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[番外地9] zainichi の日本人への拷問 中川隆
1. 中川隆[-4757] koaQ7Jey 2021年5月16日 07:37:50 : tW8VAAkK0o : WlZtN0R3YUloTFE=[1]
旭川女子中学生売春組織のバックには ヤクザ=zainichi= souka の三位一体の組織が有り、マスコミも政治家も官僚も警察も学校関係者も逆らえない

▲△▽▼

zainichi の日本人への拷問 2016-01-18 17:25:43 | 日記
北九州監禁事件では
大便排泄を1日1回に限定し
全裸のままトイレに座らせることなく、がに股で排便させてそれを観察した
勝手に漏らした場合、大便は口で食わせた

言うことを聞かなければ通電といって性器に電極を取り付け電機拷問を行った
一瞬で皮膚が熱傷で破れ脳まで衝撃が来て記憶を失うほどの拷問であったそうだ

chousen 民族はこういうことを好むのである
ゆえに、監禁されれば飲尿食糞を余儀なくされ、監禁された日本人は
拷問されながら大小便を食べるという地獄の監禁拷問生活をおくる羽目になります

chousen 人が残酷なのは当然で大陸の人は日本人とは文化背景が違います
チンギスハーンの拷問好きは有名ですし、中国も拷問文化でしたchousen 人の李氏chousen もそうです。よってzainichi に監禁されると大変なことになります

殴る蹴るの基本的なものから、

タバコの火を押し当てる、
ハンダコテで体中焼く、
尿道にマッチ入れて火をつける、
在日が起こした北九州監禁事件のように電撃を与える
大小便を食べさせる

など拷問の種類には事欠きません


女性であれば、激しく rinkan・撮影されたあげく、
全身にピアスを通され
穴という穴は拡張され、

在日が起こした女子コンクリ事件では
鉄アレイを chitu と koumon にいれ蹴飛ばしていた有様です
在日を日本人と同じと思ってはいけません、農耕民族と大陸の殺戮民族では文化が違うのです


かわいい娘がいるとこうなります
全裸首輪で性奴隷家畜便器として完全監禁
少しでも反抗したらタバコの火を押し当てたりしていうことを聞かせます
何回も犯されてガバガバになり腕が入るまで広がりきります
尻の穴もそうなります、
栗には太いピアスがされるでしょう
SMビデオやスカトロビデオ撮影もあるでしょう、
厳しい拷問生活で かわいい娘は大便と小便を喜んで四つん這いのまま食べるようになります

こうして肉便器になり、最後は利用価値がなくなったらスナッフビデオといって
拷問して殺すところを撮影してお金にしますので、それからドラム缶でコンクリ詰めにします


北九州監禁事件でも、松永太が、嫁の母親や、妹を 嫁の父や、妹の旦那の前で犯して、そのときに、
「私は、松永の性奴隷です。松永のチンx が欲しくてたまりません」
と何回も言わせていたらしいからな。

親族同士の暴力、性行為というのは、マインドコントロールの常套手段なんだろう。
☆在日につかまったら若い娘は、舌をかんで自殺するしかないのですね。
http://www.asyura2.com/21/ban9/msg/357.html#c1

[番外地9] zainichi の日本人への拷問 中川隆
2. 中川隆[-4756] koaQ7Jey 2021年5月16日 07:49:18 : tW8VAAkK0o : WlZtN0R3YUloTFE=[2]
旭川女子中学生売春組織のバックには ヤクザ=zainichi= souka の三位一体の組織が有り、マスコミも政治家も官僚も警察も学校関係者も逆らえない
zainichi の日本人への拷問 2016-01-18 17:25:43 | 日記
北九州監禁事件では
大便排泄を1日1回に限定し
全裸のままトイレに座らせることなく、がに股で排便させてそれを観察した
勝手に漏らした場合、大便は口で食わせた

言うことを聞かなければ通電といって性器に電極を取り付け電機拷問を行った
一瞬で皮膚が熱傷で破れ脳まで衝撃が来て記憶を失うほどの拷問であったそうだ

chousen 民族はこういうことを好むのである
ゆえに、監禁されれば飲尿食糞を余儀なくされ、監禁された日本人は
拷問されながら大小便を食べるという地獄の監禁拷問生活をおくる羽目になります

chousen 人が残酷なのは当然で大陸の人は日本人とは文化背景が違います
チンギスハーンの拷問好きは有名ですし、中国も拷問文化でしたchousen 人の李氏chousen もそうです。よってzainichi に監禁されると大変なことになります

殴る蹴るの基本的なものから、

タバコの火を押し当てる、
ハンダコテで体中焼く、
尿道にマッチ入れて火をつける、
在日が起こした北九州監禁事件のように電撃を与える
大小便を食べさせる

など拷問の種類には事欠きません


女性であれば、激しく rinkan・撮影されたあげく、
全身にピアスを通され
穴という穴は拡張され、

在日が起こした女子コンクリ事件では
鉄アレイを chitu と koumon にいれ蹴飛ばしていた有様です
在日を日本人と同じと思ってはいけません、農耕民族と大陸の殺戮民族では文化が違うのです


かわいい娘がいるとこうなります
全裸首輪で性奴隷家畜便器として完全監禁
少しでも反抗したらタバコの火を押し当てたりしていうことを聞かせます
何回も犯されてガバガバになり腕が入るまで広がりきります
尻の穴もそうなります、
栗には太いピアスがされるでしょう
SMビデオやスカトロビデオ撮影もあるでしょう、
厳しい拷問生活で かわいい娘は大便と小便を喜んで四つん這いのまま食べるようになります

こうして肉便器になり、最後は利用価値がなくなったらスナッフビデオといって
拷問して殺すところを撮影してお金にしますので、それからドラム缶でコンクリ詰めにします


北九州監禁事件でも、松永太が、嫁の母親や、妹を 嫁の父や、妹の旦那の前で犯して、そのときに、
「私は、松永の性奴隷です。松永のチンx が欲しくてたまりません」
と何回も言わせていたらしいからな。

親族同士の暴力、性行為というのは、マインドコントロールの常套手段なんだろう。
☆在日につかまったら若い娘は、舌をかんで自殺するしかないのですね。

▲△▽▼

売春客を取らなかった被害者は制裁を受ける


旭川凍死事件でゴールデンウィークには、深夜4時くらいにB男らにLINEで呼び出された被害者が、いきなり家を出て行こうとしたところを母親が止めるという出来事もありました。母親がいくら止めても、爽彩は『呼ばれているから行かなきゃ』と、すごいパニックを起こしていた。ようやく引き止めたものの、その後もひどく怯えていたそうです」

縛り付けてるのか動けない様子

リーダーの女の子から男性へ
下半身見せろ

→被害女の子断る
周りの男の子→見せろコール

嫌だ!
→嫌だといってても結局するんだろ?

見せろコール
→みせたのか?歓声あがる→映ってない

いやいやそこでして→女性リーダー

嫌だ

『お仕置きタイム』
みんな押さえて

→嫌だ嫌だ

男の子
『もしかしたらピンクのスタンガン?』

女性リーダー
『イェース』

『あなたの嫌いなピンクのスタンガンですよお仕置きだよ』

『バリバリ、バリバリ』

女の子『嫌!!!』→叫ぶ

あはは→笑い声

リーダーの女の子少女の身体に当てる

#178 2021/05/02 22:41
旭川凍死事件ではピンクのスタンガンで気絶させて
凍り付くような冷たい川に突き落としたんだろう

そして主犯のC男は「便所ATMが逝ったから次の獲物探すべ・・」と言った


爆サイのスレでA子が誘引して、『媚薬』をもった
普通の大人でも
おかしくなるのに
小学生に媚薬とかもったら
おかしくならないか?

それを『旭川』はシステム的にしている

女性(女の子)を『便所』と呼ぶ

動画でも殴る蹴るして『豚』呼ばわりしていた
被害者を冒涜するやつ
頭おかしいやろ

お前たちの親族でしてみろ

親族に『便所』って周りから言われたら
悔しくないのか?
http://www.asyura2.com/21/ban9/msg/357.html#c2

[近代史5] ギリシャ・イタリアの歴史と現代史 中川隆
12. 中川隆[-4755] koaQ7Jey 2021年5月16日 09:23:49 : tW8VAAkK0o : WlZtN0R3YUloTFE=[3]
雑記帳 2021年05月16日
イタリア半島における銅器時代〜青銅器時代の人類集団の遺伝的構造の変化
https://sicambre.at.webry.info/202105/article_17.html


 イタリア半島における銅器時代〜青銅器時代の人類集団の遺伝的構造の変化に関する研究(Saupe et al., 2021)が公表されました。この研究はオンライン版での先行公開となります。イタリアの銅器時代(紀元前3600〜紀元前2200年頃)は新石器時代(紀元前7000〜紀元前3600年頃)と青銅器時代(紀元前2200〜紀元前900年頃)の間となり、さまざまな金属資源の新たな道具の開発により特徴づけられ、集団的から個人的なものへの移行、個人的な威信を示す副葬品といった埋葬慣行など、大きな文化的変化に続きました。

 古代DNA研究は、狩猟採集から農耕など、物質文化の変化と一致する人口集団の遺伝的特性における大きな変化の発生を浮き彫りにしてきました(関連記事1および関連記事2)。銅器時代(CA)から青銅器時代(BA)の移行期の初めとなる5000年前頃、ユーラシア草原地帯の人々がヨーロッパに到来し、在来人口集団とさらに混合しました(関連記事1および関連記事2および関連記事3)。これらの事象はヨーロッパのほとんどで広く研究されてきており(関連記事1および関連記事2)、イタリア半島(関連記事)やサルデーニャ島(関連記事)やシチリア島(関連記事)の古代ゲノムに関しては多くの研究がありますが、イタリア半島における銅器時代と前期青銅器時代の人口動態はまだよく特徴づけられていません。

 以前の研究では、紀元前2300年頃以後にイタリア北部とシチリア島に草原地帯関連祖先系統構成要素が到来した、と示されていますが、紀元前1900〜紀元前900年頃の年代的間隙が存在し、イタリア中央部における草原地帯関連祖先系統の到来についてはほとんど知られていません。さらに、利用可能なデータは、紀元前900年以後のサルデーニャ島で検出されたイラン新石器時代関連構成要素を示しますが(関連記事1および関連記事2)、コーカサス狩猟採集民(CHG)およびイラン新石器時代農耕民との類似性が、イタリア中央部新石器時代個体群(関連記事)と中期青銅器時代シチリア島個体群(関連記事)に存在し、その割合は現代イタリア人より低くいと示されています(関連記事)。

 しかし、シチリア島における青銅器時代個体群のCHGとの類似性はf4統計により裏づけられるものの、新石器時代個体群のCHG流入の証拠はさほど堅牢ではありません。さらに、いくつかの例外を除いて(関連記事1および関連記事2)、以前の調査は、これらの事象と関連する社会動態(たとえば、先史時代社会における親族関係構造の評価)に焦点を当てる問題を犠牲にして、おもに祖先的関係の説明もしくは人口集団の移動と混合の推測に焦点を当ててきました。

 古代DNAは、過去の社会的構造と繁殖行動の推測に役立ちます。ヨーロッパの新石器時代(N)では、いくつかの研究で父系社会組織の広範な文化的つながり(関連記事)が、また青銅器時代への移行期には、大規模で性的に偏った移住(関連記事)や、父方居住と女性族外婚(関連記事1および関連記事2)や、文化拡散と移住の影響が検出されています(関連記事)。これらの変化の社会的影響はまだ議論されていますが、文化的変化は適応に影響を及ぼす可能性があり、たとえば、技術の変化は食性の変化につながり、代謝遺伝子への選択圧につながります。

