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2018年1月10日 『トウキョウソナタ』の食卓
https://school.genron.co.jp/works/critics/2017/students/ytommy/2613/
黒沢清監督を論じるのであれば、古くはJホラーの監督として認識されていた彼の作品を取り上げてもいいかもしれない。『叫』『回路』などは、Jホラーとして、国内外に高く評価された。近年は毎年作品を発表しており、国内の有力な映画監督であり、圧倒的な人気を誇る。同時代の中田秀夫監督や清水祟監督、両者は『リング』『呪怨』などで大ヒットを飛ばして一世を風靡した。Jホラーという言葉が、日本映画を流布させ、海外でもリメイク版が作られた。『回路』に関してもハリウッドでリメイクされた。黒沢清に関しては、ホラーに対してこだわりは無いのかもしれない。というのは、彼は職人として映画監督を目指したという。
「僕の撮ってきた映画をずらっと並べて頂くとわかると思いますが、それまでだって
ホラーだけをつくってきたわけではないんです。そういう意味では、僕は常に無節操に、
いろんな種類の映画をつくろうとしてきた監督です。はっきり言うと自分は職人だと思います。」*1
私が黒沢監督の映画が好きであるのは、他の監督とは一線を画す。我々に何か傷跡を残すような作品が多い。モチーフとも言える一度見たら忘れない廃墟や、飛ばされる段ボール。彼のフィルモグラフィの中でJホラーというイメージを払しょくした作品が『アカルイミライ』や『トウキョウソナタ』とも言える。特に、『トウキョウソナタ』は観るたびに発見を生む作品と言っていい。この作品の分析を通して、この作品の食卓の描かれ方と、一見ハッピーエンドに思えるこの作品の残す不気味さも記したい。
あらすじとしては、毎日平凡に仕事をこなすサラリーマンの佐々木竜平(香川照之)は、ある日中国への部署移転を期に、会社からリストラを宣告されてしまう。一方、何か新しい方向性を求めてイラク戦争に向かう長男・貴(小柳友)、学校での出来事をきっかけに変化し始める次男・健二(井之脇海)、一家のまとめ役だったはずの妻・恵(小泉今日子)も泥棒(役所広司)の誘拐されてしまい・・・・。
物語の始まりは、佐々木家の一階の居間家を映して、風とともに新聞が舞い、揺れる白いカーテン。恵は、窓を閉めて、濡れたところを拭こうとするが、急に窓を開けて雨が入ってくる。これから家族に起こることへの不吉を示唆するシーンである。(Fig 1)風と雨が家の中に侵入するとすぐに、次のシーンは竜平の会社タニタでのシーンになる。不自然なまでの黒い影が、会社の窓を揺らす。その風の不穏さが、視覚的にも音と共に、演出される。(Fig2)中国での総務部の移転に伴い、竜平はリストラされてしまう。
帰り道、次男の健二と偶然会い、共に家路に着くが、竜平だけが、侵入者のように、裏手からこそこそと、冒頭の雨の場面と同じように入ってくる。彼は、リストラされたということを明かすことが出来ず、何も変わっていないかのように普段のように生活する、嘘の生活を始める。このような風と白いカーテンは、黒沢監督のモチーフと言える、元々はロベールブレッソン監督『ラルジャン』にあると言われる。これまでも『回路』においては、工藤チミ(麻生久美子)が、佐々木順子(有坂来瞳)を助けようとしようとして、家に匿うが、窓から風が入り、白いカーテンが揺れ、順子はシミとなって消えてしまう。(Fig3)『岸辺の旅』においてもオープニングは、瑞希(深津絵里)がピアノを教えているシーンから始まる。(Fig4)その夜と言っていい、夜の場面で、浅野忠信演じる優介が死者として、家に帰ってくる。中と外を遮断している存在としてあるカーテン、中間の存在と言っていいかもしれない。風によって運ばれるのは、幸福であったり不幸であったりする。視覚的な美しさや、モチーフとしても境界線(生者と死者、あの世とこの世、現在と過去など)は、彼の作品のテーマとも言える。
『トウキョウソナタ』においては、最初の不吉な雨と風から始まり、ラストシーンにおいては、健二の弾くピアノを祝福するような、穏やかな風と揺らぐ白いカーテン。彼の弾く『月の光』とともに、物語はエンディングを迎える。竜平、恵、健二の退場によって映画は幕を閉じる。
黒沢監督作品には、食事のシーン、キッチン、ダイニングテーブルがよく記憶に残ることが多い。『岸辺の旅』においては白玉を瑞樹が作ることによって、優介が死者として帰ってくる。『叫』においては、仁村春江(小西真奈美)と吉岡登(役所広司)が、キッチンで柵によって、二人は捕らわれているように見える。(Fig5)監獄などのイメージと共に、その後明らかになる登の罪を考えると非常に演出上重要であるショットと言える。
『トウキョウソナタ』においては、意図的にショットによって分断される食卓がある。一度だけ彼ら家族四人が揃うシーンがあるが、それは階段が入っており、竜平と貴のみ孤立させるようにさせる。また、このシーンは、失業を言えない竜平とアメリカ軍と共に、イラクに出兵することを決めた貴は、両者ともに家族に対して負い目のある二人と言える家族から切り離されているようである。(Fig6)明らかに意図的に障害物を入れたと言っていいようなショットである。この作品ではこれ以降決して、四人が揃うことがない。例外的にラストの食卓のシーンで全員が揃うことになる。それは後で、述べたいと思う。
