55. 2019年10月24日 03:45:49 : KW0VRwPbOA : SUpsdjVkYjUueC4=[1]
日本で2000年間に起きたことは、米国で200年前に起きたことと同じ。
入植者が次々と入り込んで、ネイティブの生存圏と文化を消し去った。
今回の即位の礼では鏡は動かさない。そして、
勾玉は縄文人を象徴する。
剣は出雲族を象徴する。
彼らを打ち倒した侵略者の「天孫族」が、この地を制覇した証が三種の神器だ。
とはいえ、これまで歴史的には即位礼は天孫族の出身である大陸様式で行われてきた。平安様式風にしたのは明治から。
(※そもそもの「天皇」という呼称も天智から王権を簒奪した天武朝が大唐に習って使い始めたもの。天武と同時期に、唐の則天武后は皇帝号を改めて「天皇・天后」号を使い始めている。天武という名も、おそらく則天武后からパクったんだろう)
今回の即位礼の様式も明治期に勝手に作り変えたものの焼き直しで、それをアベ政府が再アレンジしたもの。
形式的には「皇室の私的行事」としていて、だからこそ秋篠宮は公費から支出することに疑義を呈していたわけだ。皇族は政治的発言がダメで、それが上皇・天皇なら尚更なので、秋篠宮が上皇・天皇の考えをギリギリ代弁した形だ。
ところが天皇教を利用したいアベ政府は、これを国家行事が如く膨らませて、かつ、憲法の理屈を抱き込んで、一応、内閣総理大臣として国民の代表する立場で行事を執り行う「長」となっている。
※重要なのは、行事に皇族の意向の反映はなく、「憲法上」を逆手にアベ政府が演出しているという点。
なぜ、あの高校生を呼んだのかと言えば、それは政治的インパクトがあったからで、彼女を大行事に招くことで抱き込みを図るのが目的だからだ。天皇家に裁量権があるなら、あの子だけに特別な計らいをするような露骨なことはしなかっただろう。
当然、人間として招待されたら断れない。快く受諾するのが礼儀であり、
まして高校生に、イチローみたいな拒絶ができないのは百も承知で招待している。
様々な人を巻き込み、抱き込み、祭事を盛大にすることは、古来から権力者がやってきた権力集中の手段の一つである。人間は心理学的に自身が労力を使ったことは正当化しようとする。だから既得権力の側はいかに自分達のために労力を使わせるかを考える。
オリンピックでもそうだが、規模が大きくなればなるほど様々な人が労力を使い、無事に成功すれば、いかに税金を取られようともその労力は報われ、主催者トップに賛同し組みしていく構図がある。