 これまで、銅器時代から青銅器時代の移行期におけるイタリア中央部の社会的構造や、文化的慣行の変化(親族関係や父方居住や族外婚)の変化が草原地帯関連祖先系統到来と相関しているのかどうか、まだ調べられていません。これは、イタリア銅器時代には多種多様な埋葬慣行が存在するものの、それらが多くの場合、混合された遺骸の集団埋葬により特徴づけられる、という事実に部分的に起因するかもしれません。これにより、埋葬集団の人類学的分析および親族関係と社会的構造に関する解釈が困難になりました。しかし、高処理能力古代DNA配列により、多数の骨格遺骸の遺伝的検査と、関節離断した遺骸からの個体の復元が可能になりました。

 ヨーロッパ大陸部の人口史理解の再形成に加えて、ヨーロッパの古代ゲノムの分析は、ヨーロッパにける表現型形質の選択の時間的深さに関する仮説に疑問を呈しています。たとえば、古代DNA研究では、ヨーロッパの中石器時代狩猟採集民は濃い肌の色と青い目の色を有していた(現在では稀な組み合わせです)可能性があり(関連記事1および関連記事2および関連記事3)、肌の色素沈着の選択が過去5000年に起きた、と明らかにしてきました。他の最近の研究では、脂肪酸代謝およびデンプン消化と関連する遺伝子内の選択は、農耕移行期に起きたのではなく、ヨーロッパへの草原地帯関連祖先系統の到来に続く紀元前2000年頃に始まり、草原地帯関連祖先系統構成要素自体が動因だったかもしれない、と示唆されています。

 もう一つの未解決の問題は、ヒトゲノムの形成における病原体の役割で、古代DNAを用いて調査が始まりつつあります。一つの特定の病原体であるハンセン病は、青銅器時代の地中海で古病理学的証拠が最初に見られ、紀元前300年頃までにイタリア中央部および北東部での症例が指摘されています。ハンセン病は後にローマの軍事行動により拡大し、ヨーロッパでは中世前期に増加した可能性がありますが、紀元後15世紀までには減少し、この減少におけるヒトの遺伝的適応の役割は不明です。最近古代DNA研究で発見されたものも含めて(関連記事)、感染の発現と進行に関連する遺伝子座は多く存在します。本論文は古代DNAを用いて、イタリア北東部および中央部の銅器時代と青銅器時代の移行以前およびその期間を通じての祖先系統構成要素の多様性と、草原地帯関連祖先系統の変化が推定される社会的構造および/もしくは表現型特性の変化と相関しているのかどうか、調査します。


●資料

 新たに得られたイタリアの古代DNAデータは、ネクロポリス(巨大墓地)のガットリーノ(Necropoli di Gattolino)と、3ヶ所の洞窟から得られました。3ヶ所の洞窟とは、北東部のブロイオン洞窟(Grottina dei Covoloni del Broion)、中央部のラサッサ洞窟(Grotta La Sassa)とマルゲリータ洞窟(Grotta Regina Margherita)です(図1A)。合計で22個体の古代DNAデータが得られました。内訳は、ブロイオン洞窟が銅器時代(CA)4個体と前期青銅器時代(EBA)2個体と青銅器時代(BA)5個体の計11個体、ガットリーノ洞窟が銅器時代4個体、マルゲリータ洞窟が青銅器時代3個体、ラサッサ洞窟が銅器時代4個体です。これらの平均網羅率は0.0016〜1.24倍です。

 これら22個体の年代は、ヒト遺骸と共伴した土器破片や金属器などの考古学的証拠と、22個体のうち12個体の直接的な放射性炭素年代に基づいています(図1B)。直接的な放射性炭素年代のない10個体のうち、個体BRC013の年代は、1親等(おそらくは兄弟)の直接的に放射性炭素年代測定された個体(BRC022)に、女性の平均的な繁殖期間(30年)を組み合わせて推測できます。しかし、他の9個体に関しては、考古学的情報と遺伝学的情報の両方を考慮して、最も節約的な区分に割り当てられました。以下は本論文の図1です。
画像


●新石器時代から鉄器時代のイタリアの遺伝的構造

 イタリアの銅器時代と青銅器時代の個体群を他の古代および現代のヨーロッパ人口集団と比較するため、主成分分析が実行され、古代の標本群がユーラシア現代人1471個体の遺伝的多様性に投影されました(図2A)。新たに生成された標本は、2つの主要なクラスタに分散しています。それは、青い円のヨーロッパ新石器時代(EN)と、赤い円の新石器時代後(PN)です、前者は、ラサッサCA(銅器時代)とガットリーノCAとブロイオンCAを含み、後者はマルゲリータとブロイオンの前期青銅器時代(EBA)および青銅器時代(BA)標本を含みます。

 興味深いことに、文献から利用可能な新石器時代と銅器時代と青銅器時代のイタリアの標本のほとんどはENクラスタ内に収まりますが、PNクラスタはほぼ鉄器時代(IA)標本群が中心で、既知の何点かのBA個体を含みます。これは、現時点で利用可能なイタリアBA標本群のほとんどがサルデーニャ島とシチリア島に由来し、この2島では草原地帯関連祖先系統構成要素の減少が報告されてきた、という事実と一致します(関連記事1および関連記事2)。これはDyStruct分析により確認され(図2B)、銅器時代から青銅器時代のサルデーニャ島とシチリア島の個体群における高いアナトリア半島新石器時代(N)構成要素も示します。

 ENクラスタ内の分離(図2A)は明確に、アナトリア半島およびヨーロッパ東部新石器時代個体群(右側)をヨーロッパ西部新石器時代個体群と区別し、それはドイツ西部の標本群(左側に位置し、ヨーロッパ西部狩猟採集民により近く位置します)として定義されます。類似の分離はすでにこれの標本群におけるヨーロッパ西部狩猟採集民(WHG)の割合の違いとして報告されてきました(関連記事1および関連記事2および関連記事3)。ただ、本論文で新たに提示される銅器時代個体群のほとんどは、両クラスタの右側(アナトリア半島およびヨーロッパ東部)に位置することに注意が必要です。

 f4統計(ムブティ人、イタリア中石器時代、サルデーニャ島新石器時代、X)により、イタリアの銅器時代標本群とWHGとの間の類似性がさらに調べられました。XはイタリアN(新石器時代)、ラサッサCA、がCA、ブロイオンCAのいずれかです。負のZ得点は、イタリア中央部中石器時代標本が、イタリア半島銅器時代標本よりもサルデーニャ島Nとより多く共有することを示唆します。同時に、f4統計(ムブティ人、アナトリアN、サルデーニャ島N、X)では、ガットリーノCAとの比較のみで有意な負の値が得られ、ENクラスタの両方の間もしくはEN構成要素内の構造間のWHGとアナトリアNの構成要素における不均衡が、本論文の結果を説明できるかもしれない、と示唆されます。

 しかし、f3(ムブティ人、イタリアCA、Y)では、イタリアCAは全てイタリア半島の銅器時代標本で、YはENクラスタとなりますが、主成分分析の観察を識別する能力がないかもしれないことに、注意が必要です。いくつかの研究では、新石器時代に始まるジョージア(グルジア)およびイランの狩猟採集民と関連する集団からの影響が検出されてきましたが(関連記事)、f4(ムブティ人、ジョージアKotias、サルデーニャ島N、X)は、青銅器時代前のイタリア集団のどれとも有意ではありません。

 qpWaveとqpAdmの枠組みを用いて、新石器時代・銅器時代と青銅器時代との間の境界における連続性の可能性が評価されました。2つの推定起源集団を用いると、本論文におけるイタリア北部および中央部の全ての対象とされた青銅器時代集団は、銅器時代的個体群が草原地帯関連祖先系統からの遺伝的寄与を受け、それはおそらく、ドイツの鐘状ビーカー(Bell Beaker)文化集団、フランスの中期新石器時代集団、イタリアの銅器時代集団など、北方の後期新石器時代・銅器時代集団を通じてだった、というシナリオが支持されます。選択されたユーラシアの中石器時代から鉄器時代にいたる古代人と現代人のモデルベースクラスタ化分析(DyStruct、図2B)とADMIXTURE分析は、サルデーニャ島およびシチリア島個体群との主要な違いとして、イタリア半島の青銅器時代個体群における草原地帯関連祖先系統構成要素の存在を示し、主成分分析におけるPNとEN間の個体群の分布を説明します(図2A)。以下は本論文の図2です。
画像

 これがf4(ムブティ人、ヤムナヤKalmykia、X、アナトリアN)で検証されました(図2C)。Xはイタリアの中石器時代後の標本(少なくとも5000ヶ所の一塩基多型が利用可能な標本のみ)で、検証の結果、草原地帯関連祖先系統構成要素の有意な濃縮のある個体群のみが、本論文で新たに生成されたEBAおよびBA個体群内と、既知の鐘状ビーカーもしくはイタリア鉄器時代個体群に含まれます。ヨーロッパにおける他の銅器時代から青銅器時代への移行について以前に報告された研究とは対照的に、外群f3検定(イタリアCA・EBA・BA、古代人、ムブティ人)では、草原地帯関連祖先系統を有する人口集団はイタリアでは男性に偏った兆候を残さず、仮にその偏りがあったとしても、代わりに在来の新石器時代集団の寄与を通じて見られます。

 コピー類似性に基づく2つの直行性手法であるChromopainter/NNLSとSOURCEFINDを使用し、複数のf4の組み合わせの比較に基づいて、新たな状況が要約されました(図3)。新規標本に関しては、両方の手法はDyStruct(図2B)との全体的な一貫性を示し、ヨーロッパ狩猟採集民関連構成要素の新石器時代後の増加と、草原地帯関連祖先系統の到来を浮き彫りにし、例外は前期青銅器時代のサルデーニャ島です。さらに、イタリアN・CAについて報告されたアナトリアNとWHGの割合は、主成分分析で識別されたENクラスタ内の位置に関係なく類似しています。以下は本論文の図3です。
画像

 新たに生成された全標本でミトコンドリアDNA(mtDNA)ハプログループ(mtHg)が決定され、Y染色体ハプログループ(YHg)は、Y染色体の網羅率が0.01倍以上の男性10個体で決定されました。以前に報告された草原地帯関連祖先系統とYHg-Rの同時拡大と一致して、イタリアBA男性4個体のうち3個体がYHg-R1で、そのうち2個体はYHg-R1bに分類できました。YHg-R1bは銅器時代の標本では見られません。イタリアのYHg-R1bの2個体はヨーロッパ西部現代人と、鐘状ビーカー文化の被葬者で一般的なYHg-R1b1a1b1a1a(L11)で、ロシアの草原地帯の古代人のゲノムで見られるYHg-R1b1a1b1b(Z2105)ではありませんでした。


●銅器時代と青銅器時代における構造と移動性

 本論文で新たに生成された標本が出土した遺跡は、単一埋葬のネクロポリスがガットリーノ洞窟(紀元前2874〜紀元前2704年頃)のみの1ヶ所で、残りのブロイオンとラサッサとマルゲリータは混合埋葬洞窟です。本論文におけるラサッサ洞窟の標本は銅器時代(紀元前2850〜紀元前2499年頃)のみで、マルゲリータ洞窟の標本は青銅器時代(紀元前1609〜紀元前1515年頃)のみです。ブロイオン洞窟は、銅器時代(紀元前3335〜紀元前2936年頃)と青銅器時代(紀元前1609〜紀元前1515年頃)の両方の時代にまたがる唯一の遺跡です。

