4. 2020年11月10日 22:52:28 : r6lLQqW9d6 : TGZ3eHdSTm1wa1k=[1]
理屈と現実は違う。私の周囲でも電気自動車に乗っていた人が、次々と「ただ同然の価格」で手放してガソリン車に戻ってきた。彼らは口をそろえて「せいせいしたぜ ! 」と、明るい表情を見せる。
走行距離の制約が大きく、バッテリーが残り少なくなると、なんか脅迫されているような気分になる。走行距離が短くても、坂があればあっと言う間に電気を使い果たす。充電できる場所が少ない。家のガレージに設置したコンセントにたどり着けなかったらどうしよう…そんな不安がいつも頭の中にある。
急速充電器は、実際には「急速充電機」だ。接続した電気自動車に、一気に大量の電気を流し込む。この機械は、一台当たり数百万円するそうだ。
日産自動車が電気自動車の旗振り役のゴーンが逃亡して、間を置かずに充電プランを改悪したのは、採算が合わないからだ。電気自動車が登場したころの急速充電機は、アンペアが低く、充電量の増えた現在の電気自動車では、30分で80%まで充電することは難しい。
世界初の量産型電気自動車を登場させた三菱自動車だが、当初はよく売れた。2010年、2011年が最盛期で、それ以降はめっきり販売台数は減少した。リチウムイオン重電池の劣化が予想以上に早く、たたでさえもリコール隠し問題で顧客離れが進んでいた三菱自動車としては、これ以上逃げられては死活問題だという事で、無償交換制度を導入。その制度は走行距離、経年数を拡大して多くの車輛を救うことになった。
しかし無償で交換できる制度は、三菱自動車が自らの収益を割いて費用負担するものであり、日本国内で多くの顧客を失った同社にとっては、あまりに過酷な制度であった。この電気自動車を開発させた益子社長は、根本的欠陥が分かっていなかったらしい。
三菱自動車社内で益子会長に対する批判が渦巻く中、2016年の燃費不正事件は「渡りに船」だった。相川社長ひとりに責任を負わせて失脚させ、自分は日産ゴーンに庇護を求め、会長を失脚せずに済むようにした。
これにより三菱自動車は日産自動車の傘下に入り、三菱グループから離脱した。これを大歓迎したのは、三菱グループ各社の社員や関係者であった。彼らに義務付けられていた、三菱自動車製品の購入から解放されたからである。
仕方なく通勤に使っていた三菱自動車製品を一挙に売却し、他社製自動車に乗り換えた。これにより日本国内の三菱自動車のシェアは更に低下した。その2016年の時点で、三菱アイミーブの販売は微々たるものであった。それに対し無償交換車輌は激増し、三菱自動車の持ち出しは増えるばかりであった。
会長の座を死守した益子氏だが、その後に日産ゴーンの海外逃亡事件が起こり、後ろ盾がなくなった。会社の業績は悪化の一途をたどり、益子氏は更に窮地に追い込まれていく。挙句の果てに、自ら会長を辞任すると発表したが、その後間もなく死亡した。
この一分始終を同業他社は見てきた。実のところ、三菱自動車は電気自動車アイミーブの生産中止を2017年発表する予定であった。しかし三菱自動車を植民地支配する日産自動車はこれを認めず、仕方なく継続販売されたようだ。三菱自動車の電気自動車撤退を許せば、電気自動車の評判は地に堕ち、日産自動車に跳ね返ってくるのは必至だからだ。
三菱自動車は電気自動車の無償電池交換に多くの収益を投入した挙句、いくつもの新型車の開発を放棄させられた。2010年に登場したRVRは、もう10年になるのに新型車が出ないのは、これが原因だ。2012年登場のミラージュも、マイナーチェンジを繰り返すだけで8年になっている。その間にもライバルは新型になっているではないか。
三菱ミラージュのライバルは、新型トヨタ・ヤリスだ。この不況の中でも、ヤリスはよく売れている。三菱自動車は、赤字の電気自動車事業に会社の足を引っ張られてしまい、聞くところによるとミラージュの後継車は、開発すらされていない。電気自動車に進出したばっかりに、会社が傾いてしまった三菱自動車の失敗を見れば、電気自動車の時代など未来永劫やってこない。
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