19. 2019年7月05日 08:22:26 : unSSrCb3j6 : WWMzajNINzJqdkE=[1]
以前、私は工作員を人間扱いする必要はないと書いた。
・工作員はBANします
なんとなれば、工作員とは特定の意見を流すために雇われて演じられる人格であり、血と肉を持った人間ではないからだ。
あなたが役者で非道な役を演じた時にその非道さを悪し様に罵る観客がいたとしても、劇中の虚構の人格に向けられたその罵声があなた自身を傷つけることはない。それと同じように、工作員もまた非道さや愚劣さをいくら指摘されても傷つくことがない。彼らが書き込む内容が自分自身の人格を賭して発信する自前の意見でないからだ。
(工作員が「謝ったら死ぬ病」に罹患していることが多いのはそういう理屈だ。自分の人格を賭した発言でないから批判への感受性が鈍い。そして自分の判断で意見を覆すことができない。)
擬似民主主義は虚構の世論を真実のそれと誤認させ、民衆に責任を負わせる手法である。だから我々の周囲には虚構が満ちている。そして一見すると実在しそうに見えるが実は実態が虚構の中にしか存在しないものは、上に挙げた工作員以外にもたくさんある。テレビの街頭インタビューで同一人物が何度も違うインタビューに答えていたりするのは、局側が流したい意見を言わせるために用意された人格を劇団員などが演じている例である。偽旗テロ事件ではクライシス・アクターという被害者を演じる役者の存在が指摘された。湾岸戦争では開戦の理由をでっち上げるためにナイラというイラク兵の蛮行を偽証する存在がテレビを賑わした。これらはわかりやすい虚構の存在である。
また、私は「グローバル・ゾンビ」と呼んでいるのだが、政治家や炎上芸人の中にはメディアの持ち主たるグローバリストのときに過激な意見を代弁するために持ち上げられる人格が存在しており、何をやらかしても露出が減らず発信力が衰えないようにされている。(むろん「使い減り」はするが。)彼らもまた虚構の世界に用意された特定の意見を述べるための人格をその都度演じているに過ぎないと言えるだろう。
・「記号」操作
幻影や操り人形は「本体」を叩かねば倒せないというのが定番だ。虚構の中に「本体」のあるものは、筋書きを変化させねば倒せない。工作員をいくら「論破」したところで平気な顔で書き込み続けるだけだし、最良の結果でも新しいアカウントに乗り換えられるだけだ。有志がホワイトヘルメットの嘘を暴いてもせいぜい露出が一時的に減るだけで、ほとぼりが冷めればまたヒーロー面をして紙面に現れ始める。グローバル・ゾンビには役割だけの者と固有名持ちの者とがいるが、どちらも血と肉を持った人間を倒しても意味がない。その役割を務めているだけの者は倒しても別の者が同じ役割を担い始めるだけだし(たとえば野田と安倍の推し進める政策は瓜二つだ)、ヒラリーやプーチンはそう呼ばれてメディアに現れる人間が複数いることが確認されている。彼らは殺されても死なない。死んでも別の誰かが「ヒラリー」なり「プーチン」の役割を演じ続ける。彼らの「本体」が虚構の中にあるという所以である。
日本語における「もの」とは「うつろわざるもの」である。
・堅強と柔弱の政治過程
人やペットは「もの」ではない。変化するからだ。死者は「もの」である。もう変化しないからだ。工作員やグローバル・ゾンビは変化しないから人ではなく「もの」である。それも世界の中心で馬鹿げた筋書きを書いている連中による被造物だ。私は筋書きを書く連中を魔法使いと呼んでいる。魔法使いによって創造された人ならざる「もの」。それを「ゾンビ」と呼んで何の差しさわりがあるだろうか?