 遺跡の利用と違いが洞窟と墓地の埋葬の間にあるのかどうか、埋葬行動の変化は遺伝的祖先系統の変化と同時に起きたのかどうか、よりよく理解するために、片親性遺伝標識(母系のミトコンドリアDNAと父系のY染色体で、母系と父系の系統多様性と移動性の情報が得られます)と遺伝的親族関係(家族構造の移動性の情報が得られます)とROH(runs of homozygosity)が分析されました。ROHとは、両親からそれぞれ受け継いだと考えられる同じアレル(対立遺伝子)のそろった状態が連続するゲノム領域(ホモ接合連続領域)で、長いROHを有する個体の両親は近縁関係にある、と推測されます。ROHは人口集団の規模と均一性を示せます。

 合計で銅器時代(12標本)と青銅器時代(10標本)の標本規模はほぼ等しく、男性と女性の総数は予測と異なりません。しかし、銅器時代の洞窟内における男女比は7:1で予測とは異なるものの、ブロイオン遺跡とマルゲリータ遺跡の青銅器時代層もしくはガットリーノ遺跡の銅器時代ネクロポリスにおける男女比は異なりません。これらの結果は、銅器時代の洞窟埋葬における男性へのわずかな偏りを示唆します。

 1親等および/もしくは2親等の遺伝的親族関係がこれら4遺跡内もしくは4遺跡間の個体群、あるいは新たに生成されたゲノムと既知の古代ゲノムデータセットとの間に存在するのかどうか識別するため、2つの手法が用いられました。まず、親族関係度の最初の決定のため、擬似半数体データのペアワイズミスマッチ推定が用いられました(READ)。新たに報告された古代ゲノムの全てを1集団として、遺跡および/もしくは年代(新石器時代および銅器時代と、青銅器時代)ごとに分けて解析すると、まとめ方に関わらず一貫した結果が得られました。

 親族の程度(たとえば1親等では、両親が同じキョウダイと親子関係)の関係タイプを区別するため、遺伝子型についてのPlink-1.959に実装されているIBD解析が用いられました。IBDとは同祖対立遺伝子(identity-by-descent)で、かつて共通祖先を有していた2個体のDNAの一部が同一であることを示し、IBD領域の長さは2個体が共通祖先を有していた期間に依存しており、たとえばキョウダイよりもハトコの方が短くなります。遺伝子型はパイプラインを用いて決定され、親族関係が近い場合(1親等から2親等)には、両方の手法が一貫した結果を提供しました。なお英語圏では、キョウダイが1親等(日本語では2親等)、イトコが3親等(日本語では4親等)となります。

 検証された青銅器時代の7個体では、新たにゲノムが生成された遺跡間、もしくは既知のデータとも、親族関係が見つかりませんでした。しかし、標本規模が小さいので、これらの個体から一般的確実性のパターンを推測するさいには注意が喚起されます。銅器時代の12個体については、密接な親族関係がラサッサとブロイオンの両洞窟遺跡で検出され、全ての親族関係は男性間でした。ラサッサ遺跡では、男性2個体(LSC002/004とLSC011)が同じY染色体ハプロタイプを有しており、LSC011はYHg-J2a(M410)、LSC002/004はJ2a1a1b1(Z2397)に分類されます。一方、mtHgは異なっており、LSC002/004がH1bv1、LSC011がJ1c1です。両者は1親等の関係と推定され、IBD値の割合は親子関係と一致し、父子関係と示唆されます。放射性炭素年代測定の較正曲線の性質により、どちらが父親なのか、正確に推定することはできません。しかし、放射性炭素年代測定は、古代DNAから推測される両者の関連性を却下しません。ひじょうに低い網羅率のLSC007はLSC002/004と1親等の関係にあるようで、両者は同じmtHg-H1bv1を有しています。LSC007は、YHgの分類には網羅率が低すぎました。

 これらの個体と同年代の女性LSC005/013(mtHg-H1e5a)は、検出可能な密接な遺伝的親族関係を有さず、主成分分析では男性と離れてクラスタ化し、ラサッサ遺跡の標本抽出された歯では、他の歯の範囲外に位置するストロンチウム同位体値を示します。LSC005/013が遺伝的に他のラサッサ遺跡個体群よりも別の人口集団の方と類似しているのかどうか検証するため、f4(ムブティ人、LSC005/013、ラサッサCA、他の標本・人口集団)が実行されました。いくつかの同時代人口集団では0ではない正のZ得点がありますが、有意な閾値を超えるものはありません。証拠の要約から、LSC005/013は他のラサッサ遺跡個体群と同じ地域で育ったわけではないかもしれないものの、その遺伝的類似性の確定にはより高い網羅率のゲノムデータとより多くの包括的な標本が必要になる、と示唆されます。

 ブロイオン遺跡では、銅器時代と直接的に年代測定された全個体(BRC001とBRC013とBRC022)および/もしくはヨーロッパ新石器時代(EN)クラスタに分類される(図2A)個体(BRC011)は男性で、直接的に年代測定された3個体は全て1親等および2親等の関係を示します。直接的に年代測定された3個体はYHg-G2a(P15)を共有しており、下位区分もYHg-G2a2b2b1a1(F2291)で同じです。しかし、網羅率の違いのため、末端の分枝の遺伝子標識は3個体全てで得られませんでした。BRC013とBRC022はmtHg-H5a1を共有しており、1親等の関係ですが、mtHg-J2a1a1のBRC001/023はBRC013と2親等の関係にあるものの、BRC022との親族関係はありません。PI_HAT値はBRC013とBRC022の間の全兄弟(両親が同じ兄弟)としての1親等の関係と、BRC013とBRC022とBRC001/023の間の異なる2親等の関係を裏づけます。これらの値を考えると、最も節約的な想定は、BRC013とBRC022が兄弟で、BRC013はBRC001/023の祖父である、というもので、放射性炭素年代はこの想定を却下しません。

 新たにゲノムデータが得られた22個体のうち、N・N1・H・J・Kと多様なmtHgのうち、一致するのは2例のみでした。これは、ミトコンドリア水準での検出可能な構造の欠如を示唆しており、銅器時代と青銅器時代における、より大きな母系人口規模・族外婚および/もしくは父方居住親族構造と一致する可能性があります。この想定をさらに調べるため、古代および現代の人口集団におけるROHが分析されました(図4A〜C)。これは、ハプロタイプ参照パネルを用いて、低網羅率ゲノムでROH断片を検出する方法です。網羅率の違いが統計的に偏らせてないことと(図4D)、帰属や配列のエラーがないことを確認しました。ゲノム断片の数と長さが、1.6 cM(センチモルガン)未満、1.6〜4 cM 、4〜8 cM 、8 cM 超の4区分で計算されました。本論文は1.6 cM以上の区分(4 cMや8 cMの区分も含まれます)に焦点を当てました。それは最近の親族関係に関する情報をもたらし、最も確実に推測できます。

 中石器時代後の古代人標本について1.6 cM超のROHの推定値は、現代イタリア人で得られた値の範囲内にあり、同水準の族内婚を示唆します(図4A・B)。しかし、イタリア新石器時代個体群と本論文で新たに報告されたイタリア青銅器時代個体群の1.6 cM超の断片の長さと1.6 cM超の断片の数との間には有意な違いがあり、青銅器時代のより大きな有効人口規模、もしくは在来の銅器時代人口集団との混合事象に続く追加の多様性の結果と一致します。ラサッサ遺跡内では、個体LSC002/4において1.6 cM超断片の合計の長さが最高となり、唯一8cM超の断片が検出されました。以下は本論文の図4です。
画像


●イタリア古代人の表現型特徴の変化

 経時的な祖先系統構成要素の変化が表現型の変化に対応しているのかどうか確定するため、本論文および以前の研究で提示された古代人標本における、代謝・免疫・色素沈着と関連する115個の表現型と関連する遺伝的標識が分類されました(関連記事1および関連記事2)。本論文で新たに提示された16個体と文献からの316個体の計332個体が分析されました。これらは、イタリア中石器時代3個体、イタリア新石器時代および銅器時代52個体、イタリア青銅器時代60個体、イタリア鉄器時代および現代133個体、近東新石器時代および銅器時代41個体、近東青銅器時代18個体、ヤムナヤ(Yamnaya)文化18個体に分類されます。

 3個体以上の標本規模の集団について、各人口集団におけるそれぞれの表現型多様体の有効アレル(対立遺伝子)の頻度が計算された後、アレル頻度における変化を分析するためANOVA検定が実行されました。異なる期間のイタリアおよび非イタリア集団両方の間と、イタリア内の集団間が比較され、イタリアの個体群は期間と地理的位置に基づいて12コホートに分類されました。両方の検定で、ボンフェローニ補正の適用により有意な閾値が設定され、テューキー検定を用いて有意な組み合わせが決定されました。

 イタリア集団を近東およびヤムナヤ文化人口集団と比較すると11個の多様体が有意で、イタリア内検定では8個が、両方の検定では4個が有意でした。標本規模が小さいため、これらの結果は注意して解釈する必要がありますが、いくつかの潜在的に興味深い結果が出現します。両方の検定で有意な多様体、つまりTLR1(rs5743618)、TNF(rs1800629)、HLA(rs3135388)、SLC45A2(rs16891982)については、兆候はほぼ完全に、ローマ共和政期イタリア中央部集団(Cen_postRep)により駆動されており、ローマ期と古代末期と中世の個体群を含みます。追加の草原地帯関連祖先系統にも関わらず、本論文のイタリア青銅器時代標本群とイタリア新石器時代・銅器時代集団との間に検出可能な違いはありません。

 本論文で浮き彫りになった4多様体のうち3個は、ハンセン病に対する保護と感受性に関連しています。HLA(ヒト白血球型抗原)関連多様体(rs3135388)は、デンマーク中世人口集団においてハンセン病の身体症状に対する感受性が示唆されており、青銅器時代後のイタリア人と新石器時代・銅器時代の近東人と青銅器時代イタリア人とヤムナヤ文化個体との間で有意に異なっていました。この検定におけるrs3135388の統計的有意性は、おそらくは鉄器時代以後のイタリア中央部人における保護的アレルの低頻度に起因します。腫瘍壊死因子関連のTNF遺伝子の多様体(rs1800629)も、保護的アレルの頻度が減少しているようです。両方の結果は、ヨーロッパの歴史的および考古学的記録におけるハンセン病の頻度上昇と一致しています。先天性免疫に関わるToll様受容体であるTLR1の多様体(rs5743618)は、アジア人口集団におけるハンセン病に対する保護と結核への感受性増加の両方と関連しており、他の方向での有意な結果を示し、ローマ共和政期イタリア中央部集団でのみより高頻度で引き起こされます。

