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[番外地11] 大昔からグローバリストだった漢民族の天皇一族による人身売買と日本列島・アジア侵略の歴史 中川隆
1. 中川隆[-10932] koaQ7Jey 2024年4月13日 01:51:00 : kmMjUwx9vE : YkJGUkkvZWRkQlE=[1]
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自虐史観というのは、
日本は古来からカースト制国家で支配層の考え方・感性と一般国民の考え方・感性とは全く違う、
アジア侵略やアジア人虐殺を日本兵にやらせたのはあくまでも天皇や日本の支配層だ、
という事実を指摘したもの。
中国共産党は終戦後ずっと、日本のアジア侵略は日本の支配層が行なわせたものであり、日本兵も虐殺された中国人同様に被害者だと言い続けてきた:
・chousen で長江の稲作民と西遼河流域の黍(キビ)農耕民が混血して現代日本人と全く同じ遺伝子の日本語を話す無土器文化人(倭人)になる
・chousen の無土器文化人(倭人)が北九州に移民して水田農耕を始める
・ソウルに居た漢民族の天皇一族が北九州に移民、植民都市の伊都国を作り、日本人奴隷(生口)を青銅器・鉄と交換する奴隷貿易で稼いでいた。後漢の光武帝が贈った金印(漢委奴国王印)の「委奴」は「いと」と読む。
・神武東征・倭国大乱 → 天皇一族が日向・大和・丹後に天孫降臨、縄文勢力をジェノサイド、若い縄文女性は殺さないで性奴隷にした。
・ヤマトタケルの東征 → 関東の縄文勢力をジェノサイド、若い縄文女性は殺さないで性奴隷にした。

・坂上田村麻呂の蝦夷征伐 → 東北の縄文勢力をジェノサイド、若い縄文女性は殺さないで性奴隷にした。

・10世紀に沖縄へ日本人大量入植 → 沖縄の縄文勢力をジェノサイド、若い縄文女性は殺さないで性奴隷にした。

・10世紀に西表島・石垣島へ日本人大量入植 → 西表島・石垣島に先住していた縄文系先住民をジェノサイド

・豊臣秀吉の chousen 出兵 → chousen で奴隷狩り、平戸や長崎は世界有数の奴隷市場になった。ポルトガル商人に奴隷を売って鉄砲や白糸を得た

・明治維新 → 田布施の chousen 人が徳川幕府を倒し英米の傀儡政権を作る。

・神仏分離令・廃仏毀釈・神社合祀令 → 神仏習合の禁止・日本の仏教と神道を弾圧、六部・虚無僧・山伏・梓巫女・憑祈祷・狐下しを禁止、神社を統廃合した。日本人は無信仰・無神論の民族に変わった

・欧米との貿易開始 → 日本人女性50万人を騙して売春婦として海外に売り飛ばした

・北海道への和人大量入植 → 最後の縄文勢力をジェノサイド

・千島列島の乗っ取り → 千島アイヌを色丹島の強制労働所に集めて絶滅させる

・chousen の乗っ取り → 農民から農地を取り上げ、作物を日本へ飢餓輸出、chousen 女性を性奴隷 にする

・台湾のアヘン漸禁政策 → アヘンを専売化し、濫用防止の名の下に、大規模なアヘンの密売を主宰することで日本軍資金を調達した。

・満州の乗っ取り → 農民から農地を取り上げケシを栽培、麻薬商売で ぼろ儲け

・関東大震災 → JPモルガンから復興費用を借り、それ以降天皇一族は JPモルガンのエージェントになる

・2・26事件 → 政府の新自由主義政策に憤った共産主義者の将校が革命を起こすが、味方だと思っていた昭和天皇に裏切られる

・大東亜共栄圏 → 満州でケシ栽培、chousen の工場で麻薬製造、中国・東南アジアで麻薬を売って ぼろ儲けする体制

・南京大虐殺・慰安婦強制連行・731部隊の人体実験 → 昭和天皇直々の命令でやったので陸軍や外務省では止められなかった

・中国・東南アジア侵略 → 食料を強制調達して日本に送り現地で1000万人以上餓死させる。 現地女性を性奴隷 にする

・近衛上奏文 → 日本陸軍の軍人の殆どが共産主義者で、ソ連の対日開戦に合わせて共産革命を起こそうとしている、と警告

・太平洋戦争 → 日本陸軍による共産革命を防ぐ為にアメリカと八百長戦争をやって、アメリカ軍に日本を占領して貰った

・大空襲・原爆投下 → 共産主義者を武器・食料無しで最前線へ送り、本土の共産主義者も大空襲・原爆投下で革命を起こす気力を無くさせた

・特殊慰安施設協会(RAA)設置 → 35万人の日本駐留米軍の為に、仕事の無い日本女性に女性事務員募集と偽り 7万人の慰安婦を集めた。当時の大蔵省主計局長池田勇人(後の総理大臣)が日本勧業銀行に指示を出して資金を提供した。
朝鮮戦争が始まると横浜、大阪(のち奈良)、小倉の三カ所に日本人慰安婦を集めた米軍管理の「センター」を設置した。

