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[近代史4] EAR の真空管アンプ 中川隆
3. 2020年12月25日 08:21:58 : FSuacswpLw : YmxBMnM2QW1TUC4=[1]
伝説のオーディオ・デザイナー、ティム・デ・パラヴィッチーニ氏が逝去
2020年12月21日 ダン・マインワルド、EAR USA
https://positive-feedback.com/audio-discourse/tim-de-paravicini/


伝説のオーディオ・デザイナー、ティム・デ・パラヴィッチーニ氏が12月17日、

日本で75歳で亡くなったことを深い悲しみとともに報告する。死因は肝臓がんでした。

ティムはナイジェリアでイギリス人の両親のもとに生まれました。彼の家系は、
母国イタリアと数百年前に一族の一枝が定住したイギリスの両方で名家の血統を

受け継いでいます。彼の先祖の一人は、ジェノバから教皇グレゴリー15世の

特使であり、後にジェノバの公爵となったアゴスティーノ・パッラヴィチーニ

である。アンソニー・ヴァン・ダイクが描いたパラヴィッチーニの肖像画は、
ゲッティ美術館のコレクションとして常設展示されています。ティムは実は

男爵であり、彼の家系には何世代にもわたってその称号が受け継がれていました。

ティムは教育のためにイギリスに連れてこられ、電気工学の学位を取得しました。

学位を取得した後、南アフリカのヨハネスブルグに移り住み、

hi-fl店のコンサルタントとして働き、トランスやアンプを製造する工場を経営し、

ロックグループのPAシステムを構築したり、レコーディングスタジオの仕事を

したりしていました。彼がヨハネスブルグで働いていた人々の中には、

ラックスマンの輸入代理店もあり、1972年にはラックスマンを日本以外の

世界に注目させるために、ラックスマンの最高経営責任者に雇われることになりました。
彼は当時日本でオーディオデザインの仕事をしていた最初で唯一の西洋人でした。

ティムがLuxmanで働いている間に日本語を学び、妻のOlivaと出会い、

今でも注目を集めているいくつかの注目すべきオーディオコンポーネントを

デザインしました。おそらく最も有名なのは、世界初のマッスルアンプの一つであり、
日本から出た最初の製品である巨大なトランジスタパワーアンプの

M6000でしょう。他にも、当時世界で唯一のモノブロックアンプで
あった真空管アンプMB3045も設計しており、現在では当初の販売価格の

数倍の価格で売買されています。

ティムは真空管コンポーネントの設計で最もよく知られていますが、

M6000アンプの存在は、彼が真空管とトランジスタの両方のギアを

設計していたのが彼にとっては容易であったことを物語っています。

彼は、どちらが優れているということはないと考えており、
適切な回路設計を行えば、両者は同じ音を奏でるはずだと考えていました。


ティムはプロオーディオの世界と家庭用Hi-Fiの世界の両方に

またがっていました。プロオーディオの世界では、ATRとStuderの

テープ・マシンを根本的に改造したことで知られています。

これらのマシンはデジタルレベルのS/N比を実現し、8Hzから80,000Hzを超える
帯域幅を持っています。ここでもティムは真空管とソリッドステートの

両方のデバイスを使用しました。Waterlily Acousticsがグラミー賞を
受賞した「Meeting By The River」のレコーディングに使用した

Studer C37は全て真空管で、Mobile Fidelity Sound LabがLPやCDのマスタリングに
使用しているテープ・マシンの電子機器はソリッド・ステートですが、

LPのカッティング・ヘッドはEARの真空管アンプで駆動されています。

ティムは1976年に日本を離れ、イギリスに戻り、最初は他の人のために

デザインの仕事をしていました。この時期の彼の製品で最もよく知られているのは、
Michaelson & Austinのために製作したTVA-1とTVA-10アンプでは

ないでしょうか。彼は1978年にEAR(Esoteric Audio Researchの

頭文字をとったもの)を設立し、
その名のもとにオーディオ製品のラインアップを作り始めました。

彼はまた、Musical Fidelity、Alchemy(現在は廃業)、そして最近では

Quadなど、他の会社でもデザインを続けています。


彼の機材を使用している多くの有名なレコーディングおよびマスタリング

エンジニアのリストには、ジミ・ヘンドリックス、レッド・ツェッペリン、

ローリング・ストーンズ、エリック・クラプトン、レディオヘッド、

ダイアー・ストレイツ、フランク・ザッパなどが含まれています。

ポール・スタッブルバインは、テープ・プロジェクトのために、

テープ・マシンを使ってリール・ツー・リールのテープを再生したり

複製したりしています。1978年からピンク・フロイドのプロデューサー兼

レコーディング・エンジニアを務めているジェームス・ガスリーは、
EARのテープ・マシンとその他の機材を多数所有しており、

最近ではピンク・フロイドの全カタログのリマスタリングに使用しています。

ティムの機材を所有し使用しているミュージシャンのリストには、

ポール・マッカートニー、リンゴ・スター、故ジョージ・ハリスン、
レニー・クラヴィッツ、ピンク・フロイドのデヴィッド・ギルモアなどが

含まれており、文字通りティムの機材をいくつも所有しています。

ティムのオーディオ・コンポーネントは数々の賞を受賞しており、

その中には、The Absolute Sound誌のゴールデン・イヤー賞や
クリティックス・チョイス賞、Stereophile誌のクラスA賞

(といくつかの-B賞)、フランスの雑誌Revue Du Son、

Haute Fidelite、Diapasonの12以上のトップ・アワード、

イギリスの雑誌Hi Fi Newsのエディターズ・チョイス賞、

日本の雑誌Stereo SoundのComponent Of The Yearなどがあります。
ティム・デ・パラヴィチーニ氏には、妻のオリバ?(芳野さん)、息子のネヴィン、

娘のアバロンが遺されています。EAR社は、ネヴィン・デ・

パラヴィッチーニの有能な手の下で運営を続けていきます。

個人的には、ティムとは30年以上の付き合いがあり、

そのほとんどの期間、彼の米国での代理店を務めたことは、

私にとって名誉であり特権でした。彼を知らない人(知っている人も)は、

彼が不機嫌で短気なこともあると思うかもしれませんが、

彼をよく知っている人は、彼が最も優しくて寛大な人の一人で

あることを知っていました。音楽を聴くためにシステムの電源を

入れるたびに彼がいなくなるのは寂しいですが、同時に金属、

ガラス、プラスチック、ワイヤーの塊を本物の音楽のように

聴かせる彼の素晴らしい能力の恩恵を受けることができたことに

感謝しています。


http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/480.html#c3

[番外地8] このオッサンは普通の学生がドストエフスキーやカフカやニーチェを読んでいる時に金儲けばかりしてたんだね。 中川隆
1. 2020年12月25日 10:21:47 : FSuacswpLw : YmxBMnM2QW1TUC4=[4]
音楽聴いたり、岩登りしたり、スキーやったり、映画見たりとか、遊びをやる事で人間や社会について深く理解できる様になるんだよ。橋洋一さんはそういうのを全くやらなかったから人間の事も社会の事も理解できなくなったんだ。
http://www.asyura2.com/20/ban8/msg/738.html#c1
[近代史5] アメリカを中心とする資本主義体制が行き詰まって、支配システムの中心にいる人びとは体制のリセットを始めた 中川隆
18. 2020年12月25日 11:00:45 : FSuacswpLw : YmxBMnM2QW1TUC4=[5]
2020.12.25
資本主義からファシズムへ移行するクーデターにローマ教皇庁も参加へ
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202012250000/

 資本主義体制のリーダー達は12月8日、「​バチカンを含む包括的資本主義会議​」を発足させた。WEF(世界経済フォーラム)と連携、その創設者であるクラウス・シュワブが言ったようにCOVID-19(2019年-コロナウイルス感染症)を利用して資本主義を大々的に「リセット」するつもりなのだろう。

 この会議を創設するうえで中心的な役割を果たしたのはリン・フォレスター・ド・ロスチャイルド。ロンドンを拠点とするNMロスチャイルド銀行の取り仕切ってきたエベリン・ド・ロスチャイルドの3番目の妻だ。エベリンは今年の8月で90歳になったが、リン・フォレスターは66歳。ふたりは1998年のビルダーバーグ・グループの会議でヘンリー・キッシンジャーに紹介されて知り合い、2000年に結婚、新婚旅行の際にクリントン夫妻からホワイトハウスへ招待されている。

 リン・フォレスターはエベリンと知り合う前、ジェフリー・エプスタインのプライベート・ジェットに乗った記録が残っている。言うまでもなく、エプスタインは未成年の少女を世界の有力者に提供、接待の様子を記録して脅しに使っていた人物。妻のギスレインや義父のロバート・マクスウェルと同じようにイスラエル軍の情報機関、つまりAMAMに所属していた。

 このロバート・マクスウェルに対し、リン・フォレスターは1991年頃、マンハッタンにある自身の住宅を自由に使わせていた。マクスウェルはその年の11月、カナリア諸島沖でヨットから行方不明になり、しばらくして膨張した裸の死体が発見された。マクスウェルの下で仕事をしていたジョン・タワー元米上院議員は同じ年の4月、搭乗していた近距離定期便がジョージア州ブランズウィック空港付近で墜落して死亡している。ふたりはイスラエルの情報機関の仕事をしていた。

 ロスチャイルド人脈が「バチカンを含む包括的資本主義会議」で中心的な役割を果たしているのだろうが、ロックフェラー財団やフォード財団も関係、そしてローマ教皇庁が加わった。目指しているのは資本主義の「リセット」、つまり破綻した資本主義から私的権力が直接統治するファシズム体制への移行だ。そのために邪魔なロシアと中国を潰すため、あらゆる手段を講じてくるだろう。アメリカは日本も自分たちの戦争マシーンに組み込んでいる。2021年から世界を舞台とした「超限戦」が本格化する可能性が高い。そのための準備はCOVID-19を利用して進められている。
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202012250000/
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/156.html#c18

[近代史5] 米国のカラー革命に資金を出している富豪はファシズム体制の樹立を目指している 中川隆
2. 中川隆[-8968] koaQ7Jey 2020年12月25日 11:01:11 : FSuacswpLw : YmxBMnM2QW1TUC4=[6]
2020.12.25
資本主義からファシズムへ移行するクーデターにローマ教皇庁も参加へ
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202012250000/

 資本主義体制のリーダー達は12月8日、「​バチカンを含む包括的資本主義会議​」を発足させた。WEF(世界経済フォーラム)と連携、その創設者であるクラウス・シュワブが言ったようにCOVID-19(2019年-コロナウイルス感染症)を利用して資本主義を大々的に「リセット」するつもりなのだろう。

 この会議を創設するうえで中心的な役割を果たしたのはリン・フォレスター・ド・ロスチャイルド。ロンドンを拠点とするNMロスチャイルド銀行の取り仕切ってきたエベリン・ド・ロスチャイルドの3番目の妻だ。エベリンは今年の8月で90歳になったが、リン・フォレスターは66歳。ふたりは1998年のビルダーバーグ・グループの会議でヘンリー・キッシンジャーに紹介されて知り合い、2000年に結婚、新婚旅行の際にクリントン夫妻からホワイトハウスへ招待されている。

 リン・フォレスターはエベリンと知り合う前、ジェフリー・エプスタインのプライベート・ジェットに乗った記録が残っている。言うまでもなく、エプスタインは未成年の少女を世界の有力者に提供、接待の様子を記録して脅しに使っていた人物。妻のギスレインや義父のロバート・マクスウェルと同じようにイスラエル軍の情報機関、つまりAMAMに所属していた。

 このロバート・マクスウェルに対し、リン・フォレスターは1991年頃、マンハッタンにある自身の住宅を自由に使わせていた。マクスウェルはその年の11月、カナリア諸島沖でヨットから行方不明になり、しばらくして膨張した裸の死体が発見された。マクスウェルの下で仕事をしていたジョン・タワー元米上院議員は同じ年の4月、搭乗していた近距離定期便がジョージア州ブランズウィック空港付近で墜落して死亡している。ふたりはイスラエルの情報機関の仕事をしていた。

 ロスチャイルド人脈が「バチカンを含む包括的資本主義会議」で中心的な役割を果たしているのだろうが、ロックフェラー財団やフォード財団も関係、そしてローマ教皇庁が加わった。目指しているのは資本主義の「リセット」、つまり破綻した資本主義から私的権力が直接統治するファシズム体制への移行だ。そのために邪魔なロシアと中国を潰すため、あらゆる手段を講じてくるだろう。アメリカは日本も自分たちの戦争マシーンに組み込んでいる。2021年から世界を舞台とした「超限戦」が本格化する可能性が高い。そのための準備はCOVID-19を利用して進められている。
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202012250000/
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/202.html#c2

[番外地8] このオッサンは普通の学生がドストエフスキーやカフカやニーチェを読んでいる時に金儲けばかりしてたんだね。 中川隆
2. 中川隆[-8967] koaQ7Jey 2020年12月25日 11:08:13 : FSuacswpLw : YmxBMnM2QW1TUC4=[7]
音楽バンドやったり、真空管アンプを作ったり、テニスやったり、岩登りしたり、スキーやったり、映画見たりとか、遊びをやる事で人間や社会について深く理解できる様になるんだよ。橋洋一さんはそういうのを全くやらなかったから人間の事も社会の事も理解できなくなったんだ。
http://www.asyura2.com/20/ban8/msg/738.html#c2
[番外地8] このオッサンは普通の学生がドストエフスキーやカフカやニーチェを読んでいる時に金儲けばかりしてたんだね。 中川隆
3. 中川隆[-8966] koaQ7Jey 2020年12月25日 11:11:17 : FSuacswpLw : YmxBMnM2QW1TUC4=[8]
学生は革命運動やったり、音楽バンドやったり、真空管アンプを作ったり、テニスやったり、岩登りしたり、スキーやったり、映画見たりとか、遊びをやる事で人間や社会について深く理解できる様になるんだよ。橋洋一さんはそういうのを全くやらなかったから人間の事も社会の事も理解できなくなったんだ。
http://www.asyura2.com/20/ban8/msg/738.html#c3
[近代史4] ウェスタン・エレクトリックの出力管 300B を使ったパワーアンプ 中川隆
2. 中川隆[-8965] koaQ7Jey 2020年12月25日 11:24:33 : FSuacswpLw : YmxBMnM2QW1TUC4=[9]
「音楽&オーディオ」の小部屋
高級外車と真空管アンプ 2020年12月20日
https://blog.goo.ne.jp/jbltakashi/e/c989170124b5efa55bec1eb4177ac1ed


「久しぶりに真空管アンプのヒアリングテストを行いますのでお見えになりませんか?」とのお誘いに乗って駆けつけてくれた近くにお住いのYさん。

相変わらず我が家のオーディオ実験の実例になるが、なぜこういう話を公開するかというとオーディオはまだ未解明な部分が多いことに尽きる。

結局、個々のオーディオ環境にとってあまりにも「変数」が多すぎるので理論もさることながら、やむなく実験に頼らざるを得ないのが実情です。

つまり、実際にやってみなくちゃ分からん(笑)。

そこで、我が家の実例を通じて「場数=疑似体験」を踏んでいただき、少しでもご参考にしていただければという願いと観点から記録をしたためています。ただし、真に受けられても困りますので適当に取捨選択してくださいね。

それでは、前提としてテストの概要を述べておこう。

まず、スピーカーの構成だがこのブログの恒常的な読者なら先刻ご承知のはずなので「今さらくどい」とお叱りを受けそうだが、初見の方がいらっしゃる可能性もあるので念のため。

フルレンジ → 「スーパー10」(ワーフェデール:口径25センチ・赤帯マグネット)

ツィーター → 「075」ツィーター(JBL:シンバル再生用としてマイカコンデンサーでローカット)

サブウーファー → 「スーパー12」(ワーフェデール:口径30センチ・赤帯マグネット)イン・ウェストミンスター

ムンドルフ(ドイツ)の「ゼロ抵抗コイル」(6.8+8.2=15mh)を用いて150ヘルツ(−6db/oct)でハイカット

このスピーカーのうち「150ヘルツ以下」を「EL34プッシュプル」(借用中)で駆動し、フルレンジ部分に限って3台の真空管アンプでヒアリングテストしようという魂胆である。

最初に登場するのは「6AR6=6098」シングルアンプの登場。

2年ほど前に手に入れたアンプで出力管は「6AR6=6098」(この球は初期版に限る)である。GT管とはいえ、素性を辿るとアメリカ軍のレーダー用に使用されていた由緒ある「WE350B」に行き着くのだから出自がたいへんよろしい。

これは5極管だが「3極管接続」にすると、あの英国の銘管「PX4=PP3/250」そっくりの周波数曲線になるというのが魅力。

初段管は「CV569=ECC35=6SL7」(STC)を使用。ボリューム部分は「クラロスタット型」に変更している。

そして、Yさんのご感想は次のとおり。

「とてもスッキリとしていて抜けがいい音ですね。昔あった”スカッと爽やかコカ・コーラ”という言葉を思い出しました。ただ、クラシックの場合はもっと響きが欲しい気がしますね。

TRアンプの再生音がこういった感じです。アッ、そうそう低音域は別にして我が家の「マーク・レヴィンソン」の音とそっくりですよ。お値段からしたら大したものですね」

「このアンプは響きが少ない分、解像力の良さが売り物です。ピアノでいえばヤマハとスタンウェイの差ですかね。しかし、AXIOM80を鳴らすと不思議なことに細身同士での相乗効果といいますか、そこはかとない色気が出てくるので重宝してます。この大型システムには相性がイマイチみたいですかね〜」

以下、続く。
https://blog.goo.ne.jp/jbltakashi/e/c989170124b5efa55bec1eb4177ac1ed

切磋琢磨する真空管アンプたち
2020年12月24日
https://blog.goo.ne.jp/jbltakashi/e/fea2d309babb9061769e8eb836163801


お待たせしました〜。前々回のオーディオ仲間との「真空管アンプ試聴会」の続きです。

「6AR6=6098シングルアンプ」の次は「PX25シングル」アンプの登場。

このアンプを購入してからもう25年ぐらいになるだろうか。どこかかしこに不満が出てくるし、己の使いこなしの未熟さも手伝うしで、専門家に改造をお願いすること延べ4回くらいにはなる。

今のところ落ち着いているが、基本的には「インターステージトランス」(UTCのA19)の性能に不足はないものの、もっと容量が増えたら「ベター」といったところかな。

球の構成のうち大切な整流管は「WE422A」(1958年製)を奮発し、出力管は英国製の「PX25」(ナス管)だが、音のいい3極管型の出力管として10年ほど前はアメリカの「WE300B」と並び称されていたほどだが、近年ではお値段的に「WE300B」の後塵を拝するようになった。

どうして人気が凋落したのかはよく分からないが、音質的に引けは取らないと思うものの「丈夫さ」の点では明らかに「WE300B」の方に軍配が上がるのでそのせいかな。

いずれにしても比較的リーズナブルなお値段で手に入れやすくなったのは喜ぶべきこと。

ちなみに、このPX25の上級管として「PP5/400」(英国マツダ:初期版)も持っているが、現在のインターステージトランスでは役不足「?」と大切に待機保存中である。

このアンプも前段管(ドライバー管)次第でくるくる音が変わる。これまで常用していたのはやや低音域に比重を置いた「GSXー112」(アメリカ:トリタンフィラメント)だったが、今回のテストでは中高音域にメリハリのある「3A/109B」(STC:画像左)に代えてみた。

すると、これが大当たり!

オーディオ仲間のYさんが「これならいつも聴かせてもらっているWE300Bアンプとそれほど遜色がありませんよ!とても瑞々しい音です。」

「STC」の優秀さはもちろんだが、おそらくプリアンプ(マランツ7型:3本の球はいずれもBRIMARの12AX7)との相性やRCAケーブルとSPケーブル(いずれもLAN素材)との相乗効果ということになるのだろう。

関係の方々に感謝です!

そして最後に登場したのは、真打の「WE300Bシングル」アンプ。

球の構成は整流管に「4274A」(STC)、前段管は71A(レイセオン)、出力管は「WE300B」(1988年製)のラインアップ。

そして各真空管の「ヒーター回路」は別々になっているのがミソ。

トランス類は入力トランスが「HAー100X」(UTC)、インターステージトランスは「HA-106」(UTC)、出力トランスは個人の手巻きによるもの。

そして、シャーシは「漏れ磁界」に強い厚さ2mmの銅板を使っている。

「300Bアンプはインターステージトランスに何を使うかで勝負が決まります」とは「北国の真空管博士」の弁だが、その点、我が家の「HA-106」は理想的な逸品だそうだ。ただし、オークションにもめったに出ないしもう入手するのは無理とのこと。

したがって、万一「インター・・」が断線したらこのアンプは価値が半減するので毎日がヒヤヒヤの連続である(笑)。

今回の試聴会も相変わらず信頼に応えてくれた。

「とても端正な音の一言に尽きますね。PX25アンプよりも音像が一段とシャープになって焦点(フォーカス)がピタリと決まる感じです。音の粒立ちも素晴らしいし、これはもう完璧な音ですよ!」と仲間。

何だか自慢話みたいになってしまったが、「ありのまま」を記載しているのでどうかお許しを(笑)。

さて、この原稿を書いている時点でこの試聴会から1週間以上経っているのだが、毎日出番となっているのは「PX25」アンプの方である。

さすがに「WE300Bアンプ」は何だか勿体なくてなかなか使う気になれない。

つくづく「貧乏性」だねえ(笑)。

そして、最後になるが現在仲間からお借りしている「EL34プッシュプル」アンプ。

低音域(150ヘルツ以下)再生の専用アンプとしてもう2週間ほど使っているが、お値段も大したことがないし使用されている真空管も近代管だし、そのうち何らかの破綻を見せることだろうと悠長に構えていたらどうして、どうして・・。

ちょっと欲が出てきて、ありふれた電源ケーブルを手持ちの「キンバー」ケーブルに交換したらすぐに耳ざとい仲間が気が付いた。

「アレッ、音に締まりが出てきました。何か代えませんでしたか?」

ギャフン!

