25. 2021年12月10日 22:53:07 : n8r9ssiiZg : Y2ZJcWtvQ0xxUk0=[1]
秀吉以来260年、対外戦争を始めたのが、攘夷決行の高杉晋作率いる長州(1863年)。
通説は、幕府締結の条約は不平等条約で、日露戦争に勝利することにより改訂できた。
条約や領土解決に、武力の威嚇や戦争による勝利が交渉の始まりとする考え方をとる。
ペリーと日米和親条約(1854年)、ハリスと日米修好通商条約(1858年)が其々の最初。
ペリー来航で、幕府は品川御殿山を崩して、韮山代官・江川英龍による「お台場(砲台)」の
造成を始めた。 〈江戸湾は、満潮時は、黒船が入れる。 しかし、干潮時は喫水の深い
黒船は航行不能となる。 和船で黒船の撤退路を塞ぎ干潮まで動きを止めれば、艦隊で
あっても勝利は無い。 江戸湾の測量でペリーはわかっていたであろう〉
吉田松陰は、ペリー来航時、佐久間象山(江川英龍の門下、勝海舟と義兄弟)と見物し、
象山にジョン万次郎のような無学な漁師の子が、米国で学んで幕府直参旗本となった。
君のような学識があり優秀な若者が外国で数年学べば国を背負う人材になれる。 と、
そそのかされたと云われる。 その前年(1852年)脱藩し東北遊学、水戸で会沢正志斎と
面談した(会沢は尊王攘夷思想の生みの親) 松陰は海外渡航を計画し、一度目は
長崎でのプチャーチンのロシア艦船(1853年)、 二度目がペリー再来航(1854年)。
乗艦拒否で未遂となり、幕府とペリー(若者の知識欲に賛辞を贈った}は、外交問題となる
のを避けて穏便に対処した。 松陰は長州の野山獄(1855年)に入牢、出所後、松下村塾
(1857年)を開いた。 高杉晋作とは、藩校明倫館で親交があり、松下村塾にも通う。
松陰は、日米修好通商条約に尊王攘夷思想から激怒し、老中暗殺を計画するが実行は
できず、野山獄へ再度収監。 その後、安政の大獄に連座、江戸送りとなり、老中暗殺
計画を自白して死罪(1859年 30歳)
高杉は、千歳丸(1862年)の幕府使節団で上海を訪問。 アヘンで荒廃した街や人々を
見てきた。 1863年、品川御殿山の英公使館が完成まじかの時期に、攘夷で伊藤博文ら
と英公使館を焼き討ちする(明治の初めに、英国は伊藤ら政府高官が犯人と知っていた)
伊藤は、この後、英国の手引きで英国に密航留学。 高杉は、攘夷決行として外国船を
砲撃する。 翌年、1864年に報復攻撃を受ける。 伊藤と井上馨は、長州で行われる
講和会議へ英艦船に同乗して帰国(長州)。 伊藤は、英国と代表者高杉との仲介役を
おこなった。 伊藤は、長州の攻撃は勅書によって行われたと説明し、英国は賠償金を
幕府に求めた。 朝廷に攘夷の権限は無い(尊王は、天皇の臣下・征夷大将軍が天皇を
下にしている。 このことが、幕府官学・朱子学の思想に反するとして出てきた) 尊王攘夷
思想が(テロ行為)政治力を発揮した。 一方、孝明天皇は外国人嫌い。 しかし、幕府を
頼る。 勅書は、摂政を通す。 摂政は、二条斉敬。 御三家水戸・徳川斉昭は叔父。 一橋
徳川慶喜(斉昭の実子)は、従兄弟。 故に、幕府に不利な勅書を出すと思えないのだが?
王政復古で、尊王攘夷公家・岩倉具視らは、幕府との関係を断つため摂政を廃止している。
英国は予てからの中国(清)と同じ関税引き下げを狙っていた。 幕府は尊攘過激派の相次ぐ
外国人襲撃に賠償金を支払い、資金が枯渇。 賠償金減額と関税の要求に応じた(改税約書)
英国の鹿児島砲撃は、生麦事件の報復、 賠償金は薩摩(幕府に借入)。 犯人は隠匿。
外務省は不平等条約を載せるが、直接要因の長州の対外戦争は、歴史のタブーのようである。
裁判権は、法の仕組みが幕藩連合国家と中央集権国家の違いになる。 明治から国民は同じ
法律となったが、幕藩は武家・公家・宗教家・庶民町人の居住地や身分による個別法。 禁教
は、キリシタンと不受不施派(日蓮宗)が幕府、薩摩は浄土真宗を禁教とするような違いがある。
時代劇の町奉行所役人は、藩士(武士)を逮捕しても、藩邸に引き渡す。 町奉行所に武家を
裁く裁判権がないことによる。 時代劇は、裁けない恨みを晴らすとして、裏稼業の中村主水。
宗教法は、相撲の回向院(浄土宗)境内での興行開催。 観戦者は町人、回向院は女人禁制
の宗派。 女性観戦者を見つけると寺社奉行所が、寺や僧侶を取り締まることになる。 こういう
のは、興行としての基準で考えるのが必要だと思う。 浄土真宗は、百姓町人の宗派で、この
妻帯でき女人禁制の罪は無い。 ♪坊さん簪買うを見たの純信とお馬は罪を問われた。
薩摩は生麦事件の犯人を幕府に隠し、外国人襲撃を脱藩を装う浪人や変名を使い身元を
隠し藩に戻れたのは、幕藩体制の個別法があってで、国民同一の法となっての非難も?