・極東国際軍事裁判(東京裁判) → 昭和天皇の戦争犯罪を日本陸軍の軍人に肩代わりさせる目的で開廷される。

・日本国憲法第九条 → 日本陸軍は共産主義者ばかりだったので、共産革命を起こせない様に軍隊を廃止した

・一億総中流社会 → GHQ は日本共産党と労働組合を合法化、農地解放、意図的なインフレ政策・預金封鎖で富裕層の資産を奪い貧困層に分配した

・自民党による一党独裁 → 農地解放で農地をタダ同然で手に入れた小作人・貧農全員が自民党を支持したので自民党以外の政党は政権を取れなくなった

・chouse 戦争・ベトナム戦争 → 日本はアメリカの侵略戦争に加担、戦争特需でぼろ儲けして GDP 世界第二位の超大国になる

・1971年 本多勝一のルポ 「中国の旅」が朝日新聞に連載される → 南京大虐殺や戦時中の中国での日本支配の実態をルポ、文春や新潮は昭和天皇の戦争犯罪を隠蔽する為に渡部昇一や鈴木明に本多勝一批判をさせ、それ以降右翼は現在に至る迄、南京大虐殺や慰安婦強制連行を否定する悪質なデマを流し続けている。

・日中国交正常化 → 中国に技術援助すると持ち掛け、中国の日本への戦争賠償請求権を放棄させた

・プラザ合意 → 日本からの膨大な輸入でアメリカ経済が崩壊したので、日本に政治的圧力をかけ超円高にして日本からの輸入を減らそうとした。アメリカは10年間で総額430兆円の公共投資の実施を日本政府に約束させ、意図的に平成バブルを起こさせた。

・平成バブル崩壊 → 日本の凄まじい経済侵略を恐れた CIA は先物取引・オプション取引、金融工学の研究をした。 ソロモン・ブラザーズ証券は裁定取引を使って日経平均株価を38,915円まで上げてから売り攻勢をかけ 7607円まで暴落させるのに成功した。 更に日銀に金融引き締めをさせ、外資はインサイダー情報を使って日本株を底値で爆買い、日本株の3割、株取引の7割は外資になった。

・中国経済・kan国経済の躍進 → 日本の凄まじい経済侵略を恐れた CIA はアメリカの製造業をすべて中国に移転させ、中国の元とkan 国のウォンを意図的に通貨安にして、日本の輸出を壊滅させた

・迂回輸出 → 日本からアメリカに直接輸出するのではなく、組み立てだけ中国・kan国の工場で行って、中国製品・kan国製品として迂回輸出して稼ぐ様になった

・中国の環境破壊 → 日本企業の中国工場では猛毒化学物質が含まれる汚染水や煙をそのまま垂れ流している。中国では飲料水や農業用水にも水銀・鉛が含まれ、人間が住めない土地になってしまった。

・中国・kan国の反日運動 → 日本企業の中国工場では中国人従業員をタダ同然で酷使、日本企業のロリコン社員は毎晩10歳以下の女児と xxx しまくったので、中国人の怒りを買って反日暴動が頻発した

・尖閣乗っ取り → 尖閣を漁場にしていた台湾人を追い出す。中華民国(台湾)は尖閣は宜蘭県に属す島嶼だ、と昔から主張している。宜蘭は台湾原住民平埔族の中の一群であるクヴァラン族が広く住んでいた地域で、1632年にはクヴァラン族が歴史資料に登場している。

が、大まかな流れです。

▲△▽▼

日本の支配者は今も昔も chousen 人なので残虐で非人間的、どんな酷い事でも平然と実行できるのです
今の日本で生き残っている縄文人はアイヌ人、縄文系琉球人、douwa buraku 民だけです。

天皇家は漢民族で百済語を話していた、
弥生人(chousenの無土器文化人)は日本語を話していた、
縄文人はアイヌ語を話していた。

半島出身のスメラ尊の和風諡号にはかならず「天」がつく。書紀で「天」は chousen 半島を指すのだ。
________

明治維新は田布施の chousen人 による日本の乗っ取り:

明治以降の天皇は田布施の李朝王朝の関係者だった:
鬼塚英昭 戦争はすべて八百長 『日本の真相』
https://www.youtube.com/watch?v=eUIhcvcSmrA

【田布施システム】chousen系に乗っ取られた日本の裏歴史! 歴代首相を生み出す謎の村「田布施」を専門家が徹底解説!
https://tocana.jp/2019/12/post_130392_entry.html
https://tocana.jp/2020/09/post_171763_entry.html
http://www.asyura2.com/23/ban11/msg/668.html#c1

[近代史4] 鬼塚英昭 戦争はすべて八百長 『日本の真相』 中川隆
5. 中川隆[-10931] koaQ7Jey 2024年4月13日 01:55:42 : kmMjUwx9vE : YkJGUkkvZWRkQlE=[2]
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2024.04.13XML
日米首脳会談の背後に明治維新から続くアングロ・サクソンの野望
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202404130000/

