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[近代史4] コロナ・ウイルスの変異パターンは3種類、日本で流行っているコロナAは風邪みたいなもので、BとCが凶悪 中川隆
5. 中川隆[-12873] koaQ7Jey 2020年4月28日 17:42:55 : YElpaElxQo : SlZsNTJqMVlNVFE=[1]
中国の第1波封じ込めも欧米の第2波拡大か
2020/4/28


国立感染症研究所は、新型コロナウイルスの遺伝情報を分析し中国・武漢から来た第1波の封じ込めには成功したが、欧米からの第2波が国内に拡大したとする調査結果を公表しました。

国立感染症研究所によりますと、去年末の発生以降、世界各地に広がった新型コロナウイルスは、数種類に変異していて、ゲノム情報をみるとどこから来たウイルスかわかるということです。

感染研の分析の結果、第1波の国内の流行は、1月上旬に中国・武漢から来たウイルスによるもので、現在は、消失し封じ込めに成功したとしています。

一方で、ヨーロッパとアメリカから入ってきたウイルスが3月から4月第2波を起こし、国内に拡散したものと強く示唆されるとしています。また、ダイヤモンドプリンセスの船内で広がったウイルスは、国内では終息したとみられます。

今後、第3、第4の波が来ることは必然だとし、対策の大切さを訴えています。
https://headlines.yahoo.co.jp/videonews/nnn?a=20200428-00000308-nnn-soci
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/757.html#c5

[近代史3] 日本人を憎む被差別同和部落出身者 3 _ ユニクロ柳井正 中川隆
1. 中川隆[-12872] koaQ7Jey 2020年4月28日 17:58:22 : YElpaElxQo : SlZsNTJqMVlNVFE=[2]