 両方の検定で重要な4番目の多様体(SLC45A2遺伝子のrs16891982)は、髪と目の色素沈着に関係しています。身体的外見では、銅器時代および青銅器時代のイタリア集団は、イタリアと近東のより早期の集団よりも、鉄器時代および後のローマ期の集団と類似した表現型を有しています。イタリアの既知の中石器時代3個体は、肌と髪の色が濃く、目は青色と予測されていますが、他の標本のほとんどは、中間的な肌の色と茶色の髪と青い目が予測されています。しかし、濃い色もしくは茶色の髪と青い目の組み合わせの個体群も、イタリア中央部の新石器時代個体群を除く全ての期間で予測されます。より濃い色の目と髪に関連する多様体(rs16891982)は、青銅器時代後のイタリア集団とそれ以前のイタリア集団との間で有意な違いを示し、イタリア中央部における頻度低下は本論文で新たに報告された銅器時代個体群で始まり、同じく本論文で新たに報告された青銅器時代個体群と、ローマ共和政期後のイタリア中央部集団で最低の値が観察されます。この違いは、青銅器時代前の新石器時代イタリア中央部集団およびサルデーニャ島集団と比較してとくに顕著です。


●考察

 本論文で新たに報告されたゲノムは、ヨーロッパにおけるイタリア先史時代後期の人口動態のより詳細な説明を提供します。主成分分析で観察され、以前の研究(関連記事)で報告されている、ヨーロッパ前期新石器時代個体群の2集団への区分は、イタリア本土個体群からサルデーニャ島新石器時代個体群を分離し、サルデーニャ島新石器時代個体群がアナトリア半島新石器時代個体群およびWHGとより高い類似性を示しており、ヨーロッパ新石器時代構成要素内の人口集団構造の可能性を提起しますが、祖先系統における微妙な違いを解明するには、高網羅率の古代ゲノムを含むより詳細な分析が必要です。

 本論文の分析は、イタリア全域における草原地帯関連人口集団からの青銅器時代の頃および青銅器時代後の予測される兆候を示します。草原地帯関連祖先系統は、新石器時代および銅器時代のイタリア個体群には欠けており、イタリア前期青銅器時代の、鐘状ビーカー文化期の個体I2478(紀元前2195〜紀元前1940年頃)と、レメデッロ(Remedello)遺跡の個体RISE486(紀元前2134〜紀元前1773年頃)と、ブロイオン遺跡の個体BRC010(紀元前1952〜紀元前1752年頃)に出現し、ブロイオン遺跡個体からマルゲリータ遺跡個体GCP003(紀元前1626〜紀元前1497年頃)にかけて増加します。これらの標本群は、草原地帯関連祖先系統が、少なくとも紀元前2000年頃までにイタリア北部に到来したことと、その4世紀後までにイタリア中央部に存在したことを確認しますが、この拡大の動態を評価するには、より高密度の標本抽出戦略が必要です。

 本論文のqpAdmの結果から、草原地帯関連祖先系統構成要素はヨーロッパ中央部から後期新石器時代および鐘状ビーカー文化集団を通じてイタリアに到来した、と示唆されますが、標本規模が小さく、時空間的分布が限定的なので、不明な点として、複数の草原地帯人口集団が供給源となったのかどうかと、イタリア半島全域の草原地帯関連祖先系統の正確な年代と拡散が残ります。青銅器時代ブロイオン遺跡個体に見られるYHg-R1bの下位区分は、古代シチリア島標本群およびイタリアの鐘状ビーカー文化個体群で見られます。イタリア北部および中央部青銅器時代集団と後期新石器時代ドイツ集団との常染色体の類似性と合わせて、Y染色体データは、イタリアの草原地帯関連祖先系統の、おそらくは北部とアルプス横断地域と鐘状ビーカー文化関連の起源を示します。

 銅器時代と青銅器時代の境界における男性親族構造の重要性も、本論文の常染色体データを用いて調べられました。銅器時代の混合洞窟埋葬は何らかの親族構造を含む、と長く仮定されてきましたが、古代DNA研究の出現前にそれを直接的に明らかにすることはできませんでした。本論文は、銅器時代において混合洞窟埋葬が密接に関連した男性の埋葬に優先的に用いられた、というパターンを確認しましたが、この事実の社会的重要性は明らかではありません。イタリアの銅器時代人口集団は、より早期の大西洋沿岸で見られる巨石記念碑の建築よりも、自然の埋葬室空間や横穴墓や溝墓を利用していましたが、関連する男性をともに埋葬する重要性は共有される特徴です。

 本論文の遺伝的証拠は、ラサッサ遺跡とブロイオン遺跡両方の人口集団がこれら埋葬儀式について父系子孫と父方居住を強調したことと一致しており、この強調は青銅器時代には消滅するものの、ガットリーノ遺跡の単一埋葬様式銅器時代墓地にも存在しません(おそらくは標本規模が小さいため)。これらの遺跡は在来人口集団の無作為で偏りのない標本抽出ではなく、むしろこれらの社会の一つの特定の儀式的側面の断片を表している、と注意することが重要です。したがって、父方居住と父系が一般的に行なわれていたのかどうか、もしくはこれらのパターンが経時的に変化したのかどうか、推測することはできません。一般的な人口集団構造と共同体間の関係を復元するには、遺伝子と同位体の標本抽出を増やす必要があります。

 草原地帯関連祖先系統の到来は、本論文で評価された表現型のどの頻度パターンにも影響を与えていないようです。むしろ、最大の変化はローマ帝国期もしくはその後に起きたようです。鉄器時代後のハンセン病に対する保護と関連するアレルの減少は、紀元前三千年紀と紀元前四千年紀から紀元後千年紀の頃の衰退までのヨーロッパの生物考古学および歴史的記録におけるハンセン病の症状の増加を考えると、興味深い問題です。これらの多様体がハンセン病および他の病原性マイコバクテリア感染症とどのように相互作用するのか、まだ正確には明らかではありません。したがって、完全な進化史を確定する前に、臨床面でのより多くの研究が必要です。本論文は全ての可能性のある表現型ではなく小規模な部分集合を検証したので、本論文の結果は、表現型の違いだけではない可能性があり、進化のメカニズムとヒトの遺伝子との間の複雑な関係を完全に理解するには、より多くの研究を行なう必要があります。幸いなことに、この研究で生成されたような全ゲノムは、生物学と遺伝学の全領域で進歩の観点から再考できる貴重な情報源を提供します。


参考文献:
Saupe T. et al.(2021): Ancient genomes reveal structural shifts after the arrival of Steppe-related ancestry in the Italian Peninsula. Current Biology.
https://doi.org/10.1016/j.cub.2021.04.022

https://sicambre.at.webry.info/202105/article_17.html


http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/469.html#c12

[近代史4] イスラエル建国 中川隆
8. 中川隆[-4754] koaQ7Jey 2021年5月16日 09:30:10 : tW8VAAkK0o : WlZtN0R3YUloTFE=[4]

2021.05.16
ロシア大統領もトルコ大統領もパレスチナ問題から距離を置く事情
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202105150003/


 アメリカでジョー・バイデン政権が誕生して以来、イスラエルの行動は過激度を高めている。東エルサレムではイスラエルの治安部隊によるパレスチナ人に対する暴力的な弾圧が繰り広げられ、アル・アクサ・モスクが襲撃された。ガザではイスラエル軍が高層住宅を破壊、その直後から3日間にハマスはガザから1500発以上のミサイルをテル・アビブに向けて発射、テル・アビブの南東にあるロドでは非常事態が宣言されている。

 そうした中、3月12日にロシアの​ウラジミル・プーチン大統領​とトルコの​レジェップ・タイイップ・エルドアン大統領​が電話で会談、パレスチナ情勢がさらに悪化しないよう、国連が決議した「2国家解決案」に従って自体のさらなる悪化を防ぐべきだということで意見が一致したという。

 イスラエルと共存するパレスチナはヨルダン川西岸地区とガザ地区で構成され、首都は東エルサレムとされている。その東エルサレムをイスラエルは制圧しようとしているわけだ。すでに「ユダヤ人」の入植でヨルダン川西岸は浸食され、「2国家解決案」の基盤は崩壊しているが、東エルサレムの制圧は「止めを刺す」行為だと言えるかもしれない。

 イスラエルの建国が宣言されたのは1948年5月14日のことだが、そこには多くのアラブ系住民が住んでいた。「パレスチナ人」と呼ばれる人びとだ。その住民を追い出すため、シオニストの武装勢力は4月上旬に「ダーレット作戦」を始めている。これは1936年から39年にかけてシオニストがアラブ系住民を殲滅する作戦を展開した作戦の延長線上にあるとも見られている。

 シオニストの軍隊、ハガナの副官だったイェシュルン・シフがエルサレムでイルグンのモルデチャイ・ラーナンとスターン・ギャングのヨシュア・ゼイトラーに会ったのは4月6日。イルグンもスターン・ギャングもシオニストのテロ組織だ。

 その3日後にイルグンとスターン・ギャングはデイル・ヤシンという村を襲撃、住民を虐殺する。襲撃の直後に村へ入った国際赤十字の人物によると、254名が殺され、そのうち145名が女性で、そのうち35名は妊婦だった。イギリスの高等弁務官、アラン・カニンガムはパレスチナに駐留していたイギリス軍のゴードン・マクミラン司令官に殺戮を止めさせるように命じたが、拒否されている。(Alan Hart, “Zionism Volume One”, World Focus Publishing, 2005)

 こうした虐殺に怯えた少なからぬ住民は逃げ出した。約140万人いたアラブ系住民のうち、5月だけで42万人以上がガザやトランスヨルダン(現在のヨルダン)へ移住、その後1年間で難民は71万から73万人に達したと見られている。国際連合は1948年12月11日に難民の帰還を認めた194号決議を採択したが、現在に至るまで実現されていない。そしてイスラエルの建国が宣言された。

 しかし、シオニストは「建国」の際、予定していた地域を全て占領することができなかったと言われている。そして1967年6月5日に第3次中東戦争が始まる。

 この年の3月から4月にかけてイスラエルはゴラン高原のシリア領にトラクターを入れて土を掘り起こし始めて挑発、シリアが威嚇射撃するとイスラエルは装甲板を取り付けたトラクターを持ち出し、シリアは迫撃砲や重火器を使うというようにエスカレートしていった。この時にイスラエルはシリアに対し、イスラエルに敵対的な行動を起こさなければイスラエルとエジプトが戦争になってもイスラエルはシリアに対して軍事侵攻しないと約束していたとされている。

 軍事的な緊張が高まったことからエジプトは1967年5月15日に緊急事態を宣言、部隊をシナイ半島へ入れた。5月20日にはイスラエル軍の戦車がシナイ半島の前線地帯に現れたとする報道が流れ、エジプトは予備軍に動員令を出す。そして22日にナセル大統領はアカバ湾の封鎖を宣言した。

 イスラエルはこの封鎖を「イスラエルに対する侵略行為」だと主張、イスラエルの情報機関モサドのメイール・アミート長官が5月30日にアメリカを訪問、リンドン・ジョンソン米大統領に開戦を承諾させた。そして6月5日にイスラエル軍はエジプトに対して空爆を開始、第3次中東戦争が勃発したわけだ。

 戦争が勃発した4日後にアメリカは情報収集船のリバティを地中海の東部、イスラエルの沖へ派遣するが、そのリバティをイスラエル軍は8日に攻撃している。偵察機を飛ばしてアメリカの艦船だということを確認した後の攻撃だった。ロケット弾やナパーム弾が使われているが、これは船の乗員を皆殺しにするつもりだったことを示している。