 岸田文雄首相は4月10日にジョー・バイデン米大統領と会談、軍事、バイオ、教育を含む「国家改造計画」的な取り決めを打ち出した。アメリカの支配層による日本支配のシステムを強化する内容で、軍事面では1960年代以来の大幅な増強だと世界的に評価されている。かつてなら大規模な抗議活動があったような出来事だ。これまで日本はアメリカの意向に従って戦争の準備をしてきたが、その総括とも言えるだろう。

 日本に対するアメリカからの命令は「日米合同委員会」で伝えられてきたと言われている。1960年に締結された日米地位協定に基づいて設置されたもので、協議(伝達)内容は秘密だ。日本側の代表は外務省北米局長、アメリカ側の代表は在日米軍司令部副司令官だという。日本は現在に至るまでアメリカ軍の占領下にあると言える。

 日本は1951年9月8日、サンフランシスコのオペラハウスで「対日平和条約」に、また同じ日にプレシディオで日米安保条約に調印、アメリカ軍だけが日本を占領し続けられることになった。その1週間前、同じプレシディオでアメリカ、オーストラリア、ニュージーランドの3カ国はANZUS条約に調印している。安全保障条約は1960年に改定され、地位協定も設置された。岸田とバイデンはそれ以来の大改訂を実施したというわけだ。

 しかし、戦後日本の在り方はその前から定めれていた。その道筋を定めたのは「ACJ(アメリカ対日協議会)」を中心とする「ジャパン・ロビー」で、その背後にはウォール街の巨大資本が存在していた。その中心人物であるジョセフ・グルーはJPモルガンの総帥、ジョン・ピアポント・モルガン・ジュニアと結婚した女性のいとこにあたり、1932年から駐日大使を務めている。グルーの妻、アリス・ペリーも日本と関係が深い。彼女の曽祖父は幕末に「黒船」で日本にやって来たマシュー・ペリー提督の兄。こうしたことから、ジョセフ・グルーは日本の皇族や華族に人脈があった。

 こうした人脈が日本に大きな影響力を持つようになる切っ掛けは1923年9月1日の関東大震災である。被災者は340万人以上、死者と行方不明者を合わせると10万5000名を上回り、損害総額は55億から100億円に達していたという。

 復興資金を調達するために外債発行を日本政府は決断、ウォール街を拠点とする巨大金融機関のJPモルガンと交渉する。この巨大金融機関と最も深く結びついていた日本人が井上準之助だ。井上がJPモルガンと親しくなったのは1920年に対中国借款交渉を行った時だという。(NHK取材班編『日本の選択〈6〉金融小国ニッポンの悲劇』角川書店、1995年)

 日本は1904年2月に仁川沖と旅順港を奇襲攻撃して日露戦争を始めたが、日本に戦費を用立てたのはジェイコブ・シッフ。ロスチャイルド系のクーン・ローブを経営していた人物だ。日本に対して約2億ドルを融資している。

 アメリカやイギリスの私的権力は明治維新の前後、日本で暗躍していた。その手先として1859年に来日したのがジャーディン・マセソンのエージェントだったトーマス・グラバーとウィリアム・ケズウィック。横浜を拠点にしたケズウィックの祖母は同社を創設したひとり、ウィリアム・ジャーディンの姉である。

 ジャーディン・マセソンは中国の茶や絹をイギリスへ運び、インドで仕入れたアヘンを中国へ持ち込んむという商売を行っていたが、儲けの大半はアヘンの取り引きによるもので、事実上、麻薬業者だった。

 グラバーとケズウィックが来日した1859年にイギリスのラザフォード・オールコック駐日総領事は長州から5名の若者をイギリスへ留学させることを決める。選ばれたのは井上聞多(馨)、遠藤謹助、山尾庸三、伊藤俊輔(博文)、野村弥吉(井上勝)。5名は1863年にロンドンへ向かうが、この時に船の手配をしたのがジャーディン・マセソンにほかならない。

 明治政府に対し、イギリスのアーネスト・サトウやアメリカのチャールズ・デロングやチャールズ・ルジャンドルといった外交官はアジアを侵略するようにけしかける。

 1871年7月に新政府は廃藩置県を実施するが、その年の10月に宮古島の漁民が台湾に漂着、その一部が殺されたとして日本政府は清に抗議するのだが、この時点で琉球は独立国であり、日本が抗議するのは奇妙な話だ。

 それに気づいたのか、明治政府は1872年に琉球国を潰し、琉球国王に琉球藩王というタグをつける。もし明治政府が琉球国を日本領である、あるいは日本領にしたいと考えていたなら、琉球藩の設置、廃藩置県という順番になるはずだ。廃止したはずの藩を作り、琉球は日本領だという形を作ろうとしたのだろう。そして1874年、明治政府は軍隊を台湾へ送り込んだ。