2020年04月28日
ユニクロ柳井正 語られない一族の出自と解放運動

「泳げない人間は沈める」「労働者は年収100万円以下で当然」など非情な言葉を口にする


引用:http://i.huffpost.com/gen/1415832/images/o-UNIQLO-YANAI-facebook.jpg


日本有数の資産家になった柳井正のユニクロは、その始まりが元非合法組織の構成員で、解放運動とも深い関わりを持っています。

柳井正は事あるごとに労働者を侮辱したり、日本人を批判する発言をしているが、そのルーツは江戸時代の身分制度にありました。


柳井一族の出自

柳井正は父親からユニクロの前身「メンズショップ小郡商事」を受け継いだが、元は叔父の「小郡商事」が始まりだった。

柳井の叔父の柳井政雄は日本の部落解放運動の活動家で、解放運動から政治家に転じ、山口県議会議員を勤めました。

中央政界にも人脈があり、山口出身議員の後援会会長をつとめ、総理府同和対策協議会や同和対策審議会委員も勤めた。


実業家としても成功し、38歳で1946年「小郡商事」を創業、弟の柳井等(柳井の父)が洋服事業を担当していた。

1949年に「メンズショップ小郡商事」として独立店舗を開業して1972年に現在の社長の柳井正が入社しました。

柳井政雄の叔父(つまり柳井正の父の叔父でもある)柳井傳一は部落解放運動の先駆けである全国水平社の創設メンバーでした。


全国水平社は1922年に創設された部落解放組織で、江戸時代の身分制度の最底辺に位置した人たちの集まりとされています。

日本の慣習や制度を打ち破る事を信条とし、自然に反政府活動や日本人に批判的な人と協力するようになった。

水平社は水平(平等)より権力を握って日本の支配層を目指す運動に変化し、部落解放同盟に変化していきました。


つまりユニクロとは部落解放同盟の創設に参加した一族が創業した会社であり、柳井一族は筋金入りの部落運動活動家という一面を持っています。

社長の柳井正の数々の反日発言や、日本と日本人を敵視する思想、言動は柳井一族の出自から受け継いでいます。

言うまでもなく現代の柳井正も父や叔父から、解放運動人脈を受け継いでいると考えられる。

ユニクロ前史

1984年に「ユニーク・クロージング・ウエアハウス」を開店しユニクロになり、直後に柳井正が社長に就任しました。

実質的に「ユニクロ」方式の店舗を始めたのは柳井正だという事が分かります。

創業者で叔父の柳井政雄は、父が部落出身者だったらしく牛馬商を営み、父の手伝いをした後、京都の板前の兄の元で働いた。


だが隣の犬を刃物で傷つける事件を起こして首になり、山口県の炭鉱で働くうちに裏組織の組員になった。

数々の事件を起こした後に23歳で足を洗い、解放同盟の叔父、柳井傳一から資金援助を受けて簡易宿舎を始めた。

これが1932年の事で、当時の500円(現在の100万円相当)を元手に木賃宿、材木商、運送業と事業を広げて行った。


この頃の柳井政雄は足を洗ったとは言っても元組織の一員であり、荒っぽい男達を雇って働かせていたのは想像に難くない。

柳井政雄は1946年に日本社会党公認で山口市議、次いで山口県議会議員に当選したが、むろんクリーンな政治とは無縁な活動をしていた。

非合法組織や部落運動に顔が利き、警察にも通じていて事業で得た金もあり、金権政治を地で行っていた。


選挙で後押ししたのは後に部落解放同盟となる水平社の叔父、柳井傳一だった。

因みに「餃子の王将」を創業した加藤朝雄とユニクロを創業した柳井政雄は共に部落出身で、解放運動を通じた友人だったと言われている。

柳井政雄は貧乏臭い社会党とは合わずに仲たがいし、総理の佐藤栄作から誘われて自民党系で解放運動を始めた。

このように現在「ファーストリテイリング」という名前の会社の始まりは、実は組織の親分と部落解放運動が始まりだった。

柳井正の信条「泳げない人間は沈める」

このような一族の遺伝子は柳井正にも脈々と受け継がれていて、日本人への憎悪と日本という国への憎しみは隠しようが無い。

ユニクロはブラック企業として有名だが、その現状はどういう物なのか、元従業員らの告発から知る事ができる。

柳井正は「泳げない人間は沈める」「企業には年収100万以下と1000万円以上の人間しか必要ない」など数々の名言を残して来ました。


柳井の父と先祖は最底辺労働者であり、そこから這い上がるために解放運動をしていたのだが、自分が支配層になると労働者を貶めた。

ファーストリテイリングは『ユニクロ帝国の光と影』という本を告訴したが裁判で敗れ、書いてある内容は事実だと裁判所が認定しました。

ユニクロを批判するマスコミや告発者には、高額賠償金をチラつかせ、批判させないようにしているとされている。


『ユニクロ帝国の光と影』によるとタイムカードを押して退社したように見せかけ、月300時間以上の労働をさせていた。

これに対し柳井正は「人より良い生活がしたいのなら、頑張らないと賃金は上がらない」などと述べ、質問しても話をはぐらかすのが特徴です。

「経営者になれない人間は賃金100万円以下になり、賃金を上げたいなら頑張らないといけない。」が口癖である。


ユニクロでは社員は朝7時に出勤し、夜10時過ぎに退社するのが常態化していて、しかも残業はしていない事にしていました。

ユニクロでは「フルボリューム開店」する事になっていて、開店した時点で棚に「隙間」があったらペナルティを受けたり叱責される。

前日に売れた分を朝10時まで完璧に並べなおさねばならず、朝7時に出社しなければならないという訳です。


勤務中は制服としてユニクロ製品の着用が義務付けられているのに、服は買い取りで店が補助をしたりはしない。

しかも毎日同じ服を着てはいけないので、ユニクロで働くとユニクロをどんどん買わされます。


努力しろが口癖の柳井正は入社した時点で重役であり「賃金を上げるための努力」なる物を自分はしていない。

http://www.thutmosev.com/archives/48935161.html
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/678.html#c1

[近代史4] アイヌ人は本当に日本人から迫害や差別を受けた事が無いのか? 中川隆
1. 中川隆[-12871] koaQ7Jey 2020年4月28日 18:22:18 : YElpaElxQo : SlZsNTJqMVlNVFE=[3]

札幌の秀才中学生は、なぜ料理人を目指したか
 進路指導の教員は「アイヌは受験させない」と言った
2020/4/27 株式会社全国新聞ネット
https://www.47news.jp/47reporters/withyou/4758214.html

