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[近代史4] イギリスのスピーカー 中川隆
7. 2020年9月05日 06:53:50 : MiikQNbYFc : SExPd1N4T0pwU2M=[1]
セレッションのスピーカー史上最高のツイーター HF1300
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/1077.html
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/111.html#c7
[リバイバル3] セレッションのスピーカー史上最高のツイーター HF1300 中川隆
1. 中川隆[-11517] koaQ7Jey 2020年9月05日 06:59:14 : MiikQNbYFc : SExPd1N4T0pwU2M=[3]

Celestion 製品一覧 セレッション
https://audio-heritage.jp/CELESTION/

celestion ditton - YouTube 動画
https://www.youtube.com/results?search_query=celestion+ditton

ヤフオク! -「celestion ditton」(スピーカー) の落札相場・落札価格
https://auctions.yahoo.co.jp/closedsearch/closedsearch/celestion%20ditton/23812/


▲△▽▼


Celestion Ditton15 ¥53,000(1台、1975年頃)
https://audio-heritage.jp/CELESTION/speaker/ditton15.html

ディットンシリーズのブックシェルフタイプとしては最上位の機種にあたるスピーカーシステム。

低域には20cmコーン型ウーファーであるUL8と20cm平面型ドロンコーンであるABRを搭載しています。

ABRは振動板に軽量で剛性の高い合成樹脂を用いた特殊二重構造を採用しており、ネオプレンのダブルロールサスペンションによって保持されています。
動作質量は精密に設計されており、ウーファーとチューニングしています。また、一般的なドロンコーンではウーファーのfo以下では逆位相となって急激に低音出力が低下するのに対し、ABRは常にウーファーと同位相で振動するため、fo以下の低音域まで再生が可能です。

高域には3.8cmドーム型ツィーターであるHF1300を搭載しています。

エンクロージャーの仕上げにはウォルナットとチークの2種類のバリエーションがありました。

機種の定格

方式 2ウェイ・2スピーカー・パッシブラジエーター方式・ブックシェルフ型
使用ユニット 低域用:20cmコーン型(UL8)
高域用:3.8cmドーム型(HF1300)
パシブラジエーター:20cm平面型(ABR)
周波数特性 30Hz〜15kHz
インピーダンス 4Ω〜8Ω
最大入力 30W(DIN)
出力音圧レベル 96dB/3.8W/m
クロスオーバー周波数 2.5kHz
外形寸法 幅240x高さ530x奥行230mm
重量 7.6kg
https://audio-heritage.jp/CELESTION/speaker/ditton15.html


▲△▽▼


Celestion Ditton25 ¥118,000(1台、1975年頃)
https://audio-heritage.jp/CELESTION/speaker/ditton25.html

ディットンシリーズのスピーカーシステム。

低域には30cmコーン型ウーファーであるUL12を搭載しています。
このユニットには粘弾性の合成樹脂コーティングが施されたファイバーコーンを採用することで高い剛性を確保しており、エッジにはネオプレン製ロールエッジを使用しています。

また、低域にはABRと呼ばれるセレッション独特の30cmパッシブラジエーターを組み合わせています。
このユニットの振動板は軽量で剛性の高い合成樹脂製の特殊二重構造となっており、ネオプレンのダブルロールサスペンションによって保持されています。
動作質量は精密に設計されており、ウーファーとチューニングしています。また、一般的なドロンコーンではウーファーのfo以下では逆位相となって急激に低音出力が低下するのに対し、ABRは常にウーファーと同位相で振動するため、fo以下の低音域まで再生が可能です。

中域には3.8cmドーム型スコーカーであるHF1300を2個搭載しています。
このユニットはBBCモニターに採用されたもので、フェノールドームを使用しています。

高域には2.5cmドーム型ツィーターであるHF2000を搭載しています。
このユニットもBBCのモニタースピーカーに使用されました。

エンクロージャーの仕上げにはウォルナットとチークの2種類のバリエーションがありました。

機種の定格

方式 3ウェイ・4スピーカー・パッシブラジエーター方式・フロア型
使用ユニット 低域用:30cmコーン型(UL12)
中域用:3.8cmドーム型(HF1300)x2
高域用:2.5cmドーム型(HF2000)
パッシブラジエーター:30cm平面型(ABR)
周波数特性 20Hz〜40kHz
インピーダンス 4Ω〜8Ω
最大入力 60W(DIN)
出力音圧レベル 96dB/7W/m
クロスオーバー周波数 2kHz、9kHz
外形寸法 幅360x高さ810x奥行280mm
重量 19kg
https://audio-heritage.jp/CELESTION/speaker/ditton25.html


▲△▽▼


Celestion Ditton66 ¥178,000(1台、1975年頃)
https://audio-heritage.jp/CELESTION/speaker/ditton66.html

ディットンシリーズの最高級スピーカーシステム。
低域には30cmコーン型ウーファーであるUL12を搭載しています。
このユニットには粘弾性の合成樹脂コーティングが施されたファイバーコーンを採用することで高い剛性を確保しており、エッジにはネオプレン製ロールエッジを使用しています。

また、低域にはABRと呼ばれるセレッション独特の30cmパッシブラジエーターを組み合わせています。
このユニットの振動板は軽量で剛性の高い合成樹脂製の特殊二重構造となっており、ネオプレンのダブルロールサスペンションによって保持されています。
動作質量は精密に設計されており、ウーファーとチューニングしています。また、一般的なドロンコーンではウーファーのfo以下では逆位相となって急激に低音出力が低下するのに対し、ABRは常にウーファーと同位相で振動するため、fo以下の低音域まで再生が可能です。

中域には5cmソフトドーム型スコーカーであるMD500を搭載しています。

高域には2.5cmドーム型ツィーターであるHF2000を搭載しています。
このユニットはBBCのモニタースピーカーにも使用されました。

ネットワーク部には空芯コイルを使用しており、回路でのロスと歪を防いでいます。

エンクロージャーの仕上げにはウォルナットとチークの2種類のバリエーションがありました。

機種の定格

方式 3ウェイ・3スピーカー・パッシブラジエーター方式・フロア型
使用ユニット 低域用:30cmコーン型(UL12)
中域用:5cmドーム型(MD500)
高域用:2.5cmドーム型(HF2000)
パッシブラジエーター:30cm平面型(ABR)
周波数特性 16Hz〜40kHz
インピーダンス 4Ω〜8Ω
最大入力 80W(DIN)
出力音圧レベル 96dB/10W/m
クロスオーバー周波数 500Hz、5kHz
推奨アンプ出力 30W〜70W
外形寸法 幅380x高さ1,000x奥行290mm
重量 30kg
https://audio-heritage.jp/CELESTION/speaker/ditton66.html
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/1077.html#c1

[リバイバル3] セレッションのスピーカー史上最高のツイーター HF1300 中川隆
2. 中川隆[-11516] koaQ7Jey 2020年9月05日 07:00:38 : MiikQNbYFc : SExPd1N4T0pwU2M=[4]

オーディオ入門・考(Dittonというスピーカー・その1)
http://audiosharing.com/blog/?p=25391


昨年11月と12月に、
オーディオを特集した「音のいい部屋。A ROOM WITH SOUND」とSWITCH Vol.36を紹介した。

この二冊には、何人かのリスニングルームが紹介されている。
その人たちのシステムを見ながら、
セレッションのDittonシリーズを、いまも使っている人がいるのを見つけて、
やっぱりセレッションはDittonシリーズなんだよね、と思っていた。

セレッションからSL6が登場し、
アルミハニカムエンクロージュアのSL600、SL700が続いて、
これらのスピーカーを高く評価する人の中には、
それ以前のセレッション、つまりDittonシリーズが主力だったころのセレッションを、
終ってしまったメーカーのように書いている人がいた。

SL6の開発リーダーのグラハム・バンク、
彼がいなかったころのセレッションは、絞り切った雑巾のようだ、という表現もあった。

SL6は優れたスピーカーではあったし、SL6の音には驚くこともあった。
そしてSL600が登場して、私は買った。

けれど、私の心のなかでは、Dittonシリーズも、いいスピーカーなのに……、という気持がつねにあった。
古くさい音と、SL6以降のセレッションの音を高く評価する人は、そういっていた。

ほんとうにそうだったのだろうか。

「音のいい部屋。A ROOM WITH SOUND」、SWITCH Vol.36を見て、
Dittonシリーズに興味をもった人がいるのかいないのか──、
それは知りようがないが、
Dittonシリーズと同系統の音を聴かせてくれるスピーカーは、
いまやなくなってしまっていることも気づかせてくれる。
http://audiosharing.com/blog/?p=25391

オーディオ入門・考(Dittonというスピーカー・その2)
http://audiosharing.com/blog/?p=25559

ステレオサウンド 43号で、菅野先生が書かれている
《スピーカーの音をどうしたら、人の感覚に美しく響かせることが出来るかをよく心得たセレッション》。

このころのセレッションのスピーカーシステムはDittonシリーズが主力であり、
UL6という新しいスピーカーシステムが登場したころである。

UL6とだけ書いてしまったが、こちらもシリーズで、
UL6のうえにUL8、UL10があったが、
日本ではUL6がいちばんよく知られていて、評価も高かった。
それにUL6は見た目が魅力的でもあった。

菅野先生が書かれていることはおもにDittonシリーズを指している、と捉えてもいい。

私にとってのDittonシリーズは、トップ機種の66がまず浮ぶ。
その次は25である。

Ditton 25だけが、トゥイーターを二本パラレルで使っている。
しかも、そのトゥイーターはセレッションのHF1300/IIである。
HF1300は、BBCモニター系のスピーカーにひところよく使われていたトゥイーターであり、
LS5/1にも、スペンドールのBCII、BCIIIにも搭載されている。

このことからもわかるように、Dittonシリーズの中でも古くからある。
1969年発売のスピーカーである。

瀬川先生がステレオサウンド 17号に書かれた文章を読むと、
Ditton 25に興味を持つ人も出てこよう。
     *
 16号のテストの際、たったひとつだけ、おそろしく澄んだ、涼しいように透明な高音を再生するスピーカーがあった。弱々しくどこか腺病質的なか細い音なのに、中域から高域にかけての格調の高い美しさに、永いあいだ忘れていたAXIOM80の音の美しさと同質の鉱脈を見つけ出した。それがフィリップスで、テストが終るのを待ちかねて、一も二もなく買い込んでしまった。
 我家で鳴らしてみると、聴き込んでゆくにつれて、上記の判断があやまりでなかったばかりか、一見不足ぎみの低音も、トーンコントロールなどでバランスをとり直してみると、か細いくせに人の声など実に温かく血が通って、オーケストラも柔らかく広がって、ややおさえかげんの音量で鳴らすかぎり、音質について吟味しようなどという態度も忘れて、ただぽかんと音楽に聴きほれてしまえる安心感がある。
 むろんこの安心感とは、大型スピーカーのいかにもゆったりと鷹揚に鳴るゆとりとは全然別質の、いわば精巧なミニアチュールを眺めるような楽しさで、もともと一台二万円の、つまり欧州で買えば一万円そこそこのローコストのスピーカーに、大型の同質の音など、はじめから望んではいない。けれど、大型で忘れていたかげろうのようなはかないほどの繊細さに、大型への反動もあって、いっときのあいだ、我を忘れて他愛もなく聴き惚れてしまったという次第なのだ。
(フィリップスとはやや異なるがダイナコのA25も圧迫感のないさわやかな音質が印象的だったが、ご承知のようにこれはデンマークで作っているスピーカーだ。アメリカ製のスピーカーとは異質の音がして当然だが、最近コンシュマーリポートに上位にランクされて以来、飛ぶような売れゆきに目下大増産という噂で、品質が低下するようなことがなければよいがと、ちょっと心配している。)
 フィリップスを聴いてまもないころ、イギリス・ヴァイタヴォックスのクリプシュホーン<Vステムを聴く機会を得た。タンノイ・オートグラフを枯淡の味とすれば、これはもう少し脂の乗った音だ。脆弱さのみじんもない、すわりの良い低音の上に、豊かに艶めいた中高域がぴたり収まっている。あえていえば、たいそう色っぽい。中年の色気を感じさせる音だ。人を溺れさせるシレネエの声音だ。広いヘヤが欲しいなあと、つくづく思う。
 さらに今回の組み合わせテストの、ブックシェルフから大型スピーカーまでを同じ部屋に集めて同一条件で鳴らすという前例のない実験に参加してみて、改めて、上記の各スピーカーに加えて、ディットン25やタンノイのレクタンギュラー・ヨーク、ヴァイタヴォックスのバイトーン・メイジァに、何か共通の鍵のようなものを見出したように思った。
 音色の上ではむろん、一つ一つみな違うのに、たとえばレクタンギュラー・ヨークはまるでディットン15の延長にあるような、あるいはディットン25はフィリップスの延長にあるような錯覚をおぼえさせるほど、音楽の表現に共通の何かがある。そのことに思い当ったとき、音楽の伝統と音への感性という点で、ヨーロッパの良識に裏打ちされた音造りというものが、少しも衰えていないことに気づいた。
     *
《ディットン25はフィリップスの延長にあるような錯覚をおぼえさせる》、
もうこれだけで私には充分だ。
http://audiosharing.com/blog/?p=25559


オーディオ入門・考(Dittonというスピーカー・その3)
http://audiosharing.com/blog/?p=25789

セレッションのこれまでのスピーカーシステムのなかで、
Dittonシリーズがベスト、などというつもりはない。

それに私自身、SL600を鳴らしていた。
欠点はあれどユニークなスピーカーであったし、
巷でいわれるほど駆動力の高いアンプを要求するスピーカーでもない。

SL600、SL700について語られるとき、決って「アンプの駆動力が……」的なことが出てくる。
駆動力の高いアンプとはいったいどういうものか、
そこから話をしていくつもりはないが、
SL600が特別に駆動力の高いアンプを必要としているわけではない。

SUMOのThe GoldでSL600を鳴らしていた。
けれどその前はアキュフェーズのP300Lだった。
The Goldが故障して修理に出しているあいだは、国産のプリメインアンプでも鳴らしていたことがある。

もちろんステレオサウンドの試聴室では、いくつものアンプで鳴らしたSL600の音を聴いてきている。
その経験からいわせてもらえれば、使い手の力量の不足を、
アンプの駆動力に転換していたのではないのか。

SL600にはサブウーファーを追加したSystem 6000が後に登場した。
これも興味深いシステムで、もう一台The Goldを持っていたら(入手できるのであったなら)、
System 6000に手を伸ばしていた。

このころのセレッションは、おもしろかった。
System 6000はそのコンセプトを基に新たに挑戦したいと、いまも思うくらいだが、
SL600、System 6000の時代から30年以上、
いまセレッションの数あるスピーカーシステムで無性に聴きたくなるのは、
Ditton 66、Ditton 25であり、DEDHAMだ。

菅野先生がいわれている
《スピーカーの音をどうしたら、人の感覚に美しく響かせることが出来るかをよく心得たセレッション》、
それはSL600、System 6000では稀薄になっている。
ゆえに高く評価し、Dittonなんて……、という人を生んだのかもしれない。

SL600、System 6000ではなく、Dittonを思い出すのは、そのためかもしれないし、
いまDittonのようなスピーカーがあるだろうか、とふり返ってみるわけだ。
http://audiosharing.com/blog/?p=25789

オーディオ入門・考(Dittonというスピーカー・その4)
http://audiosharing.com/blog/?p=25793

(その2)で引用した瀬川先生の文章に文章について、
facebookでコメントがあった。

読んでいてワクワクした、と。
そしてこんなふうにワクワクする文章が、いまのオーディオ雑誌からなくなってしまっている、とも。

こんなことを書くと、
いや、いまのオーディオ雑誌にもワクワクするような文章が載っている──、
そう思う人もいるであろう。

でも、そのワクワクと、コメントをしてくれた人のワクワクは、同じとは私には思えない。
少なくとも私も、いまのオーディオ雑誌にはワクワクしない。
ワクワクする文章は、そこにはまったく載っていないからだ。

瀬川先生の文章にワクワクしない人で、
いまのオーディオ雑誌に載っている文章にワクワクする人は、
勝手な想像ではあるが、おそらく自分の持っているオーディオ機器、
欲しいと思っているオーディオ機器について、称賛されている文章が載っていれば、
それだけでワクワクできる人なのかもしれない。