 琉球国が潰された1872年、フランス系アメリカ人で厦門の領事だったチャールズ・ルジャンドルが来日している。この外交官は台湾から帰国する途中に日本へ立ち寄り、そこでアメリカ公使を務めていたチャールズ・デロングと会っているが、その際、デロングはルジャンドルに対し、日本政府に対して台湾を侵略するようにけしかけていると説明している。(James Bradley, “The Imperial Cruise,” Little, Brown and Company, 2009)

 デロングは日本の外務省に対してルジャンドルを顧問として雇うように推薦、受け入れられたが、ルジャンドルは1872年12月にアメリカ領事を辞任、顧問になった彼は外務卿の副島種臣に台湾への派兵を勧めたのだ。派兵の際、アメリカの軍事顧問が同行したという。(前掲書)

 ルジャンドルは外務省の顧問を辞めた後も日本に滞在、離日したのは1890年。その年から99年まで李氏朝鮮の王、高宗の顧問を務めたという。その当時、朝鮮では興宣大院君(高宗の父)と閔妃(みんぴ)が対立していた。

 そうした中、1894年に朝鮮半島で甲午農民戦争(東学党の乱)が起こり、閔氏の体制が揺らぐ。それを見た日本政府は「邦人保護」を名目にして軍隊を派遣、その一方で朝鮮政府の依頼で清も出兵して日清戦争につながった。この戦争に勝利した日本は1895年4月、「下関条約」に調印して大陸侵略の第一歩を記すことになる。

 清の敗北でロシアへ接近することが予想された閔妃をこの年、日本の三浦梧楼公使たちが暗殺している。日本の官憲と「大陸浪人」が閔妃を含む女性3名を惨殺したのだ。暗殺に加わった三浦公使たちは「証拠不十分」で無罪になっているが、この判決は暗殺に日本政府が関与している印象を世界に広めることになる。その後、三浦は枢密院顧問や宮中顧問官という要職についた。

 明治維新以降、日本にはアングロ・サクソンの手先となり、権力と財力を握った人たちがいる。そうした人びとによって天皇制官僚体制は築かれたのである。その頃から日本列島はアングロ・サクソンが大陸を侵略する拠点になり、日本人は傭兵になった。岸田とバイデンによる会談の背景には中国侵略の野望があるのだろうが、アメリカにそれだけの力があるようには思えない。
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202404130000/
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/1052.html#c5

[近代史5] 明治維新と太平洋戦争の真相 中川隆
38. 中川隆[-10930] koaQ7Jey 2024年4月13日 01:56:24 : kmMjUwx9vE : YkJGUkkvZWRkQlE=[3]
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2024.04.13XML
日米首脳会談の背後に明治維新から続くアングロ・サクソンの野望
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202404130000/

 岸田文雄首相は4月10日にジョー・バイデン米大統領と会談、軍事、バイオ、教育を含む「国家改造計画」的な取り決めを打ち出した。アメリカの支配層による日本支配のシステムを強化する内容で、軍事面では1960年代以来の大幅な増強だと世界的に評価されている。かつてなら大規模な抗議活動があったような出来事だ。これまで日本はアメリカの意向に従って戦争の準備をしてきたが、その総括とも言えるだろう。

 日本に対するアメリカからの命令は「日米合同委員会」で伝えられてきたと言われている。1960年に締結された日米地位協定に基づいて設置されたもので、協議(伝達)内容は秘密だ。日本側の代表は外務省北米局長、アメリカ側の代表は在日米軍司令部副司令官だという。日本は現在に至るまでアメリカ軍の占領下にあると言える。

 日本は1951年9月8日、サンフランシスコのオペラハウスで「対日平和条約」に、また同じ日にプレシディオで日米安保条約に調印、アメリカ軍だけが日本を占領し続けられることになった。その1週間前、同じプレシディオでアメリカ、オーストラリア、ニュージーランドの3カ国はANZUS条約に調印している。安全保障条約は1960年に改定され、地位協定も設置された。岸田とバイデンはそれ以来の大改訂を実施したというわけだ。

 しかし、戦後日本の在り方はその前から定めれていた。その道筋を定めたのは「ACJ(アメリカ対日協議会)」を中心とする「ジャパン・ロビー」で、その背後にはウォール街の巨大資本が存在していた。その中心人物であるジョセフ・グルーはJPモルガンの総帥、ジョン・ピアポント・モルガン・ジュニアと結婚した女性のいとこにあたり、1932年から駐日大使を務めている。グルーの妻、アリス・ペリーも日本と関係が深い。彼女の曽祖父は幕末に「黒船」で日本にやって来たマシュー・ペリー提督の兄。こうしたことから、ジョセフ・グルーは日本の皇族や華族に人脈があった。

 こうした人脈が日本に大きな影響力を持つようになる切っ掛けは1923年9月1日の関東大震災である。被災者は340万人以上、死者と行方不明者を合わせると10万5000名を上回り、損害総額は55億から100億円に達していたという。

