62. 22A[1579] glGCUUE 2019年11月05日 21:33:11 : Oo5tSDnhkM : UnFtb3R6c2ZYYlU=[1]
社会主義・共産主義について,あまりにも偏った個人的見解を語る人が多いので,その原型を示す。以下にエンゲルスの「空想から科学への社会主義の発展」から引用する。
http://redmole.m78.com/bunko/kisobunken/kuso3.html
プロレタリアートは国家権力を掌握して、生産手段をまず国有に転化させる。だが、そうすることによってプロレタリアートは、プロレタリアートとしての自分自身を廃棄し、またそれによっていっさいの階級差別や階級対立を廃棄し、したがってまた国家としての国家をも廃棄する。
階級対立のなかで運動してきた従来の社会は国家を必要とした。いいかえれば、そのときどきの搾取階級が自分の外的な生産条件を維持するための組織、したがってとくに、被搾取階級を既存の生産様式によってあたえられた抑圧条件(奴隷制、農奴制また隷農制、賃労働制)のなかにむりやりにおさえつけておくための組織を必要とした。
国家は社会全体の公式の代表者であり、目に見える一つの団体に全社会を総括したものであった。
しかし、国家がこのようなものであったのは、ただ、それ自身がその時代に全社会を代表していた階級の国家であったかぎりでのことだった。
すなわち、古代では奴隷を所有する公民の、中世では封建貴族の、現代ではブルジョアジーの国家である。
しかし、国家は、最後に実際に全社会の代表者になることによって、自分自身をよけいなものにする。
抑圧しておかなければならない社会階級がもはやなくなってしまえば、そして、階級支配が除去され、これまでの生産の無政府状態にもとづく個体生存競争が除去されるとともに、これらのものから生ずる衝突や乱暴もまた除去されてしまえば、特別な抑圧権力である国家を必要とした抑圧しなければならないものはもはやなにもなくなる。
国家が現実に全社会の代表者として行動する最初の行為――社会の名において生産手段を掌握すること――は、同時に国家が国家としておこなう最後の自主的な行為である。社会的諸関係への国家権力の干渉は、一つの分野から他の分野へとつぎつぎによけいなものになってゆき、やがてひとりでにねむりこんでしまう。
(引用終わり)
http://www.asyura2.com/19/senkyo267/msg/171.html#c62