明治初め条約改定に意気込んで、岩倉使節団が欧米に派遣された。 成果が無かった。
(米国での伊藤博文の「日の丸」演説を今の保守は使うが、岩倉使節団の言及?)
キリスト教国の国民に、キリシタン弾圧を非難を受け、なし崩しに解禁したのが成果かも。
国内は、律令制の神祇官により、神仏分離。廃仏毀釈で、神道国教化に邁進していたが、
で、幕府の領土交渉は、武力威圧も戦争も行っていない。 外交交渉による。
ロシアと国境画定はプチャーチンと交渉締結した。 ロシアは、トルコ(オスマン帝国)英国
仏国と戦争中、カムチャッカまで英仏艦船は攻撃(1854年)。 プチャーチンは再訪で条約
交渉中に、安政の大地震(安政東海大地震 1854年)の発生で、艦船ディアナ号は津波で
大破した。 乗員は西伊豆の戸田村に居留することになった。 ロシア乗員と江川英龍が
招集した船大工によって、ロシアへ帰国の帆船を建造した。 地震後の混乱でも交渉した。
〈英国は、ロシアとの戦争の戦費が嵩み、幕府との戦争は議会で却下。 ロシアはアラスカを
米国に売却。 米国の南北戦争は、1861−1865年で、内政で手一杯〉
小笠原諸島の領有。 米英の領有を察知した幕府は、咸臨丸を派遣し調査。 小笠原に
入植し定住の米国人と帰属を交渉。 ジョン万次郎が交渉したという。
尊王攘夷思想の吉田松陰が激怒した日米修好通商条約。 松陰の「北山安世宛」書簡に
『外夷を近づけては神国の穢れと申す事計りにて』(1859年 獄中)という一節がある。
http://www.yoshida-shoin.com/message/soumoukukki.htm
通説では幕府が開国。 実は明治に開国。 幕藩は連合国家で、開港地は幕府領、開港と
開市という。 松陰は復古神道や記紀神話の影響を受けて、外国人の藩(国)への立入りは
穢れと書く。 攘夷を唱えた藩は、ほとんどが外国人の立入りで、その後は、貿易の利益を
幕府一国が独占することに、諸藩の政治家は不満を持つようになった、 開港地については
幕府は初めに躓いた(最たる失敗は為替で金の流出〈金を小判として流通させていた〉)のが
開港地の神奈川。 神奈川は、東海道の神奈川宿の地。 攘夷思想の大名行列や過激派も
往来する東海道を幕府は避けることにして、対岸の横浜を造成し条約の神奈川としたこと。
幕府の心配は、薩摩の大名行列に馬で突っ込んだ外国人が死傷する生麦事件となった。
で、新興国の米国と最初に条約を締結したことは幕府の外交政策だったといえる。
日米修好通商条約を非難する松陰は、『然れども「ハルリス」の言逐一 行はるる時は神州
実に危し。「ハルリス」の言虚喝ならば幸なり』と書く。 ハルリスはハリスで、ハリスは、アヘン
戦争を念頭に、アヘンの禁輸に言及している。 ハリスの老中首座・堀田正睦宅での演説に
一英吉利人は日本にても唐国同様阿片を好み候ものこれあると持渡り売弘め度志願に
持渡り売弘め度志願に相見え申し候
一壱度阿片を用候へば終身止み候義相成らぬ段、英人も能く弁(わきま)
へ居申す故、日本へも壱度弘め置度との心底と御座候
一合衆国大統領日本の為に阿片を戦争より危踏(あやぶみ)居申し候
一戦争の費(ついえ)は時を過候へば補方もこれあり、若し阿片を呑覚
候へば年を重ね候とも取返し相成り難く候
一夫故阿片交易は格別大切に御心付成られ候様、大統領も申し居候
一条約成され候はば阿片の禁を聢(しか)と御立成られ候様、大統領申聞候
《ようこそ大船庵へ の 古文書から抜粋引用》
米国よりも英国が条約の最初であれば、アヘンに対しては緩やかだったかもしれない。
アヘンの禁輸は条文に入っている。 他国との条約に無い条文は、西欧との紛争仲裁を
新興国米国が行うことを明記していること。 日露講和会議(ポーツマス)の米国仲裁は
幕府の条約の履行になる。 これを明治政権は、認めることはできない。 そして今も続く。
http://www.asyura2.com/21/senkyo284/msg/544.html#c25