竜平が公園の炊き出しで会った旧友の黒須は、同じように失業を家族に隠して、暮らしている。竜平にとっては、唯一の理解者であり先輩とも言える。竜平は、黒須のアリバイ作りとも言える彼の同僚を装い、家族に呼ばれて食事をするシーンがある。(Fig7)
現代的で豊さを感じるような黒須の家。窓からはプールも見える。一方、竜平の標準的な日本の一軒家とのコントラストをなしている。ここでは、何もさえぎる物もなく、普通の食事シーンに見えるが黒須は「寿司を頼めと言っただろう」とわざとらしく言って、不穏な雰囲気が流れる。食事に後に「佐々木さんも大変ですね。」と黒須の娘が言うところから、この家族は彼の失業に気付いている。まるで、演じたような食卓が写しだされる。
黒須は結果的に無理心中をして、黒須と妻は死ぬ。佐々木家は、まだこの時点では竜平の失業はばれてはいない。窮屈で、形式的なリラックスの出来ない空間に、撮られていると言っていい(Fig8) 他のシーンにおいても誰か家族が不在であり、何か障害物が写されるように食卓が撮られている。食事は家族の団欒の機会としては、大事なことであると言われるが、息子二人に関しては、部屋に国境の線と呼ばれるものをチョークで部屋の前に引くような描写があり、息子二人が家出やイラク戦争への出兵含めて、家の居づらさや家族の意味の希薄さやディスコミュニケーションを起こしているということを視覚的にも表しているとも言える。
この食卓に入り込む光も大きな役割を持っている。この家族の家は線路沿いであり、何度か光や音と共に電車が彼らの家の横を通過するその際に、電車の発する光である。タイトルや電車など否応なしに、『東京物語』を早期させるが、何よりもこの作品においてその光は罪への追及と告発を意図としている。または、嘘を暴くのである。二度この光が、竜平に投射される。一度は貴のイラクへの出兵の際と二度目は、健二のピアノ教室に通っていることの怒りを示す際である。家族の長であり、権威を持つ竜平は、権威を振りかざすがそれはむなしく恵に炊き出しを見られたのもあり、彼の嘘を追及する。そして健二の階段落ちという結果を生む。
竜平の罪だけでなくても、この竜平の権威の失策から、この家族は崩壊に向かっていくように思える。罪は、この作品において大きなテーマであり、健二は純粋性を持った、子どもとしての存在として描かれるが、担任の授業中の指摘に対して、正直に担任の恥ずかしい行動を告発することによって、彼の正義が揺らぎ、ふと見たピアノ教室に興味を持ち、彼は罪を犯し黙って給食費を使いピアノを始める。
恵は唯一罪をないように思えるが、泥棒である役所公司によって誘拐されることによって、強制的に旅に出る。その誘拐を通して、これまでと違った自分に目覚める。恵は「これまでの人生が夢で、目が覚めて全然違う自分だったら、どんなに良いだろう。」母性を見事に表し、恵という名前自体が、母親の存在を見事に描かれているが、ここで破たんに向かっていく。
一気に破滅と向かって行くように、竜平はトイレで拾った大金を持ち逃げしようと、貴は日本(家族)に絶望して、イラクへ向かってしまう。健二も、大人に絶望して家出を試みる。ラストの健二の『月の光』がなければ、彼らは死んでいるではないかという風にも捉えられる。車によって轢かれた竜平、恵を誘拐した泥棒は車と共に海で自殺してしまう、その前のシーンではまるで死者のように不可思議と、恵は海水に身を投げ出して漂う。
夜が明けて、最後三人は食卓に集まるが、そこまでの経緯は表現されず留置場から帰る健二、轢かれたはずがなんでもなかったように大金を拾得物ポストに入れて帰宅する竜平、恵はふと目が覚めて、太陽の光を浴び、こちらも経緯は描かれず帰宅をする。貴は恵の夢の中で、帰宅をするが「人を殺しすぎた」と呟きダイニングテーブルに座るが、ふと夢だと恵は気づく外務省に安否を確認するシーンがある、貴は三人の食卓に不在であるがテレビの報道によって軍力の縮小によって帰還が約束される。とうとう、家族が最後に再生とともに集まる食卓のシーンとも言えるが、不気味さが付きまとってくる。あまりにも都合の良い展開とも言える。何とも自然と初見では、疑問に思わせないように見せる黒沢監督の手腕を感じるが、ここで何とも言えない不穏さが残る。というのは、黒沢監督の『岸辺の旅』『叫』などでも、まるで死者が生きている者のように、登場するのが黒沢監督にはよくあることである。決して幽霊は仰々しく出てくるのではなく、日常の生者のように描かれる。荒らされた食卓で、もくもくと食事を食べるシーンがあまりにも不気味である。
その違和感は、最後にさらに加速させる。まるで、天国のような白い空間で健二の『月の光』を観衆は息を飲んで見つめる。全くのピアノの素人であった健二が、少しの練習で音楽を得意とする中学校への進学が決まるかもしれないというような状況が、奇跡と言っていいし、勿論一度目は、ハッピーエンドで終わる作品であるが、どうか宙吊りのまま、幕を閉じるという。ほとんどの観客にとっては、素晴らしい福音が与えられるかもしれないが、果たして、最後に揺れる白いカーテンと流れる風。風は希望を運んでくるのだろうか?(Fig9)
(Fig)の部分にスクリーンショットを入れようと思いましたが、時間がなくサイト内で出来ませんでした。
申しわけございません。
*1 『世界恐怖の監督 黒沢清の全貌』「文學界」編集部 (2017)
https://school.genron.co.jp/works/critics/2017/students/ytommy/2613/
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/1068.html#c1