1. 不動明[227] lXOTrpa@ 2024年9月13日 01:15:53 : TmTFDwtzFM : SlkzLmxoVzVjVGM=[1]
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イギリス統治時代
「インド独立運動」も参照
イギリスはインド人知識人層を懐柔するため、1885年12月には諮問機関としてインド国民会議を設けた。1896年にボンベイ(現・ムンバイ)でペストの感染爆発(英語版)が発生した際に強硬な住民疎開を実施したイギリスの伝染病対策官が翌年に暗殺された。このとき、関与を疑われたロークマンニャ・ティラクが逮捕され、出所後に「スワラージ」(ヒンディー語: स्वराज)を唱えた。1899年、屈辱的な金為替本位制が採用され、15インド・ルピーと1スターリング・ポンドが等価とされた。イギリスはインド統治に際して民族の分割統治を狙って1905年にベンガル分割令を発令したが、分割への憤りなどから却って反英機運が一層強まった。ただし、この頃の目標は、イギリス宗主権下の「自治」である。
イギリスはさらに独立運動の宗教的分断を図り1906年に親英的組織として全インド・ムスリム連盟を発足させたものの、1911年にはロークマンニャ・ティラクなどのインド国民会議の強硬な反対によってベンガル分割令の撤回を余儀なくされた。
1905年の日露戦争における日本の勝利などの影響を受けたこと、民族自決の理念が高まったことに影響され、ビルラ財閥などの民族資本家の形成に伴いインドの財閥が台頭し民族運動家を支援したことから、インドではさらに民族運動が高揚した。1914年に始まった第一次世界大戦ではインド帝国はイギリス帝国内の自治領の一つとして、英印軍が参戦した。挙国一致内閣のインド相は戦後のインド人による自治権を約束し、多くのインド人が戦った。
1916年にはムハンマド・アリー・ジンナーら若手が主導権を握った全インド・ムスリム連盟がインド国民会議との間にラクナウ協定(英語版)を締結し、「全インド自治同盟(英語版)」(Indian Home Rule Movement)が設立された。第一次世界大戦に連合国は勝利したものの、インド統治法によってインドに与えられた自治権はほとんど名ばかりのものであった。このためインド独立運動はより活発化した。1919年4月6日からマハトマ・ガンディーが主導していた非暴力独立運動(サティヤーグラハ)は、1919年4月13日のアムリットサル事件を契機に、それに抗議する形でそれまで知識人主導であったインドの民族運動を幅広く大衆運動にまで深化させた。さらに、ヒラーファト運動とも連動したことで、宗教の垣根を越えて非暴力・不服従運動は展開された。しかし、1923年になると暴力運動が発生したことによる運動中止とムスリムとの対立再燃によって、国民会議派主体の運動は停滞した。代わりに、全インド労働組合会議やインド共産党が活動するようになった。
1930年にはインド自治のあり方を検討するための英印円卓会議(英語版)が開始された。また、世界恐慌の影響でインド経済も打撃を受ける中、「完全独立」を求めるジャワハルラール・ネルーが台頭してきた。また、再起したガンディーによる塩の行進が行われ、ガンディーの登場はイギリスのインド支配を今まで以上に動揺させた。1937年には地方選挙が実施され、国民議会が勝利した[25]。
1939年に始まった第二次世界大戦においては、イギリスの参戦により自動的にインド帝国もまた再び連合国として参戦したが、国民会議派はこれに対して非協力的であった。太平洋戦争において日本の軍隊が、マレー半島や香港、シンガポールなどアジアにおいてイギリス軍を破り(南方作戦)、さらにインド洋でイギリス海軍に打撃を与え(インド洋作戦)インドに迫った。こうした中、国民会議派から決裂したスバス・チャンドラ・ボースが日本の援助でインド国民軍を結成するなど、枢軸国に協力して独立を目指す動きも存在した。国民会議の一部も断固として分離独理を求める「インドを立ち去れ運動(英語版)」を展開していたが、ファシズムとの闘いを優先したいネルーと、反英闘争を優先したいガンディーの間に溝があった。それでも、1942年8月には戦争継続中に限るイギリス軍の駐留容認を条件に全面的な会の方針となり、運動が本格化した[26]。なお、ガンディーは戦争初期の日本軍に勢いがあったときに、日本軍との連携も考えたが、日本がやっていることも結局は英国の植民地支配と変わらないと考えたことや、ネルー派の反対から具現化はしなかった[26]。
独立
