します。それは、中国南部→黄河→中国北部→西遼河→悪魔の門→アムール川→バイカル湖です。古墳時代の3個体は黄河クラスタの多様性内に収まります。

 ヒト起源配列(Human Origins Array)データセットでのADMIXTURE分析も、縄文時代末以後の日本列島への大陸部からの遺伝子流動の増加を裏づけます(図2C)。縄文時代個体群は異なる祖先的構成要素(図2Cの赤色)を示し、これは弥生時代2個体でも高水準で見られ、古墳時代の3個体と現代日本人では低水準のままです。弥生時代の2個体には新たな祖先的構成要素が現れ、アムール川流域やその周辺地域で見られる特性と類似した割合です。これらには、アジア北東部現代人で支配的なより大きな構成要素(図2Cの水色)と、ずっと広範なアジア東部現代人祖先系統を表すより小さな構成要素(図2Cの黄色)が含まれます。このアジア東部人構成要素は、古墳時代と現代の日本列島の人口集団で支配的になります。以下は本論文の図2です。
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●地理的孤立による縄文人系統の深い分岐

 「縄文人」の他の人口集団からの分離は、以前の研究で提案されているように、ユーラシア東部人の間で「縄文人」が異なる系統を形成する、という見解を裏づけます(関連記事)。この分岐の深さを調べるため、TreeMixを用いて他の古代人および現代人17人口集団と「縄文人」の系統発生関係が再構築されました(図3A)。その結果、「縄文人」の分岐は、上部旧石器時代ユーラシア東部人、具体的には北京の南西56km にある田园(田園)洞窟(Tianyuan Cave)で発見された4万年前頃の男性個体(関連記事)およびモンゴル北東部のサルキート渓谷(Salkhit Valley)で発見された34950〜33900年前頃の女性個体(関連記事)と、アジア南東部狩猟採集民のホアビン文化(Hòabìnhian)個体の早期の分岐後ではあるものの、アジア東部現代人や、3150〜2400年前頃となるのチョクホパニ(Chokhopani)のネパール古代人や、バイカルの狩猟採集民(前期新石器時代)や、極東ロシアのプリモライ(Primorye)地域の悪魔の門洞窟(Chertovy Vorota Cave)個体(関連記事)や、末期更新世アラスカの幼児個体USR1(関連記事)を含む他の標本の分岐前と推測されます。

 さらに、f4統計(ムブティ人、X;ホアビン文化個体/悪魔の門新石器時代個体、縄文人)を用いての対称性モデル検定により、この系統樹の他の深く分岐した狩猟採集民2系統間の「縄文人」の位置が確証されました。これらの結果から示されるのは、縄文時代開始以降の本論文のデータセットにおける全てのアジア東部個体は、より早期に分岐したホアビン文化個体よりも「縄文人」の方と高い類似性を有するものの、悪魔の門新石器時代個体との比較ではより低い類似性を有している、ということです。これは、以前に提案された「縄文人」をホアビン文化個体関連系統とアジア東部関連系統の混合とするモデル(関連記事)よりもむしろ、ユーラシア東部の異なる狩猟採集民3系統の推定される系統発生を裏づけます。また、検証された全ての移住モデルにわたって、「縄文人」から現代日本人への遺伝子流動が一貫して推定され、8.9〜11.5%の範囲の遺伝的寄与を伴います。これは、本論文のADMIXTURE分析(図2C)から推定された現代日本人の平均的な「縄文人」構成要素9.31%と一致します。これらの結果は、縄文人の深い分岐と現代日本人集団への祖先的つながりを示唆します。

 集団遺伝学モデル化を適用して、「縄文人」系統の出現年代が推定されました。本論文の手法は、ROH(runs of homozygosity)のゲノム規模パターンを用いて、最古にして最良の標本であるJpKa6904で観察されたROH連続体に最も適合するシナリオを特定します。ROHとは、両親からそれぞれ受け継いだと考えられる同じアレルのそろった状態が連続するゲノム領域(ホモ接合連続領域)で、長いROHを有する個体の両親は近縁関係にある、と推測されます。ROHは人口集団の規模と均一性を示せます。ROH区間の分布は、有効人口規模と、1個体内のハプロタイプの2コピー間の最終共通祖先の時間を反映しています(関連記事)。

 8800年前頃となる縄文時代個体JpKa6904は高水準のROHを有しており、とくに短いROH(最近の近親交配よりもむしろ人口の影響に起因します)の頻度はこれまで報告された中で(関連記事)最高です(図3B)。このパターンは、縄文時代個体群で共有される強い遺伝的浮動と相まって、縄文時代人口集団が深刻な人口ボトルネック(瓶首効果)を経た、と示唆します。人口規模と分岐年代のパラメータ空間検索では、縄文人系統は20000〜15000年前頃に出現したと推定され、その後は少なくとも縄文時代早期まで、1000人程度のひじょうに小さな人口規模が維持されました(図3C)。これはLGM末における海面上昇および大陸部からの陸橋の切断と一致しており、日本列島における縄文土器の最初の出現の直前です。

 次にf4統計(ムブティ人、X;縄文人、漢人/傣人/日本人)を用いて、「縄文人」がユーラシア大陸部の上部旧石器時代の人々と、分岐した後から日本列島において孤立する前に接触したのかどうか、検証されました。検証対象の上部旧石器時代個体のうち、31600年前頃のヤナRHS(Yana Rhinoceros Horn Site)個体のみが漢人や傣(Dai)人や日本人よりも「縄文人」と有意に密接です。この類似性は、これら参照人口集団を他のアジア南東部および東部人と置き換えても依然として検出可能で、「縄文人」と古代北シベリア人の祖先間の遺伝子流動を裏づけます。ヤナRHS個体も含まれる古代北シベリア人は、LGM前にユーラシア北部に広範に存在した人口集団です(関連記事)。

 最後に、縄文時代人口集団内の時空間的な変動の可能性が調べられました。縄文時代の早期と前期と中期・後期・晩期で定義される3つの時代区分集団は、古代および現代のユーラシア大陸部人口集団と類似の水準の共有された遺伝的浮動を示し、これら3時代区分における日本列島外からの遺伝的影響はわずか若しくはなかった、と示唆されます(図3D)。このパターンは、f4統計(ムブティ人、X;縄文人i、の縄文人j)で観察される、有意な遺伝子流動の不在によりさらに裏づけられます。縄文人iと縄文人jは、縄文時代の3時代区分集団の任意の組み合わせです。これら「縄文人」は同様に、地理により区分されたさいに(本州と四国と礼文島)、大陸部人口集団との遺伝的類似性において多様性を示しません。「縄文人」内で唯一観察される違いは、本州の遺跡群間のわずかに高い違いで、本州と他の島々との間の限定的な遺伝子流動を伴う島嶼効果を示唆します。全体的にこれらの結果は、縄文時代人口集団内の限定的な時空間にわたる遺伝的変異を示しており、アジアの他地域からの数千年にわたるほぼ完全な孤立との見解を裏づけます。以下は本論文の図3です。
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●弥生時代における水田稲作の拡散

 弥生文化と関連する西北九州の2個体(図1)は、「縄文人」とユーラシア大陸部両方の祖先系統を有する、と明らかになりました(図2)。本論文のqpAdm分析は、「弥生人」が「縄文人」の混合していない子孫である、とのモデルを却下します。これは、この西北九州の弥生時代2個体を「縄文人」系統の一部に分類した以前の形態学的評価とは対照的です。西北九州の弥生時代2個体における非「縄文人」の祖先的構成要素は、日本列島に稲作を導入した人々によりもたらされた可能性があります。まずf4統計(ムブティ人、X;縄文人、弥生人)を用いて、あらゆる古代のユーラシア東部人口集団が「縄文人」よりも「弥生人」の方と高い遺伝的類似性を有するのか、検証されました(図4A)。その結果、黄河流域人口集団も含めてユーラシア大陸部の標本抽出された古代の人口集団のほとんどは、「弥生人」との有意な遺伝的類似性を示しません。黄河流域では稲作農耕が長江下流域からまず拡大しました。長江流域はジャポニカ米の起源地と仮定されています。

 しかし、「弥生人」との過剰な類似性は稲作と文化的関連を有さない人口集団で検出されました。それは中国北東部の西遼河流域の青銅器時代個体(WLR_BA_o)とハミンマンガ(Haminmangha)の中期新石器時代個体、バイカル湖のロコモティヴ(Lokomotive)前期新石器時代個体とシャマンカ(Shamanka)の前期新石器時代個体とウスチベラヤ(UstBelaya)前期青銅器時代個体、シベリア北東部のエクヴェン(Ekven)鉄器時代個体です。この類似性は、他の青銅器時代西遼河個体(WLR_BA_o)と同じ遺跡で発見された別の2個体(WLR_BA)では観察されませんでした。以前の研究でも、WLR_BA_oとWLR_BAでは系統構成要素に大きな違いが観察されていました(関連記事)。この2個体はWLR_BA_o(1.8±9.1%)よりもずっと高い黄河関連祖先系統(81.4±6.7%)を有しており、検証された古代黄河流域人口集団が「弥生人」の有していた非「縄文人」祖先系統の主要な供給源になった可能性は低そうです。

 ユーラシア大陸部祖先系統の6つの可能性がある供給源をさらに区別するため、次にqpWaveを用いて「弥生人」が「縄文人」と各候補供給源の2方向混合としてモデル化されました。混合モデルはこれらのうち3つで確実に裏づけられます。つまり、バイカル湖の狩猟採集民と西遼河中期新石器時代もしくは青銅器時代個体で、高水準のアムール川地域祖先系統を有します。これらの集団はすべて、支配的なアジア北東部祖先的構成要素を共有しています(図2C)。これら各3集団を第二供給源として用いると、qpAdmではそれぞれ55.0±10.1%、50.6±8.8%、58.4±7.6%の「縄文人」の混合率が推定され、西遼河中期新石器時代および青銅器時代個体を単一の供給源人口集団に統合すると、「縄文人」の混合率は61.3±7.4%となります。

 さらにf4統計(ムブティ人、縄文人;弥生人1、弥生人2)により、「縄文人」祖先系統は「弥生人」2個体間で同等と確認されます。これらの結果は、在来の狩猟採集民と移民の西北九州の弥生時代共同体への寄与がほぼ同等の比率であることを示唆します。この同等性はユーラシア西部の農耕移民と比較した場合とくに注目に値し、ユーラシア西部では最小限の狩猟採集民からの寄与が多くの地域で観察されており、その中にはユーラシアの島嶼地理的極限として日本列島を反映している、ブリテン諸島やアイルランドも含まれます(関連記事1および関連記事2)。本論文の混合モデルで用いられた西遼河人口集団は自身では稲作農耕を行なっていませんでしたが、日本列島への農耕拡大の仮定的な経路のすぐ北方に位置しており、本論文の結果はそれを裏づけます。これは、中国北東部の山東半島から遼東半島(朝鮮半島北西部)へと続き、その後で朝鮮半島を経由して日本列島へと到達しました。

 弥生文化が日本列島へどのように拡大したのか、外群f3統計を用いてさらに調べられ、「弥生人」と各「縄文人」との間の遺伝的類似性が測定されました。その結果、共有された遺伝的浮動の強さが「弥生人」の位置からの距離と有意に相関している、と明らかになりました(図4C)。つまり、縄文時代の遺跡が弥生時代の遺跡に近いほど、その遺跡の「縄文人」は「弥生人」とより多くの遺伝的浮動を共有します。この結果は朝鮮半島経由の稲作の導入と、その後の日本列島南部における在来の「縄文人」集団との混合を裏づけます。以下は本論文の図4です。
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●古墳時代の移民の遺伝的祖先系統

 歴史的記録は、古墳時代におけるユーラシア大陸部から日本列島への継続的な人口集団の移動を強く裏づけます。しかし、古墳時代3個体のqpWaveモデル化は、「弥生人」と適合する「縄文人」祖先系統とアジア北東部祖先系統の2方向混合を却下します。したがって、以前の形態学的研究と同じく、本論文のf3外群統計や主成分分析やADMIXTUREクラスタで裏づけられるように、「古墳人」はその祖先的構成要素の観点では遺伝的に「弥生人」と異なっています。古墳時代個体群の遺伝的構成に寄与した追加の祖先的集団を特定するため、f4統計(ムブティ人、X;弥生人、古墳人)を用いて「古墳人」と各ユーラシア大陸部人口集団との間の遺伝的類似性が検証されました(図5A)。その結果、本論文のデータセットにおける古代もしくは現代の人口集団のほとんどは、「弥生人」よりも「古墳人」の方と有意に密接と明らかになりました。この知見は、弥生時代標本と古墳時代標本のゲノムを分離する6世紀間に日本列島へ追加の移住があったことを示唆します。

 「弥生人」と、「古墳人」に有意により近いと本論文のf4統計から特定された人口集団との間の2方向混合の検証により、この移住の起源を絞り込むことが試みられました。この混合モデルは検証された59人口集団のうち5人口集団でのみ、P>0.05と確実に裏づけられました。次にqpAdmを適用して「弥生人」と各起源集団からの遺伝的寄与が定量化されました。2方向混合モデルは、さまざまな参照セットからの裏づけを欠いていたので、追加の2人口集団においてその後で却下されました。残りの3人口集団(漢人と朝鮮人と黄河後期青銅器時代・鉄器時代集団)は「古墳人」への20〜30%の寄与を示します。これら3集団はすべて強い遺伝的浮動を共有しており、そのADMIXTURE特性では広くアジア東部祖先系統の主要な構成要素で特徴づけられます。

 「古墳人」における追加の祖先系統の起源をさらに選抜するため、「弥生人」祖先系統を「縄文人」およびアジア北東部人祖先系統と置換することにより、3方向混合が検証されました。その結果、漢人のみが祖先系統の供給源としてモデル化に成功し(図5B)、あらゆるあり得る2方向混合モデルよりも3方向混合が大幅によく適合します。「弥生人」と「古墳人」との間で「縄文人」祖先系統が約4倍に「希釈」されていることを考えると、これらの結果から、国家形成段階でアジア東部人祖先系統を有する移民が大規模に流入した、と示唆されます。以下は本論文の図5です。
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 次に、弥生時代と古墳時代の両方で観察されたユーラシア大陸部祖先系統が、アジア北東部とアジア東部の祖先系統の中間水準を有する同じ供給源に由来する可能性について調べられました。「古墳人」の2方向混合により適合すると明らかになった唯一の候補は、黄河流域の後期青銅器時代および鉄器時代個体群(YR_LBIA)でしたが、これは参照セット全体では一貫していませんでした。「縄文人」を除いて「弥生人」との統計的に有意な遺伝子流動を示さない(図4A)にも関わらず、YR_LBIAと「縄文人」との間の2方向混合モデルも「弥生人」に適合する、と明らかになりました。この黄河流域人口集団は、qpAdmにより推定されるように、アジア北東部祖先系統を約40%、アジア東部祖先系統を約60%(つまり漢人)有する中間的な遺伝的特性を有しています。したがって、これは特定のモデルで「弥生人」と「古墳人」の両方に適合する中間の遺伝的特性で、「弥生人」では37.4±1.9%、「古墳人では」87.5±0.8%の流入となります。これらの結果は、単一の供給源からの継続的な遺伝子流動が、「弥生人」と「古墳人」との間の遺伝的変化の説明に充分である可能性を示唆します。

 しかし、より広範な分析では、遺伝子流動の単一の供給源は移住の2回の異なる波よりも可能性が低そうである、と強く示唆されます。まず、ADMIXTUREで特定されたアジア東部祖先系統へのアジア北東部祖先系統の割合は、「弥生人(1.9:1)」と「古墳人(1:2.5)」との間で際立って異なっていました(図2C)。次に、ユーラシア大陸部の類似性におけるこの対比は、f統計のさまざまな形態でも観察され、「弥生人」がアジア北東部祖先系統との有意な類似性を有する、というパターンが繰り返されるのに対して、「古墳人」は漢人や黄河流域古代人口集団を含む他のアジア東部人とは緊密なまとまりを形成します(図5A)。

 最後に、DATESにより「古墳人」における混合年代から2つの波のモデルへの裏づけが見つかります。中間的な人口集団(つまり、YR_LBIA)との単一の混合事象は、1840±213年前頃に起きたと推定され、これは3000年前頃となる弥生時代の開始のずっと後になります。対照的に、2つの異なる供給源との2回の別々の混合事象が想定されるならば、結果の推定値は弥生時代および古墳時代のそれぞれの開始年代と一致する年代に適合し、「弥生人」に関しては「縄文人」祖先系統とアジア北東部祖先系統との間の混合は3448±825年前、「古墳人」に関しては「縄文人」祖先系統とアジア東部祖先系統の混合は1748±175年前と推定されます。これらの遺伝学的知見は、弥生時代と古墳時代におけるユーラシア大陸部からの新たな人々の到来を記録する、考古学的証拠および歴史的記録の両方によりさらに裏づけられます。


●現代日本人における「古墳人」の遺伝的影響

 本論文で検証対象となった古墳時代の3個体は、遺伝的に現代日本人と類似しています(図2)。これは、古墳時代以降日本列島(の本州・四国・九州を中心とする「本土」)の人口集団の遺伝的構成に実質的な変化がないことを示唆します。現代日本人標本で追加の遺伝的祖先系統の兆候を探すため、f4統計(ムブティ人、X;古墳人、縄文人)を用いて、ユーラシア大陸部人口集団が「古墳人」と比較して現代日本人のゲノムと優先的な類似性を有するのかどうか、検証されました。その結果、古代の人口集団の一部は現代日本人よりも「古墳人」の方と高い類似性を示しますが、そのうちどれも「古墳人」に存在する祖先系統の追加の供給源としてqpAdmでは裏づけられません。意外にも、「古墳人」を除いて現代日本人との追加の遺伝子流動を示す古代もしくは現代の人口集団は存在しません。

 本論文の混合モデル化では、現代日本人集団は「縄文人」もしくは「弥生人」祖先系統の増加がないか、現代のアジア南東部人かアジア東部人かシベリア人に代表される追加の祖先の導入なしに、「古墳人」祖先系統により充分に説明される、と確証されます。現代日本人集団は「古墳人」における3方向混合として同じ祖先的構成要素の組み合わせを有しており、「古墳人」と比較して現代日本人においてアジア東部祖先系統のわずかな上昇があります。これは、ある程度の遺伝的連続性を示唆しますが、絶対的ではありません。

 「古墳人」と現代日本人集団との間の連続性の厳密なモデル(つまり、「古墳人」系統固有の遺伝的浮動がない場合)は却下されます。しかし、「古墳人(13.1±3.5%)」と比較して、日本人集団(15.0±3.8%)における「縄文人」祖先系統の「希釈」はなく、ユーラシア大陸部からの移住により「縄文人」祖先系統が顕著に減少した弥生時代と古墳時代の場合とは対照的です。「混合なし」モデルを伴うqpAdmによる「古墳人」と日本人との間の遺伝的クレード(単系統群)性を検証すると、「古墳人」は日本人とクレードを形成する、と明らかになりました。これらの結果から、歯の特徴と非計量的頭蓋特徴でも裏づけられているように、国家形成までに確立された3つの主要な祖先的構成要素の遺伝的特性が、現代日本人集団にとって基盤となりました。


●考察

 本論文のデータは、現代日本人集団の三重祖先系統構造の証拠を提供し、混合した「縄文人」と「弥生人」起源の確立された二重構造モデルを洗練します(図6)。「縄文人」はLGM後の日本列島内の長期の孤立と強い遺伝的浮動のため独自の遺伝的変異を蓄積し、それは現代日本人の内部における独特な遺伝的構成要素の基礎となりました。弥生時代はこの孤立の終わりを示し、遅くとも2300年前頃に始まるアジア東部本土からのかなりの人口集団の移住を伴いました。しかし、日本列島の先史時代および原始時代となるその後の農耕期と国家形成期に日本列島に到来した人々の集団間では、明確な遺伝的差異が見つかります。「弥生人」の遺伝的データは、形態学的研究で裏づけられるように、日本列島におけるアジア北東部祖先系統の存在を記録していますが、「古墳人」では広範なアジア東部祖先系統が観察されました。「縄文人」と「弥生人」と「古墳人」の各クラスタを特徴づける祖先は、現代日本人集団の形成に大きく寄与しました。以下は本論文の図6です。
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 「縄文人」の祖先的系統は、他のアジア東部の古代人および現代人とは深く分岐しており、アジア南東部に起源があった、と提案されています。この分岐の年代は以前には38000〜18000年前頃(関連記事)と推定されていました。ROH特性を有する本論文のモデル化では、8800年前頃の「縄文人」の分析によりこの年代が20000〜15000年前頃の下限範囲に絞り込まれています(図3)。日本列島は28000年前頃となるLGM開始の頃には朝鮮半島を通って到来できるようになり、ユーラシア大陸部と日本列島との間の人口集団の移動が可能となりました。海面上昇によるその後の17000〜16000年前頃となる対馬海峡の拡大により、「縄文人」系統はユーラシア大陸部の他地域から孤立したかもしれず、それは縄文土器製作の最古の証拠とも一致します。本論文のROHモデル化は、「縄文人」が縄文時代早期には1000人以下の小さな有効人口規模を維持した、と示しており、その後の縄文時代もしくは日本列島のさまざまな島々全域で、そのゲノム特性にほとんど変化が観察されませんでした。

 上述のヨーロッパの大半における新石器時代への移行で記録されているように、農耕拡大はしばしば人口集団の置換により特徴づけられ、多くの地域で観察される狩猟採集民人口集団からの寄与はごく僅かです。しかし、先史時代の日本列島における農耕への移行には、置換というよりもむしろ同化の過程が含まれており、西北九州の遺跡ではほぼ均等な在来の「縄文人」と新たな移民からの遺伝的寄与があった、との遺伝的証拠が見つかりました。これは、日本列島の少なくとも一部が、弥生時代開始期における農耕移民と匹敵する「縄文人」集団を支えていた、と示唆しており、それは一部の縄文時代共同体で行なわれていた高水準の定住に反映されています。

