6. 2019年5月21日 07:45:50 : shyDpZBoFo : U1hOMkMzam4zSy4=[1]
以前こんな記事を書いた。
・仕事や事業とは社会的役割を果たすことにより対価を得ることについた名であり、カネを稼ぐ手段の名ではない
我々は社会的役割を果たすことなく金を稼ぐことを「仕事」とも「働く」とも呼ばない。ならば「働かざる者食うべからず」という規範は、「社会的役割を果たさざる者は食うべからず」という意味を持つということにもなるだろう。
今の時代は「働かざる者」の取り分が多すぎて「働く者」が食えなくなっている時代である。たとえば、派遣業者は「働いて」いない。派遣業が単純労働者にも拡大する前と後で我々の社会は少しも豊かにも便利にも公正にもなっていないのだから、彼らの果たした社会的役割はゼロどころかマイナスである。単に企業と企業が直接雇用すべき者たちとの間にピンハネする連中が生まれただけだ。また、アメリカでは保険が煩雑になったせいで医師が膨大な医療事務を抱えることになり診察する時間を圧迫、そのくせ医師の取り分は減り医療破産する者は増え、肥え太ったのは保険会社だけだという。ならばアメリカの保険会社も「働いて」いるとはいえない。新自由主義(政商主義)ではレントシーカーとか呼ばれる濡れ手に粟を習う連中が政治を歪めて先人が商売の対象にしてはならないと決めた範囲に巣食い巨利を貪る。またマネーゲームによって生み出される富が野放図に拡大して労働で得られる富を圧倒している。彼らは少なくとも果たした社会的役割に応じた取り分を受け取っているとは言えない「働かざる者」である。その取り分が多すぎて「働く者」が食えなくなっている。
社会に「働く者」は必要だ。いなくなったら社会は回らない。だがマネーゲームで資産という電子情報を増やしているだけの者や「働く者」に不要の管理を押し付けて富を掠め取ってるだけの連中など、今この瞬間に絶滅したって何の差し支えも無い。
「働かざる者食うべからず」という規範は、別に村の怠け者にだけ向けるべき言葉ではない。高貴なる義務を果たさずただ搾取するだけの貴族もまたこの規範の対象者であるべきだ。無為徒食は庶民に限った罪ではないだろう。(社会に害を為すのならなおさら)
社会的役割を果たさない、または社会に損害を与える連中の取り分が大きくなり過ぎ、社会を支える働く者の取り分が食うや食わずの状態になっているのが新自由主義(政商主義)のもたらした惨状ならば、その見直しは「その取り分はその人の果たしている社会的役割から見て妥当か?」と正当性を問うことでしか始まらないのではないか。
つまり我々は竹中平蔵のようなレントシーカーたちにこそ言うべきなのだ。
「働かざる者食うべからず」