それにしても、低音域専用だけなら近代管でも十分いけそう。言い換えると、古典管の持ち味というのは中高音域にあるようですよ。

https://blog.goo.ne.jp/jbltakashi/e/fea2d309babb9061769e8eb836163801
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/118.html#c2

[近代史5] 真空管アンプの世界 中川隆
5. 中川隆[-8964] koaQ7Jey 2020年12月25日 11:25:25 : FSuacswpLw : YmxBMnM2QW1TUC4=[10]
「音楽&オーディオ」の小部屋
高級外車と真空管アンプ 2020年12月20日
https://blog.goo.ne.jp/jbltakashi/e/c989170124b5efa55bec1eb4177ac1ed


「久しぶりに真空管アンプのヒアリングテストを行いますのでお見えになりませんか?」とのお誘いに乗って駆けつけてくれた近くにお住いのYさん。

相変わらず我が家のオーディオ実験の実例になるが、なぜこういう話を公開するかというとオーディオはまだ未解明な部分が多いことに尽きる。

結局、個々のオーディオ環境にとってあまりにも「変数」が多すぎるので理論もさることながら、やむなく実験に頼らざるを得ないのが実情です。

つまり、実際にやってみなくちゃ分からん(笑)。

そこで、我が家の実例を通じて「場数=疑似体験」を踏んでいただき、少しでもご参考にしていただければという願いと観点から記録をしたためています。ただし、真に受けられても困りますので適当に取捨選択してくださいね。

それでは、前提としてテストの概要を述べておこう。

まず、スピーカーの構成だがこのブログの恒常的な読者なら先刻ご承知のはずなので「今さらくどい」とお叱りを受けそうだが、初見の方がいらっしゃる可能性もあるので念のため。

フルレンジ → 「スーパー10」(ワーフェデール:口径25センチ・赤帯マグネット)

ツィーター → 「075」ツィーター(JBL:シンバル再生用としてマイカコンデンサーでローカット)

サブウーファー → 「スーパー12」(ワーフェデール:口径30センチ・赤帯マグネット)イン・ウェストミンスター

ムンドルフ(ドイツ)の「ゼロ抵抗コイル」(6.8+8.2=15mh)を用いて150ヘルツ(−6db/oct)でハイカット

このスピーカーのうち「150ヘルツ以下」を「EL34プッシュプル」(借用中)で駆動し、フルレンジ部分に限って3台の真空管アンプでヒアリングテストしようという魂胆である。

最初に登場するのは「6AR6=6098」シングルアンプの登場。

2年ほど前に手に入れたアンプで出力管は「6AR6=6098」(この球は初期版に限る)である。GT管とはいえ、素性を辿るとアメリカ軍のレーダー用に使用されていた由緒ある「WE350B」に行き着くのだから出自がたいへんよろしい。

これは5極管だが「3極管接続」にすると、あの英国の銘管「PX4=PP3/250」そっくりの周波数曲線になるというのが魅力。

初段管は「CV569=ECC35=6SL7」(STC)を使用。ボリューム部分は「クラロスタット型」に変更している。

そして、Yさんのご感想は次のとおり。

「とてもスッキリとしていて抜けがいい音ですね。昔あった”スカッと爽やかコカ・コーラ”という言葉を思い出しました。ただ、クラシックの場合はもっと響きが欲しい気がしますね。

TRアンプの再生音がこういった感じです。アッ、そうそう低音域は別にして我が家の「マーク・レヴィンソン」の音とそっくりですよ。お値段からしたら大したものですね」

「このアンプは響きが少ない分、解像力の良さが売り物です。ピアノでいえばヤマハとスタンウェイの差ですかね。しかし、AXIOM80を鳴らすと不思議なことに細身同士での相乗効果といいますか、そこはかとない色気が出てくるので重宝してます。この大型システムには相性がイマイチみたいですかね〜」

以下、続く。
https://blog.goo.ne.jp/jbltakashi/e/c989170124b5efa55bec1eb4177ac1ed

切磋琢磨する真空管アンプたち
2020年12月24日
https://blog.goo.ne.jp/jbltakashi/e/fea2d309babb9061769e8eb836163801


お待たせしました〜。前々回のオーディオ仲間との「真空管アンプ試聴会」の続きです。

「6AR6=6098シングルアンプ」の次は「PX25シングル」アンプの登場。

このアンプを購入してからもう25年ぐらいになるだろうか。どこかかしこに不満が出てくるし、己の使いこなしの未熟さも手伝うしで、専門家に改造をお願いすること延べ4回くらいにはなる。

今のところ落ち着いているが、基本的には「インターステージトランス」(UTCのA19)の性能に不足はないものの、もっと容量が増えたら「ベター」といったところかな。

球の構成のうち大切な整流管は「WE422A」(1958年製)を奮発し、出力管は英国製の「PX25」(ナス管)だが、音のいい3極管型の出力管として10年ほど前はアメリカの「WE300B」と並び称されていたほどだが、近年ではお値段的に「WE300B」の後塵を拝するようになった。

どうして人気が凋落したのかはよく分からないが、音質的に引けは取らないと思うものの「丈夫さ」の点では明らかに「WE300B」の方に軍配が上がるのでそのせいかな。

いずれにしても比較的リーズナブルなお値段で手に入れやすくなったのは喜ぶべきこと。

ちなみに、このPX25の上級管として「PP5/400」(英国マツダ:初期版)も持っているが、現在のインターステージトランスでは役不足「?」と大切に待機保存中である。

このアンプも前段管(ドライバー管)次第でくるくる音が変わる。これまで常用していたのはやや低音域に比重を置いた「GSXー112」(アメリカ:トリタンフィラメント)だったが、今回のテストでは中高音域にメリハリのある「3A/109B」(STC:画像左)に代えてみた。

すると、これが大当たり!

オーディオ仲間のYさんが「これならいつも聴かせてもらっているWE300Bアンプとそれほど遜色がありませんよ!とても瑞々しい音です。」

「STC」の優秀さはもちろんだが、おそらくプリアンプ(マランツ7型:3本の球はいずれもBRIMARの12AX7)との相性やRCAケーブルとSPケーブル(いずれもLAN素材)との相乗効果ということになるのだろう。

関係の方々に感謝です!

そして最後に登場したのは、真打の「WE300Bシングル」アンプ。

球の構成は整流管に「4274A」(STC)、前段管は71A(レイセオン)、出力管は「WE300B」(1988年製)のラインアップ。

そして各真空管の「ヒーター回路」は別々になっているのがミソ。

トランス類は入力トランスが「HAー100X」(UTC)、インターステージトランスは「HA-106」(UTC)、出力トランスは個人の手巻きによるもの。

そして、シャーシは「漏れ磁界」に強い厚さ2mmの銅板を使っている。

「300Bアンプはインターステージトランスに何を使うかで勝負が決まります」とは「北国の真空管博士」の弁だが、その点、我が家の「HA-106」は理想的な逸品だそうだ。ただし、オークションにもめったに出ないしもう入手するのは無理とのこと。

したがって、万一「インター・・」が断線したらこのアンプは価値が半減するので毎日がヒヤヒヤの連続である(笑)。

今回の試聴会も相変わらず信頼に応えてくれた。

「とても端正な音の一言に尽きますね。PX25アンプよりも音像が一段とシャープになって焦点(フォーカス)がピタリと決まる感じです。音の粒立ちも素晴らしいし、これはもう完璧な音ですよ!」と仲間。

何だか自慢話みたいになってしまったが、「ありのまま」を記載しているのでどうかお許しを(笑)。

さて、この原稿を書いている時点でこの試聴会から1週間以上経っているのだが、毎日出番となっているのは「PX25」アンプの方である。

さすがに「WE300Bアンプ」は何だか勿体なくてなかなか使う気になれない。

つくづく「貧乏性」だねえ(笑)。

そして、最後になるが現在仲間からお借りしている「EL34プッシュプル」アンプ。

低音域(150ヘルツ以下)再生の専用アンプとしてもう2週間ほど使っているが、お値段も大したことがないし使用されている真空管も近代管だし、そのうち何らかの破綻を見せることだろうと悠長に構えていたらどうして、どうして・・。

ちょっと欲が出てきて、ありふれた電源ケーブルを手持ちの「キンバー」ケーブルに交換したらすぐに耳ざとい仲間が気が付いた。

「アレッ、音に締まりが出てきました。何か代えませんでしたか?」

ギャフン!

それにしても、低音域専用だけなら近代管でも十分いけそう。言い換えると、古典管の持ち味というのは中高音域にあるようですよ。

https://blog.goo.ne.jp/jbltakashi/e/fea2d309babb9061769e8eb836163801
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/415.html#c5

[リバイバル3] 真空管アンプについての よく有る誤解 中川隆
19. 中川隆[-8963] koaQ7Jey 2020年12月25日 11:25:54 : FSuacswpLw : YmxBMnM2QW1TUC4=[11]
「音楽&オーディオ」の小部屋
高級外車と真空管アンプ 2020年12月20日
https://blog.goo.ne.jp/jbltakashi/e/c989170124b5efa55bec1eb4177ac1ed


「久しぶりに真空管アンプのヒアリングテストを行いますのでお見えになりませんか?」とのお誘いに乗って駆けつけてくれた近くにお住いのYさん。

相変わらず我が家のオーディオ実験の実例になるが、なぜこういう話を公開するかというとオーディオはまだ未解明な部分が多いことに尽きる。

結局、個々のオーディオ環境にとってあまりにも「変数」が多すぎるので理論もさることながら、やむなく実験に頼らざるを得ないのが実情です。

つまり、実際にやってみなくちゃ分からん(笑)。

そこで、我が家の実例を通じて「場数=疑似体験」を踏んでいただき、少しでもご参考にしていただければという願いと観点から記録をしたためています。ただし、真に受けられても困りますので適当に取捨選択してくださいね。

それでは、前提としてテストの概要を述べておこう。

まず、スピーカーの構成だがこのブログの恒常的な読者なら先刻ご承知のはずなので「今さらくどい」とお叱りを受けそうだが、初見の方がいらっしゃる可能性もあるので念のため。

フルレンジ → 「スーパー10」(ワーフェデール:口径25センチ・赤帯マグネット)

ツィーター → 「075」ツィーター(JBL:シンバル再生用としてマイカコンデンサーでローカット)

サブウーファー → 「スーパー12」(ワーフェデール:口径30センチ・赤帯マグネット)イン・ウェストミンスター

ムンドルフ(ドイツ)の「ゼロ抵抗コイル」(6.8+8.2=15mh)を用いて150ヘルツ(−6db/oct)でハイカット

このスピーカーのうち「150ヘルツ以下」を「EL34プッシュプル」(借用中)で駆動し、フルレンジ部分に限って3台の真空管アンプでヒアリングテストしようという魂胆である。

最初に登場するのは「6AR6=6098」シングルアンプの登場。

2年ほど前に手に入れたアンプで出力管は「6AR6=6098」(この球は初期版に限る)である。GT管とはいえ、素性を辿るとアメリカ軍のレーダー用に使用されていた由緒ある「WE350B」に行き着くのだから出自がたいへんよろしい。

これは5極管だが「3極管接続」にすると、あの英国の銘管「PX4=PP3/250」そっくりの周波数曲線になるというのが魅力。

初段管は「CV569=ECC35=6SL7」(STC)を使用。ボリューム部分は「クラロスタット型」に変更している。

そして、Yさんのご感想は次のとおり。

「とてもスッキリとしていて抜けがいい音ですね。昔あった”スカッと爽やかコカ・コーラ”という言葉を思い出しました。ただ、クラシックの場合はもっと響きが欲しい気がしますね。

TRアンプの再生音がこういった感じです。アッ、そうそう低音域は別にして我が家の「マーク・レヴィンソン」の音とそっくりですよ。お値段からしたら大したものですね」

「このアンプは響きが少ない分、解像力の良さが売り物です。ピアノでいえばヤマハとスタンウェイの差ですかね。しかし、AXIOM80を鳴らすと不思議なことに細身同士での相乗効果といいますか、そこはかとない色気が出てくるので重宝してます。この大型システムには相性がイマイチみたいですかね〜」

以下、続く。
https://blog.goo.ne.jp/jbltakashi/e/c989170124b5efa55bec1eb4177ac1ed

切磋琢磨する真空管アンプたち
2020年12月24日
https://blog.goo.ne.jp/jbltakashi/e/fea2d309babb9061769e8eb836163801


お待たせしました〜。前々回のオーディオ仲間との「真空管アンプ試聴会」の続きです。

「6AR6=6098シングルアンプ」の次は「PX25シングル」アンプの登場。

このアンプを購入してからもう25年ぐらいになるだろうか。どこかかしこに不満が出てくるし、己の使いこなしの未熟さも手伝うしで、専門家に改造をお願いすること延べ4回くらいにはなる。

今のところ落ち着いているが、基本的には「インターステージトランス」(UTCのA19)の性能に不足はないものの、もっと容量が増えたら「ベター」といったところかな。

球の構成のうち大切な整流管は「WE422A」(1958年製)を奮発し、出力管は英国製の「PX25」(ナス管)だが、音のいい3極管型の出力管として10年ほど前はアメリカの「WE300B」と並び称されていたほどだが、近年ではお値段的に「WE300B」の後塵を拝するようになった。

どうして人気が凋落したのかはよく分からないが、音質的に引けは取らないと思うものの「丈夫さ」の点では明らかに「WE300B」の方に軍配が上がるのでそのせいかな。

いずれにしても比較的リーズナブルなお値段で手に入れやすくなったのは喜ぶべきこと。

ちなみに、このPX25の上級管として「PP5/400」(英国マツダ:初期版)も持っているが、現在のインターステージトランスでは役不足「?」と大切に待機保存中である。

このアンプも前段管(ドライバー管)次第でくるくる音が変わる。これまで常用していたのはやや低音域に比重を置いた「GSXー112」(アメリカ:トリタンフィラメント)だったが、今回のテストでは中高音域にメリハリのある「3A/109B」(STC:画像左)に代えてみた。

すると、これが大当たり!

オーディオ仲間のYさんが「これならいつも聴かせてもらっているWE300Bアンプとそれほど遜色がありませんよ!とても瑞々しい音です。」

「STC」の優秀さはもちろんだが、おそらくプリアンプ(マランツ7型:3本の球はいずれもBRIMARの12AX7)との相性やRCAケーブルとSPケーブル(いずれもLAN素材)との相乗効果ということになるのだろう。

関係の方々に感謝です!

そして最後に登場したのは、真打の「WE300Bシングル」アンプ。

球の構成は整流管に「4274A」(STC)、前段管は71A(レイセオン)、出力管は「WE300B」(1988年製)のラインアップ。

そして各真空管の「ヒーター回路」は別々になっているのがミソ。

トランス類は入力トランスが「HAー100X」(UTC)、インターステージトランスは「HA-106」(UTC)、出力トランスは個人の手巻きによるもの。

そして、シャーシは「漏れ磁界」に強い厚さ2mmの銅板を使っている。

「300Bアンプはインターステージトランスに何を使うかで勝負が決まります」とは「北国の真空管博士」の弁だが、その点、我が家の「HA-106」は理想的な逸品だそうだ。ただし、オークションにもめったに出ないしもう入手するのは無理とのこと。

したがって、万一「インター・・」が断線したらこのアンプは価値が半減するので毎日がヒヤヒヤの連続である(笑)。

今回の試聴会も相変わらず信頼に応えてくれた。

「とても端正な音の一言に尽きますね。PX25アンプよりも音像が一段とシャープになって焦点(フォーカス)がピタリと決まる感じです。音の粒立ちも素晴らしいし、これはもう完璧な音ですよ!」と仲間。

何だか自慢話みたいになってしまったが、「ありのまま」を記載しているのでどうかお許しを(笑)。

さて、この原稿を書いている時点でこの試聴会から1週間以上経っているのだが、毎日出番となっているのは「PX25」アンプの方である。

さすがに「WE300Bアンプ」は何だか勿体なくてなかなか使う気になれない。

つくづく「貧乏性」だねえ(笑)。

そして、最後になるが現在仲間からお借りしている「EL34プッシュプル」アンプ。

低音域(150ヘルツ以下)再生の専用アンプとしてもう2週間ほど使っているが、お値段も大したことがないし使用されている真空管も近代管だし、そのうち何らかの破綻を見せることだろうと悠長に構えていたらどうして、どうして・・。

ちょっと欲が出てきて、ありふれた電源ケーブルを手持ちの「キンバー」ケーブルに交換したらすぐに耳ざとい仲間が気が付いた。

「アレッ、音に締まりが出てきました。何か代えませんでしたか?」

ギャフン!

それにしても、低音域専用だけなら近代管でも十分いけそう。言い換えると、古典管の持ち味というのは中高音域にあるようですよ。

https://blog.goo.ne.jp/jbltakashi/e/fea2d309babb9061769e8eb836163801
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/923.html#c19

[近代史4] 真空管アンプの世界 中川隆
14. 中川隆[-8962] koaQ7Jey 2020年12月25日 11:26:44 : FSuacswpLw : YmxBMnM2QW1TUC4=[12]
「音楽&オーディオ」の小部屋
高級外車と真空管アンプ 2020年12月20日
https://blog.goo.ne.jp/jbltakashi/e/c989170124b5efa55bec1eb4177ac1ed


「久しぶりに真空管アンプのヒアリングテストを行いますのでお見えになりませんか?」とのお誘いに乗って駆けつけてくれた近くにお住いのYさん。

相変わらず我が家のオーディオ実験の実例になるが、なぜこういう話を公開するかというとオーディオはまだ未解明な部分が多いことに尽きる。

結局、個々のオーディオ環境にとってあまりにも「変数」が多すぎるので理論もさることながら、やむなく実験に頼らざるを得ないのが実情です。

つまり、実際にやってみなくちゃ分からん(笑)。

そこで、我が家の実例を通じて「場数=疑似体験」を踏んでいただき、少しでもご参考にしていただければという願いと観点から記録をしたためています。ただし、真に受けられても困りますので適当に取捨選択してくださいね。

それでは、前提としてテストの概要を述べておこう。

まず、スピーカーの構成だがこのブログの恒常的な読者なら先刻ご承知のはずなので「今さらくどい」とお叱りを受けそうだが、初見の方がいらっしゃる可能性もあるので念のため。

フルレンジ → 「スーパー10」(ワーフェデール:口径25センチ・赤帯マグネット)

ツィーター → 「075」ツィーター(JBL:シンバル再生用としてマイカコンデンサーでローカット)

サブウーファー → 「スーパー12」(ワーフェデール:口径30センチ・赤帯マグネット)イン・ウェストミンスター

ムンドルフ(ドイツ)の「ゼロ抵抗コイル」(6.8+8.2=15mh)を用いて150ヘルツ(−6db/oct)でハイカット

このスピーカーのうち「150ヘルツ以下」を「EL34プッシュプル」(借用中)で駆動し、フルレンジ部分に限って3台の真空管アンプでヒアリングテストしようという魂胆である。

最初に登場するのは「6AR6=6098」シングルアンプの登場。

2年ほど前に手に入れたアンプで出力管は「6AR6=6098」(この球は初期版に限る)である。GT管とはいえ、素性を辿るとアメリカ軍のレーダー用に使用されていた由緒ある「WE350B」に行き着くのだから出自がたいへんよろしい。

これは5極管だが「3極管接続」にすると、あの英国の銘管「PX4=PP3/250」そっくりの周波数曲線になるというのが魅力。

初段管は「CV569=ECC35=6SL7」(STC)を使用。ボリューム部分は「クラロスタット型」に変更している。

そして、Yさんのご感想は次のとおり。

「とてもスッキリとしていて抜けがいい音ですね。昔あった”スカッと爽やかコカ・コーラ”という言葉を思い出しました。ただ、クラシックの場合はもっと響きが欲しい気がしますね。

TRアンプの再生音がこういった感じです。アッ、そうそう低音域は別にして我が家の「マーク・レヴィンソン」の音とそっくりですよ。お値段からしたら大したものですね」

「このアンプは響きが少ない分、解像力の良さが売り物です。ピアノでいえばヤマハとスタンウェイの差ですかね。しかし、AXIOM80を鳴らすと不思議なことに細身同士での相乗効果といいますか、そこはかとない色気が出てくるので重宝してます。この大型システムには相性がイマイチみたいですかね〜」

以下、続く。
https://blog.goo.ne.jp/jbltakashi/e/c989170124b5efa55bec1eb4177ac1ed

切磋琢磨する真空管アンプたち
2020年12月24日
https://blog.goo.ne.jp/jbltakashi/e/fea2d309babb9061769e8eb836163801


お待たせしました〜。前々回のオーディオ仲間との「真空管アンプ試聴会」の続きです。

「6AR6=6098シングルアンプ」の次は「PX25シングル」アンプの登場。

このアンプを購入してからもう25年ぐらいになるだろうか。どこかかしこに不満が出てくるし、己の使いこなしの未熟さも手伝うしで、専門家に改造をお願いすること延べ4回くらいにはなる。

今のところ落ち着いているが、基本的には「インターステージトランス」(UTCのA19)の性能に不足はないものの、もっと容量が増えたら「ベター」といったところかな。

球の構成のうち大切な整流管は「WE422A」(1958年製)を奮発し、出力管は英国製の「PX25」(ナス管)だが、音のいい3極管型の出力管として10年ほど前はアメリカの「WE300B」と並び称されていたほどだが、近年ではお値段的に「WE300B」の後塵を拝するようになった。

どうして人気が凋落したのかはよく分からないが、音質的に引けは取らないと思うものの「丈夫さ」の点では明らかに「WE300B」の方に軍配が上がるのでそのせいかな。

いずれにしても比較的リーズナブルなお値段で手に入れやすくなったのは喜ぶべきこと。

ちなみに、このPX25の上級管として「PP5/400」(英国マツダ:初期版)も持っているが、現在のインターステージトランスでは役不足「?」と大切に待機保存中である。

このアンプも前段管(ドライバー管)次第でくるくる音が変わる。これまで常用していたのはやや低音域に比重を置いた「GSXー112」(アメリカ:トリタンフィラメント)だったが、今回のテストでは中高音域にメリハリのある「3A/109B」(STC:画像左)に代えてみた。

すると、これが大当たり!

オーディオ仲間のYさんが「これならいつも聴かせてもらっているWE300Bアンプとそれほど遜色がありませんよ!とても瑞々しい音です。」

「STC」の優秀さはもちろんだが、おそらくプリアンプ(マランツ7型:3本の球はいずれもBRIMARの12AX7)との相性やRCAケーブルとSPケーブル(いずれもLAN素材)との相乗効果ということになるのだろう。

関係の方々に感謝です!