 「弥生人」に継承されたユーラシア大陸部の構成要素は、本論文のデータセットではアムール川祖先系統を高水準で有する西遼河流域の中期新石器時代および青銅器時代の個体群により最もよく表されます(HMMH_MN およびWRL_BA_o)。西遼河流域の人口集団は時空間的に遺伝的には不均質です(関連記事)。6500〜3500年前頃となる中期新石器時代から後期新石器時代への移行は、黄河祖先系統の25%から92%の増加により特徴づけられ、アムール川祖先系統は75〜8%へと激減し、これは雑穀農耕の強化と関連しているかもしれません。しかし、西遼河流域では3500年前頃に始まる青銅器時代に人口構造が変わり、それはアムール川流域からの人々の明らかな流入に起因します。これは、トランスユーラシア語族とシナ語族の下位集団間の集中的な言語借用の始まりと一致します。「弥生人」への過剰な類似性は、古代アムール川流域人口集団もしくは現代のツングース語族話者人口集団と遺伝的に密接な個体群で観察されます(図4)。

 本論文の知見から、水田稲作が、西遼河流域周辺のどこかに居住していたものの、さらに北方の人口集団に祖先系統の大半の構成要素が由来する人々により日本列島にもたらされ、稲作の拡大は西遼河流域の南側に起源があった、と示唆されます。古墳文化の最も顕著な考古学的特徴は、鍵穴型の塚にエリートを埋葬する習慣で、その大きさは階級と政治権力を反映しています。本論文の検証対象となった古墳時代の3個体はそうした古墳に埋葬されておらず、この3個体は下層階級だった、と示唆されます。この3個体のゲノムは、日本列島へのおもにアジア東部祖先系統を有する人々の到来と、「弥生人」集団との混合を記録します(図5)。この追加の祖先系統は、本論文の分析では複数の祖先的構成要素を有する漢人により最もよく表されます。最近の研究では、新石器時代以降人々が形態学的に均質になっていると報告されており、それは古墳時代の移民がすでに高度に混合していたことを示唆します。

 いくつかの一連の考古学的証拠は、おそらくは弥生時代と古墳時代の移行期における朝鮮半島南部からの可能性が最も高い、日本列島への新しい大規模な移民の到来を裏づけます。日本列島と朝鮮半島と中国の間の強い文化的および政治的類似性は、中国の鏡と貨幣、鉄生産のための朝鮮半島の原材料、剣など金属製道具に刻まれた漢字を含む、いくつかの輸入品からも観察されます。海外からのこれらの資源の入手は、日本列島内の共同体間の激しい競争を引き起こしました。これは、支配のための、黄海沿岸などユーラシア大陸部の国家との制度的接触を促進しました。したがって、古墳時代を通じて継続的な移住と大陸の影響は明らかです。本論文の知見は、この国家形成段階における、新たな社会的・文化的・政治的特徴の出現と関わる遺伝的交換の強い裏づけを提供します。

 本論文の分析には注意点があります。まず「弥生人」については、弥生文化と関連する骨格遺骸が形態学的に「縄文人」と類似している地域(西北九州)の2個体のみに分析が限定されています。他地域もしくは他の年代の弥生時代個体群は異なる祖先的特性を有しているかもしれません。たとえば、ユーラシア大陸部的もしくは「古墳人」的祖先系統です。次に、本論文の標本抽出は無作為ではなく、本論文で分析された古墳時代の個体群は同じ埋葬遺跡に由来します。弥生時代と古墳時代の人口集団の遺伝的祖先系統における時空間的変異を調べて、本論文で提案された日本列島の人口集団の三重構造の包括的な見解を提供するには、追加の古代ゲノムデータが必要です。

 要約すると本論文は、農耕と技術的に促進された人口集団の移動が、ユーラシア大陸部の他地域から孤立していた数千年を終わらせた前後両方の期間において日本列島に居住していた人々のゲノム特性を変化させたことについて、詳細な調査を提供します。これら孤立した地域の個体群の古代ゲノミクスは、人口集団の遺伝的構成への大きな文化的変化の影響の程度を観察する、特有の機会を提供します。


●私見

 以上、本論文についてざっと見てきました。本論文は縄文時代と古墳時代の複数個体の新たな核ゲノムデータを報告しており、とくにこれまで佐賀市の東名貝塚遺跡の1個体(関連記事)でしか報告されていなかった西日本「縄文人」の核ゲノムデータを、広範な年代と地域の複数個体から得ていることは、たいへん意義深いと思います。これにより、時空間的にずっと広範囲の「縄文人」の遺伝的構造がさらに詳しく明らかになりました。また、愛媛県久万高原町の上黒岩岩陰遺跡の1個体(JpKa6904)の年代は8991〜8646年前頃で、現時点では核ゲノムデータが得られた日本列島最古の個体になると思います。日本列島において更新世の人類遺骸の発見数がきわめて少ないことを考えると、この点でも本論文の意義は大きいと思います。

 本論文でまず注目されるのは、「縄文人」は時空間的に広範囲にわたって遺伝的にかなり均質な集団だった、と改めて示された点です。本論文で分析対象とされていない、7980〜7460年前頃となる東名貝塚遺跡の1個体や千葉市の六通貝塚の4000〜3500年前頃の個体群(関連記事)も、既知の「縄文人」と遺伝的に一まとまりを形成します。さらに、弥生時代早期となる佐賀県唐津市大友遺跡で発見された女性個体(大友8号)も、既知の「縄文人」と遺伝的に一まとまりを形成します(関連記事)。時空間的により広範囲の「縄文人」の核ゲノムデータがさらに蓄積されるまで断定はできませんが、本論文が指摘するように「縄文人」は長期にわたって遺伝的には孤立した集団だった可能性が高そうです。これは以前から予測されていたので(関連記事)、とくに意外ではありませんでした。縄文時代にアジア東部大陸部から日本列島にアジア東部祖先系統を有する個体が到来し、日本列島で在来の「縄文人」と混合して子供を儲けた可能性は高そうですが、「縄文人(的な遺伝的構成の個体)」のゲノムで明確に検出されるほどの影響は残らなかったのだろう、というわけです。

 一方で朝鮮半島南端では、8300〜4000年前頃にかけて「縄文人」的な遺伝的構成要素が持続していたようで、遼河地域の紅山(Hongshan)文化集団的な遺伝的構成要素と「縄文人」的な遺伝的構成要素とのさまざまな混合割合の個体が存在し、中には遺伝的にはほぼ「縄文人」と言える個体も確認されています(関連記事)。上黒岩岩陰遺跡の1個体(JpKa6904)から、遅くとも9000年前頃までには「縄文人」的な遺伝的構成は確立していたようですから、朝鮮半島南端の8300〜4000年前頃の個体の「縄文人」的な遺伝的構成要素は、日本列島から朝鮮半島に渡った「縄文人」によりもたらされたのでしょう。ただ、この朝鮮半島南端の8300〜4000年前頃の個体群は、日本列島や朝鮮半島の現代人に強い遺伝的影響を残していないかもしれません。

 「縄文人」の起源について本論文は、ホアビン文化個体関連系統とアジア東部関連系統の混合とするモデル(関連記事)よりも、ユーラシア東部系集団において、ホアビン文化集団よりも後にアジア東部現代人の主要な祖先集団と20000〜15000年前頃に分岐した、とのモデルの方が妥当と推測しています。しかし、現生人類(Homo sapiens)とネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)や種区分未定のデニソワ人(Denisovan)など非現生人類ホモ属との混合でさえたいへん複雑で、単純な系統樹で表すことが困難ですから(関連記事)、現生人類集団間の関係を単純な系統樹で表すことには慎重であるべきだと思います。もちろん、現生人類がアフリカから世界中の広範な地域に拡散する過程で、LGMのような寒冷期もあり、集団の孤立と遺伝的分化が進みやすかったでしょうから、系統樹で表すことに合理性があることも確かだと思います。しかし、多くの集団は遺伝的に大きく異なる集団間の複雑な混合により形成されたでしょうから、単純な系統樹で表すことに問題があることも否定できないと思います。

 具体的に本論文の系統樹の問題点として、モンゴル北東部のサルキート渓谷で発見された34950〜33900年前頃の女性個体(サルキート個体)が挙げられます。サルキート個体は本論文の系統樹では、出アフリカ現生人類集団がユーラシア東西系統に分岐した後、ユーラシア東部系集団で最初に分岐した、と位置づけられています。サルキート個体の分岐後のユーラシア東部系集団では、まずパプア人、次に田園個体、その後でホアビン文化集団が分岐し、「縄文人」はその後の分岐となります。しかし、他の研究ではサルキート個体は田園個体と同じ系統に位置づけられています(関連記事)。この違いは、サルキート個体にはユーラシア東部系集団と遺伝的に大きく異なるユーラシア西部系集団からの一定以上の遺伝的影響があるため(関連記事)と考えられます。

 本論文の系統樹は正確な人口史を正確には表せていない可能性があり、「縄文人」が遺伝的に大きく異なる集団間の混合により形成された可能性は、まだ否定できないように思います。より具体的には、出アフリカ現生人類集団のうち、ユーラシア東西系統の共通祖先と分岐した集団(ユーラシア南部系集団)が存在し、ユーラシア東部系集団とユーラシア南部系集団との複雑な混合により「縄文人」もホアビン文化集団も形成され、それぞれの(複数の)祖先集団も相互に遺伝的には深く分岐していた、と想定しています(関連記事)。

 本論文の見解で大きな問題となるのは、「弥生人」を佐世保市の下本山岩陰遺跡の2個体に代表させていることです。本論文でも、「弥生人」を形態学的に「縄文人」との類似性が指摘されている西北九州の弥生時代人骨の下本山岩陰遺跡の2個体に代表させていることについて、地域もしくは他の年代の弥生時代個体群は異なる祖先的特性を有しているかもしれない、と指摘されていました。じっさい、弥生時代中期となる福岡県那珂川市の安徳台遺跡の1個体(安徳台5号)は形態学的に「渡来系弥生人」と評価されていますが、核ゲノム解析により現代日本人の範疇に収まる、と指摘されています(関連記事)。同じく弥生時代中期の「渡来系弥生人」とされる福岡県筑紫野市の隈・西小田遺跡の個体も、核ゲノム解析では現代日本人の範疇に収まります。現代日本人の平均と比較しての「縄文人」構成要素の割合は、安徳台5号がやや高く、隈・西小田遺跡の個体はやや低いと推定されています。

 弥生時代の日本列島の人類集団は遺伝的異質性がかなり高かったと考えられます(関連記事)。読売新聞の記事によると、篠田謙一氏は「弥生人の遺伝情報は、地域や時代で差があり、現代の日本人に近い例もある。当時の実態を解明するには、解析する人骨をさらに増やす必要がある」と指摘しており、その通りだと思います。安徳台5号も隈・西小田遺跡個体も下本山岩陰遺跡の2個体に先行し、下本山岩陰遺跡の2個体の頃(2001〜1931年前頃)には、少なくとも九州において現代日本人に近い遺伝的構成の集団が存在したわけですから、下本山岩陰遺跡の2個体を「弥生人」の代表として、弥生時代後期〜古墳時代にかけて日本列島にユーラシア大陸部から大規模な移民が到来した、との本論文の見解にはかなり疑問が残ります。

 本論文が検証対象とした岩出横穴墓の3個体は古墳時代終末期となり、年代は紀元後6〜7世紀です。同じ古墳時代でも岩出横穴墓の3個体よりは古い和歌山県田辺市の磯間岩陰遺跡の第1号石室1号個体(紀元後398〜468年頃)および2号個体(紀元後407〜535年頃)は、核ゲノム解析の結果、「縄文人」構成要素がそれぞれ52.9〜56.4%と42.4〜51.6%と推定されています(関連記事)。おそらく弥生時代だけではなく古墳時代にも、本州・四国・九州を中心とする日本列島「本土」の人類集団にはかなりの遺伝的異質性があり、時空間的な違いがあったと考えられますが、今後同一遺跡もしくは地域内で「古墳人」の核ゲノムデータが蓄積されていけば、階層差も確認されるようになるかもしれません。日本列島における現代人のような遺伝的構造の形成は、古墳時代の後もよく考慮しなければならないように思います。

 本論文は日本列島の人類集団の遺伝的構成において、縄文時代から弥生時代の移行期と弥生時代から古墳時代の移行期に大きな変化を見出し、「弥生人」にはアジア北東部祖先系統の影響が「縄文人」祖先系統に近いくらいの割合で見られ、「古墳人」ではアジア北東部祖先系統が優勢になる、と推測しています。しかし最近の別の研究では、現代日本人の遺伝的構成は低い割合の「縄文人」関連祖先系統と高い割合の遼河地域の夏家店上層文化集団関連祖先系統の混合と推定されており、朝鮮半島中部西岸に位置する2800〜2500年前頃のTaejungni遺跡の個体(Taejungni個体)の遺伝的構成が現代日本人に類似している、と指摘されています(関連記事)。これは、現代日本人の基本的な遺伝的構成が朝鮮半島において形成され、一方で朝鮮半島の人類集団ではその後で大きな遺伝的変化があり、現代朝鮮人のような遺伝的構成が確立したことを示唆します。

 上述のように「弥生人」は遺伝的異質性が高かったと考えられ、中には遺伝的に現代日本人の範疇に収まる集団も存在しました。本論文で提示された古代ゲノムデータとともに、本論文では取り上げられなかった日本列島の弥生時代個体群や朝鮮半島の古代人のゲノムデータも含めて、日本列島の人口史を再検討する必要があると思います。本論文と他の研究を組み合わせて解釈した現時点での大まかな想定は、朝鮮半島において紀元前二千年紀後半〜紀元前千年紀前半にかけて、遼河地域青銅器時代集団的な遺伝的構成の集団と「縄文人」構成要素を高い割合で有する集団が混合して現代日本人の基本的な遺伝的構成が形成され、その集団が弥生時代に日本列島に到来して在来の「縄文人」と混合し(縄文時代晩期に日本列島に存在した「縄文人」の現代日本人における遺伝的影響は数%程度かもしれません)、その後で紀元前千年紀後半以降に朝鮮半島では黄河流域集団に遺伝的により近づくような大規模な遺伝的変化があり、そうした集団が古墳時代から飛鳥時代にかけて日本列島に継続的に到来し、奈良時代以降の日本列島内の歴史的展開を経て現代「本土」日本人が形成された、というものです。


参考文献:
Cooke H. et al.(2021): Ancient genomics reveals tripartite origins of Japanese populations. Science Advances, 7, 38, eabh2419.
https://doi.org/10.1126/sciadv.abh2419


https://sicambre.at.webry.info/202109/article_20.html
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/255.html#c23

[近代史02] 弥生人の起源 _ 自称専門家の嘘に騙されない為に これ位は知っておこう 中川隆
298. 中川隆[-16255] koaQ7Jey 2021年9月20日 13:19:15 : 6C6SEMfD1k : YnZQeFh4aHV2cS4=[20]
雑記帳
2021年09月19日
縄文時代と古墳時代の人類の新たなゲノムデータ
https://sicambre.at.webry.info/202109/article_20.html


 縄文時代と古墳時代の人類の新たなゲノムデータを報告した研究(Cooke et al., 2021)が報道されました。日本列島には、少なくとも過去38000年間ヒトが居住してきました。しかし、その最も劇的な文化的変化は過去3000年以内にのみ起き、その間に住民は急速に狩猟採集から広範な稲作、さらには技術的に発展した「帝国」へと移行しました。これらの急速な変化は、ユーラシア大陸部からの地理的孤立とともに、アジアにおける農耕拡大と経済強化に伴う移動パターンを研究するうえで、日本を独特な縮図としています。

 農耕文化の到来前には、日本列島には土器により特徴づけられる縄文文化に区分される、多様な狩猟採集民集団が居住していました。縄文時代は最終氷期極大期(Last Glacial Maximum、略してLGM)に続く最古ドリアス期に始まり、最初の土器破片は16500年前頃までさかのぼり、世界でも最古級の土器使用者となります。縄文時代の生存戦略は多様で、人口密度は時空間により変動し、定住への傾向がありました。縄文文化は3000年前頃となる弥生時代の始まりまで続き、その頃となる水田稲作の到来により日本列島に農耕革命がもたらされました。弥生時代の後には古墳時代が1700年前頃に始まり、政治的中央集権化と帝国の統治が出現し、日本を定義するようになりました。

 日本列島の現代の人口集団の起源に関する長く提唱されてきた仮説では二重構造モデルが提案されており、日本人集団は先住の「縄文人」と後に弥生時代になってユーラシア東部本土から到来した人々との混合子孫である、と想定されました。この二重構造モデル仮説は、もともとは形態学的データに基づいて提案されましたが、学際的に広く検証され評価されてきました。遺伝学的研究により、現代日本人集団内の人口層別化が特定されており、日本列島への少なくとも2回の移住の波が裏づけられます(関連記事)。

 以前の古代DNA研究も、現代日本人集団への「縄文人」と「弥生人」の遺伝的類似性を示してきました(関連記事1および関連記事2および関連記事3および関連記事4および関連記事5)。それでも、農耕への移行とその後の国家形成段階の人口統計学的起源および影響はほとんど知られていません。歴史言語学的観点からは、日本語祖語(日琉祖語)の到来は弥生文化の発展および水田稲作の拡大と対応している、と理論化されています。しかし、弥生時代と古墳時代では考古学的文脈および大陸との関係が異なっており、知識や技術の拡大には大きな遺伝的交換が伴っていたのかどうか、不明なままです。

 本論文は、日本列島の先史時代から原始時代(先史時代と歴史時代の中間で、断片的な文献が残っている時代)までの8000年にわたる古代人12個体の新たに配列されたゲノムを報告します(図1)。本論文が把握している限りでは、これは日本列島の年代の得られた古代人ゲノムの最大のセットとなり、最古の縄文時代個体と古墳時代の最初のゲノムデータが含まれます。また既知の先史時代日本列島の古代人のゲノムも分析に含められました。具体的には、縄文時代後期の北海道礼文島(関連記事)の2個体(F5とF23)、愛知県田原市伊川津町の貝塚(関連記事)で発見された縄文時代晩期の1個体(IK002)、長崎県佐世保市の下本山岩陰遺跡(関連記事)の弥生文化と関連する2個体です。以下は本論文の図1です。
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 下本山岩陰遺跡の2個体の骨格は、「移民型」よりもむしろ「縄文人的」な特徴を示しますが、他の考古学的資料は弥生文化との関連を明確に裏づけます。この形態学的評価にも関わらず、下本山岩陰遺跡の2個体は「縄文人」と比較して現代日本人集団との遺伝的類似性の増加を示しており、大陸部集団との混合が弥生時代後期にはすでに進展していたことを示唆します。これら日本列島古代人のゲノムは、草原地帯中央部(関連記事)および東部(関連記事)やシベリア(関連記事)やアジア南東部(関連記事)やアジア東部(関連記事1および関連記事2)にまたがるより大規模なデータセットと統合され、縄文時代の先農耕人口集団と、日本列島現代人の遺伝的特性を形成してきたその後の移民との混合をよりよく特徴づけることが、本論文の目的です。


●先史時代および原始時代の日本列島の古代人ゲノムの時系列

 本論文は、6ヶ所の遺跡で発掘された14個体のうち、新たに配列に成功した12個体のゲノムデータを報告します。平均網羅率は0.88〜7.51倍です。6ヶ所の遺跡は、縄文時代早期となる愛媛県久万高原町の上黒岩岩陰遺跡、縄文時代前期となる富山県富山市の小竹貝塚および岡山県倉敷市の船倉貝塚、縄文時代後期となる千葉県船橋市の古作貝塚、縄文時代後期の平城貝塚(愛媛県愛南町)、古墳時代終末期となる石川県金沢市の岩出横穴墓です。12個体のうち9個体は縄文文化と関連しており、内訳は、上黒岩岩陰遺跡が1個体(JpKa6904)、小竹貝塚が4個体(JpOd274とJpOd6とJpOd181とJpOd282)、船倉貝塚が1個体(JpFu1)、古作貝塚が2個体(JpKo2とJpKo13)、平城貝塚が1個体(JpHi01)です。残りの3個体は古墳時代末期となる岩出横穴墓で発見されています(JpIw32とJpIw31とJpIw33)。これら12個体で親族関係は確認されませんでした。

 縄文時代の9個体のミトコンドリアDNA(mtDNA)ハプログループ(mtHg)はすべてN9bかM7a系統で、両者は縄文時代集団と強く関連しており、現代では日本列島外では稀です。縄文時代の9個体のうち3個体は男性で、そのY染色体ハプログループ(YHg)はすべてD1b1(現在の分類名はD1a2a1だと思いますので、以下D1a2a1で統一します)で、現代日本人には存在しますが、他のアジア東部現代人にはほぼ見られません。対照的に、古墳時代の3個体のmtHgはアジア東部現代人と共通しています(B5a2a1bとD5c1aとM7b1a1a1)。そのうち1個体は男性で、YHgはO3a2c(現在の分類名はO2a2bだと思いますので、以下O2a2bで統一します)で、これはアジア東部全域、とくに中国本土で見られます。

 本論文のデータをユーラシア東部の人口統計のより広い文脈に位置づけるため、日本列島古代人のゲノムが既知の古代人および現代人のデータと組み合わされました。本論文では、現代日本人集団はSGDP(Simons Genome Diversity Project)もしくは1000人ゲノム計画3期のデータであらわされます。ただ要注意なのは、現代の日本列島全体では祖先からの異質性が存在しており、この標準的な参照セットでは充分には把握できないことです。本論文で分析された他の古代および現代の人口集団は、おもに地理的もしくは文化的文脈のいずれかで分類されています。