 それに対し、リバティの通信兵は壊された設備を何とか修理、アメリカ海軍の第6艦隊に遭難信号を発信するが、それをイスラエル軍はジャミングで妨害している。

 遭難信号を受信した空母サラトガの甲板にはすぐ離陸できる4機のA1スカイホークがあった。艦長はその戦闘機を離陸させたが、その報告を聞いたロバート・マクナマラ国防長官は戦闘機をすぐに引き返させるように命令している。

 その後、ホワイトハウス内でどのようなことが話し合われたかは不明だが、しばらくして空母サラトガと空母アメリカは8機の戦闘機をリバティに向けて発進させた。

 この戦争で圧勝したイスラエル軍はガザ、ヨルダン川西岸、シナイ半島、ゴラン高原を占領している。ゴラン高原の西側3分の2は今でもイスラエルが不法占拠している。勿論、イスラエルはそうした占領地を返すつもりはない。残りの地域を制圧する作戦を進めているのだ。

 イスラエルは「建国」以来、ユーフラテス川とナイル川で挟まれている地域を支配するという「大イスラエル」計画を捨てていない。アメリカ、イスラエル、サウジアラビアが中心になり、2011年3月に始められたシリアへの侵略戦争で、イギリスとフランスが「サイクス・ピコ協定」の亡霊に取り憑かれていることもわかった。こうした国の支配者はパレスチナ人の人権など考えていないだろう。

 サイクス・ピコ協定とは1916年5月、秘密裏にイギリスとフランスが中東を分け合う目的で結んだもので、後に帝政ロシアも協定に同意している。話し合いはフランスのフランソワ・ジョルジュ・ピコとイギリスのマーク・サイクスによって行われた。

 協定が結ばれた当時、中東を支配していたオスマン帝国を乗っ取ろうというような話。大雑把に言って、ヨルダン、イラク南部、クウェートなどペルシャ湾西岸の石油地帯をイギリスが支配、フランスはトルコ東南部、イラク北部、シリア、レバノンを支配下に置くとされた。

 協定が結ばれた翌月、「アラブの反乱」が始まる。その「反乱」で中心的な役割を果たしたのはデイビッド・ホガースを局長とするイギリス外務省アラブ局。そこにはマーク・サイクスやトーマス・ローレンスもいた。一般に「アラビアのロレンス」とも呼ばれている、あのローレンスだ。

 この段階ではすでにイギリスの支配層はユーラシア大陸の周辺部を支配して内陸部、つまり中国(清)やロシアを締め上げるという長期戦略を立てていた。この戦略を可能にしたのは1869年に完成したスエズ運河だと言えるだろう。1875年に運河はイギリス系企業の所有になる。

 イギリスは第1次世界大戦の際、ウィリアム・シェークスピアというエージェントを後のサウジアラビア国王、イブン・サウドに接触させている。このエージェントは1915年1月に戦死、ジョン・フィルビーが引き継ぐ。この頃、イギリスはイブン・サウドとライバル関係にあったフセイン・イブン・アリを重要視するようになり、ローレンスもイブン・アリを支援する。

 このイブン・アリは1915年7月から16年1月にかけてイギリスのエジプト駐在高等弁務官だったヘンリー・マクマホンと書簡のやりとりをしている。その中で、イギリスはアラブ人居住地の独立を支持すると約束した。いわゆる「フセイン・マクマホン協定」だ。

 イブン・アリは1916年、アラビア半島西岸にヒジャーズ王国を建国した。1924年にカリフ(イスラム共同体を統合する指導者)を名乗るものの、イスラム世界から反発を受けてしまい、追い出される一因になった。ヒジャーズ王国は1931年にナジェドと連合、32年にはサウジアラビアと呼ばれるようになる。

 その一方、1917年にはイギリスのアーサー・バルフォア外相がロスチャイルド卿宛ての書簡で、「イギリス政府はパレスチナにユダヤ人の民族的郷土を設立することに賛成する」と約束している。この書簡を実際に書いたのはアルフレッド・ミルナーだ。その延長線上にイスラエルの建国はある。

 ミルナーはイギリスのシンクタンク、RIIA(王立国際問題研究所)を創設した人物で、「ミルナー幼稚園」や「円卓グループ」は彼を中心に組織されたという。ミルナーの前にイギリスをコントロールしていたメンバーはネイサン・ロスチャイルド、セシル・ローズ、ウィリアム・ステッド、レジナルド・バリオル・ブレットたちだ。

 サウジアラビアとイスラエルはイギリスの長期戦略に基づいて作り出されたが、その戦略で想定された大陸周辺の三日月帯の東端が日本列島である。

 そこでは19世紀後半にイギリスを後ろ盾とするクーデターがあり、「明治体制」が成立、新体制は琉球を併合、台湾へ派兵、李氏朝鮮の首都を守る江華島へ軍艦を派遣して挑発、そして日清戦争、日露戦争へと進んだ。大陸の国を締め上げていったわけだ。

 ところで、イスラエルはフランス、イギリス、アメリカなどの富豪から支援を受けて核兵器を保有している。核兵器を製造している場所は砂漠地帯であるネゲブにあるディモナ。ここで1977年から約8年にわたって技術者として働いていたモルデカイ・バヌヌによると、イスラエルが保有している核弾頭の数は200発以上。イツハーク・シャミール首相の特別情報顧問を務めたこともあるアリ・ベン・メナシェによると、1981年にイスラエルはインド洋で水素爆弾の実験を成功させたが、その時点で同国がサイロの中に保有していた原爆の数は300発以上だった。バヌヌは中性子爆弾も製造していたとしている。

 ネゲブ地方でイスラエルが地質調査を始めたのは1949年。1952年にはIAEC(イスラエル原子力委員会)が創設された。核開発の開始だ。

 このプロジェクトで重要な役割を果たしたひとりがフランスのCEA(原子力代替エネルギー委員会)で1951年から70年まで委員長を務めたフランシス・ペリン。1956年にはシモン・ペレスがフランスでシャルル・ド・ゴールと会談し、フランスは24メガワットの原子炉を提供することになった。

 また、イスラエルの核兵器開発には欧米の富豪、例えばフランスを拠点とするエドモンド・アドルフ・ド・ロスチャイルドやアメリカのアブラハム・フェインバーグが資金を提供していたと言われている。フェインバーグはハリー・トルーマンやリンドン・ジョンソンのスポンサーとしても知られている。

 1958年にCIAの偵察機U2がネゲブ砂漠のディモナ近くで何らかの大規模な施設を建設している様子を撮影、それは秘密の原子炉ではないかという疑惑を持ち、CIAの画像情報本部の責任者だったアーサー・ランダールはドワイト・アイゼンハワー大統領に対してディモナ周辺の詳細な調査を行うように求めたのだが、それ以上の調査が実行されることはなかった。

 コラムニストのチャールズ・バートレットによると、フェインバーグは1960年の大統領選でジョン・F・ケネディに対し、中東の政策を任せてくれるなら資金を提供すると持ちかけている。その提案をケネディは呑んだとされている。(Seymour M. Hersh, “The Samson Option,” 1991, Random House)

 ところが、ケネディ大統領はイスラエルの核兵器開発には厳しい姿勢で臨んでいる。イスラエルのダビッド・ベングリオン首相と後任のレビ・エシュコル首相に対し、半年ごとの査察を要求する手紙をケネディは送りつけ、核兵器開発疑惑が解消されない場合、アメリカ政府のイスラエル支援は危機的な状況になると警告しているというのだ。(John J. Mearsheimer & Stephen M. Walt, “The Israel Lobby”, Farrar, Straus And Giroux, 2007)そのケネディは1963年11月22日に暗殺され、副大統領だったジョンソンが昇格した。

 イスラエルは欧米の巨大な私的権力が生み出した国である。パレスチナ問題に首を突っ込むということは、その私的権力の利権に触れることを意味する。

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[近代史4] イスラエルは中東の対立を煽る為に作られた 中川隆
6. 中川隆[-4753] koaQ7Jey 2021年5月16日 09:30:40 : tW8VAAkK0o : WlZtN0R3YUloTFE=[5]


2021.05.16
ロシア大統領もトルコ大統領もパレスチナ問題から距離を置く事情
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202105150003/


 アメリカでジョー・バイデン政権が誕生して以来、イスラエルの行動は過激度を高めている。東エルサレムではイスラエルの治安部隊によるパレスチナ人に対する暴力的な弾圧が繰り広げられ、アル・アクサ・モスクが襲撃された。ガザではイスラエル軍が高層住宅を破壊、その直後から3日間にハマスはガザから1500発以上のミサイルをテル・アビブに向けて発射、テル・アビブの南東にあるロドでは非常事態が宣言されている。

 そうした中、3月12日にロシアの​ウラジミル・プーチン大統領​とトルコの​レジェップ・タイイップ・エルドアン大統領​が電話で会談、パレスチナ情勢がさらに悪化しないよう、国連が決議した「2国家解決案」に従って自体のさらなる悪化を防ぐべきだということで意見が一致したという。

 イスラエルと共存するパレスチナはヨルダン川西岸地区とガザ地区で構成され、首都は東エルサレムとされている。その東エルサレムをイスラエルは制圧しようとしているわけだ。すでに「ユダヤ人」の入植でヨルダン川西岸は浸食され、「2国家解決案」の基盤は崩壊しているが、東エルサレムの制圧は「止めを刺す」行為だと言えるかもしれない。

 イスラエルの建国が宣言されたのは1948年5月14日のことだが、そこには多くのアラブ系住民が住んでいた。「パレスチナ人」と呼ばれる人びとだ。その住民を追い出すため、シオニストの武装勢力は4月上旬に「ダーレット作戦」を始めている。これは1936年から39年にかけてシオニストがアラブ系住民を殲滅する作戦を展開した作戦の延長線上にあるとも見られている。

 シオニストの軍隊、ハガナの副官だったイェシュルン・シフがエルサレムでイルグンのモルデチャイ・ラーナンとスターン・ギャングのヨシュア・ゼイトラーに会ったのは4月6日。イルグンもスターン・ギャングもシオニストのテロ組織だ。

 その3日後にイルグンとスターン・ギャングはデイル・ヤシンという村を襲撃、住民を虐殺する。襲撃の直後に村へ入った国際赤十字の人物によると、254名が殺され、そのうち145名が女性で、そのうち35名は妊婦だった。イギリスの高等弁務官、アラン・カニンガムはパレスチナに駐留していたイギリス軍のゴードン・マクミラン司令官に殺戮を止めさせるように命じたが、拒否されている。(Alan Hart, “Zionism Volume One”, World Focus Publishing, 2005)

 こうした虐殺に怯えた少なからぬ住民は逃げ出した。約140万人いたアラブ系住民のうち、5月だけで42万人以上がガザやトランスヨルダン(現在のヨルダン)へ移住、その後1年間で難民は71万から73万人に達したと見られている。国際連合は1948年12月11日に難民の帰還を認めた194号決議を採択したが、現在に至るまで実現されていない。そしてイスラエルの建国が宣言された。

 しかし、シオニストは「建国」の際、予定していた地域を全て占領することができなかったと言われている。そして1967年6月5日に第3次中東戦争が始まる。

 この年の3月から4月にかけてイスラエルはゴラン高原のシリア領にトラクターを入れて土を掘り起こし始めて挑発、シリアが威嚇射撃するとイスラエルは装甲板を取り付けたトラクターを持ち出し、シリアは迫撃砲や重火器を使うというようにエスカレートしていった。この時にイスラエルはシリアに対し、イスラエルに敵対的な行動を起こさなければイスラエルとエジプトが戦争になってもイスラエルはシリアに対して軍事侵攻しないと約束していたとされている。