そして最後に登場したのは、真打の「WE300Bシングル」アンプ。

球の構成は整流管に「4274A」(STC)、前段管は71A(レイセオン)、出力管は「WE300B」(1988年製)のラインアップ。

そして各真空管の「ヒーター回路」は別々になっているのがミソ。

トランス類は入力トランスが「HAー100X」(UTC)、インターステージトランスは「HA-106」(UTC)、出力トランスは個人の手巻きによるもの。

そして、シャーシは「漏れ磁界」に強い厚さ2mmの銅板を使っている。

「300Bアンプはインターステージトランスに何を使うかで勝負が決まります」とは「北国の真空管博士」の弁だが、その点、我が家の「HA-106」は理想的な逸品だそうだ。ただし、オークションにもめったに出ないしもう入手するのは無理とのこと。

したがって、万一「インター・・」が断線したらこのアンプは価値が半減するので毎日がヒヤヒヤの連続である(笑)。

今回の試聴会も相変わらず信頼に応えてくれた。

「とても端正な音の一言に尽きますね。PX25アンプよりも音像が一段とシャープになって焦点(フォーカス)がピタリと決まる感じです。音の粒立ちも素晴らしいし、これはもう完璧な音ですよ!」と仲間。

何だか自慢話みたいになってしまったが、「ありのまま」を記載しているのでどうかお許しを(笑)。

さて、この原稿を書いている時点でこの試聴会から1週間以上経っているのだが、毎日出番となっているのは「PX25」アンプの方である。

さすがに「WE300Bアンプ」は何だか勿体なくてなかなか使う気になれない。

つくづく「貧乏性」だねえ(笑)。

そして、最後になるが現在仲間からお借りしている「EL34プッシュプル」アンプ。

低音域(150ヘルツ以下)再生の専用アンプとしてもう2週間ほど使っているが、お値段も大したことがないし使用されている真空管も近代管だし、そのうち何らかの破綻を見せることだろうと悠長に構えていたらどうして、どうして・・。

ちょっと欲が出てきて、ありふれた電源ケーブルを手持ちの「キンバー」ケーブルに交換したらすぐに耳ざとい仲間が気が付いた。

「アレッ、音に締まりが出てきました。何か代えませんでしたか?」

ギャフン!

それにしても、低音域専用だけなら近代管でも十分いけそう。言い換えると、古典管の持ち味というのは中高音域にあるようですよ。

https://blog.goo.ne.jp/jbltakashi/e/fea2d309babb9061769e8eb836163801
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/116.html#c14

[近代史4] 中川隆 _ 音楽史関係投稿リンク 中川隆
48. 2020年12月25日 13:25:09 : FSuacswpLw : YmxBMnM2QW1TUC4=[13]
アンドレイ・ガヴリーロフ名演集
http://www.asyura2.com/17/ban7/msg/906.html
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/102.html#c48
[近代史02] ディープが飛んだ _ 前代未聞、空前絶後の名馬 ディープインパクト_その強さの秘密 中川隆
7. 2020年12月25日 14:12:18 : FSuacswpLw : YmxBMnM2QW1TUC4=[14]
2020.12.24
C.ルメールが武豊、横山典弘らを全否定!? 「この馬のことをわかっていなかった」国民的英雄ディープインパクトを破った「伝説の有馬記念」を語る
https://biz-journal.jp/gj/2020/12/post_198700.html


「ケガも騎乗停止もなく、いい一年だった」

 今年を締めくくる有馬記念(G1)開催を残し、すでに4年連続のリーディングが決まっているC.ルメール騎手が『スポニチ』の取材にそう2020年を振り返った。

 残すは、すでに最多勝タイとなっている年間G1勝利記録8勝をどこまで伸ばせるか。週末のホープフルS(G1)、有馬記念を連勝すれば永久不滅級の10勝となる。

 そんな無双ぶりを遺憾なく発揮しているルメール騎手だが、実はかつて大舞台で「勝負弱い騎手」だったのをご存じだろうか。

 2002年にフランスのトップジョッキーとしてJRA初参戦を果たしたルメール騎手は、その前評判に違わず、瞬く間に日本のファンからも世界の名手として受け入れられた。しかし、その一方で肝心のG1レースでは連戦連敗……人気馬に騎乗する機会もあったが、9戦して5回も2着になるなど、大舞台で勝ち切れない印象があったのだ。

 そんなルメール騎手がイメージを一変させたのが、ルメール騎手にとってJRA・G1初制覇となった2005年の有馬記念だ。

「ハーツクライで勝った時は、ディープインパクトもいたし特別なレースになった」と今でも思い出に残るほどルメール騎手にとって“転機”となった一戦は、2017年にもJRAが企画したM.デムーロ騎手との「スペシャル対談企画」で振り返っている。

 当時、競馬界を代表するカリスマ武豊騎手とのコンビで、デビューからクラシック三冠を含む破竹の7連勝を上げ、その活躍が社会現象にもなったディープインパクト。レース当日の中山競馬場には、そんな「近代競馬の結晶」を一目見ようと16万2409人もの大観衆が詰めかけた。

 今回が古馬との初対決となるため単勝オッズこそ自己最高の1.3倍に留まったが、大多数の競馬ファンだけでなく、当時の有馬記念を特集するメディアさえも「ディープインパクトが勝つ」ことを信じて疑っていない空気が醸し出されていた。

 その一方でルメール騎手のハーツクライは、当時のルメール騎手と同じように「G1の壁」の前で、もがき続けていた。

 3歳春に京都新聞杯(G2)で重賞初勝利。続く日本ダービー(G1)では2着に好走し、秋の菊花賞(G1)では1番人気に支持されたハーツクライ。「いずれG1を勝てる」と期待された素質馬だった。

 だがその後、宝塚記念(G1)とジャパンC(G1)で2着するも、G1どころか勝利さえ上げることなく4歳秋を迎える。そんなあと一歩足りない悩める素質馬の”再建”を託されたのがルメール騎手だった。

 コンビ初戦となった秋の天皇賞、ジャパンCと共に2番人気に推されながら、勝ち切ることができなかったハーツクライとルメール騎手。特にジャパンCでは自身もレコードタイムで駆け抜けているにもかかわらず、英国のアルカセットにハナ差だけ及ばない悔しい敗戦となっていた。

 そんな中で迎えた年末の有馬記念。対談の中でルメール騎手が「有馬記念を観に来たお客さんは、みんな三冠馬ディープインパクトを応援していました」と語ったように、状況はまさにディープインパクト一色。ハーツクライは4番人気ながら単勝は17.1倍と、やはり”脇役”の域を出ない1頭だった。

 ただ、その一方でルメール騎手は意外な発言をしている。

 当時、まだ負けなしと無双状態だったディープインパクトに対して「もちろん勝てる自信はあった」と発言。逆に周囲がディープインパクト一色であったため、それで「少し不安だった」というのだ。

 その自信の根拠は、当時を知る競馬ファンなら誰もが記憶しているであろう斬新な戦略にあった。

 これまで後方から、上がり最速を記録すること7回。強烈な末脚を身上としていた”キレ者”ハーツクライが、まさかの先行策を取ったのだ。

 結果的に、これが無敗の英雄ディープインパクトに国内唯一の土をつけることになるのだが、この作戦は事前に考えられていたのかという質問に、ルメール騎手は「イエス」と答えている。

「天皇賞・秋、ジャパンCでの騎乗は間違っていた。馬のことをわかってあげられなかったんだと思います。そこで有馬記念で勝つには、好位につける競馬でいこうと考えたんです」

 そう自らの騎乗を否定してまで決意した積極策。それは同時に、安藤勝己元騎手や横山典弘騎手、そして武豊騎手など名立たる名手が築き上げたハーツクライのこれまでのキャリアをも否定する斬新な発想だった。

「スタートから出していったんですが、上手く応えてくれました。ハーツクライはストライドの大きいパワフルな馬ですが、加速するまでに時間が掛かる。その点を考慮して、好位につけ、4コーナーから仕掛けていこうと思っていました」

 如何に斬新であろうとも、競馬は結果がすべて。会心の先行策により、見事ディープインパクトの猛追を振り切ったハーツクライ。人馬共に初のG1制覇を飾り、己の正当性を証明したルメール騎手の騎乗は「天才的」と最大級の賛辞を浴びた。

「身体の内から爆発するような嬉しさでした。日本で初めてG1を勝った喜びもありました。戦略が上手くハマった気持ち良さ、色んな感情が湧いてきました」

 そして、この先行策こそがハーツクライにとって最も力を発揮できるスタイルであることを、ルメール騎手は翌年のキャリアで証明している。


 春に遠征したドバイシーマクラシック(G1)では、香港ヴァーズなどG1・3勝を上げるコリアーヒルなどの強豪に対し、最後の直線で一方的に突き放す4馬身半差の圧勝。さらに特筆すべきは、次走のキングジョージ6世&QES(G1)での激走だ。

 6頭立てとなった春の欧州最強馬決定戦で、ハーツクライは凱旋門賞馬ハリケーンランと、ドバイワールドカップ(G1)の勝ち馬エレクトロキューショニストという、当時の世界王者2頭と堂々の戦いを披露。

 激しい叩き合いの末に僅差の3着に敗れたが、その年3連勝を飾り、秋には日本を代表して凱旋門賞に出走することが決まっていたディープインパクトを差し置いて「ハーツクライこそが現役最強」と語る人も決して少なくはないほどの評価を受けていた。

 結局、ハーツクライはその後にノド鳴りの症状が発覚し、その年のジャパンCを最後に引退。引退レースではディープインパクトに借りを返された格好となったが、この2頭は現在でも日本を代表する種牡馬として、数多くの大レースで鍔迫り合いを演じている。

 最後にハーツクライに対して「日本で最初にできた恋人」と語ったルメール騎手。今年は騎手人生に残る恋人アーモンドアイで、再びコントレイル、デアリングタクトという無敗三冠馬を撃破。まさに歴史は繰り返された。

http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/408.html#c7

[近代史5] シャーマニズムの世界 中川隆
9. 中川隆[-8961] koaQ7Jey 2020年12月25日 14:26:48 : FSuacswpLw : YmxBMnM2QW1TUC4=[15]
日本の中の朝鮮をゆく 飛鳥・奈良編――飛鳥の原に百済の花が咲きました
2015/2/27 兪 弘濬 (著), 橋本 繁 (翻訳)
https://www.amazon.co.jp/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E4%B8%AD%E3%81%AE%E6%9C%9D%E9%AE%AE%E3%82%92%E3%82%86%E3%81%8F-%E9%A3%9B%E9%B3%A5%E3%83%BB%E5%A5%88%E8%89%AF%E7%B7%A8%E2%80%95%E2%80%95%E9%A3%9B%E9%B3%A5%E3%81%AE%E5%8E%9F%E3%81%AB%E7%99%BE%E6%B8%88%E3%81%AE%E8%8A%B1%E3%81%8C%E5%92%B2%E3%81%8D%E3%81%BE%E3%81%97%E3%81%9F-%E5%85%AA-%E5%BC%98%E6%BF%AC/dp/4000610244

@ 渡来人の故郷、飛鳥

飛鳥と奈良は、日本の中の朝鮮文化を探す旅の核心であり、日本古代文化のハイライトだ。
日本が古代国家に発展する全過程が飛鳥に残っており、彼らがあれほどまでに望んだ古代国家をついに誕生させた場所が奈良である。
飛鳥に行けば韓国の扶余〔百済の都〕が思い浮かび、奈良の古寺を見れば慶州〔新羅の都〕を連想する。

五世紀に加耶から渡った渡来人が日本に鉄と馬そして加耶の土器文化を伝えたことは、「近つ飛鳥」に確かに残っており、
六世紀の百済から渡っていった渡来人の足跡は、飛鳥ではっきりと見ることができる。
百済王室との交流を通じて仏教と文字を受け入れてついに律令国家となる過程を、石舞台、橘寺、飛鳥寺で見ることになる。

韓国人にもよく知られる高松塚古墳壁画を見ると、高句麗文化の影響力がどれほど長く残っていたのかを痛感する。
日本の古代社会に朝鮮半島からの渡来人が残した文化的結実は、飛鳥の北面にある法隆寺に集約的に見られる。
法隆寺は、日本古代文化の精華であると同時に、朝鮮半島では見ることのできない百済の建築と彫刻の姿を見せてくれる。

七一〇年、平城京に遷都すると同時に始まった奈良時代は、日本古代文化の頂点であった。
薬師寺の東塔、興福寺の仏像彫刻、東大寺の大仏、唐招提寺の彫像彫刻は、日本古代国家の爛熟と栄光を誇る。
この頃になると日本は、朝鮮半島の影響から離れて唐文化に直接接するとともに、より国際的な文化となっていく。
それは、統一新羅の文化と似ていながら異なる、日本文化独自の姿であった。

我々韓国人は、東アジアの一員として、隣国日本のこうした文化的成功を評価することにためらう理由はない。
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/436.html#c9

[近代史5] シャーマニズムの世界 中川隆
10. 中川隆[-8960] koaQ7Jey 2020年12月25日 14:32:15 : FSuacswpLw : YmxBMnM2QW1TUC4=[16]
日本の中の朝鮮をゆく 飛鳥・奈良編――飛鳥の原に百済の花が咲きました
レビュー 赤尖晶石 5つ星のうち4.0
筆者の専門分野での記述は素晴らしかったが・・・
2015年5月11日

『筆者の専門分野での記述は素晴らしかったが・・・』

仏教美術を中心に日本古来の芸術の特徴や日本人の考え方と、朝鮮の文化や韓国人の考え方とを対比させて論説する文体は、谷崎潤一郎の随筆『陰翳礼讃』を連想させる。特に筆者が専門とする美術史に関する部分は文章が生きており、人を引き付ける力がある。

この筆勢が全編貫かれていれば★5つでしょう。しかし他の部分があまりにも内容が乏しく正確さに欠けるので、本来★3つですが、九州編に比べ日韓の主張を両論併記しようと心掛けている部分も増え、良くなっている部分もあり、おまけして★4つにしました。

(韓国人が読めば全編に渡り『自尊心』を刺激されて、きっと★5つでしょう)

 筆のすべりが過ぎて、史料の確認が出来ていないところもある。例えば同行した金教授の説明と、ことわりが入れてあるが「東大寺転害門(大門)の一方の空いた空間に瑪瑙で作った臼があったからと、『七大寺巡礼私記』という古記録を資料名だけ引用して、内容も無く長々と、しかも勘違いして記述しているようだ・・・これは勘弁してほしい。

この部分は七大寺日記(1106年頃)及び七大寺巡礼私記(1140年頃)そのままに、西面大垣三門、北端門碾磑御門(七大寺日記)・・・碾磑亭一宇、七間瓦屋、置碾磑、件亭在於講堂東食堂之北、其亭内置石唐臼、是云碾磑、以馬瑙造之、其色白(七大寺巡礼私記)「西面の大垣に三門あり、北端の門を輾磑御門と云う・・・碾磑亭という七間、瓦葺き一棟があり、碾磑が置かれている。この建物は講堂(大仏殿の北に位置し、1180年に「平重衡の兵火」で焼失)の東にある食堂の北(講堂の北東、碾磑門のはるか東)にあり、中に石の唐臼が置かれているが、これを碾磑といい、瑪瑙で出来ていて、白色である」と巡礼私記等の具体的で正確な内容をそのまま書いてほしかった。私の考えすぎでしょうか、原文の内容を書かなかったのは・・・唐臼とあったから高句麗の臼ではないのではと、この教授は考えてしまったのではないかと・・・日本語の『唐臼』は、目を刻った石臼のことだのに?

  碾磑亭は現在の龍蔵院付近である。この部分は、後段に筆者が記述している日本書紀610年の記録『高句麗の僧曇徴』を説明する為の導入部分であるが、日本書紀の現代語訳も間違いがあるし、日本人の読む書物に専門外のことには手を出さない方が良いと私は思った。転害門(碾磑御門)の近所で、瑪瑙の碾磑の設置場所の写真なんか撮れないでしょう・・・漢文が読めてないのでしょう。

それと、3年程前に『食堂』跡の遺跡の井戸から巨大な唐臼の破片が出土していますよ・・転害門から相当離れた東側ですが。

 また東大寺正倉院の建築様式が高句麗の桴京だと強弁しているが、徳興里壁画古墳の玄室の絵画でも、井桁組と分かる麻線溝一号墳壁画でも、八清里古墳でも、高床式で屋根が付いていて横木組であるということは分かるが、それ以上の情報は無い。その程度のものなら、時代の古い弥生時代遺跡の穀物倉庫(登呂遺跡。平板を井籠組)にある。正倉院は井籠組の一種の校倉組で、大きな三角形の長尺材を使う甲倉であり、建築が困難な一棟三倉構造をしており、創意と工夫にあふれた巨大な建造物だ。甲倉造りは丸太造りに比べ強度に優れ、丸太では、正倉院の大きさの米倉は建造出来ない。丸木の校倉造は世界各地にあるが、甲倉は日本にしかない日本人の発明であり、稲穀を蓄える巨大な米櫃である。

 正倉の名称、倉庫令、倉の位置の名称は、唐の律令制を手本にしていることから、大和朝廷は唐の正倉に匹敵する堂々たる倉の建築を決めて採用したのが甲倉造りだったのであろう。校倉造りの甲倉の米の収容能力は、校倉造り丸木倉の実に3倍から4倍(斛の記録ではなく正倉の実測値)に達している。

では桴京とは何か?・・・三国志『高句麗伝』無大倉庫、家家自有小倉、名之為桴京。私流に訳すと「大きな倉庫は無く、家には自家用の小さな倉があり、これを名付けて『桴京』という」・・・根拠は壁画とこれだけ。私は話にならないと思った。高床式建物は確かに北方系建築様式でもあり、北方系のアムール川流域の古アジア系民族の夏小屋(冬小屋はアイヌの寒冷地の穴式住居に似る)で校倉式木組みを伴なっている。高句麗の桴京は、北方少数民族と共通で、古アジア系建築様式をルーツにしている小規模な穀物倉で、収容物は米穀より軽い粟等の雑穀や干肉であろう。

  一方南方系の記録は漢時代の貴州と雲南省で、高床式で丸木と推定される校倉造りである。また日本の神社の建築様式には、南方系の高床式と少数民族の屋根組みがみられることから日本には北からも南からも高床式で校倉造りの建築様式は流入する可能性があり、私は、即断は避けるべきであると考える。

 そもそも日本人男性のDNA・Y染色体分布をみると、一番多いのは縄文系のD2遺伝子で、僅差で2番目に多い遺伝子は弥生系のO2b1で、シェアは日本が最大、中国江南が出自の遺伝子とされている。

また日本人の半数が江南出身である証拠は、アルデヒド分解遺伝子の欠如でも証明されている。(日本の場合、残る半数は縄文系でお酒に強い、その代表は日本美人の産地秋田県と南国鹿児島県)

この遺伝子は、突然変異で発生したが、その場所は中国江南であり、世界で一番この酒に弱い遺伝子を持っているのは、日本人で、その日本で弱い遺伝子を持つ人は、近畿・中部・瀬戸内に多い(一番弱いのは三重県、次は愛知県)。余談だが、韓国人はアジア人の中でも酒に強いグループで、『酒に弱い弥生先祖人』とは大きく異なって北方系と華北系が主流であり、飛鳥や奈良の原住民とは関係が薄いということが分かる。筆者ご自慢の青銅器の流入も北から、朝鮮を支配し当時から世界一の製鉄技術を持っていた漢も北から、百済と新羅を圧迫した高句麗も北から・・朝鮮半島の皆さんは、ことごとく酒に強い北方系の人達だ。

この日本の酒に弱い人達は、縄文時代末期から弥生初期に、大陸から直接、稲と、鉄器と、四眠蚕と、潜水漁法(あわび起し)を日本に持ち込んだことが、学術的に分かっている。日本最古の鉄器は中国製だし、日本の史跡出土の、主要なジャポニカ米の遺伝子は朝鮮の遺跡の炭化米には無い。飛鳥・奈良を中心とする大和王権の地に住む人々は、五七五の和歌の旋律を天皇から庶民まで楽しみ、鵜飼の行事とともに歌会始(歌御会)は、現代まで続く宮中行事となっている。漢語がベースの時調のようなものは宮廷行事には当然無い。

当然高床式の穀物倉庫も江南から直接持ち込まれた可能性が強く残る。ちなみに農具の馬鍬も江南の水田稲作民が持ち込んだと推測されている。弥生祖先人は半農半漁民で稲作と鍛冶技術を呉越の地から持って来たようだ。

  朝鮮半島からの帰化人=今来の渡来民を受け入れたのは、心優しい縄文人と江南からの渡来民(弥生祖先人)が平和裏に混交し人口を増やした弥生人の末裔であり、日本は韓国人が作ったという筆者の強く熱い思いを踏みにじるようで申し訳ないが、朝鮮系は少数派ですね。当然、ASUKA(飛鳥、明日香)も韓国語ではなく、大和言葉で十分説明出来ます。藤村由加氏と同じレベルのエピソードを長々と書かれても、多くの日本人は馬鹿馬鹿しく思い、ついていけないだろう。

 
  筆者は、三国志魏志東夷伝の記述を次のように書いている「金海で製造された鉄が楽浪、ワイ(さんずいに歳)、倭に輸出された」と、続けて次のように解説している「当時、倭は鉄を生産する技術がなかった。そのため、加那と倭は、同盟以上の親密な関係だった」これは、漢文を読めていないか、読めているとしたら悪意の誤訳である可能性がある。

 では『三国志魏書』弁辰伝・・國出鐵、韓、ワイ、倭皆從取之。諸巿買皆用鐵、如中國用錢、又以供給二郡。・・『三国志』魏志弁辰(弁韓辰韓)伝にも、国は鉄を産出し、韓人、ワイ人、倭人など皆、これを(辰韓の)許可を得て取りに来る。諸貨の売買には皆、鉄を用いる。中国で金銭を用いるがごとくであり、また(楽浪、帯方の)二郡に供給する。

 少し解説すると、古代加那の製鉄遺跡は出土していないが、製鉄法は「たたら製鉄」で原料は砂鉄だとされている。日本人技術者の分析によると、この地域の砂鉄は日本の砂鉄に比べ不純物が大変少なく良質である。私は、この「たたら製鉄」は、『野たたら』だとすると矛盾は無いと考える。

朝鮮半島にも近代まで野タタラ製鉄の技術が残っていたが、記録によると・・・明治42年、朝鮮咸鏡北道富寧の南東にある抄河洞の輪域川の河原で、極めて原始的な製鉄現場が確認された。その方法は、河原に乾いた砂鉄を60p積み、その上に大量の薪を乗せ、一夜燃やし続けて翌日に鉄塊を拾い集める方法だった(京城の加藤灌覚氏の実見談)。最も原始的な製鉄法である。弁韓・辰韓・新羅で製鉄の伝統を持つ国の話である・・・と、まとめられている。スピネル構造の鉄酸化物である磁鉄鉱が主成分の砂鉄を還元する木炭の記述が無く、時間も短いのも不思議だが、面白い実見談である。

  筆者は、日本人の考え方「朝鮮半島はストローのように技術や文物を日本に伝えただけ」を痛烈に批判しているが、同じたたら製鉄でも日本では技術が大いに発達し、朝鮮半島ではそのまま技術が発達しない原始的野たたらが残る、私はこのような実例によってストロー論が実証されているのだと思った。

  何れにせよ、この原始的製鉄法ならば、製鉄遺跡は残らないし、『皆、許可を得て取りに来る』という表現にも納得出来る。このような倭人の原始的製鉄法に繋がる技術的内容が読み取れる記述を、どうすれば単に輸出と表現出来るのか、私は筆者の見識を疑いたい。

  また『金海で製造された・・』と原文にない箇所をわざわざ挿入した訳は、近年、金海の遺跡から渡海可能な比較的大型の船が出土し『金海人が船で・・』というストーリーを考えたのだろうが、その後の分析で船体素材が杉と楠と分かって日本製の船であったことが分かっているのだが。船の他にも任那加羅の遺跡から出土したのは、古くは大量の弥生式土器、倭国の巴型青銅器、ヒスイ勾玉等遺物が多数、前方後円墳が14基ある。『輸出』の一語では片付けることは出来ない『加那と倭は、同盟以上の親密な関係だった』というのは、倭国の半島進出と支配を認めた言葉だったのかな???