●異なる文化期間の遺伝的区別

 f3統計(個体1、個体2;ムブティ人)を用いて、古代と現代両方の日本列島の人口集団の個体の全てのペアワイズ比較間で共有される遺伝的浮動を調べることで、時系列内の遺伝的多様性が調べられました(図2A)。その結果、縄文時代と弥生時代と古墳時代の異なる3個体群のまとまりが明確に定義され、古墳時代個体群は現代日本人とまとまり、文化的変化には遺伝的変化が伴う、と示唆されます。縄文時代データセットにおける大きな時空間的変異にも関わらず、ひじょうに高水準の共有された浮動が12個体全ての間で観察されます。弥生時代2個体は相互に他の個体と最も密接に関連しており、古墳時代の3個体とよりも縄文時代の個体群の方と高い類似性を有しています。古墳時代と現代の日本列島の個体群は、この測定では相互にほぼ区別ができず、過去1400年間のある程度の遺伝的継続性が示唆されます。

 さらに主成分分析を用いて、大陸部人口集団に対する日本列島古代人のゲノム規模常染色体類似性が調べられました。古代人が、アジア南部と中央部と南東部と東部のSGDPデータセットの、現代の人口集団の遺伝的変異に投影されました(図2B)。その結果、日本列島古代人はPC1軸に沿って各文化名称に分離する、と観察されます。全ての縄文時代個体は密集しており、他の古代人口集団やアジア南東部および東部現代人とは離れて位置し、持続した地理的孤立が示唆されます。弥生時代の2個体はこの縄文人クラスタの近くに現れ、以前に報告された遺伝的および地理的類似性を裏づけます(関連記事)。しかし、この弥生時代の2個体はアジア東部人口集団の方へと動いており、弥生時代2個体における追加のユーラシア大陸部祖先系統(祖先系譜、祖先成分、ancestry)の存在が示唆されます。ユーラシア東部の古代人はPC2軸に沿って南から北への地理的勾配を示します。それは、中国南部→黄河→中国北部→西遼河→悪魔の門→アムール川→バイカル湖です。古墳時代の3個体は黄河クラスタの多様性内に収まります。

 ヒト起源配列(Human Origins Array)データセットでのADMIXTURE分析も、縄文時代末以後の日本列島への大陸部からの遺伝子流動の増加を裏づけます(図2C)。縄文時代個体群は異なる祖先的構成要素(図2Cの赤色)を示し、これは弥生時代2個体でも高水準で見られ、古墳時代の3個体と現代日本人では低水準のままです。弥生時代の2個体には新たな祖先的構成要素が現れ、アムール川流域やその周辺地域で見られる特性と類似した割合です。これらには、アジア北東部現代人で支配的なより大きな構成要素(図2Cの水色)と、ずっと広範なアジア東部現代人祖先系統を表すより小さな構成要素(図2Cの黄色)が含まれます。このアジア東部人構成要素は、古墳時代と現代の日本列島の人口集団で支配的になります。以下は本論文の図2です。
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●地理的孤立による縄文人系統の深い分岐

 「縄文人」の他の人口集団からの分離は、以前の研究で提案されているように、ユーラシア東部人の間で「縄文人」が異なる系統を形成する、という見解を裏づけます(関連記事)。この分岐の深さを調べるため、TreeMixを用いて他の古代人および現代人17人口集団と「縄文人」の系統発生関係が再構築されました(図3A)。その結果、「縄文人」の分岐は、上部旧石器時代ユーラシア東部人、具体的には北京の南西56km にある田园(田園)洞窟(Tianyuan Cave)で発見された4万年前頃の男性個体(関連記事)およびモンゴル北東部のサルキート渓谷(Salkhit Valley)で発見された34950〜33900年前頃の女性個体(関連記事)と、アジア南東部狩猟採集民のホアビン文化(Hòabìnhian)個体の早期の分岐後ではあるものの、アジア東部現代人や、3150〜2400年前頃となるのチョクホパニ(Chokhopani)のネパール古代人や、バイカルの狩猟採集民(前期新石器時代)や、極東ロシアのプリモライ(Primorye)地域の悪魔の門洞窟(Chertovy Vorota Cave)個体(関連記事)や、末期更新世アラスカの幼児個体USR1(関連記事)を含む他の標本の分岐前と推測されます。

 さらに、f4統計(ムブティ人、X;ホアビン文化個体/悪魔の門新石器時代個体、縄文人)を用いての対称性モデル検定により、この系統樹の他の深く分岐した狩猟採集民2系統間の「縄文人」の位置が確証されました。これらの結果から示されるのは、縄文時代開始以降の本論文のデータセットにおける全てのアジア東部個体は、より早期に分岐したホアビン文化個体よりも「縄文人」の方と高い類似性を有するものの、悪魔の門新石器時代個体との比較ではより低い類似性を有している、ということです。これは、以前に提案された「縄文人」をホアビン文化個体関連系統とアジア東部関連系統の混合とするモデル(関連記事)よりもむしろ、ユーラシア東部の異なる狩猟採集民3系統の推定される系統発生を裏づけます。また、検証された全ての移住モデルにわたって、「縄文人」から現代日本人への遺伝子流動が一貫して推定され、8.9〜11.5%の範囲の遺伝的寄与を伴います。これは、本論文のADMIXTURE分析(図2C)から推定された現代日本人の平均的な「縄文人」構成要素9.31%と一致します。これらの結果は、縄文人の深い分岐と現代日本人集団への祖先的つながりを示唆します。

 集団遺伝学モデル化を適用して、「縄文人」系統の出現年代が推定されました。本論文の手法は、ROH(runs of homozygosity)のゲノム規模パターンを用いて、最古にして最良の標本であるJpKa6904で観察されたROH連続体に最も適合するシナリオを特定します。ROHとは、両親からそれぞれ受け継いだと考えられる同じアレルのそろった状態が連続するゲノム領域(ホモ接合連続領域)で、長いROHを有する個体の両親は近縁関係にある、と推測されます。ROHは人口集団の規模と均一性を示せます。ROH区間の分布は、有効人口規模と、1個体内のハプロタイプの2コピー間の最終共通祖先の時間を反映しています(関連記事)。

 8800年前頃となる縄文時代個体JpKa6904は高水準のROHを有しており、とくに短いROH(最近の近親交配よりもむしろ人口の影響に起因します)の頻度はこれまで報告された中で(関連記事)最高です(図3B)。このパターンは、縄文時代個体群で共有される強い遺伝的浮動と相まって、縄文時代人口集団が深刻な人口ボトルネック(瓶首効果)を経た、と示唆します。人口規模と分岐年代のパラメータ空間検索では、縄文人系統は20000〜15000年前頃に出現したと推定され、その後は少なくとも縄文時代早期まで、1000人程度のひじょうに小さな人口規模が維持されました(図3C)。これはLGM末における海面上昇および大陸部からの陸橋の切断と一致しており、日本列島における縄文土器の最初の出現の直前です。

 次にf4統計(ムブティ人、X;縄文人、漢人/傣人/日本人)を用いて、「縄文人」がユーラシア大陸部の上部旧石器時代の人々と、分岐した後から日本列島において孤立する前に接触したのかどうか、検証されました。検証対象の上部旧石器時代個体のうち、31600年前頃のヤナRHS(Yana Rhinoceros Horn Site)個体のみが漢人や傣(Dai)人や日本人よりも「縄文人」と有意に密接です。この類似性は、これら参照人口集団を他のアジア南東部および東部人と置き換えても依然として検出可能で、「縄文人」と古代北シベリア人の祖先間の遺伝子流動を裏づけます。ヤナRHS個体も含まれる古代北シベリア人は、LGM前にユーラシア北部に広範に存在した人口集団です(関連記事)。

 最後に、縄文時代人口集団内の時空間的な変動の可能性が調べられました。縄文時代の早期と前期と中期・後期・晩期で定義される3つの時代区分集団は、古代および現代のユーラシア大陸部人口集団と類似の水準の共有された遺伝的浮動を示し、これら3時代区分における日本列島外からの遺伝的影響はわずか若しくはなかった、と示唆されます(図3D)。このパターンは、f4統計(ムブティ人、X;縄文人i、の縄文人j)で観察される、有意な遺伝子流動の不在によりさらに裏づけられます。縄文人iと縄文人jは、縄文時代の3時代区分集団の任意の組み合わせです。これら「縄文人」は同様に、地理により区分されたさいに(本州と四国と礼文島)、大陸部人口集団との遺伝的類似性において多様性を示しません。「縄文人」内で唯一観察される違いは、本州の遺跡群間のわずかに高い違いで、本州と他の島々との間の限定的な遺伝子流動を伴う島嶼効果を示唆します。全体的にこれらの結果は、縄文時代人口集団内の限定的な時空間にわたる遺伝的変異を示しており、アジアの他地域からの数千年にわたるほぼ完全な孤立との見解を裏づけます。以下は本論文の図3です。
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●弥生時代における水田稲作の拡散

 弥生文化と関連する西北九州の2個体(図1)は、「縄文人」とユーラシア大陸部両方の祖先系統を有する、と明らかになりました(図2)。本論文のqpAdm分析は、「弥生人」が「縄文人」の混合していない子孫である、とのモデルを却下します。これは、この西北九州の弥生時代2個体を「縄文人」系統の一部に分類した以前の形態学的評価とは対照的です。西北九州の弥生時代2個体における非「縄文人」の祖先的構成要素は、日本列島に稲作を導入した人々によりもたらされた可能性があります。まずf4統計(ムブティ人、X;縄文人、弥生人)を用いて、あらゆる古代のユーラシア東部人口集団が「縄文人」よりも「弥生人」の方と高い遺伝的類似性を有するのか、検証されました(図4A)。その結果、黄河流域人口集団も含めてユーラシア大陸部の標本抽出された古代の人口集団のほとんどは、「弥生人」との有意な遺伝的類似性を示しません。黄河流域では稲作農耕が長江下流域からまず拡大しました。長江流域はジャポニカ米の起源地と仮定されています。

 しかし、「弥生人」との過剰な類似性は稲作と文化的関連を有さない人口集団で検出されました。それは中国北東部の西遼河流域の青銅器時代個体(WLR_BA_o)とハミンマンガ(Haminmangha)の中期新石器時代個体、バイカル湖のロコモティヴ(Lokomotive)前期新石器時代個体とシャマンカ(Shamanka)の前期新石器時代個体とウスチベラヤ(UstBelaya)前期青銅器時代個体、シベリア北東部のエクヴェン(Ekven)鉄器時代個体です。この類似性は、他の青銅器時代西遼河個体(WLR_BA_o)と同じ遺跡で発見された別の2個体(WLR_BA)では観察されませんでした。以前の研究でも、WLR_BA_oとWLR_BAでは系統構成要素に大きな違いが観察されていました(関連記事)。この2個体はWLR_BA_o(1.8±9.1%)よりもずっと高い黄河関連祖先系統(81.4±6.7%)を有しており、検証された古代黄河流域人口集団が「弥生人」の有していた非「縄文人」祖先系統の主要な供給源になった可能性は低そうです。

 ユーラシア大陸部祖先系統の6つの可能性がある供給源をさらに区別するため、次にqpWaveを用いて「弥生人」が「縄文人」と各候補供給源の2方向混合としてモデル化されました。混合モデルはこれらのうち3つで確実に裏づけられます。つまり、バイカル湖の狩猟採集民と西遼河中期新石器時代もしくは青銅器時代個体で、高水準のアムール川地域祖先系統を有します。これらの集団はすべて、支配的なアジア北東部祖先的構成要素を共有しています(図2C)。これら各3集団を第二供給源として用いると、qpAdmではそれぞれ55.0±10.1%、50.6±8.8%、58.4±7.6%の「縄文人」の混合率が推定され、西遼河中期新石器時代および青銅器時代個体を単一の供給源人口集団に統合すると、「縄文人」の混合率は61.3±7.4%となります。

 さらにf4統計(ムブティ人、縄文人;弥生人1、弥生人2)により、「縄文人」祖先系統は「弥生人」2個体間で同等と確認されます。これらの結果は、在来の狩猟採集民と移民の西北九州の弥生時代共同体への寄与がほぼ同等の比率であることを示唆します。この同等性はユーラシア西部の農耕移民と比較した場合とくに注目に値し、ユーラシア西部では最小限の狩猟採集民からの寄与が多くの地域で観察されており、その中にはユーラシアの島嶼地理的極限として日本列島を反映している、ブリテン諸島やアイルランドも含まれます(関連記事1および関連記事2)。本論文の混合モデルで用いられた西遼河人口集団は自身では稲作農耕を行なっていませんでしたが、日本列島への農耕拡大の仮定的な経路のすぐ北方に位置しており、本論文の結果はそれを裏づけます。これは、中国北東部の山東半島から遼東半島(朝鮮半島北西部)へと続き、その後で朝鮮半島を経由して日本列島へと到達しました。

 弥生文化が日本列島へどのように拡大したのか、外群f3統計を用いてさらに調べられ、「弥生人」と各「縄文人」との間の遺伝的類似性が測定されました。その結果、共有された遺伝的浮動の強さが「弥生人」の位置からの距離と有意に相関している、と明らかになりました(図4C)。つまり、縄文時代の遺跡が弥生時代の遺跡に近いほど、その遺跡の「縄文人」は「弥生人」とより多くの遺伝的浮動を共有します。この結果は朝鮮半島経由の稲作の導入と、その後の日本列島南部における在来の「縄文人」集団との混合を裏づけます。以下は本論文の図4です。
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●古墳時代の移民の遺伝的祖先系統

 歴史的記録は、古墳時代におけるユーラシア大陸部から日本列島への継続的な人口集団の移動を強く裏づけます。しかし、古墳時代3個体のqpWaveモデル化は、「弥生人」と適合する「縄文人」祖先系統とアジア北東部祖先系統の2方向混合を却下します。したがって、以前の形態学的研究と同じく、本論文のf3外群統計や主成分分析やADMIXTUREクラスタで裏づけられるように、「古墳人」はその祖先的構成要素の観点では遺伝的に「弥生人」と異なっています。古墳時代個体群の遺伝的構成に寄与した追加の祖先的集団を特定するため、f4統計(ムブティ人、X;弥生人、古墳人)を用いて「古墳人」と各ユーラシア大陸部人口集団との間の遺伝的類似性が検証されました(図5A)。その結果、本論文のデータセットにおける古代もしくは現代の人口集団のほとんどは、「弥生人」よりも「古墳人」の方と有意に密接と明らかになりました。この知見は、弥生時代標本と古墳時代標本のゲノムを分離する6世紀間に日本列島へ追加の移住があったことを示唆します。

 「弥生人」と、「古墳人」に有意により近いと本論文のf4統計から特定された人口集団との間の2方向混合の検証により、この移住の起源を絞り込むことが試みられました。この混合モデルは検証された59人口集団のうち5人口集団でのみ、P>0.05と確実に裏づけられました。次にqpAdmを適用して「弥生人」と各起源集団からの遺伝的寄与が定量化されました。2方向混合モデルは、さまざまな参照セットからの裏づけを欠いていたので、追加の2人口集団においてその後で却下されました。残りの3人口集団(漢人と朝鮮人と黄河後期青銅器時代・鉄器時代集団)は「古墳人」への20〜30%の寄与を示します。これら3集団はすべて強い遺伝的浮動を共有しており、そのADMIXTURE特性では広くアジア東部祖先系統の主要な構成要素で特徴づけられます。

 「古墳人」における追加の祖先系統の起源をさらに選抜するため、「弥生人」祖先系統を「縄文人」およびアジア北東部人祖先系統と置換することにより、3方向混合が検証されました。その結果、漢人のみが祖先系統の供給源としてモデル化に成功し(図5B)、あらゆるあり得る2方向混合モデルよりも3方向混合が大幅によく適合します。「弥生人」と「古墳人」との間で「縄文人」祖先系統が約4倍に「希釈」されていることを考えると、これらの結果から、国家形成段階でアジア東部人祖先系統を有する移民が大規模に流入した、と示唆されます。以下は本論文の図5です。
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 次に、弥生時代と古墳時代の両方で観察されたユーラシア大陸部祖先系統が、アジア北東部とアジア東部の祖先系統の中間水準を有する同じ供給源に由来する可能性について調べられました。「古墳人」の2方向混合により適合すると明らかになった唯一の候補は、黄河流域の後期青銅器時代および鉄器時代個体群(YR_LBIA)でしたが、これは参照セット全体では一貫していませんでした。「縄文人」を除いて「弥生人」との統計的に有意な遺伝子流動を示さない(図4A)にも関わらず、YR_LBIAと「縄文人」との間の2方向混合モデルも「弥生人」に適合する、と明らかになりました。この黄河流域人口集団は、qpAdmにより推定されるように、アジア北東部祖先系統を約40%、アジア東部祖先系統を約60%(つまり漢人)有する中間的な遺伝的特性を有しています。したがって、これは特定のモデルで「弥生人」と「古墳人」の両方に適合する中間の遺伝的特性で、「弥生人」では37.4±1.9%、「古墳人では」87.5±0.8%の流入となります。これらの結果は、単一の供給源からの継続的な遺伝子流動が、「弥生人」と「古墳人」との間の遺伝的変化の説明に充分である可能性を示唆します。

 しかし、より広範な分析では、遺伝子流動の単一の供給源は移住の2回の異なる波よりも可能性が低そうである、と強く示唆されます。まず、ADMIXTUREで特定されたアジア東部祖先系統へのアジア北東部祖先系統の割合は、「弥生人(1.9:1)」と「古墳人(1:2.5)」との間で際立って異なっていました(図2C)。次に、ユーラシア大陸部の類似性におけるこの対比は、f統計のさまざまな形態でも観察され、「弥生人」がアジア北東部祖先系統との有意な類似性を有する、というパターンが繰り返されるのに対して、「古墳人」は漢人や黄河流域古代人口集団を含む他のアジア東部人とは緊密なまとまりを形成します(図5A)。

 最後に、DATESにより「古墳人」における混合年代から2つの波のモデルへの裏づけが見つかります。中間的な人口集団(つまり、YR_LBIA)との単一の混合事象は、1840±213年前頃に起きたと推定され、これは3000年前頃となる弥生時代の開始のずっと後になります。対照的に、2つの異なる供給源との2回の別々の混合事象が想定されるならば、結果の推定値は弥生時代および古墳時代のそれぞれの開始年代と一致する年代に適合し、「弥生人」に関しては「縄文人」祖先系統とアジア北東部祖先系統との間の混合は3448±825年前、「古墳人」に関しては「縄文人」祖先系統とアジア東部祖先系統の混合は1748±175年前と推定されます。これらの遺伝学的知見は、弥生時代と古墳時代におけるユーラシア大陸部からの新たな人々の到来を記録する、考古学的証拠および歴史的記録の両方によりさらに裏づけられます。


●現代日本人における「古墳人」の遺伝的影響

 本論文で検証対象となった古墳時代の3個体は、遺伝的に現代日本人と類似しています(図2)。これは、古墳時代以降日本列島(の本州・四国・九州を中心とする「本土」)の人口集団の遺伝的構成に実質的な変化がないことを示唆します。現代日本人標本で追加の遺伝的祖先系統の兆候を探すため、f4統計(ムブティ人、X;古墳人、縄文人)を用いて、ユーラシア大陸部人口集団が「古墳人」と比較して現代日本人のゲノムと優先的な類似性を有するのかどうか、検証されました。その結果、古代の人口集団の一部は現代日本人よりも「古墳人」の方と高い類似性を示しますが、そのうちどれも「古墳人」に存在する祖先系統の追加の供給源としてqpAdmでは裏づけられません。意外にも、「古墳人」を除いて現代日本人との追加の遺伝子流動を示す古代もしくは現代の人口集団は存在しません。

 本論文の混合モデル化では、現代日本人集団は「縄文人」もしくは「弥生人」祖先系統の増加がないか、現代のアジア南東部人かアジア東部人かシベリア人に代表される追加の祖先の導入なしに、「古墳人」祖先系統により充分に説明される、と確証されます。現代日本人集団は「古墳人」における3方向混合として同じ祖先的構成要素の組み合わせを有しており、「古墳人」と比較して現代日本人においてアジア東部祖先系統のわずかな上昇があります。これは、ある程度の遺伝的連続性を示唆しますが、絶対的ではありません。

 「古墳人」と現代日本人集団との間の連続性の厳密なモデル(つまり、「古墳人」系統固有の遺伝的浮動がない場合)は却下されます。しかし、「古墳人(13.1±3.5%)」と比較して、日本人集団(15.0±3.8%)における「縄文人」祖先系統の「希釈」はなく、ユーラシア大陸部からの移住により「縄文人」祖先系統が顕著に減少した弥生時代と古墳時代の場合とは対照的です。「混合なし」モデルを伴うqpAdmによる「古墳人」と日本人との間の遺伝的クレード(単系統群)性を検証すると、「古墳人」は日本人とクレードを形成する、と明らかになりました。これらの結果から、歯の特徴と非計量的頭蓋特徴でも裏づけられているように、国家形成までに確立された3つの主要な祖先的構成要素の遺伝的特性が、現代日本人集団にとって基盤となりました。


