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セルゲイ・ラフマニノフってどんな人?その生涯や性格は?
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セルゲイ・ラフマニノフ(1873-1943)は、ロシアの偉大な作曲家の一人であると同時に優れた技術を持つピアニストでもありました。
作曲家としてのラフマニノフについては多く語られていますが、ここではピアニストとしてのラフマニノフに焦点を当ててご紹介します。
ラフマニノフってどんな人物?
まずラフマニノフとは一体どんな人物であったのかについてお話します。
家族構成や交友関係、性格や身体的特徴などをまとめてみました。
ラフマニノフの性格
ラフマニノフのポートレイトを見たことがある方はお分かりになるでしょう。
一見、かなり気難しい人物のように見えます。
しかし、これは多くの作曲家に当てはまることで、ベートーヴェンやシューマン、リストなども肖像画では気難しそうで神経質そうな人物に見えることが多いです。
では、実際のラフマニノフはどうだったのかというと、仏頂面でいることが多かったようです。
しかし、家族の前、特に自分の娘といる時は常に笑顔でいる人物だったとも言われています。
ラフマニノフが生きた時代はちょうどロシア革命の前後とあって、国がかなり不安定な状態でした。
明日がどんな状況になるかも分からない時に、笑顔で日々を過ごすことはできません。
きっと国の先行きが不安定な状態にラフマニノフも眉をしかめて生きるしかなかったのでしょう。
ラフマニノフの身体的特徴
ラフマニノフは数いる作曲家やピアニストの中でも、一際大きな手を有する人物として知られます。
なんと片手で12度の音程(ドからドのオクターヴ、プラスソまで)を取ることができ、更に柔軟な関節を持っていた指が自在に手の中をくぐって間の音を拾っていたと言います。
そのためか、ラフマニノフが作曲した曲にはやたら手を開く和音やパッセージが出てきます。
これほど巨大な手を持っているということは背も大きかったのではないかと思う方もいらっしゃるでしょう。
なんと2m近くあったそうです!(193cmと言われています。)
ラフマニノフに馴染のある場所
ラフマニノフはロシアの北西に位置するノヴゴロド州セミョノヴォで生まれ、幼少期はその近くのオネグという自然豊かな場所で過ごしました。
その他にもイワノフカに別荘があり、子供時代はここでよく遊んだと言われています。
しかしロシア革命で当局に目を付けられてしまったラフマニノフはアメリカに亡命せざるを得なくなります。
アメリカではカリフォルニア州のビバリーヒルズに住を構え、家族と暮らしました。
この頃、スイスのルツェルン湖にも別荘(セナール)を構え、可能な限りヨーロッパの地で英気を養っていました。
ラフマニノフの家族
ラフマニノフの両親は共に帝政ロシアの貴族階級出身で、両祖父は音楽に素養があった人物だったようです。
元々はかなり裕福な家だったようですが、ラフマニノフが生まれる頃にはすっかり没落し、ラフマニノフが9歳の頃にはついに破産してしまいました。
破産ついでに両親も離婚し、家族がバラバラになってしまったことでラフマニノフは大そう心苦しい思いをしたそうです。
ラフマニノフには2人の姉がいましたが、一人は若くして亡くなっており、ここでも心にダメージを負ったことをラフマニノフは後に回想しています。
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ラフマニノフの妻は従姉妹のナターリヤ・サーチナで、二人の間にはイリーナ(1903年生まれ)、タチアナ(1907年生まれ)がいました。
ラフマニノフの交友関係
ラフマニノフの良きライバルであり、生涯の友人であったのはアレクサンドル・スクリャービンです。
モスクワ音楽院時代から始まり、死ぬまでお互い切磋琢磨する仲でした。
ラフマニノフが特に尊敬していた作曲家はピョートル・チャイコフスキーで、彼に作曲の手ほどきを受けたこともあります。
その他に特に深い交流を持っていたのはオペラ歌手のフョードル・シャリアピンです。
「シャリアピン・ステーキ」の名で知っている方もいるかもしれません。
ピアニストとして尊敬し、良きライバルとして敬っていたのはウラディミール・ホロヴィッツです。
彼が演奏するラフマニノフ楽曲は多く録音にも遺されています。
その他にもレフ・トルストイやアントン・チェーホフなどロシアを代表する文豪との交流もあり、その中から生まれた曲もあります。
音楽教育と才能の開花
ラフマニノフは幼少期から類まれな音楽の才能を開花させ、わずか9歳で奨学金を得てペテルブルグ音楽院に入学を決めました。
しかし素行が悪かったこともあり、12歳でモスクワ音楽院に転入し、ニコライ・ズヴェーレフの家に住み込みでピアノを習い始めます。
チャイコフスキーの前で演奏するなど、どんどんピアニストとしての技術を磨きますが、師匠に禁じられていた作曲に手を出したことから破門となります。
それでも1891年に18歳でモスクワ音楽院のピアノ科を、大金メダルを得て卒業(スクリャービンは小金)、翌年には同音楽院の作曲家を、金メダルを得て卒業しています。
現実と夢の間で揺れたアメリカ時代
作曲家としてピアニストとして一世を風靡したラフマニノフでしたが、ロシア革命が起こったことにより祖国を脱し、アメリカへと家族で移住しました。
生活費を稼ぐため、ラフマニノフはスタンウェイと契約し、全米ツアーを敢行します。
演目も自身が作曲したものだけではなくベートーヴェンからショパンまで幅広いレパートリーを弾きこなし、あっという間にコンサートピアニストの名声を得ます。
しかし本人はアメリカに移住してからというもの、多忙と精神的疲労とで作曲が進まず苦悩の時代を過ごすことになります。
おわりに
いかがでしたでしょうか。
同時代を生きた人物に文豪トルストイやチェーホフがいたり、名作曲家のチャイコフスキーがいたりというのは意外と知られていません。
時代の背景などが見えてくると曲のイメージも変わってくるかもしれません。
ところで、ラフマニノフは自身が作曲した曲を自分でよく演奏し、録音にも遺しています。
有名な曲はCDにもなっているので、気になる方はぜひ聴いてみて下さい!
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