 筆者は韓国の歴史学者の論を採用して、日本の教科書会社が『帰化人(渡来人)』と記載しているのを極右翼と非難しているが、単なる渡来民では、中国系や韓国系の人達は氏姓を称することも出来ないことを理解していない。投化(帰化)していないと戸籍に載らないし、租庸調の義務も生じないし、民を束ねる称号も得ることは無い。そもそも戸籍制度で最初に『王化の民』として戸籍に登録されたのは、帰化した秦氏、漢氏等で『秦人(はたひと)・漢人(あやひと)等、諸蕃(しょばん)より投化せる者を招集して、国群に安置し、戸籍に編貫す。秦人の戸数七千五十三戸、大蔵掾(おおくらのじょう)を以て、秦伴造(はたのとものみやつこ)となす」。』(日本書紀)とある。つまり弥生人の末裔より先に帰化民を優先登録したのだ。

その後、これらは制度化され、『化外人(帰化する前)』⇒『化内人(帰化人)』・・10年の据え置き期間・・⇒『調庸人(公民・平民)』⇒『天皇の民(王民)』となった。(賦役令)・・・後の時代には調庸人(海外の名)から王民(著名な氏姓)を得る為に活動する記録もある。

また筆者など韓国人は、統一王朝になる以前は帰化人ではないと詭弁を弄するが、そもそも中国で夷狄の帰化を含む中華思想が形成されたのは、周辺民族にまで「戦国の七雄」の支配が及び始めた戦国時代のことで、当然のこと統一国家ではない。
 単なる渡来人では、大和朝廷支配の日本では物乞いか夜盗になるしか無いのである。渡来なら日本に渡っただけで、朝鮮人・中国人のままなので、強制送還された渡来人の実例もあったが、帰化だと『申請手続き』が必須で、申請完了の場合、日本人になってしまう。帰化には特典も様々にあり、戸令四十四化外奴婢条には、『凡化外奴婢。自来投国者。悉放為良。即附籍貫。本主雖先来投国。亦不得認。・・・』つまり、朝鮮とか中国で、奴隷身分であっても、日本に帰化したら、良民(公民・平民)の身分で登録しますよ、渡来民のままなら奴婢のままですよ、帰化しなさいという勧誘制度ですね。実際、主従の渡来者のうち、最初に帰化した主人に従う奴婢も、帰化の申請を行って賎民から良民となっている。

  その結果、日本に来た様々な階層の渡来民は、帰化して身分差別の少ない日本人になって共に頑張って、日本という国を作った訳で、帰化人は渡来民と同義ではない。その後、韓国では奴婢身分は、『国家管理の性奴隷』を含め、人口の70%にも達したが、日本では、5%程度と元々少なかった奴婢だったが、非合理な奴隷制度は平安時代には廃止された。日本の国の品格は、日本型帰化制度の採用によって確立されたのですかね。日本の江戸後期の頃まで奴隷制度を1000年も長く維持していた国が経済発展する訳は無い。帰化を渡来と言い換えて、自尊心を満足して、『日本人を教化した』(韓国国定教科書)と満足しているようでは、あまりにも寂しいではないだろうか。

 長々と書きましたが、韓国的で独特な歴史観を除けば良書の部類でしょう。
https://www.amazon.co.jp/gp/customer-reviews/R2KTXNSNYIU3TF/ref=cm_cr_dp_d_rvw_ttl?ie=UTF8&ASIN=4000610244
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/436.html#c10

[近代史5] 古代の帰化人 中川隆
1. 中川隆[-8959] koaQ7Jey 2020年12月25日 14:56:10 : FSuacswpLw : YmxBMnM2QW1TUC4=[17]
日本の中の朝鮮をゆく 飛鳥・奈良編――飛鳥の原に百済の花が咲きました
2015/2/27 兪 弘濬 (著), 橋本 繁 (翻訳)
https://www.amazon.co.jp/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E4%B8%AD%E3%81%AE%E6%9C%9D%E9%AE%AE%E3%82%92%E3%82%86%E3%81%8F-%E9%A3%9B%E9%B3%A5%E3%83%BB%E5%A5%88%E8%89%AF%E7%B7%A8%E2%80%95%E2%80%95%E9%A3%9B%E9%B3%A5%E3%81%AE%E5%8E%9F%E3%81%AB%E7%99%BE%E6%B8%88%E3%81%AE%E8%8A%B1%E3%81%8C%E5%92%B2%E3%81%8D%E3%81%BE%E3%81%97%E3%81%9F-%E5%85%AA-%E5%BC%98%E6%BF%AC/dp/4000610244


@ 渡来人の故郷、飛鳥

飛鳥と奈良は、日本の中の朝鮮文化を探す旅の核心であり、日本古代文化のハイライトだ。
日本が古代国家に発展する全過程が飛鳥に残っており、彼らがあれほどまでに望んだ古代国家をついに誕生させた場所が奈良である。
飛鳥に行けば韓国の扶余〔百済の都〕が思い浮かび、奈良の古寺を見れば慶州〔新羅の都〕を連想する。

五世紀に加耶から渡った渡来人が日本に鉄と馬そして加耶の土器文化を伝えたことは、「近つ飛鳥」に確かに残っており、
六世紀の百済から渡っていった渡来人の足跡は、飛鳥ではっきりと見ることができる。
百済王室との交流を通じて仏教と文字を受け入れてついに律令国家となる過程を、石舞台、橘寺、飛鳥寺で見ることになる。

韓国人にもよく知られる高松塚古墳壁画を見ると、高句麗文化の影響力がどれほど長く残っていたのかを痛感する。
日本の古代社会に朝鮮半島からの渡来人が残した文化的結実は、飛鳥の北面にある法隆寺に集約的に見られる。
法隆寺は、日本古代文化の精華であると同時に、朝鮮半島では見ることのできない百済の建築と彫刻の姿を見せてくれる。

七一〇年、平城京に遷都すると同時に始まった奈良時代は、日本古代文化の頂点であった。
薬師寺の東塔、興福寺の仏像彫刻、東大寺の大仏、唐招提寺の彫像彫刻は、日本古代国家の爛熟と栄光を誇る。
この頃になると日本は、朝鮮半島の影響から離れて唐文化に直接接するとともに、より国際的な文化となっていく。
それは、統一新羅の文化と似ていながら異なる、日本文化独自の姿であった。

我々韓国人は、東アジアの一員として、隣国日本のこうした文化的成功を評価することにためらう理由はない。


▲△▽▼

日本の中の朝鮮をゆく 飛鳥・奈良編――飛鳥の原に百済の花が咲きました
レビュー 赤尖晶石 5つ星のうち4.0
筆者の専門分野での記述は素晴らしかったが・・・
2015年5月11日


『筆者の専門分野での記述は素晴らしかったが・・・』

仏教美術を中心に日本古来の芸術の特徴や日本人の考え方と、朝鮮の文化や韓国人の考え方とを対比させて論説する文体は、谷崎潤一郎の随筆『陰翳礼讃』を連想させる。特に筆者が専門とする美術史に関する部分は文章が生きており、人を引き付ける力がある。

この筆勢が全編貫かれていれば★5つでしょう。しかし他の部分があまりにも内容が乏しく正確さに欠けるので、本来★3つですが、九州編に比べ日韓の主張を両論併記しようと心掛けている部分も増え、良くなっている部分もあり、おまけして★4つにしました。

(韓国人が読めば全編に渡り『自尊心』を刺激されて、きっと★5つでしょう)

 筆のすべりが過ぎて、史料の確認が出来ていないところもある。例えば同行した金教授の説明と、ことわりが入れてあるが「東大寺転害門(大門)の一方の空いた空間に瑪瑙で作った臼があったからと、『七大寺巡礼私記』という古記録を資料名だけ引用して、内容も無く長々と、しかも勘違いして記述しているようだ・・・これは勘弁してほしい。

この部分は七大寺日記(1106年頃)及び七大寺巡礼私記(1140年頃)そのままに、西面大垣三門、北端門碾磑御門(七大寺日記)・・・碾磑亭一宇、七間瓦屋、置碾磑、件亭在於講堂東食堂之北、其亭内置石唐臼、是云碾磑、以馬瑙造之、其色白(七大寺巡礼私記)「西面の大垣に三門あり、北端の門を輾磑御門と云う・・・碾磑亭という七間、瓦葺き一棟があり、碾磑が置かれている。この建物は講堂(大仏殿の北に位置し、1180年に「平重衡の兵火」で焼失)の東にある食堂の北(講堂の北東、碾磑門のはるか東)にあり、中に石の唐臼が置かれているが、これを碾磑といい、瑪瑙で出来ていて、白色である」と巡礼私記等の具体的で正確な内容をそのまま書いてほしかった。私の考えすぎでしょうか、原文の内容を書かなかったのは・・・唐臼とあったから高句麗の臼ではないのではと、この教授は考えてしまったのではないかと・・・日本語の『唐臼』は、目を刻った石臼のことだのに?

  碾磑亭は現在の龍蔵院付近である。この部分は、後段に筆者が記述している日本書紀610年の記録『高句麗の僧曇徴』を説明する為の導入部分であるが、日本書紀の現代語訳も間違いがあるし、日本人の読む書物に専門外のことには手を出さない方が良いと私は思った。転害門(碾磑御門)の近所で、瑪瑙の碾磑の設置場所の写真なんか撮れないでしょう・・・漢文が読めてないのでしょう。

それと、3年程前に『食堂』跡の遺跡の井戸から巨大な唐臼の破片が出土していますよ・・転害門から相当離れた東側ですが。

 また東大寺正倉院の建築様式が高句麗の桴京だと強弁しているが、徳興里壁画古墳の玄室の絵画でも、井桁組と分かる麻線溝一号墳壁画でも、八清里古墳でも、高床式で屋根が付いていて横木組であるということは分かるが、それ以上の情報は無い。その程度のものなら、時代の古い弥生時代遺跡の穀物倉庫(登呂遺跡。平板を井籠組)にある。正倉院は井籠組の一種の校倉組で、大きな三角形の長尺材を使う甲倉であり、建築が困難な一棟三倉構造をしており、創意と工夫にあふれた巨大な建造物だ。甲倉造りは丸太造りに比べ強度に優れ、丸太では、正倉院の大きさの米倉は建造出来ない。丸木の校倉造は世界各地にあるが、甲倉は日本にしかない日本人の発明であり、稲穀を蓄える巨大な米櫃である。

 正倉の名称、倉庫令、倉の位置の名称は、唐の律令制を手本にしていることから、大和朝廷は唐の正倉に匹敵する堂々たる倉の建築を決めて採用したのが甲倉造りだったのであろう。校倉造りの甲倉の米の収容能力は、校倉造り丸木倉の実に3倍から4倍(斛の記録ではなく正倉の実測値)に達している。

では桴京とは何か?・・・三国志『高句麗伝』無大倉庫、家家自有小倉、名之為桴京。私流に訳すと「大きな倉庫は無く、家には自家用の小さな倉があり、これを名付けて『桴京』という」・・・根拠は壁画とこれだけ。私は話にならないと思った。高床式建物は確かに北方系建築様式でもあり、北方系のアムール川流域の古アジア系民族の夏小屋(冬小屋はアイヌの寒冷地の穴式住居に似る)で校倉式木組みを伴なっている。高句麗の桴京は、北方少数民族と共通で、古アジア系建築様式をルーツにしている小規模な穀物倉で、収容物は米穀より軽い粟等の雑穀や干肉であろう。

  一方南方系の記録は漢時代の貴州と雲南省で、高床式で丸木と推定される校倉造りである。また日本の神社の建築様式には、南方系の高床式と少数民族の屋根組みがみられることから日本には北からも南からも高床式で校倉造りの建築様式は流入する可能性があり、私は、即断は避けるべきであると考える。

 そもそも日本人男性のDNA・Y染色体分布をみると、一番多いのは縄文系のD2遺伝子で、僅差で2番目に多い遺伝子は弥生系のO2b1で、シェアは日本が最大、中国江南が出自の遺伝子とされている。

また日本人の半数が江南出身である証拠は、アルデヒド分解遺伝子の欠如でも証明されている。(日本の場合、残る半数は縄文系でお酒に強い、その代表は日本美人の産地秋田県と南国鹿児島県)

この遺伝子は、突然変異で発生したが、その場所は中国江南であり、世界で一番この酒に弱い遺伝子を持っているのは、日本人で、その日本で弱い遺伝子を持つ人は、近畿・中部・瀬戸内に多い(一番弱いのは三重県、次は愛知県)。余談だが、韓国人はアジア人の中でも酒に強いグループで、『酒に弱い弥生先祖人』とは大きく異なって北方系と華北系が主流であり、飛鳥や奈良の原住民とは関係が薄いということが分かる。筆者ご自慢の青銅器の流入も北から、朝鮮を支配し当時から世界一の製鉄技術を持っていた漢も北から、百済と新羅を圧迫した高句麗も北から・・朝鮮半島の皆さんは、ことごとく酒に強い北方系の人達だ。

この日本の酒に弱い人達は、縄文時代末期から弥生初期に、大陸から直接、稲と、鉄器と、四眠蚕と、潜水漁法(あわび起し)を日本に持ち込んだことが、学術的に分かっている。日本最古の鉄器は中国製だし、日本の史跡出土の、主要なジャポニカ米の遺伝子は朝鮮の遺跡の炭化米には無い。飛鳥・奈良を中心とする大和王権の地に住む人々は、五七五の和歌の旋律を天皇から庶民まで楽しみ、鵜飼の行事とともに歌会始(歌御会)は、現代まで続く宮中行事となっている。漢語がベースの時調のようなものは宮廷行事には当然無い。

当然高床式の穀物倉庫も江南から直接持ち込まれた可能性が強く残る。ちなみに農具の馬鍬も江南の水田稲作民が持ち込んだと推測されている。弥生祖先人は半農半漁民で稲作と鍛冶技術を呉越の地から持って来たようだ。

  朝鮮半島からの帰化人=今来の渡来民を受け入れたのは、心優しい縄文人と江南からの渡来民(弥生祖先人)が平和裏に混交し人口を増やした弥生人の末裔であり、日本は韓国人が作ったという筆者の強く熱い思いを踏みにじるようで申し訳ないが、朝鮮系は少数派ですね。当然、ASUKA(飛鳥、明日香)も韓国語ではなく、大和言葉で十分説明出来ます。藤村由加氏と同じレベルのエピソードを長々と書かれても、多くの日本人は馬鹿馬鹿しく思い、ついていけないだろう。

 
  筆者は、三国志魏志東夷伝の記述を次のように書いている「金海で製造された鉄が楽浪、ワイ(さんずいに歳)、倭に輸出された」と、続けて次のように解説している「当時、倭は鉄を生産する技術がなかった。そのため、加那と倭は、同盟以上の親密な関係だった」これは、漢文を読めていないか、読めているとしたら悪意の誤訳である可能性がある。

 では『三国志魏書』弁辰伝・・國出鐵、韓、ワイ、倭皆從取之。諸巿買皆用鐵、如中國用錢、又以供給二郡。・・『三国志』魏志弁辰(弁韓辰韓)伝にも、国は鉄を産出し、韓人、ワイ人、倭人など皆、これを(辰韓の)許可を得て取りに来る。諸貨の売買には皆、鉄を用いる。中国で金銭を用いるがごとくであり、また(楽浪、帯方の)二郡に供給する。

 少し解説すると、古代加那の製鉄遺跡は出土していないが、製鉄法は「たたら製鉄」で原料は砂鉄だとされている。日本人技術者の分析によると、この地域の砂鉄は日本の砂鉄に比べ不純物が大変少なく良質である。私は、この「たたら製鉄」は、『野たたら』だとすると矛盾は無いと考える。

朝鮮半島にも近代まで野タタラ製鉄の技術が残っていたが、記録によると・・・明治42年、朝鮮咸鏡北道富寧の南東にある抄河洞の輪域川の河原で、極めて原始的な製鉄現場が確認された。その方法は、河原に乾いた砂鉄を60p積み、その上に大量の薪を乗せ、一夜燃やし続けて翌日に鉄塊を拾い集める方法だった(京城の加藤灌覚氏の実見談)。最も原始的な製鉄法である。弁韓・辰韓・新羅で製鉄の伝統を持つ国の話である・・・と、まとめられている。スピネル構造の鉄酸化物である磁鉄鉱が主成分の砂鉄を還元する木炭の記述が無く、時間も短いのも不思議だが、面白い実見談である。

  筆者は、日本人の考え方「朝鮮半島はストローのように技術や文物を日本に伝えただけ」を痛烈に批判しているが、同じたたら製鉄でも日本では技術が大いに発達し、朝鮮半島ではそのまま技術が発達しない原始的野たたらが残る、私はこのような実例によってストロー論が実証されているのだと思った。

  何れにせよ、この原始的製鉄法ならば、製鉄遺跡は残らないし、『皆、許可を得て取りに来る』という表現にも納得出来る。このような倭人の原始的製鉄法に繋がる技術的内容が読み取れる記述を、どうすれば単に輸出と表現出来るのか、私は筆者の見識を疑いたい。

  また『金海で製造された・・』と原文にない箇所をわざわざ挿入した訳は、近年、金海の遺跡から渡海可能な比較的大型の船が出土し『金海人が船で・・』というストーリーを考えたのだろうが、その後の分析で船体素材が杉と楠と分かって日本製の船であったことが分かっているのだが。船の他にも任那加羅の遺跡から出土したのは、古くは大量の弥生式土器、倭国の巴型青銅器、ヒスイ勾玉等遺物が多数、前方後円墳が14基ある。『輸出』の一語では片付けることは出来ない『加那と倭は、同盟以上の親密な関係だった』というのは、倭国の半島進出と支配を認めた言葉だったのかな???