●考察

 本論文のデータは、現代日本人集団の三重祖先系統構造の証拠を提供し、混合した「縄文人」と「弥生人」起源の確立された二重構造モデルを洗練します(図6)。「縄文人」はLGM後の日本列島内の長期の孤立と強い遺伝的浮動のため独自の遺伝的変異を蓄積し、それは現代日本人の内部における独特な遺伝的構成要素の基礎となりました。弥生時代はこの孤立の終わりを示し、遅くとも2300年前頃に始まるアジア東部本土からのかなりの人口集団の移住を伴いました。しかし、日本列島の先史時代および原始時代となるその後の農耕期と国家形成期に日本列島に到来した人々の集団間では、明確な遺伝的差異が見つかります。「弥生人」の遺伝的データは、形態学的研究で裏づけられるように、日本列島におけるアジア北東部祖先系統の存在を記録していますが、「古墳人」では広範なアジア東部祖先系統が観察されました。「縄文人」と「弥生人」と「古墳人」の各クラスタを特徴づける祖先は、現代日本人集団の形成に大きく寄与しました。以下は本論文の図6です。
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 「縄文人」の祖先的系統は、他のアジア東部の古代人および現代人とは深く分岐しており、アジア南東部に起源があった、と提案されています。この分岐の年代は以前には38000〜18000年前頃(関連記事)と推定されていました。ROH特性を有する本論文のモデル化では、8800年前頃の「縄文人」の分析によりこの年代が20000〜15000年前頃の下限範囲に絞り込まれています(図3)。日本列島は28000年前頃となるLGM開始の頃には朝鮮半島を通って到来できるようになり、ユーラシア大陸部と日本列島との間の人口集団の移動が可能となりました。海面上昇によるその後の17000〜16000年前頃となる対馬海峡の拡大により、「縄文人」系統はユーラシア大陸部の他地域から孤立したかもしれず、それは縄文土器製作の最古の証拠とも一致します。本論文のROHモデル化は、「縄文人」が縄文時代早期には1000人以下の小さな有効人口規模を維持した、と示しており、その後の縄文時代もしくは日本列島のさまざまな島々全域で、そのゲノム特性にほとんど変化が観察されませんでした。

 上述のヨーロッパの大半における新石器時代への移行で記録されているように、農耕拡大はしばしば人口集団の置換により特徴づけられ、多くの地域で観察される狩猟採集民人口集団からの寄与はごく僅かです。しかし、先史時代の日本列島における農耕への移行には、置換というよりもむしろ同化の過程が含まれており、西北九州の遺跡ではほぼ均等な在来の「縄文人」と新たな移民からの遺伝的寄与があった、との遺伝的証拠が見つかりました。これは、日本列島の少なくとも一部が、弥生時代開始期における農耕移民と匹敵する「縄文人」集団を支えていた、と示唆しており、それは一部の縄文時代共同体で行なわれていた高水準の定住に反映されています。

 「弥生人」に継承されたユーラシア大陸部の構成要素は、本論文のデータセットではアムール川祖先系統を高水準で有する西遼河流域の中期新石器時代および青銅器時代の個体群により最もよく表されます(HMMH_MN およびWRL_BA_o)。西遼河流域の人口集団は時空間的に遺伝的には不均質です(関連記事)。6500〜3500年前頃となる中期新石器時代から後期新石器時代への移行は、黄河祖先系統の25%から92%の増加により特徴づけられ、アムール川祖先系統は75〜8%へと激減し、これは雑穀農耕の強化と関連しているかもしれません。しかし、西遼河流域では3500年前頃に始まる青銅器時代に人口構造が変わり、それはアムール川流域からの人々の明らかな流入に起因します。これは、トランスユーラシア語族とシナ語族の下位集団間の集中的な言語借用の始まりと一致します。「弥生人」への過剰な類似性は、古代アムール川流域人口集団もしくは現代のツングース語族話者人口集団と遺伝的に密接な個体群で観察されます(図4)。

 本論文の知見から、水田稲作が、西遼河流域周辺のどこかに居住していたものの、さらに北方の人口集団に祖先系統の大半の構成要素が由来する人々により日本列島にもたらされ、稲作の拡大は西遼河流域の南側に起源があった、と示唆されます。古墳文化の最も顕著な考古学的特徴は、鍵穴型の塚にエリートを埋葬する習慣で、その大きさは階級と政治権力を反映しています。本論文の検証対象となった古墳時代の3個体はそうした古墳に埋葬されておらず、この3個体は下層階級だった、と示唆されます。この3個体のゲノムは、日本列島へのおもにアジア東部祖先系統を有する人々の到来と、「弥生人」集団との混合を記録します(図5)。この追加の祖先系統は、本論文の分析では複数の祖先的構成要素を有する漢人により最もよく表されます。最近の研究では、新石器時代以降人々が形態学的に均質になっていると報告されており、それは古墳時代の移民がすでに高度に混合していたことを示唆します。

 いくつかの一連の考古学的証拠は、おそらくは弥生時代と古墳時代の移行期における朝鮮半島南部からの可能性が最も高い、日本列島への新しい大規模な移民の到来を裏づけます。日本列島と朝鮮半島と中国の間の強い文化的および政治的類似性は、中国の鏡と貨幣、鉄生産のための朝鮮半島の原材料、剣など金属製道具に刻まれた漢字を含む、いくつかの輸入品からも観察されます。海外からのこれらの資源の入手は、日本列島内の共同体間の激しい競争を引き起こしました。これは、支配のための、黄海沿岸などユーラシア大陸部の国家との制度的接触を促進しました。したがって、古墳時代を通じて継続的な移住と大陸の影響は明らかです。本論文の知見は、この国家形成段階における、新たな社会的・文化的・政治的特徴の出現と関わる遺伝的交換の強い裏づけを提供します。

 本論文の分析には注意点があります。まず「弥生人」については、弥生文化と関連する骨格遺骸が形態学的に「縄文人」と類似している地域(西北九州)の2個体のみに分析が限定されています。他地域もしくは他の年代の弥生時代個体群は異なる祖先的特性を有しているかもしれません。たとえば、ユーラシア大陸部的もしくは「古墳人」的祖先系統です。次に、本論文の標本抽出は無作為ではなく、本論文で分析された古墳時代の個体群は同じ埋葬遺跡に由来します。弥生時代と古墳時代の人口集団の遺伝的祖先系統における時空間的変異を調べて、本論文で提案された日本列島の人口集団の三重構造の包括的な見解を提供するには、追加の古代ゲノムデータが必要です。

 要約すると本論文は、農耕と技術的に促進された人口集団の移動が、ユーラシア大陸部の他地域から孤立していた数千年を終わらせた前後両方の期間において日本列島に居住していた人々のゲノム特性を変化させたことについて、詳細な調査を提供します。これら孤立した地域の個体群の古代ゲノミクスは、人口集団の遺伝的構成への大きな文化的変化の影響の程度を観察する、特有の機会を提供します。


●私見

 以上、本論文についてざっと見てきました。本論文は縄文時代と古墳時代の複数個体の新たな核ゲノムデータを報告しており、とくにこれまで佐賀市の東名貝塚遺跡の1個体(関連記事)でしか報告されていなかった西日本「縄文人」の核ゲノムデータを、広範な年代と地域の複数個体から得ていることは、たいへん意義深いと思います。これにより、時空間的にずっと広範囲の「縄文人」の遺伝的構造がさらに詳しく明らかになりました。また、愛媛県久万高原町の上黒岩岩陰遺跡の1個体(JpKa6904)の年代は8991〜8646年前頃で、現時点では核ゲノムデータが得られた日本列島最古の個体になると思います。日本列島において更新世の人類遺骸の発見数がきわめて少ないことを考えると、この点でも本論文の意義は大きいと思います。

 本論文でまず注目されるのは、「縄文人」は時空間的に広範囲にわたって遺伝的にかなり均質な集団だった、と改めて示された点です。本論文で分析対象とされていない、7980〜7460年前頃となる東名貝塚遺跡の1個体や千葉市の六通貝塚の4000〜3500年前頃の個体群(関連記事)も、既知の「縄文人」と遺伝的に一まとまりを形成します。さらに、弥生時代早期となる佐賀県唐津市大友遺跡で発見された女性個体(大友8号)も、既知の「縄文人」と遺伝的に一まとまりを形成します(関連記事)。時空間的により広範囲の「縄文人」の核ゲノムデータがさらに蓄積されるまで断定はできませんが、本論文が指摘するように「縄文人」は長期にわたって遺伝的には孤立した集団だった可能性が高そうです。これは以前から予測されていたので(関連記事)、とくに意外ではありませんでした。縄文時代にアジア東部大陸部から日本列島にアジア東部祖先系統を有する個体が到来し、日本列島で在来の「縄文人」と混合して子供を儲けた可能性は高そうですが、「縄文人(的な遺伝的構成の個体)」のゲノムで明確に検出されるほどの影響は残らなかったのだろう、というわけです。

 一方で朝鮮半島南端では、8300〜4000年前頃にかけて「縄文人」的な遺伝的構成要素が持続していたようで、遼河地域の紅山(Hongshan)文化集団的な遺伝的構成要素と「縄文人」的な遺伝的構成要素とのさまざまな混合割合の個体が存在し、中には遺伝的にはほぼ「縄文人」と言える個体も確認されています(関連記事)。上黒岩岩陰遺跡の1個体(JpKa6904)から、遅くとも9000年前頃までには「縄文人」的な遺伝的構成は確立していたようですから、朝鮮半島南端の8300〜4000年前頃の個体の「縄文人」的な遺伝的構成要素は、日本列島から朝鮮半島に渡った「縄文人」によりもたらされたのでしょう。ただ、この朝鮮半島南端の8300〜4000年前頃の個体群は、日本列島や朝鮮半島の現代人に強い遺伝的影響を残していないかもしれません。

 「縄文人」の起源について本論文は、ホアビン文化個体関連系統とアジア東部関連系統の混合とするモデル(関連記事)よりも、ユーラシア東部系集団において、ホアビン文化集団よりも後にアジア東部現代人の主要な祖先集団と20000〜15000年前頃に分岐した、とのモデルの方が妥当と推測しています。しかし、現生人類(Homo sapiens)とネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)や種区分未定のデニソワ人(Denisovan)など非現生人類ホモ属との混合でさえたいへん複雑で、単純な系統樹で表すことが困難ですから(関連記事)、現生人類集団間の関係を単純な系統樹で表すことには慎重であるべきだと思います。もちろん、現生人類がアフリカから世界中の広範な地域に拡散する過程で、LGMのような寒冷期もあり、集団の孤立と遺伝的分化が進みやすかったでしょうから、系統樹で表すことに合理性があることも確かだと思います。しかし、多くの集団は遺伝的に大きく異なる集団間の複雑な混合により形成されたでしょうから、単純な系統樹で表すことに問題があることも否定できないと思います。

 具体的に本論文の系統樹の問題点として、モンゴル北東部のサルキート渓谷で発見された34950〜33900年前頃の女性個体(サルキート個体)が挙げられます。サルキート個体は本論文の系統樹では、出アフリカ現生人類集団がユーラシア東西系統に分岐した後、ユーラシア東部系集団で最初に分岐した、と位置づけられています。サルキート個体の分岐後のユーラシア東部系集団では、まずパプア人、次に田園個体、その後でホアビン文化集団が分岐し、「縄文人」はその後の分岐となります。しかし、他の研究ではサルキート個体は田園個体と同じ系統に位置づけられています(関連記事)。この違いは、サルキート個体にはユーラシア東部系集団と遺伝的に大きく異なるユーラシア西部系集団からの一定以上の遺伝的影響があるため(関連記事)と考えられます。

 本論文の系統樹は正確な人口史を正確には表せていない可能性があり、「縄文人」が遺伝的に大きく異なる集団間の混合により形成された可能性は、まだ否定できないように思います。より具体的には、出アフリカ現生人類集団のうち、ユーラシア東西系統の共通祖先と分岐した集団(ユーラシア南部系集団)が存在し、ユーラシア東部系集団とユーラシア南部系集団との複雑な混合により「縄文人」もホアビン文化集団も形成され、それぞれの(複数の)祖先集団も相互に遺伝的には深く分岐していた、と想定しています(関連記事)。

 本論文の見解で大きな問題となるのは、「弥生人」を佐世保市の下本山岩陰遺跡の2個体に代表させていることです。本論文でも、「弥生人」を形態学的に「縄文人」との類似性が指摘されている西北九州の弥生時代人骨の下本山岩陰遺跡の2個体に代表させていることについて、地域もしくは他の年代の弥生時代個体群は異なる祖先的特性を有しているかもしれない、と指摘されていました。じっさい、弥生時代中期となる福岡県那珂川市の安徳台遺跡の1個体(安徳台5号)は形態学的に「渡来系弥生人」と評価されていますが、核ゲノム解析により現代日本人の範疇に収まる、と指摘されています(関連記事)。同じく弥生時代中期の「渡来系弥生人」とされる福岡県筑紫野市の隈・西小田遺跡の個体も、核ゲノム解析では現代日本人の範疇に収まります。現代日本人の平均と比較しての「縄文人」構成要素の割合は、安徳台5号がやや高く、隈・西小田遺跡の個体はやや低いと推定されています。

 弥生時代の日本列島の人類集団は遺伝的異質性がかなり高かったと考えられます(関連記事)。読売新聞の記事によると、篠田謙一氏は「弥生人の遺伝情報は、地域や時代で差があり、現代の日本人に近い例もある。当時の実態を解明するには、解析する人骨をさらに増やす必要がある」と指摘しており、その通りだと思います。安徳台5号も隈・西小田遺跡個体も下本山岩陰遺跡の2個体に先行し、下本山岩陰遺跡の2個体の頃(2001〜1931年前頃)には、少なくとも九州において現代日本人に近い遺伝的構成の集団が存在したわけですから、下本山岩陰遺跡の2個体を「弥生人」の代表として、弥生時代後期〜古墳時代にかけて日本列島にユーラシア大陸部から大規模な移民が到来した、との本論文の見解にはかなり疑問が残ります。

 本論文が検証対象とした岩出横穴墓の3個体は古墳時代終末期となり、年代は紀元後6〜7世紀です。同じ古墳時代でも岩出横穴墓の3個体よりは古い和歌山県田辺市の磯間岩陰遺跡の第1号石室1号個体(紀元後398〜468年頃)および2号個体(紀元後407〜535年頃)は、核ゲノム解析の結果、「縄文人」構成要素がそれぞれ52.9〜56.4%と42.4〜51.6%と推定されています(関連記事)。おそらく弥生時代だけではなく古墳時代にも、本州・四国・九州を中心とする日本列島「本土」の人類集団にはかなりの遺伝的異質性があり、時空間的な違いがあったと考えられますが、今後同一遺跡もしくは地域内で「古墳人」の核ゲノムデータが蓄積されていけば、階層差も確認されるようになるかもしれません。日本列島における現代人のような遺伝的構造の形成は、古墳時代の後もよく考慮しなければならないように思います。

 本論文は日本列島の人類集団の遺伝的構成において、縄文時代から弥生時代の移行期と弥生時代から古墳時代の移行期に大きな変化を見出し、「弥生人」にはアジア北東部祖先系統の影響が「縄文人」祖先系統に近いくらいの割合で見られ、「古墳人」ではアジア北東部祖先系統が優勢になる、と推測しています。しかし最近の別の研究では、現代日本人の遺伝的構成は低い割合の「縄文人」関連祖先系統と高い割合の遼河地域の夏家店上層文化集団関連祖先系統の混合と推定されており、朝鮮半島中部西岸に位置する2800〜2500年前頃のTaejungni遺跡の個体(Taejungni個体)の遺伝的構成が現代日本人に類似している、と指摘されています(関連記事)。これは、現代日本人の基本的な遺伝的構成が朝鮮半島において形成され、一方で朝鮮半島の人類集団ではその後で大きな遺伝的変化があり、現代朝鮮人のような遺伝的構成が確立したことを示唆します。

 上述のように「弥生人」は遺伝的異質性が高かったと考えられ、中には遺伝的に現代日本人の範疇に収まる集団も存在しました。本論文で提示された古代ゲノムデータとともに、本論文では取り上げられなかった日本列島の弥生時代個体群や朝鮮半島の古代人のゲノムデータも含めて、日本列島の人口史を再検討する必要があると思います。本論文と他の研究を組み合わせて解釈した現時点での大まかな想定は、朝鮮半島において紀元前二千年紀後半〜紀元前千年紀前半にかけて、遼河地域青銅器時代集団的な遺伝的構成の集団と「縄文人」構成要素を高い割合で有する集団が混合して現代日本人の基本的な遺伝的構成が形成され、その集団が弥生時代に日本列島に到来して在来の「縄文人」と混合し(縄文時代晩期に日本列島に存在した「縄文人」の現代日本人における遺伝的影響は数%程度かもしれません)、その後で紀元前千年紀後半以降に朝鮮半島では黄河流域集団に遺伝的により近づくような大規模な遺伝的変化があり、そうした集団が古墳時代から飛鳥時代にかけて日本列島に継続的に到来し、奈良時代以降の日本列島内の歴史的展開を経て現代「本土」日本人が形成された、というものです。


参考文献:
Cooke H. et al.(2021): Ancient genomics reveals tripartite origins of Japanese populations. Science Advances, 7, 38, eabh2419.
https://doi.org/10.1126/sciadv.abh2419


https://sicambre.at.webry.info/202109/article_20.html
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/547.html#c298

[リバイバル3] ドイツの音とは何か? 中川隆
125. 2021年9月20日 17:56:14 : 6C6SEMfD1k : YnZQeFh4aHV2cS4=[21]
audio identity (designing)宮ア勝己
Date: 8月 6th, 2015
最後の晩餐に選ぶモノの意味(その1)
http://audiosharing.com/blog/?p=17740


死ぬ日がはっきりと決っていて、しかもそれがいつなのか本人が知っている。
それがどういう状況での死になるのかはここでは書かない。

とにかくいつ死ぬのかがわかっている。
そして最後の晩餐として、何を求めるか、ときかれたとしよう。

私はオーディオマニアだから、ここでの最後の晩餐とは食事ではなく、
最後に聴きたい音(組合せ)をかなえてくれるとしたら、どういうシステムを選ぶだろうか。

部屋も用意してくれる。
オーディオ機器も、どんなに古いモノであっても、最高のコンディションのモノを探して出して用意してくれる。
わがままな要望をすべてかなえてくれる、いわば音の最後の晩餐に何を望むのか。

現実にはこんなことは、ほぼありえない。
だからこそ考えていると楽しい。

最後に何を聴きたいのかは、どのレコードを聴きたいのかによって、ほぼすべてが決る。

私はシーメンスのオイロダインを聴きたい、と思う。
そう思うのは、最後に聴きたいのはフルトヴェングラーなのか。

グレン・グールドのどれかを最後に聴きたいのであれば、オイロダインとは思わない。
別のスピーカーを思い浮べ、それを鳴らすにふさわしいと思えるアンプを選択する。
カスリーン・フェリアーの歌であれば、また別のスピーカー(というよりもデッカ・デコラ)にする。

オイロダインということは、グールドでもフェリアーでもないということだ。
オイロダインを選ぶということは、少なくとも今の私は最後に聴きたいと思っているのは、
フルトヴェングラーのなにかということになる……。

そんな急拵えのシステムで聴くよりも、
それまでつきあってきた自分のシステムで好きなレコードを聴ければ、それで充分だし、
だいたいこんなことを考えることに何の意味があるのか、と思う人も少なくないだろう。
私だって、そんな気持を持っている。
それでもこんなことを考えてみるのも、まるっきり無意味とは決して思えない。

少なくともいまの私はフルトヴェングラーのなにかを聴きたいのだ、ということを意識できたからだ。
http://audiosharing.com/blog/?p=17740

最後の晩餐に選ぶモノの意味(その2)
http://audiosharing.com/blog/?p=17744


フルトヴェングラーのなにかを聴きたい、ということにつながっていくスピーカーとして、
私にとってはタンノイのオートグラフもそうである。

何度も書いているように五味先生の文章にみちびかれてオーディオの世界に入ってしまった私には、
五味康祐といえばベートーヴェンが思い浮ぶし、
そのベートーヴェンとはフルトヴェングラーの演奏によるものであり、
フルトヴェングラーのベートーヴェンを五味先生はオートグラフで聴かれていたからである。

私にとって、シーメンスのオイロダインとタンノイのオートグラフが、
フルトヴェングラーのなにかを聴きたい、というスピーカーということになる。

けれどオイロダインで聴きたいフルトヴェングラーのなにかと、
オートグラフで聴きたいフルトヴェングラーのなにかは同じではないことを感じている。

私がオイロダインで聴こうとしているフルトヴェングラーのなにかとは、第二次大戦中のライヴ録音であり、
オートグラフで聴こうとしているフルトヴェングラーのなにかとは、戦後の録音である。
そのことに気づいた。
http://audiosharing.com/blog/?p=17744


最後の晩餐に選ぶモノの意味(その3)
http://audiosharing.com/blog/?p=17762


黒田先生の著書「音楽への礼状」からの引用だ。
     *
 かつて、クラシック音楽は、天空を突き刺してそそりたつアルプスの山々のように、クラシック音楽ならではの尊厳を誇り、その人間愛にみちたメッセージでききてを感動させていました。まだ幼かったぼくは、あなたが、一九五二年に録音された「英雄」交響曲をきいて、クラシック音楽の、そのような尊厳に、はじめて気づきました。コンパクトディスクにおさまった、その演奏に耳を傾けているうちに、ぼくは、高校時代に味わった、あの胸が熱くなるような思いを味わい、クラシック音楽をききつづけてきた自分のしあわせを考えないではいられませんでした。
 なにごとにつけ、軽薄短小がよしとされるこの時代の嗜好と真向から対立するのが、あなたのきかせて下さる重くて大きい音楽です。音楽もまた、すぐれた音楽にかぎってのことではありますが、時代を批評する鏡として機能するようです。
 今ではもう誰も、「英雄」交響曲の冒頭の変ホ長調の主和音を、あなたのように堂々と威厳をもってひびかせるようなことはしなくなりました。クラシック音楽は、あなたがご存命の頃と較べると、よくもわるくも、スマートになりました。だからといって、あなたの演奏が、押し入れの奥からでてきた祖父の背広のような古さを感じさせるか、というと、そうではありません。あなたの残された演奏をきくひとはすべて、単に過ぎた時代をふりかえるだけではなく、時代の忘れ物に気づき、同時に、この頃ではあまり目にすることも耳にすることもなくなった、尊厳とか、あるいは志とかいったことを考えます。
     *
黒田先生が書かれている「あなた」とは、フルトヴェングラーのことである。
黒田先生は書かれている、
フルトヴェングラーが残した音楽を、
《きくひとはすべて、単に過ぎだ時代をふりかえるだけではなく、時代の忘れ物に気づき、同時に、この頃ではあまり目にすることも耳にすることもなくなった、尊厳とか、あるいは志とかいったことを考えます》と。