 軍事的な緊張が高まったことからエジプトは1967年5月15日に緊急事態を宣言、部隊をシナイ半島へ入れた。5月20日にはイスラエル軍の戦車がシナイ半島の前線地帯に現れたとする報道が流れ、エジプトは予備軍に動員令を出す。そして22日にナセル大統領はアカバ湾の封鎖を宣言した。

 イスラエルはこの封鎖を「イスラエルに対する侵略行為」だと主張、イスラエルの情報機関モサドのメイール・アミート長官が5月30日にアメリカを訪問、リンドン・ジョンソン米大統領に開戦を承諾させた。そして6月5日にイスラエル軍はエジプトに対して空爆を開始、第3次中東戦争が勃発したわけだ。

 戦争が勃発した4日後にアメリカは情報収集船のリバティを地中海の東部、イスラエルの沖へ派遣するが、そのリバティをイスラエル軍は8日に攻撃している。偵察機を飛ばしてアメリカの艦船だということを確認した後の攻撃だった。ロケット弾やナパーム弾が使われているが、これは船の乗員を皆殺しにするつもりだったことを示している。

 それに対し、リバティの通信兵は壊された設備を何とか修理、アメリカ海軍の第6艦隊に遭難信号を発信するが、それをイスラエル軍はジャミングで妨害している。

 遭難信号を受信した空母サラトガの甲板にはすぐ離陸できる4機のA1スカイホークがあった。艦長はその戦闘機を離陸させたが、その報告を聞いたロバート・マクナマラ国防長官は戦闘機をすぐに引き返させるように命令している。

 その後、ホワイトハウス内でどのようなことが話し合われたかは不明だが、しばらくして空母サラトガと空母アメリカは8機の戦闘機をリバティに向けて発進させた。

 この戦争で圧勝したイスラエル軍はガザ、ヨルダン川西岸、シナイ半島、ゴラン高原を占領している。ゴラン高原の西側3分の2は今でもイスラエルが不法占拠している。勿論、イスラエルはそうした占領地を返すつもりはない。残りの地域を制圧する作戦を進めているのだ。

 イスラエルは「建国」以来、ユーフラテス川とナイル川で挟まれている地域を支配するという「大イスラエル」計画を捨てていない。アメリカ、イスラエル、サウジアラビアが中心になり、2011年3月に始められたシリアへの侵略戦争で、イギリスとフランスが「サイクス・ピコ協定」の亡霊に取り憑かれていることもわかった。こうした国の支配者はパレスチナ人の人権など考えていないだろう。

 サイクス・ピコ協定とは1916年5月、秘密裏にイギリスとフランスが中東を分け合う目的で結んだもので、後に帝政ロシアも協定に同意している。話し合いはフランスのフランソワ・ジョルジュ・ピコとイギリスのマーク・サイクスによって行われた。

 協定が結ばれた当時、中東を支配していたオスマン帝国を乗っ取ろうというような話。大雑把に言って、ヨルダン、イラク南部、クウェートなどペルシャ湾西岸の石油地帯をイギリスが支配、フランスはトルコ東南部、イラク北部、シリア、レバノンを支配下に置くとされた。

 協定が結ばれた翌月、「アラブの反乱」が始まる。その「反乱」で中心的な役割を果たしたのはデイビッド・ホガースを局長とするイギリス外務省アラブ局。そこにはマーク・サイクスやトーマス・ローレンスもいた。一般に「アラビアのロレンス」とも呼ばれている、あのローレンスだ。

 この段階ではすでにイギリスの支配層はユーラシア大陸の周辺部を支配して内陸部、つまり中国(清)やロシアを締め上げるという長期戦略を立てていた。この戦略を可能にしたのは1869年に完成したスエズ運河だと言えるだろう。1875年に運河はイギリス系企業の所有になる。

 イギリスは第1次世界大戦の際、ウィリアム・シェークスピアというエージェントを後のサウジアラビア国王、イブン・サウドに接触させている。このエージェントは1915年1月に戦死、ジョン・フィルビーが引き継ぐ。この頃、イギリスはイブン・サウドとライバル関係にあったフセイン・イブン・アリを重要視するようになり、ローレンスもイブン・アリを支援する。

 このイブン・アリは1915年7月から16年1月にかけてイギリスのエジプト駐在高等弁務官だったヘンリー・マクマホンと書簡のやりとりをしている。その中で、イギリスはアラブ人居住地の独立を支持すると約束した。いわゆる「フセイン・マクマホン協定」だ。

 イブン・アリは1916年、アラビア半島西岸にヒジャーズ王国を建国した。1924年にカリフ(イスラム共同体を統合する指導者)を名乗るものの、イスラム世界から反発を受けてしまい、追い出される一因になった。ヒジャーズ王国は1931年にナジェドと連合、32年にはサウジアラビアと呼ばれるようになる。

 その一方、1917年にはイギリスのアーサー・バルフォア外相がロスチャイルド卿宛ての書簡で、「イギリス政府はパレスチナにユダヤ人の民族的郷土を設立することに賛成する」と約束している。この書簡を実際に書いたのはアルフレッド・ミルナーだ。その延長線上にイスラエルの建国はある。

 ミルナーはイギリスのシンクタンク、RIIA(王立国際問題研究所)を創設した人物で、「ミルナー幼稚園」や「円卓グループ」は彼を中心に組織されたという。ミルナーの前にイギリスをコントロールしていたメンバーはネイサン・ロスチャイルド、セシル・ローズ、ウィリアム・ステッド、レジナルド・バリオル・ブレットたちだ。

 サウジアラビアとイスラエルはイギリスの長期戦略に基づいて作り出されたが、その戦略で想定された大陸周辺の三日月帯の東端が日本列島である。

 そこでは19世紀後半にイギリスを後ろ盾とするクーデターがあり、「明治体制」が成立、新体制は琉球を併合、台湾へ派兵、李氏朝鮮の首都を守る江華島へ軍艦を派遣して挑発、そして日清戦争、日露戦争へと進んだ。大陸の国を締め上げていったわけだ。

 ところで、イスラエルはフランス、イギリス、アメリカなどの富豪から支援を受けて核兵器を保有している。核兵器を製造している場所は砂漠地帯であるネゲブにあるディモナ。ここで1977年から約8年にわたって技術者として働いていたモルデカイ・バヌヌによると、イスラエルが保有している核弾頭の数は200発以上。イツハーク・シャミール首相の特別情報顧問を務めたこともあるアリ・ベン・メナシェによると、1981年にイスラエルはインド洋で水素爆弾の実験を成功させたが、その時点で同国がサイロの中に保有していた原爆の数は300発以上だった。バヌヌは中性子爆弾も製造していたとしている。

 ネゲブ地方でイスラエルが地質調査を始めたのは1949年。1952年にはIAEC(イスラエル原子力委員会)が創設された。核開発の開始だ。

 このプロジェクトで重要な役割を果たしたひとりがフランスのCEA(原子力代替エネルギー委員会)で1951年から70年まで委員長を務めたフランシス・ペリン。1956年にはシモン・ペレスがフランスでシャルル・ド・ゴールと会談し、フランスは24メガワットの原子炉を提供することになった。

 また、イスラエルの核兵器開発には欧米の富豪、例えばフランスを拠点とするエドモンド・アドルフ・ド・ロスチャイルドやアメリカのアブラハム・フェインバーグが資金を提供していたと言われている。フェインバーグはハリー・トルーマンやリンドン・ジョンソンのスポンサーとしても知られている。

 1958年にCIAの偵察機U2がネゲブ砂漠のディモナ近くで何らかの大規模な施設を建設している様子を撮影、それは秘密の原子炉ではないかという疑惑を持ち、CIAの画像情報本部の責任者だったアーサー・ランダールはドワイト・アイゼンハワー大統領に対してディモナ周辺の詳細な調査を行うように求めたのだが、それ以上の調査が実行されることはなかった。

 コラムニストのチャールズ・バートレットによると、フェインバーグは1960年の大統領選でジョン・F・ケネディに対し、中東の政策を任せてくれるなら資金を提供すると持ちかけている。その提案をケネディは呑んだとされている。(Seymour M. Hersh, “The Samson Option,” 1991, Random House)

 ところが、ケネディ大統領はイスラエルの核兵器開発には厳しい姿勢で臨んでいる。イスラエルのダビッド・ベングリオン首相と後任のレビ・エシュコル首相に対し、半年ごとの査察を要求する手紙をケネディは送りつけ、核兵器開発疑惑が解消されない場合、アメリカ政府のイスラエル支援は危機的な状況になると警告しているというのだ。(John J. Mearsheimer & Stephen M. Walt, “The Israel Lobby”, Farrar, Straus And Giroux, 2007)そのケネディは1963年11月22日に暗殺され、副大統領だったジョンソンが昇格した。

 イスラエルは欧米の巨大な私的権力が生み出した国である。パレスチナ問題に首を突っ込むということは、その私的権力の利権に触れることを意味する。

https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202105150003/

http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/833.html#c6
[近代史4] J・F・ケネディ-はヤラセの東西冷戦体制を終わらせようとしたのでユダヤ金融資本に殺された 中川隆
11. 中川隆[-4752] koaQ7Jey 2021年5月16日 09:34:53 : tW8VAAkK0o : WlZtN0R3YUloTFE=[6]
イスラエルの核兵器開発には欧米の富豪、例えばフランスを拠点とするエドモンド・アドルフ・ド・ロスチャイルドやアメリカのアブラハム・フェインバーグが資金を提供していたと言われている。フェインバーグはハリー・トルーマンやリンドン・ジョンソンのスポンサーとしても知られている。

 1958年にCIAの偵察機U2がネゲブ砂漠のディモナ近くで何らかの大規模な施設を建設している様子を撮影、それは秘密の原子炉ではないかという疑惑を持ち、CIAの画像情報本部の責任者だったアーサー・ランダールはドワイト・アイゼンハワー大統領に対してディモナ周辺の詳細な調査を行うように求めたのだが、それ以上の調査が実行されることはなかった。

 コラムニストのチャールズ・バートレットによると、フェインバーグは1960年の大統領選でジョン・F・ケネディに対し、中東の政策を任せてくれるなら資金を提供すると持ちかけている。その提案をケネディは呑んだとされている。(Seymour M. Hersh, “The Samson Option,” 1991, Random House)

 ところが、ケネディ大統領はイスラエルの核兵器開発には厳しい姿勢で臨んでいる。イスラエルのダビッド・ベングリオン首相と後任のレビ・エシュコル首相に対し、半年ごとの査察を要求する手紙をケネディは送りつけ、核兵器開発疑惑が解消されない場合、アメリカ政府のイスラエル支援は危機的な状況になると警告しているというのだ。(John J. Mearsheimer & Stephen M. Walt, “The Israel Lobby”, Farrar, Straus And Giroux, 2007)そのケネディは1963年11月22日に暗殺され、副大統領だったジョンソンが昇格した。

 イスラエルは欧米の巨大な私的権力が生み出した国である。パレスチナ問題に首を突っ込むということは、その私的権力の利権に触れることを意味する。

https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202105150003/
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[近代史4] J・F・ケネディ-はヤラセの東西冷戦体制を終わらせようとしたのでユダヤ金融資本に殺された 中川隆
12. 中川隆[-4751] koaQ7Jey 2021年5月16日 09:37:55 : tW8VAAkK0o : WlZtN0R3YUloTFE=[7]
2021.03.31
バイデンとトランプを操る私的権力
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202103310000/