 筆者は韓国の歴史学者の論を採用して、日本の教科書会社が『帰化人(渡来人)』と記載しているのを極右翼と非難しているが、単なる渡来民では、中国系や韓国系の人達は氏姓を称することも出来ないことを理解していない。投化(帰化)していないと戸籍に載らないし、租庸調の義務も生じないし、民を束ねる称号も得ることは無い。そもそも戸籍制度で最初に『王化の民』として戸籍に登録されたのは、帰化した秦氏、漢氏等で『秦人(はたひと)・漢人(あやひと)等、諸蕃(しょばん)より投化せる者を招集して、国群に安置し、戸籍に編貫す。秦人の戸数七千五十三戸、大蔵掾(おおくらのじょう)を以て、秦伴造(はたのとものみやつこ)となす」。』(日本書紀)とある。つまり弥生人の末裔より先に帰化民を優先登録したのだ。

その後、これらは制度化され、『化外人(帰化する前)』⇒『化内人(帰化人)』・・10年の据え置き期間・・⇒『調庸人(公民・平民)』⇒『天皇の民(王民)』となった。(賦役令)・・・後の時代には調庸人(海外の名)から王民(著名な氏姓)を得る為に活動する記録もある。

また筆者など韓国人は、統一王朝になる以前は帰化人ではないと詭弁を弄するが、そもそも中国で夷狄の帰化を含む中華思想が形成されたのは、周辺民族にまで「戦国の七雄」の支配が及び始めた戦国時代のことで、当然のこと統一国家ではない。
 単なる渡来人では、大和朝廷支配の日本では物乞いか夜盗になるしか無いのである。渡来なら日本に渡っただけで、朝鮮人・中国人のままなので、強制送還された渡来人の実例もあったが、帰化だと『申請手続き』が必須で、申請完了の場合、日本人になってしまう。帰化には特典も様々にあり、戸令四十四化外奴婢条には、『凡化外奴婢。自来投国者。悉放為良。即附籍貫。本主雖先来投国。亦不得認。・・・』つまり、朝鮮とか中国で、奴隷身分であっても、日本に帰化したら、良民(公民・平民)の身分で登録しますよ、渡来民のままなら奴婢のままですよ、帰化しなさいという勧誘制度ですね。実際、主従の渡来者のうち、最初に帰化した主人に従う奴婢も、帰化の申請を行って賎民から良民となっている。

  その結果、日本に来た様々な階層の渡来民は、帰化して身分差別の少ない日本人になって共に頑張って、日本という国を作った訳で、帰化人は渡来民と同義ではない。その後、韓国では奴婢身分は、『国家管理の性奴隷』を含め、人口の70%にも達したが、日本では、5%程度と元々少なかった奴婢だったが、非合理な奴隷制度は平安時代には廃止された。日本の国の品格は、日本型帰化制度の採用によって確立されたのですかね。日本の江戸後期の頃まで奴隷制度を1000年も長く維持していた国が経済発展する訳は無い。帰化を渡来と言い換えて、自尊心を満足して、『日本人を教化した』(韓国国定教科書)と満足しているようでは、あまりにも寂しいではないだろうか。

 長々と書きましたが、韓国的で独特な歴史観を除けば良書の部類でしょう。
https://www.amazon.co.jp/gp/customer-reviews/R2KTXNSNYIU3TF/ref=cm_cr_dp_d_rvw_ttl?ie=UTF8&ASIN=4000610244
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/378.html#c1

[近代史5] 弥生人の起源 中川隆
9. 中川隆[-8958] koaQ7Jey 2020年12月25日 14:57:13 : FSuacswpLw : YmxBMnM2QW1TUC4=[18]
日本の中の朝鮮をゆく 飛鳥・奈良編――飛鳥の原に百済の花が咲きました
2015/2/27 兪 弘濬 (著), 橋本 繁 (翻訳)
https://www.amazon.co.jp/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E4%B8%AD%E3%81%AE%E6%9C%9D%E9%AE%AE%E3%82%92%E3%82%86%E3%81%8F-%E9%A3%9B%E9%B3%A5%E3%83%BB%E5%A5%88%E8%89%AF%E7%B7%A8%E2%80%95%E2%80%95%E9%A3%9B%E9%B3%A5%E3%81%AE%E5%8E%9F%E3%81%AB%E7%99%BE%E6%B8%88%E3%81%AE%E8%8A%B1%E3%81%8C%E5%92%B2%E3%81%8D%E3%81%BE%E3%81%97%E3%81%9F-%E5%85%AA-%E5%BC%98%E6%BF%AC/dp/4000610244


@ 渡来人の故郷、飛鳥

飛鳥と奈良は、日本の中の朝鮮文化を探す旅の核心であり、日本古代文化のハイライトだ。
日本が古代国家に発展する全過程が飛鳥に残っており、彼らがあれほどまでに望んだ古代国家をついに誕生させた場所が奈良である。
飛鳥に行けば韓国の扶余〔百済の都〕が思い浮かび、奈良の古寺を見れば慶州〔新羅の都〕を連想する。

五世紀に加耶から渡った渡来人が日本に鉄と馬そして加耶の土器文化を伝えたことは、「近つ飛鳥」に確かに残っており、
六世紀の百済から渡っていった渡来人の足跡は、飛鳥ではっきりと見ることができる。
百済王室との交流を通じて仏教と文字を受け入れてついに律令国家となる過程を、石舞台、橘寺、飛鳥寺で見ることになる。

韓国人にもよく知られる高松塚古墳壁画を見ると、高句麗文化の影響力がどれほど長く残っていたのかを痛感する。
日本の古代社会に朝鮮半島からの渡来人が残した文化的結実は、飛鳥の北面にある法隆寺に集約的に見られる。
法隆寺は、日本古代文化の精華であると同時に、朝鮮半島では見ることのできない百済の建築と彫刻の姿を見せてくれる。

七一〇年、平城京に遷都すると同時に始まった奈良時代は、日本古代文化の頂点であった。
薬師寺の東塔、興福寺の仏像彫刻、東大寺の大仏、唐招提寺の彫像彫刻は、日本古代国家の爛熟と栄光を誇る。
この頃になると日本は、朝鮮半島の影響から離れて唐文化に直接接するとともに、より国際的な文化となっていく。
それは、統一新羅の文化と似ていながら異なる、日本文化独自の姿であった。

我々韓国人は、東アジアの一員として、隣国日本のこうした文化的成功を評価することにためらう理由はない。


▲△▽▼

日本の中の朝鮮をゆく 飛鳥・奈良編――飛鳥の原に百済の花が咲きました
レビュー 赤尖晶石 5つ星のうち4.0
筆者の専門分野での記述は素晴らしかったが・・・
2015年5月11日


『筆者の専門分野での記述は素晴らしかったが・・・』

仏教美術を中心に日本古来の芸術の特徴や日本人の考え方と、朝鮮の文化や韓国人の考え方とを対比させて論説する文体は、谷崎潤一郎の随筆『陰翳礼讃』を連想させる。特に筆者が専門とする美術史に関する部分は文章が生きており、人を引き付ける力がある。

この筆勢が全編貫かれていれば★5つでしょう。しかし他の部分があまりにも内容が乏しく正確さに欠けるので、本来★3つですが、九州編に比べ日韓の主張を両論併記しようと心掛けている部分も増え、良くなっている部分もあり、おまけして★4つにしました。

(韓国人が読めば全編に渡り『自尊心』を刺激されて、きっと★5つでしょう)

 筆のすべりが過ぎて、史料の確認が出来ていないところもある。例えば同行した金教授の説明と、ことわりが入れてあるが「東大寺転害門(大門)の一方の空いた空間に瑪瑙で作った臼があったからと、『七大寺巡礼私記』という古記録を資料名だけ引用して、内容も無く長々と、しかも勘違いして記述しているようだ・・・これは勘弁してほしい。

この部分は七大寺日記(1106年頃)及び七大寺巡礼私記(1140年頃)そのままに、西面大垣三門、北端門碾磑御門(七大寺日記)・・・碾磑亭一宇、七間瓦屋、置碾磑、件亭在於講堂東食堂之北、其亭内置石唐臼、是云碾磑、以馬瑙造之、其色白(七大寺巡礼私記)「西面の大垣に三門あり、北端の門を輾磑御門と云う・・・碾磑亭という七間、瓦葺き一棟があり、碾磑が置かれている。この建物は講堂(大仏殿の北に位置し、1180年に「平重衡の兵火」で焼失)の東にある食堂の北(講堂の北東、碾磑門のはるか東)にあり、中に石の唐臼が置かれているが、これを碾磑といい、瑪瑙で出来ていて、白色である」と巡礼私記等の具体的で正確な内容をそのまま書いてほしかった。私の考えすぎでしょうか、原文の内容を書かなかったのは・・・唐臼とあったから高句麗の臼ではないのではと、この教授は考えてしまったのではないかと・・・日本語の『唐臼』は、目を刻った石臼のことだのに?

  碾磑亭は現在の龍蔵院付近である。この部分は、後段に筆者が記述している日本書紀610年の記録『高句麗の僧曇徴』を説明する為の導入部分であるが、日本書紀の現代語訳も間違いがあるし、日本人の読む書物に専門外のことには手を出さない方が良いと私は思った。転害門(碾磑御門)の近所で、瑪瑙の碾磑の設置場所の写真なんか撮れないでしょう・・・漢文が読めてないのでしょう。

それと、3年程前に『食堂』跡の遺跡の井戸から巨大な唐臼の破片が出土していますよ・・転害門から相当離れた東側ですが。

 また東大寺正倉院の建築様式が高句麗の桴京だと強弁しているが、徳興里壁画古墳の玄室の絵画でも、井桁組と分かる麻線溝一号墳壁画でも、八清里古墳でも、高床式で屋根が付いていて横木組であるということは分かるが、それ以上の情報は無い。その程度のものなら、時代の古い弥生時代遺跡の穀物倉庫(登呂遺跡。平板を井籠組)にある。正倉院は井籠組の一種の校倉組で、大きな三角形の長尺材を使う甲倉であり、建築が困難な一棟三倉構造をしており、創意と工夫にあふれた巨大な建造物だ。甲倉造りは丸太造りに比べ強度に優れ、丸太では、正倉院の大きさの米倉は建造出来ない。丸木の校倉造は世界各地にあるが、甲倉は日本にしかない日本人の発明であり、稲穀を蓄える巨大な米櫃である。

 正倉の名称、倉庫令、倉の位置の名称は、唐の律令制を手本にしていることから、大和朝廷は唐の正倉に匹敵する堂々たる倉の建築を決めて採用したのが甲倉造りだったのであろう。校倉造りの甲倉の米の収容能力は、校倉造り丸木倉の実に3倍から4倍(斛の記録ではなく正倉の実測値)に達している。

では桴京とは何か?・・・三国志『高句麗伝』無大倉庫、家家自有小倉、名之為桴京。私流に訳すと「大きな倉庫は無く、家には自家用の小さな倉があり、これを名付けて『桴京』という」・・・根拠は壁画とこれだけ。私は話にならないと思った。高床式建物は確かに北方系建築様式でもあり、北方系のアムール川流域の古アジア系民族の夏小屋(冬小屋はアイヌの寒冷地の穴式住居に似る)で校倉式木組みを伴なっている。高句麗の桴京は、北方少数民族と共通で、古アジア系建築様式をルーツにしている小規模な穀物倉で、収容物は米穀より軽い粟等の雑穀や干肉であろう。

  一方南方系の記録は漢時代の貴州と雲南省で、高床式で丸木と推定される校倉造りである。また日本の神社の建築様式には、南方系の高床式と少数民族の屋根組みがみられることから日本には北からも南からも高床式で校倉造りの建築様式は流入する可能性があり、私は、即断は避けるべきであると考える。

 そもそも日本人男性のDNA・Y染色体分布をみると、一番多いのは縄文系のD2遺伝子で、僅差で2番目に多い遺伝子は弥生系のO2b1で、シェアは日本が最大、中国江南が出自の遺伝子とされている。

また日本人の半数が江南出身である証拠は、アルデヒド分解遺伝子の欠如でも証明されている。(日本の場合、残る半数は縄文系でお酒に強い、その代表は日本美人の産地秋田県と南国鹿児島県)

この遺伝子は、突然変異で発生したが、その場所は中国江南であり、世界で一番この酒に弱い遺伝子を持っているのは、日本人で、その日本で弱い遺伝子を持つ人は、近畿・中部・瀬戸内に多い(一番弱いのは三重県、次は愛知県)。余談だが、韓国人はアジア人の中でも酒に強いグループで、『酒に弱い弥生先祖人』とは大きく異なって北方系と華北系が主流であり、飛鳥や奈良の原住民とは関係が薄いということが分かる。筆者ご自慢の青銅器の流入も北から、朝鮮を支配し当時から世界一の製鉄技術を持っていた漢も北から、百済と新羅を圧迫した高句麗も北から・・朝鮮半島の皆さんは、ことごとく酒に強い北方系の人達だ。

この日本の酒に弱い人達は、縄文時代末期から弥生初期に、大陸から直接、稲と、鉄器と、四眠蚕と、潜水漁法(あわび起し)を日本に持ち込んだことが、学術的に分かっている。日本最古の鉄器は中国製だし、日本の史跡出土の、主要なジャポニカ米の遺伝子は朝鮮の遺跡の炭化米には無い。飛鳥・奈良を中心とする大和王権の地に住む人々は、五七五の和歌の旋律を天皇から庶民まで楽しみ、鵜飼の行事とともに歌会始(歌御会)は、現代まで続く宮中行事となっている。漢語がベースの時調のようなものは宮廷行事には当然無い。

当然高床式の穀物倉庫も江南から直接持ち込まれた可能性が強く残る。ちなみに農具の馬鍬も江南の水田稲作民が持ち込んだと推測されている。弥生祖先人は半農半漁民で稲作と鍛冶技術を呉越の地から持って来たようだ。

  朝鮮半島からの帰化人=今来の渡来民を受け入れたのは、心優しい縄文人と江南からの渡来民(弥生祖先人)が平和裏に混交し人口を増やした弥生人の末裔であり、日本は韓国人が作ったという筆者の強く熱い思いを踏みにじるようで申し訳ないが、朝鮮系は少数派ですね。当然、ASUKA(飛鳥、明日香)も韓国語ではなく、大和言葉で十分説明出来ます。藤村由加氏と同じレベルのエピソードを長々と書かれても、多くの日本人は馬鹿馬鹿しく思い、ついていけないだろう。

 
  筆者は、三国志魏志東夷伝の記述を次のように書いている「金海で製造された鉄が楽浪、ワイ(さんずいに歳)、倭に輸出された」と、続けて次のように解説している「当時、倭は鉄を生産する技術がなかった。そのため、加那と倭は、同盟以上の親密な関係だった」これは、漢文を読めていないか、読めているとしたら悪意の誤訳である可能性がある。

 では『三国志魏書』弁辰伝・・國出鐵、韓、ワイ、倭皆從取之。諸巿買皆用鐵、如中國用錢、又以供給二郡。・・『三国志』魏志弁辰(弁韓辰韓)伝にも、国は鉄を産出し、韓人、ワイ人、倭人など皆、これを(辰韓の)許可を得て取りに来る。諸貨の売買には皆、鉄を用いる。中国で金銭を用いるがごとくであり、また(楽浪、帯方の)二郡に供給する。

 少し解説すると、古代加那の製鉄遺跡は出土していないが、製鉄法は「たたら製鉄」で原料は砂鉄だとされている。日本人技術者の分析によると、この地域の砂鉄は日本の砂鉄に比べ不純物が大変少なく良質である。私は、この「たたら製鉄」は、『野たたら』だとすると矛盾は無いと考える。

朝鮮半島にも近代まで野タタラ製鉄の技術が残っていたが、記録によると・・・明治42年、朝鮮咸鏡北道富寧の南東にある抄河洞の輪域川の河原で、極めて原始的な製鉄現場が確認された。その方法は、河原に乾いた砂鉄を60p積み、その上に大量の薪を乗せ、一夜燃やし続けて翌日に鉄塊を拾い集める方法だった(京城の加藤灌覚氏の実見談)。最も原始的な製鉄法である。弁韓・辰韓・新羅で製鉄の伝統を持つ国の話である・・・と、まとめられている。スピネル構造の鉄酸化物である磁鉄鉱が主成分の砂鉄を還元する木炭の記述が無く、時間も短いのも不思議だが、面白い実見談である。

  筆者は、日本人の考え方「朝鮮半島はストローのように技術や文物を日本に伝えただけ」を痛烈に批判しているが、同じたたら製鉄でも日本では技術が大いに発達し、朝鮮半島ではそのまま技術が発達しない原始的野たたらが残る、私はこのような実例によってストロー論が実証されているのだと思った。

  何れにせよ、この原始的製鉄法ならば、製鉄遺跡は残らないし、『皆、許可を得て取りに来る』という表現にも納得出来る。このような倭人の原始的製鉄法に繋がる技術的内容が読み取れる記述を、どうすれば単に輸出と表現出来るのか、私は筆者の見識を疑いたい。

  また『金海で製造された・・』と原文にない箇所をわざわざ挿入した訳は、近年、金海の遺跡から渡海可能な比較的大型の船が出土し『金海人が船で・・』というストーリーを考えたのだろうが、その後の分析で船体素材が杉と楠と分かって日本製の船であったことが分かっているのだが。船の他にも任那加羅の遺跡から出土したのは、古くは大量の弥生式土器、倭国の巴型青銅器、ヒスイ勾玉等遺物が多数、前方後円墳が14基ある。『輸出』の一語では片付けることは出来ない『加那と倭は、同盟以上の親密な関係だった』というのは、倭国の半島進出と支配を認めた言葉だったのかな???

 筆者は韓国の歴史学者の論を採用して、日本の教科書会社が『帰化人(渡来人)』と記載しているのを極右翼と非難しているが、単なる渡来民では、中国系や韓国系の人達は氏姓を称することも出来ないことを理解していない。投化(帰化)していないと戸籍に載らないし、租庸調の義務も生じないし、民を束ねる称号も得ることは無い。そもそも戸籍制度で最初に『王化の民』として戸籍に登録されたのは、帰化した秦氏、漢氏等で『秦人(はたひと)・漢人(あやひと)等、諸蕃(しょばん)より投化せる者を招集して、国群に安置し、戸籍に編貫す。秦人の戸数七千五十三戸、大蔵掾(おおくらのじょう)を以て、秦伴造(はたのとものみやつこ)となす」。』(日本書紀)とある。つまり弥生人の末裔より先に帰化民を優先登録したのだ。

その後、これらは制度化され、『化外人(帰化する前)』⇒『化内人(帰化人)』・・10年の据え置き期間・・⇒『調庸人(公民・平民)』⇒『天皇の民(王民)』となった。(賦役令)・・・後の時代には調庸人(海外の名)から王民(著名な氏姓)を得る為に活動する記録もある。

また筆者など韓国人は、統一王朝になる以前は帰化人ではないと詭弁を弄するが、そもそも中国で夷狄の帰化を含む中華思想が形成されたのは、周辺民族にまで「戦国の七雄」の支配が及び始めた戦国時代のことで、当然のこと統一国家ではない。
 単なる渡来人では、大和朝廷支配の日本では物乞いか夜盗になるしか無いのである。渡来なら日本に渡っただけで、朝鮮人・中国人のままなので、強制送還された渡来人の実例もあったが、帰化だと『申請手続き』が必須で、申請完了の場合、日本人になってしまう。帰化には特典も様々にあり、戸令四十四化外奴婢条には、『凡化外奴婢。自来投国者。悉放為良。即附籍貫。本主雖先来投国。亦不得認。・・・』つまり、朝鮮とか中国で、奴隷身分であっても、日本に帰化したら、良民(公民・平民)の身分で登録しますよ、渡来民のままなら奴婢のままですよ、帰化しなさいという勧誘制度ですね。実際、主従の渡来者のうち、最初に帰化した主人に従う奴婢も、帰化の申請を行って賎民から良民となっている。

  その結果、日本に来た様々な階層の渡来民は、帰化して身分差別の少ない日本人になって共に頑張って、日本という国を作った訳で、帰化人は渡来民と同義ではない。その後、韓国では奴婢身分は、『国家管理の性奴隷』を含め、人口の70%にも達したが、日本では、5%程度と元々少なかった奴婢だったが、非合理な奴隷制度は平安時代には廃止された。日本の国の品格は、日本型帰化制度の採用によって確立されたのですかね。日本の江戸後期の頃まで奴隷制度を1000年も長く維持していた国が経済発展する訳は無い。帰化を渡来と言い換えて、自尊心を満足して、『日本人を教化した』(韓国国定教科書)と満足しているようでは、あまりにも寂しいではないだろうか。

 長々と書きましたが、韓国的で独特な歴史観を除けば良書の部類でしょう。
https://www.amazon.co.jp/gp/customer-reviews/R2KTXNSNYIU3TF/ref=cm_cr_dp_d_rvw_ttl?ie=UTF8&ASIN=4000610244
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/255.html#c9

[近代史5] 日本語の起源 中川隆
12. 中川隆[-8957] koaQ7Jey 2020年12月25日 14:58:11 : FSuacswpLw : YmxBMnM2QW1TUC4=[19]
日本の中の朝鮮をゆく 飛鳥・奈良編――飛鳥の原に百済の花が咲きました
2015/2/27 兪 弘濬 (著), 橋本 繁 (翻訳)
https://www.amazon.co.jp/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E4%B8%AD%E3%81%AE%E6%9C%9D%E9%AE%AE%E3%82%92%E3%82%86%E3%81%8F-%E9%A3%9B%E9%B3%A5%E3%83%BB%E5%A5%88%E8%89%AF%E7%B7%A8%E2%80%95%E2%80%95%E9%A3%9B%E9%B3%A5%E3%81%AE%E5%8E%9F%E3%81%AB%E7%99%BE%E6%B8%88%E3%81%AE%E8%8A%B1%E3%81%8C%E5%92%B2%E3%81%8D%E3%81%BE%E3%81%97%E3%81%9F-%E5%85%AA-%E5%BC%98%E6%BF%AC/dp/4000610244


@ 渡来人の故郷、飛鳥

飛鳥と奈良は、日本の中の朝鮮文化を探す旅の核心であり、日本古代文化のハイライトだ。
日本が古代国家に発展する全過程が飛鳥に残っており、彼らがあれほどまでに望んだ古代国家をついに誕生させた場所が奈良である。
飛鳥に行けば韓国の扶余〔百済の都〕が思い浮かび、奈良の古寺を見れば慶州〔新羅の都〕を連想する。

五世紀に加耶から渡った渡来人が日本に鉄と馬そして加耶の土器文化を伝えたことは、「近つ飛鳥」に確かに残っており、
六世紀の百済から渡っていった渡来人の足跡は、飛鳥ではっきりと見ることができる。
百済王室との交流を通じて仏教と文字を受け入れてついに律令国家となる過程を、石舞台、橘寺、飛鳥寺で見ることになる。

韓国人にもよく知られる高松塚古墳壁画を見ると、高句麗文化の影響力がどれほど長く残っていたのかを痛感する。
日本の古代社会に朝鮮半島からの渡来人が残した文化的結実は、飛鳥の北面にある法隆寺に集約的に見られる。
法隆寺は、日本古代文化の精華であると同時に、朝鮮半島では見ることのできない百済の建築と彫刻の姿を見せてくれる。

七一〇年、平城京に遷都すると同時に始まった奈良時代は、日本古代文化の頂点であった。
薬師寺の東塔、興福寺の仏像彫刻、東大寺の大仏、唐招提寺の彫像彫刻は、日本古代国家の爛熟と栄光を誇る。
この頃になると日本は、朝鮮半島の影響から離れて唐文化に直接接するとともに、より国際的な文化となっていく。
それは、統一新羅の文化と似ていながら異なる、日本文化独自の姿であった。

我々韓国人は、東アジアの一員として、隣国日本のこうした文化的成功を評価することにためらう理由はない。


▲△▽▼

日本の中の朝鮮をゆく 飛鳥・奈良編――飛鳥の原に百済の花が咲きました
レビュー 赤尖晶石 5つ星のうち4.0
筆者の専門分野での記述は素晴らしかったが・・・
2015年5月11日


『筆者の専門分野での記述は素晴らしかったが・・・』

仏教美術を中心に日本古来の芸術の特徴や日本人の考え方と、朝鮮の文化や韓国人の考え方とを対比させて論説する文体は、谷崎潤一郎の随筆『陰翳礼讃』を連想させる。特に筆者が専門とする美術史に関する部分は文章が生きており、人を引き付ける力がある。

この筆勢が全編貫かれていれば★5つでしょう。しかし他の部分があまりにも内容が乏しく正確さに欠けるので、本来★3つですが、九州編に比べ日韓の主張を両論併記しようと心掛けている部分も増え、良くなっている部分もあり、おまけして★4つにしました。

(韓国人が読めば全編に渡り『自尊心』を刺激されて、きっと★5つでしょう)

 筆のすべりが過ぎて、史料の確認が出来ていないところもある。例えば同行した金教授の説明と、ことわりが入れてあるが「東大寺転害門(大門)の一方の空いた空間に瑪瑙で作った臼があったからと、『七大寺巡礼私記』という古記録を資料名だけ引用して、内容も無く長々と、しかも勘違いして記述しているようだ・・・これは勘弁してほしい。

この部分は七大寺日記(1106年頃)及び七大寺巡礼私記(1140年頃)そのままに、西面大垣三門、北端門碾磑御門(七大寺日記)・・・碾磑亭一宇、七間瓦屋、置碾磑、件亭在於講堂東食堂之北、其亭内置石唐臼、是云碾磑、以馬瑙造之、其色白(七大寺巡礼私記)「西面の大垣に三門あり、北端の門を輾磑御門と云う・・・碾磑亭という七間、瓦葺き一棟があり、碾磑が置かれている。この建物は講堂(大仏殿の北に位置し、1180年に「平重衡の兵火」で焼失)の東にある食堂の北(講堂の北東、碾磑門のはるか東)にあり、中に石の唐臼が置かれているが、これを碾磑といい、瑪瑙で出来ていて、白色である」と巡礼私記等の具体的で正確な内容をそのまま書いてほしかった。私の考えすぎでしょうか、原文の内容を書かなかったのは・・・唐臼とあったから高句麗の臼ではないのではと、この教授は考えてしまったのではないかと・・・日本語の『唐臼』は、目を刻った石臼のことだのに?