瀬川先生の文章はそれだけではない。
瀬川先生の書かれるものには、俯瞰という視点がはっきりとある。

オーディオ評論家(商売屋)の人たちには、その視点がまずない。
現在のオーディオを広く見廻しての俯瞰もあれば、
オーディオの歴史を見ての俯瞰もある。

それらの俯瞰という視点を持たない人の書くものには、深みも広がりもない。
そんな文章にワクワクすることは、絶対にない。

そんな文章しかかけない人たちが何人いても、
オーディオ入門にふさわしい本は出来てこない。
http://audiosharing.com/blog/?p=25793

http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/1077.html#c2

[リバイバル3] セレッションのスピーカー史上最高のツイーター HF1300 中川隆
3. 中川隆[-11515] koaQ7Jey 2020年9月05日 07:02:01 : MiikQNbYFc : SExPd1N4T0pwU2M=[5]

Celestion Ditton 66           
http://www.jupiteraudio.com/2200/2200.html

懐かしいスピーカーが入荷いたしました。
3ウェイのパッシブラジエーター付きシステムです。

性能としては、周波数帯域も16Hz 〜40kHz とTANNOY を凌ぐものであり、能率も96dB 、最大入力80W と堂々たるものです。
それでいて、高域にはソフトドーム型を採用しており、そのお陰なのか刺激的なところはなく、弦楽器の再生においては、TANNOY よりも聴きやすいかもしれません。
後のCelestion とは違い、英国伝統サウンドを継承した正統派のスピーカーと言えるでしょう。

このDitton 66 は当時、最高峰のシステムデッドハムに搭載されていました。
そのヴィンテージ感溢れる容姿には憧れたものです。
ですが昨今全く見かけなくなってしまったのは、どういうことなのでしょう・・・。

さて、音はと言うと非常に滑らかで艶やか、端正な音と言えます。
音の表面はふっくらとしており、シルクのような肌触りに思えます。
これ程の素質を持ったスピーカーが皆無というのは、甚だ残念で仕方がありません。
TANNOY 、JBL 、ALTEC と言った御三家は、今やマーケットでは見ない日はありません。
しかしそれらとは違う隠れた名機は、日の目を見ていないのが現実です。

個人的に見ても、大変魅力的でスピーカーであり、場所を取らず設置条件も良く、主張しない優等生的な存在です。
そして寄り添ってくるようなサウンドは、滅多に味わうことはできません。
このようなスピーカーは後世に御三家同様、語り継がれなければなりません。
現行TANNOY と比べて、明らかに安らぎを覚える存在です。
特にクラシックや女性ヴォーカルなど、その表現は聴く者の心を震わせてくれるはずです。
店頭にてご試聴いただけます。
ご来店をお待ちいたしております。

寸法:W:380 ×H:1000 ×D:290(mm)・ 重量:30Kg
http://www.jupiteraudio.com/2200/2200.html

http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/1077.html#c3

[リバイバル3] セレッションのスピーカー史上最高のツイーター HF1300 中川隆
4. 中川隆[-11514] koaQ7Jey 2020年9月05日 07:30:16 : MiikQNbYFc : SExPd1N4T0pwU2M=[6]
Tag Archives: Ditton15
http://audiosharing.com/review/?tag=ditton15


セレッション Ditton 15XR
Posted by audio sharing on 1980年6月15日No comments
菅野沖彦

ステレオサウンド 55号(1980年6月発行)
特集・「’80ベストバイコンポ209選」より

 セレッション・ディットン15XRは英国セレッションの普及モデルとして人気のある製品。20cm口径ウーファーと2・5cm口径のドーム・トゥイーターによる2ウェイ構成に、ウーファーと同径のパッシヴラジエーターを加えている。からっとした音離れのよいシステムであるが、中域の充実感をもう一つ要求したくなる。


セレッション Ditton 15XR
Posted by audio sharing on 1979年6月15日No comments
菅野沖彦

ステレオサウンド 51号(1979年6月発行)
特集・「評論家の選ぶ’79ベストバイ・コンポーネント」より

 同社のスピーカーには、独特の豊かさを感じさせるものと、明るく軽快な、ちょっとホーンスピーカーを思わせるようなふっきれた音のものとの二つの大きな流れがあるが、これはどちらかというと前者の暖かいふくよかな音をもっている。洗練された音が魅力。


セレッション Ditton 15
Posted by audio sharing on 1977年6月15日No comments
菅野沖彦

ステレオサウンド 43号(1977年6月発行)
特集・「評論家の選ぶ ’77ベストバイ・コンポーネント」より

 イギリスのセレッションのシリーズは、現在このディットンとULの二種を柱にしているが、ディットンシリーズのほうが、伝統的な渋さと風格をもち、ULは明るく分離のよいサウンドだ。この15はディットンシリーズ中最小のシステムで、2ウェイ・2スピーカーにドロンコーンつきである。小味な魅力。

セレッション Ditton 15
Posted by audio sharing on 1975年6月15日No comments
井上卓也

ステレオサウンド 35号(1975年6月発行)
特集・「’75ベストバイ・コンポーネント」より

 柔らかい音ながら、キラリと光る輝きがあるのは、やはり長年にわたる英国系スピーカー独得のキャラクターである。小型システムながらのびのびした低音が好ましい。

セレッション Ditton 15
Posted by audio sharing on 1975年6月15日No comments
瀬川冬樹

ステレオサウンド 35号(1975年6月発行)
特集・「’75ベストバイ・コンポーネント」より

 セレッションらしい品のいい音で、普及型にもかかわらず、高品位なクラシック音楽の再生にも満足感が得られる。国産の同価格クラスにない雰囲気のある音が聴ける。

セレッション Ditton 15
Posted by audio sharing on 1975年6月15日No comments
菅野沖彦

ステレオサウンド 35号(1975年6月発行)
特集・「’75ベストバイ・コンポーネント」より

 セレッションらしい品のいい音で、普及型にもかかわらず、高品位なクラシック音楽の再生にも満足感が得られる。国産の同価格クラスにない雰囲気の或る音が聴ける。

セレッション Ditton 15
Posted by audio sharing on 1973年12月15日No comments
瀬川冬樹

ステレオサウンド 29号(1973年12月発行)
特集・「最新ブックシェルフスピーカーのすべて(下)」より

 中程度以下の音量で、ことに小編成の曲やヴォーカルなどを鳴らすかぎり、ひとつひとつの楽器や音像をくっきりと彫琢するように、磨かれた艶を感じさせる彫りの深い音で鳴る。低音の量感はあまり豊かとは言えないがキャビネットの共鳴や中低域の濁りが注意深く除かれて透明で鋭敏な音を聴かせる。スキャンダイナのA25MkIIと比較してみたが、ディットンとくらべるとA25の方が聴感上は高域が延びたように聴きとれ弦合奏などで目の前が開けたようにひろがるが、音像は平面的。ディットンは音像が近接した感じで立体的に聴こえる。たとえばヴォーカルでは、妙な言い方だがA25は唇を横に開くように広がり、ディットンは唇をとがらしたように前に張り出すようにも聴こえる。ただ、ハイパワーには弱みをみせ、「第九」などトゥッティでは音がのびきらないしユニゾンの各声部がきれいに分離しなくなる。なお今回のものは従来何度もとりあげたものと外装が変わり、音のバランスも以前のタイプより穏やかになっている。

周波数レンジ:☆☆☆
質感:☆☆☆
ダイナミックレンジ:☆☆☆
解像力:☆☆☆☆
余韻:☆☆☆☆
プレゼンス:☆☆☆☆
魅力:☆☆☆☆

総合評価:☆☆☆☆

セレッション Ditton 15, Ditton 25, ゴールドリング 800 Super E
Posted by audio sharing on 1972年10月19日No comments
セレッションのスピーカーシステムDitton 15、Ditton 25、ゴールドリングのカートリッジ800 Super Eの広告(輸入元:成川商会)
(ステレオ 1972年11月号掲載)

セレッション Ditton 15
Posted by audio sharing on 1970年9月15日No comments
瀬川冬樹

ステレオサウンド 16号(1970年9月発行)
特集・「スピーカーシステム最新53機種の試聴テスト」より

 本誌14号の組合せ特集のときにも、割合に好感の持てる音質だと感じたが、今回あらためてテストしてみて、輸入品のこのクラスのスピーカー・システムの中でも一〜二といっていいほど良くできたスピーカー・システムであることが感じられた。なによりもまず、中低域が豊かであたたかく、コーラスなどでも混濁しないで、美しいハーモニイを聴かせるあたりに魅力がある。音全体にツヤがあり、ダイナコがホール・トーン的に距離感を持って響くのに対して、こちらは楽器がぐっと近接する感じが対照的だ。音域をやたらと広げるよりも、音の響きの美しさに重点を置いた作りかただ。実際の使用にあたって、トーン・コントロールで音のバランスをやや補整した方がいいと思われるあたり、スーパー・リントン等と一脈通じるところもあり、サブスピーカーとして上手に使いこなしたい製品。

採点表
大編成:★★★
小編成:★★★★
独奏:★★★
声楽:★★★★
音の品位:★★★★★
音のバランス:★★★★
音域の広さ:★★★
能率:★★★★
デザイン:★★★★★
コストパフォーマンス:★★★★
(特選)

http://audiosharing.com/review/?tag=ditton15
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/1077.html#c4

[リバイバル3] セレッションのスピーカー史上最高のツイーター HF1300 中川隆
5. 2020年9月05日 07:33:04 : MiikQNbYFc : SExPd1N4T0pwU2M=[7]

2018年02月11日 Rola Celestion Ditton15
http://www.flatearth.jp/mgf/archives/2018/02/11-161314.php


https://farm5.staticflickr.com/4711/40164883272_0ae9a8ec9d_m.jpg 

私はイギリスのオーディオが大好きなのですが、スピーカーもイギリス製が好きなのです。

 その割には何故か自宅ではスイス製のPIEGA Master Jubileなんて使っていますが、以前はCelestion SL6 Siを使っていましたし、Celestion Ditton66も持っています。で今回のDitton15、なんというかCelestionのコレクターみたいですけど、仕方がないよね、好きなんだし。今のところは自宅で置く場所がないので、SL6 Si一緒に鹿嶋で使っています。

 Celestionの魅力ってなんなんでしょうね。全ての人が気に入るスピーカーではないと思うんですが、やはりこの音離れの良さと明るい音は本当にクセになります。え?明るい音??という部分に反応する人がいるかもしれません。どちらかというと英国のスピーカーって、音離れが悪く根暗な印象…なんて言われています、特にSL6についてはそんな印象を持っている人が多いかもしれませんが、ハッキリってそれは誤解。誤解というかアンプのパワーが足りていません。パワーというか駆動力かな…詳しい話はしませんけど、国産のプリメインだとほとんどダメかも。かくいう私もNAP250で鳴らすまでは、SL6がこんなにハキハキと明るく歌うスピーカーだとは思いませんでした。

 ま、低能率でアンプ泣かせのSL6はさておき、Dittonシリーズはそんなに能率も悪くないですし、もう少し鳴らしやすいです。ただ売られていた当時のスピーカーシステムとしては低能率だったかもしれません。確か能率は90dbW/mじゃなかったかな?昔調べたのですがよく覚えてない。一部で96dbと紹介されているサイトもありますが、計測方法が違うようです。

 このスピーカーの特徴と言えば、HF1300という独特な音響レンズをもったツィーターと、ウーハーと同じ口径のドロンコーン。写真を見ると3Wayに見えますが、一番下はドロンコーンと呼ばれるパッシブウーハーなので、電気的に駆動されるユニットは上2つの2Wayとなります。Dittonシリーズと言えばこのドロンコーンですね。上級機の66にも搭載されていますが、独特の音場感はこのユニットのおかげなのかもしれません。

 ツィーターは樹脂を染みこませた円錐形のユニットを、プラ製の音響レンズで塞いだ構造で、これはツィーターから出る音を効果的に拡散させる役割を担っているとか。
 音が出ているときにこのツィーターに触ってみると結構振動を感じることができて、ピンポイントの音像定位が命である現代のスピーカー設計とは、根本的に思想が違うのかなと思ったりします。キャビネットに対するツィーターの取り付け位置ですが、現在のスピーカーと違って対にはなっていません。右も左も正面向かって右側にツィーターは取り付けられています。というか左右の区別がない?なのでステレオでこのスピーカーシステムを聴くと、少し音像が右寄りになりますが、実用上は大した問題ではありません。

https://farm5.staticflickr.com/4739/24396113807_f4a7cb536e_m.jpg 写真はこのスピーカーの右だか左だかのF特を正面1mで測定したグラフ。もちろん左右とも測定してチェックしていますが、グラフは同じような結果でした。iPhoneを使ってAudio Frequency Analyzerで計測したので完全なデータでもありませんが、参考にはなるかと思います。というかスマホ使ってるヲマニな人は便利なのでこのアプリ買った方がいいよ。
 古いので経年劣化が気になりましたが、カタログに出ていたこのスピーカーシステム新品時のF特とあまり違いがないので、とりあえず音圧的にはユニットもネットワークも故障はしていないようです。

 音質ですがとても明るくて雰囲気がある音。なんというか、空間をそのまま包み込むような柔らかさと繊細さを感じる事が出来ます。欠点を上げれば、Celestionのスピーカーシステムにしては、意外とツィーターが存在感ある事と、中域がすこしへこみ気味かな?なんてトコロでしょうか。ボーカルよりもクラシックやジャズなどのインスト曲が似合うシステムなのかも。
 もっとも欠点とは言っても、1970年代に作られたスピーカーとは思えないくらい、豊かな音楽を奏でてくれます。こういう“雰囲気”があるスピーカーシステムって、なかなか見つからないですね。

 仕上げには前期・後期で色々なバージョンがあったようですが、私が所有している前期のモデルでは、MDFの切り口まんまの仕上げと、黒塗りの仕上げのバージョンがあったようです。黒塗りのバージョンは何故か電気通信大学で展示されているみたい。私のモデルではキャビネット前面にデカデカとマジックでシリアルが書いてあったりと、仕上げとしてはちょっとあんまりなので、本来はサランネットを装着した状態で聴くのが前提なのかも。

 このDitton15、今となってはかなり古いスピーカーシステムですが、ネットを検索すると今でも愛用している人はそれなりにいるみたいですね。有名ドコロだと、e-onkyo musicでコラムを連載している片寄明人氏も愛用しているようです。
https://farm5.staticflickr.com/4755/28418532489_db4b6b627b_m.jpg
↑サランネットを装着した状態


コメント

ドロンdroneはいつからドローンになったのか?
ドローンdroneはブーンという低い音を出すから?
というどうでも良い疑問が湧いたりしてw

ドロン・コーンも一時絶えていましたが、最近は小さいデスクトップ・スピーカーとかに良く使われていますよね。

昔はドローンとした(キレよりも量感を重視した?)低音が出るという事になっていましたがw、アンプがダメだっただけでしょうか。
投稿者: チェリー | 2018年02月13日 16:40

そういえば「ドロンコーン」って、英語だとパッシブラジエータですよね。ドロンコーンという言い方は海外でもするのかな?
海外でのレビューを見つけましたが、自分の感想と同じく、高音が支配的なんて書いてあります。
http://www.audionostalgia.co.uk/review_celestion_ditton_15.php

全然別件ですが、Technics SB-F1の美品とまではいえませんが実用上問題ないレベルのブツを格安で手に入れました。いります?

投稿者: よっち | 2018年02月13日 17:36

ドロンコーンのSPを使った事が無いので分からないのですが、置き方で結構変わるのではないのでしょうか(あたりまえ?)。
昔の密閉型だとすぐ背面は固い壁がお約束でしたが。

F1ぜひお願いします。
最近オクでもあまり見かけなくなりました。

パワーぶち込んでヒーヒーいわせたり、
ウチのM01と鳴き合せさせたりしたいと思います。

mk2をどうするかという問題は残るのですが・・・

投稿者: チェリー | 2018年02月16日 14:14

http://www.flatearth.jp/mgf/archives/2018/02/11-161314.php
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/1077.html#c5

[リバイバル3] セレッションのスピーカー史上最高のツイーター HF1300 中川隆
6. 2020年9月05日 07:34:16 : MiikQNbYFc : SExPd1N4T0pwU2M=[8]

2011年04月05日 三田オーディオ
セレッション・デットン15
http://blog.livedoor.jp/venzkede/archives/51773930.html


もっぱらセレッションのスピーカーで音楽を聴いている。

そう、部屋にはテレビがない。

おまけにラジオもアパートの真裏にそびえる高圧線の鉄塔の影響か全く入らない。

放射能ではなく、ナントラ波(高周波だったっけ?)の影響で悪い頭がますます悪くなるような環境で外部の情報収集は全てインターネット。

先般自宅のガレージからほじくり出してきたセレッションのデットン15。

これがまた古い。

1970年代の製品である。

しかし、しかしである。

クラッシックが最高に良い。

絢香もこれまた良い。

まさに部屋の中はどうしょうもないほど中途半端なスピーカーであふれている。

二束三文といえばそれまで。

そのなかでもやはり流れはセレッション。

セレッション兄弟は最年長がこのデットン15。

もうすでに40年近く経過しているがまだまだ健在である。

オバカなテレビを観なくなってから本当に音楽三昧。

これはたまらない!!