 ジョー・バイデン政権はロシアに対する経済戦争を強化、軍事的な緊張も高めてきた。これは昨年の大統領選挙運動中にも言われていたことだが、中国に対する経済的、そして軍事的な圧力も強め、中東でも軍事的な動きが活発化している。政権の陣容から予想されたことだが、好戦的な政策を打ち出してきた。ルビコンを渡ったということだ。

 アメリカの場合、シオニスト(親イスラエル派)系の富豪は政治家に資金を提供する際、国際面の政策、つまり外交や軍事を彼らに任せることを条件にしてきたと言われている。ジョン・F・ケネディもその条件を呑んでいた。

 しかし、ケネディの場合、大統領に就任してからイスラエルの核兵器開発に対して厳しい姿勢で臨んで対立が生じ、ジミー・カーターはイスラエル一辺倒の政策をとらず、パレスチナにも配慮する政策を打ち出して有力メディアから激しく攻撃され、1期で終えた。

 こうした背景があるため、外交や軍事に関する政策は大統領が交代しても基本的に変化しない。ドナルド・トランプやバイデンでも同じことが言えるのだが、それでもトランプは選挙期間中にソ連との関係修復を訴え、CIAやFBIとタッグを組んだ有力メディアから激しく攻撃されていた。

 トランプはCOVID-19(2019年-コロナウイルス感染症)を巡っても危機感を煽り、ワクチン接種を推進する有力メディアやその背後にいる私的権力と対立していた。最前線で旗を振ってきたのはビル・アンド・メリンダ・ゲイツ財団だが、この財団と歩調を合わせ、COVID-19騒動を利用してWEF(世界経済フォーラム)のクラウス・シュワブは資本主義を大々的に「リセット」すると宣言している。

 このリセットを実行する司令部になりそうな存在が「包括的資本主義会議」。ローマ教皇庁と連携している。その中心的な存在であるリン・フォレスター・ド・ロスチャイルドはエベリン・ド・ロスチャイルドの3番目の妻。エベリンはロンドンを拠点とするNMロスチャイルド銀行の取り仕切ってきた人物で、昨年8月で90歳になった。リン・フォレスターは66歳。

 ふたりは1998年のビルダーバーグ・グループの会議でヘンリー・キッシンジャーに紹介されて知り合い、2000年に結婚、新婚旅行の際にクリントン夫妻からホワイトハウスへ招待されている。ちなみにシュワブはハーバード大学でキッシンジャーの下で学んでいたという。

 2015年の段階で次期アメリカ大統領に内定していたと言われているヒラリー・クリントンは2016年に失速する。民主党の内部では彼女の好戦的な姿勢を好まない人びとがバーニー・サンダースを支援、共和党のトランプも浮上した。そこで民主党の幹部やヒラリー陣営はサンダースを潰した後、トランプを攻撃することになる。トランプが浮上する際に動いていたのがキッシンジャーだ。

 キッシンジャー人脈の動きを見ると、トランプは1期目の途中、私的権力から切られたように見える。軍事面でトランプの腰が引けていると判断された可能性もあるが、私的権力は2001年頃、つまりニューヨークの世界貿易センターやバージニア州アーリントンの国防総省本部庁舎(ペンタゴン)が攻撃された頃からパンデミックを想定したシナリオを考えていた。COVID-19に対するトランプの態度を私的権力が怒ったのかもしれない。

 トランプに替わって大統領になったバイデンは1972年の上院議員選挙で当選している。その当時、彼に助言していた人物は富豪のW・アベレル・ハリマン。ジョージ・W・ブッシュの祖父にあたるプレスコット・ブッシュとエール大学の同窓で、ふたりとも学生の結社「スカル・アンド・ボーンズ」のメンバーだった。ハリマン家とブッシュ家はスカル・アンド・ボーンズだらけだ。

 ウォール街の大物だったジョージ・ハーバート・ウォーカーの娘とプレスコットは1921年に結婚、24年にはウォーカーが社長を務めていた投資銀行の「A・ハリマン」の副社長になり、31年には「ブラウン・ブラザース・ハリマン」の共同経営者になる。ブラウン・ブラザース・ハリマンを設立したE・H・ハリマンはW・アベレル・ハリマンの父親だ。

 その当時、このブラウン・ブラザース・ハリマンはディロン・リードと同様、アメリカからドイツへの主要な投資ルートだった。プレスコットはW・アベレル・ハリマンらとドイツ企業との手形交換業務を行う名目で「ユニオン・バンキング」を創設するが、この投資銀行はウォール街がナチスへ資金を流す主要なパイプラインのひとつだったとされている。

 ナチスを資金面からウォール街の金融資本だけが支えていたわけではない。スイスで設立され、米英の親ファシスト派が背後にいたと言われているBIS(国際決済銀行)、あるいは第2次世界大戦が勃発する半年ほど前にドイツへ約2000トンの金塊を渡したと言われているイングランド銀行も仲間だと言えるだろう。

 ロックフェラー財団のラジブ・シャーやフォード財団のダレン・ウォーカーも含まれている包括的資本主義会議の中心グループにはイングランド銀行元総裁のマーク・カーニーもいる。カーニーはドルに替わる基軸通貨を創設しようと考えているようだ。

https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202103310000/
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/1102.html#c12

[近代史4] 売国政治家列伝 _ 安倍晋三 中川隆
59. 2021年5月16日 13:28:31 : tW8VAAkK0o : WlZtN0R3YUloTFE=[8]
【今、世界はどうなっている?】林千勝×水島総 第2回「日本国総理大臣の雇い主、ロスチャイルド家の戦争と環境と原子力のビジネス」[桜R3/5/15]




http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/789.html#c59
[近代史4] 売国政治家列伝 _ 菅義偉 中川隆
62. 中川隆[-4750] koaQ7Jey 2021年5月16日 13:29:30 : tW8VAAkK0o : WlZtN0R3YUloTFE=[9]
【今、世界はどうなっている?】林千勝×水島総 第2回「日本国総理大臣の雇い主、ロスチャイルド家の戦争と環境と原子力のビジネス」[桜R3/5/15]




http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/1084.html#c62
[番外地9] zainichi の日本人への拷問 中川隆
3. 中川隆[-4749] koaQ7Jey 2021年5月16日 13:44:35 : tW8VAAkK0o : WlZtN0R3YUloTFE=[10]
旭川女子中学生売春組織のバックには ヤクザ=zainichi= souka の三位一体の組織が有り、マスコミも政治家も官僚も警察も学校関係者も逆らえない
zainichi の日本人への拷問 2016-01-18 17:25:43 | 日記
北九州監禁事件では
大便排泄を1日1回に限定し
全裸のままトイレに座らせることなく、がに股で排便させてそれを観察した
勝手に漏らした場合、大便は口で食わせた
言うことを聞かなければ通電といって性器に電極を取り付け電機拷問を行った
一瞬で皮膚が熱傷で破れ脳まで衝撃が来て記憶を失うほどの拷問であったそうだ

chousen 民族はこういうことを好むのである
ゆえに、監禁されれば飲尿食糞を余儀なくされ、監禁された日本人は
拷問されながら大小便を食べるという地獄の監禁拷問生活をおくる羽目になります

chousen 人が残酷なのは当然で大陸の人は日本人とは文化背景が違います
チンギスハーンの拷問好きは有名ですし、中国も拷問文化でしたchousen 人の李氏chousen もそうです。よってzainichi に監禁されると大変なことになります

殴る蹴るの基本的なものから、

タバコの火を押し当てる、
ハンダコテで体中焼く、
尿道にマッチ入れて火をつける、
zainichi が起こした北九州監禁事件のように電撃を与える
大小便を食べさせる

など拷問の種類には事欠きません


女性であれば、激しく rinkan・撮影されたあげく、
全身にピアスを通され
穴という穴は拡張され、

zainichi が起こした女子コンクリ事件では
鉄アレイを chitu と koumon にいれ蹴飛ばしていた有様です
在日を日本人と同じと思ってはいけません、農耕民族と大陸の殺戮民族では文化が違うのです


かわいい娘がいるとこうなります
全裸首輪で性奴隷家畜便器として完全監禁
少しでも反抗したらタバコの火を押し当てたりしていうことを聞かせます
何回も犯されてガバガバになり腕が入るまで広がりきります
尻の穴もそうなります、
栗には太いピアスがされるでしょう
SMビデオやスカトロビデオ撮影もあるでしょう、
厳しい拷問生活で かわいい娘は大便と小便を喜んで四つん這いのまま食べるようになります

こうして肉便器になり、最後は利用価値がなくなったらスナッフビデオといって
拷問して殺すところを撮影してお金にしますので、それからドラム缶でコンクリ詰めにします


北九州監禁事件でも、松永太が、嫁の母親や、妹を 嫁の父や、妹の旦那の前で犯して、そのときに、
「私は、松永の性奴隷です。松永のチンx が欲しくてたまりません」
と何回も言わせていたらしいからな。

親族同士の暴力、性行為というのは、マインドコントロールの常套手段なんだろう。
☆zainichi につかまったら若い娘は、舌をかんで自殺するしかないのですね。

▲△▽▼

売春客を取らなかった被害者は制裁を受ける


旭川凍死事件でゴールデンウィークには、深夜4時くらいにB男らにLINEで呼び出された被害者が、いきなり家を出て行こうとしたところを母親が止めるという出来事もありました。母親がいくら止めても、爽彩は『呼ばれているから行かなきゃ』と、すごいパニックを起こしていた。ようやく引き止めたものの、その後もひどく怯えていたそうです」

縛り付けてるのか動けない様子

リーダーの女の子から男性へ
下半身見せろ

→被害女の子断る
周りの男の子→見せろコール

嫌だ!
→嫌だといってても結局するんだろ?

見せろコール
→みせたのか?歓声あがる→映ってない

いやいやそこでして→女性リーダー

嫌だ

『お仕置きタイム』
みんな押さえて

→嫌だ嫌だ

男の子
『もしかしたらピンクのスタンガン?』

女性リーダー
『イェース』

『あなたの嫌いなピンクのスタンガンですよお仕置きだよ』

『バリバリ、バリバリ』

女の子『嫌!!!』→叫ぶ

あはは→笑い声

リーダーの女の子少女の身体に当てる

#178 2021/05/02 22:41
旭川凍死事件ではピンクのスタンガンで気絶させて
凍り付くような冷たい川に突き落としたんだろう

そして主犯のC男は「便所ATMが逝ったから次の獲物探すべ・・」と言った


爆サイのスレでA子が誘引して、『媚薬』をもった
普通の大人でも
おかしくなるのに
小学生に媚薬とかもったら
おかしくならないか?

