8. 2022年6月21日 19:58:28 : cSQZWmWkeQ : WmxPcVFaNjc3Tm8=[1]
ウクライナでは、戒厳令がしかれ、18歳から60歳までの男性には、兵役義務が課せられた。
銃の扱いも知らない老若は、わずか1週間にも満たない訓練とも言えない訓練を経て、装備が満足でないまま、前線に駆り出される。
ウクライナ軍は、戦闘における量や質が、ロシア軍より劣っていて、損失は決定的であるにもかかわらず、ユダヤ人大統領ゼレンスキ−は、国家防衛を言い訳に、徹底的にウクライナ国民の命を蕩尽することが、まるで本来の目的であるかのように振る舞っている。
ゼレンスキ−の残虐性は、ウクライナ国民だけでなく、本来であれば、保護の対象であるロシア軍捕虜に対しても向けられる。
そして、これらの残虐性は、昭和の極悪人、裕仁にも見られるものだ。
敗色が明らかである1945年、裕仁は、さらに100万人の日本国民を犠牲にして、9月か10月頃に、降伏交渉を始めようと目論んでいた。(バーガミニからの引用。)
> Hirohito had been expecting to negotiate a surrender, in September or October after the loss of perhaps another million of his Toyal subjects.
日本軍の捕虜収容所は、ナチスドイツのそれと比べて、より致命的だった。ナチの収容所では、捕虜の4パ−セントが死亡したが、日本軍では、実に捕虜の28.65パ−セントが、死亡した。
> Of 235,473 British and American troops captured by the soldiers of the Third Reich, 9,348—or 4 per cent—died in the Nazi camps. Of 95,134 British, Australian, American, Canadian/and New Zealand troops captured by the Japanese, 27,256—or 28.65 per cent—died ih the Japanese camps.
そして、これは、裕仁が堅持した方針だった。
> Japan’s policy in regard to the political use and physical abuse of prisoners was enunciated by Hirohito at the very start of the war on December 24, 1941
http://www.asyura2.com/22/senkyo286/msg/809.html#c8