機 種 名 セレッション DITTON 15
発売年月 1971年頃
型  式 パッシブコーン インピーダンス 4〜8Ω
価  格 \43,000 (1台・変動する場合あり)
出力音圧レベル − 許容入力 30W(Peak)

ただひたすらに良い音を・・・。

ゆく年くる年・・・・・。4チャンネルで明け暮れた1971年も、今その幕を降ろし新しい年を迎えました。果たして、1972年度のオーディオ界の話題は・・・・・いづれにしましても、スピーカーの役どころはただひたすらに忠実な音を再現することにあります。

このDITTON15も、ただひたすらスピーカーの再生音に技術と研究を重ねてきた、英国ローラ・セレッション社の秀作です。特に魅力のポイントABRユニットは、完全密閉キャビネット内のエアーサスペンション作用により、30Hz〜60Hzのレンジにのみ動作し、ドライブユニットと共に合わせてこの低域をカバーしますので、量感ある低音をあなたにお伝えします。

DITTONシリーズには、DITTON15の他に25、120があり、全てこのABR方式を採用しております。キャビネットは、シックなウォルナット仕上げで、リスニングルームを飾ります。お部屋に合わせてお好きなDITTONでリスニングをお楽しみ下さい。

歴史

DITTON15が発売されたのは1966年で、1966年から十年間初期バージョンが販売されました。 1976年から二世代目が販売されました。 初期のと二世代目の違いはフロント周囲の体裁が違うようで、中身は余り変わらないようです。

二代目も10年間製作され、1986年からはSL6がセレッションの小型スピーカーのメインになったようです。 この変化はBBC系のモニタースピーカーの影響を受けたものと思われます。 なお、製造年は不明ですが、バッフルに化粧板を使い、同じ構造のDITTON15もあるようです。 このタイプはツィーターが異なる場合があります。 セレッションで古いイギリスのスピーカーと言うと、ディットンまでを指すようです。

構造

DITTON15はツーウェイのドロンコーン付です。ドロンコーンは英国ではスレーブバスという呼び方をしていました。 このスピーカーのドロンコーンの中身は円柱状の発泡スチロールです。前面と後面をウーハーと同様のゴムエッジで止めています。 低音は密閉箱の様に低いところまで出ます。ネットワークは低音−6dB/oct高音−12dB/octのようです。 低音側はコイル一個、高音側はコイルと12マイクロのケミコンでした。配線は全て半田付けされています。

なおこのスピーカーのツィーターは当時大変有名で、いろいろな高級機に使用されたHF1300らしいです。

箱は八辺とも接着剤でシールされていますので、分解は不可能です。ユニットを取り出すと、 内容物が開口部から全て取り出せる構造になっています。吸音材はウレタンスポンジです。 いくつかの形に加工されて内部に押し込められています。接着固定はされていません。

音質

DITTON15の特徴は、低い効率(実聴約84dB)と許容入力(約15W 最大30W)が小さいことにあります。 したがってアンプを選ぶスピーカーと考えられます。
入手して直ぐに聞いた感想は、大変音が暗いことでした。これは、後ほど解ってくるのですが、悪い意味ではありません。 ショップなどで比較試聴したら他の明るめのスピーカーに比べあまり良い印象は無いでしょうが 、自宅に持って帰っても同じような音で鳴る安心感があるようです。

もうひとつ、このスピーカーの優れた特徴ですが、ユニットの存在がわからない事です。 ツィーターはインラインではありませんが、全く違和感がありません。単独で聞いてもツィーターの位置がわかりません。 もしかしたら、クロスオーバー周波数が大変高い(3kHz以上)かもしれません。

一ヶ月ほど聞きましたところでの感想は、刺激的な音を出さない、安心できるスピーカーだと思いました。 このスピーカーは、広い場所での大音量向きではありません。s/n比の良い、静かな所で小音量で、 しかもスピーカーの近くで聞く方に向いています。またアンプは半導体でダンピングファクターか大きいほうが、 細かな音の表現に有利なようです。

真空管アンプで聞きますと、少し眠たいような音がします。 高域を少し落としているツィーターの設定がそうしているのでしょう。 ハイハットシンバルのリズムが余り伝わりません。

http://blog.livedoor.jp/venzkede/archives/51773930.html
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/1077.html#c6

[リバイバル3] セレッションのスピーカー史上最高のツイーター HF1300 中川隆
7. 2020年9月05日 07:36:52 : MiikQNbYFc : SExPd1N4T0pwU2M=[9]

新潟方面DACで「ミニ Celestion Ditton」を聞く2015年01月20日
https://community.phileweb.com/mypage/entry/4053/20150120/

さて、今回は盛りだくさんの内容です。
まずはリビングのサブシステム用に古いSPを新規導入いたしました。
「ミニ Celestion Ditton」であります。

以下、その音のインプレッションをご紹介します。

環境は、PCからCHORD CUTE DAC
真空管バッファーを通して、MF A1から新規導入の
ミニ Celestion Dittonを鳴らすというルートになります。

CelestionのSPについては、ここがモデルの流れがつかめるサイトです。
http://audiof.zouri.jp/hi-sp-01.htm


ちょっとレアなモデルなので、あんまりバンバンご紹介できない事情が。。。
なので型番は申し上げませんが、上記のサイトのリストにはでていないモデルで
幅が20cm、高さ45cm弱、奥行23cm弱ですので、
おそらくCelestion Dittonのシリーズでは最も小型のモデルでしょう。
Ditton 15という、まあまあ有名なモデルをひとまわり小型にしたものと
お考えいただければよいです。
70年前後のものじゃないかと思いますが、はっきりわかりません。

特徴は、HF1300というツイーターと
パッシブラジエーターを使った3WAYの構成というところでしょうか。
レスポンスレンジは、35 Hz から 15 kHz、最大入力は20Wで、
現代のSPよりスペック的にはどうか?というものですが
全体の状態がわりに良かったこともあり、リビングで聞くには十分な鳴りっぷりでした。

まず、我が家のハーベスよりは、音が前にでる印象がありました。
そのあたりは、どちらかといえばですが、同じ英国系でいうと、ロジャースに近い感じ。
ただしロジャースのほうが明るいというか、カラッとしている気がしますが。。。

中高音の良さを期待して導入したのですが、そこはねらい通りにいきました。
女性ヴォーカルや弦の艶っぽい響きは、最初に音出ししたときに
「う〜ん、いい音〜」とうなってしまいました。
古いジャズヴォーカル、たとえば先日ご紹介したニーナ・シモンなんかはよいです。
新しめのものでもヘイリー・ロレンのやわらかい感じはよくでてます。


クラシックの声楽やオペラのアリアなんかもいけます。
以前に紹介したバーバラ・ボニーのシューマン歌曲集とか
入手したばかりのマリア・カラスのハイレゾリマスターも
ちょっとゾクゾクするものがありました。


弦に関しては、たとえばチェロでいえば、
以前ふれたシュタルケルというよりむしろ
デュプレによるエルガーのコンチェルトのような
鬼気迫る超絶技巧キレキレの演奏がはまりました。


それとバイオリンとピアノで聞こうと考えて
なんとなくグリュミオーとハスキルのベートーヴェンのバイオリンソナタを
かけてみたのですが、最初そうでもないか〜なんて思って聞いていると
だんだん両者の演奏が艶っぽく聞こえるようになってくるのです。
このSPが演奏の質になじんでくるのに時間がかかるせいなのかもしれませんが
特にどの曲ということもなく、だめかな〜と思っても
しばらくかけていると良くなってくるという経験が
短期間でもかなりありました。

ポップス系の女性ボーカルは、相性の良否がどうもありますね。
バックの演奏とのバランスが合うとすばらしいのですが。。。
アリソン・クラウスのこれとか


カーラ・ボノフのこれとか


比較的きれいなウォーム系ヴォーカルの声の通りが良くなって聞こえました。

最後にひとつ特筆すべきなのは、
さすがギターアンプのSPを今も作っているだけあって
ギターの音色はよいですね。
ジミヘンやクラプトンの古いブルージーなものから
テデスキ・トラックス・バンドやリチャード・トンプソン
果てはニルヴァーナやミューズまでいけると思いました。
やっぱり「う〜ん、いい音〜」とうなってしまいます。


いかん、ついつい長々紹介してしまった〜。。。
肝心の新潟方面DACの試聴のお話は、また次回につづく。

レス一覧

うわぁ〜なつかしいぃぃ!

私が長年愛用したDitton15です。

いまだに小型スピーカーが好きなのは、こいつとの出会いがあったから。菅野沖彦氏が激賞していたのいちもにもなく飛びつきました。これを自作の2A3シングル直結アンプ(最大出力3W)で鳴らしていました。いかにもブリティッシュの良識とでもいうべき味わいと音楽性があって、それでいて元気とかガッツがあって、小さなアパート住まいでは十分すぎるほどの鳴りっぷりでした。

15年添い遂げましたが地下にストックしていた時に浸水で水に浸かってしまい、それが最後でした。

写真でみるととてもよい状態のようですね。サランネットの裏のインシュやエッジなどが経年劣化するので最後のころはメンテの必要を感じましたが本機はどうなのでしょう。

会いに行きたいですね。

byベルウッド at2015-01-20 23:29

ベルウッドさん
はじめまして
レスありがとうございます。

>私が長年愛用したDitton15です。

そうですか〜、やはりいらっしゃると思ってました、愛用されてた方が。Ditton 15って日本でもけっこう売れてたんでしょうか?当時のことはわからなくて。。。私が入手したのはウーファーが12cmと小ぶり(15は20cmでしたよね)のものなんですけど、前オーナーさんは、ほとんど日本では見かけないとおっしゃってました。

>いかにもブリティッシュの良識とでもいうべき味わいと音楽性があって、それでいて元気とかガッツがあって

そうなんですよね。繊細なクラシカルなものと荒々しいロックが不思議なことに両方いけちゃうっていう。

>サランネットの裏のインシュやエッジなどが経年劣化するので最後のころはメンテの必要を感じましたが本機はどうなのでしょう。

いまのところだいじょうぶそうですが、メンテが必要になるくらいまで愛着をもって使いたいと思っています。実はへたりそうなのはA1のほうでして、A1最後のお相手として相応なSPをさがしておりました。良縁にめぐまれたようで、それがとてもうれしいのです。
今後もつかいこなしのあれこれなど、またご相談するかもしれません。よろしくお願いいたします。

byゲオルグ at2015-01-21 00:10

ゲオルグさん、おはようございます。

盛りだくさんの情報、参考になりました。ありがとうございます。

ギターの音色についてはうらやましいです。私のSPはデンマークJAMO社製品(海外駐在中に現地購入したもの)で、一応そつなくこなすのですが、ギターだけは下手ですので、うらやましいです。

加えて、ハスキルさんとグリュミオーさんのSPに脱帽です。おそらくクロイツェル・ソナタも収録されているのでしょうね。お二人のデュオは、私にとって、いつか是非聴いてみたい名演奏という位置づけですので、こちらはとてもうらやましいです。オーディオ経験の深浅の差がやはり出ますね。

ちょうど、昨日は、「48KHz/16bit」と「48KHz/24bit」との音質違いをチェックしようと取り上げた材料が、デュプレさんのエルガー(チェロ協奏曲、1965年録音)でしたが、そもそもの曲想に加え、彼女の短い命を思うとやはり涙目のまま、それぞれを最後まで聴き通してしまって音質チェックにならない日でしたが、まさにその演奏曲がリファーされているのも何かのご縁でしょう(笑)。

次の投稿を楽しみにしております。

byかもん! at2015-01-21 08:49

ストラさん
はじめまして
レスありがとうございます。

>このシリーズでのドロンコーンタイプもあり音も好みでしたネ

入手したのは、そのドロンコーンタイプです。低音の質感が
現代のSPとはちがいますよね。わずかに遅れ気味でボンと鳴る感じ。
バックロードなんかともやはり質感がちがいますよね。
でもロックなんかも妙にいけちゃうのはギターが前にでてくるからかな〜。

>この当時はAR(US)の同タイプを持っており

Acoustic Researchのアコースティック・サスペンション方式のことでしょうか?
「強度の高いコーン紙と空気漏れと共振のない完全密閉された箱を用いており、
低音再生時における寄生振動を制動し、歪を抑えています」云々とあります。
低音の質が良いんでしょうか。知らないことばかりです。。。

今後もよろしくお願いいたします。

byゲオルグ at2015-01-21 14:38

かもん!さん
レスありがとうございます。

>私のSPはデンマークJAMO社製品(海外駐在中に現地購入したもの)

JAMOのSPをお使いでしたか。って音は聞いたことないんですけれど。。。
きっと、かもん!さんのシステムの魅力の一端を担われているものなのでしょう。
現行機種では、ブックシェルフのC 803(Dark apple)が
見た目の印象ではいい感じでした。

箱の曲線もおもしろいし、ツイーターやウーファーもオリジナリティを感じます。
DALIやDYNAUDIOがうけている日本にも入ってきても良さそうなものですが
過去にもちょっとだけしか取り扱いがなかったようですね。

>彼女の短い命を思うとやはり涙目のまま

デュプレさんの家族関係を描いた映画を以前見たことがあって、
まぁ批判も多かった作品ですが、
いろいろな愛憎悲喜劇が彼女の演奏に反映されているのではあるから
どういう家族に取り巻かれていたのかは
割り引いてみても理解が深まったように思いました。
才能の発揮と環境については、複雑怪奇な方程式を解かなきゃならない
ものだな〜っていう思いも残りましたね。

byゲオルグ at2015-01-21 14:43

https://community.phileweb.com/mypage/entry/4053/20150120/
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/1077.html#c7

[リバイバル3] セレッションのスピーカー史上最高のツイーター HF1300 中川隆
8. 中川隆[-11513] koaQ7Jey 2020年9月05日 07:42:16 : MiikQNbYFc : SExPd1N4T0pwU2M=[10]
Mr.トレイルのオーディオ回り道 2020年08月30日
また邪な考えで「サブスピーカー」を買ってしまいました。
https://blog.goo.ne.jp/nishikido2840/e/6b6b538b37f8c7488303456e8b4e21bc


英国製 Celestion DITTON 15です。英国製はタンノイ(アーデン・レクタンギュラーヨーク・VLZ他)やスペンドールBC-2、ハーベスモニター、ロジャース等使ってきましたが、陰影を含んだ表現が魅力です。長らくBC-2を愛用して来ましたが、手元を離れて10年近くになります。

先月、故障品を西原村のオーディオ道場に持って行った時、マスターが道場の2階にこっそりと連れて行ってくださいました。そこには「タンノイ:コーネッタ」と「Celestion DITTON 15」が置いてありました。コーネッタは以前にも聴いた事がありました。そのあと DITTON 15を聴かせていただきまして、BC-2の音色を思い出しました。BC-2もユニットはセレッション製で、 DITTON 15とほぼ変わりありません。(ツーパーツイーターが付いたぐらい)BC-2の泣き所はスーパーツイーターの耐入力が無い事(ボリュームを上げるとクリップする)でした。DITTON 15にはスーパーツイーターは有りませんので好ましく思います。道場の2階で聴いたコーネッタよりDITTON15の方がインパクトのあるサウンドでした。以後探していたのですが、お値段が上がってしまい「おあづけ」状態でした。ようやく価格もこなれて入手手配できました。来週水曜日の入荷予定です。果たして正常な状態なのか心配な点も有ります。
https://blog.goo.ne.jp/nishikido2840/e/6b6b538b37f8c7488303456e8b4e21bc