それを『旭川』はシステム的にしている

女性(女の子)を『便所』と呼ぶ

動画でも殴る蹴るして『豚』呼ばわりしていた
被害者を冒涜するやつ
頭おかしいやろ

お前たちの親族でしてみろ

親族に『便所』って周りから言われたら
悔しくないのか?
http://www.asyura2.com/21/ban9/msg/357.html#c3

[近代史4] 江戸時代はこういう時代だった 中川隆
10. 2021年5月16日 14:01:04 : tW8VAAkK0o : WlZtN0R3YUloTFE=[11]
五人組共同体
2021年05月16日
http://tokaiama.blog69.fc2.com/blog-entry-1496.html

 以下、ウィキより一部引用
  制度の起源は、古代律令制下の五保制(五保の制)といわれる。
 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BF%9D#%E6%A6%82%E8%A6%81

 時代が流れ、1597年(慶長2年)豊臣秀吉が治安維持のため、下級武士に五人組・農民に五人組を組織させた。江戸幕府もキリシタン禁制や浪人取締りのために秀吉の制度を継承し、さらに一般的な統治の末端組織として運用した。

 五人組制度は村では惣百姓、町では地主・家持を近隣ごとに五戸前後を一組として編成し、各組に組頭などと呼ばれる代表者を定めて名主・庄屋の統率下に組織化したものである。これは連帯責任・相互監察・相互扶助の単位であり、領主はこの組織を利用して治安維持・村(町)の中の争議の解決・年貢の確保・法令の伝達周知の徹底をはかった。また町村ごとに遵守する法令と組ごとの人別および各戸当主・村役人の連判を記した五人組帳という帳簿が作成された。

 実態は、逃散したりして潰れた家や実際の住民構成とはかけ離れた内容が五人組帳に記載されていた場合があったり、また年貢滞納をはじめとする村の中の争議は、村請制の下では五人組ではなく村落規模で合議・責任処理されるのが普通であったため効果としては疑問がある。

 また、村によっては一つの村内で領主が家ごとに別々(相給)になっているケースがあり、その場合には領主が編成する五人組と村が居住区域をもって定めた五人組(「郷五人組」)が並存するという現象も生じた。しかし五人組制度が存在することによって、間接的に名主・庄屋の権威を裏付け、住民の生活を制約すると同時に町村の自治とりまとめを強化することには役立った。

 他方で米沢藩の上杉鷹山のように、初期の五人組などの組合を再編して、相互扶助を重視した「伍什組合」を編成した藩もあった。
 近代的自治法の整備とともに五人組は法制的には消滅したが、第二次世界大戦中の隣組、戦後は町内会にその性格は受け継がれていた。
********************************************************************
 引用以上

 日本社会に確実に五人組制度を政策として実現したのは、豊臣秀吉だったといわれる。
 これは、おそらく織田信長による家臣統制の「人衆」と呼ばれたグループ化をヒントにしたものだっただろう。
 秀吉は、信長麾下で前田利家のグループに含まれ、利家妻のマツと、ネネの深い交際は、テレビドラマでも知られている。

 五人組は、慶長2年年三月の豊臣秀吉の掟に始まり、侍は五人組、下人は十人組を組織させた。慶長13年10月に藤堂高虎は、新封地内(伊予国)に発した政令で、農民を十人組に組織させた。
https://komonjyo.net/goningumi02.html

この民衆レベルでの運命共同体=連帯責任制を家康は社会統制の基本単位として採用し、宗教・人別・徴兵動員・年貢・治安などの共同と連帯責任を課すことで、強力な共同体として機能させた。
https://komonjyo.net/goningumi02.html#:~:text=%E4%BA%94%E4%BA%BA%E7%B5%84%E3%81%AE%E5%BD%B9%E5%89%B2%E3%81%AF,%E3%81%AA%E3%81%84%E3%82%88%E3%81%86%E3%81%AB%E5%8B%99%E3%82%81%E3%81%BE%E3%81%99%E3%80%82

 上のなかに「キリシタン、監視密告」が含まれているのは、当時の事情を知らない人には奇異に映るだろうが、ザビエルが日本に寄港してから、ポルトガル・カトリック教徒は、キリスト教を布教しながら日本人婦女子の奴隷狩りを行い、総数で50万人を超える(当時の人口は1500万人だったので、現在換算で400万人を超える)若い女性を奴隷として海外に売り飛ばしたので、秀吉が「バテン連追放令」を出し、厳重に監視し始めたことによる。

 五人組は、日本の婦女子をカトリック奴隷商人から守る意味合いが大きかった。
 家康も、この民衆統治の基礎政策を維持し、そのまま年貢連帯責任制度として、百姓を厳しく管理した。
 五人組は、五軒連帯責任を伴う共同体として、幕府崩壊まで民衆を縛り付けた。五人組には、菩提寺のような寺社も付随し、教育と年貢、治安維持の役割も担った。

 江戸時代90%を超える世界最高の識字率を誇った日本社会の教育を支えたのは、まさに五人組に付随して作られた檀寺による寺子屋だったが、これはキリシタン監視のため「宗旨人別制度」を設け、遠方に出かけるときも通行手形を発行した「寺請制度」によるもので、一方で人々の自由な生活を強力な檻に閉じ込める呵責のない統制制度であり、幕末までに、寺請制度に対する人々の怒りが頂点に達したことで、維新や廃仏毀釈にもつながった。

 しかし、他方で、あらゆる生活要素が五軒の連帯責任とされたことで、五軒全体が一家族としてのライフスタイルを強要され、生活共同体としての鮮明な役割が成立していた。
 すなわち、教育にせよ、食生活にせよ、宗教にせよ、介護、病気療養にせよ、五軒は運命共同体であり、支え合って生きてゆかねばならなかった。
 江戸時代には「ポツンと一軒家」は許されなかった。

 五人組の一組は、夫婦と子が数名で、老夫婦、若夫婦、子供、合わせて10名程度だから、五軒全体で最大50名にもなるが、実際には、それほど多くはない。
 亭主が死ぬと、後家は若衆のセックスの相手を強いられた。しかし、若い娘は、おそらく他の組からの通い婚であったことは、遺伝学上の問題から想像がつく。

 徳川幕府崩壊とともに、五人組制度は廃れるが、地域社会を300年も縛り付けていた制度には、良い点も悪い点もあり、簡単に崩壊されては困るものもあった。
 実際に、明治政府は、廃止したはずの五人組を徴兵制度の連帯責任として利用した。
 介護や病気療養、片親世帯では、五人組共同体は、有効に作用していた。

 太平洋戦争前まで、五人組制度の残渣は「隣組=町内会」として強力に機能し、大政翼賛会の単位としても機能し、戦争を支えるものとなった。
 今生きている80歳以上の老人たちは、「隣組」について鮮明な記憶を持っているはずで、これは、祭りや地域自治、治安の単位にもなり、徴兵推進の組織にもなり、大政翼賛会の手先として、民衆の財産を強奪する手先ともなった。

 今は、例えば高知県では結婚の46%が破綻し、人々は配偶者を二回取り替え、他府県もこれに準ずる離婚率に迫っているが、1960年代までは、離婚率は10%にも満たなかった。
 また結婚率も、1960年で適齢期未婚率は2%程度だったのに対し、現在では男性で25%を超えている。この理由は、適齢期男女を無理矢理でも結びつける「おせっかいババア」の有無なのだ。

 五人組制度では、ほとんど必ずといっていいほど「お節介ババア」がいて、手当たり次第に男女を娶せた。そうしないと、五人組の機能が悪化して、全体の生活が苦しくなるからだ。五人組で楽をしようとすれば、人口を増やすしかないのだ。
 戦前の「隣組制度」でも、お節介ババアは生きていて、未婚の男女を発見すると、憲兵のように摘発して、無理矢理でも結婚させられた。
 だが、人生に消極的な者にとっては、必要なシステムだったといえるかもしれない。

 現在、隣組制度の消滅と、個人のプライバシー尊重の風潮のなかで、「お節介ババア」が失われ、未婚の男女を探し出して無理矢理結びつける「天使のババア」がいなくなったことで、人々は孤立し、生涯独身の男女が激増しているのだ。もちろん私もその1人だが。

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 さて、延々と五人組について述べてきた理由は、現在の日本社会が、自民党政や官僚たちの劣化によって、とてつもなく衰退し、コロナ禍に見えるように、強欲だけは数人前だが、実力はひどく無能な人物ばかりで占められていて、もう社会全体の崩壊が避けられないことが、鮮明に見え始めたからだ。

 このままゆけば、日本という国は、あと数年でこの世から消えてしまうかもしれない。まともな人材がいないからだ。
 これも愚かな学歴競争社会がもたらした結末なのだ。学歴や権威を得ることだけが至上の価値であるかのように思い込まされた若者たちは、人生に本当に必要なものを見失ってしまい、目先の利権や蓄財だけがすべてだと勘違いさせられている。

 人々は、利己主義だけが人生の価値であるかのように思い込まされ、利他主義の思想は、嘲笑されるがままになっている。
 もう国家による権力統制も自滅するのが時間の問題だろう。しかし民衆の生活だけが残される。このとき、人々は力を合わせて明日の生活を築いてゆかねばならない。

 そこに登場するのが、ヤマギシズム方式の農業共同体なのだ。
 別にヤマギシ会に入れと言うわけではない。今のヤマギシ会には問題がありすぎて薦めない。エッセンスだけを利用すればいい。
 みんなが利己的な蓄財や権力への憧れを捨てて、利他主義に生きる共同生活体は、このめちゃくちゃな社会で生きようという意欲があれば、必ず必要になる。

 私は、江戸時代の五人組共同体が参考になると指摘してきた。
 総人数が20〜50名程度の緩い共同体で、助け合って生き抜いてゆくビジョンを共有することが、この滅亡寸前の末期ご臨終社会のなかで唯一の救いの道だ。
なぜ、少人数かといえば、大人数の共同体では、必ず階層差別が発生し、権力と序列が発生することになり、新たな権力構造が生まれてしまうからだ。

 竹中平蔵のように、「グレートリセット=スーパーシティ構想」が人類の未来の理想だと勘違いしている馬鹿は無数にいるので、組織が成立して、権力が確立すれば、トップに立つ者は、必ずといえるほど、自分の権力と利権を守るために、「未来社会の幻想」に向かってゆく。

 だから、大きな組織を作らない。権力を作らない。利他主義を共有するという農業共同体の哲学のなかで、「助け合って生きる」という根源的価値観を共有することが一番大切なのだ。
 こうした利他主義共同体とでもいうべきシステムに向かうには、たくさんの入口がある。私は、過疎の田舎で、数名の親しい家族が寄り添って生き抜くことが、この共同体の原点になると考えている。

 教育も介護も、病気療養も、孤立した家族でなく共同するようにすれば、個人への負担は劇的に軽減される。
 仕事は、自然農法におけるオーガニック農産品は、人々がもっとも必要とするニーズであり、この生産を核心にした、せいぜい数十名の共同体を目指すことが、今の日本社会で、もっとも合理的で、唯一、救いのある方向性なのだ。

 ただし、原発事故で汚染されないことが前提だが……。

http://tokaiama.blog69.fc2.com/blog-entry-1496.html
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/576.html#c10

[近代史5] 凶悪犯罪関係投稿集 中川隆
7. 中川隆[-4748] koaQ7Jey 2021年5月16日 19:55:25 : tW8VAAkK0o : WlZtN0R3YUloTFE=[12]
#930 2021/05/16 17:17
子宮つぶしってなに? こわいこわい。


#933 2021/05/16 17:31
女5?6人グループが1人の女の子をイジメてヘアアイロンで耳焼いたり暴行したり公園で裸にしたり、最後はしきゅう破裂させたりの事件あったはず
ボクは前から知っていたんですが、どうも「子宮つぶし」なるシゴキが存在するようですね。
円柱みたいな棒を性器に差し、それを思いっきり蹴り上げるという...
やれらた方は30分は立てなくなる、そんな部活動でのシゴキがあるみたいです
https://bakusai.com/thr_res/acode=1/ctgid=104/bid=1064/tid=9443072/tp=1/
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/395.html#c7

   

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