フルトヴェングラー以降、多くの指揮者が誕生し、多くの録音がなされてきたし、
これからももっと多くの録音がなされていく。

フルトヴェングラーが亡くなって50年以上が過ぎている。
その間に出たレコードの枚数(オーケストラものにかぎっても)、いったいどれだけなのだろうか。
フルトヴェングラーが残したものは、その中に埋没することがなく、
いまも輝きを保っている、というよりも、輝きをましているところもある。

それは黒田先生が書かれているように、
フルトヴェングラーの演奏をきくことで、時代の忘れ物に気づき、
尊厳とか志といったことを考えるからであるからだ。

そして黒田先生は、すぐれた音楽は《時代を批評する鏡として機能するようです》とも書かれている。
フルトヴェングラーの演奏は、すぐれた演奏である。
つまり《時代を批評する鏡として機能》している。

そういう音楽だから、フルトヴェングラーの演奏をきく、といっても、
それが第二次大戦中の演奏なのか、第二次大戦後の演奏なのかは、
同じフルトヴェングラーの音楽であることに違いはないけれども、
同じには聴けないところがあるのをどこかで感じている。

だから第二次大戦中のフルトヴェングラーはシーメンスのオイロダインで、
第二次大戦後のフルトヴェングラーはタンノイのオートグラフで、ということに、
私の場合になっていく。
http://audiosharing.com/blog/?p=17762


最後の晩餐に選ぶモノの意味(その4)
http://audiosharing.com/blog/?p=18061

続きを書くにあたって、迷っていた。
確認しておきたいことがあったけれど、
それが何に、いつごろ載っていたのかうろおぼえで、どうやってその本をさがしたらいいのか。
しかも、それは購入していた本ではない。
どこかで目にしたことのある本だった。

国会図書館に行き、じっくり腰を据えてさがしていけばいつかはみつかるだろうが、
それでは時間がどのくらいかかるのかわからない。

うろおぼえの記憶に頼って書くしかない……、と思っていたところに、
その本そのものではないが、
私が確認しておきたかった(読みたかった)記事が再掲されたムックが出ていた。

河出書房新社の「フルトヴェングラー 最大最高の指揮者」に載っていた。
7月に出たこの本の最後のほうに、「対談 フルトヴェングラーを再評価する」がある。
音楽評論家の宇野功芳氏と指揮者の福永陽一郎氏による、1975年の対談である。

この対談の福永氏の発言を、どうしても引用しておきたかったのだ。
     *
福永 ぼくがこのごろ思っていることは、フルトヴェングラーはいわゆる過去の大家ではないということです。つまりほかの大家、大指揮者というのは、みんな自分たちの大きな仕事を終わって、レコードにも録音して死んじゃったんですけれども、フルトヴェングラーというのは、そうではなくて、いまレコードで演奏している。つまり生物的には存在しない人間なんだけれども、いまなお、そのレコードを通して演奏している演奏家で、だから新しいレコードが発見されれば、ちょうどいま生きている演奏家の新しい演奏会を聴きに行くように聴きたくなる。そういう意味で、つまり死んでいないという考え方なんです。
 過去の演奏会ではない、いまだに生き続けている。あのレコードによって毎日、毎日鳴り続けている指揮者であると、そういう指揮者はほかにいないというふうに、ぼくは考えるわけです。だから、ほかの指揮者は過去の業績であり、あの人は立派だった、こういうのを残したという形で評価されているけれども、フルトヴェングラーの場合は、レコードが鳴るたびに、もう一ぺんそこで生きて鳴っているという、そういうものがあの人の演奏の中にあると思うんです。それがいまの若い人でも初めて聴いたときにびっくりさせる。
 つまり、過去の大家の名演奏だと教えられて、はあそんなものかなと聴くんじゃなくて、直接自分のこころに何か訴えてくるものがあって、自分の心がそれで動いちゃうということが起こって、それでびっくりしちゃって、これは並みのレコードとは違うというふうに感じるんじゃないか。そうするともう一枚聴きたくなるという現象が起きるんじゃないかという気がするわけですね。
     *
福永氏が語られていることをいま読み返していると、
フルトヴェングラーは、演奏家側のレコード演奏家だということをつよく感じる。
http://audiosharing.com/blog/?p=18061


最後の晩餐に選ぶモノの意味(その5)
http://audiosharing.com/blog/?p=20415


フルトヴェングラーのモーツァルトのレクィエムは、
死ぬまでに聴きたい、と思う。
けれど、いまのところLPでもCDでも出ていない(はずだ)。

五味先生が書かれていた。
     *
 フルトヴェングラーが、ウィーンで『レクィエム』を指揮した古い写真がある。『レクィエム』とは、こうして聴くものか、そう沁々思って見入らずにおられぬいい写真だ。フルトヴェングラーがいいからこの写真も一そうよく見えるにきまっているが、しかしワルターでもトスカニーニでもこの写真の雰囲気は出ないように思う。私はこんなレコードがほしい。(「死と音楽」より)
     *
これを読んでいるから、どうしても聴きたい、と思う。
録音が残っていないのか。

調べるとフルトヴェングラーがレクィエムを指揮したのは、1941年が最後である。
第二次大戦後は一度もレクィエムを指揮していない。

その理由はわからない。
http://audiosharing.com/blog/?p=20415

最後の晩餐に選ぶモノの意味(その6)
http://audiosharing.com/blog/?p=20419


モーツァルトのレクィエムとは逆に、
フルトヴェングラーによるマーラーは、第二次大戦後になる。

ナチス時代のドイツでユダヤ人作曲家のマーラーの作品の演奏は不可能だったし、
いかなフルトヴェングラーでも、それを覆すことも不可能だったのだろう。

フルトヴェングラーのマーラーは「さすらう若人の歌」が残されている。
フィッシャー=ディスカウとの演奏・録音である。

ここでのフィッシャー=ディスカウの歌唱は、
人生で一度きりのものといえる──、というのは、これまでに何人もの方が書いている。
その通りの歌唱である。

フィッシャー=ディスカウは何度も、その後「さすらう若人の歌」を録音している。
すべてを聴いてはいないが、フルトヴェングラーとの演奏を超えている、とは言い難い。
歌い手として成熟・円熟していくことが、すべての曲においてよい方向へと作用するわけではないことを、
フィッシャー=ディスカウが27歳のときの歌唱は証明しているように感じられる。

マーラーがユダヤ人でなかったとしたら、
ナチス時代にマーラーの演奏が可能だったとして、
さらにそのときに27歳のフィッシャー=ディスカウがいたとして、
いまわれわれが聴くことができる「さすらう若人の歌」が聴けただろうか……、
となるとそうとはいえないような気がする。

ナチス時代の終焉という戦後になされた「さすらう若人の歌」、
第二次大戦後、一度も演奏されることのなかったモーツァルトのレクィエム。
おそらくレクィエムを聴くことはできないであろう。
ならば想像するしかない。
http://audiosharing.com/blog/?p=20419

Date: 10月 20th, 2020
最後の晩餐に選ぶモノの意味(その7)
http://audiosharing.com/blog/?p=33381


来年、五味先生の享年と同じになるのだが、
特に病気を患っているわけでもないし、健康状態はいい。
あとどれだけ生きられるのかはわからないけれど、まだまだ生きていられそうである。

二十年くらいは生きてそうだな、と思っている。
あと二十年として、その時77になっている。

身体は、そのころには、けっこうぼろぼろになっていよう。
ぼろぼろになっているから、くたばってしまうのだろう。

ここで書いているシーメンスのオイロダインも、そのころにはぼろぼろになっていることだろう。
劇場用スピーカーとして製造されたモノであっても、もとがかなり古いモノだけに、
二十年後に、よい状態のオイロダインは、世の中に一本も存在していないように思う。

そんなことがわかっているのに、音の最後の晩餐に、何を求めるのだろうか──、
そんなことを書いているのは、無意味でしかない、といえば、反論はしない。

非生産的なことに時間を費やす。
愚かなことであろう。

悔いがない人生を送ってきた──、とそのときになっていえる人生とはまったく思っていない。
最後の晩餐を前にして、悔いが押し寄せてくるのかもしれない、というより、
きっとそうなる。

最後の晩餐に食べたいものは、私にはないのかもしれない。
あったとしても、それを食べることよりも、一曲でいいから、
聴きたい(鳴らしたい)音で、それを聴ければいい。

でも、そこでも悔いることになる。
私がくたばるころには、まともなオイロダインはなくなっているのだから。
おそらく、これが最後の悔いになるだろう。

それまでのすべての悔いが吹き飛ぶくらいの悔いになるかもしれない。

フルトヴェングラーの音楽は、そのころも健在のはずだ。
オイロダインなんて、古くさいスピーカー(音)ではなくて、
そのころには、その時代を反映した音のスピーカーが登場してきているはずだ。

それで聴けばいいじゃないか、と思えるのであれば、こんなことを書いてはいない。
ただただオイロダインで、フルトヴェングラーを最後の晩餐として聴きたいだけなのだ。
http://audiosharing.com/blog/?p=33381

Date: 5月 13th, 2021
最後の晩餐に選ぶモノの意味(その8)
http://audiosharing.com/blog/?p=34737


この項のタイトルは「最後の晩餐に選ぶモノの意味」であって、
「最後の晩餐に選ぶ曲の意味」ではない。

最後の晩餐に聴きたいスピーカー(というよりも、その音)がある。
その音で聴きたい音楽がある。
そのことを書いているだけである。

本末転倒なことを書いているのはわかっている。
聴きたい曲が先にあって、
最後の晩餐として、その音楽を聴くのであれば、
どういう音(システム)で聴きたいかが、本筋のところである。

それでも私の場合、最後の晩餐から連想したのは、
まずシーメンスのオイロダインというスピーカーだった、というわけだ。

だから「最後の晩餐に選ぶモノの意味」というタイトルした。
(その1)を書いたのは六年前。52歳のときだ。

いまもまだシーメンスのオイロダインを、最後の晩餐として聴きたい、というおもいがある。
それはまだ私が50代だから、なのかもしれない、とつい最近おもうようになってきた。

十年後、70が近くなってくると、オイロダインではなく、
ほかのスピーカーで聴きたい、と変ってきているかもしれない。
その時になってみないと、なんともいえない。

書いている本人も、変っていくのか、変らないのか、よくわかっていないのだ。
最近では、ヴァイタヴォックスもいいなぁ、とおもっているぐらいだ。

それでも、今風のハイエンドのスピーカーで聴きたい、とは思わないはずだ。
http://audiosharing.com/blog/?p=34737

Date: 9月 19th, 2021
最後の晩餐に選ぶモノの意味(その9)
http://audiosharing.com/blog/?p=35627


シーメンスのオイロダインで聴く、ということは、
私にとっては、ドイツの響きを聴きたいからである。

ドイツの響き。
わかりやすいようでいて、決してそうではない。

ドイツの響きときいて、何を連想するかは、みな同じなわけではないはずだ。
ドイツの作曲家を思い出すのか、
ドイツの指揮者なのか、ドイツのピアニストなのか、ドイツのオーケストラなのか、
ドイツのスピーカーなのか、それすら人によって違うだろうし、
ドイツの作曲家と絞っても、誰を思い出すのかは、また人それぞれだろう。

ドイツの響きとは、シーメンスのオイロダインの音。
オイロダインの音こそ、ドイツの響き、
──そう書いたところで、オイロダインの印象も人によって違っているのはわかっている。
オイロダインを聴いたことがない、という人がいまではとても多いことも知っている。

何も伝わらない、といえばそうなのだが、
私にとってドイツの響きといえば、二人の指揮者である。

フルトヴェングラーとエーリヒ・クライバーである。
http://audiosharing.com/blog/?p=35627
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/447.html#c125

[リバイバル3] ドイツの音楽はドイツの真空管アンプで聴こうよ 中川隆
71. 中川隆[-16254] koaQ7Jey 2021年9月20日 17:56:56 : 6C6SEMfD1k : YnZQeFh4aHV2cS4=[22]
audio identity (designing)宮ア勝己
Date: 8月 6th, 2015
最後の晩餐に選ぶモノの意味(その1)
http://audiosharing.com/blog/?p=17740


死ぬ日がはっきりと決っていて、しかもそれがいつなのか本人が知っている。
それがどういう状況での死になるのかはここでは書かない。

とにかくいつ死ぬのかがわかっている。
そして最後の晩餐として、何を求めるか、ときかれたとしよう。

私はオーディオマニアだから、ここでの最後の晩餐とは食事ではなく、
最後に聴きたい音(組合せ)をかなえてくれるとしたら、どういうシステムを選ぶだろうか。

部屋も用意してくれる。
オーディオ機器も、どんなに古いモノであっても、最高のコンディションのモノを探して出して用意してくれる。
わがままな要望をすべてかなえてくれる、いわば音の最後の晩餐に何を望むのか。

現実にはこんなことは、ほぼありえない。
だからこそ考えていると楽しい。

最後に何を聴きたいのかは、どのレコードを聴きたいのかによって、ほぼすべてが決る。

私はシーメンスのオイロダインを聴きたい、と思う。
そう思うのは、最後に聴きたいのはフルトヴェングラーなのか。

グレン・グールドのどれかを最後に聴きたいのであれば、オイロダインとは思わない。
別のスピーカーを思い浮べ、それを鳴らすにふさわしいと思えるアンプを選択する。
カスリーン・フェリアーの歌であれば、また別のスピーカー(というよりもデッカ・デコラ)にする。

オイロダインということは、グールドでもフェリアーでもないということだ。
オイロダインを選ぶということは、少なくとも今の私は最後に聴きたいと思っているのは、
フルトヴェングラーのなにかということになる……。

そんな急拵えのシステムで聴くよりも、
それまでつきあってきた自分のシステムで好きなレコードを聴ければ、それで充分だし、
だいたいこんなことを考えることに何の意味があるのか、と思う人も少なくないだろう。
私だって、そんな気持を持っている。
それでもこんなことを考えてみるのも、まるっきり無意味とは決して思えない。

少なくともいまの私はフルトヴェングラーのなにかを聴きたいのだ、ということを意識できたからだ。
http://audiosharing.com/blog/?p=17740

最後の晩餐に選ぶモノの意味(その2)
http://audiosharing.com/blog/?p=17744


フルトヴェングラーのなにかを聴きたい、ということにつながっていくスピーカーとして、
私にとってはタンノイのオートグラフもそうである。

何度も書いているように五味先生の文章にみちびかれてオーディオの世界に入ってしまった私には、
五味康祐といえばベートーヴェンが思い浮ぶし、
そのベートーヴェンとはフルトヴェングラーの演奏によるものであり、
フルトヴェングラーのベートーヴェンを五味先生はオートグラフで聴かれていたからである。

私にとって、シーメンスのオイロダインとタンノイのオートグラフが、
フルトヴェングラーのなにかを聴きたい、というスピーカーということになる。

けれどオイロダインで聴きたいフルトヴェングラーのなにかと、
オートグラフで聴きたいフルトヴェングラーのなにかは同じではないことを感じている。

私がオイロダインで聴こうとしているフルトヴェングラーのなにかとは、第二次大戦中のライヴ録音であり、
オートグラフで聴こうとしているフルトヴェングラーのなにかとは、戦後の録音である。
そのことに気づいた。
http://audiosharing.com/blog/?p=17744


最後の晩餐に選ぶモノの意味(その3)
http://audiosharing.com/blog/?p=17762


黒田先生の著書「音楽への礼状」からの引用だ。
     *
 かつて、クラシック音楽は、天空を突き刺してそそりたつアルプスの山々のように、クラシック音楽ならではの尊厳を誇り、その人間愛にみちたメッセージでききてを感動させていました。まだ幼かったぼくは、あなたが、一九五二年に録音された「英雄」交響曲をきいて、クラシック音楽の、そのような尊厳に、はじめて気づきました。コンパクトディスクにおさまった、その演奏に耳を傾けているうちに、ぼくは、高校時代に味わった、あの胸が熱くなるような思いを味わい、クラシック音楽をききつづけてきた自分のしあわせを考えないではいられませんでした。
 なにごとにつけ、軽薄短小がよしとされるこの時代の嗜好と真向から対立するのが、あなたのきかせて下さる重くて大きい音楽です。音楽もまた、すぐれた音楽にかぎってのことではありますが、時代を批評する鏡として機能するようです。
 今ではもう誰も、「英雄」交響曲の冒頭の変ホ長調の主和音を、あなたのように堂々と威厳をもってひびかせるようなことはしなくなりました。クラシック音楽は、あなたがご存命の頃と較べると、よくもわるくも、スマートになりました。だからといって、あなたの演奏が、押し入れの奥からでてきた祖父の背広のような古さを感じさせるか、というと、そうではありません。あなたの残された演奏をきくひとはすべて、単に過ぎた時代をふりかえるだけではなく、時代の忘れ物に気づき、同時に、この頃ではあまり目にすることも耳にすることもなくなった、尊厳とか、あるいは志とかいったことを考えます。
     *
黒田先生が書かれている「あなた」とは、フルトヴェングラーのことである。
黒田先生は書かれている、
フルトヴェングラーが残した音楽を、
《きくひとはすべて、単に過ぎだ時代をふりかえるだけではなく、時代の忘れ物に気づき、同時に、この頃ではあまり目にすることも耳にすることもなくなった、尊厳とか、あるいは志とかいったことを考えます》と。

フルトヴェングラー以降、多くの指揮者が誕生し、多くの録音がなされてきたし、
これからももっと多くの録音がなされていく。

フルトヴェングラーが亡くなって50年以上が過ぎている。
その間に出たレコードの枚数(オーケストラものにかぎっても)、いったいどれだけなのだろうか。
フルトヴェングラーが残したものは、その中に埋没することがなく、
いまも輝きを保っている、というよりも、輝きをましているところもある。

それは黒田先生が書かれているように、
フルトヴェングラーの演奏をきくことで、時代の忘れ物に気づき、
尊厳とか志といったことを考えるからであるからだ。

そして黒田先生は、すぐれた音楽は《時代を批評する鏡として機能するようです》とも書かれている。
フルトヴェングラーの演奏は、すぐれた演奏である。
つまり《時代を批評する鏡として機能》している。

そういう音楽だから、フルトヴェングラーの演奏をきく、といっても、
それが第二次大戦中の演奏なのか、第二次大戦後の演奏なのかは、
同じフルトヴェングラーの音楽であることに違いはないけれども、
同じには聴けないところがあるのをどこかで感じている。

だから第二次大戦中のフルトヴェングラーはシーメンスのオイロダインで、
第二次大戦後のフルトヴェングラーはタンノイのオートグラフで、ということに、
私の場合になっていく。
http://audiosharing.com/blog/?p=17762


最後の晩餐に選ぶモノの意味(その4)
http://audiosharing.com/blog/?p=18061

続きを書くにあたって、迷っていた。
確認しておきたいことがあったけれど、
それが何に、いつごろ載っていたのかうろおぼえで、どうやってその本をさがしたらいいのか。
しかも、それは購入していた本ではない。
どこかで目にしたことのある本だった。

国会図書館に行き、じっくり腰を据えてさがしていけばいつかはみつかるだろうが、
それでは時間がどのくらいかかるのかわからない。

うろおぼえの記憶に頼って書くしかない……、と思っていたところに、
その本そのものではないが、
私が確認しておきたかった(読みたかった)記事が再掲されたムックが出ていた。

河出書房新社の「フルトヴェングラー 最大最高の指揮者」に載っていた。
7月に出たこの本の最後のほうに、「対談 フルトヴェングラーを再評価する」がある。
音楽評論家の宇野功芳氏と指揮者の福永陽一郎氏による、1975年の対談である。

この対談の福永氏の発言を、どうしても引用しておきたかったのだ。
     *
福永 ぼくがこのごろ思っていることは、フルトヴェングラーはいわゆる過去の大家ではないということです。つまりほかの大家、大指揮者というのは、みんな自分たちの大きな仕事を終わって、レコードにも録音して死んじゃったんですけれども、フルトヴェングラーというのは、そうではなくて、いまレコードで演奏している。つまり生物的には存在しない人間なんだけれども、いまなお、そのレコードを通して演奏している演奏家で、だから新しいレコードが発見されれば、ちょうどいま生きている演奏家の新しい演奏会を聴きに行くように聴きたくなる。そういう意味で、つまり死んでいないという考え方なんです。
 過去の演奏会ではない、いまだに生き続けている。あのレコードによって毎日、毎日鳴り続けている指揮者であると、そういう指揮者はほかにいないというふうに、ぼくは考えるわけです。だから、ほかの指揮者は過去の業績であり、あの人は立派だった、こういうのを残したという形で評価されているけれども、フルトヴェングラーの場合は、レコードが鳴るたびに、もう一ぺんそこで生きて鳴っているという、そういうものがあの人の演奏の中にあると思うんです。それがいまの若い人でも初めて聴いたときにびっくりさせる。
 つまり、過去の大家の名演奏だと教えられて、はあそんなものかなと聴くんじゃなくて、直接自分のこころに何か訴えてくるものがあって、自分の心がそれで動いちゃうということが起こって、それでびっくりしちゃって、これは並みのレコードとは違うというふうに感じるんじゃないか。そうするともう一枚聴きたくなるという現象が起きるんじゃないかという気がするわけですね。
     *
福永氏が語られていることをいま読み返していると、
フルトヴェングラーは、演奏家側のレコード演奏家だということをつよく感じる。
http://audiosharing.com/blog/?p=18061


