18. アラジン2[3518] g0GDiYNXg5My 2022年5月29日 12:41:39 : WTjGxwuEUc : UGxNOHBOZUF5cW8=[1]
スレ立ての「ゲンダイ」の記事は全く真実味が無いので、自分が調べた事。その1。
長年、現地に入ってウクライナ政治を追ってきた、
東大の法学政治学研究科の松里公孝教授の解説。
NATOとの関連等も詳しいですが、ロシアとウクライナ東部の2国(ドネツク、ルガンスク)
との関連が自分的には面白かったので、その部分のみ抜粋。
■ロシアのウクライナ侵略と国際秩序 ―― 分離紛争と軍事同盟(2022/5/2)
https://www.u-tokyo.ac.jp/focus/ja/features/z1304_00162.html
●抜粋
ドンバス紛争に対するロシアの政策は、時期によって変化してきました。
こんにちドンバス地方と言えば、ドネツクとルガンスクの2つの州を指します。
両州は、1920年代から30年代にかけて、ウクライナ・ソヴェト社会主義共和国の
一部として成立しました。
もともとロシア語話者が多い地域でしたが、2014年にウクライナで
ユーロマイダン革命(ヤヌコヴィチ政権を打倒した政変)が起こると、
これに反抗する急進派が両州で州庁舎を占拠しました。
急進派は州ごとに「人民共和国」を名乗り、ウクライナからの分離を掲げる
住民投票を行いました。
その後、ウクライナと戦争になりましたが、2015年までには軍事境界線が引かれました。
大体、もとのドネツク州、ルガンスク州の総面積の3分の1くらいが人民共和国の
実効支配下に入りました。
2015年、露・独・仏の仲介で、ウクライナを連邦化することによって両人民共和国を
ウクライナに戻すことを目指す第2ミンスク合意が結ばれましたが、
これは、連邦化を嫌うウクライナにとっても、
ウクライナに戻りたくない人民共和国にとっても、魅力的な解決策ではありませんでした。
プーチン政権の両人民共和国に対する政策は、2014年8月まで、
2014年8月から2019年まで、
それ以後の3段階に分けられるでしょう。
●まず、2014年春に紛争が起こってから8月までは、プーチン政権は
ドンバスの分離運動に対して冷淡でした。
その理由は、第一に、ロシア大統領府と密接な連絡を取りつつ展開してきたクリミア
の運動とは違って、ドンバスの分離運動は社会のマージナル層が勝手にやったことで、
プーチン政権としては助ける義理を感じなかったのです。
第二に、ドンバスの分離運動は、「人民共和国」という名からもわかるように、
反資本主義、反オリガーク(新興財閥)の社会革命的な性格を帯びており、これは
右派的で保守的なプーチンたちにとって受け容れられるものではありませんでした。
第三に、一般にロシアの政権は、自力で生存する能力のない外国勢力を援助しても
仕方がないと考える傾向があるので、ドンバスの分離政体が生き残るかどうかを
観察していたのでしょう。
1992年のアブハジア戦争、2008年の第2次南オセチア戦争、2020年の第2次カラバフ戦争*
に際しても、ロシアは、自分が助けるべき相手の生存能力を見極めてから介入するかしないか決めています。
●2014年8月ごろになると、一方ではウクライナ軍のドンバスに対する全面砲撃が
始まり、他方ではマレーシア機撃墜事件なども起こって、プーチン政権としても
紛争を放っておくわけにはいかなくなりました。
そこで両共和国を支援しはじめるのですが、その際、
(1)ウクライナからの分離運動をそれまで指導していた共産党やドンバス急進派を
排除すること、←★★★
(2)社会革命を止めること、←★★★
(3)長期的には、ウクライナに戻ることに同意すること――という3条件を突きつけました。
これらをドンバスが飲んだのでロシアが支援するという関係が2019年くらいまで
続きました。
(このあたりの経過については、David Marples, ed., The War in Ukraine’s Donbas: Origins, Contexts, and the Future (Budapest: CEU Press, 2021)に掲載された私の論文をお読みください)。
このような比較的穏健な政策をプーチン政権がとったのはなぜかというと、
プーチン政権は、大量の親露票を持つドンバスをウクライナに押し戻すことによって、
ウクライナのNATO加盟を内側から阻止したかったからです。
●次に第3の時期ですが、2019年4月の大統領選挙でゼレンシキー候補が勝つと、
ウクライナ政治を内側から変えることは無理と判断したプーチン政権は、
ロシア国籍をドンバスの2共和国の市民に容易に与えるようになりました。
これはプーチン政権がドンバスをウクライナに戻す気を失いつつあることを示す
危険な兆候でした。
その年の12月には、パリで露、ウ、独、仏首脳によるドンバス戦争の和平交渉が
行われましたが、ここでゼレンシキーがプーチンに第2ミンスク合意の実施に
あまり乗り気でないことを伝え、プーチンは将来的なウクライナ開戦を決意したと
いうことが2022年4月1日付の『ウォール・ストリート・ジャーナル』紙に報じられています。
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なんとな〜く、ロシアはソ連と同じような共産主義(社会主義)の考えを持ってる
のではないかと思ってので、ドンバスの共産主義を排除した、というのは意外だった。
そしてできれば東部2国はウクライナのままでいて欲しいという考えだったのも、
意外だった。
しかし8年間も「ドンバスの虐殺」が続けば、ロシアも黙っている事は出来んし、
ロシアを引きずり出すための、アメリカ支援の「ドンバスの虐殺」だったわけです。