Mr.トレイルのオーディオ回り道
やって来ました Celestion DITTON 15 2020年09月04日
https://blog.goo.ne.jp/nishikido2840/e/23b3133eabc24a07badc4c5eb6497975


Celestion DITTON 15が入荷しました。CDP-D500+TA-2000+TA-N86のラインで、ほとんど一般品のケーブルで接続して「音出し確認」を致しました。オーディオ道場で聴いたのは2〜3分位でしたが、その時点で「ピピッ」と来ました。陰影の有るサウンドで艶やかさも有ります。

サイズは幅240×高さ530×奥行き230oで重量7.6Kgと非常にコンパクトな姿です。1975年製でもう45年前の製品です。当時1台¥56000くらいのスピーカーです。

SP端子が小さくて(可愛くて)専用のYラグ端子を使ってSPケーブルをセットしました。ウーハーの片chから音の出が小さいと云う事でジャンク品でしたが、左右ともまともなサウンドが出ています。

このDITTON 15は小さい割に大きなスケール感が有る事と音の線が太いですね。しばらくはこのまま鳴らし込んで行きますが、手を入れれば更に高性能なシステムになりそうです。現在は#4425の前の畳の上に「直置き状態」で鳴らしていますが、スケール感の大きさや艶やかさは分かります。サブシステムには最適なSPの様です。これ1台有れば他のSPは要らない感じに聴こえます。
https://blog.goo.ne.jp/nishikido2840/e/23b3133eabc24a07badc4c5eb6497975
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/1077.html#c8

[リバイバル3] セレッションのスピーカー史上最高のツイーター HF1300 中川隆
9. 中川隆[-11512] koaQ7Jey 2020年9月05日 07:46:22 : MiikQNbYFc : SExPd1N4T0pwU2M=[11]

日本一の音楽喫茶 阿蘇 オーディオ道場
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/713.html

ブリティッシュ・サウンドとは何か? _ 安物スピーカー スペンドール BCII から奇跡の音が…
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/690.html



http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/1077.html#c9

[番外地8] 尖閣は石器時代からの領有者の台湾先住民に返してやれよ 中川隆
1. 2020年9月05日 07:51:06 : MiikQNbYFc : SExPd1N4T0pwU2M=[12]
今でも台湾先住民が尖閣で漁をしているよ。
それを民主党政権が禁止したから尖閣問題が起きたんだ
http://www.asyura2.com/20/ban8/msg/321.html#c1
[リバイバル3] 電蓄の世界 中川隆
7. 中川隆[-11511] koaQ7Jey 2020年9月05日 10:29:19 : MiikQNbYFc : SExPd1N4T0pwU2M=[13]
【フィッシュ&ポテト】
http://cent20audio.html.xdomain.jp/Audio-111.html

@電蓄の世界

 ここでは、1960年代のイギリスのオーディオ事情について述べます。
 私たちは、ビートルズの活動時期と1960年代を重ね合わせて、ブリティッシュ・サウンドの原点について想像を掻き立てられます。タンノイ、ガラード、クォード、並み居るHi-Fiオーディオのパイオニアを並びたて、最高の音で聴きたいと願うわけです。今でもビートルズ、ストーンズの人気は衰えることがありません。


左:"Swinging London"を特集した米TIME誌1966.4.15号、右:Carnaby Streetの若者たち(1969年)


1960年代のロンドンのHMVショップ(オーディオコーナーと試聴コーナー)
・オーディオ・コーナーの中心はEMI製のDLSスピーカー、左隅にQUAD ESLモノラル。
・新盤の試聴コーナーでは、33/45回転は買った人だけ、78回転は無料で好きなだけ試聴できた。

 しかし、実際のビートルズ人気を支えた若者は、けしてそういう高級機器を購入できた富裕層ではありませんでした。1960年代でも78回転盤はまだまだ売れていましたし、英国内向けのシングル盤がモノラルであったというのは常識となっています。この難解きわまる前提に立ちはだかるのは、イギリス人に特有のSP盤への愛着です。五味康祐「オーディオ巡礼」には、1963年にイギリスを訪れたときのこととして次のように述べています。
 「英国というところは、電蓄に対しては大変保守的でケチンボな国である。アメリカや日本でステレオ全盛の今日でさえ、イギリスのレコード愛好家はまだ七十八回転のSP(LPのモノーラル盤ではない!)で聴いている。市販のカートリッジも、SP・LP両用でなければ売れないという。ロンドンにも現在シュアーのカートリッジは市販されているが、V15のU型はおろか、V15すら部品カタログに載っていない。高価なV15など誰も買わないからだ。それほどケチンボな国だ。オルトフォンはさすがに出廻っている。しかし殆ど月賦販売用である。SPU/GTが二十三ポンド――邦貨にして二万四、五千円見当だろう――それを十ヵ月払いの月賦にしなければ誰も買ってくれない。そういう国民だ。」

 この前置きのあとに、Decca社の高級ステレオ・コンソールDecolaが、ステレオのオーケストラ録音から78回転盤まで見事な音を奏でると賞賛しました。このことは何を示しているかと言えば、百花繚乱にみえる英国のHi-Fiオーディオ機器のほとんどは、一部の上流階級か海外向けの特産物であり、イギリス国民のお茶の間に届くことは稀であったということ。そして多くの人が電蓄(Radiogram)を愛し、RIAAになった後も78rpm盤を大切に聴いていたのです。Garrardのプレイヤーに78rpmがあるのは当り前、QUADの1967年発売の33型プリアンプ(トランジスター式)にさえ5kHzのハイカットフィルターを装備していたくらいでした。それがレコードをこよなく愛するイギリス人の常識だったのです。しかし、このポータブル・レコード・プレイヤー、結構いい味出していると思いませんか?


当時最も売れたDansette社 TempoとBermuda
 
自宅でレコードのチェックをするRoger Daltrey

 ポータブル・プレイヤーの多くは、BSR社のターンテーブル、セラミック・カートリッジ、ECL82のシングルアンプ、8x5インチの楕円フルレンジユニットの構成で、張り出している箱の部分からすると、卓上ラジオとターンテーブルが一体化したような構造です。
 セラミック・カートリッジは、78回転盤と33/45回転盤の両用で、ノブを回転させると切り替えられるタイプが長い間使われました。セラミック・カートリッジは、自身がイコライザーと同じような特性をもっており、イコライザー・アンプを必要としないため、廉価で済ませることができました。公称の周波数特性は30〜15,000Hzですが、実際は8kHz前後で急激に減衰します。78回転盤の時代と違いはそれほど大きくないというのが実情で、ステレオ時代のカートリッジは、クロストークは20dB程度、6kHzより上はほとんど分離しないというものです。これがピンポンステレオを再生していた初期ステレオ録音の限界でした。

ソノトーン社 9Tステレオ・カートリッジの特性

 アンプはECL82もしくはECC85+EL84のシングルでした。1.5Wのとても簡素なアンプ。これで8x5インチの楕円フルレンジを鳴らしたのです。楕円ユニットは当時のラジオにもよく使われていたもので、EMIの高級ユニットでも、6kHzから減衰して8kHzまでというものです。一方で、2〜4kHzにピークがあり、これが音の明瞭度を上げています。


Dansette社のポータブル・プレイヤーのアンプとスピーカー


EMI 92390型ワイドレンジユニット

 こうしたアナクロな時代の名残として、現在ではVoxやMarchallのギターアンプ用スピーカーとして有名なセレッションのユニットを取り上げましょう。Celestion Blueとして知られるワイドレンジ・ユニットは、1940年代にまで設計を遡るラジオ用スピーカーが前身でした。この頃、セレッション社はブリティッシュ・ローラ社に合併吸収されており、このローラはジェンセンから技術提供をうけてA12型スピーカーを製造していました。その後継機G12型がCelestion Blueにあたります。このスピーカーは100〜5,000Hzという電蓄のスペックであることが判りますが、こうしたスペックは天下のBBCが1948年まで使用していたGEC社のモニタースピーカーLSU/7も同様でした。1950年に発売されたMurphy社の高級ラジオにはセレッション社のスピーカーが採用されました。これで多くのイギリスの家庭にあった電蓄の音の概要が判るのです。


Celestion Blueの特性

1940年代のGEC社製BBCモニタースピーカー


Murphy社 "Baffle"Radio A146C(英Rola社 G12が搭載された)

 もうひとつ、化石のように生き残っているのが、エレボイ 209-8Aで、いわば構内放送用のユニットです。このユニットの特性は、雑踏の中でも明瞭に音声が聞き取れるように、ラウドネス補正でも特別なDカーブに準拠しています。これはジェット機の離着陸する空港でのアナウンス用に1970年代に追加されたものですが、驚くことに1930年代のGEC社のスピーカーと似た特性であることが判ります。つまり、こうした特性は小さい出力でも、人間に知覚しやすいように調整されたトーンなのです。弱点は大音量では破綻することです。

EV 209-8Aの周波数特性と音圧測定カーブの数々

 こうしたユニットは、エンジン音と格闘するカーステレオでも共通でしたが、ともかくローファイな世界でブリティッシュ・ロックは雑草のようにたくましく育っていったのです。その基礎はBBCのAM放送に培われた、と言っても過言ではないでしょう。しかし今でいうBBCモニターとは全く違う時代のものなのでご注意を。

A海賊ラジオ
 BBCラジオでビートルズの生演奏が流れたのが1963年以降。この頃、BBCが軽音楽を流すのは一日のうち45分だけ。それにレコード会社からの圧力で、レコードをそのまま放送することは硬く禁じられていました。いわゆるDJなるものはBBCにはいなかったのです。これに飽き足らない若者たちはルクセンブルクのラジオを短波で試聴するのが流行でした。知っている人は判りますが、短波は電波が安定しないと音声が波打ち際のように大きくなったり途切れたりで、音楽の試聴にはあまり向きません。これに目を付け、アメリカ風に24時間体制でレコードをかけまくるラジオ局のアイディアを実現すべく、英国の法律が行き届かない公海上の船舶からゲリラ的に放送したのが、1964年から始まった海賊ラジオRADIO CAROLINEでした。


Radio London 1137kHz(266m) 機材のメインはデモテープも兼ねた8トラック・カセットだった

 またたく間に若者の心をつかんだ海賊ラジオは、当時20局以上も現れ、次第にレコード会社も売り出し前のバンドのデモテープを横流しするなどして、新しいポップシーンを牽引しました。テープはオープンリールではなく、カーステレオ用に開発された堅牢な8トラックカセット(初期の業務用カラオケにも使われていた)で供給されました。当時の船内スタジオには、山積みのカセットテープがみられます。


8トラックカセット エンドレスで再生できて便利だった

 しかし試聴環境はここでもAM放送で、しかも電池で動く携帯ラジオが結構人気だったのです。8kHzの攻防は若者文化のなかで依然として根強く、最新のミュージックシーンを牽引していたのです。

当時人気だった英Bush社 TR82

 海賊ラジオは1967年に法改正で一掃され、変ってBBCでトップギアなどのロック専門番組が、海賊ラジオの元DJによって始まります。この頃からBBCセッションは、アルバム発表前のスクープという様相を帯びますが、これこそ海賊ラジオのスタイルだったのです。1960年代を通じてイギリスのポップシーンの牽引役はラジオだったのですが、おそらく、上記のポータブル・プレイヤーの立ち位置は、同じようなアンプ&スピーカーで聴いておりながら、AMラジオよりも鮮明な音という位置づけでしょうか。それより高級なシステムでの試聴は、造り手からしても想定外でした。イギリスの若者は、最新のトレンドはラジオで味見して、気に入ったらレコードを買うというパターンのようです。それでも健全に音楽が育っていったのですから、時代特有の情熱があってのことだったのでしょう。

BBBCスタジオ
 1960年代のBBCモニターは、FMステレオ放送の実験に際し、従来のLSU/10に変る新しいモニタースピーカーの開発に着手します。セレッション社はHF1300などの高性能なツイーターを開発し、自社製品のDittonシリーズのほか、BBCモニター三代目となるLS5/1に採用されました。このとき周波数は13kHzまで。1960年代前半の放送はモノラルなので、モニター、ダビングすべて1本で行っていました。このLS5/1は250台ほどしか製作されず、基本的にはFMでのクラシック収録のために使用されました。
 これに1969年にスーパーツイーターを追加したのがLS3/6(BC1)です。この頃になると、レッド・ツェッペリンのライブ収録などが行われ、レコーディング技術も世の中と同じレベルに並びます。こうしたレコードは非売品ながら海外の放送局に配信され、世界中のFM放送で流れるようになります。つまりポップスでも、Hi-Fiなステレオ放送を前提にした録音がBBCで始まったのです。いわゆるオーディオのお手本のように言われているBBCモニタースピーカーは、1960年代にはあまり海外では知られず、1970年代のKEF、Rogersの新しいステレオ用スピーカーを指しているのです。


BBC LS5/1(1960年)ウーハーはGoodmans製、ツイーターはCelestion製HF1300


 では、1960年代のBBCの軽音楽スタジオではどうかというと、ビートルズ時代のSaturday clubの収録では、依然としてLSU/10が使われていました。これは1949年に開発されたモニタースピーカーで、パルメコ社の同軸2wayを搭載したものでしたが、このユニットは単体では8kHzまでが周波数の限界であり、AM放送のためには十分な帯域でした。タンノイ、アルテック、RCAのHi-Fi向けの最新同軸2wayはことごとくテストで落とされたのです。FMの試験放送が始まった1955年頃からは、よりHi-Fiのニーズを満たすために独ローレンツ社のツイーターを追加しました。しかし、1960年代のBBCの軽音楽番組はAM放送が中心だったので、LSU/10は帯域内を濃密に再生する点で、ちょうど良かったのかもしれません。


BBCの人気番組"Saturday club"で駆け出しの頃のBernie Andrews氏
左:合間にビートルズと談笑 右:最初はテープの頭出し係だった

Parmeko 単体の特性:50〜8,000Hzという特性だが音のキレは強い

 この1950年周辺のBBCのHi-Fiへの舵取りが、実はイギリスの1960年代に大きく圧し掛かっているように思えるのです。確かに、1947年開発のTANNOYのデュアル・コンセントリック型スピーカーの先進性が浮き彫りになり、Hi-Fi録音の創生期にDeccaやEMIに納入されたという伝説的な話とリンクしはじめます。しかし、このような近代的なスピーカーで聴くと、60年代初頭のポップスはどう考えても周波数バランスがおかしい。その理由が、庶民向けのラジオとその延長線上にある電蓄スピーカーのようなのです。

CEMIのDLSスピーカー
 同じく1960年代初頭に、レコード会社であるEMIからは、電蓄スピーカーとの折衷的な製品が発売されます。DLS(Dangerous Loud Speaker)と銘打ったシリーズで、ステレオ録音の普及が進まない状況に業を煮やして、1960年に店舗試聴用の小型で高性能なスピーカーを開発したのでした。よくアビーロード・スタジオで使われていたと言われますが、実際はオーケストラのエコー装置として壁に掛けられていました。ビートルズ初期の1963年のレコーディングでは、主にAltec 605A+612箱でモニターされました。アルテックのシステムは「プレイバック」という商標通りの、録音したてのテープを生のまま聴くという段階のもの。この頃は2トラック・レコーダーでの一発録りなので、録音直後にミックスバランスをいじることもできない。あくまでも演奏の善し悪しを判断するだけです。そしてスピーカーはステレオ用に2本ありましたが、メンバーの座っている居地から、ミキサーの右手にあるスピーカー1本で試聴していたことも判ってきます。このとき、EMIのDLSスピーカーがスタジオに持ち込まれた写真が1枚だけあります。おそらくイギリスの家庭用に、と気を利かせたようですが、ほとんど使わなかったようです。


ポールの後ろに置かれたEMI DLSスピーカー(目線は遠くのAltec)
ジョージが片方のスピーカーに陣取っているのはモノラルミックスのため。

この頃のモニター方法「斜め聴き」:右側のスピーカーでモノラルミックス。
この時は初アルバムのヒットに続くシングル再録セッション(1963年)