最後の晩餐に選ぶモノの意味(その5)
http://audiosharing.com/blog/?p=20415


フルトヴェングラーのモーツァルトのレクィエムは、
死ぬまでに聴きたい、と思う。
けれど、いまのところLPでもCDでも出ていない(はずだ)。

五味先生が書かれていた。
     *
 フルトヴェングラーが、ウィーンで『レクィエム』を指揮した古い写真がある。『レクィエム』とは、こうして聴くものか、そう沁々思って見入らずにおられぬいい写真だ。フルトヴェングラーがいいからこの写真も一そうよく見えるにきまっているが、しかしワルターでもトスカニーニでもこの写真の雰囲気は出ないように思う。私はこんなレコードがほしい。(「死と音楽」より)
     *
これを読んでいるから、どうしても聴きたい、と思う。
録音が残っていないのか。

調べるとフルトヴェングラーがレクィエムを指揮したのは、1941年が最後である。
第二次大戦後は一度もレクィエムを指揮していない。

その理由はわからない。
http://audiosharing.com/blog/?p=20415

最後の晩餐に選ぶモノの意味(その6)
http://audiosharing.com/blog/?p=20419


モーツァルトのレクィエムとは逆に、
フルトヴェングラーによるマーラーは、第二次大戦後になる。

ナチス時代のドイツでユダヤ人作曲家のマーラーの作品の演奏は不可能だったし、
いかなフルトヴェングラーでも、それを覆すことも不可能だったのだろう。

フルトヴェングラーのマーラーは「さすらう若人の歌」が残されている。
フィッシャー=ディスカウとの演奏・録音である。

ここでのフィッシャー=ディスカウの歌唱は、
人生で一度きりのものといえる──、というのは、これまでに何人もの方が書いている。
その通りの歌唱である。

フィッシャー=ディスカウは何度も、その後「さすらう若人の歌」を録音している。
すべてを聴いてはいないが、フルトヴェングラーとの演奏を超えている、とは言い難い。
歌い手として成熟・円熟していくことが、すべての曲においてよい方向へと作用するわけではないことを、
フィッシャー=ディスカウが27歳のときの歌唱は証明しているように感じられる。

マーラーがユダヤ人でなかったとしたら、
ナチス時代にマーラーの演奏が可能だったとして、
さらにそのときに27歳のフィッシャー=ディスカウがいたとして、
いまわれわれが聴くことができる「さすらう若人の歌」が聴けただろうか……、
となるとそうとはいえないような気がする。

ナチス時代の終焉という戦後になされた「さすらう若人の歌」、
第二次大戦後、一度も演奏されることのなかったモーツァルトのレクィエム。
おそらくレクィエムを聴くことはできないであろう。
ならば想像するしかない。
http://audiosharing.com/blog/?p=20419

Date: 10月 20th, 2020
最後の晩餐に選ぶモノの意味(その7)
http://audiosharing.com/blog/?p=33381


来年、五味先生の享年と同じになるのだが、
特に病気を患っているわけでもないし、健康状態はいい。
あとどれだけ生きられるのかはわからないけれど、まだまだ生きていられそうである。

二十年くらいは生きてそうだな、と思っている。
あと二十年として、その時77になっている。

身体は、そのころには、けっこうぼろぼろになっていよう。
ぼろぼろになっているから、くたばってしまうのだろう。

ここで書いているシーメンスのオイロダインも、そのころにはぼろぼろになっていることだろう。
劇場用スピーカーとして製造されたモノであっても、もとがかなり古いモノだけに、
二十年後に、よい状態のオイロダインは、世の中に一本も存在していないように思う。

そんなことがわかっているのに、音の最後の晩餐に、何を求めるのだろうか──、
そんなことを書いているのは、無意味でしかない、といえば、反論はしない。

非生産的なことに時間を費やす。
愚かなことであろう。

悔いがない人生を送ってきた──、とそのときになっていえる人生とはまったく思っていない。
最後の晩餐を前にして、悔いが押し寄せてくるのかもしれない、というより、
きっとそうなる。

最後の晩餐に食べたいものは、私にはないのかもしれない。
あったとしても、それを食べることよりも、一曲でいいから、
聴きたい(鳴らしたい)音で、それを聴ければいい。

でも、そこでも悔いることになる。
私がくたばるころには、まともなオイロダインはなくなっているのだから。
おそらく、これが最後の悔いになるだろう。

それまでのすべての悔いが吹き飛ぶくらいの悔いになるかもしれない。

フルトヴェングラーの音楽は、そのころも健在のはずだ。
オイロダインなんて、古くさいスピーカー(音)ではなくて、
そのころには、その時代を反映した音のスピーカーが登場してきているはずだ。

それで聴けばいいじゃないか、と思えるのであれば、こんなことを書いてはいない。
ただただオイロダインで、フルトヴェングラーを最後の晩餐として聴きたいだけなのだ。
http://audiosharing.com/blog/?p=33381

Date: 5月 13th, 2021
最後の晩餐に選ぶモノの意味(その8)
http://audiosharing.com/blog/?p=34737


この項のタイトルは「最後の晩餐に選ぶモノの意味」であって、
「最後の晩餐に選ぶ曲の意味」ではない。

最後の晩餐に聴きたいスピーカー(というよりも、その音)がある。
その音で聴きたい音楽がある。
そのことを書いているだけである。

本末転倒なことを書いているのはわかっている。
聴きたい曲が先にあって、
最後の晩餐として、その音楽を聴くのであれば、
どういう音(システム)で聴きたいかが、本筋のところである。

それでも私の場合、最後の晩餐から連想したのは、
まずシーメンスのオイロダインというスピーカーだった、というわけだ。

だから「最後の晩餐に選ぶモノの意味」というタイトルした。
(その1)を書いたのは六年前。52歳のときだ。

いまもまだシーメンスのオイロダインを、最後の晩餐として聴きたい、というおもいがある。
それはまだ私が50代だから、なのかもしれない、とつい最近おもうようになってきた。

十年後、70が近くなってくると、オイロダインではなく、
ほかのスピーカーで聴きたい、と変ってきているかもしれない。
その時になってみないと、なんともいえない。

書いている本人も、変っていくのか、変らないのか、よくわかっていないのだ。
最近では、ヴァイタヴォックスもいいなぁ、とおもっているぐらいだ。

それでも、今風のハイエンドのスピーカーで聴きたい、とは思わないはずだ。
http://audiosharing.com/blog/?p=34737

Date: 9月 19th, 2021
最後の晩餐に選ぶモノの意味(その9)
http://audiosharing.com/blog/?p=35627


シーメンスのオイロダインで聴く、ということは、
私にとっては、ドイツの響きを聴きたいからである。

ドイツの響き。
わかりやすいようでいて、決してそうではない。

ドイツの響きときいて、何を連想するかは、みな同じなわけではないはずだ。
ドイツの作曲家を思い出すのか、
ドイツの指揮者なのか、ドイツのピアニストなのか、ドイツのオーケストラなのか、
ドイツのスピーカーなのか、それすら人によって違うだろうし、
ドイツの作曲家と絞っても、誰を思い出すのかは、また人それぞれだろう。

ドイツの響きとは、シーメンスのオイロダインの音。
オイロダインの音こそ、ドイツの響き、
──そう書いたところで、オイロダインの印象も人によって違っているのはわかっている。
オイロダインを聴いたことがない、という人がいまではとても多いことも知っている。

何も伝わらない、といえばそうなのだが、
私にとってドイツの響きといえば、二人の指揮者である。

フルトヴェングラーとエーリヒ・クライバーである。
http://audiosharing.com/blog/?p=35627
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/698.html#c71

[近代史4] ナチス時代のフルトヴェングラーは一体何を考えていたのか? 中川隆
11. 中川隆[-16253] koaQ7Jey 2021年9月20日 17:57:38 : 6C6SEMfD1k : YnZQeFh4aHV2cS4=[23]
audio identity (designing)宮ア勝己
Date: 8月 6th, 2015
最後の晩餐に選ぶモノの意味(その1)
http://audiosharing.com/blog/?p=17740


死ぬ日がはっきりと決っていて、しかもそれがいつなのか本人が知っている。
それがどういう状況での死になるのかはここでは書かない。

とにかくいつ死ぬのかがわかっている。
そして最後の晩餐として、何を求めるか、ときかれたとしよう。

私はオーディオマニアだから、ここでの最後の晩餐とは食事ではなく、
最後に聴きたい音(組合せ)をかなえてくれるとしたら、どういうシステムを選ぶだろうか。

部屋も用意してくれる。
オーディオ機器も、どんなに古いモノであっても、最高のコンディションのモノを探して出して用意してくれる。
わがままな要望をすべてかなえてくれる、いわば音の最後の晩餐に何を望むのか。

現実にはこんなことは、ほぼありえない。
だからこそ考えていると楽しい。

最後に何を聴きたいのかは、どのレコードを聴きたいのかによって、ほぼすべてが決る。

私はシーメンスのオイロダインを聴きたい、と思う。
そう思うのは、最後に聴きたいのはフルトヴェングラーなのか。

グレン・グールドのどれかを最後に聴きたいのであれば、オイロダインとは思わない。
別のスピーカーを思い浮べ、それを鳴らすにふさわしいと思えるアンプを選択する。
カスリーン・フェリアーの歌であれば、また別のスピーカー(というよりもデッカ・デコラ)にする。

オイロダインということは、グールドでもフェリアーでもないということだ。
オイロダインを選ぶということは、少なくとも今の私は最後に聴きたいと思っているのは、
フルトヴェングラーのなにかということになる……。

そんな急拵えのシステムで聴くよりも、
それまでつきあってきた自分のシステムで好きなレコードを聴ければ、それで充分だし、
だいたいこんなことを考えることに何の意味があるのか、と思う人も少なくないだろう。
私だって、そんな気持を持っている。
それでもこんなことを考えてみるのも、まるっきり無意味とは決して思えない。

少なくともいまの私はフルトヴェングラーのなにかを聴きたいのだ、ということを意識できたからだ。
http://audiosharing.com/blog/?p=17740

最後の晩餐に選ぶモノの意味(その2)
http://audiosharing.com/blog/?p=17744


フルトヴェングラーのなにかを聴きたい、ということにつながっていくスピーカーとして、
私にとってはタンノイのオートグラフもそうである。

何度も書いているように五味先生の文章にみちびかれてオーディオの世界に入ってしまった私には、
五味康祐といえばベートーヴェンが思い浮ぶし、
そのベートーヴェンとはフルトヴェングラーの演奏によるものであり、
フルトヴェングラーのベートーヴェンを五味先生はオートグラフで聴かれていたからである。

私にとって、シーメンスのオイロダインとタンノイのオートグラフが、
フルトヴェングラーのなにかを聴きたい、というスピーカーということになる。

けれどオイロダインで聴きたいフルトヴェングラーのなにかと、
オートグラフで聴きたいフルトヴェングラーのなにかは同じではないことを感じている。

私がオイロダインで聴こうとしているフルトヴェングラーのなにかとは、第二次大戦中のライヴ録音であり、
オートグラフで聴こうとしているフルトヴェングラーのなにかとは、戦後の録音である。
そのことに気づいた。
http://audiosharing.com/blog/?p=17744


最後の晩餐に選ぶモノの意味(その3)
http://audiosharing.com/blog/?p=17762


黒田先生の著書「音楽への礼状」からの引用だ。
     *
 かつて、クラシック音楽は、天空を突き刺してそそりたつアルプスの山々のように、クラシック音楽ならではの尊厳を誇り、その人間愛にみちたメッセージでききてを感動させていました。まだ幼かったぼくは、あなたが、一九五二年に録音された「英雄」交響曲をきいて、クラシック音楽の、そのような尊厳に、はじめて気づきました。コンパクトディスクにおさまった、その演奏に耳を傾けているうちに、ぼくは、高校時代に味わった、あの胸が熱くなるような思いを味わい、クラシック音楽をききつづけてきた自分のしあわせを考えないではいられませんでした。
 なにごとにつけ、軽薄短小がよしとされるこの時代の嗜好と真向から対立するのが、あなたのきかせて下さる重くて大きい音楽です。音楽もまた、すぐれた音楽にかぎってのことではありますが、時代を批評する鏡として機能するようです。
 今ではもう誰も、「英雄」交響曲の冒頭の変ホ長調の主和音を、あなたのように堂々と威厳をもってひびかせるようなことはしなくなりました。クラシック音楽は、あなたがご存命の頃と較べると、よくもわるくも、スマートになりました。だからといって、あなたの演奏が、押し入れの奥からでてきた祖父の背広のような古さを感じさせるか、というと、そうではありません。あなたの残された演奏をきくひとはすべて、単に過ぎた時代をふりかえるだけではなく、時代の忘れ物に気づき、同時に、この頃ではあまり目にすることも耳にすることもなくなった、尊厳とか、あるいは志とかいったことを考えます。
     *
黒田先生が書かれている「あなた」とは、フルトヴェングラーのことである。
黒田先生は書かれている、
フルトヴェングラーが残した音楽を、
《きくひとはすべて、単に過ぎだ時代をふりかえるだけではなく、時代の忘れ物に気づき、同時に、この頃ではあまり目にすることも耳にすることもなくなった、尊厳とか、あるいは志とかいったことを考えます》と。

フルトヴェングラー以降、多くの指揮者が誕生し、多くの録音がなされてきたし、
これからももっと多くの録音がなされていく。

フルトヴェングラーが亡くなって50年以上が過ぎている。
その間に出たレコードの枚数(オーケストラものにかぎっても)、いったいどれだけなのだろうか。
フルトヴェングラーが残したものは、その中に埋没することがなく、
いまも輝きを保っている、というよりも、輝きをましているところもある。

それは黒田先生が書かれているように、
フルトヴェングラーの演奏をきくことで、時代の忘れ物に気づき、
尊厳とか志といったことを考えるからであるからだ。

そして黒田先生は、すぐれた音楽は《時代を批評する鏡として機能するようです》とも書かれている。
フルトヴェングラーの演奏は、すぐれた演奏である。
つまり《時代を批評する鏡として機能》している。

そういう音楽だから、フルトヴェングラーの演奏をきく、といっても、
それが第二次大戦中の演奏なのか、第二次大戦後の演奏なのかは、
同じフルトヴェングラーの音楽であることに違いはないけれども、
同じには聴けないところがあるのをどこかで感じている。

だから第二次大戦中のフルトヴェングラーはシーメンスのオイロダインで、
第二次大戦後のフルトヴェングラーはタンノイのオートグラフで、ということに、
私の場合になっていく。
http://audiosharing.com/blog/?p=17762


最後の晩餐に選ぶモノの意味(その4)
http://audiosharing.com/blog/?p=18061

続きを書くにあたって、迷っていた。
確認しておきたいことがあったけれど、
それが何に、いつごろ載っていたのかうろおぼえで、どうやってその本をさがしたらいいのか。
しかも、それは購入していた本ではない。
どこかで目にしたことのある本だった。

国会図書館に行き、じっくり腰を据えてさがしていけばいつかはみつかるだろうが、
それでは時間がどのくらいかかるのかわからない。

うろおぼえの記憶に頼って書くしかない……、と思っていたところに、
その本そのものではないが、
私が確認しておきたかった(読みたかった)記事が再掲されたムックが出ていた。

河出書房新社の「フルトヴェングラー 最大最高の指揮者」に載っていた。
7月に出たこの本の最後のほうに、「対談 フルトヴェングラーを再評価する」がある。
音楽評論家の宇野功芳氏と指揮者の福永陽一郎氏による、1975年の対談である。

この対談の福永氏の発言を、どうしても引用しておきたかったのだ。
     *
福永 ぼくがこのごろ思っていることは、フルトヴェングラーはいわゆる過去の大家ではないということです。つまりほかの大家、大指揮者というのは、みんな自分たちの大きな仕事を終わって、レコードにも録音して死んじゃったんですけれども、フルトヴェングラーというのは、そうではなくて、いまレコードで演奏している。つまり生物的には存在しない人間なんだけれども、いまなお、そのレコードを通して演奏している演奏家で、だから新しいレコードが発見されれば、ちょうどいま生きている演奏家の新しい演奏会を聴きに行くように聴きたくなる。そういう意味で、つまり死んでいないという考え方なんです。
 過去の演奏会ではない、いまだに生き続けている。あのレコードによって毎日、毎日鳴り続けている指揮者であると、そういう指揮者はほかにいないというふうに、ぼくは考えるわけです。だから、ほかの指揮者は過去の業績であり、あの人は立派だった、こういうのを残したという形で評価されているけれども、フルトヴェングラーの場合は、レコードが鳴るたびに、もう一ぺんそこで生きて鳴っているという、そういうものがあの人の演奏の中にあると思うんです。それがいまの若い人でも初めて聴いたときにびっくりさせる。
 つまり、過去の大家の名演奏だと教えられて、はあそんなものかなと聴くんじゃなくて、直接自分のこころに何か訴えてくるものがあって、自分の心がそれで動いちゃうということが起こって、それでびっくりしちゃって、これは並みのレコードとは違うというふうに感じるんじゃないか。そうするともう一枚聴きたくなるという現象が起きるんじゃないかという気がするわけですね。
     *
福永氏が語られていることをいま読み返していると、
フルトヴェングラーは、演奏家側のレコード演奏家だということをつよく感じる。
http://audiosharing.com/blog/?p=18061


最後の晩餐に選ぶモノの意味(その5)
http://audiosharing.com/blog/?p=20415


フルトヴェングラーのモーツァルトのレクィエムは、
死ぬまでに聴きたい、と思う。
けれど、いまのところLPでもCDでも出ていない(はずだ)。

五味先生が書かれていた。
     *
 フルトヴェングラーが、ウィーンで『レクィエム』を指揮した古い写真がある。『レクィエム』とは、こうして聴くものか、そう沁々思って見入らずにおられぬいい写真だ。フルトヴェングラーがいいからこの写真も一そうよく見えるにきまっているが、しかしワルターでもトスカニーニでもこの写真の雰囲気は出ないように思う。私はこんなレコードがほしい。(「死と音楽」より)
     *
これを読んでいるから、どうしても聴きたい、と思う。
録音が残っていないのか。

調べるとフルトヴェングラーがレクィエムを指揮したのは、1941年が最後である。
第二次大戦後は一度もレクィエムを指揮していない。

その理由はわからない。
http://audiosharing.com/blog/?p=20415

最後の晩餐に選ぶモノの意味(その6)
http://audiosharing.com/blog/?p=20419


モーツァルトのレクィエムとは逆に、
フルトヴェングラーによるマーラーは、第二次大戦後になる。

ナチス時代のドイツでユダヤ人作曲家のマーラーの作品の演奏は不可能だったし、
いかなフルトヴェングラーでも、それを覆すことも不可能だったのだろう。

フルトヴェングラーのマーラーは「さすらう若人の歌」が残されている。
フィッシャー=ディスカウとの演奏・録音である。

ここでのフィッシャー=ディスカウの歌唱は、
人生で一度きりのものといえる──、というのは、これまでに何人もの方が書いている。
その通りの歌唱である。

フィッシャー=ディスカウは何度も、その後「さすらう若人の歌」を録音している。
すべてを聴いてはいないが、フルトヴェングラーとの演奏を超えている、とは言い難い。
歌い手として成熟・円熟していくことが、すべての曲においてよい方向へと作用するわけではないことを、
フィッシャー=ディスカウが27歳のときの歌唱は証明しているように感じられる。

マーラーがユダヤ人でなかったとしたら、
ナチス時代にマーラーの演奏が可能だったとして、
さらにそのときに27歳のフィッシャー=ディスカウがいたとして、
いまわれわれが聴くことができる「さすらう若人の歌」が聴けただろうか……、
となるとそうとはいえないような気がする。

ナチス時代の終焉という戦後になされた「さすらう若人の歌」、
第二次大戦後、一度も演奏されることのなかったモーツァルトのレクィエム。
おそらくレクィエムを聴くことはできないであろう。
ならば想像するしかない。
http://audiosharing.com/blog/?p=20419

Date: 10月 20th, 2020
最後の晩餐に選ぶモノの意味(その7)
http://audiosharing.com/blog/?p=33381


来年、五味先生の享年と同じになるのだが、
特に病気を患っているわけでもないし、健康状態はいい。
あとどれだけ生きられるのかはわからないけれど、まだまだ生きていられそうである。

二十年くらいは生きてそうだな、と思っている。
あと二十年として、その時77になっている。

身体は、そのころには、けっこうぼろぼろになっていよう。
ぼろぼろになっているから、くたばってしまうのだろう。

ここで書いているシーメンスのオイロダインも、そのころにはぼろぼろになっていることだろう。
劇場用スピーカーとして製造されたモノであっても、もとがかなり古いモノだけに、
二十年後に、よい状態のオイロダインは、世の中に一本も存在していないように思う。

そんなことがわかっているのに、音の最後の晩餐に、何を求めるのだろうか──、
そんなことを書いているのは、無意味でしかない、といえば、反論はしない。

非生産的なことに時間を費やす。
愚かなことであろう。

悔いがない人生を送ってきた──、とそのときになっていえる人生とはまったく思っていない。
最後の晩餐を前にして、悔いが押し寄せてくるのかもしれない、というより、
きっとそうなる。

最後の晩餐に食べたいものは、私にはないのかもしれない。
あったとしても、それを食べることよりも、一曲でいいから、
聴きたい(鳴らしたい)音で、それを聴ければいい。

でも、そこでも悔いることになる。
私がくたばるころには、まともなオイロダインはなくなっているのだから。
おそらく、これが最後の悔いになるだろう。

それまでのすべての悔いが吹き飛ぶくらいの悔いになるかもしれない。

フルトヴェングラーの音楽は、そのころも健在のはずだ。
オイロダインなんて、古くさいスピーカー(音)ではなくて、
そのころには、その時代を反映した音のスピーカーが登場してきているはずだ。

それで聴けばいいじゃないか、と思えるのであれば、こんなことを書いてはいない。
ただただオイロダインで、フルトヴェングラーを最後の晩餐として聴きたいだけなのだ。
http://audiosharing.com/blog/?p=33381