  碾磑亭は現在の龍蔵院付近である。この部分は、後段に筆者が記述している日本書紀610年の記録『高句麗の僧曇徴』を説明する為の導入部分であるが、日本書紀の現代語訳も間違いがあるし、日本人の読む書物に専門外のことには手を出さない方が良いと私は思った。転害門(碾磑御門)の近所で、瑪瑙の碾磑の設置場所の写真なんか撮れないでしょう・・・漢文が読めてないのでしょう。

それと、3年程前に『食堂』跡の遺跡の井戸から巨大な唐臼の破片が出土していますよ・・転害門から相当離れた東側ですが。

 また東大寺正倉院の建築様式が高句麗の桴京だと強弁しているが、徳興里壁画古墳の玄室の絵画でも、井桁組と分かる麻線溝一号墳壁画でも、八清里古墳でも、高床式で屋根が付いていて横木組であるということは分かるが、それ以上の情報は無い。その程度のものなら、時代の古い弥生時代遺跡の穀物倉庫(登呂遺跡。平板を井籠組)にある。正倉院は井籠組の一種の校倉組で、大きな三角形の長尺材を使う甲倉であり、建築が困難な一棟三倉構造をしており、創意と工夫にあふれた巨大な建造物だ。甲倉造りは丸太造りに比べ強度に優れ、丸太では、正倉院の大きさの米倉は建造出来ない。丸木の校倉造は世界各地にあるが、甲倉は日本にしかない日本人の発明であり、稲穀を蓄える巨大な米櫃である。

 正倉の名称、倉庫令、倉の位置の名称は、唐の律令制を手本にしていることから、大和朝廷は唐の正倉に匹敵する堂々たる倉の建築を決めて採用したのが甲倉造りだったのであろう。校倉造りの甲倉の米の収容能力は、校倉造り丸木倉の実に3倍から4倍(斛の記録ではなく正倉の実測値)に達している。

では桴京とは何か?・・・三国志『高句麗伝』無大倉庫、家家自有小倉、名之為桴京。私流に訳すと「大きな倉庫は無く、家には自家用の小さな倉があり、これを名付けて『桴京』という」・・・根拠は壁画とこれだけ。私は話にならないと思った。高床式建物は確かに北方系建築様式でもあり、北方系のアムール川流域の古アジア系民族の夏小屋(冬小屋はアイヌの寒冷地の穴式住居に似る)で校倉式木組みを伴なっている。高句麗の桴京は、北方少数民族と共通で、古アジア系建築様式をルーツにしている小規模な穀物倉で、収容物は米穀より軽い粟等の雑穀や干肉であろう。

  一方南方系の記録は漢時代の貴州と雲南省で、高床式で丸木と推定される校倉造りである。また日本の神社の建築様式には、南方系の高床式と少数民族の屋根組みがみられることから日本には北からも南からも高床式で校倉造りの建築様式は流入する可能性があり、私は、即断は避けるべきであると考える。

 そもそも日本人男性のDNA・Y染色体分布をみると、一番多いのは縄文系のD2遺伝子で、僅差で2番目に多い遺伝子は弥生系のO2b1で、シェアは日本が最大、中国江南が出自の遺伝子とされている。

また日本人の半数が江南出身である証拠は、アルデヒド分解遺伝子の欠如でも証明されている。(日本の場合、残る半数は縄文系でお酒に強い、その代表は日本美人の産地秋田県と南国鹿児島県)

この遺伝子は、突然変異で発生したが、その場所は中国江南であり、世界で一番この酒に弱い遺伝子を持っているのは、日本人で、その日本で弱い遺伝子を持つ人は、近畿・中部・瀬戸内に多い(一番弱いのは三重県、次は愛知県)。余談だが、韓国人はアジア人の中でも酒に強いグループで、『酒に弱い弥生先祖人』とは大きく異なって北方系と華北系が主流であり、飛鳥や奈良の原住民とは関係が薄いということが分かる。筆者ご自慢の青銅器の流入も北から、朝鮮を支配し当時から世界一の製鉄技術を持っていた漢も北から、百済と新羅を圧迫した高句麗も北から・・朝鮮半島の皆さんは、ことごとく酒に強い北方系の人達だ。

この日本の酒に弱い人達は、縄文時代末期から弥生初期に、大陸から直接、稲と、鉄器と、四眠蚕と、潜水漁法(あわび起し)を日本に持ち込んだことが、学術的に分かっている。日本最古の鉄器は中国製だし、日本の史跡出土の、主要なジャポニカ米の遺伝子は朝鮮の遺跡の炭化米には無い。飛鳥・奈良を中心とする大和王権の地に住む人々は、五七五の和歌の旋律を天皇から庶民まで楽しみ、鵜飼の行事とともに歌会始(歌御会)は、現代まで続く宮中行事となっている。漢語がベースの時調のようなものは宮廷行事には当然無い。

当然高床式の穀物倉庫も江南から直接持ち込まれた可能性が強く残る。ちなみに農具の馬鍬も江南の水田稲作民が持ち込んだと推測されている。弥生祖先人は半農半漁民で稲作と鍛冶技術を呉越の地から持って来たようだ。

  朝鮮半島からの帰化人=今来の渡来民を受け入れたのは、心優しい縄文人と江南からの渡来民(弥生祖先人)が平和裏に混交し人口を増やした弥生人の末裔であり、日本は韓国人が作ったという筆者の強く熱い思いを踏みにじるようで申し訳ないが、朝鮮系は少数派ですね。当然、ASUKA(飛鳥、明日香)も韓国語ではなく、大和言葉で十分説明出来ます。藤村由加氏と同じレベルのエピソードを長々と書かれても、多くの日本人は馬鹿馬鹿しく思い、ついていけないだろう。

 
  筆者は、三国志魏志東夷伝の記述を次のように書いている「金海で製造された鉄が楽浪、ワイ(さんずいに歳)、倭に輸出された」と、続けて次のように解説している「当時、倭は鉄を生産する技術がなかった。そのため、加那と倭は、同盟以上の親密な関係だった」これは、漢文を読めていないか、読めているとしたら悪意の誤訳である可能性がある。

 では『三国志魏書』弁辰伝・・國出鐵、韓、ワイ、倭皆從取之。諸巿買皆用鐵、如中國用錢、又以供給二郡。・・『三国志』魏志弁辰(弁韓辰韓)伝にも、国は鉄を産出し、韓人、ワイ人、倭人など皆、これを(辰韓の)許可を得て取りに来る。諸貨の売買には皆、鉄を用いる。中国で金銭を用いるがごとくであり、また(楽浪、帯方の)二郡に供給する。

 少し解説すると、古代加那の製鉄遺跡は出土していないが、製鉄法は「たたら製鉄」で原料は砂鉄だとされている。日本人技術者の分析によると、この地域の砂鉄は日本の砂鉄に比べ不純物が大変少なく良質である。私は、この「たたら製鉄」は、『野たたら』だとすると矛盾は無いと考える。

朝鮮半島にも近代まで野タタラ製鉄の技術が残っていたが、記録によると・・・明治42年、朝鮮咸鏡北道富寧の南東にある抄河洞の輪域川の河原で、極めて原始的な製鉄現場が確認された。その方法は、河原に乾いた砂鉄を60p積み、その上に大量の薪を乗せ、一夜燃やし続けて翌日に鉄塊を拾い集める方法だった(京城の加藤灌覚氏の実見談)。最も原始的な製鉄法である。弁韓・辰韓・新羅で製鉄の伝統を持つ国の話である・・・と、まとめられている。スピネル構造の鉄酸化物である磁鉄鉱が主成分の砂鉄を還元する木炭の記述が無く、時間も短いのも不思議だが、面白い実見談である。

  筆者は、日本人の考え方「朝鮮半島はストローのように技術や文物を日本に伝えただけ」を痛烈に批判しているが、同じたたら製鉄でも日本では技術が大いに発達し、朝鮮半島ではそのまま技術が発達しない原始的野たたらが残る、私はこのような実例によってストロー論が実証されているのだと思った。

  何れにせよ、この原始的製鉄法ならば、製鉄遺跡は残らないし、『皆、許可を得て取りに来る』という表現にも納得出来る。このような倭人の原始的製鉄法に繋がる技術的内容が読み取れる記述を、どうすれば単に輸出と表現出来るのか、私は筆者の見識を疑いたい。

  また『金海で製造された・・』と原文にない箇所をわざわざ挿入した訳は、近年、金海の遺跡から渡海可能な比較的大型の船が出土し『金海人が船で・・』というストーリーを考えたのだろうが、その後の分析で船体素材が杉と楠と分かって日本製の船であったことが分かっているのだが。船の他にも任那加羅の遺跡から出土したのは、古くは大量の弥生式土器、倭国の巴型青銅器、ヒスイ勾玉等遺物が多数、前方後円墳が14基ある。『輸出』の一語では片付けることは出来ない『加那と倭は、同盟以上の親密な関係だった』というのは、倭国の半島進出と支配を認めた言葉だったのかな???

 筆者は韓国の歴史学者の論を採用して、日本の教科書会社が『帰化人(渡来人)』と記載しているのを極右翼と非難しているが、単なる渡来民では、中国系や韓国系の人達は氏姓を称することも出来ないことを理解していない。投化(帰化)していないと戸籍に載らないし、租庸調の義務も生じないし、民を束ねる称号も得ることは無い。そもそも戸籍制度で最初に『王化の民』として戸籍に登録されたのは、帰化した秦氏、漢氏等で『秦人(はたひと)・漢人(あやひと)等、諸蕃(しょばん)より投化せる者を招集して、国群に安置し、戸籍に編貫す。秦人の戸数七千五十三戸、大蔵掾(おおくらのじょう)を以て、秦伴造(はたのとものみやつこ)となす」。』(日本書紀)とある。つまり弥生人の末裔より先に帰化民を優先登録したのだ。

その後、これらは制度化され、『化外人(帰化する前)』⇒『化内人(帰化人)』・・10年の据え置き期間・・⇒『調庸人(公民・平民)』⇒『天皇の民(王民)』となった。(賦役令)・・・後の時代には調庸人(海外の名)から王民(著名な氏姓)を得る為に活動する記録もある。

また筆者など韓国人は、統一王朝になる以前は帰化人ではないと詭弁を弄するが、そもそも中国で夷狄の帰化を含む中華思想が形成されたのは、周辺民族にまで「戦国の七雄」の支配が及び始めた戦国時代のことで、当然のこと統一国家ではない。
 単なる渡来人では、大和朝廷支配の日本では物乞いか夜盗になるしか無いのである。渡来なら日本に渡っただけで、朝鮮人・中国人のままなので、強制送還された渡来人の実例もあったが、帰化だと『申請手続き』が必須で、申請完了の場合、日本人になってしまう。帰化には特典も様々にあり、戸令四十四化外奴婢条には、『凡化外奴婢。自来投国者。悉放為良。即附籍貫。本主雖先来投国。亦不得認。・・・』つまり、朝鮮とか中国で、奴隷身分であっても、日本に帰化したら、良民(公民・平民)の身分で登録しますよ、渡来民のままなら奴婢のままですよ、帰化しなさいという勧誘制度ですね。実際、主従の渡来者のうち、最初に帰化した主人に従う奴婢も、帰化の申請を行って賎民から良民となっている。

  その結果、日本に来た様々な階層の渡来民は、帰化して身分差別の少ない日本人になって共に頑張って、日本という国を作った訳で、帰化人は渡来民と同義ではない。その後、韓国では奴婢身分は、『国家管理の性奴隷』を含め、人口の70%にも達したが、日本では、5%程度と元々少なかった奴婢だったが、非合理な奴隷制度は平安時代には廃止された。日本の国の品格は、日本型帰化制度の採用によって確立されたのですかね。日本の江戸後期の頃まで奴隷制度を1000年も長く維持していた国が経済発展する訳は無い。帰化を渡来と言い換えて、自尊心を満足して、『日本人を教化した』(韓国国定教科書)と満足しているようでは、あまりにも寂しいではないだろうか。

 長々と書きましたが、韓国的で独特な歴史観を除けば良書の部類でしょう。
https://www.amazon.co.jp/gp/customer-reviews/R2KTXNSNYIU3TF/ref=cm_cr_dp_d_rvw_ttl?ie=UTF8&ASIN=4000610244
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/254.html#c12

[近代史02] 弥生人の起源 _ 自称専門家の嘘に騙されない為に これ位は知っておこう 中川隆
293. 中川隆[-8956] koaQ7Jey 2020年12月25日 14:59:01 : FSuacswpLw : YmxBMnM2QW1TUC4=[20]
日本の中の朝鮮をゆく 飛鳥・奈良編――飛鳥の原に百済の花が咲きました
2015/2/27 兪 弘濬 (著), 橋本 繁 (翻訳)
https://www.amazon.co.jp/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E4%B8%AD%E3%81%AE%E6%9C%9D%E9%AE%AE%E3%82%92%E3%82%86%E3%81%8F-%E9%A3%9B%E9%B3%A5%E3%83%BB%E5%A5%88%E8%89%AF%E7%B7%A8%E2%80%95%E2%80%95%E9%A3%9B%E9%B3%A5%E3%81%AE%E5%8E%9F%E3%81%AB%E7%99%BE%E6%B8%88%E3%81%AE%E8%8A%B1%E3%81%8C%E5%92%B2%E3%81%8D%E3%81%BE%E3%81%97%E3%81%9F-%E5%85%AA-%E5%BC%98%E6%BF%AC/dp/4000610244


@ 渡来人の故郷、飛鳥

飛鳥と奈良は、日本の中の朝鮮文化を探す旅の核心であり、日本古代文化のハイライトだ。
日本が古代国家に発展する全過程が飛鳥に残っており、彼らがあれほどまでに望んだ古代国家をついに誕生させた場所が奈良である。
飛鳥に行けば韓国の扶余〔百済の都〕が思い浮かび、奈良の古寺を見れば慶州〔新羅の都〕を連想する。

五世紀に加耶から渡った渡来人が日本に鉄と馬そして加耶の土器文化を伝えたことは、「近つ飛鳥」に確かに残っており、
六世紀の百済から渡っていった渡来人の足跡は、飛鳥ではっきりと見ることができる。
百済王室との交流を通じて仏教と文字を受け入れてついに律令国家となる過程を、石舞台、橘寺、飛鳥寺で見ることになる。

韓国人にもよく知られる高松塚古墳壁画を見ると、高句麗文化の影響力がどれほど長く残っていたのかを痛感する。
日本の古代社会に朝鮮半島からの渡来人が残した文化的結実は、飛鳥の北面にある法隆寺に集約的に見られる。
法隆寺は、日本古代文化の精華であると同時に、朝鮮半島では見ることのできない百済の建築と彫刻の姿を見せてくれる。

七一〇年、平城京に遷都すると同時に始まった奈良時代は、日本古代文化の頂点であった。
薬師寺の東塔、興福寺の仏像彫刻、東大寺の大仏、唐招提寺の彫像彫刻は、日本古代国家の爛熟と栄光を誇る。
この頃になると日本は、朝鮮半島の影響から離れて唐文化に直接接するとともに、より国際的な文化となっていく。
それは、統一新羅の文化と似ていながら異なる、日本文化独自の姿であった。

我々韓国人は、東アジアの一員として、隣国日本のこうした文化的成功を評価することにためらう理由はない。


▲△▽▼

日本の中の朝鮮をゆく 飛鳥・奈良編――飛鳥の原に百済の花が咲きました
レビュー 赤尖晶石 5つ星のうち4.0
筆者の専門分野での記述は素晴らしかったが・・・
2015年5月11日


『筆者の専門分野での記述は素晴らしかったが・・・』

仏教美術を中心に日本古来の芸術の特徴や日本人の考え方と、朝鮮の文化や韓国人の考え方とを対比させて論説する文体は、谷崎潤一郎の随筆『陰翳礼讃』を連想させる。特に筆者が専門とする美術史に関する部分は文章が生きており、人を引き付ける力がある。

この筆勢が全編貫かれていれば★5つでしょう。しかし他の部分があまりにも内容が乏しく正確さに欠けるので、本来★3つですが、九州編に比べ日韓の主張を両論併記しようと心掛けている部分も増え、良くなっている部分もあり、おまけして★4つにしました。

(韓国人が読めば全編に渡り『自尊心』を刺激されて、きっと★5つでしょう)

 筆のすべりが過ぎて、史料の確認が出来ていないところもある。例えば同行した金教授の説明と、ことわりが入れてあるが「東大寺転害門(大門)の一方の空いた空間に瑪瑙で作った臼があったからと、『七大寺巡礼私記』という古記録を資料名だけ引用して、内容も無く長々と、しかも勘違いして記述しているようだ・・・これは勘弁してほしい。

この部分は七大寺日記(1106年頃)及び七大寺巡礼私記(1140年頃)そのままに、西面大垣三門、北端門碾磑御門(七大寺日記)・・・碾磑亭一宇、七間瓦屋、置碾磑、件亭在於講堂東食堂之北、其亭内置石唐臼、是云碾磑、以馬瑙造之、其色白(七大寺巡礼私記)「西面の大垣に三門あり、北端の門を輾磑御門と云う・・・碾磑亭という七間、瓦葺き一棟があり、碾磑が置かれている。この建物は講堂(大仏殿の北に位置し、1180年に「平重衡の兵火」で焼失)の東にある食堂の北(講堂の北東、碾磑門のはるか東)にあり、中に石の唐臼が置かれているが、これを碾磑といい、瑪瑙で出来ていて、白色である」と巡礼私記等の具体的で正確な内容をそのまま書いてほしかった。私の考えすぎでしょうか、原文の内容を書かなかったのは・・・唐臼とあったから高句麗の臼ではないのではと、この教授は考えてしまったのではないかと・・・日本語の『唐臼』は、目を刻った石臼のことだのに?

  碾磑亭は現在の龍蔵院付近である。この部分は、後段に筆者が記述している日本書紀610年の記録『高句麗の僧曇徴』を説明する為の導入部分であるが、日本書紀の現代語訳も間違いがあるし、日本人の読む書物に専門外のことには手を出さない方が良いと私は思った。転害門(碾磑御門)の近所で、瑪瑙の碾磑の設置場所の写真なんか撮れないでしょう・・・漢文が読めてないのでしょう。

それと、3年程前に『食堂』跡の遺跡の井戸から巨大な唐臼の破片が出土していますよ・・転害門から相当離れた東側ですが。

 また東大寺正倉院の建築様式が高句麗の桴京だと強弁しているが、徳興里壁画古墳の玄室の絵画でも、井桁組と分かる麻線溝一号墳壁画でも、八清里古墳でも、高床式で屋根が付いていて横木組であるということは分かるが、それ以上の情報は無い。その程度のものなら、時代の古い弥生時代遺跡の穀物倉庫(登呂遺跡。平板を井籠組)にある。正倉院は井籠組の一種の校倉組で、大きな三角形の長尺材を使う甲倉であり、建築が困難な一棟三倉構造をしており、創意と工夫にあふれた巨大な建造物だ。甲倉造りは丸太造りに比べ強度に優れ、丸太では、正倉院の大きさの米倉は建造出来ない。丸木の校倉造は世界各地にあるが、甲倉は日本にしかない日本人の発明であり、稲穀を蓄える巨大な米櫃である。

 正倉の名称、倉庫令、倉の位置の名称は、唐の律令制を手本にしていることから、大和朝廷は唐の正倉に匹敵する堂々たる倉の建築を決めて採用したのが甲倉造りだったのであろう。校倉造りの甲倉の米の収容能力は、校倉造り丸木倉の実に3倍から4倍(斛の記録ではなく正倉の実測値)に達している。

では桴京とは何か?・・・三国志『高句麗伝』無大倉庫、家家自有小倉、名之為桴京。私流に訳すと「大きな倉庫は無く、家には自家用の小さな倉があり、これを名付けて『桴京』という」・・・根拠は壁画とこれだけ。私は話にならないと思った。高床式建物は確かに北方系建築様式でもあり、北方系のアムール川流域の古アジア系民族の夏小屋(冬小屋はアイヌの寒冷地の穴式住居に似る)で校倉式木組みを伴なっている。高句麗の桴京は、北方少数民族と共通で、古アジア系建築様式をルーツにしている小規模な穀物倉で、収容物は米穀より軽い粟等の雑穀や干肉であろう。

  一方南方系の記録は漢時代の貴州と雲南省で、高床式で丸木と推定される校倉造りである。また日本の神社の建築様式には、南方系の高床式と少数民族の屋根組みがみられることから日本には北からも南からも高床式で校倉造りの建築様式は流入する可能性があり、私は、即断は避けるべきであると考える。

 そもそも日本人男性のDNA・Y染色体分布をみると、一番多いのは縄文系のD2遺伝子で、僅差で2番目に多い遺伝子は弥生系のO2b1で、シェアは日本が最大、中国江南が出自の遺伝子とされている。

また日本人の半数が江南出身である証拠は、アルデヒド分解遺伝子の欠如でも証明されている。(日本の場合、残る半数は縄文系でお酒に強い、その代表は日本美人の産地秋田県と南国鹿児島県)

この遺伝子は、突然変異で発生したが、その場所は中国江南であり、世界で一番この酒に弱い遺伝子を持っているのは、日本人で、その日本で弱い遺伝子を持つ人は、近畿・中部・瀬戸内に多い(一番弱いのは三重県、次は愛知県)。余談だが、韓国人はアジア人の中でも酒に強いグループで、『酒に弱い弥生先祖人』とは大きく異なって北方系と華北系が主流であり、飛鳥や奈良の原住民とは関係が薄いということが分かる。筆者ご自慢の青銅器の流入も北から、朝鮮を支配し当時から世界一の製鉄技術を持っていた漢も北から、百済と新羅を圧迫した高句麗も北から・・朝鮮半島の皆さんは、ことごとく酒に強い北方系の人達だ。