 ところで、DLSスピーカーのベースとなる92390型 楕円フルレンジは、大きさは13×8インチ(40×20cm)、中央辺りは金属製となっておりメカニカル2wayの一種ですが、帯域は7kHzまでです。EMIの楕円フルレンジにはいくつかのバーションがあって、150はダブルコーンでツイーターなし、319は同軸2way、DLS529はツイーターを2個搭載した高級型でした。1946年からHMV銘柄の電蓄に搭載されたもので、かつて最高級電蓄 Electrogram De Luxeにはデッカのリボン型ツイーターが搭載され、これはウォルター・レッグが世界最高のスピーカーを開発しろとの鶴の一声で始まったもので、その技術がステレオ時代に流用されたことになります。後にこの楕円フルレンジは、デッカのステレオ電蓄 デコラに使用され、五味康祐先生の78回転盤でも良い音で鳴るという話に戻るわけです。しかし五味先生は根っからのクラシック党。同じ時代でも当時のポップスの話とゴチャマゼにすると、実は話が噛み合わないのですが、いわゆるSP盤との共存という意味では、イギリス人の一般的傾向と辻褄が合います。ラジオや78回転盤との相性を保持するため、低域はウーハー専用ユニットではなく、フルレンジ+ツイーターという折衷的な2wayが好まれたのです。


EMI 92390型ワイドレンジユニット


HMV Stereogram 2330


Dローファイでも育つ音楽文化
 こうしてみると、イギリス国民が、LPの発売された1950年以降から1960年代の前半にかけて、立ちはだかる電蓄の巨大市場の壁を乗り越えるのに、かなりの時間を要したことが判ります。ビートルズのLPを買おうと殺到した人の多くは、電蓄の名残が強い8kHzまでの音響をさまよっていたと考えられます。しかし上に見るように、そういうスピーカーでも生き生きと鳴る工夫が、60年代前半のヘンテコな音に秘められていたようにも思うのです。こうした広いリスナーに聞かれた60年代の音楽は、オーディオ的な素養にピントを合わせるのが難しい。アラが見えないようにピンボケだと詰まらないし、何でもはっきり見えてもアバタだらけになる。今風の洗練されたステレオ機器で聴くことで、かえって評価を下げることも十分にありえるのです。

 よく「明るい音でポップス向け」という言葉を聞きますが、ドンシャリの音を好むオーディオ初心者を揶揄しているような言い回しで、ポップスに理解のない(良識のない)人の上から目線の言葉と思ったほうが良いです。むしろ話は逆で、ローファイな機材でも心地よく聞こえるように調整されたサウンドなのです。それを20kHzまでフラットなシステムで大音量で聴いて批評するのですから、「こういう音を若者は好んでいるんだな」と勝手に思っているだけ。ポップスを聴くのに、1960年代のイギリスの若者は、ラジオやポータブル・プレイヤー以上の大げさな装置でレコードを聴かなかったし、それでもロックの変革を牽引できたのです。

 1980年代との僅かな違いは、1960年代が古い戦前の音響学に沿っていて、まがりなりにPAのような開かれた音響と歩調が合わされていた点です。そこがインナー型ヘッドホンが音楽業界を牽引した1980年代とのサウンドの違いがあり、現在では周波数特性が全く逆の両翼が強調された録音が好まれています。こうして1960年代のサウンドは化石となっていったのです。どっちが正しいというよりも、現状を認識しておくことは必要だと思います。


【お茶漬けの味】

 ここでは、昭和とロックという、何となく水と油に思える事象について、私なりのコンプレックスの源泉を見つめてみようと思います。
 昭和と西暦の違いでしょうか。日本と西洋ではジェネレーションが5年ずれているような気がします。特に1964年の東京オリンピックの影響は顕著で、テレビの大幅な普及に合わせ動画での記録が急激に増えるようです。オーディオ的にはモノラルからステレオへの移行期にあたり、ポップスの多くはモノラル盤でプレスされることも多かった。とはいえ、1960年代が輝いていたのはアメリカだけで、日本もヨーロッパも戦後を引き摺っていました。ヌーベルバーグはほとんどがモノクロ映画だし、ビートルズを含め初期のステレオ録音の多くは外貨を稼ぐためのアメリカ向けだったのです。

@アンサンブル型ステレオ
 1960年代の日本でのステレオ事情は、どうでしょうか。1960年代は高度成長期の初めの頃で、3年で給料が倍に増えるという感じで、貧しさから徐々に脱していきました。日本は1964年にレコード売り上げが世界第二位(一位はアメリカ)に躍進します。1965年サラリーマン平均月給30,300円、シングル330円、LP 1,500〜2,000円の時代。給料3ヶ月分のアンサンブル型、1ヶ月分の卓上型など、プレーヤーとチューナーの一体型のものが好まれました。いわゆるステレオ再生の基本を無視したスピーカー配置、響きの悪い和室に置かれるため、エコー装置で音の広がりを調整できる機種も多くありました。月給の半年から1年分に相当する本格的なセパレート型ステレオは、まだまだマニアの領域でした。メーカー製のステレオは「家具調ステレオ」とも呼ばれ、居間を飾る豊かさの象徴でもあったのです。

        ビクターとコロンビアのアンサンブル型ステレオ(共に1964年)


サンスイの雰囲気いっぱいのステレオ広告
左:朝岡ルリ子、右:新珠 三千代

 しかし、折角購入したステレオ・レコードさえ、1965年頃までのポップスについて言うと、当時から「ピンポンステレオ」と揶揄されたデュオ・モノラルであり、単純に左右に楽器を分けて収録してある程度のお粗末な録音が多かったのです。1965年にFMステレオの試験放送が開始されて、初めて自分のカートリッジの音の悪さに気付いた人も少なくなかったらしく、国産でもオーディオテクニカ AT-3、スタックス CPS-4、グレース F-8L、デンオン D-103などが優秀なカートリッジとして注目を浴びます。
 F-8LはNHKと協同開発されたF-8Dの民生版ですが、フラットでチャンネル・セパレーション30dBという高性能にも関わらず、無味無臭の音は、当時の評論家から「お茶漬けの音」と揶揄されました。既にF-7カートリッジで、NHKのエンジニア達にブラインド・テストでFMステレオ試験放送のリファレンスに選ばれたという実績をもとに、F-8Lでも評論家にブラインド・テストをしてもらいます。結果はF-8Lの圧勝。その後、バーチカル・アングルなど先進的な技術が、シュアーのV-15で真似されても臆することなく、価格で圧勝だったこともあり、自社の宣伝に加えてしまう余裕もありました。

  グレース F-8Lの広告(1967年)

 一方で、いくら優秀でも給料の1/4〜1/3をカートリッジに費やせる人は少数派、まだまだ付属のセラミック・カートリッジが主流でした。給料1ヶ月に達するオルトフォンやシュアーなどはまだまだ高嶺の花です。アンサンブル型ステレオでは、その良さを十分認識できなかった可能性もあります。圧電式はイコライザーアンプがいらないということもあって、カーブ設定もいい加減なものであったし、チャンネル・セパレーションも10dB前後のつたないもの。ピンポンステレオのように2chが明確に分かれていないと、買い手はステレオとモノラルの差が判らなくてクレームの対象になったのではないでしょうか。

 唯一、スピーカーだけは1950年代から輸出用に開発された安価なユニットが豊富にあり、フルレンジまたは同軸ユニットに自作箱を付けることで、Hi-Fi規格を十分満足できました。放送局モニターではNHKお墨付きのP-610A、民生品でもナショナルのゲンコツ(1954年)からフォステクスFE-103(1964年)まで、日本のフルレンジスピーカーは安価で素直な音を出すということで、海外でも人気が衰えませんでした。アンプはEL82(6BM8)、EL84(6BQ5)か6V6が主流で、スピーカーも10W以下のアンプで十分に鳴らせたのです。こうしたユニットの価格は、上記のHi-Fi用カートリッジよりもはるかに安かったところをみると、逆に当時のカートリッジの重要性が判るのです。

日本の素直なフルレンジ:ゲンコツ(1954年) フォステクスFE-103(1964年)

Aテレビ
 こうしたHi-Fi機器を尻目に、この時代を象徴するのは、やはりテレビの普及です。東京オリンピックを境にテレビがお茶の間を飾りましたが、テレビのゴールデンタイムを飾る歌謡番組「ザ・ヒットパレード」やバラエティー「シャボン玉ホリデー」では、カバー曲からオリジナル曲まで非常に広いレパートリーが提供されました。ピーナッツの洋楽カバーは、さしずめ日本のビートルズのような役割(BBCでR&Bのカバー曲をいっぱい紹介した)を負い、和製ポップスの発展に貢献したのです。テレビの音声はモノラルながらFM波で、スペック上は15kHzまで収録できますが、ブラウン管テレビの水平走査回数15,750Hzとの干渉を避けるため、実質10kHz程度で丸められ、テレビ据付の楕円スピーカーの実力からすれば8kHz程度が限界ではないでしょうか。それでもAMラジオが8kHzをカットするのですから、音は良いほうだったのです。多くのビデオテープの記録を頼りに判断すると、少し印象が違うように思います。当時のビデオ音声は、生放送に比べてずっと音質が悪いからです。FMラジオが本格的に普及するのは、ステレオ化された1970年代となります。モノラルのFM放送は不要の用のような存在だったといえます。

 興味深いのは、長岡鉄男氏が「音楽の友」誌1967年4月号に寄稿した「オーディオ千一夜」で、原音再生についてテレビの音の合理性を述べている点です。いわく…
 「家庭用の安直なアンサンブル型電蓄から出てくる声を、ナマの人間の声と聞きちがえる人はまずないでしょう。やけにボンボンした胴間声と相場がきまっているからです。ところが、アンプ部分にしろ、スピーカーにしろ、電蓄より一段も二段も下のはずのテレビ(卓上型で、だ円スピーカー1本のもの)の音声は意外と肉声に近く、となりの部屋で聞いていると、ナマの声とまちがえることがよくあります。」
 ここで、テレビの音が良い理由として以下のことが挙げられています。
プログラム・ソース(音声電波)が素直
アンプ、スピーカーとも低域と高域をあまり欲張っていない
アンプは五極管シングルでシャリシャリした音になる
テレビ用だ円スピーカーは比較的マグネットが大きく、foが高く、中音域での歯切れが予想外によい
一般にあまりボリュームを上げずに用いている
 結局、ローコストで合理的な拡声装置として、10〜16cmのフルレンジを0.4m2の平面バッフルに取り付け、80万説により100〜8,000Hzを支持し、低域は絞ってダンピングを良くし、中高域に明瞭性をもたせるということを提案しています。(この頃バックロードホーンはじゃじゃ馬で素人には無理だと考えていたようです)

1960年代のテレビの広告

Bまとめ
 1960年代の日本の家庭用オーディオの風景は次のようになります。
レコードがHi-Fiの頂点に立つが、ステレオのカートリッジはセラミックが主流のため、周波数特性は10kHzを下回り、チャンネル・セパレーションも十分出ない。
スピーカーは早くからフラットな特性のものが安価で出回り、小型ビーム管のシングルでも十分な性能が出せた。裏返せば、LP、カートリッジ、FM放送など音源の差が判りやすい状況にあった。
ステレオ録音は発展途上で、左右チャンネルを極端に分けた「ピンポンステレオ」と揶揄されたものが多く、シングル盤はモノラル、LPはステレオという時代でもあった。
カセットテープは会議、英会話練習用などに適し、まだ音楽用として熟成していなかった。エアチェックするにもFM放送はモノラルだったし、1968年から発売されたラジカセもモノラル、テレビ放送も1970年代末までずっとモノラルだった。
オープンリールが発売当初よりHi-Fi規格に準じていたが、音楽テープは非常に高価で、高級カートリッジとLPのほうが経済的であった。Hi-FiステレオはLPが占有していた。
テレビの普及にしたがい歌謡番組がゴールデンタイムの娯楽で重要な位置を占めるようになる。テレビ音声はモノラルながらFM波で、AMラジオより優位にあった。
 この時代の流行歌は、かなりの音源がオリジナルの歌手によりステレオ再録されているので、60年代の音は判りにくいのですが、残ったモノラル音源は意外にキッチリと録られています。ある意味、ステレオ録音よりも目鼻立ちが良く、1950年代のHi-Fi録音のイロハが、お手本通りに生きており、ラジオでも良く通る声で響いたのではないかと思わます。多くの人はラジオから流れる歌に声をあわせたり、歌声喫茶に通って歌ったと言いますから、レコードの大半は今のように鑑賞するためのものでは無かったようです。この点は、初期の演歌がなぜ売れたのか、という本来のいきおいを理解する手がかりとなるでしょう。


「明星」S36年9月号の歌本
坂本九と森山加代子
「月刊平凡」S42年2月号の歌本
都はるみと西郷輝彦
 あらためてみると、日本のステレオ事情は、基本的にイギリスの事情と似てなくもないのですが、比較的フラット志向でおとなし目のシステムになりやすいことが判ります。それはいち早くステレオ録音に追従した点からも、合理的な音響機器が庶民のレベルに浸透していたことが判ります。こうしたシステムが生きてくるのは1970年代に入って、ラウドネスの効果的な使い方が録音側に備わって、さらに飛躍することになります。逆にオーディオ的に発展途上にあったイギリス発のポップス、特に60年代のハードロックやR&Bに対する日本での評価の低さは、1〜4kHzにピントの合っていない国産スピーカーの特性に起因するものと思われます。

C長岡鉄男氏から伺う1960年代
 一方で、1960年代の長岡鉄男氏のコラムなどを読み返すと、多くのメーカーがRCA、コロンビアなどの東海岸風ピラミッド・バランスを目指していたのに対し、長岡氏の推奨する音がテレビをお手本にした、辛めの英国ラジオ風なのは面白い結果でした。それ以前にも、「ローファイを楽しもう」「モノラル再評価」など、私好みのコラムがあって、今になってその内容が少しずつ読み取れるようになりました。日本語で書かれた1960年代のオーディオ批評のアンソロジーは意外に少ないのが現状で、庶民派の目線で本音をチラホラ漏らす長岡氏のコラムはさらに貴重なのです。
 長岡氏自身はクラシックを良く聴く人なのですが(音楽の友、レコード芸術の常連だった)、テレビではもっぱら歌謡曲だったのではないでしょうか。1971年に小三治師匠との対談で、FM放送の歌謡曲についても言及して、「歌謡曲っていうのはずんぶんくだらないと思ってたけどね」という前置きで、4chデコーダーを通して流しっぱなしで聞くと雰囲気があって案外おもしろい、という評。小三治師匠は、10枚中9枚はクラシックだけど、実際に聞く確率はポピュラー、ジャズ、歌謡曲が優遇されて、寝転がって聴くのが好き、という具合。こうした脱力系で楽しむ音楽もあるのだと改めて思った次第です。
 こうしてFMを中心としたステレオ・ブームとは裏腹に、音楽鑑賞の質が一向に上がらないのを見て取ったのか、長岡氏は1970年代に「週間FM」誌でオーディオの使いこなしなどを指南する際に、レコードは何を聞いているか、具体的な楽器の音がどう聞こえるかの詳細をほとんど語らず、終始、低音が高音がという抽象的な言葉でオーディオ批評しているのです。おそらくFM視聴者が歌謡曲などを主体に聴いていることを配慮して、あえて言及しなかったように思えるのです。1980年代に「外盤A級セレクション」を発表するようになりますが、そうした批評に耐えられるだけの装置を一般読者が所有できる時代になったという別の意味も含まれています。長岡氏は庶民派の目線でCP(コストパフォーマンス)でオーディオの価値観を表現したユニークな存在でしたが、オーディオの目指すべきゴールを見据えたうえで、一般のユーザーに辛抱強く語ってきたように感じます。
 長岡氏のコラムを振り返ると、1960年代から1980年代まで、オーディオ環境に大きな変化があったことを実感できるわけで、遠い眼差しで過去を振り返ることの難しさも実感するのです。60年代ポップスは明らかに「ずんぶんくだらない」B級、C級の録音セレクションとならざるを得ません。その回答が、下手なアンサンブル・ステレオより、テレビのほうがオーディオ装置として優れている、という逆説的な発言です。このことを実感できるようになるには、結構険しい道のりが待ち受けているように思うのです。

http://cent20audio.html.xdomain.jp/Audio-111.html
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/1073.html#c7

[近代史5] 金(ゴールド)が異常に上がっている 暴落なしの通貨紙くず化 中川隆
1. 2020年9月05日 10:55:17 : MiikQNbYFc : SExPd1N4T0pwU2M=[14]
2020.09.04
久しぶりにダウ800ドル安 ステルス紙屑化進行中
https://golden-tamatama.com/blog-entry-dow-800-down.html


ひゃー
最近上がってたビットコインさんもすごい暴落。


恐怖指数
将来の相場に対する投資家心理を反映する指数
数値が高いほど投資家の先行き不透明感が強い
10%も跳ね上がりますたとさ。


まぁ、しかし。

3月のコロナショックに比べれば大したことない。
あの時は、毎回、過去最大下げ幅更新してますたよね。

当時は、ひじょーーにワクワクドキドキしたものです。
記事からもその興奮、高揚感が伝わって来るというものです。


歴史的出来事 ブラックマンデー!!過去最大の下げ幅 NYダウ売買一時自動停止!