Date: 5月 13th, 2021
最後の晩餐に選ぶモノの意味(その8)
http://audiosharing.com/blog/?p=34737


この項のタイトルは「最後の晩餐に選ぶモノの意味」であって、
「最後の晩餐に選ぶ曲の意味」ではない。

最後の晩餐に聴きたいスピーカー(というよりも、その音)がある。
その音で聴きたい音楽がある。
そのことを書いているだけである。

本末転倒なことを書いているのはわかっている。
聴きたい曲が先にあって、
最後の晩餐として、その音楽を聴くのであれば、
どういう音(システム)で聴きたいかが、本筋のところである。

それでも私の場合、最後の晩餐から連想したのは、
まずシーメンスのオイロダインというスピーカーだった、というわけだ。

だから「最後の晩餐に選ぶモノの意味」というタイトルした。
(その1)を書いたのは六年前。52歳のときだ。

いまもまだシーメンスのオイロダインを、最後の晩餐として聴きたい、というおもいがある。
それはまだ私が50代だから、なのかもしれない、とつい最近おもうようになってきた。

十年後、70が近くなってくると、オイロダインではなく、
ほかのスピーカーで聴きたい、と変ってきているかもしれない。
その時になってみないと、なんともいえない。

書いている本人も、変っていくのか、変らないのか、よくわかっていないのだ。
最近では、ヴァイタヴォックスもいいなぁ、とおもっているぐらいだ。

それでも、今風のハイエンドのスピーカーで聴きたい、とは思わないはずだ。
http://audiosharing.com/blog/?p=34737

Date: 9月 19th, 2021
最後の晩餐に選ぶモノの意味(その9)
http://audiosharing.com/blog/?p=35627


シーメンスのオイロダインで聴く、ということは、
私にとっては、ドイツの響きを聴きたいからである。

ドイツの響き。
わかりやすいようでいて、決してそうではない。

ドイツの響きときいて、何を連想するかは、みな同じなわけではないはずだ。
ドイツの作曲家を思い出すのか、
ドイツの指揮者なのか、ドイツのピアニストなのか、ドイツのオーケストラなのか、
ドイツのスピーカーなのか、それすら人によって違うだろうし、
ドイツの作曲家と絞っても、誰を思い出すのかは、また人それぞれだろう。

ドイツの響きとは、シーメンスのオイロダインの音。
オイロダインの音こそ、ドイツの響き、
──そう書いたところで、オイロダインの印象も人によって違っているのはわかっている。
オイロダインを聴いたことがない、という人がいまではとても多いことも知っている。

何も伝わらない、といえばそうなのだが、
私にとってドイツの響きといえば、二人の指揮者である。

フルトヴェングラーとエーリヒ・クライバーである。
http://audiosharing.com/blog/?p=35627
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/639.html#c11

[近代史02] 作曲家フルトヴェングラーとは何であったのか? 中川隆
31. 中川隆[-16252] koaQ7Jey 2021年9月20日 17:58:11 : 6C6SEMfD1k : YnZQeFh4aHV2cS4=[24]
audio identity (designing)宮ア勝己
Date: 8月 6th, 2015
最後の晩餐に選ぶモノの意味(その1)
http://audiosharing.com/blog/?p=17740


死ぬ日がはっきりと決っていて、しかもそれがいつなのか本人が知っている。
それがどういう状況での死になるのかはここでは書かない。

とにかくいつ死ぬのかがわかっている。
そして最後の晩餐として、何を求めるか、ときかれたとしよう。

私はオーディオマニアだから、ここでの最後の晩餐とは食事ではなく、
最後に聴きたい音(組合せ)をかなえてくれるとしたら、どういうシステムを選ぶだろうか。

部屋も用意してくれる。
オーディオ機器も、どんなに古いモノであっても、最高のコンディションのモノを探して出して用意してくれる。
わがままな要望をすべてかなえてくれる、いわば音の最後の晩餐に何を望むのか。

現実にはこんなことは、ほぼありえない。
だからこそ考えていると楽しい。

最後に何を聴きたいのかは、どのレコードを聴きたいのかによって、ほぼすべてが決る。

私はシーメンスのオイロダインを聴きたい、と思う。
そう思うのは、最後に聴きたいのはフルトヴェングラーなのか。

グレン・グールドのどれかを最後に聴きたいのであれば、オイロダインとは思わない。
別のスピーカーを思い浮べ、それを鳴らすにふさわしいと思えるアンプを選択する。
カスリーン・フェリアーの歌であれば、また別のスピーカー(というよりもデッカ・デコラ)にする。

オイロダインということは、グールドでもフェリアーでもないということだ。
オイロダインを選ぶということは、少なくとも今の私は最後に聴きたいと思っているのは、
フルトヴェングラーのなにかということになる……。

そんな急拵えのシステムで聴くよりも、
それまでつきあってきた自分のシステムで好きなレコードを聴ければ、それで充分だし、
だいたいこんなことを考えることに何の意味があるのか、と思う人も少なくないだろう。
私だって、そんな気持を持っている。
それでもこんなことを考えてみるのも、まるっきり無意味とは決して思えない。

少なくともいまの私はフルトヴェングラーのなにかを聴きたいのだ、ということを意識できたからだ。
http://audiosharing.com/blog/?p=17740

最後の晩餐に選ぶモノの意味(その2)
http://audiosharing.com/blog/?p=17744


フルトヴェングラーのなにかを聴きたい、ということにつながっていくスピーカーとして、
私にとってはタンノイのオートグラフもそうである。

何度も書いているように五味先生の文章にみちびかれてオーディオの世界に入ってしまった私には、
五味康祐といえばベートーヴェンが思い浮ぶし、
そのベートーヴェンとはフルトヴェングラーの演奏によるものであり、
フルトヴェングラーのベートーヴェンを五味先生はオートグラフで聴かれていたからである。

私にとって、シーメンスのオイロダインとタンノイのオートグラフが、
フルトヴェングラーのなにかを聴きたい、というスピーカーということになる。

けれどオイロダインで聴きたいフルトヴェングラーのなにかと、
オートグラフで聴きたいフルトヴェングラーのなにかは同じではないことを感じている。

私がオイロダインで聴こうとしているフルトヴェングラーのなにかとは、第二次大戦中のライヴ録音であり、
オートグラフで聴こうとしているフルトヴェングラーのなにかとは、戦後の録音である。
そのことに気づいた。
http://audiosharing.com/blog/?p=17744


最後の晩餐に選ぶモノの意味(その3)
http://audiosharing.com/blog/?p=17762


黒田先生の著書「音楽への礼状」からの引用だ。
     *
 かつて、クラシック音楽は、天空を突き刺してそそりたつアルプスの山々のように、クラシック音楽ならではの尊厳を誇り、その人間愛にみちたメッセージでききてを感動させていました。まだ幼かったぼくは、あなたが、一九五二年に録音された「英雄」交響曲をきいて、クラシック音楽の、そのような尊厳に、はじめて気づきました。コンパクトディスクにおさまった、その演奏に耳を傾けているうちに、ぼくは、高校時代に味わった、あの胸が熱くなるような思いを味わい、クラシック音楽をききつづけてきた自分のしあわせを考えないではいられませんでした。
 なにごとにつけ、軽薄短小がよしとされるこの時代の嗜好と真向から対立するのが、あなたのきかせて下さる重くて大きい音楽です。音楽もまた、すぐれた音楽にかぎってのことではありますが、時代を批評する鏡として機能するようです。
 今ではもう誰も、「英雄」交響曲の冒頭の変ホ長調の主和音を、あなたのように堂々と威厳をもってひびかせるようなことはしなくなりました。クラシック音楽は、あなたがご存命の頃と較べると、よくもわるくも、スマートになりました。だからといって、あなたの演奏が、押し入れの奥からでてきた祖父の背広のような古さを感じさせるか、というと、そうではありません。あなたの残された演奏をきくひとはすべて、単に過ぎた時代をふりかえるだけではなく、時代の忘れ物に気づき、同時に、この頃ではあまり目にすることも耳にすることもなくなった、尊厳とか、あるいは志とかいったことを考えます。
     *
黒田先生が書かれている「あなた」とは、フルトヴェングラーのことである。
黒田先生は書かれている、
フルトヴェングラーが残した音楽を、
《きくひとはすべて、単に過ぎだ時代をふりかえるだけではなく、時代の忘れ物に気づき、同時に、この頃ではあまり目にすることも耳にすることもなくなった、尊厳とか、あるいは志とかいったことを考えます》と。

フルトヴェングラー以降、多くの指揮者が誕生し、多くの録音がなされてきたし、
これからももっと多くの録音がなされていく。

フルトヴェングラーが亡くなって50年以上が過ぎている。
その間に出たレコードの枚数(オーケストラものにかぎっても)、いったいどれだけなのだろうか。
フルトヴェングラーが残したものは、その中に埋没することがなく、
いまも輝きを保っている、というよりも、輝きをましているところもある。

それは黒田先生が書かれているように、
フルトヴェングラーの演奏をきくことで、時代の忘れ物に気づき、
尊厳とか志といったことを考えるからであるからだ。

そして黒田先生は、すぐれた音楽は《時代を批評する鏡として機能するようです》とも書かれている。
フルトヴェングラーの演奏は、すぐれた演奏である。
つまり《時代を批評する鏡として機能》している。

そういう音楽だから、フルトヴェングラーの演奏をきく、といっても、
それが第二次大戦中の演奏なのか、第二次大戦後の演奏なのかは、
同じフルトヴェングラーの音楽であることに違いはないけれども、
同じには聴けないところがあるのをどこかで感じている。

だから第二次大戦中のフルトヴェングラーはシーメンスのオイロダインで、
第二次大戦後のフルトヴェングラーはタンノイのオートグラフで、ということに、
私の場合になっていく。
http://audiosharing.com/blog/?p=17762


最後の晩餐に選ぶモノの意味(その4)
http://audiosharing.com/blog/?p=18061

続きを書くにあたって、迷っていた。
確認しておきたいことがあったけれど、
それが何に、いつごろ載っていたのかうろおぼえで、どうやってその本をさがしたらいいのか。
しかも、それは購入していた本ではない。
どこかで目にしたことのある本だった。

国会図書館に行き、じっくり腰を据えてさがしていけばいつかはみつかるだろうが、
それでは時間がどのくらいかかるのかわからない。

うろおぼえの記憶に頼って書くしかない……、と思っていたところに、
その本そのものではないが、
私が確認しておきたかった(読みたかった)記事が再掲されたムックが出ていた。

河出書房新社の「フルトヴェングラー 最大最高の指揮者」に載っていた。
7月に出たこの本の最後のほうに、「対談 フルトヴェングラーを再評価する」がある。
音楽評論家の宇野功芳氏と指揮者の福永陽一郎氏による、1975年の対談である。

この対談の福永氏の発言を、どうしても引用しておきたかったのだ。
     *
福永 ぼくがこのごろ思っていることは、フルトヴェングラーはいわゆる過去の大家ではないということです。つまりほかの大家、大指揮者というのは、みんな自分たちの大きな仕事を終わって、レコードにも録音して死んじゃったんですけれども、フルトヴェングラーというのは、そうではなくて、いまレコードで演奏している。つまり生物的には存在しない人間なんだけれども、いまなお、そのレコードを通して演奏している演奏家で、だから新しいレコードが発見されれば、ちょうどいま生きている演奏家の新しい演奏会を聴きに行くように聴きたくなる。そういう意味で、つまり死んでいないという考え方なんです。
 過去の演奏会ではない、いまだに生き続けている。あのレコードによって毎日、毎日鳴り続けている指揮者であると、そういう指揮者はほかにいないというふうに、ぼくは考えるわけです。だから、ほかの指揮者は過去の業績であり、あの人は立派だった、こういうのを残したという形で評価されているけれども、フルトヴェングラーの場合は、レコードが鳴るたびに、もう一ぺんそこで生きて鳴っているという、そういうものがあの人の演奏の中にあると思うんです。それがいまの若い人でも初めて聴いたときにびっくりさせる。
 つまり、過去の大家の名演奏だと教えられて、はあそんなものかなと聴くんじゃなくて、直接自分のこころに何か訴えてくるものがあって、自分の心がそれで動いちゃうということが起こって、それでびっくりしちゃって、これは並みのレコードとは違うというふうに感じるんじゃないか。そうするともう一枚聴きたくなるという現象が起きるんじゃないかという気がするわけですね。
     *
福永氏が語られていることをいま読み返していると、
フルトヴェングラーは、演奏家側のレコード演奏家だということをつよく感じる。
http://audiosharing.com/blog/?p=18061


最後の晩餐に選ぶモノの意味(その5)
http://audiosharing.com/blog/?p=20415


フルトヴェングラーのモーツァルトのレクィエムは、
死ぬまでに聴きたい、と思う。
けれど、いまのところLPでもCDでも出ていない(はずだ)。

五味先生が書かれていた。
     *
 フルトヴェングラーが、ウィーンで『レクィエム』を指揮した古い写真がある。『レクィエム』とは、こうして聴くものか、そう沁々思って見入らずにおられぬいい写真だ。フルトヴェングラーがいいからこの写真も一そうよく見えるにきまっているが、しかしワルターでもトスカニーニでもこの写真の雰囲気は出ないように思う。私はこんなレコードがほしい。(「死と音楽」より)
     *
これを読んでいるから、どうしても聴きたい、と思う。
録音が残っていないのか。

調べるとフルトヴェングラーがレクィエムを指揮したのは、1941年が最後である。
第二次大戦後は一度もレクィエムを指揮していない。

その理由はわからない。
http://audiosharing.com/blog/?p=20415

最後の晩餐に選ぶモノの意味(その6)
http://audiosharing.com/blog/?p=20419


モーツァルトのレクィエムとは逆に、
フルトヴェングラーによるマーラーは、第二次大戦後になる。

ナチス時代のドイツでユダヤ人作曲家のマーラーの作品の演奏は不可能だったし、
いかなフルトヴェングラーでも、それを覆すことも不可能だったのだろう。

フルトヴェングラーのマーラーは「さすらう若人の歌」が残されている。
フィッシャー=ディスカウとの演奏・録音である。

ここでのフィッシャー=ディスカウの歌唱は、
人生で一度きりのものといえる──、というのは、これまでに何人もの方が書いている。
その通りの歌唱である。

フィッシャー=ディスカウは何度も、その後「さすらう若人の歌」を録音している。
すべてを聴いてはいないが、フルトヴェングラーとの演奏を超えている、とは言い難い。
歌い手として成熟・円熟していくことが、すべての曲においてよい方向へと作用するわけではないことを、
フィッシャー=ディスカウが27歳のときの歌唱は証明しているように感じられる。

マーラーがユダヤ人でなかったとしたら、
ナチス時代にマーラーの演奏が可能だったとして、
さらにそのときに27歳のフィッシャー=ディスカウがいたとして、
いまわれわれが聴くことができる「さすらう若人の歌」が聴けただろうか……、
となるとそうとはいえないような気がする。

ナチス時代の終焉という戦後になされた「さすらう若人の歌」、
第二次大戦後、一度も演奏されることのなかったモーツァルトのレクィエム。
おそらくレクィエムを聴くことはできないであろう。
ならば想像するしかない。
http://audiosharing.com/blog/?p=20419

Date: 10月 20th, 2020
最後の晩餐に選ぶモノの意味(その7)
http://audiosharing.com/blog/?p=33381


来年、五味先生の享年と同じになるのだが、
特に病気を患っているわけでもないし、健康状態はいい。
あとどれだけ生きられるのかはわからないけれど、まだまだ生きていられそうである。

二十年くらいは生きてそうだな、と思っている。
あと二十年として、その時77になっている。

身体は、そのころには、けっこうぼろぼろになっていよう。
ぼろぼろになっているから、くたばってしまうのだろう。

ここで書いているシーメンスのオイロダインも、そのころにはぼろぼろになっていることだろう。
劇場用スピーカーとして製造されたモノであっても、もとがかなり古いモノだけに、
二十年後に、よい状態のオイロダインは、世の中に一本も存在していないように思う。

そんなことがわかっているのに、音の最後の晩餐に、何を求めるのだろうか──、
そんなことを書いているのは、無意味でしかない、といえば、反論はしない。

非生産的なことに時間を費やす。
愚かなことであろう。

悔いがない人生を送ってきた──、とそのときになっていえる人生とはまったく思っていない。
最後の晩餐を前にして、悔いが押し寄せてくるのかもしれない、というより、
きっとそうなる。

最後の晩餐に食べたいものは、私にはないのかもしれない。
あったとしても、それを食べることよりも、一曲でいいから、
聴きたい(鳴らしたい)音で、それを聴ければいい。

でも、そこでも悔いることになる。
私がくたばるころには、まともなオイロダインはなくなっているのだから。
おそらく、これが最後の悔いになるだろう。

それまでのすべての悔いが吹き飛ぶくらいの悔いになるかもしれない。

フルトヴェングラーの音楽は、そのころも健在のはずだ。
オイロダインなんて、古くさいスピーカー(音)ではなくて、
そのころには、その時代を反映した音のスピーカーが登場してきているはずだ。

それで聴けばいいじゃないか、と思えるのであれば、こんなことを書いてはいない。
ただただオイロダインで、フルトヴェングラーを最後の晩餐として聴きたいだけなのだ。
http://audiosharing.com/blog/?p=33381

Date: 5月 13th, 2021
最後の晩餐に選ぶモノの意味(その8)
http://audiosharing.com/blog/?p=34737


この項のタイトルは「最後の晩餐に選ぶモノの意味」であって、
「最後の晩餐に選ぶ曲の意味」ではない。

最後の晩餐に聴きたいスピーカー(というよりも、その音)がある。
その音で聴きたい音楽がある。
そのことを書いているだけである。

本末転倒なことを書いているのはわかっている。
聴きたい曲が先にあって、
最後の晩餐として、その音楽を聴くのであれば、
どういう音(システム)で聴きたいかが、本筋のところである。

それでも私の場合、最後の晩餐から連想したのは、
まずシーメンスのオイロダインというスピーカーだった、というわけだ。

だから「最後の晩餐に選ぶモノの意味」というタイトルした。
(その1)を書いたのは六年前。52歳のときだ。

いまもまだシーメンスのオイロダインを、最後の晩餐として聴きたい、というおもいがある。
それはまだ私が50代だから、なのかもしれない、とつい最近おもうようになってきた。

十年後、70が近くなってくると、オイロダインではなく、
ほかのスピーカーで聴きたい、と変ってきているかもしれない。
その時になってみないと、なんともいえない。

書いている本人も、変っていくのか、変らないのか、よくわかっていないのだ。
最近では、ヴァイタヴォックスもいいなぁ、とおもっているぐらいだ。

それでも、今風のハイエンドのスピーカーで聴きたい、とは思わないはずだ。
http://audiosharing.com/blog/?p=34737

Date: 9月 19th, 2021
最後の晩餐に選ぶモノの意味(その9)
http://audiosharing.com/blog/?p=35627


シーメンスのオイロダインで聴く、ということは、
私にとっては、ドイツの響きを聴きたいからである。

ドイツの響き。
わかりやすいようでいて、決してそうではない。

ドイツの響きときいて、何を連想するかは、みな同じなわけではないはずだ。
ドイツの作曲家を思い出すのか、
ドイツの指揮者なのか、ドイツのピアニストなのか、ドイツのオーケストラなのか、
ドイツのスピーカーなのか、それすら人によって違うだろうし、
ドイツの作曲家と絞っても、誰を思い出すのかは、また人それぞれだろう。

ドイツの響きとは、シーメンスのオイロダインの音。
オイロダインの音こそ、ドイツの響き、
──そう書いたところで、オイロダインの印象も人によって違っているのはわかっている。
オイロダインを聴いたことがない、という人がいまではとても多いことも知っている。

何も伝わらない、といえばそうなのだが、
私にとってドイツの響きといえば、二人の指揮者である。

フルトヴェングラーとエーリヒ・クライバーである。
http://audiosharing.com/blog/?p=35627
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/482.html#c31

[近代史3] ドイツ製ヴィンテージ・オーディオ販売 クラング・クンスト KLANG-KUNST 中川隆
23. 中川隆[-16251] koaQ7Jey 2021年9月20日 18:04:06 : 6C6SEMfD1k : YnZQeFh4aHV2cS4=[25]
audio identity (designing)宮ア勝己
Date: 8月 6th, 2015
最後の晩餐に選ぶモノの意味(その1)
http://audiosharing.com/blog/?p=17740


死ぬ日がはっきりと決っていて、しかもそれがいつなのか本人が知っている。
それがどういう状況での死になるのかはここでは書かない。

とにかくいつ死ぬのかがわかっている。
そして最後の晩餐として、何を求めるか、ときかれたとしよう。

私はオーディオマニアだから、ここでの最後の晩餐とは食事ではなく、
最後に聴きたい音(組合せ)をかなえてくれるとしたら、どういうシステムを選ぶだろうか。

部屋も用意してくれる。
オーディオ機器も、どんなに古いモノであっても、最高のコンディションのモノを探して出して用意してくれる。
わがままな要望をすべてかなえてくれる、いわば音の最後の晩餐に何を望むのか。

現実にはこんなことは、ほぼありえない。
だからこそ考えていると楽しい。

最後に何を聴きたいのかは、どのレコードを聴きたいのかによって、ほぼすべてが決る。

私はシーメンスのオイロダインを聴きたい、と思う。
そう思うのは、最後に聴きたいのはフルトヴェングラーなのか。

グレン・グールドのどれかを最後に聴きたいのであれば、オイロダインとは思わない。
別のスピーカーを思い浮べ、それを鳴らすにふさわしいと思えるアンプを選択する。
カスリーン・フェリアーの歌であれば、また別のスピーカー(というよりもデッカ・デコラ)にする。

オイロダインということは、グールドでもフェリアーでもないということだ。
オイロダインを選ぶということは、少なくとも今の私は最後に聴きたいと思っているのは、
フルトヴェングラーのなにかということになる……。

