5. 東京同文書院・目白中学[1] k4yLnpOvlbaPkYlAgUWW2pSSkoaKdw 2022年1月29日 23:14:03 : VZddkewniU :TOR WGl3UWlyWmZ0aWc=[1]
https://www.afpbb.com/articles/-/2535049
清朝・光緒帝の死因はヒ素中毒だった、最新調査で判明
2008年11月4日 10:15 発信地:北京/中国
>光緒帝は
>日本の明治維新に倣い
>政治制度の改革を試みたが、
>これを嫌った伯母の西太后により幽閉され、
>1908年に38歳の若さで世を去った。
>その死因については諸説あり、
>反改革派によって暗殺されたとの見方も根強い。
https://core.ac.uk/download/pdf/268152633.pdf
目白にあった東亜同文書院
「東京同文書院・目白中学」
目白中学は明治四十二年(1909年)に設立されました。
侯爵という爵位を持った人が校長という学校は、男爵の
神田乃武が校長の正則中学を除けばこの目白中学だけでした。
申請書に設立者、細川護成他一名とあります。
他一名というのは柏原文太郎です。
中央大学がこの歴史を大事にしてくれるなら、中大付属高校は
来年、万100周年になるわけです。
「東京同文書院・目白中学」と書いてある年表を追ってみると、
初代の校長は細川護成、旧熊本藩主細川護久の長男です。
ただこの方はいわゆる正妻の子ではありません。
翌年に柏原文太郎が生まれています。
空港のある成田市の新勝寺、あの近くで生まれたのです。
数年前に成田市が柏原を顕彰する意味で、これは成田市の広報誌
ですけれども、こういうものを市内で配ったようです。
「日中親許と東南アジア民族の自主独立に生泌をかけた政治家」
こういう見出しに最初は誇張があるのではないかと思ったのです
けれど、誇張どころではなく、彼の活動を調べてみると命をかけて
いる、そういう人ではないかと思います。
彼は成田の寺台というところに生まれて、早稲田の前身の束京専門
学校に入ります。この人が早稲山の出身であるということから、これ
から出てくる人脈は早稲問の人間が非常に多いのですね。
早稲田の学生のために舎監をしたり、英語の本を訳したりとか、大変
な秀才で、そういう彼の才能を見込んで大隈重信とか犬養毅が認め
重用します。
柏原は日本に亡命して来た康有為を今の早稲田大学の近くに家を借りて
やったりして助けています。康有為はある意味、あの孫文以上の人物
なのですね。柏原と康有為の交流は生涯続きます。
柏原の交友関係では、ヴェトナムの独立の志士ファン・ボイ・チャウも
注目されます。彼はヴェトナムの孫文と言われるような人です。
当時の清朝が日本に官学生を派遣するようになったのは、日清戦争で
日本に負け、悔しいけど日本に学ぽうということで、中同人の中にも
日本に留学生を送ろうという動きがありました。
個人的なことですが柔道の嘉納治五郎に少し関心があります。嘉納さんは
柔道・柔術だけではなく、大変な教育者だったのですね。教えることが
大好きな方だったようです。それで留学生のための学校(塾でしょうけれ
ども)、亦楽書院というのをつくるんですね。亦楽、もしこの中でちゃん
と読み方を知っている方がいらしゃいましたら教えてほしいのですけれど、
一応「じらく」と読んでいます。なぜ「亦楽」なのかと思ったら、いかに
も嘉納さんらしいのですが、「朋あり遠方より来る、亦楽しからずや」から
取ったようです。そこに、ほんの数人の学生を入れて。
それがどうも清国(中国)人の教育機関の嚆矢(初め)だったようです。
それが明治二十九年で、その二年後、中国は大変な時代になりました。
戊戌(ぼじゅつ)の変法、光緒帝が何とか中国も「明治維新」をやろうと
したのですが、悪名高い西太后がこれを失敗に陥れます。変法派の康有為、
梁啓超らがいわば中国の明治維新をやろうとした。この梁啓超というのは
大変な方で、学者としても超一級だと忠います。
その二人が変法派であるということで西太后に追われて日本に亡命して
きます。
それを柏原文太郎が親身になって守ってあげた。戊戌の変法は西太后の
クーデターで弾圧されるのですけれど、やはり中国の近代化をどうしても
なさねばというので洋務派(中体西用)の張之洞(両広総督)は日本への
留学を勧め、そのために近衛篤麿に会います。
「中国の子供を教育してくれないか」という.張之洞・近衛会談で、東亜
同文会は東京同文書院をつくることになります。
張之洞から頼まれた子供を受け入れて、東京同文書院は1899年(明治
三十二年)にできたわけです。
http://www.asyura2.com/21/cult35/msg/648.html#c5