1945年7月5日にイギリスで総選挙が行われアトリー内閣が誕生。その後、8月15日にイギリスを含む連合国に対し日本が降伏した。それに先立って、インパール作戦に失敗した日本軍はビルマ戦線でイギリスに押し返されていた。ボースは戦線に加わり、外から国民蜂起を狙ったが、ネルーはもし侵攻してきたら抵抗するつもりだと述べている[27]。なお、ボースは、日本の敗北を受けて、ソ連と接触しようとする最中に事故死した。この「インパール戦争」(インド国民軍メンバーによる呼称)にてイギリスの排除を試みたインド国民軍の将兵3人が1945年11月、「国王に対する反逆罪」でレッド・フォートで裁判にかけられ、極刑にされることが決まった。この見せしめのような裁判はインドの民衆から大きな反発を呼び、各地で大暴動が勃発。結果的にこの反乱は、インド独立に向けての大衆運動の大きな引き金となった[27]。また、1946年8月16日、ムハンマド・アリー・ジンナーが直接行動の日(英語版)を定めると、カルカッタの虐殺が起こり、国内の宗教間対立も激化した。
第二次世界大戦の疲弊と脱植民地化の流れからイギリス本国が独立を容認したものの、インド内のヒンドゥー教徒とイスラム教徒の争いは収拾されず、1947年8月15日、前日に成立したイスラム国家のパキスタンとインド連邦は分離独立した。両国は、独立直後の10月にカシミール帰属問題から印パ戦争を起こし、それは三次まで続き、現在も解決がついておらず、互いに核開発を競うなど憎しみを深めている。
インドの初代首相(外相兼任)にはジャワハルラール・ネルーが、副首相兼内相にはヴァッラブバーイー・パテールが就任し、この新内閣が行政権を行使した。1946年12月から1950年まで憲法制定議会が立法権を行使し、それはインド憲法の施行後、総選挙で成立したインド連邦議会に継承された。司法権は新設置のインド最高裁判所に移行した。さらに憲法制定議会議長のR.プラサードが大統領に、不可触賎民出身で憲法起草委員長のB.R.アンベードカルが法務大臣に就任した。
1948年1月30日、マハトマ・ガンディーは、ムスリムに対するガンディーの「妥協的」な言動に敵意を抱いていた、かつてヒンドゥー教のマラータ同盟のあったマハーラーシュトラ州出身のヒンドゥー至上主義「民族義勇団」(RSS)活動家のナトラム・ゴドセによって、同じヒンドゥー教のマールワール商人ビルラの邸で射殺された。インドは同年9月13日、ポロ作戦でニザーム王国を併合した。
藤原岩市 - Wikipedia
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戦中
藤原はもともとは情報畑の人間ではなかった。1939年、服部卓四郎によって中国から呼ばれて参謀本部入りし、作戦参謀となる予定だったが、当時藤原がチフスを患っていたことで、そのころは皇族も在籍していた作戦課ではまずいということになった。それで謀略・宣伝を担当する別の課(第8課)に配属されることになったという。
陸軍中野学校の教官も兼務しながら、任務の性格について勉強していたが、南方作戦の実施が参謀本部の中で本決まりになってくると、8課では現地における宣伝戦について調査企画することを藤原に命じ、藤原は嘱託の民間人十数名を集めて調査研究を開始した。日本における現地情報の不足に直面した藤原は、自ら偽装身分で現地に入って情報と資料を集めた。また、民間の作家、記者、芸術家などを進軍先に連れて行って思想戦に資することを提案し、認められた。いわゆる報道班員である。
1941年10月、駐バンコク大使館武官室勤務として開戦に先駆けて当地に入った藤原は、南方軍参謀を兼ねる特務機関の長として、心理戦を行った。若干十名程度、増強を受けても三十人ぐらいの部下だけで、藤原はかなり幅広い任務を与えられた。その内容は、極端に言えば、マレー人、インド人、華僑等を味方にすることである。その一環として福岡県筑紫郡出身で2歳からマレーシアに暮らす谷豊を諜報要員として起用したのもF機関であった。谷は死後、「マレーの虎(ハリマオ)」として日本で英雄視されることになる。
F機関と藤原の最も大きな功績は、インド国民軍の創設である。当時タイに潜伏していた亡命インド人のグループと接触して、彼らを仲介役として藤原は英印軍兵士の懐柔を図った。藤原は、降伏したインド人兵士をイギリスやオーストラリアの兵士たちから切り離して集め、通訳を通して彼等の民族心に訴える演説を行った。この演説は(日本についての歴史的評価がどうであれ)インド史の一つのトピックである(w:The Farrer Park address)。インド国民軍は最終的に5万人規模となった。