 復興資金を調達するために外債発行を日本政府は決断、ウォール街を拠点とする巨大金融機関のJPモルガンと交渉する。この巨大金融機関と最も深く結びついていた日本人が井上準之助だ。井上がJPモルガンと親しくなったのは1920年に対中国借款交渉を行った時だという。(NHK取材班編『日本の選択〈6〉金融小国ニッポンの悲劇』角川書店、1995年)

 日本は1904年2月に仁川沖と旅順港を奇襲攻撃して日露戦争を始めたが、日本に戦費を用立てたのはジェイコブ・シッフ。ロスチャイルド系のクーン・ローブを経営していた人物だ。日本に対して約2億ドルを融資している。

 アメリカやイギリスの私的権力は明治維新の前後、日本で暗躍していた。その手先として1859年に来日したのがジャーディン・マセソンのエージェントだったトーマス・グラバーとウィリアム・ケズウィック。横浜を拠点にしたケズウィックの祖母は同社を創設したひとり、ウィリアム・ジャーディンの姉である。

 ジャーディン・マセソンは中国の茶や絹をイギリスへ運び、インドで仕入れたアヘンを中国へ持ち込んむという商売を行っていたが、儲けの大半はアヘンの取り引きによるもので、事実上、麻薬業者だった。

 グラバーとケズウィックが来日した1859年にイギリスのラザフォード・オールコック駐日総領事は長州から5名の若者をイギリスへ留学させることを決める。選ばれたのは井上聞多(馨)、遠藤謹助、山尾庸三、伊藤俊輔(博文)、野村弥吉(井上勝)。5名は1863年にロンドンへ向かうが、この時に船の手配をしたのがジャーディン・マセソンにほかならない。

 明治政府に対し、イギリスのアーネスト・サトウやアメリカのチャールズ・デロングやチャールズ・ルジャンドルといった外交官はアジアを侵略するようにけしかける。

 1871年7月に新政府は廃藩置県を実施するが、その年の10月に宮古島の漁民が台湾に漂着、その一部が殺されたとして日本政府は清に抗議するのだが、この時点で琉球は独立国であり、日本が抗議するのは奇妙な話だ。

 それに気づいたのか、明治政府は1872年に琉球国を潰し、琉球国王に琉球藩王というタグをつける。もし明治政府が琉球国を日本領である、あるいは日本領にしたいと考えていたなら、琉球藩の設置、廃藩置県という順番になるはずだ。廃止したはずの藩を作り、琉球は日本領だという形を作ろうとしたのだろう。そして1874年、明治政府は軍隊を台湾へ送り込んだ。

 琉球国が潰された1872年、フランス系アメリカ人で厦門の領事だったチャールズ・ルジャンドルが来日している。この外交官は台湾から帰国する途中に日本へ立ち寄り、そこでアメリカ公使を務めていたチャールズ・デロングと会っているが、その際、デロングはルジャンドルに対し、日本政府に対して台湾を侵略するようにけしかけていると説明している。(James Bradley, “The Imperial Cruise,” Little, Brown and Company, 2009)

 デロングは日本の外務省に対してルジャンドルを顧問として雇うように推薦、受け入れられたが、ルジャンドルは1872年12月にアメリカ領事を辞任、顧問になった彼は外務卿の副島種臣に台湾への派兵を勧めたのだ。派兵の際、アメリカの軍事顧問が同行したという。(前掲書)

 ルジャンドルは外務省の顧問を辞めた後も日本に滞在、離日したのは1890年。その年から99年まで李氏朝鮮の王、高宗の顧問を務めたという。その当時、朝鮮では興宣大院君(高宗の父)と閔妃(みんぴ)が対立していた。

 そうした中、1894年に朝鮮半島で甲午農民戦争(東学党の乱)が起こり、閔氏の体制が揺らぐ。それを見た日本政府は「邦人保護」を名目にして軍隊を派遣、その一方で朝鮮政府の依頼で清も出兵して日清戦争につながった。この戦争に勝利した日本は1895年4月、「下関条約」に調印して大陸侵略の第一歩を記すことになる。

 清の敗北でロシアへ接近することが予想された閔妃をこの年、日本の三浦梧楼公使たちが暗殺している。日本の官憲と「大陸浪人」が閔妃を含む女性3名を惨殺したのだ。暗殺に加わった三浦公使たちは「証拠不十分」で無罪になっているが、この判決は暗殺に日本政府が関与している印象を世界に広めることになる。その後、三浦は枢密院顧問や宮中顧問官という要職についた。

 明治維新以降、日本にはアングロ・サクソンの手先となり、権力と財力を握った人たちがいる。そうした人びとによって天皇制官僚体制は築かれたのである。その頃から日本列島はアングロ・サクソンが大陸を侵略する拠点になり、日本人は傭兵になった。岸田とバイデンによる会談の背景には中国侵略の野望があるのだろうが、アメリカにそれだけの力があるようには思えない。
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202404130000/
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[近代史02] 君はアジアを解放する為に立ち上がった昭和天皇のあの雄姿を知っているか? 中川隆
247. 中川隆[-10929] koaQ7Jey 2024年4月13日 01:57:08 : kmMjUwx9vE : YkJGUkkvZWRkQlE=[4]
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2024.04.13XML
日米首脳会談の背後に明治維新から続くアングロ・サクソンの野望
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202404130000/

