33. 2023年8月19日 14:04:43 : AdeIafDUMw : UDU1emg3bVJ3M2s=[1]
今でいう宇都宮高校程かどうか知らないが、昼間働きながら夜は学校へ行かせてくれて、出世も出来る、という貧乏人には夢のような養成所だった。
受かった!
良かった!
と、喜んだのもつかの間。
受持ちになった先生が持って来たのは「海軍志願」の書類だった。
優秀な生徒を受験でふるいにかけ、受かった途端に14歳の少年たちに海軍へ有無を言わせず志願の書類を書かせた。
最初優秀な子供達は、志願と言っても強制で死にに行くようなものとわきまえて、誰も名前を書かなかった。
その先生の怒りというのはものすごい剣幕だったそうだ。
「お前らーーー!全員腰抜けかー!父や母を守ろうという気概はないのかー!妹や弟を守ろうと言う気概はないのかー!この卑怯者め等が、腰抜けめ等が!兵隊さんにすまないとは思わないのかー!」と散々に怒りをぶちまけ、その後で猫なで声で「ま、、良いから、、今日はこの書類に名前だけ書いて先生の帽子に入れろ!で、明日、、お父さんやおかぁさんに許しをもらって来い」というので、みんな仕方なく名前を書いて先生の帽子にその書類を入れた。
のが運のつき。
明日志願を取り消すことはもちろんできなかった。
で、14歳で海軍にはいり、一度18歳で帰宅し、その時海軍の白いセーラー服と角帽で記念写真を撮り、それが遺影になった。
翌年、昭和19年18歳で輸送船とともに全員太平洋の藻屑と散った。
その弟は親が54歳という若さで病死したため6歳くらいだった弟を私の父が親代わりに育てた子だった。
子供のようにかわいがったそうだ。
あの当時は男女とも早婚だった為、父はまだ4歳くらいで父の跡を継いだのだ。
そのかわいい弟を、折角いい学校へ受かった弟を14歳で無理やり海軍へ志願させられ、5年後戦死した。
その翌年、昭和20年、私の母が臨月の時、私の兄が当時の流行病ジフテリアで1歳4か月で9月に他界。
翌月昭和20年10月私が生まれた。
そして母は食糧難と、1歳4か月の次男を亡くし憔悴したところで私を出産し、腹膜で死にそうだった。
栄養のあるものを食べさせるようにと医者に言われてもその食料がない。
父が農家へ出稼ぎに行って、卵やイモをもらってトボトボと、栃木のまちを歩いていた時、辻占いに声をかけられたそうだ。
「旦那さん、旦那さん、どうしました。悩みがあるならきかせれおくれ」と。
父は、そんな金はないと断ると、辻占いは「金は要らない、どうした?」と聞いてくれて、父はこれまでのいきさつを話し「妻が腹膜で明日をも知れない事、子供が5人もあって途方に暮れていること」などを話すと、その辻占いは「スラスラスラと何やら書いて、これを薬局にもっていって処方してもらいなさい」と言ったそうだ。
薬局にもっていくと、漢方薬で、調合した薬を受け取ると帰宅後すぐ薬を飲ますと、妻はすぐ下痢下痢下痢下痢で、母は「あぁこれでもう死ぬんだな」と思ったと言うが、パンパンに膨れていた腹がペッちゃんこになって、父は、最後に医者にかけてやろうと医者を呼ぶと医者は「あれっ?腹膜が治ってる???」って。
その当時その町で4人腹膜だったそうだが、母だけが助かった。
母が夜抱いて寝られず、私は7歳まで父に抱かれて眠った。
父はその他いろいろな苦しみに遭い、酒におぼれ。
で
まだ小さい私がいつも兄や姉に取り残されて、いろいろな父の悲しみの聞き役だった。
戦争なんて、百害あって一利なし。
しかも何で国交もない台湾の為に戦争に加担するなどというのか麻生は!!!
中韓と一緒に中国や北朝鮮と対峙するとか。
麻生が行け!
腹立つ!