今博明さん

 店内に入ると、昆布の香ばしい香りが漂っていた。観光名所の「札幌市時計台」からほど近いアイヌ料理専門店「ケラピリカ」。アイヌ語で「おいしい」という意味だ。エゾシカのサッカム(干し肉)、サケのサッチェプ(薫製)、キトピロ(ギョウジャニンニク)の漬けもの。昆布の香りの出元は、具だくさんの汁物「オハウ」だ。自然の食材を優しい味付けで整えた民族の家庭料理がテーブルに並ぶ。伝統楽器ムックリのビョン、ビョーンという幽玄な音色も相まって食欲をそそる。

 店主はアイヌ民族にルーツを持つ今博明さん(52)。23年腕を磨いた大阪を離れ、昨年、店を開いた。「国内唯一のプロのアイヌ料理人」と胸を張る今さんがこの道を選んだのは、すさまじい差別を受けたことがきっかけだった―。(共同通信=大日方航)

 「アイヌは受験させないよ」。1983(昭和58)年、夏のある昼すぎ、札幌市内の市立中学校の狭い進路指導室だった。学習机を挟んだ向こうで進路指導の教員が放った一言。36年以上がたった今も忘れることはない。

 怒りも湧いてこなかった。ただぼうぜんとした。口を突いて出たのは「へぇ、そうなんや」。小学校時代を過ごした大阪で身に付いた関西弁だった。年上に敬語を使わなかったのは、後にも先にもこの時だけだ。

 勉強が大好きで、朝3時ごろまで机に向かうのが当たり前だった今さんの志望校は、北海道有数の進学校「函館ラ・サール」だった。模試の理数系科目は北海道で10位以内。学習塾では「体調を崩さなければまず受かる」と太鼓判を押されていた。

 だが、アイヌであるというただそのことだけで、願書すら出せなかった。

 あきらめが全身を襲い、学校への不信感が募る。受験勉強への意欲を失い、入試前日まで徹夜でマージャンに明け暮れた。「ばか校」と自嘲する高校に入学したものの、生活は漫然と過ぎていった。大学進学はせず、学歴に頼らない職に就こうと思っていたとき、父の勧めもあり、調理師になることを決めた。

 卒業後、親元を離れ大阪へ。調理師専門学校を出た後、東京と大阪のイタリア料理店を経て本場イタリアで1年修業、96年には大阪で自分の店を開いた。27歳の若さだった。

アイヌ料理専門店「ケラピリカ」を開いた今博明さん=札幌市

 「アイヌの踊りや歌を継承する人はいても、食を継承する人がいない」。あるときアイヌの友人に言われたことが刺激になった。約10年後、店でアイヌ料理を出し始めた。当初は色モノとして扱われた。が、人気漫画「ゴールデンカムイ」の影響で、徐々に料理を目当てに訪れる人が増え、評判も高まっていった。

 母ミエコさん(74)は、アイヌ料理を提供していることを告げると、普段見せたことのない涙を流した。「ありがとう」。アイヌである母の涙の理由は、差別された過去だった。

 「アイヌ」と聞くだけで動悸(どうき)が激しくなるミエコさんの右頰には、幼いころ鉛筆で刺されたいじめの痕がある。今さんは「おかんは中学を卒業するとすぐに家を出て美容師になった。ひどい差別を受け続けてきたのだと思う」とおもんぱかった。

 大阪で腕を磨きながらも、自らが育った札幌市にアイヌ料理専門店が少ないことがずっと気になっていた。「俺がやるしかない」。心を決めた。

 長年募らせていた望郷の念もあった。昨年5月末、札幌市に店を移すと、北海道のアイヌも通ってくれるようになった。3月末にはいったん店を閉め、札幌市内で店を移転予定だが、引き続きアイヌ料理を提供する。

アイヌ料理を前にする今博明さん

 教員のあの一言は人生を暗転させた。でも、あの日があったから今の自分があるとも思う。「ショックだったけど、おかげで自分らしい人生が送れている」

 「ラーメン、焼き肉、それともオハウ?」。アイヌ料理が当たり前の選択肢になる未来をつくろうと、今さんは日々腕を振るっている。

 ▽一口メモ「アイヌ料理」

 狩猟や採取などで得た肉や魚、山菜や海藻を用いた料理。オハウを主食に、煮物やあえ物、刺し身やたたきを食べる。素材の味を生かし、調味料には塩のほか、魚や獣の脂肪も使う。サケは特に大切な食糧で「カムイチェプ(神の魚)」「シペ(本当の食べ物)」と呼び、乾燥貯蔵して余すところなくいろいろな料理に用いる。

https://www.47news.jp/47reporters/withyou/4758214.html




http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/403.html#c1

[近代史4] アイヌ人は本当に日本人から迫害や差別を受けた事が無いのか? 中川隆
2. 中川隆[-12870] koaQ7Jey 2020年4月28日 18:24:10 : YElpaElxQo : SlZsNTJqMVlNVFE=[4]