 岸田文雄首相は4月10日にジョー・バイデン米大統領と会談、軍事、バイオ、教育を含む「国家改造計画」的な取り決めを打ち出した。アメリカの支配層による日本支配のシステムを強化する内容で、軍事面では1960年代以来の大幅な増強だと世界的に評価されている。かつてなら大規模な抗議活動があったような出来事だ。これまで日本はアメリカの意向に従って戦争の準備をしてきたが、その総括とも言えるだろう。

 日本に対するアメリカからの命令は「日米合同委員会」で伝えられてきたと言われている。1960年に締結された日米地位協定に基づいて設置されたもので、協議(伝達)内容は秘密だ。日本側の代表は外務省北米局長、アメリカ側の代表は在日米軍司令部副司令官だという。日本は現在に至るまでアメリカ軍の占領下にあると言える。

 日本は1951年9月8日、サンフランシスコのオペラハウスで「対日平和条約」に、また同じ日にプレシディオで日米安保条約に調印、アメリカ軍だけが日本を占領し続けられることになった。その1週間前、同じプレシディオでアメリカ、オーストラリア、ニュージーランドの3カ国はANZUS条約に調印している。安全保障条約は1960年に改定され、地位協定も設置された。岸田とバイデンはそれ以来の大改訂を実施したというわけだ。

 しかし、戦後日本の在り方はその前から定めれていた。その道筋を定めたのは「ACJ(アメリカ対日協議会)」を中心とする「ジャパン・ロビー」で、その背後にはウォール街の巨大資本が存在していた。その中心人物であるジョセフ・グルーはJPモルガンの総帥、ジョン・ピアポント・モルガン・ジュニアと結婚した女性のいとこにあたり、1932年から駐日大使を務めている。グルーの妻、アリス・ペリーも日本と関係が深い。彼女の曽祖父は幕末に「黒船」で日本にやって来たマシュー・ペリー提督の兄。こうしたことから、ジョセフ・グルーは日本の皇族や華族に人脈があった。

 こうした人脈が日本に大きな影響力を持つようになる切っ掛けは1923年9月1日の関東大震災である。被災者は340万人以上、死者と行方不明者を合わせると10万5000名を上回り、損害総額は55億から100億円に達していたという。

 復興資金を調達するために外債発行を日本政府は決断、ウォール街を拠点とする巨大金融機関のJPモルガンと交渉する。この巨大金融機関と最も深く結びついていた日本人が井上準之助だ。井上がJPモルガンと親しくなったのは1920年に対中国借款交渉を行った時だという。(NHK取材班編『日本の選択〈6〉金融小国ニッポンの悲劇』角川書店、1995年)

 日本は1904年2月に仁川沖と旅順港を奇襲攻撃して日露戦争を始めたが、日本に戦費を用立てたのはジェイコブ・シッフ。ロスチャイルド系のクーン・ローブを経営していた人物だ。日本に対して約2億ドルを融資している。

 アメリカやイギリスの私的権力は明治維新の前後、日本で暗躍していた。その手先として1859年に来日したのがジャーディン・マセソンのエージェントだったトーマス・グラバーとウィリアム・ケズウィック。横浜を拠点にしたケズウィックの祖母は同社を創設したひとり、ウィリアム・ジャーディンの姉である。

 ジャーディン・マセソンは中国の茶や絹をイギリスへ運び、インドで仕入れたアヘンを中国へ持ち込んむという商売を行っていたが、儲けの大半はアヘンの取り引きによるもので、事実上、麻薬業者だった。

 グラバーとケズウィックが来日した1859年にイギリスのラザフォード・オールコック駐日総領事は長州から5名の若者をイギリスへ留学させることを決める。選ばれたのは井上聞多(馨)、遠藤謹助、山尾庸三、伊藤俊輔(博文)、野村弥吉(井上勝)。5名は1863年にロンドンへ向かうが、この時に船の手配をしたのがジャーディン・マセソンにほかならない。

 明治政府に対し、イギリスのアーネスト・サトウやアメリカのチャールズ・デロングやチャールズ・ルジャンドルといった外交官はアジアを侵略するようにけしかける。

 1871年7月に新政府は廃藩置県を実施するが、その年の10月に宮古島の漁民が台湾に漂着、その一部が殺されたとして日本政府は清に抗議するのだが、この時点で琉球は独立国であり、日本が抗議するのは奇妙な話だ。

 それに気づいたのか、明治政府は1872年に琉球国を潰し、琉球国王に琉球藩王というタグをつける。もし明治政府が琉球国を日本領である、あるいは日本領にしたいと考えていたなら、琉球藩の設置、廃藩置県という順番になるはずだ。廃止したはずの藩を作り、琉球は日本領だという形を作ろうとしたのだろう。そして1874年、明治政府は軍隊を台湾へ送り込んだ。