2020年3月10日
また来ないかな〜
あの時の興奮よ もう一度。


前から言ってるように、もう株価が上がる要因などどこにもない。

もはや実体経済と完全に関係のないバーチャルリアリティ市場。

上がろうが下がろうが、本当は何の興味もなくなってしまいますた。

以下は去年からの日経平均。

GDP年27.8%減 戦後最大の下げ幅なのに何でV字回復?

https://golden-tamatama.com/wp-content/uploads/2020/09/WS20200707AZCLOPUY000785.jpg


GDPとは国内総生産、つまり国内で産み出された付加価値の総額です。
それが3割減したのにV字回復する不思議。

以下は金価格。
このように実は昨年の7月頃からずーっと上がりっぱなし。

https://golden-tamatama.com/wp-content/uploads/2020/09/WS20200707AZCLOPUY000786.jpg

で、以下が金価格に換算した日経平均です。
実は、昨年9月から下がりっぱなし。


https://golden-tamatama.com/wp-content/uploads/2020/09/WS20200707AZCLOPUY000788.jpg

と言う訳で、庶民が気づかないうちに通貨は紙屑化しつつある。
たった今、ステルス紙屑化が進行中なのでした。

で、富裕層はせっせと現金を物に変えつつある。

多分ですが、富裕層の換金ならぬ換物が済んでから、
バーチャルリアリティ市場を崩壊させるのでしょう。

まだちょっと猶予がある。

ワタスの見たところ今年度中。

理由は経済ではなく、地震、パンデミック、その他。
他の要因になることでしょう。

https://golden-tamatama.com/blog-entry-dow-800-down.html
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/208.html#c1

[番外地8] 「放漫財政論」や「貨幣プール論」は正しい、お金をこれ以上増やしてはいけない 中川隆
1. 中川隆[-11510] koaQ7Jey 2020年9月05日 11:05:24 : MiikQNbYFc : SExPd1N4T0pwU2M=[15]
「放漫財政論」や「貨幣プール論」は正しい、お金をこれ以上増やしてはいけない
通貨は基本的にはバブルで、お金の総量を増やすと貨幣価値が減っていっていずれ紙屑になります。

お金が増えれば貨幣価値がその分下がるので、要するに、紙幣に書かれている10,000円という数値を100,000円に書き換えたという様に貨幣単位が変わったというだけの話です。

国内で流通する貨幣の価値の総額は国の工業製品、農作物、サービス価格、輸出量等の供給能力で決まっているので、貨幣が増えても減っても貨幣価値の総額は変わりません。 貨幣の名目数値が増減するだけです。

マネーサプライが毎年増えている国は毎年貨幣価値が小さくなっているので、 GDP、政府支出、地価と株価は、実質価値が減らない様に、毎年上がり続けています。
詳細そもそも日本は 生産年齢人口が減っている、輸出額が減っている、生産効率は変わらないのだから、GDP も政府支出も日本株時価総額も増えないのが正常なのです。因みに、総資産はゴールドベース、プラチナベースとかシルバーベースで見ないといけない、ドルは紙屑化しているからドルベースで判断するのは NG。 詳細は

ドルは既に紙くずになっている
https://www.globalmacroresearch.org/jp/archives/10645

世界最大のヘッジファンド: 量的緩和で人々はリッチになったような気がする
https://www.globalmacroresearch.org/jp/archives/10616

東京金(ゴールド)の上場以来の約38年間のロングチャート
https://www.rakuten-sec.co.jp/web/commodity/lineup/gold/long_chart.html

【日本のマネタリーベース、マネーストック(左軸、兆円)、貨幣乗数(右軸、倍)】
http://mtdata.jp/data_71.html#MBMS

以下は金価格。
このように実は昨年の7月頃からずーっと上がりっぱなし。

https://golden-tamatama.com/wp-content/uploads/2020/09/WS20200707AZCLOPUY000786.jpg

で、以下が金価格に換算した日経平均です。
実は、昨年9月から下がりっぱなし。

https://golden-tamatama.com/wp-content/uploads/2020/09/WS20200707AZCLOPUY000788.jpg

と言う訳で、庶民が気づかないうちに通貨は紙屑化しつつある。
たった今、ステルス紙屑化が進行中なのでした。

ただし、貨幣価値が減ったからといって給料を上げてくれる親切な会社はないので、実質賃金は下がります。
日本人の給料が上がらないから、人件費を反映する物価も上がらない

しかし、外国に行けば日本円が紙屑になっているのがわかります。
しかし、日本国内での商品価格のコストの大半は人件費なので、貨幣価値が減っても物価はあまり上がりません。
それで日本の物価だけは上がらずデフレ経済になるのですね。  日銀金融緩和の結果、国内物価が上がっていないだけで、円は海外では紙屑になっている。

マネーフローが10倍になれば貨幣価値が1/10になり、不動産価格と株価も本来の適正価格である10倍になる。
別に金融緩和で増えた金で不動産価格や株価が上がるのではなく、不動産価格や株価が本来の適正値に戻るだけです。
貨幣価値が1/10になっても、給料はそれ程上がらないので、実質賃金も1/10になります。
商品価格の大半は人件費なので、物価はあまり上がりません。
これが金融緩和してもインフレにならない理由ですね。

そもそも欧米の物価と日本の物価を比較すれば 1ドル=20円程度が適正値なのに、1ドル=110円まで超円安になっている。タイでもラーメン1杯が1000円になっているよ。

ドル自体が紙屑になっていると言われているのに、そのドルに比べても円のこの安さ。

日本人がアメリカに留学できなくなったのはアメリカの授業料が年間何百万円になったからだよ。アメリカでアパートを借りてもワンルームが月30万円だから、日本人はアメリカ留学すらできない。

そもそも日本人が作っている日本の野菜や傘、洋服や日曜品ですら日本人には高値の花になっている。こういうのをハイパーインフレーションというんだよ 。

因みに、僕がハイパーインフレーションと言っているのは
日本国民が日本で生産された野菜やミカンが高くて食べられなくなる事
日本国民が日本で生産された雨傘や衣類や日用品が高くて買えなくなる事
日本人が使うものが年収10万円の中国の農民と同じになる事

GDPの増加率や経済成長率には意味はありません。
中国やアメリカの様にGDPがいくら増えても、いくら経済成長しても国民の生活が良くなる訳ではありません。
政府がいくら金融緩和しても財政出動しても絶対にデフレから脱却できません。

日本のマネーストック M2 が増加し続けているのに名目賃金が増えない(実質賃金が減り続けている)というのは大西つねきさんが問題にしていますね。大西さんの話は間違いが多いですが、この部分は正しいです:

いま220兆円を配らなければいけない理由:大西つねきからの緊急告知と拡散のお願い - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=dawE3Kjgmbg

現在は国際金融資本(とチャンネル桜のアホ評論家)が強力に推進している MMTポリティクスで“超異次元緩和”を実施することによって、これまで(リーマン・ショック以後の金融緩和)にも増してカネが有り余った状態が作り出されようとしています。

日銀、FRB(米連邦準備理事会)、ECB(欧州中央銀行)を中心とした各国の中央銀行が注ぎ込んだ資金は既に1000兆円を超えました。


MMT の資金供給で労働者の実質賃金が下がった為に実体経済は冷え込み、製造業はじめ各種産業には資金需要がないため、だぶついたマネーがみな金融市場に流れ込み、

2020年3月中旬から6月末だけでも、世界の富豪ランキングでトップのジェフ・ベゾス(アマゾンCEO)は資産が46%も増加し、1650億j(約18兆円)になっている。

同2位のビル・ゲイツ(マイクロソフト創業者)は12%も増えて1097億jに、同4位のウォーレン・バフェット(世界三大投資家)は6%増の715億j、同5位のラリー・エリソン(オラクル創業者)は19%増加して702億j、同7位だったフェイスブックCEOのザッカーバーグに至っては63%も資産を増やし、891億jになった。

億万長者としては全体でコロナ禍に世界が沈み込んだ14週間(3月中旬から6月末)の期間に6280億jも資産が膨れあがった。

国際金融資本(とチャンネル桜のアホ評論家)が強力に推進している MMTポリティクスが原因で、富める者は実体と乖離した有り余ったカネによって働かずして富を得て、その他の圧倒的な国民、社会を実際に下支えしている側は失業や貧困、生活が破綻しかねない現実に直面しています。
http://www.asyura2.com/20/ban8/msg/305.html#c1

[リバイバル3] グッドマン MAXIMスピーカーシステム 中川隆
3. 中川隆[-11509] koaQ7Jey 2020年9月05日 11:27:52 : MiikQNbYFc : SExPd1N4T0pwU2M=[16]

岡山県 玉野市 Vintage Audio(ヴィンテージ・オーディオ)
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/458.html

岡山県 Vintage Audio 店訪問記 | 禁断のKRELL
https://ameblo.jp/507576/entry-12616010035.html

http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/1076.html#c3

[リバイバル3] グッドマンの最上位機種 Axiom 22 中川隆
7. 中川隆[-11508] koaQ7Jey 2020年9月05日 11:28:35 : MiikQNbYFc : SExPd1N4T0pwU2M=[17]

岡山県 玉野市 Vintage Audio(ヴィンテージ・オーディオ)
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/458.html

岡山県 Vintage Audio 店訪問記 | 禁断のKRELL
https://ameblo.jp/507576/entry-12616010035.html

http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/1075.html#c7

[近代史4] イギリスのスピーカー 中川隆
8. 2020年9月05日 11:35:45 : MiikQNbYFc : SExPd1N4T0pwU2M=[18]
グッドマン 8インチ フルレンジ スピーカーユニット AXIETTE
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/1078.html

http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/111.html#c8
[近代史4] 中川隆 _ アンティーク・オーディオ関係投稿リンク 中川隆
18. 中川隆[-11507] koaQ7Jey 2020年9月05日 11:36:33 : MiikQNbYFc : SExPd1N4T0pwU2M=[19]
グッドマン 8インチ フルレンジ スピーカーユニット AXIETTE
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/1078.html

http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/109.html#c18
[リバイバル3] グッドマン MAXIMスピーカーシステム 中川隆
4. 中川隆[-11506] koaQ7Jey 2020年9月05日 11:42:14 : MiikQNbYFc : SExPd1N4T0pwU2M=[20]
Goodmans(グッドマンズ) MAXIMのネットワーク オーバーホール | VintageAudio
2017/03/11
https://vintage-audio.jp/?p=1322


Goodmans(グッドマンズ) MAXIMのネットワーク オーバーホールを行いました。

Goodmansに限らずSPのネットワークに使用されているコンデンサですが、1950〜1960年代(または、それ以前)オイルコンデンサーは高い確率で問題ないのですが、1950年代中期以降使用されているフィルムコンデンサは、殆ど不良になっています。

SPのネットワークに入っているコンデンサでハイパスフィルターを構成しているフィルムコンデンサは多くの場合、容量が増えている(1.5〜2倍)傾向にあります。正常なコンデンサでも容量が増していますとクロスオーバー特性が変わってしまいますが、経年劣化による容量増大ですから、単に容量の大きなコンデンサが入っているという訳ではなく音質的にも変化していると考えます。

ローパスフィルターに入っている電解コンデンも、測定上は正常な値を示しますが聴感的に明らかに周波数特性がおかしくなっています。このMAXIMの様にローパスフィルターにだけ電解コンデンサ(BP含む)を入れている場合には聴感上解りづらいのですが、1970年代以降のスピーカーシステムの様に電解コンデンサ(BP)をハイパスフィルターに入れている場合は、明らかにおかしいので判断しやすくなります。充放電特性の劣化によるものだと思われます。

今回のMAXIMでは、片側有極電解、片側BP電解と不揃いであったことと、アンプの場合もそうですが半世紀前の寿命が設定されている部品をそのまま使用するのは、気持ち悪いので交換しました。

4uF/DC50Vという低圧ハーメチックタイプのオイルコンデンサに交換します。スピーカーのフィルターコンデンサを交換する場合、容量は仕様規格を守ることはもちろんですが、むやみに耐圧の大きいコンデンサに交換することは好ましくありません。アンプの場合も同じですが、聴感上音の反応(立上り・立下り)が鈍くなります。

Goodmasn(グッドマンズ) MAXIM |オリジナルネットワーク

Goodmasn(グッドマンズ) MAXIM |ネットワークのOH2


写真の様に交換したネットワークを戻し、試聴します。
このMAXIMに限らず、多くの場合中高音域の耳障りな付帯音(歪っぽい音)が無くなり端正な感じになります。
https://vintage-audio.jp/?p=1322

http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/1076.html#c4

[番外地8] 専門研究者のディビット・バーガミニや鬼塚英昭の調査・資料分析に比べると林千勝さんは素人同然 中川隆
28. 2020年9月05日 11:55:19 : MiikQNbYFc : SExPd1N4T0pwU2M=[21]
元々ルーズベルトのニューディール派は全員共産主義者で反ウォール街だし、アメリカ人には共産主義者が多かったんだよ。 近衛文麿が周りに共産主義者を集めたと言っても、当時の日本のエリートの大半もアメリカ人同様に共産主義者だったんだから、普通に人材を集めれば当然そうなるんだな。

昭和天皇は日本の共産主義者をやっつける為に、米軍に日本空襲をやってもらったと言われているんだ。
革命を起こされると困るから、米軍に日本の共産主義者を徹底的に叩いてもらったんだ。
マルクスに被れた文系大学生も全員神風特攻させて処分させたんだな。
http://www.asyura2.com/20/ban8/msg/313.html#c28

[番外地8] 天皇はソウル出身の漢民族 中川隆
4. 2020年9月05日 14:28:22 : MiikQNbYFc : SExPd1N4T0pwU2M=[22]

神武天皇東征でナガスネヒコの居た唐古が滅ぼされたんだよ。
物部氏のニギハヤシは河内が本拠地で、神武天皇はニギハヤシには勝てそうもなかったから熊野から大回りして吉野から奈良に入ったんだ。
年代は3世紀というのが定説


日本にはユダヤ人は入っていないよ
天皇はソウル出身の漢民族だよ、だから中国鏡を沢山持って居たんだ
http://www.asyura2.com/20/ban8/msg/232.html#c4

[番外地8] 天皇はソウル出身の漢民族 中川隆
5. 中川隆[-11505] koaQ7Jey 2020年9月05日 14:30:31 : MiikQNbYFc : SExPd1N4T0pwU2M=[23]
日本にはユダヤ人は入っていないよ
天皇はソウル出身の漢民族だよ、だから中国鏡を沢山持って居たんだ
皇族は平安時代までは百済語しか話せなかったみたいだね。
http://www.asyura2.com/20/ban8/msg/232.html#c5
[番外地8] 天皇はソウル出身の漢民族 中川隆
6. 中川隆[-11504] koaQ7Jey 2020年9月05日 14:41:20 : MiikQNbYFc : SExPd1N4T0pwU2M=[24]
日本にはユダヤ人は入っていないよ
天皇はソウル出身の漢民族だよ、だから中国鏡を沢山持って居たんだ
皇族は平安時代までは百済語しか話せなかったみたいだね。
万葉仮名とか平仮名・片仮名は漢文を日本語に翻訳する為に考案されたんだ。
皇族が使っていた百済語は8母音、日本語は5母音だから翻訳が大変だったみたいだね。
http://www.asyura2.com/20/ban8/msg/232.html#c6
[近代史4] 独裁者列伝 _ 昭和天皇 中川隆
6. 中川隆[-11503] koaQ7Jey 2020年9月05日 15:27:58 : MiikQNbYFc : SExPd1N4T0pwU2M=[25]
ロックフェラーの資金が太平洋問題調査会を通じて、真珠湾攻撃工作のために、ゾルゲ経由、日本の皇族に渡された
http://www.asyura2.com/0510/bd42/msg/1053.html
投稿者 ウソ捏造工場 日時 2006 年 2 月 19 日 00:09:18: OszuLYfIhReeI
 

