207. 2021年12月11日 12:35:13 : FJgf41gtdU : Y1loeUY2R3NmWnM=[1]
@ 昭和天皇裕仁は、大正天皇睦仁の果たせなかった、天皇独裁体制確立のために、内大臣牧野伸顕の助けを得て、要人暗殺やフェイク・クーデターの陰謀をもって、権力を握って行く。
A 少なくとも、裕仁の時代の政治において、政治的に幅を利かせた勢力は、皇后良子の祖父である、久邇宮朝彦の一族である。
それは、山階宮、梨本宮、賀陽宮、朝香宮、東久邇宮、小松宮、竹田宮、北白川宮、華頂宮、閑院宮、東伏見宮、伏見宮など含む一大勢力だった。(三条の影も形も見えず、岩倉は、多分、孝明天皇暗殺に加わったため、後に口封じのために殺された。)
B 杉山元が残したメモから、裕仁は、開戦の11か月前に、真珠湾攻撃を、自ら発案し、その計画を命じた。(ソースに、バーガミニからの引用がある。)
http://www.asyura2.com/20/senkyo277/msg/719.html?c24#c24
C 皇室は、1940年10月から、三国同盟や北インドシナ占領によって、西洋との戦争は、不可避と見て、敗戦の場合に天皇と皇族を守るために、責任ある地位から皇族を外し、戦争に至る経緯について、何の関与もないという、カバーストリーを創作した。(牧野の後を継いだ木戸内大臣の日記も、この例に漏れるものではない。)
> Realizing that the Tripartite Pact and the seizure of northern Indochina had committed Japan, almost certainly, to a premature and desperate war with the West, Hirohito’s Court, in October 1940, activated its back-up plan for safeguarding the Throne in case the war should end in defeat. The first step was to withdraw the members of the imperial family from positions of responsibility; the second step was to create a cover story for them so that they would seem to have played no part in the events leading to war.
D 1941年6月21日に、米国のハル国務長官は、野村駐米大使に、交渉に関して、否定的な回答をした。
間もなくナチスドイツのロシア侵攻が起きるが、裕仁は、事前にベルリンの大島大使から、ヒトラーの侵攻計画を知らされていた。(ハル長官も予想していた。)
E 9月6日の御前会議と言われるものは、シナリオが作られ、参加者は、事前に、それを読んで、どんな風に行われるか、知っていた。
会議参加者の発言は、シナリオで決められ、事前にリハーサルも行われた。
すなわち天皇の戦争責任を回避し、アリバイ作るための、お芝居だった。
> The next morning, from 10 a.m. to noon, September 6, Hirohito presided over a historic conference in the Imperial Presence which tied the next-to-last knot on Japan’s neatly packed war bomb. As always at such conferences the important matters under consideration were circulated beforehand in written form, were read by all participants including Hirohito, but were alluded to rather than discussed. The speeches made were all set pieces, rehearsed beforehand and delivered out loud solely for the purpose of the record—for the assignment of responsibility on the sacred palace rolls.
おまけ
裕仁は、朝日新聞の大株主だった。
http://www.asyura2.com/21/senkyo284/msg/501.html#c207