16. 2020年4月21日 19:28:48 : vBHSSD76fk : Y2JkLldmd0REUkE=[1]
インパール作戦の立案者は、牟田口司令官だ、と言われてるけれど、「金の百合」で、裕仁の信頼が厚かった、竹田宮恒徳が、宮田中佐の偽名で、事前の作戦会議に出席していた。
中永中将や稲田中将が、無謀だと反対する中、牟田口は、竹田宮に強く訴えて、竹田宮は、これを東京の大本営まで、持ち帰ったことになっているけれど、大本営でも無謀だと感じられた作戦が、どのような経緯で、作戦決行に至ったかは、詳らかではない。
当方は、「金の百合」から判明した事実より、インパール作戦の本当の立案者は、裕仁で、竹田宮は、それを徹底させるために、作戦会議に派遣されたと思っている。
「第十五軍ノ案ハ徹底的ト云フヨリむし寧ロ無茶苦茶ナ積極案ナリ」と、後に回想録で、回顧した当事の大本営作戦課長であった真田大佐らの判断にもかかわらず、決行されたのは、それが裕仁の命令であったからだ。
裕仁は、「金の百合」で、現地の人から略奪した金銀財宝を、日本に運び出す必要に迫られていた。
インパール作戦は、「金の百合」の時間稼ぎのために、最初から捨て駒覚悟で、立案されたものだった。
藤原彰氏の「餓死した英霊たち」によれば、戦死者は、作戦参加者の61%にあたり、その78%は、病死であった、と言う。
> 兵力 三〇万三五〇一
戦没者 一八万五一四九
帰還者 一一万八三五二
著者によれば、病死とはすなわち、「栄養失調死と、体力の低下によるマラリア、赤痢、脚気などによる死亡で、広い意味での餓死」だと言う。
http://www.asyura2.com/20/senkyo271/msg/719.html#c16