アイヌの若者はハンターになった
 現代に染まった伝統と文化、民族の魂ここに
2020/4/28 株式会社全国新聞ネット
https://www.47news.jp/47reporters/withyou/4761602.html

 アイヌ民族は食糧や毛皮を得るため、男性は季節を通じて弓矢やわなを使って動物を狩った。獲物はエゾシカやヒグマ、キタキツネ、エゾリス、鳥類など。特にエゾシカはサケと並ぶ代表的な食糧で、積雪期には追い込み猟も行われた。アイヌにとって狩猟で得る獲物は重要な収入源だった。が、明治時代、北海道旧土人保護法などを背景に漁や習慣、風習とともに狩猟は禁止された。

 その風習を取り戻そうとする人がいる。「狩猟民族アイヌに生まれついたからには、自分も狩りで身を立てたい」。北海道平取町の門別徳司さん(37)は、シカを狩るハンターになる道を選んだ。(共同通信=團奏帆)

アイヌの手甲「テクンペ」を身につけ、伝統的な弓を手にする門別徳司さん

 その狩猟は、民族の伝統と現代を掛け合わせた独自のスタイル。山に入る時には、今は亡きエカシ(古老)から教わったアイヌ語の祈りを山の神にささげる。静かな小川のほとりでシラカバの樹皮を燃やして行う儀式は、古くは伝統家屋「チセ」のいろりの火を前に祈っていたという。猟銃は、はき古したジーンズ生地にハンターカラーのオレンジ色の糸でアイヌ刺しゅうを施して作った袋に入れて担ぐ。

 草木が生い茂る季節、身を守るため着けるのはアイヌの手甲「テクンペ」。やはりジーンズを再利用し刺しゅうを入れた手製で、手の甲から肘近くまでを覆う。

 「伝統的な方法や道具とは少し違うかもしれない。でも道具や手法は使い手が便利なように進化する。それが生きている文化ってことじゃないかな」

猟の前にアイヌ語で山の神へ祈りをささげる門別徳司さん=北海道平取町

 幼いころから山は遊び場で、猟師も身近だった。「いつか狩りをしてみたい」と思っていた。10歳を過ぎた頃、自分がアイヌと知り、アイヌについて知りたくて舞踊を継承する保存会に入った。

 狩猟と採取で生きてきたアイヌ。明治時代に狩猟を禁止され、今やその手法は資料とエカシの話の中にしか残されていない。「外国では先住民族の狩猟が権利として認められている国もある。環境が違えば、自分もアイヌとしてごく自然に狩りをしていたかも」

 胸の中にくすぶり続けていた狩りへの思いは消えず、30歳を機に狩猟免許を取得。数年後に勤め先を辞めハンターになった。車で山に入りシカを仕留めることが生活の一部になった。

 新しい目標もできた。失われた先祖の技術をよみがえらせること。イチイの木に桜の樹皮を巻いてしならせ、シカの背中の腱をよって張った弓。チシマザサやシカの骨を使った矢。資料をもとに作ってみた伝統的な弓矢を使うには、まだまだ改良や練習が必要だが「いつかこれで狩りをしてみたい」。自分はアイヌ。自覚は揺るぎないものになっていた。

 「アイヌってまだいるの?」と聞かれることがある。チセに住み、電気や便利な道具のない暮らしをしているのがアイヌなのか。でも、自分は生きている。形は変わっても魂はアイヌだ。「今を生きているアイヌがここにいる。民族も文化もここにある」

アイヌのハンター門別徳司さん。猟銃は、はき古したジーンズ生地にアイヌ刺しゅうを施して作った袋に入れて担ぐ

https://www.47news.jp/47reporters/withyou/4761602.html
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/403.html#c2

   

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