172. 罵愚[8097] lGyL8A 2019年12月08日 16:50:15 : 20J2t8E1gs : SG9HdzY3MFNzS1U=[1]
ここで、この“押しつけ憲法問題”の歴史的背景についても触れておきたいのだが、時代はおおきくフランス革命にまでさかのぼる。王様は伝統的に傭兵に守られていたのだが、傭兵を雇う軍資金がなかった市民は、みずからが銃をにぎって国民軍を創設して、王様を攻撃し、革命政権を防衛したた。そして、革命政権が樹立されると、フランスの革命政権と国土の防衛は、まったく新しい、この「国民軍」にゆだねられる。
フランス国民は、これで幸福になったのだが、周囲の国々は…とりわけその王様たちは、この市民革命が自国に伝染して、自身が脅かされる事態を憂慮した。国内に革命思想が入ってきて、自分の国内で革命が起きる悪夢に悩まされて、フランスの革命政権を嫌悪した。いきおいフランスの革命政権は周囲の封建国家と対立することになった。
この危機的状況を救ったのがナポレオンだな。民主主義国家を守るために国民軍を率いて戦ったナポレオンが、勢い余ってフランス国王になってしまった。勝ったり、負けたりしたナポレオン戦争のなかで、占領地の支配者は封建領主だったり、革命軍司令官だったり、目まぐるしく変わることになる。この支配者の交代劇が、従来の封建領主同士の戦争のときとは、まったく異質の悲喜劇をもたらすことになる。
それまでの戦争の結果の支配者の交代は、領民にとっては、税金の納付先の変更にすぎなかった。もとの王様に納めていた税金を、今年から、あたらしい王様に納めるだけの変化だったのが、革命軍に占領された領民は、税金を納付する見返りに革命思想を給付さられたり、革命軍への参加を要求される事態をともなった。
フランス軍は占領政策の一環として、住民に民主主義教育を施した。その結果、革命思想を習得した領民は、勝敗の結果、フランス兵は退散して、自分はもとの領主の領民に戻ったとしても、革命思想がその頭脳から消えることはなかった。ここで、領民はゲームのチップから一躍ゲームの参加者に変貌したのだが、その原因となった革命思想と呼ぶ統治理念の変換は、領主が領地を取り返したとしても、領民の脳細胞に埋め込まれた革命思想を取り消すことはできなかった。つまり、封建主義から民主主義への統治理念の変換だな。
時代は下って、1899年になって、ハーグ法は締結されるのだが、その膨大な条文のほとんどは、ナイチンゲールの情熱やダイナマイトの発明をオリンピックで帳消しにしたノーベルの遺言の書き写しだったが、なかにポツンと一条だけ埋め込まれた、この43条は、いわば、このナポレオン戦争の忘れ形見だったのだよ。
ハーグ法第43条は、ヨーロッパの中世がヨーロッパの近代への面当てに書き残した遺言だったのかもしれない。「戦争は領土や、領民をとったり、とられたりするゲームであるべきで、そこに政治的思想や統治理念の書き変えを許すべきではない」と、ヨーロッパの中世は言いたかったにちがいない。
そして、まったくおなじ種類の間違いを、大東亜戦争終結後、日本を占領統治したアメリカが犯したのが日本の平和憲法だな。大日本帝国の統治理念としての大日本帝国憲法を、マッカーサーは、占領政策として、平和憲法に書き変えた。
ハーグ法違反の指摘はあったのだが、あからさまな違反の証拠を大量に残しながらも、アメリカは日本の憲法改正を強行した。それは、日本が最後に戦った大東亜戦争が、領土の再分割ではなくて、民族自決、人種差別撤廃などの理念だった事実を、十分に認識していた彼らは、その戦争理由に対して、かろうじて勝利したアメリカ帝国主義が、けっして譲歩できなかった地球の支配権を死守するために…自分たちの建国の理念だった民主主義を忘れてしまってまでも、押し通さなければならなかった“ウソ”なのだよ。
そして、その嘘に、日本の左翼野党も、右翼与党も同調した…アメリカはもちろん、日本の左翼勢力も、中曽根康弘のような保守政治家さえもが、ハーグ法違反を隠しとおしたという事実なのだよ。
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