この日本の酒に弱い人達は、縄文時代末期から弥生初期に、大陸から直接、稲と、鉄器と、四眠蚕と、潜水漁法(あわび起し)を日本に持ち込んだことが、学術的に分かっている。日本最古の鉄器は中国製だし、日本の史跡出土の、主要なジャポニカ米の遺伝子は朝鮮の遺跡の炭化米には無い。飛鳥・奈良を中心とする大和王権の地に住む人々は、五七五の和歌の旋律を天皇から庶民まで楽しみ、鵜飼の行事とともに歌会始(歌御会)は、現代まで続く宮中行事となっている。漢語がベースの時調のようなものは宮廷行事には当然無い。

当然高床式の穀物倉庫も江南から直接持ち込まれた可能性が強く残る。ちなみに農具の馬鍬も江南の水田稲作民が持ち込んだと推測されている。弥生祖先人は半農半漁民で稲作と鍛冶技術を呉越の地から持って来たようだ。

  朝鮮半島からの帰化人=今来の渡来民を受け入れたのは、心優しい縄文人と江南からの渡来民(弥生祖先人)が平和裏に混交し人口を増やした弥生人の末裔であり、日本は韓国人が作ったという筆者の強く熱い思いを踏みにじるようで申し訳ないが、朝鮮系は少数派ですね。当然、ASUKA(飛鳥、明日香)も韓国語ではなく、大和言葉で十分説明出来ます。藤村由加氏と同じレベルのエピソードを長々と書かれても、多くの日本人は馬鹿馬鹿しく思い、ついていけないだろう。

 
  筆者は、三国志魏志東夷伝の記述を次のように書いている「金海で製造された鉄が楽浪、ワイ(さんずいに歳)、倭に輸出された」と、続けて次のように解説している「当時、倭は鉄を生産する技術がなかった。そのため、加那と倭は、同盟以上の親密な関係だった」これは、漢文を読めていないか、読めているとしたら悪意の誤訳である可能性がある。

 では『三国志魏書』弁辰伝・・國出鐵、韓、ワイ、倭皆從取之。諸巿買皆用鐵、如中國用錢、又以供給二郡。・・『三国志』魏志弁辰(弁韓辰韓)伝にも、国は鉄を産出し、韓人、ワイ人、倭人など皆、これを(辰韓の)許可を得て取りに来る。諸貨の売買には皆、鉄を用いる。中国で金銭を用いるがごとくであり、また(楽浪、帯方の)二郡に供給する。

 少し解説すると、古代加那の製鉄遺跡は出土していないが、製鉄法は「たたら製鉄」で原料は砂鉄だとされている。日本人技術者の分析によると、この地域の砂鉄は日本の砂鉄に比べ不純物が大変少なく良質である。私は、この「たたら製鉄」は、『野たたら』だとすると矛盾は無いと考える。

朝鮮半島にも近代まで野タタラ製鉄の技術が残っていたが、記録によると・・・明治42年、朝鮮咸鏡北道富寧の南東にある抄河洞の輪域川の河原で、極めて原始的な製鉄現場が確認された。その方法は、河原に乾いた砂鉄を60p積み、その上に大量の薪を乗せ、一夜燃やし続けて翌日に鉄塊を拾い集める方法だった(京城の加藤灌覚氏の実見談)。最も原始的な製鉄法である。弁韓・辰韓・新羅で製鉄の伝統を持つ国の話である・・・と、まとめられている。スピネル構造の鉄酸化物である磁鉄鉱が主成分の砂鉄を還元する木炭の記述が無く、時間も短いのも不思議だが、面白い実見談である。

  筆者は、日本人の考え方「朝鮮半島はストローのように技術や文物を日本に伝えただけ」を痛烈に批判しているが、同じたたら製鉄でも日本では技術が大いに発達し、朝鮮半島ではそのまま技術が発達しない原始的野たたらが残る、私はこのような実例によってストロー論が実証されているのだと思った。

  何れにせよ、この原始的製鉄法ならば、製鉄遺跡は残らないし、『皆、許可を得て取りに来る』という表現にも納得出来る。このような倭人の原始的製鉄法に繋がる技術的内容が読み取れる記述を、どうすれば単に輸出と表現出来るのか、私は筆者の見識を疑いたい。

  また『金海で製造された・・』と原文にない箇所をわざわざ挿入した訳は、近年、金海の遺跡から渡海可能な比較的大型の船が出土し『金海人が船で・・』というストーリーを考えたのだろうが、その後の分析で船体素材が杉と楠と分かって日本製の船であったことが分かっているのだが。船の他にも任那加羅の遺跡から出土したのは、古くは大量の弥生式土器、倭国の巴型青銅器、ヒスイ勾玉等遺物が多数、前方後円墳が14基ある。『輸出』の一語では片付けることは出来ない『加那と倭は、同盟以上の親密な関係だった』というのは、倭国の半島進出と支配を認めた言葉だったのかな???

 筆者は韓国の歴史学者の論を採用して、日本の教科書会社が『帰化人(渡来人)』と記載しているのを極右翼と非難しているが、単なる渡来民では、中国系や韓国系の人達は氏姓を称することも出来ないことを理解していない。投化(帰化)していないと戸籍に載らないし、租庸調の義務も生じないし、民を束ねる称号も得ることは無い。そもそも戸籍制度で最初に『王化の民』として戸籍に登録されたのは、帰化した秦氏、漢氏等で『秦人(はたひと)・漢人(あやひと)等、諸蕃(しょばん)より投化せる者を招集して、国群に安置し、戸籍に編貫す。秦人の戸数七千五十三戸、大蔵掾(おおくらのじょう)を以て、秦伴造(はたのとものみやつこ)となす」。』(日本書紀)とある。つまり弥生人の末裔より先に帰化民を優先登録したのだ。

その後、これらは制度化され、『化外人(帰化する前)』⇒『化内人(帰化人)』・・10年の据え置き期間・・⇒『調庸人(公民・平民)』⇒『天皇の民(王民)』となった。(賦役令)・・・後の時代には調庸人(海外の名)から王民(著名な氏姓)を得る為に活動する記録もある。

また筆者など韓国人は、統一王朝になる以前は帰化人ではないと詭弁を弄するが、そもそも中国で夷狄の帰化を含む中華思想が形成されたのは、周辺民族にまで「戦国の七雄」の支配が及び始めた戦国時代のことで、当然のこと統一国家ではない。
 単なる渡来人では、大和朝廷支配の日本では物乞いか夜盗になるしか無いのである。渡来なら日本に渡っただけで、朝鮮人・中国人のままなので、強制送還された渡来人の実例もあったが、帰化だと『申請手続き』が必須で、申請完了の場合、日本人になってしまう。帰化には特典も様々にあり、戸令四十四化外奴婢条には、『凡化外奴婢。自来投国者。悉放為良。即附籍貫。本主雖先来投国。亦不得認。・・・』つまり、朝鮮とか中国で、奴隷身分であっても、日本に帰化したら、良民(公民・平民)の身分で登録しますよ、渡来民のままなら奴婢のままですよ、帰化しなさいという勧誘制度ですね。実際、主従の渡来者のうち、最初に帰化した主人に従う奴婢も、帰化の申請を行って賎民から良民となっている。

  その結果、日本に来た様々な階層の渡来民は、帰化して身分差別の少ない日本人になって共に頑張って、日本という国を作った訳で、帰化人は渡来民と同義ではない。その後、韓国では奴婢身分は、『国家管理の性奴隷』を含め、人口の70%にも達したが、日本では、5%程度と元々少なかった奴婢だったが、非合理な奴隷制度は平安時代には廃止された。日本の国の品格は、日本型帰化制度の採用によって確立されたのですかね。日本の江戸後期の頃まで奴隷制度を1000年も長く維持していた国が経済発展する訳は無い。帰化を渡来と言い換えて、自尊心を満足して、『日本人を教化した』(韓国国定教科書)と満足しているようでは、あまりにも寂しいではないだろうか。

 長々と書きましたが、韓国的で独特な歴史観を除けば良書の部類でしょう。
https://www.amazon.co.jp/gp/customer-reviews/R2KTXNSNYIU3TF/ref=cm_cr_dp_d_rvw_ttl?ie=UTF8&ASIN=4000610244
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/547.html#c293

[番外地8] このオッサンは普通の学生がドストエフスキーやカフカやニーチェを読んでいる時に金儲けばかりしてたんだね。 中川隆
4. 中川隆[-8955] koaQ7Jey 2020年12月25日 15:18:50 : FSuacswpLw : YmxBMnM2QW1TUC4=[21]
学生は革命運動やったり、音楽バンドやったり、真空管アンプを作ったり、テニス、岩登り、バックグラウンド・スキーをやったり、ポルノ映画見たりとか、遊びをやる事で人間や社会について深く理解できる様になるんだよ。橋洋一さんはそういうのを全くやらなかったから人間の事も社会の事も理解できなくなったんだ。

それから、予備校で教える数学と数学研究者の数学とは質的に全く違う。 受験数学というのは単なる計算術だからね。
このオッサンの数学のレベルはあくまでも学部生レベルだよ。数学の論文なんか絶対に書けない。
http://www.asyura2.com/20/ban8/msg/738.html#c4

[番外地8] このオッサンは普通の学生がドストエフスキーやカフカやニーチェを読んでいる時に金儲けばかりしてたんだね。 中川隆
5. 中川隆[-8954] koaQ7Jey 2020年12月25日 15:21:33 : FSuacswpLw : YmxBMnM2QW1TUC4=[22]
学生は安保闘争や革命運動をやったり、音楽バンドやったり、真空管アンプを作ったり、テニス、岩登り、バックグラウンド・スキーをやったり、エログロ映画見たりとか、遊びをやる事で人間や社会について深く理解できる様になるんだよ。橋洋一さんはそういうのを全くやらなかったから人間の事も社会の事も理解できなくなったんだ。

それから、予備校で教える数学と数学研究者の数学とは質的に全く違う。 受験数学というのは単なる計算術だからね。
このオッサンの数学はあくまでも学部生レベルだよ。数学の論文なんか絶対に書けない。
http://www.asyura2.com/20/ban8/msg/738.html#c5

[番外地8] このオッサンは普通の学生がドストエフスキーやカフカやニーチェを読んでいる時に金儲けばかりしてたんだね。 中川隆
6. 中川隆[-8953] koaQ7Jey 2020年12月25日 15:22:36 : FSuacswpLw : YmxBMnM2QW1TUC4=[23]
学生は安保闘争や革命運動をやったり、音楽バンドやったり、真空管アンプを作ったり、テニス、岩登り、バックカントリー・スキーをやったり、エログロ映画見たりとか、遊びをやる事で人間や社会について深く理解できる様になるんだよ。橋洋一さんはそういうのを全くやらなかったから人間の事も社会の事も理解できなくなったんだ。
それから、予備校で教える数学と数学研究者の数学とは質的に全く違う。 受験数学というのは単なる計算術だからね。このオッサンの数学はあくまでも学部生レベルだよ。数学の論文なんか絶対に書けない。
http://www.asyura2.com/20/ban8/msg/738.html#c6
[近代史5] シャーマニズムの世界 中川隆
11. 2020年12月25日 15:50:09 : FSuacswpLw : YmxBMnM2QW1TUC4=[24]
日本の古代国家と文化を建設したのは朝鮮からの渡来人(上流階層の人々)であった。

倭国へ移住した人々は大きく二つにわけることができる。一つは「王室を中心とした支配層」であり、もう一つは「下層民(韓半島では生きていけない貧困者など)」である。彼らに共通するのは、朝鮮民族に対して怨恨と敵対心をもっていたということである。

弥生時代以降、倭国原住民と渡来人の人口比は「1対9.6」(埴原和郎説)になるほど、渡来人は圧倒的に増えた。しかし、倭国を変貌させたのは、百済の王族であった。

「白村江の戦い」で新羅に敗れた百済人は倭国へ亡命し、百済再興に夢を託した。倭国を日本と命名し、日本人として再出発したのである。渡来人は「朝鮮隠し」を始め、秦氏・漢氏などは先祖を中国系にしたという。「古事記」「日本書紀」では歴史を造作し、皇室側近が朝鮮と関係のある文書を焼失させた。

つまり、5〜8世紀ごろの渡来人は、朝鮮半島で生きられなくなって倭国へ渡った人々が多かったと言える。日本人が、朝鮮に対して野蛮な行為を働き続けたのは、「朝鮮人が朝鮮人の怨恨を晴らす」という潜在意識のためではないかと言われている。

国を捨て、旧来の言葉を日本語化し、朝鮮半島では生きられなくなって日本に渡った脱落者という認識は、本国の朝鮮人の間にかなり広く見られる。

朝鮮人が日本に渡って二世になると相当に変わり、三世代からは日本人化してしまうように、2000年前から渡来しはじめた朝鮮人の子孫たちは日本人化してしまい、自分たちの祖先は縄文時代の人々に始まる、と思っている者が多い。


飛鳥(あすか) 古代朝鮮語(扶余語)の“スカ”(「村」の意)に接頭語アが付いた。

「飛鳥は日本人の心のふるさとだと言っているが、そこに住んでいたのは朝鮮人であった。(井上光貞・山本健吉)」

【東大の最新ゲノム解析】 奈良県が最もCHB・KOR(渡来人)に遺伝的に近い
>Our analysis indicated that, of the 47 prefectures in Japan, Nara was genetically closest to CHB.

奈良県出身 さんま(朝鮮耳・出っ歯)
https://up.gc-img.net/post_img/2020/01/gbqjWZeoiqTXTGc_y53Ud_3115.jpeg
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/436.html#c11

[近代史02] 弥生人の起源 _ 自称専門家の嘘に騙されない為に これ位は知っておこう 中川隆
294. 中川隆[-8952] koaQ7Jey 2020年12月25日 15:51:01 : FSuacswpLw : YmxBMnM2QW1TUC4=[25]
日本の古代国家と文化を建設したのは朝鮮からの渡来人(上流階層の人々)であった。

倭国へ移住した人々は大きく二つにわけることができる。一つは「王室を中心とした支配層」であり、もう一つは「下層民(韓半島では生きていけない貧困者など)」である。彼らに共通するのは、朝鮮民族に対して怨恨と敵対心をもっていたということである。

弥生時代以降、倭国原住民と渡来人の人口比は「1対9.6」(埴原和郎説)になるほど、渡来人は圧倒的に増えた。しかし、倭国を変貌させたのは、百済の王族であった。

「白村江の戦い」で新羅に敗れた百済人は倭国へ亡命し、百済再興に夢を託した。倭国を日本と命名し、日本人として再出発したのである。渡来人は「朝鮮隠し」を始め、秦氏・漢氏などは先祖を中国系にしたという。「古事記」「日本書紀」では歴史を造作し、皇室側近が朝鮮と関係のある文書を焼失させた。

つまり、5〜8世紀ごろの渡来人は、朝鮮半島で生きられなくなって倭国へ渡った人々が多かったと言える。日本人が、朝鮮に対して野蛮な行為を働き続けたのは、「朝鮮人が朝鮮人の怨恨を晴らす」という潜在意識のためではないかと言われている。

国を捨て、旧来の言葉を日本語化し、朝鮮半島では生きられなくなって日本に渡った脱落者という認識は、本国の朝鮮人の間にかなり広く見られる。

朝鮮人が日本に渡って二世になると相当に変わり、三世代からは日本人化してしまうように、2000年前から渡来しはじめた朝鮮人の子孫たちは日本人化してしまい、自分たちの祖先は縄文時代の人々に始まる、と思っている者が多い。


飛鳥(あすか) 古代朝鮮語(扶余語)の“スカ”(「村」の意)に接頭語アが付いた。

「飛鳥は日本人の心のふるさとだと言っているが、そこに住んでいたのは朝鮮人であった。(井上光貞・山本健吉)」

【東大の最新ゲノム解析】 奈良県が最もCHB・KOR(渡来人)に遺伝的に近い
>Our analysis indicated that, of the 47 prefectures in Japan, Nara was genetically closest to CHB.

奈良県出身 さんま(朝鮮耳・出っ歯)
https://up.gc-img.net/post_img/2020/01/gbqjWZeoiqTXTGc_y53Ud_3115.jpeg
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/547.html#c294

[近代史5] 古代の帰化人 中川隆
2. 中川隆[-8951] koaQ7Jey 2020年12月25日 15:52:15 : FSuacswpLw : YmxBMnM2QW1TUC4=[26]
日本の古代国家と文化を建設したのは朝鮮からの渡来人(上流階層の人々)であった。

倭国へ移住した人々は大きく二つにわけることができる。一つは「王室を中心とした支配層」であり、もう一つは「下層民(韓半島では生きていけない貧困者など)」である。彼らに共通するのは、朝鮮民族に対して怨恨と敵対心をもっていたということである。

弥生時代以降、倭国原住民と渡来人の人口比は「1対9.6」(埴原和郎説)になるほど、渡来人は圧倒的に増えた。しかし、倭国を変貌させたのは、百済の王族であった。

「白村江の戦い」で新羅に敗れた百済人は倭国へ亡命し、百済再興に夢を託した。倭国を日本と命名し、日本人として再出発したのである。渡来人は「朝鮮隠し」を始め、秦氏・漢氏などは先祖を中国系にしたという。「古事記」「日本書紀」では歴史を造作し、皇室側近が朝鮮と関係のある文書を焼失させた。

つまり、5〜8世紀ごろの渡来人は、朝鮮半島で生きられなくなって倭国へ渡った人々が多かったと言える。日本人が、朝鮮に対して野蛮な行為を働き続けたのは、「朝鮮人が朝鮮人の怨恨を晴らす」という潜在意識のためではないかと言われている。

国を捨て、旧来の言葉を日本語化し、朝鮮半島では生きられなくなって日本に渡った脱落者という認識は、本国の朝鮮人の間にかなり広く見られる。

朝鮮人が日本に渡って二世になると相当に変わり、三世代からは日本人化してしまうように、2000年前から渡来しはじめた朝鮮人の子孫たちは日本人化してしまい、自分たちの祖先は縄文時代の人々に始まる、と思っている者が多い。

____


飛鳥(あすか) 古代朝鮮語(扶余語)の“スカ”(「村」の意)に接頭語アが付いた。

「飛鳥は日本人の心のふるさとだと言っているが、そこに住んでいたのは朝鮮人であった。(井上光貞・山本健吉)」

【東大の最新ゲノム解析】 奈良県が最もCHB・KOR(渡来人)に遺伝的に近い
>Our analysis indicated that, of the 47 prefectures in Japan, Nara was genetically closest to CHB.

奈良県出身 さんま(朝鮮耳・出っ歯)
https://up.gc-img.net/post_img/2020/01/gbqjWZeoiqTXTGc_y53Ud_3115.jpeg
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/378.html#c2

[近代史5] 弥生人の起源 中川隆
10. 中川隆[-8950] koaQ7Jey 2020年12月25日 15:53:06 : FSuacswpLw : YmxBMnM2QW1TUC4=[27]
日本の古代国家と文化を建設したのは朝鮮からの渡来人(上流階層の人々)であった。

倭国へ移住した人々は大きく二つにわけることができる。一つは「王室を中心とした支配層」であり、もう一つは「下層民(韓半島では生きていけない貧困者など)」である。彼らに共通するのは、朝鮮民族に対して怨恨と敵対心をもっていたということである。

弥生時代以降、倭国原住民と渡来人の人口比は「1対9.6」(埴原和郎説)になるほど、渡来人は圧倒的に増えた。しかし、倭国を変貌させたのは、百済の王族であった。

「白村江の戦い」で新羅に敗れた百済人は倭国へ亡命し、百済再興に夢を託した。倭国を日本と命名し、日本人として再出発したのである。渡来人は「朝鮮隠し」を始め、秦氏・漢氏などは先祖を中国系にしたという。「古事記」「日本書紀」では歴史を造作し、皇室側近が朝鮮と関係のある文書を焼失させた。

つまり、5〜8世紀ごろの渡来人は、朝鮮半島で生きられなくなって倭国へ渡った人々が多かったと言える。日本人が、朝鮮に対して野蛮な行為を働き続けたのは、「朝鮮人が朝鮮人の怨恨を晴らす」という潜在意識のためではないかと言われている。

国を捨て、旧来の言葉を日本語化し、朝鮮半島では生きられなくなって日本に渡った脱落者という認識は、本国の朝鮮人の間にかなり広く見られる。

朝鮮人が日本に渡って二世になると相当に変わり、三世代からは日本人化してしまうように、2000年前から渡来しはじめた朝鮮人の子孫たちは日本人化してしまい、自分たちの祖先は縄文時代の人々に始まる、と思っている者が多い。

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飛鳥(あすか) 古代朝鮮語(扶余語)の“スカ”(「村」の意)に接頭語アが付いた。

「飛鳥は日本人の心のふるさとだと言っているが、そこに住んでいたのは朝鮮人であった。(井上光貞・山本健吉)」

【東大の最新ゲノム解析】 奈良県が最もCHB・KOR(渡来人)に遺伝的に近い
>Our analysis indicated that, of the 47 prefectures in Japan, Nara was genetically closest to CHB.

奈良県出身 さんま(朝鮮耳・出っ歯)
https://up.gc-img.net/post_img/2020/01/gbqjWZeoiqTXTGc_y53Ud_3115.jpeg
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/255.html#c10

[近代史5] 日本語の起源 中川隆
13. 中川隆[-8949] koaQ7Jey 2020年12月25日 15:53:40 : FSuacswpLw : YmxBMnM2QW1TUC4=[28]
日本の古代国家と文化を建設したのは朝鮮からの渡来人(上流階層の人々)であった。

倭国へ移住した人々は大きく二つにわけることができる。一つは「王室を中心とした支配層」であり、もう一つは「下層民(韓半島では生きていけない貧困者など)」である。彼らに共通するのは、朝鮮民族に対して怨恨と敵対心をもっていたということである。

弥生時代以降、倭国原住民と渡来人の人口比は「1対9.6」(埴原和郎説)になるほど、渡来人は圧倒的に増えた。しかし、倭国を変貌させたのは、百済の王族であった。

「白村江の戦い」で新羅に敗れた百済人は倭国へ亡命し、百済再興に夢を託した。倭国を日本と命名し、日本人として再出発したのである。渡来人は「朝鮮隠し」を始め、秦氏・漢氏などは先祖を中国系にしたという。「古事記」「日本書紀」では歴史を造作し、皇室側近が朝鮮と関係のある文書を焼失させた。

つまり、5〜8世紀ごろの渡来人は、朝鮮半島で生きられなくなって倭国へ渡った人々が多かったと言える。日本人が、朝鮮に対して野蛮な行為を働き続けたのは、「朝鮮人が朝鮮人の怨恨を晴らす」という潜在意識のためではないかと言われている。

国を捨て、旧来の言葉を日本語化し、朝鮮半島では生きられなくなって日本に渡った脱落者という認識は、本国の朝鮮人の間にかなり広く見られる。

朝鮮人が日本に渡って二世になると相当に変わり、三世代からは日本人化してしまうように、2000年前から渡来しはじめた朝鮮人の子孫たちは日本人化してしまい、自分たちの祖先は縄文時代の人々に始まる、と思っている者が多い。

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飛鳥(あすか) 古代朝鮮語(扶余語)の“スカ”(「村」の意)に接頭語アが付いた。

「飛鳥は日本人の心のふるさとだと言っているが、そこに住んでいたのは朝鮮人であった。(井上光貞・山本健吉)」

【東大の最新ゲノム解析】 奈良県が最もCHB・KOR(渡来人)に遺伝的に近い
>Our analysis indicated that, of the 47 prefectures in Japan, Nara was genetically closest to CHB.