そんな急拵えのシステムで聴くよりも、
それまでつきあってきた自分のシステムで好きなレコードを聴ければ、それで充分だし、
だいたいこんなことを考えることに何の意味があるのか、と思う人も少なくないだろう。
私だって、そんな気持を持っている。
それでもこんなことを考えてみるのも、まるっきり無意味とは決して思えない。

少なくともいまの私はフルトヴェングラーのなにかを聴きたいのだ、ということを意識できたからだ。
http://audiosharing.com/blog/?p=17740

最後の晩餐に選ぶモノの意味(その2)
http://audiosharing.com/blog/?p=17744


フルトヴェングラーのなにかを聴きたい、ということにつながっていくスピーカーとして、
私にとってはタンノイのオートグラフもそうである。

何度も書いているように五味先生の文章にみちびかれてオーディオの世界に入ってしまった私には、
五味康祐といえばベートーヴェンが思い浮ぶし、
そのベートーヴェンとはフルトヴェングラーの演奏によるものであり、
フルトヴェングラーのベートーヴェンを五味先生はオートグラフで聴かれていたからである。

私にとって、シーメンスのオイロダインとタンノイのオートグラフが、
フルトヴェングラーのなにかを聴きたい、というスピーカーということになる。

けれどオイロダインで聴きたいフルトヴェングラーのなにかと、
オートグラフで聴きたいフルトヴェングラーのなにかは同じではないことを感じている。

私がオイロダインで聴こうとしているフルトヴェングラーのなにかとは、第二次大戦中のライヴ録音であり、
オートグラフで聴こうとしているフルトヴェングラーのなにかとは、戦後の録音である。
そのことに気づいた。
http://audiosharing.com/blog/?p=17744


最後の晩餐に選ぶモノの意味(その3)
http://audiosharing.com/blog/?p=17762


黒田先生の著書「音楽への礼状」からの引用だ。
     *
 かつて、クラシック音楽は、天空を突き刺してそそりたつアルプスの山々のように、クラシック音楽ならではの尊厳を誇り、その人間愛にみちたメッセージでききてを感動させていました。まだ幼かったぼくは、あなたが、一九五二年に録音された「英雄」交響曲をきいて、クラシック音楽の、そのような尊厳に、はじめて気づきました。コンパクトディスクにおさまった、その演奏に耳を傾けているうちに、ぼくは、高校時代に味わった、あの胸が熱くなるような思いを味わい、クラシック音楽をききつづけてきた自分のしあわせを考えないではいられませんでした。
 なにごとにつけ、軽薄短小がよしとされるこの時代の嗜好と真向から対立するのが、あなたのきかせて下さる重くて大きい音楽です。音楽もまた、すぐれた音楽にかぎってのことではありますが、時代を批評する鏡として機能するようです。
 今ではもう誰も、「英雄」交響曲の冒頭の変ホ長調の主和音を、あなたのように堂々と威厳をもってひびかせるようなことはしなくなりました。クラシック音楽は、あなたがご存命の頃と較べると、よくもわるくも、スマートになりました。だからといって、あなたの演奏が、押し入れの奥からでてきた祖父の背広のような古さを感じさせるか、というと、そうではありません。あなたの残された演奏をきくひとはすべて、単に過ぎた時代をふりかえるだけではなく、時代の忘れ物に気づき、同時に、この頃ではあまり目にすることも耳にすることもなくなった、尊厳とか、あるいは志とかいったことを考えます。
     *
黒田先生が書かれている「あなた」とは、フルトヴェングラーのことである。
黒田先生は書かれている、
フルトヴェングラーが残した音楽を、
《きくひとはすべて、単に過ぎだ時代をふりかえるだけではなく、時代の忘れ物に気づき、同時に、この頃ではあまり目にすることも耳にすることもなくなった、尊厳とか、あるいは志とかいったことを考えます》と。

フルトヴェングラー以降、多くの指揮者が誕生し、多くの録音がなされてきたし、
これからももっと多くの録音がなされていく。

フルトヴェングラーが亡くなって50年以上が過ぎている。
その間に出たレコードの枚数(オーケストラものにかぎっても)、いったいどれだけなのだろうか。
フルトヴェングラーが残したものは、その中に埋没することがなく、
いまも輝きを保っている、というよりも、輝きをましているところもある。

それは黒田先生が書かれているように、
フルトヴェングラーの演奏をきくことで、時代の忘れ物に気づき、
尊厳とか志といったことを考えるからであるからだ。

そして黒田先生は、すぐれた音楽は《時代を批評する鏡として機能するようです》とも書かれている。
フルトヴェングラーの演奏は、すぐれた演奏である。
つまり《時代を批評する鏡として機能》している。

そういう音楽だから、フルトヴェングラーの演奏をきく、といっても、
それが第二次大戦中の演奏なのか、第二次大戦後の演奏なのかは、
同じフルトヴェングラーの音楽であることに違いはないけれども、
同じには聴けないところがあるのをどこかで感じている。

だから第二次大戦中のフルトヴェングラーはシーメンスのオイロダインで、
第二次大戦後のフルトヴェングラーはタンノイのオートグラフで、ということに、
私の場合になっていく。
http://audiosharing.com/blog/?p=17762


最後の晩餐に選ぶモノの意味(その4)
http://audiosharing.com/blog/?p=18061

続きを書くにあたって、迷っていた。
確認しておきたいことがあったけれど、
それが何に、いつごろ載っていたのかうろおぼえで、どうやってその本をさがしたらいいのか。
しかも、それは購入していた本ではない。
どこかで目にしたことのある本だった。

国会図書館に行き、じっくり腰を据えてさがしていけばいつかはみつかるだろうが、
それでは時間がどのくらいかかるのかわからない。

うろおぼえの記憶に頼って書くしかない……、と思っていたところに、
その本そのものではないが、
私が確認しておきたかった(読みたかった)記事が再掲されたムックが出ていた。

河出書房新社の「フルトヴェングラー 最大最高の指揮者」に載っていた。
7月に出たこの本の最後のほうに、「対談 フルトヴェングラーを再評価する」がある。
音楽評論家の宇野功芳氏と指揮者の福永陽一郎氏による、1975年の対談である。

この対談の福永氏の発言を、どうしても引用しておきたかったのだ。
     *
福永 ぼくがこのごろ思っていることは、フルトヴェングラーはいわゆる過去の大家ではないということです。つまりほかの大家、大指揮者というのは、みんな自分たちの大きな仕事を終わって、レコードにも録音して死んじゃったんですけれども、フルトヴェングラーというのは、そうではなくて、いまレコードで演奏している。つまり生物的には存在しない人間なんだけれども、いまなお、そのレコードを通して演奏している演奏家で、だから新しいレコードが発見されれば、ちょうどいま生きている演奏家の新しい演奏会を聴きに行くように聴きたくなる。そういう意味で、つまり死んでいないという考え方なんです。
 過去の演奏会ではない、いまだに生き続けている。あのレコードによって毎日、毎日鳴り続けている指揮者であると、そういう指揮者はほかにいないというふうに、ぼくは考えるわけです。だから、ほかの指揮者は過去の業績であり、あの人は立派だった、こういうのを残したという形で評価されているけれども、フルトヴェングラーの場合は、レコードが鳴るたびに、もう一ぺんそこで生きて鳴っているという、そういうものがあの人の演奏の中にあると思うんです。それがいまの若い人でも初めて聴いたときにびっくりさせる。
 つまり、過去の大家の名演奏だと教えられて、はあそんなものかなと聴くんじゃなくて、直接自分のこころに何か訴えてくるものがあって、自分の心がそれで動いちゃうということが起こって、それでびっくりしちゃって、これは並みのレコードとは違うというふうに感じるんじゃないか。そうするともう一枚聴きたくなるという現象が起きるんじゃないかという気がするわけですね。
     *
福永氏が語られていることをいま読み返していると、
フルトヴェングラーは、演奏家側のレコード演奏家だということをつよく感じる。
http://audiosharing.com/blog/?p=18061


最後の晩餐に選ぶモノの意味(その5)
http://audiosharing.com/blog/?p=20415


フルトヴェングラーのモーツァルトのレクィエムは、
死ぬまでに聴きたい、と思う。
けれど、いまのところLPでもCDでも出ていない(はずだ)。

五味先生が書かれていた。
     *
 フルトヴェングラーが、ウィーンで『レクィエム』を指揮した古い写真がある。『レクィエム』とは、こうして聴くものか、そう沁々思って見入らずにおられぬいい写真だ。フルトヴェングラーがいいからこの写真も一そうよく見えるにきまっているが、しかしワルターでもトスカニーニでもこの写真の雰囲気は出ないように思う。私はこんなレコードがほしい。(「死と音楽」より)
     *
これを読んでいるから、どうしても聴きたい、と思う。
録音が残っていないのか。

調べるとフルトヴェングラーがレクィエムを指揮したのは、1941年が最後である。
第二次大戦後は一度もレクィエムを指揮していない。

その理由はわからない。
http://audiosharing.com/blog/?p=20415

最後の晩餐に選ぶモノの意味(その6)
http://audiosharing.com/blog/?p=20419


モーツァルトのレクィエムとは逆に、
フルトヴェングラーによるマーラーは、第二次大戦後になる。

ナチス時代のドイツでユダヤ人作曲家のマーラーの作品の演奏は不可能だったし、
いかなフルトヴェングラーでも、それを覆すことも不可能だったのだろう。

フルトヴェングラーのマーラーは「さすらう若人の歌」が残されている。
フィッシャー=ディスカウとの演奏・録音である。

ここでのフィッシャー=ディスカウの歌唱は、
人生で一度きりのものといえる──、というのは、これまでに何人もの方が書いている。
その通りの歌唱である。

フィッシャー=ディスカウは何度も、その後「さすらう若人の歌」を録音している。
すべてを聴いてはいないが、フルトヴェングラーとの演奏を超えている、とは言い難い。
歌い手として成熟・円熟していくことが、すべての曲においてよい方向へと作用するわけではないことを、
フィッシャー=ディスカウが27歳のときの歌唱は証明しているように感じられる。

マーラーがユダヤ人でなかったとしたら、
ナチス時代にマーラーの演奏が可能だったとして、
さらにそのときに27歳のフィッシャー=ディスカウがいたとして、
いまわれわれが聴くことができる「さすらう若人の歌」が聴けただろうか……、
となるとそうとはいえないような気がする。

ナチス時代の終焉という戦後になされた「さすらう若人の歌」、
第二次大戦後、一度も演奏されることのなかったモーツァルトのレクィエム。
おそらくレクィエムを聴くことはできないであろう。
ならば想像するしかない。
http://audiosharing.com/blog/?p=20419

Date: 10月 20th, 2020
最後の晩餐に選ぶモノの意味(その7)
http://audiosharing.com/blog/?p=33381


来年、五味先生の享年と同じになるのだが、
特に病気を患っているわけでもないし、健康状態はいい。
あとどれだけ生きられるのかはわからないけれど、まだまだ生きていられそうである。

二十年くらいは生きてそうだな、と思っている。
あと二十年として、その時77になっている。

身体は、そのころには、けっこうぼろぼろになっていよう。
ぼろぼろになっているから、くたばってしまうのだろう。

ここで書いているシーメンスのオイロダインも、そのころにはぼろぼろになっていることだろう。
劇場用スピーカーとして製造されたモノであっても、もとがかなり古いモノだけに、
二十年後に、よい状態のオイロダインは、世の中に一本も存在していないように思う。

そんなことがわかっているのに、音の最後の晩餐に、何を求めるのだろうか──、
そんなことを書いているのは、無意味でしかない、といえば、反論はしない。

非生産的なことに時間を費やす。
愚かなことであろう。

悔いがない人生を送ってきた──、とそのときになっていえる人生とはまったく思っていない。
最後の晩餐を前にして、悔いが押し寄せてくるのかもしれない、というより、
きっとそうなる。

最後の晩餐に食べたいものは、私にはないのかもしれない。
あったとしても、それを食べることよりも、一曲でいいから、
聴きたい(鳴らしたい)音で、それを聴ければいい。

でも、そこでも悔いることになる。
私がくたばるころには、まともなオイロダインはなくなっているのだから。
おそらく、これが最後の悔いになるだろう。

それまでのすべての悔いが吹き飛ぶくらいの悔いになるかもしれない。

フルトヴェングラーの音楽は、そのころも健在のはずだ。
オイロダインなんて、古くさいスピーカー(音)ではなくて、
そのころには、その時代を反映した音のスピーカーが登場してきているはずだ。

それで聴けばいいじゃないか、と思えるのであれば、こんなことを書いてはいない。
ただただオイロダインで、フルトヴェングラーを最後の晩餐として聴きたいだけなのだ。
http://audiosharing.com/blog/?p=33381

Date: 5月 13th, 2021
最後の晩餐に選ぶモノの意味(その8)
http://audiosharing.com/blog/?p=34737


この項のタイトルは「最後の晩餐に選ぶモノの意味」であって、
「最後の晩餐に選ぶ曲の意味」ではない。

最後の晩餐に聴きたいスピーカー(というよりも、その音)がある。
その音で聴きたい音楽がある。
そのことを書いているだけである。

本末転倒なことを書いているのはわかっている。
聴きたい曲が先にあって、
最後の晩餐として、その音楽を聴くのであれば、
どういう音(システム)で聴きたいかが、本筋のところである。

それでも私の場合、最後の晩餐から連想したのは、
まずシーメンスのオイロダインというスピーカーだった、というわけだ。

だから「最後の晩餐に選ぶモノの意味」というタイトルした。
(その1)を書いたのは六年前。52歳のときだ。

いまもまだシーメンスのオイロダインを、最後の晩餐として聴きたい、というおもいがある。
それはまだ私が50代だから、なのかもしれない、とつい最近おもうようになってきた。

十年後、70が近くなってくると、オイロダインではなく、
ほかのスピーカーで聴きたい、と変ってきているかもしれない。
その時になってみないと、なんともいえない。

書いている本人も、変っていくのか、変らないのか、よくわかっていないのだ。
最近では、ヴァイタヴォックスもいいなぁ、とおもっているぐらいだ。

それでも、今風のハイエンドのスピーカーで聴きたい、とは思わないはずだ。
http://audiosharing.com/blog/?p=34737

Date: 9月 19th, 2021
最後の晩餐に選ぶモノの意味(その9)
http://audiosharing.com/blog/?p=35627


シーメンスのオイロダインで聴く、ということは、
私にとっては、ドイツの響きを聴きたいからである。

ドイツの響き。
わかりやすいようでいて、決してそうではない。

ドイツの響きときいて、何を連想するかは、みな同じなわけではないはずだ。
ドイツの作曲家を思い出すのか、
ドイツの指揮者なのか、ドイツのピアニストなのか、ドイツのオーケストラなのか、
ドイツのスピーカーなのか、それすら人によって違うだろうし、
ドイツの作曲家と絞っても、誰を思い出すのかは、また人それぞれだろう。

ドイツの響きとは、シーメンスのオイロダインの音。
オイロダインの音こそ、ドイツの響き、
──そう書いたところで、オイロダインの印象も人によって違っているのはわかっている。
オイロダインを聴いたことがない、という人がいまではとても多いことも知っている。

何も伝わらない、といえばそうなのだが、
私にとってドイツの響きといえば、二人の指揮者である。

フルトヴェングラーとエーリヒ・クライバーである。
http://audiosharing.com/blog/?p=35627
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/479.html#c23

[近代史5] 「新型コロナワクチンは人間のすべての免疫能力を破壊して人を死に導く」 中川隆
20. 2021年9月20日 18:11:14 : 6C6SEMfD1k : YnZQeFh4aHV2cS4=[26]
2021.09.20
COVID-19ワクチンで先行しているイスラエルで接種者に深刻な症状が現れている
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202109200000/

 イスラエルは「COVID-19(2019年-コロナウイルス感染症)ワクチン」の接種で最も先を進んでいる国で、国民の大半が接種を完了している。昨年12月下旬から接種が急ピッチで進んだが、それに歩調を合わせて「ケース」が増えた。PCR(ポリメラーゼ連鎖反応)検査の陽性者が急増したということだろう。

 4月になると十代の若者を含む人びとの間で心筋炎や心膜炎が増えていると情報がイスラエルから伝えられはじめ、アメリカの6月23日にはCDC(疾病予防管理センター)のACIP(予防接種実施に関する諮問委員会)が「mRNAワクチン」と「穏やかな」心筋炎との間に関連がありそうだと認めた。その2日後にはFDA(食品医薬品局)がmRNA技術を使ったファイザー製とモデルナ製の「COVID-19ワクチン」が若者や子どもに心筋炎や心膜炎を引き起こすリスクを高める可能性があると発表している。

 春から夏にかけてイスラエルの「ワクチン」接種件数は少なくなる。8月に入って再び件数が急増、それに合わせて「ケース」も急増した。他の国に比べ、飛び抜けて多い。政治トークショウのホストを務める​キム・イベルセン​がイスラエルから入手したデータによると、病院はワクチン接種者であふれ、死者も増えているという。単にPCRで陽性になっているだけでなく、深刻な症状が出ているということだ。「ワクチン」はCOVID-19を予防していない。

 ​ミネソタ州選出のエリク・モーテンセン下院議員が開いた集会に参加した看護師​は「COVID-19ワクチン」の副作用が伝えられているより深刻だと証言していることは本ブログでも伝えた。​別の看護師​はインタビューに答え、「ブレークスルー」や「デルタ」で発症しているとされている人の大半は「ワクチン」を接種した人で、実態は「ワクチン」の副作用だと語っている。

 今年3月には​著名な科学者や医師など57名​が連名で「COVID-19ワクチン」の安全性に疑問を表明、ウイルス学者でGAVI(ワクチンの推進団体)やビル・アンド・メリンダ・ゲーツ財団で働いた経験のある​バンデン・ボッシ​、あるいは2008年にノーベル生理学医学賞を授与された​リュック・モンタニエ​は「ワクチン」によって危険な変異種が作り出されると警告しているが、ADE(抗体依存性感染増強)が出ている可能性もある。

 イギリス保健省の​イングランド公衆衛生庁​は6月25日、「SARS-CoV-2(重症急性呼吸器症候群コロナウイルス2)」の変異種に関する技術的な説明を行い、その中で、死亡した117名のうち50名は「ワクチン」を2度投与されていたことを明らかにしていた。1度だけのケースを加えると、死亡者の60%がワクチンの接種を受けていたという。その変異種はインドで最初に見つかったもので、「デルタ」と呼ばれているのだが、これは変異種でなく「ワクチン」の副作用ではないかと疑われているわけだ。

 ファイザー/BioNTechやモデルナが製造している「mRNAワクチン」はSARS-CoV-2のスパイク・タンパク質を体内で製造、それによって抗体を作り出して免疫を獲得すると想定されている。

 しかし、抗体には感染を防ぐ「中和抗体」と防がない「結合(非中和)抗体」がある。結合抗体はウイルスを免疫細胞へ侵入させて免疫の機能を混乱させる可能性がある。コロナウイルスのスパイク・タンパク質が変異を起こした場合、免疫システムが暴走して自分自身を傷つけ、死に至らしめることもあると指摘されていた。

 日本では5月頃から「ワクチン」の接種が加速した。7月上旬に一旦止まったが、その後、COVID-19の恐怖キャンペーンもあり、不自然な形で接種件数は増えている。
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202109200000/
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/624.html#c20

[近代史5] アメリカの「奥の院」とは 中川隆
1. 中川隆[-16250] koaQ7Jey 2021年9月20日 18:39:16 : 6C6SEMfD1k : YnZQeFh4aHV2cS4=[27]
ユダヤ陰謀論


ユダヤ陰謀論 _ ジェームズ斉藤
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/1168.html

ジェームズ斉藤のユダヤ陰謀論は何処がおかしいか?
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/367.html

チャンネル桜関係者のアホ陰謀論
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/620.html

ユダヤ陰謀論 _ 林千勝
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/1167.html

林千勝の日米戦争の近衛文麿陰謀説 _ 昭和天皇の戦争主導を隠蔽するのが目的か
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/624.html

日本の右翼のバイブル _ 偽ユダヤ人のモルデカイ・モーゼが書いた 日本人に謝りたい
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/494.html  

これがチャンネル桜関係者とアホ右翼が信じている「ユダヤ陰謀史観」
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/505.html

チャンネル桜関係者とアホ右翼が信じている「日銀と通貨発行権」の誤解について
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/848.html

ユダヤ陰謀論 _ 馬渕睦夫
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/735.html

馬渕睦夫 世界を支配する者達が生み出した『中央銀行』という奇形
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/558.html

馬渕睦夫のユダヤ陰謀論はどこまで本当なのか?
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/212.html

ディープステートとかいう馬渕睦夫のアホ陰謀論
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/623.html

田中英道のユダヤ陰謀論はどこまで本当なのか?
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/213.html

西洋美術史の専門家だった(?)田中英道は何時から頭がおかしくなったのか?
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/206.html

ユダヤ陰謀論 _ 宇野正美
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/733.html

ユダヤ陰謀論 _ マルクシズムの起源
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/745.html

ユダヤ陰謀論 _ イルミナティの悪魔的な所業の謎をとく 
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/738.html

世紀の捏造? ”ガス室はなかった” は本当か?
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/346.html

ユダヤ陰謀論 _ ユダヤ人の9割を占めるアシュケナジー・ユダヤ人はハザール人起源
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/747.html

陰謀論の主役はなぜユダヤなのか ー 本当の支配者と新興ユダヤについて某国諜報機関関係者が徹底解説!
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/1153.html

ユダヤ陰謀論の起源
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/1018.html

アメリカ経済を動かしている経営陣の8割以上がユダヤ人、GAFAの経営者も、全員ユダヤ人
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/1115.html

ユダヤ陰謀論者は殆どがパラノイアか統合失調症患者だった
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/740.html

ユダヤ陰謀論とグローバリズムを考える _ ヨーロッパ化されたキリスト教がユダヤ思想の正体で、ユダヤ教やユダヤ人とは何の関係も無かった
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/504.html
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/1118.html#c1

   

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