私的権力との戦いはつまるところ筋書きを書いている者たちとの戦いであり、個々のゾンビたちとの戦いではない。彼らの描く虚構がいかに矛盾と不合理に満ちていて、彼らが役者に演じさせる役回りがいかに人間の本質からして不自然であるかを指摘する営為である。もちろんその過程において個々のゾンビどもの言うことを論破することはあるが、だからといってゾンビを倒したり改心させたりすることは定義上できない。
ゆえに、SNSや掲示板、ニュースサイトの管理人の個性とは、誰を出入り禁止にしどんな書き込みを消すかという判断の中に現れる。
工作員とは論破済みの詭弁やデマと判明済みの偽情報を延々と書き込む存在である。書き込んでいる間はまだ「論争中」の、未決の状態が維持できると勝手に決め込んでいる連中でもある。そんな連中の書き込みに延々とつき合うことは労力の無駄というだけでなく、決着済みの論点を未決の状態であると第三者に誤解される原因にもなる。
真理とは理路をたどれば誰しも真実と認める命題である。
ゆえに真理に党派はない。党派を必要とするのは真理を捻じ曲げる(ドグマを真理と言い張る、一面の真理を絶対視する、詭弁を弄して真理を相対化する)者たちだ。「党派性」とは「敵か味方か」を「正しいか否か」に優先させる態度のことだからだ。
「1+1は3だ!」と世界の中心でがなりたてる連中に対しての反撃は「1+1は2ですよ」と告げることだけである。「1+1は2党」のようなものを作り上げ、街頭で徒党を組んでデモをし、歌って踊って「1+1は2だ!」と気勢を上げる必要はないし、「1+1は3だ」という者たちよりも人数や資金力で上回らなければ負けだということにもならない。(数えるのが嘘つきのお仲間ならなおさらだ。)真理は多数決で決めるようなものではない。もし徒党を組む必要があるとしたら、世界の中心にいるべき者がどんな存在であるべきか、世界の中心で嘘をつく連中を排除するために何をすべきかという主張において党派を組むべきであろう。
小泉政権のころ「劇場型政治」なる言葉を聞くようになった。当時の私はその言葉を「政治的対立をドラマの筋書きのように単純化して有権者の判断を誘導するもの」くらいの意味にしかとっていなかった。つまり、有権者が十分に賢ければ誘導に踊らされることはないと考えていたわけだが、少なくとも現在の「劇場型政治」はそんな生易しいものではなかった。何しろ「有権者の意思」まで虚構の中にあるのだ。
・いまだに世論調査の公正を信じている馬鹿が、いもしない安倍支持層を馬鹿にして、結果として不正選挙の結果を追認してゆく。 これほど馬鹿な話はない。
・「野党が頼りないから安倍自民党が支持されている」という説明を真に受けるのは馬鹿か工作員だけだ
・日本人を最も貶めているのは、愚劣な現政権を6割の日本人が支持していると言い張るメディアと世論調査会社、不正選挙業者、そしてその言い分を信じる連中である
・野党共闘と不正選挙
・「安倍は日本人に嫌われている」を証明する
・元号と諡号と内閣支持率
自分が「劇場型政治」の観客のつもりでいたら、自分を名乗る役者まで舞台の上に現れたようなものだ。本物の「観客」を置いてけぼりにして勝手に舞台の上でだけ政治が進んでゆく。選挙と世論調査が乗っ取られた今の世界では、我々の「一般意思」までもが筋書きの中の存在になり果てた。
農家や中小企業や土建はかつて自民党の票田だった。郵便局員や医師会もそうだ。だが小泉以降の自民党はその票田にずっと痛みを味わわせ続けている。なのに「固定票」がずっと減らない。内閣支持率も売国政権に限って高止まり、テレビで持ち上げるのは決まって売国政治家だ(甘利が「サムライ」だと?笑)。挙句の果てに現政権の批判者という体をとる者に「悪いのは全部私たち」などと勝手に国民の代表ヅラして言われてしまう。これは何の冗談だ?
平和喪失、村八分、非国民。刑罰として共同体から追放される者は昔からいて、彼らのような存在がゾンビの元ネタであるという話もある。われわれは何の罪も犯していないが、ゾンビとして扱われていると見立てることもできよう。アメリカでホームレスが急増している。日本でも棄民が大量に生まれるよう計画されている。何の罪も犯していないのに共同体からはじき出される局外者は共同体からゾンビ扱いされている者だ。一方で、共同体の中に留まれるのは「筋書きの中にある存在」に自分を馴致させたゾンビだけだ。ゲーテッドシティの内も外もゾンビだらけになる。
過度に経済化された世界にはアジールすらない。
http://www.asyura2.com/19/senkyo262/msg/712.html#c19