期待以上に大きくなったインド国民軍は、一少佐の手に余るものであり、F機関を発展解消して岩畔豪雄を長とする岩畔機関を作った。岩畔は中国における工作活動の経験豊かな人物だったが、インド事情には精通していなかった(それは藤原も同じだったが)。日本軍とインド国民軍の間で、またインド国民軍の内部で、トラブルが頻発し、インド国民軍のトップを誰にするかで大問題となった。彼らをまとめられる人物としてインド人の推挙に従いスバス・チャンドラ・ボースを呼び寄せることになるが、インド国民軍初期の統率者であったモーハン・シンは任を解かれて怒り、藤原は彼を宥めなければならなかった。両軍とも大小さまざまなトラブルに悩まされつつ終戦まで一緒にやっていくことになるが、藤原は後年、自分が岩畔の幕僚として残ればもっとインド人たちとうまくやっていけたかもしれないと後悔している。
スマトラ島での同種の活動の後、藤原はビルマ方面軍の参謀を経て内地でも参謀業務を行っている。
戦後
終戦時、藤原は九州の病院に入院していたが、そこに偶然、チャンドラ・ボースの飛行機事故で負傷した軍人が転院してきて、彼の死亡を知った。藤原は衝撃を受けたという。
やがてGHQ経由でイギリスの出頭命令を受け、1945年11月、インドまで赴く。そこではインド国民軍に参加したインド人将校たちを反逆罪で裁く裁判が行われており、その証人として呼び出されたのだった。しかしインドでは独立を求めてインド人たちの行動が活発化しており、この裁判に抗議する十万人規模のデモが繰り広げられ、軍艦を占拠されたりするような状況で、結局この裁判はうやむやのままに打ち切りとされた。
その後は藤原を戦犯とする裁判が始まった。1946年3月、ラングーン経由でシンガポールはチャンギーの刑務所に送られ、尋問を受けた。その尋問はとても厳しいものだったという。幸いにも、有罪とはされなかった。この後、さらにクアラルンプールで別のイギリス軍組織から、すなわちイギリス軍情報部から、F機関とインド国民軍結成について取調べを受けた。尋問官は藤原の功績をglorious success(輝かしい成功)と評価し、自身経験もなく、人員も不十分なのにもかかわらずそれを成しえた理由を聞きたがった。藤原自身その理由はよくわからなかったが、とにかく自分は誠意を持って彼らに接したんだということと、イギリスの統治に無慈悲なところがあったからではないか、と考えながら説明したという。
1947年6月、日本に戻った藤原は復員局の戦史部に在籍した後、公職追放を経て[2]、1955年10月、陸上自衛隊に入隊した。1956年8月、希望して陸上自衛隊調査学校の校長に就任し、自衛隊情報部門の育成に努める。その後、第12師団長、第1師団長を歴任した後、1966年1月、依願退職。藤原はまだ制服を脱ぐ前から東南アジア諸国について個人的に活動を行っていたが、退職して自由になると各地を訪問して現地の要人と関係を深めた。インドネシア情勢について、スカルノ失脚不可避の見通しを外務省より先に政界に伝えたといわれる。
インドネシア独立の英雄でもあるスカルノ大統領は、その在職が長期化するとともに、当初の清廉さを失い汚職にまみれ、盟友だったモハマッド・ハッタ副大統領まで諫言辞任した。1965年9月に起きた親中国派によるクーデター事件(いわゆる9月30日事件)後も米国はスカルノ続投支持の方針であったが、藤原岩市は中島慎三郎らとともにスカルノを排し、1966年(昭和41年)のスハルト政権誕生に力を尽くした。
藤原と三島由紀夫の関係について、山本舜勝は、三島のクーデター計画に藤原も関わっていたと著書で書いているが、その信憑性は不明。藤原は田中清玄に紹介されて三島と知り合い、自衛隊各所への紹介を行ったのは事実のようである。
1971年:第9回参議院議員通常選挙に自由民主党公認で全国区から立候補するが落選した。
1978年4月29日:勲三等瑞宝章受章[3]。
1980年9月:全国戦友会連合会会長に就任した。
1986年2月24日:逝去、叙・従四位[4]。
岩畔豪雄 - Wikipedia
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戦時中
太平洋戦争(大東亜戦争)開戦後は南方軍総司令部附となり南方作戦に従事『岩畔豪雄』 - コトバンク[5][3]。近衛歩兵第5連隊長としてマレー作戦を戦い左足に貫通銃創を負う[62]。
シンガポール攻略と同時に印度独立協力機関(通称「岩畔機関」)の長としてインド国民軍(INA)の組織と指導・自由インド仮政府の樹立に関与した[63][64]。参謀本部第8課出身の藤原岩市少佐率いる「藤原機関」(のち「F機関」)と共にこれを成功させ、INAの結成でF機関は「岩畔機関」に包含され「岩畔機関」には、多数の中野学校出身将校の他、松前重義[63]、水野成夫なども加わり(水野の起用にあたっては日本共産党員時代の彼の地下活動経験を岩畔が高く評価したという。「(インド独立のために)地下活動をしている人たちの心は、地下活動をしたことのある者が一番分かる」と言っていたという)、機関員は盛時500人といわれた[65][62]。