 琉球国が潰された1872年、フランス系アメリカ人で厦門の領事だったチャールズ・ルジャンドルが来日している。この外交官は台湾から帰国する途中に日本へ立ち寄り、そこでアメリカ公使を務めていたチャールズ・デロングと会っているが、その際、デロングはルジャンドルに対し、日本政府に対して台湾を侵略するようにけしかけていると説明している。(James Bradley, “The Imperial Cruise,” Little, Brown and Company, 2009)

 デロングは日本の外務省に対してルジャンドルを顧問として雇うように推薦、受け入れられたが、ルジャンドルは1872年12月にアメリカ領事を辞任、顧問になった彼は外務卿の副島種臣に台湾への派兵を勧めたのだ。派兵の際、アメリカの軍事顧問が同行したという。(前掲書)

 ルジャンドルは外務省の顧問を辞めた後も日本に滞在、離日したのは1890年。その年から99年まで李氏朝鮮の王、高宗の顧問を務めたという。その当時、朝鮮では興宣大院君(高宗の父)と閔妃(みんぴ)が対立していた。

 そうした中、1894年に朝鮮半島で甲午農民戦争(東学党の乱)が起こり、閔氏の体制が揺らぐ。それを見た日本政府は「邦人保護」を名目にして軍隊を派遣、その一方で朝鮮政府の依頼で清も出兵して日清戦争につながった。この戦争に勝利した日本は1895年4月、「下関条約」に調印して大陸侵略の第一歩を記すことになる。

 清の敗北でロシアへ接近することが予想された閔妃をこの年、日本の三浦梧楼公使たちが暗殺している。日本の官憲と「大陸浪人」が閔妃を含む女性3名を惨殺したのだ。暗殺に加わった三浦公使たちは「証拠不十分」で無罪になっているが、この判決は暗殺に日本政府が関与している印象を世界に広めることになる。その後、三浦は枢密院顧問や宮中顧問官という要職についた。

 明治維新以降、日本にはアングロ・サクソンの手先となり、権力と財力を握った人たちがいる。そうした人びとによって天皇制官僚体制は築かれたのである。その頃から日本列島はアングロ・サクソンが大陸を侵略する拠点になり、日本人は傭兵になった。岸田とバイデンによる会談の背景には中国侵略の野望があるのだろうが、アメリカにそれだけの力があるようには思えない。
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202404130000/
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/312.html#c247

[近代史02] 昭和天皇が戦争狂になった訳 中川隆
99. 中川隆[-10928] koaQ7Jey 2024年4月13日 01:57:27 : kmMjUwx9vE : YkJGUkkvZWRkQlE=[5]
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2024.04.13XML
日米首脳会談の背後に明治維新から続くアングロ・サクソンの野望
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202404130000/

 岸田文雄首相は4月10日にジョー・バイデン米大統領と会談、軍事、バイオ、教育を含む「国家改造計画」的な取り決めを打ち出した。アメリカの支配層による日本支配のシステムを強化する内容で、軍事面では1960年代以来の大幅な増強だと世界的に評価されている。かつてなら大規模な抗議活動があったような出来事だ。これまで日本はアメリカの意向に従って戦争の準備をしてきたが、その総括とも言えるだろう。

 日本に対するアメリカからの命令は「日米合同委員会」で伝えられてきたと言われている。1960年に締結された日米地位協定に基づいて設置されたもので、協議(伝達)内容は秘密だ。日本側の代表は外務省北米局長、アメリカ側の代表は在日米軍司令部副司令官だという。日本は現在に至るまでアメリカ軍の占領下にあると言える。

 日本は1951年9月8日、サンフランシスコのオペラハウスで「対日平和条約」に、また同じ日にプレシディオで日米安保条約に調印、アメリカ軍だけが日本を占領し続けられることになった。その1週間前、同じプレシディオでアメリカ、オーストラリア、ニュージーランドの3カ国はANZUS条約に調印している。安全保障条約は1960年に改定され、地位協定も設置された。岸田とバイデンはそれ以来の大改訂を実施したというわけだ。

 しかし、戦後日本の在り方はその前から定めれていた。その道筋を定めたのは「ACJ(アメリカ対日協議会)」を中心とする「ジャパン・ロビー」で、その背後にはウォール街の巨大資本が存在していた。その中心人物であるジョセフ・グルーはJPモルガンの総帥、ジョン・ピアポント・モルガン・ジュニアと結婚した女性のいとこにあたり、1932年から駐日大使を務めている。グルーの妻、アリス・ペリーも日本と関係が深い。彼女の曽祖父は幕末に「黒船」で日本にやって来たマシュー・ペリー提督の兄。こうしたことから、ジョセフ・グルーは日本の皇族や華族に人脈があった。

 こうした人脈が日本に大きな影響力を持つようになる切っ掛けは1923年9月1日の関東大震災である。被災者は340万人以上、死者と行方不明者を合わせると10万5000名を上回り、損害総額は55億から100億円に達していたという。