一九四一年、ロックフェラーの多額の資金が太平洋問題調査会(TPR)を通じて、日本の真珠湾攻撃工作のために、ゾルゲ経由、日本の皇族に渡された、とのジョン・コールマンの説。

平成十八年(二〇〇六年)二月十八日(土)
(第一千五百八十九回)

○「一九四一年、ロックフェラーの別のフロント組織、太平洋問題研究所(IPR)が
 東京の関連機関に多額の資金を拠出した。その資金はロシアスパイの大立者=
 リヒャルド・ゾルゲを経て皇族に送られ、日本の真珠湾攻撃工作資金となった。
 再度言うが、タビィストックがIPRのすべての出版物を起草している。」
 (ジョン・コールマン著『タビィストック洗脳研究所』、第一章。成甲書房から
 平成十八年三月下旬刊予定)

○この情報は、筆者の知る限り、今まで日本で公表されたことはない。

○このコールマン情報によれば、一九四一年太平洋問題研究所(IPR。日本では、
 これは太平洋問題調査会、と邦訳されて居る)を通じて、多数のロックフェラー
 資金がゾルゲに渡された。

○そしてゾルゲは、その資金を、日本の真珠湾攻撃工作資金として、皇族に渡した、
 と言う。

○この「皇族」とは誰か。
 その実名は分らない。

○当時「皇族」の数は、かなり多い。

○しかし、真珠湾攻撃工作と言うことは、
 これは、日本が対米英開戦を支持するような立場の皇族への工作資金、を意味
 するであろう。

○或る時、海軍軍令部長の職にあった伏見宮は、対米英強硬派、と言われて居た。

○皇族も、反米英派と、親米英派に分かれて居たであろう。

○ジョン・コールマンによれば、IPR(太平洋問題調査会)のすべての文書は、
 タビィストックが起草した、と言う。

○日本ではIPRの言動についてのまともな研究は、今に至るまで、ゼロに近い。

○IPR(太平洋問題調査会)は、一九二五年に正式には発足して居るが、もち
 ろん実質的にはその前に活動は開始されて居るであろう。

○IPRについては、一九四九年十月、中共が中国政権乗っ取りに成功した前後
 から、

○米国上下院で、反IPRの立場からの、かなり激しい批判と調査が行われた。

○それは、マッカーシー米上院議員の三冊の著作のうちに、表現された。

○しかし、日本では、占領中(一九四九年八月〜一九五二年四月)も、そのあとも、

○IPRに対する批判的研究はゼロである。

○IPRの行動は、
 第二次世界大戦前後、
 アジアの大部分を共産主義化すること、である。

○しかし、このIPRを、ロックフェラーが資金的に支え、そしてその指導は、
 タビィストック研究所が行った、このタビィストック研究所は、三百人委員会
 の秘密の参謀本部である、と言う。

○第一次世界大戦後、タビィストック研究所=三百人委員会は、米国=中国
 共同で日本を挟み撃ちして壊滅させる方向に状況を演出した。

○そしてこれから「彼ら」は、もう一度、

○米中による日本民族抹殺のための大作戦を実施しようとするのである。

 (了)

●[注]

○近刊予告 平成十八年三月下旬刊
 ジョン・コールマン著
 「タビィストック洗脳研究所」(成甲書房)

http://sv1.pavc.ne.jp/~ryu/cgi-bin/jiji.cgi
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/799.html#c6

[近代史4] 独裁者列伝 _ 昭和天皇 中川隆
7. 中川隆[-11502] koaQ7Jey 2020年9月05日 15:30:43 : MiikQNbYFc : SExPd1N4T0pwU2M=[26]
日本最大の売国スパイ=暗号名「ヨハンセン」、世界の真実の姿を求めて(海軍どころか外務省が既に腐敗していたようです)
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/456.html
 

http://oujyujyu.blog114.fc2.com/blog-entry-679.html

日本最大の売国スパイ=暗号名「ヨハンセン」
太平洋戦争の前夜に日本の対米英戦争を決定した1941.9.6の「帝国国策遂行要領」に関する所謂「御前会議」の内容を細大漏らさず、敵米国の駐日大使に通報していた、日本最大の売国スパイ=暗号名「ヨハンセン」とは吉田茂。
元自民党総裁選=麻生太郎の祖父。

また吉田茂元首相の再軍備問題のブレーンだった辰巳栄一元陸軍中将(1895〜1988年)も、米中央情報局(CIA)に「POLESTAR―5」のコードネーム(暗号名)で呼ばれていた。

「吉田は1878年(明治11年)、土佐自由党草分けの一人、竹内綱の五男として東京に生まれた。幼児に横浜の富裕な貿易商、吉田健三の養子となり、東京帝国大学政治科を卒業後、外務省に入省した。大久保利通の次男、牧野伸顕伯爵の長女、雪子と結婚。天津総領事、奉天総領事、イタリア大使、イギリス大使を歴任した。

吉田茂は取り巻く人間を通して、ロスチャイルドの影響を受けていた。

吉田茂の養父である吉田 健三。
吉田 健三(吉田茂の養父)は帰国後、横浜に移って英国商社・ジャーディン・マセソン商会横浜支店長に就任。日本政府を相手に軍艦や武器、生糸の売買でめざましい業績をあげる。
ジャーディン・マセソン商会はロスチャイルド系であり、設立当初の主な業務は、アヘンの密輸と茶のイギリスへの輸出。
富豪であった健三の急死後、わずか11歳の吉田茂に50万円(現在の六十億円に相当)もの莫大な遺産が残される。

そして吉田茂の妻となった牧野雪子。
牧野雪子はアリスを通じてモルガン=ロスチャイルドの洗脳教育を受けた。
在日大使ジョゼフの妻アリス・ペリー・グルーは、名前の示す通り「黒船ペリー」の末裔として日本・東京で育ち・教育を受けていた。アリスの「幼馴染」であり、華族女学院=学習院女子部時代から、常に、アリスと共に3人で行動し、アリスから世界経済・政治について「レクチャー」を受け、侵略者ペリーと、ロスチャイルド=モルガンの「情報操作教育=洗脳教育」を受けていたのが、クリスチャン・鍋島信子、と九条節子であった。九条節子は昭和天皇・裕仁の母であり、アリスの親友・鍋島信子の娘は秩父宮妃である。

このアリスの母の旧姓はキャボット。黒人奴隷売買と、麻薬売買で富を築いたキャボット一族である。

吉田茂は妻となった牧野雪子により、天皇ともつながりを持つようになる。
吉田茂ー牧野雪子ーキャボット=アリスー九条節子(昭和天皇・裕仁の母)=天皇

吉田もモルガン=ロスチャイルドに寵愛され、出世街道を上昇して行く。雪子は麻生太郎首相の祖母である。

麻生の正体                                                             
 太平洋戦争の前夜に日本の対米英戦争を決定した1941.9.6の「帝国国策遂行要領」に関する所謂「御前会議」の内容を細大漏らさず、敵米国の駐日大使に通報していた、日本最大の売国スパイ=暗号名「ヨハンセン」こと吉田茂は、今の自民党総裁選の本命=麻生太郎の祖父だった(鬼塚英昭「天皇のロザリオ」上p403、成甲書房)。
 その功績で、トルーマン米大統領と占領軍最高司令官Dマッカーサーの決定で、吉田茂が戦後最長の長期政権の首相になった。
 麻生一族は、明治期に天皇が50万人の日本女性を拉致・連行して欧州へ女郎として売り払った時の石炭会社と石炭船運行会社のオウナーだった。それで儲けた麻生の会社は資本蓄積して発展した(「オルタナティブ通信)。


http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%89%E7%94%B0%E5%81%A5%E4%B8%89

吉田 健三(よしだ けんぞう、嘉永2年(1849年) - 明治22年(1889年))は日本の武士(福井藩士)、実業家。、昭和期の内閣総理大臣・吉田茂は養子、英文学者・吉田健一は孫に当たる。

1849年、越前福井藩士・渡辺謙七の長男として誕生する。のち、絶家していた渡辺家の一門・吉田家を再興した。1864年に脱藩して大坂で医学を、次いで長崎で英学を学んだ。1866年にはイギリス軍艦でイギリスへ密航し、2年間、同国に滞在して西洋の新知識を習得した。
1868年に帰国。一時は新潟に居住するが、のち横浜に移って英国商社・ジャーディン・マセソン商会横浜支店長に就任。日本政府を相手に軍艦や武器、生糸の売買でめざましい業績をあげる。さらに3年後に退社して独立し、慰労金(1万円)を元手に様々な事業を展開する。英学塾を皮切りに、翌1872年には東京日日新聞の経営に参画。さらには醤油の醸造業や電灯会社の設立、ビールやトタン、フランネルの輸入など、実業家としての頭角を顕して横浜有数の富豪に成長した。
自由民権運動の高まりを見せていた当時、健三は自由民権・国会開設派の牙城であった東京日日新聞の経営参画を通じ、板垣退助や後藤象二郎、竹内綱ら、自由党の面々と誼を通じて同党を経済的に支援した。特に竹内とは昵懇で、1878年の保安条例公布によって東京を追放された際、横浜の吉田邸に身を寄せている。1881年8月には、竹内の5男茂を養嗣子とする。
生来心身頑強だったが、1888年の父謙七の死去後に病を得、横浜にて急死した。享年40。
家族 [編集]

妻は、儒学者佐藤一斎の孫・士子(ことこ)である。茂が養嗣子となった理由について、実子に恵まれなかった健三が竹内に対し、当時懐妊していた竹内の妾が生んだ子が男ならば自分の養嗣子として貰い受ける約束をしていたから、といわれる。
備考 [編集]

富豪であった健三の死後、わずか11歳の茂に50万円(現在の六十億円に相当)もの莫大な遺産が残される。茂はこれを「吉田財閥」と自嘲気味に称してはいるが、やがて遺産の大半を蕩尽してしまう。莫大な遺産を一体何に蕩尽したのか、今もって不明である。
横浜太田町に構えた本邸の表門は、小男であった健三の背丈にあわせて造られていた。政府高官や実業家などの訪問客が出入りしたが、低い門構えであるため、門内で待ち構えている健三に対して自ずとお辞儀をする羽目になったという。
茂の幼年期の回想によれば、健三は日の出前に起床するや、家族や女中らをたたき起こして毎朝大掃除をするなど、エネルギッシュな一面をもっていたという。
狩猟が趣味で、自ら狩猟協会を立ち上げて副会長に就任している。因みに、会長には公爵近衛篤麿を擁立している。
大磯における初期の別荘族として知られる。国府本郷村(現在の大磯町内)の海浜沿いの広大な地所を徐々に買い増し、1万坪もの別荘を営んでいる。戦後「大磯」は、首相となった茂の代名詞となった。
信心深かった健三は、後年菩提寺として光明寺(神奈川県横浜市南区所在)を建立している。同寺の山号(吉上山)は健三と盟友であった上郎幸八の一字ずつと取って命名されている。


http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%83%BC%E3%83%87%E3%82%A3%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%9E%E3%82%BB%E3%82%BD%E3%83%B3


ジャーディン・マセソン

ジャーディン・マセソン(Jardine Matheson Holdings Limited, 怡和控股有限公司)は、香港にヘッドオフィスを置くイギリス系企業グループの持株会社。ロスチャイルド系であり、米誌フォーチュン誌の世界企業番付上位500社の企業ランキング「フォーチュン・グローバル500」では世界437位。

前身は東インド会社で、元は貿易商社。1832年、イギリス出身のイギリス東インド会社元船医で貿易商人のウィリアム・ジャーディンとジェームス・マセソンにより、中国の広州(沙面島)に設立された。中国語名は「怡和洋行」。
中国での拠点は1844年に上海の共同租界、外灘(バンド)の中山東一路27号に移し怡和洋行大楼と呼ばれた。この場所の当時の地番は1号であり、ジャーディン・マセソンが最初に外灘(バンド)にて土地を獲得した。(現在は外貿大楼と呼ばれ上海市対外貿易公司や上海市外貿局等が入るが、間もなくサックス・フィフス・アベニューの中国1号店となる予定。)
1841年に大英帝国の植民地の香港に本社を移転(現在登記上の本社はバミューダ諸島・ハミルトン))。170年たった今でも、アジアを基盤に世界最大級の国際コングロマリット(国際複合企業)として影響力を持っている。
設立当初の主な業務は、アヘンの密輸と茶のイギリスへの輸出。同じロスチャイルド系の香港上海銀行(HSBC)は、ジャーディン・マセソンなどが香港で稼いだ資金をイギリス本国に送金するために設立された銀行である。
清とイギリスとの間で1840年から2年間にわたって行われたアヘン戦争に深く関わっている。アヘンの輸入を規制しようとする清朝政府とイギリスの争いが起こった際に、当時のアヘン商人の一つであるジャーディン・マセソン商会のロビー活動により、イギリス本国の国会は9 票という僅差で軍の派遣を決定した。陳舜臣の『阿片戦争』にも、ウィリアム・ジャーディンとジェームス・マセソンが登場人物として登場する。
香港が中国に返還されるまでは、イギリス植民地資本であるジャーディン・マセソンの役員や幹部らがイギリス植民地下の香港行政局(現在の行政会議 )の非官守(官職)議員として参加し、香港政庁の政策に影響力を行使していた。
日本での歴史 [編集]

日本では、幕末・明治期の重要人物であるトーマス・ブレーク・グラバーが長崎代理店として「グラバー商会」を設立。現在はグラバー園として公開されている。
幕末・明治の日本において、五代友厚(薩摩)、伊藤博文(長州)、坂本竜馬(海援隊)、岩崎弥太郎(三菱財閥)等を支援し、フランスに支援された徳川幕府打倒にも密接に絡んだたことで倒幕運動(明治維新)の黒幕としても知られる。
横浜(旧山下町居留地1番館、現山下町一番地)にも、1859年(安政6年)に上海支店にいたイギリス人ウィリアム・ケズィック(ウィリアム・ジャーディンの姉の子)が支店である「ジャーディン・マセソン商会」を設立。日本に進出した外資第1号としても知られる。 麻生太郎前首相の祖父である吉田茂の養父・吉田健三が一時期、同社横浜支店長を勤めていた。

http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=212394


『日本の政界をコントロールする、スコットランド貴族達』(オルタナティブ通信)リンクより転載します。
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19世紀、江戸幕末の日本で倒幕の武力闘争を開始した薩摩・長州に鉄砲・弾薬の購入資金を提供したモルガン財閥のJ・ピアポント・モルガンは、明治維新政府の「生みの親」として、その代理人トーマス・ラモントを使い、日本の三菱財閥、三井財閥の「育成に力を注いだ」。モルガン財閥は、ロスチャイルド一族の代理人であった。

ロスチャイルドの代理人として、米国で、ロックフェラー一族に資金を注ぎ込む「窓口」となって来たのが、このモルガンであった。

1930年代、日本が中国侵略を行う際、その資金提供を行っていたロスチャイルド=ロックフェラー・ブッシュ一族。その資金提供の「交渉窓口」であった在日アメリカ大使ジョセフ・グルーも、また、モルガン=ロスチャイルド財閥の一族であった。ジョセフの従兄妹ジェイン・ノートン・グルーは初代J・P・モルガンの後継者ジャック・モルガンの妻であった。

この在日大使ジョゼフの妻アリス・ペリー・グルーは、名前の示す通り「黒船ペリー」の末裔として日本・東京で育ち・教育を受けていた。アリスの「幼馴染」であり、華族女学院=学習院女子部時代から、常に、アリスと共に3人で行動し、アリスから世界経済・政治について「レクチャー」を受け、侵略者ペリーと、ロスチャイルド=モルガンの「情報操作教育=洗脳教育」を受けていたのが、クリスチャン・鍋島信子、と九条節子であった。九条節子は昭和天皇・裕仁の母であり、アリスの親友・鍋島信子の娘は秩父宮妃である。