奈良県出身 さんま(朝鮮耳・出っ歯)
https://up.gc-img.net/post_img/2020/01/gbqjWZeoiqTXTGc_y53Ud_3115.jpeg
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/254.html#c13

[近代史5] 弥生人の起源 中川隆
11. 中川隆[-8948] koaQ7Jey 2020年12月25日 16:00:21 : FSuacswpLw : YmxBMnM2QW1TUC4=[29]
篠田謙一の学説の変化


篠田謙一
昔 「縄文人と弥生人は仲良く混血!」「虐殺はなかった!」
今 「こっち(韓国)に引っ張る 何かがあった・・・」


篠田著書(2007年出版)
「征服による融合では、基本的に(征服者側のオスの遺伝子である)Y染色体DNAの方が多く流入するのです。もし渡来人が縄文時代から続いた在来社会武力によって征服したのであれば、その時点でハプログループDは著しく頻度を減少させたでしょう。縄文・弥生移行期の状況が基本的には平和のうちに推移したと仮定しなければ説明がつきません。また日本のY染色体DNAは、日本の歴史のなかで、その頻度を大きく変えるような激しい戦争や虐殺行為がなかったことを示しているようにも見えます。」


弥生人のDNAで迫る日本人成立の謎(2018年放送)




篠田謙一「実はですね、現代日本人は、もう既に、この辺りだということが分かったんですね。つまり、弥生人って、混血していけば恐らく、混血する相手は、この縄文人になりますから、当然、現代日本人の位置っていうのは、こちらにずれてくるはずなんですよね。ところが、そうならなくてこっちに来てしまったということで、ちょっと考え方を変えなきゃならないというふうに思ったわけですね。つまり、こっち(韓国人)に引っ張る、何かがなければいけないということになるんですね・・・。」
https://livedoor.blogimg.jp/wan_nyan_zanmai-history/imgs/d/0/d0f1e875.png



シンポでは、これまで蓄積されてきた考察を根本から覆すことになるかもしれない発見も明らかにされた。
国立科学博物館の篠田謙一人類研究部長が示した韓国・釜山沖の加徳島で見つかった人骨のゲノム解析だ。
「この人たちが渡来したとするならば、(縄文人と)混血なしで今の日本人になる」と篠田さん。(2020年記事)
https://image.prntscr.com/image/4nIX5f21SPmeJ_Fr-7PyYw.png


http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/255.html#c11
[近代史5] シャーマニズムの世界 中川隆
12. 中川隆[-8947] koaQ7Jey 2020年12月25日 16:01:38 : FSuacswpLw : YmxBMnM2QW1TUC4=[30]
篠田謙一の学説の変化


篠田謙一
昔 「縄文人と弥生人は仲良く混血!」「虐殺はなかった!」
今 「こっち(韓国)に引っ張る 何かがあった・・・」


篠田著書(2007年出版)
「征服による融合では、基本的に(征服者側のオスの遺伝子である)Y染色体DNAの方が多く流入するのです。もし渡来人が縄文時代から続いた在来社会武力によって征服したのであれば、その時点でハプログループDは著しく頻度を減少させたでしょう。縄文・弥生移行期の状況が基本的には平和のうちに推移したと仮定しなければ説明がつきません。また日本のY染色体DNAは、日本の歴史のなかで、その頻度を大きく変えるような激しい戦争や虐殺行為がなかったことを示しているようにも見えます。」


弥生人のDNAで迫る日本人成立の謎(2018年放送)




篠田謙一「実はですね、現代日本人は、もう既に、この辺りだということが分かったんですね。つまり、弥生人って、混血していけば恐らく、混血する相手は、この縄文人になりますから、当然、現代日本人の位置っていうのは、こちらにずれてくるはずなんですよね。ところが、そうならなくてこっちに来てしまったということで、ちょっと考え方を変えなきゃならないというふうに思ったわけですね。つまり、こっち(韓国人)に引っ張る、何かがなければいけないということになるんですね・・・。」
https://livedoor.blogimg.jp/wan_nyan_zanmai-history/imgs/d/0/d0f1e875.png



シンポでは、これまで蓄積されてきた考察を根本から覆すことになるかもしれない発見も明らかにされた。
国立科学博物館の篠田謙一人類研究部長が示した韓国・釜山沖の加徳島で見つかった人骨のゲノム解析だ。

「この人たちが渡来したとするならば、(縄文人と)混血なしで今の日本人になる」と篠田さん。(2020年記事)
https://image.prntscr.com/image/4nIX5f21SPmeJ_Fr-7PyYw.png


http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/436.html#c12
[近代史5] 古代の帰化人 中川隆
3. 中川隆[-8946] koaQ7Jey 2020年12月25日 16:02:27 : FSuacswpLw : YmxBMnM2QW1TUC4=[31]
篠田謙一の学説の変化


篠田謙一
昔 「縄文人と弥生人は仲良く混血!」「虐殺はなかった!」
今 「こっち(韓国)に引っ張る 何かがあった・・・」


篠田著書(2007年出版)
「征服による融合では、基本的に(征服者側のオスの遺伝子である)Y染色体DNAの方が多く流入するのです。もし渡来人が縄文時代から続いた在来社会武力によって征服したのであれば、その時点でハプログループDは著しく頻度を減少させたでしょう。縄文・弥生移行期の状況が基本的には平和のうちに推移したと仮定しなければ説明がつきません。また日本のY染色体DNAは、日本の歴史のなかで、その頻度を大きく変えるような激しい戦争や虐殺行為がなかったことを示しているようにも見えます。」


弥生人のDNAで迫る日本人成立の謎(2018年放送)




篠田謙一「実はですね、現代日本人は、もう既に、この辺りだということが分かったんですね。つまり、弥生人って、混血していけば恐らく、混血する相手は、この縄文人になりますから、当然、現代日本人の位置っていうのは、こちらにずれてくるはずなんですよね。ところが、そうならなくてこっちに来てしまったということで、ちょっと考え方を変えなきゃならないというふうに思ったわけですね。つまり、こっち(韓国人)に引っ張る、何かがなければいけないということになるんですね・・・。」
https://livedoor.blogimg.jp/wan_nyan_zanmai-history/imgs/d/0/d0f1e875.png



シンポでは、これまで蓄積されてきた考察を根本から覆すことになるかもしれない発見も明らかにされた。
国立科学博物館の篠田謙一人類研究部長が示した韓国・釜山沖の加徳島で見つかった人骨のゲノム解析だ。

「この人たちが渡来したとするならば、(縄文人と)混血なしで今の日本人になる」と篠田さん。(2020年記事)
https://image.prntscr.com/image/4nIX5f21SPmeJ_Fr-7PyYw.png


http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/378.html#c3
[近代史5] 日本語の起源 中川隆
14. 中川隆[-8945] koaQ7Jey 2020年12月25日 16:02:57 : FSuacswpLw : YmxBMnM2QW1TUC4=[32]
篠田謙一の学説の変化


篠田謙一
昔 「縄文人と弥生人は仲良く混血!」「虐殺はなかった!」
今 「こっち(韓国)に引っ張る 何かがあった・・・」


篠田著書(2007年出版)
「征服による融合では、基本的に(征服者側のオスの遺伝子である)Y染色体DNAの方が多く流入するのです。もし渡来人が縄文時代から続いた在来社会武力によって征服したのであれば、その時点でハプログループDは著しく頻度を減少させたでしょう。縄文・弥生移行期の状況が基本的には平和のうちに推移したと仮定しなければ説明がつきません。また日本のY染色体DNAは、日本の歴史のなかで、その頻度を大きく変えるような激しい戦争や虐殺行為がなかったことを示しているようにも見えます。」


弥生人のDNAで迫る日本人成立の謎(2018年放送)




篠田謙一「実はですね、現代日本人は、もう既に、この辺りだということが分かったんですね。つまり、弥生人って、混血していけば恐らく、混血する相手は、この縄文人になりますから、当然、現代日本人の位置っていうのは、こちらにずれてくるはずなんですよね。ところが、そうならなくてこっちに来てしまったということで、ちょっと考え方を変えなきゃならないというふうに思ったわけですね。つまり、こっち(韓国人)に引っ張る、何かがなければいけないということになるんですね・・・。」
https://livedoor.blogimg.jp/wan_nyan_zanmai-history/imgs/d/0/d0f1e875.png



シンポでは、これまで蓄積されてきた考察を根本から覆すことになるかもしれない発見も明らかにされた。
国立科学博物館の篠田謙一人類研究部長が示した韓国・釜山沖の加徳島で見つかった人骨のゲノム解析だ。

「この人たちが渡来したとするならば、(縄文人と)混血なしで今の日本人になる」と篠田さん。(2020年記事)
https://image.prntscr.com/image/4nIX5f21SPmeJ_Fr-7PyYw.png


http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/254.html#c14
[近代史02] 弥生人の起源 _ 自称専門家の嘘に騙されない為に これ位は知っておこう 中川隆
295. 中川隆[-8944] koaQ7Jey 2020年12月25日 16:03:32 : FSuacswpLw : YmxBMnM2QW1TUC4=[33]
篠田謙一の学説の変化


篠田謙一
昔 「縄文人と弥生人は仲良く混血!」「虐殺はなかった!」
今 「こっち(韓国)に引っ張る 何かがあった・・・」


篠田著書(2007年出版)
「征服による融合では、基本的に(征服者側のオスの遺伝子である)Y染色体DNAの方が多く流入するのです。もし渡来人が縄文時代から続いた在来社会武力によって征服したのであれば、その時点でハプログループDは著しく頻度を減少させたでしょう。縄文・弥生移行期の状況が基本的には平和のうちに推移したと仮定しなければ説明がつきません。また日本のY染色体DNAは、日本の歴史のなかで、その頻度を大きく変えるような激しい戦争や虐殺行為がなかったことを示しているようにも見えます。」


弥生人のDNAで迫る日本人成立の謎(2018年放送)




篠田謙一「実はですね、現代日本人は、もう既に、この辺りだということが分かったんですね。つまり、弥生人って、混血していけば恐らく、混血する相手は、この縄文人になりますから、当然、現代日本人の位置っていうのは、こちらにずれてくるはずなんですよね。ところが、そうならなくてこっちに来てしまったということで、ちょっと考え方を変えなきゃならないというふうに思ったわけですね。つまり、こっち(韓国人)に引っ張る、何かがなければいけないということになるんですね・・・。」
https://livedoor.blogimg.jp/wan_nyan_zanmai-history/imgs/d/0/d0f1e875.png



シンポでは、これまで蓄積されてきた考察を根本から覆すことになるかもしれない発見も明らかにされた。
国立科学博物館の篠田謙一人類研究部長が示した韓国・釜山沖の加徳島で見つかった人骨のゲノム解析だ。

「この人たちが渡来したとするならば、(縄文人と)混血なしで今の日本人になる」と篠田さん。(2020年記事)
https://image.prntscr.com/image/4nIX5f21SPmeJ_Fr-7PyYw.png


http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/547.html#c295
[近代史4] スピーカーユニットは平面バッフルに取り付けるのが一番安くて、音も一番良い 中川隆
37. 中川隆[-8943] koaQ7Jey 2020年12月25日 18:04:42 : FSuacswpLw : YmxBMnM2QW1TUC4=[34]
561: RW-2 :2020/12/25(金) 17:56:16 HOST:252.18.135.27.ap.yournet.ne.jp

P610でもPE-16でもゲンコツでも、あの当時の真空管時代の設計のユニットは
やっぱ平面バッフルか後面開放箱で鳴らすのが宜しいようで。古色蒼然でワイド
レンジでもありませんが安心感の中に溌剌感もあって意外にリアリティある発声。

バスレフとかバックロードなる誤魔化し箱に入れますとその良さが消え失せます。
https://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/music/11602/1417941619/l50
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/511.html#c37

[番外地8] このオッサンは普通の学生がドストエフスキーやカフカやニーチェを読んでいる時に金儲けばかりしてたんだね。 中川隆
7. 中川隆[-8942] koaQ7Jey 2020年12月25日 18:49:29 : FSuacswpLw : YmxBMnM2QW1TUC4=[35]
学生は安保闘争や革命運動をやったり、音楽バンドやったり、真空管アンプを作ったり、テニス、岩登り、バックカントリー・スキーをやったり、エログロ映画見たりとか、遊びをやる事で人間や社会について深く理解できる様になるんだよ。橋洋一さんはそういうのを全くやらなかったから人間の事も社会の事も理解できなくなったんだ。
それから、予備校で教える数学と数学研究者の数学とは質的に全く違う。 受験数学というのは単なる計算術だからね。
このオッサンの数学はあくまでも学部生レベルだよ。数学の論文なんか絶対に書けない。
まともな人間なら、自分は数学の専門家だ、なんて恥ずかしくてとても言えないレベルだ。
http://www.asyura2.com/20/ban8/msg/738.html#c7
[近代史4] EAR の真空管アンプ 中川隆
4. 2020年12月25日 19:03:29 : FSuacswpLw : YmxBMnM2QW1TUC4=[36]
<訃報>EAR創業者 ティム・デ・パラヴィチーニ氏が逝去
ファイルウェブ編集部
2020年12月23日

EARの創業者であり、ヨシノトレーディング(株)の取締役でもあるティム・デ・パラヴィチーニ氏が、2020年12月17日早朝に逝去された。


1945年にアフリカ・ナイジェリアで生まれたパラヴィチーニ氏は、著名ブランドのオーディオエンジニアを経て1978年にEAR社を設立。アナログ関連製品の開発はもとより、モービル・フィデリティー社等とのレコードの制作やマスタリングも手がけるなど、生涯をかけてアナログ再生を追求してきた才能溢れるエンジニアであった。

パラヴィチーニ氏は亡くなる直前まで、子息のネヴィン・デ・パラヴィチーニ氏と300Bの真空管を用いたパワーアンプの開発を進めており、遺作となるこの製品の発売は来春に予定されているという。
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/480.html#c4

[リバイバル3] CD 専用プレーヤー EAR Acute Classic _ ティム・デ・パラヴィチーニの世界 中川隆
65. 中川隆[-8941] koaQ7Jey 2020年12月25日 19:07:10 : FSuacswpLw : YmxBMnM2QW1TUC4=[37]
<訃報>EAR創業者 ティム・デ・パラヴィチーニ氏が逝去
ファイルウェブ編集部
2020年12月23日

EARの創業者であり、ヨシノトレーディング(株)の取締役でもあるティム・デ・パラヴィチーニ氏が、2020年12月17日早朝に逝去された。


1945年にアフリカ・ナイジェリアで生まれたパラヴィチーニ氏は、著名ブランドのオーディオエンジニアを経て1978年にEAR社を設立。アナログ関連製品の開発はもとより、モービル・フィデリティー社等とのレコードの制作やマスタリングも手がけるなど、生涯をかけてアナログ再生を追求してきた才能溢れるエンジニアであった。

パラヴィチーニ氏は亡くなる直前まで、子息のネヴィン・デ・パラヴィチーニ氏と300Bの真空管を用いたパワーアンプの開発を進めており、遺作となるこの製品の発売は来春に予定されているという。
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/853.html#c65

[リバイバル3] EAR の真空管アンプ 中川隆
30. 中川隆[-8940] koaQ7Jey 2020年12月25日 19:07:57 : FSuacswpLw : YmxBMnM2QW1TUC4=[38]
<訃報>EAR創業者 ティム・デ・パラヴィチーニ氏が逝去
ファイルウェブ編集部
2020年12月23日

EARの創業者であり、ヨシノトレーディング(株)の取締役でもあるティム・デ・パラヴィチーニ氏が、2020年12月17日早朝に逝去された。


1945年にアフリカ・ナイジェリアで生まれたパラヴィチーニ氏は、著名ブランドのオーディオエンジニアを経て1978年にEAR社を設立。アナログ関連製品の開発はもとより、モービル・フィデリティー社等とのレコードの制作やマスタリングも手がけるなど、生涯をかけてアナログ再生を追求してきた才能溢れるエンジニアであった。

パラヴィチーニ氏は亡くなる直前まで、子息のネヴィン・デ・パラヴィチーニ氏と300Bの真空管を用いたパワーアンプの開発を進めており、遺作となるこの製品の発売は来春に予定されているという。
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/947.html#c30

[リバイバル4] LUXMAN MB-300 中川隆
10. 中川隆[-8939] koaQ7Jey 2020年12月25日 19:08:41 : FSuacswpLw : YmxBMnM2QW1TUC4=[39]
<訃報>EAR創業者 ティム・デ・パラヴィチーニ氏が逝去
ファイルウェブ編集部
2020年12月23日

EARの創業者であり、ヨシノトレーディング(株)の取締役でもあるティム・デ・パラヴィチーニ氏が、2020年12月17日早朝に逝去された。


1945年にアフリカ・ナイジェリアで生まれたパラヴィチーニ氏は、著名ブランドのオーディオエンジニアを経て1978年にEAR社を設立。アナログ関連製品の開発はもとより、モービル・フィデリティー社等とのレコードの制作やマスタリングも手がけるなど、生涯をかけてアナログ再生を追求してきた才能溢れるエンジニアであった。

パラヴィチーニ氏は亡くなる直前まで、子息のネヴィン・デ・パラヴィチーニ氏と300Bの真空管を用いたパワーアンプの開発を進めており、遺作となるこの製品の発売は来春に予定されているという。
http://www.asyura2.com/18/revival4/msg/108.html#c10

[近代史4] 売国政治家列伝 _ 安倍晋三 中川隆
51. 2020年12月25日 20:48:03 : FSuacswpLw : YmxBMnM2QW1TUC4=[40]

異次元の大嘘つき
コラム狙撃兵2020年12月25日

 桜を見る会の前夜祭の費用を安倍事務所が補填していた問題で、東京地検特捜部は24日、後援会代表者である安倍晋三を嫌疑不十分で不起訴とし、公設秘書の配川博之について政治資金収支報告書に3022万円を記載しなかったとして同法違反で略式起訴(罰金100万円の略式命令)することで捜査の幕を引いた。大山鳴動して鼠一匹とはこのことで、安倍晋三及び安倍事務所が嘘に嘘を重ねてきたこの騒動は、最終的に「秘書がぜ〜んぶ悪い」で一件落着なのだという。それで法の下に平等とか検察が正義だなんていわれても金輪際誰も信じないし、へそが茶を沸かすような話である。


 国会では「事務所は関与していない」「差額は補填していない」「明細書はない」「(ホテルとの)契約自体は個々の参加者であった」等々、開き直って答弁していたが、それらは結果としてすべて嘘だったことになり、衆院調査局の調べではわかっている虚偽答弁だけでも118回にものぼるという。118回の嘘となると、既に「嘘の上塗り」という次元をこえて、「嘘で塗り固めた」という表現の方がふさわしく、“異次元の大嘘つき”の称号がピッタリのように思う。また桜騒動だけで118回なら、モリカケ含めたら何百個になるというのだろうか。


 ところで、「秘書がぜ〜んぶ悪い」の筋書きによると、問題の渦中に秘書が代議士に「事務所は関与していない」「差額は補填していない」「明細書はない」等々の大嘘をつき続け、時の総理大臣に国会でも虚偽答弁をくり返させ、なおかつ独断で安倍事務所の運営費として預けられている代議士の私費から3000万円以上ものカネを代議士の了解もなく使っていたことになり、それ自体、とんでもない公設秘書だったということになる。通常の代議士であれば激オコで、即刻処分するレベルである。まずあり得ないことではあるが、しかし、そういう話にして東京地検特捜部も「嫌疑不十分で不起訴」にしたのである。嘘つきは安倍晋三なのではなく、公設第一秘書の配川博之と、東京事務所の私設秘書・西山猛が大嘘つきで、安倍晋三は欺された被害者という構図である。


 では、安倍晋三が激怒してそんな大嘘つきの配川をクビにしたのかというと、最近までケロッとして地元下関では引き続き筆頭秘書然として振る舞っていたことを安倍派の面々はみんな知っているし、「配川が全権を失った」とか、「今後はナンバー2の畑村が下関を仕切る」なんて話にはまったくなっていない。市議会議員とか県議会議員どもも含めて、「配川さんがいなくなったら、今後は僕たち誰にかしずいたらいいの?」って心配をしている者も誰もいない。「配川退場」は安倍事務所の今後の運営を巡って大問題になるはずなのに、その取り仕切り役が退場するとは誰も思っていないのが選挙区における実情なのである。従って、本人の申し出により公設第一秘書を辞職し、しばらく謹慎するというものの、ほとぼり冷めたら「公設第一秘書」という肩書きではない私設の筆頭秘書として引き続き権力を振るうつもりなのではないか? という見方だってあるのである。


 なお、選挙区で暮らす有権者のなかで「この時期にあり得ないよな…」と話題になったのは、19〜21日にかけて安倍晋三が東京からたくさんのSPを引き連れて選挙区に戻り、地元企業や団体、後援会に挨拶回りしたのと併せて、秘書どもがチケットを売りまくって櫻井よしこを招いた『正論』の講演会(産経新聞のみ取材が許され、他社は会場の外に閉め出された)を開催したことだ。「東京からコロナがうつるだろうが!」「8人の会食すら問題になる時期にまたなぜ人を集めるの?」という声しきりであった。この期に及んで山口4区はなお安倍ブランドの東京での権力に投機し続けるのかが問われている。    吉田充春
https://www.chosyu-journal.jp/column/19579

http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/789.html#c51

   

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