工作はラース・ビハーリー・ボース(ラシュ・ビバリ)とA.M.ナイルと岩畔の三人の話し合いにより主に進められたが、無分別な言動をとるモーハン・シン(Mohan Singh)大尉をラシュ・ビバリに進言し罷免、さらに軟禁させたことで、ラシュ・ビバリは「日本の操り人形」と見られるようになり、さらにラシュ・ビバリが体調を悪くしたことで「岩畔機関」はチャンドラ・ボースを迎えるため、ボースと親交のあった山本敏大佐に引き継がれ1943年(昭和18年)、「光機関」と改称された。「光機関」の命名は岩畔であった[66][67]。岩畔と折り合いの悪かった東条英機らの主導により実現したこうした岩畔はずしの人事は誤りで、インド国民軍ならびにインド独立連盟を目茶苦茶にしたという見方もある[49][68]。岩畔は「F機関」の事績について「藤原はみんな自分がやったように書いているが、オーバーであり『嘘の皮』」、「インドの独立ということは『F機関』がやったことではなく、私と次の2代の機関長がやったこと」と述べている[49]。
同年少将、スマトラ島の第25軍政監部に異動し参謀副長、第28軍(在ビルマ)参謀長を歴任した[2]。
水野成夫以外にも、戦争中に出獄した佐野学、鍋山貞親ら転向した共産党幹部の身柄を貰い受けて謀略活動に使った[69]。
終戦、再び日米交渉へ
終戦の直前、陸軍兵器行政本部付に発令され[70]、ビルマ・ペグー山中より単独帰国。1947年(昭和22年)11月28日、公職追放仮指定を受けた[71]。終戦後20年間の事蹟はそれほどはっきりしていない。この間、開戦前の日米交渉に加わり、親米避戦派と目された経歴から、日本陸軍と米軍の連絡係として活動、ベトナム戦争の準備情報工作等に関与したという説[72]、戦後はGHQ(SCAP)の情報部門「G2」と深く関わり、旧陸軍特務機関系の右翼人脈のリーダー格として暗躍したという説があるが[26]、日頃はむしろ財界人や後進を哲学的に指導することに熱意を示し、戦争哲学への傾倒など、哲学的な思索に多くの時間を費やしたとされている[2]。自衛隊が創設される時、吉田茂から、参加を促されたが、「敗軍の将、兵を語らず」と固辞したという。
1965年(昭和40年)、荒木俊馬・小野良介らと京都産業大学の開学に関わり[3][1]、初代の世界問題研究所長を務めた[2]。日米交渉の時、仲介にたったメリノール会(カトリック教会メリノール派)のジェームズ・E・ウォルシュ司教が中国で行方不明になった時、日米覚え書き貿易関連の所用で訪中する古井喜実を通じて周恩来に「ウォルシュ神父の安否」を聞いて確認してもらったりもしている。中華人民共和国の周恩来首相(国務院総理)の回答は、「調べたが分からなかった」であったという。実際にはウォルシュ司教は中国共産党政府により拉致監禁されており、米中国交回復に先立つヘンリー・キッシンジャー国務長官の秘密交渉により、拉致監禁された日から12年後に香港で解放された。
また、戦後、フジサンケイグループを作り上げた水野成夫(インド独立工作でともに活動)らを始めとした財界人のアドバイザーとしても活躍。水野は「岩畔さんは私や南喜一君を世の 中に出してくれた恩人です」と述べている[3]。荒井渓吉や、松前重義、水野成夫、椎名悦三郎などとともに国分寺(現国分寺市)にあった陸軍第八研究所の敷地と施設を借り受け、民生科学協会を設立[3]。戦後自民党右派のブレーンとして活躍し、沖縄返還交渉の黒子として日米密約(沖縄返還後も米国は核兵器を日本政府に無断で持ち込む権利を留保)の仲介者として有名な京都産業大学教授若泉敬は岩畔の愛弟子ともいえる存在であった[26]。沖縄返還交渉自体、岩畔が若泉を自民党の椎名悦三郎に紹介して開始したとの話も伝わっている。
駐日米国大使も務めたエドウィン・O・ライシャワーと若泉が談笑している時、ライシャワーがふと述べた「このたびアメリカは小笠原を返還しますが、だからといって沖縄まで返せと言われたのでは困りますよ」という趣旨の発言を、若泉敬が岩畔に報告したところ、岩畔は「それはライシャワーさんが謎をかけているんだよ。今すぐ、沖縄返還を要求しろというメッセージだ」と、その足で若泉を旧知の自民党議員椎名悦三郎(元幹事長)のところに連れて行き、「この男に返還交渉をやらせてくれ」と述べたという話が伝わっている。
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