 復興資金を調達するために外債発行を日本政府は決断、ウォール街を拠点とする巨大金融機関のJPモルガンと交渉する。この巨大金融機関と最も深く結びついていた日本人が井上準之助だ。井上がJPモルガンと親しくなったのは1920年に対中国借款交渉を行った時だという。(NHK取材班編『日本の選択〈6〉金融小国ニッポンの悲劇』角川書店、1995年)

 日本は1904年2月に仁川沖と旅順港を奇襲攻撃して日露戦争を始めたが、日本に戦費を用立てたのはジェイコブ・シッフ。ロスチャイルド系のクーン・ローブを経営していた人物だ。日本に対して約2億ドルを融資している。

 アメリカやイギリスの私的権力は明治維新の前後、日本で暗躍していた。その手先として1859年に来日したのがジャーディン・マセソンのエージェントだったトーマス・グラバーとウィリアム・ケズウィック。横浜を拠点にしたケズウィックの祖母は同社を創設したひとり、ウィリアム・ジャーディンの姉である。

 ジャーディン・マセソンは中国の茶や絹をイギリスへ運び、インドで仕入れたアヘンを中国へ持ち込んむという商売を行っていたが、儲けの大半はアヘンの取り引きによるもので、事実上、麻薬業者だった。

 グラバーとケズウィックが来日した1859年にイギリスのラザフォード・オールコック駐日総領事は長州から5名の若者をイギリスへ留学させることを決める。選ばれたのは井上聞多(馨)、遠藤謹助、山尾庸三、伊藤俊輔(博文)、野村弥吉(井上勝)。5名は1863年にロンドンへ向かうが、この時に船の手配をしたのがジャーディン・マセソンにほかならない。

 明治政府に対し、イギリスのアーネスト・サトウやアメリカのチャールズ・デロングやチャールズ・ルジャンドルといった外交官はアジアを侵略するようにけしかける。

 1871年7月に新政府は廃藩置県を実施するが、その年の10月に宮古島の漁民が台湾に漂着、その一部が殺されたとして日本政府は清に抗議するのだが、この時点で琉球は独立国であり、日本が抗議するのは奇妙な話だ。

 それに気づいたのか、明治政府は1872年に琉球国を潰し、琉球国王に琉球藩王というタグをつける。もし明治政府が琉球国を日本領である、あるいは日本領にしたいと考えていたなら、琉球藩の設置、廃藩置県という順番になるはずだ。廃止したはずの藩を作り、琉球は日本領だという形を作ろうとしたのだろう。そして1874年、明治政府は軍隊を台湾へ送り込んだ。

 琉球国が潰された1872年、フランス系アメリカ人で厦門の領事だったチャールズ・ルジャンドルが来日している。この外交官は台湾から帰国する途中に日本へ立ち寄り、そこでアメリカ公使を務めていたチャールズ・デロングと会っているが、その際、デロングはルジャンドルに対し、日本政府に対して台湾を侵略するようにけしかけていると説明している。(James Bradley, “The Imperial Cruise,” Little, Brown and Company, 2009)

 デロングは日本の外務省に対してルジャンドルを顧問として雇うように推薦、受け入れられたが、ルジャンドルは1872年12月にアメリカ領事を辞任、顧問になった彼は外務卿の副島種臣に台湾への派兵を勧めたのだ。派兵の際、アメリカの軍事顧問が同行したという。(前掲書)

 ルジャンドルは外務省の顧問を辞めた後も日本に滞在、離日したのは1890年。その年から99年まで李氏朝鮮の王、高宗の顧問を務めたという。その当時、朝鮮では興宣大院君(高宗の父)と閔妃(みんぴ)が対立していた。

 そうした中、1894年に朝鮮半島で甲午農民戦争(東学党の乱)が起こり、閔氏の体制が揺らぐ。それを見た日本政府は「邦人保護」を名目にして軍隊を派遣、その一方で朝鮮政府の依頼で清も出兵して日清戦争につながった。この戦争に勝利した日本は1895年4月、「下関条約」に調印して大陸侵略の第一歩を記すことになる。

 清の敗北でロシアへ接近することが予想された閔妃をこの年、日本の三浦梧楼公使たちが暗殺している。日本の官憲と「大陸浪人」が閔妃を含む女性3名を惨殺したのだ。暗殺に加わった三浦公使たちは「証拠不十分」で無罪になっているが、この判決は暗殺に日本政府が関与している印象を世界に広めることになる。その後、三浦は枢密院顧問や宮中顧問官という要職についた。

 明治維新以降、日本にはアングロ・サクソンの手先となり、権力と財力を握った人たちがいる。そうした人びとによって天皇制官僚体制は築かれたのである。その頃から日本列島はアングロ・サクソンが大陸を侵略する拠点になり、日本人は傭兵になった。岸田とバイデンによる会談の背景には中国侵略の野望があるのだろうが、アメリカにそれだけの力があるようには思えない。
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