このアリスの母の旧姓はキャボット。黒人奴隷売買と、麻薬売買で富を築いたキャボット一族である。

九条節子等を通じ、昭和天皇以降の、「天皇に対する思想教育・思想洗脳」を「担当」して来たのが、奴隷貿易・麻薬貿易業者キャボットと、世界帝国の指揮官ロスチャイルドである。

天皇は、ロスチャイルドによる日本人奴隷支配のための「先兵」に過ぎない。天皇は、ロスチャイルドの「出先機関」である。

アリスの夫ジョセフ・グルーも、ハーバート大学時代、学生新聞「クリムゾン」の編集に携わっていたが、同じサークル仲間の友人に、キャボットが創立資金を出した麻薬専売会社ラッセル社の中国支配人であったルーズベルト一族のフランクリン・ルーズベルト(後の大統領)が居た。

一方、モルガン=ロスチャイルド資金で、倒幕に成功した明治政府の中核=薩摩藩士・大久保利通の息子は牧野家に養子に入り牧野伸顕を名乗っていたが、その娘・牧野雪子(大久保利通の孫)は年離れの親友アリスに「事実上、師事」し、国際情勢・政治経済の「教育」を受ける。モルガン=ロスチャイルドの洗脳教育である。牧野雪子は吉田茂の妻となり、吉田もモルガン=ロスチャイルドに寵愛され、出世街道を上昇して行く。雪子は麻生太郎首相の祖母である。

このアリスという女性の出自、日本での教育・土着の仕方、そして「政治的動きの奇妙さ」は、明らかに幼児期から英才教育を受けた諜報・スパイの動きである。

麻生首相の麻生産業グループの親会社が、ロスチャイルドの船舶会社ラファルジュであると言う経済的実態関係だけでなく、こうして、キャボット=アリス=天皇・吉田茂夫妻=麻生首相へと、有色人種(黒人、アジア・日本人)奴隷支配の「帝王学の系譜」は「継承されて来た」。

なおキャボット一族の「直営」研究所が米国ブルッキングス研究所であり、かつてはナチス・ドイツの侵略戦争の「資金繰り」を担当した財務大臣ヒャルマール・シャハトを輩出している。

また、米国の通貨政策はブルッキングス研究所が作り、FRBが実行すると言われて来たが、このFRB議長を長年、務めてきたのがグリーンスパンである。グリーンスパン自身が経営し、その会長を務めるコンサルタント会社タウンゼンド・グリーンスパン社は、ブルッキングス研究所の下部機関として調査・研究に「従事」している。

グリーンスパンの「ボス」が、キャボット一族と「弁護士を共有」している事は先述した。

また長年、日本の内需拡大策(日本の富を米国買収に持って来るな、という通貨政策)として「日本の高速道路計画」を策定して来たのは、かつての日本道路公団では全く無く、このブルッキングス研究所=キャボット一族である。日本の財政赤字を拡大させる「無駄な公共事業の元凶=道路族」の、バックボーンは、ここにある。

http://www.47news.jp/CN/200910/CN2009100301000210.html

吉田茂側近がCIAに情報を提供 早大教授が米公文書発見

 吉田茂元首相の再軍備問題のブレーンだった辰巳栄一元陸軍中将(1895〜1988年)が、米中央情報局(CIA)に「POLESTAR―5」のコードネーム(暗号名)で呼ばれ、自衛隊や内閣調査室の創設にかかわる内部情報を提供していたことを示す資料を3日までに、有馬哲夫早大教授(メディア研究)が米国立公文書館で発見した。日本の再軍備をめぐり、吉田元首相の側近までも巻き込んだ米国側の対日情報工作の一端を示しており、戦後の裏面史に光を当てる貴重な発見だ。

 有馬教授は同館で発見したCIAのコードネーム表、辰巳氏ら旧軍人に関する文書などを総合的に分析。「より強力な軍隊と情報機関の創設を願っていた旧軍人の辰巳氏は、外交交渉で日本に再軍備を迫っていた米国にCIAを通じて情報を流すことで、米国が吉田首相に軽武装路線からの転換を迫ることを期待していた」と指摘している。

 CIAの辰巳氏に関するファイル(52〜57年)では、辰巳氏は実名のほか「首相に近い情報提供者」「首相の助言者」「POLESTAR―5」とさまざまな名称で呼ばれ、「保安隊の人選」「自衛隊」「内閣調査室」などの「情報をCIAに与えた」と記されていた。

 辰巳氏は占領期、旧軍人による反共工作組織「河辺機関」の一員で、連合国軍総司令部(GHQ)の了解の下、新たな軍隊と情報機関の立案に参画していた。吉田は首相就任後、「河辺機関」のほとんどの旧軍人を遠ざける一方、辰巳氏を信頼し、50年の警察予備隊の幹部人選などを任せた。
 

コメント

01. 2011年1月04日 16:10:58: 4yAGFWyMRs
上の天皇が50万人拉致して売り払った悪意のある嘘です。あちこちに同じことをかいてるが反日の在日でしょう。洗脳してる。イルミナテイは天皇制は世界統一時に廃止するそうですよ。
戦国期にキリスト教の宣教師が硝石代金として日本人の女を50万人欧州に性奴隷として売り飛ばしたという話と同じにしてる。悪意がある。秀吉は宣教師に50万人返せとめいれいしてます。一切秘密にされてる歴史でしょうね。今も同じです。白人が日本を侵略してる。戦国期と同じですよ。偉い指導者がでれば啖呵を切って跳ね返すでしょう。海外に留学したら薬を飲まされて電磁波をかけられて洗脳されてロボットにされてしまうよ。


02. 2011年1月04日 21:34:28: sUpHQ8Q75g
>>01
> 上の天皇が50万人拉致して売り払った悪意のある嘘です。あちこちに同じことをかいてるが反日の在日でしょう。
その情報は「オルタナティブ通信」というブログ記事から拡散した結果のようだが
即「反日」や「在日」というレッテル貼りで反応するのはいかがなものだろうか

投稿者の他の投稿内容から
天皇を含む日本の中心的人物が油堕菌と通じていたと見ているらしいことが分かるが
万が一それが公知の事実となったら日本近代史はひっくり返る

問題の根源は日本史・世界史で油堕菌の存在自体が隠蔽されていることであろう
時々表に出てきても「陰謀論」または「都市伝説」というレッテルが貼られて
まるでフィクション小説のように偽装され隠蔽されてしまう
しかし偽装した箇所は事実と照らし合わせると多くの矛盾が生じる
投稿者はその矛盾を解きほぐそうと努力しているように感じるし
それを実現するためには一切のタブーを排除して掛からなければならない


> イルミナテイは天皇制は世界統一時に廃止するそうですよ。

もし天皇家が油堕菌と通じていたなら
統一政府側の主要メンバーとして一定の地位を得られるのではないか
少なくともかなりの貢献をしたはずであるから
一般大衆と同じ人間家畜側に分別されることはないであろう

子鼠やケケ中や菅や奥田や御手洗やナベツネなどの売国奴連中も
一般大衆と同じ人間家畜側に分別されることを避けるために
日本国を売ることに邁進しているのであろう
自分達は特別に選ばれた人間だと解釈してほくそ笑んでいるに違いない
卑しい選民思想でしかないと思うのだが連中は敗者の僻みとしか思わないだろう

連中の売国行為の犠牲となって死んでいく多くの命など眼中にない
まさにMichael Jacksonの「I just wanna say they don't really care of us」だ


03. 2011年1月05日 14:40:23: vo6bQYgRWo

「昼休み板」なるバッティング・ケージで、黙々と素振りを繰り返してきた「小沢内閣待望論」ブロガ―がフィールド復帰後、久々に見せた渾身の一撃と見た。文句なしフェンス・オーバーの当たりだ。
鬼塚英昭、オルタナティブ通信あたりからの転載だが、天皇のスパイ/ベラスコ・シリーズを書いた高橋五郎、それに副島隆彦も立場上何かに慮っているのだろうが、似たような視点を持っている筈。

極東軍事裁判において、明治以降、歴代天皇が英ガーター騎士団のメンバーであること、またその係累を知らない連合軍検察団が、天皇の戦争責任を糾弾すべきとの動きを見せた。これに慌てた英王室とさる欧州王室からの助命嘆願があって、以降沙汰止みとなった経緯がある由。


04. 2011年1月09日 06:29:34: B3CDvuOEiE

日本の偉い人たちは不利になると真っ先に逃げる。戦況不利になった満州から真っ先に逃げたのは陸軍。太平洋の諸島でも部下に万歳突撃を命じて自分だけは小型船で逃げる。天皇は東京が危ないというので長野の地下大本営に逃げようとした。つまり日本の偉い人たち自分のことしか考えていない。しかしそういう偉い人たちは税金で、つまり一般人の上がりで暮らしているわけだ。一般人の働きで養われている人たちが一般人を見下す、不利のときの捨て駒にする。ユダヤ人たちはゴイムと呼んでいるが日本のそういう貴族たちも似たようなものだ。


05. 2011年1月12日 21:40:43: 4yAGFWyMRs

戦後からネガチブな日本のことを嘘と妄想ばかし宣伝洗脳されてきたからとうとう彼らの予定とうり日本はなくなるね。人の世はこんなもんでしょうね。諦めるしかない。彼らには慈悲はないですから利用だけして反日達も切り捨てでしょう。
世界は完全家畜ですか。三島は日本が滅亡する姿を見たくなかった。彼は絶望して自殺しました。

一応、非常に非力ながらネットで調べた予定は4月に大手米銀を崩壊さす予定らしいですね。予定が遅れても必ずいつか実現させてるから。

そのあと日本の銀行も同時に破綻ですから予定どうり預金封鎖と政府債務踏み倒しと新円発行ですか。戦後の御破算ですね。

今回は世界統一と人口削減がセットにされてますから全銀行の廃止による経済崩壊と合わせて3次大戦と食料危機が開始される予定という塩梅ですか。まあ、はずれても近いとこでしょう。シナとの戦争は準備されてるでしょ。朝鮮せんそうも決定されてるでしょう。ここらが2012年までにというかんじですね。正念場ですか。

06. 2011年2月05日 10:12:50: Na5mjlhCcA

日本人が知らないだけで、幕末からこっち、日本の権力中枢は、ほとんどが、
ユダヤ・イルミナティ・フリーメーソンの手先だよ!


07. 2011年2月12日 02:02:24: xO1eNzjKtM

明治維新で権力に返り咲いた者らは、
外務省や内務省どころじゃなく、
宮内省や皇族までもが
メーソンなんで。
天皇がメーソンの正装で写真に撮られていたとかの情報も
阿修羅にあるではありませんか。
いまさら何を。
嬉々として、大和民族を
サタンの生贄に捧げたんでしょうよ。

http://www.asyura2.com/0306/dispute11/msg/789.html


6.昭和天皇がメーソンに加入していたのではないかという話が著作家・財川外史によって書かれている(学習研究社、月刊ムー7月号)。
戦後、古神道の金井南龍の主催していた神理研究会の座談会で、日本屈指のスペイン語の権威、笠井鎮夫教授が驚天動地の話を漏らしたという。昭和天皇が皇太子だったころ、メーソンの社員の服装で写っている写真が存在する、というのだ、と。この話を、彼は、東京の法曹界では知らぬものはない高名な下村栄二弁護士から直接聞いたという。当時下村は三菱グループの顧問弁護士。昭和20年春、下村は東京大空襲で焼け出され、杉並区の松庵に避難。その隣家が詩人の小田秀人(心霊研究家でもある)で、すぐに仲良くなったという。この小田と上の笠井が友人関係。笠井は下村とも交友を結んだ。で、小田の家の離れでこの話が出たという。下村は別の弁護士益田正雄からメーソンの機関紙に皇太子のメーソン正装の写真が掲載されており、それを実際見せてもらったと断言したという。
笠井は上の座談会で、「誰かが何らかの目的でこんな写真を偽造したのでなければ当然若き日の皇太子が多分外国滞在中にどこかのメーソンのロッジをご訪問されたことになる。」と発言。もし写真が本物なら、大正10年の欧州巡行のときに撮られたものではないかと推測しているという。その根拠として、そのときの皇太子の供奉長を務めたいた珍田捨巳伯爵が「知る人ぞ知るメーソン社員」だからだというのである。(ちなみにサムさんの報告では三菱はメーソンの牙城だそうだ)。


08. 2011年2月20日 03:09:19: fhqMEypoT6

過去の真実が確かめるのが困難だが、この20年間の現実なら
国民はしっかりと焼付けている。
反日?自分にとって都合が悪い奴がか?
何がどうであれ、これ以上自民党政治の継承はないわ。
民主党も自民党と同じ連中である事は分かった。裏情報ではなく現実の政策でだよ。
奴隷というなら確かに現物から現金に代わっただけで現実に奴隷状態の人間はこの国にもおるろがい。
いつまでも黙っておれるかい。陰謀もへったくれもねえんだよ。


09. 2011年2月22日 01:47:21: xO1eNzjKtM

陸海軍の強大な人事権を持っていたのが、伏見宮であることを抜きにして、投稿本文は意味を成さないと思われます。先のNHK番組「海軍 400時間の証言」でも放映されました。余りに遅すぎる感はありますが。
統制派(戦争推進派)が権力を握ったのも、皇族の後ろ盾があったからです。黒幕こそが犯人なのです。

下記情報とともに置いておきます。

ロックフェラーの資金が太平洋問題調査会を通じて、真珠湾攻撃工作のために、ゾルゲ経由、日本の皇族に渡された
http://www.asyura2.com/0510/bd42/msg/1053.html
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/799.html#c7

[近代史4] イギリスのスピーカー 中川隆
9. 2020年9月05日 17:03:50 : MiikQNbYFc : SExPd1N4T0pwU2M=[27]
グッドマン・スピーカーの世界
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/1079.html
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/111.html#c9
[近代史4] 中川隆 _ アンティーク・オーディオ関係投稿リンク 中川隆
19. 中川隆[-11501] koaQ7Jey 2020年9月05日 17:04:20 : MiikQNbYFc : SExPd1N4T0pwU2M=[28]
グッドマン・スピーカーの世界
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/1079.html
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/109.html#c19
[リバイバル3] グッドマン・スピーカーの世界 中川隆
1. 中川隆[-11500] koaQ7Jey 2020年9月05日 17:18:10 : MiikQNbYFc : SExPd1N4T0pwU2M=[29]

Goodmans+LEAK TL-12plus | VintageAudio
2012/02/07 2017/03/10
https://vintage-audio.jp/?p=926

先週の土曜日に九州は福岡まで、Goodmansの3WayシステムとLeak Tl-12plus+ヴァリスロープVを納品に行ってきました。

Goodmans 3Wayシステム
https://vintage-audio.jp/wp-content/uploads/2012/02/DSCF3807.jpg

私は基本的にどんなに遠くても、それ相応のシステムの納品の時には持って行く事にしています。システムが嫁いだ先がどうなっているのか?そんな興味もあります。やはり、今後も大切に使用して欲しいという気持ちが一番かも知れません。

今回のGoodmansは、英国ADキャビネット社が製造したGoodmansの指定箱に、12inの3Way仕様です。スピーカーと二人三脚を組むのは、LEAK TL-12plusの初期型です。LEAKの専門書に解説がありますので、敢えて隠しませんが、LEAK TL-12plusはシャンパンゴールドのタイプでも初期型と後期型があり、出力トランスの設定を変更しています。発売が1957年で1964年まで製造されています。年表から考えれば初期型はモノラル時代の最後に発売されていますので、ステレオ時代に入り音作りを変更したのだろうと推測できます。初期型の方が中音域に厚みがあります。後期型はフラットでワイドレンジな感じを受けます。モノラルで使用するのであれば、初期型の方がマッチすると思います。

このシステムを活かすも殺すも今後はオーナー様の腕次第という事ではありますが、オーディオが最も華やかだった頃の英国のHiFiです。しかも、英国の音を代表するGoodmansのシステムですから、使いこなせば必ず答えてくれるポテンシャルは持っています。特にクラシック系の音楽には、これ以上ない位の組み合わせですから、是非是非大切に使ってやって頂きたいものです。

システムの詳細は、後日アップ致します。
https://vintage-audio.jp/?p=926


▲△▽▼


Goodmans社(グッドマン) 3Way Hi-Fi スピーカーシステム | VintageAudio
2010/12/27 2015/06/01
https://vintage-audio.jp/?p=728


Goodmans社(グッドマン) 3Way スピーカーシステム
https://vintage-audio.jp/wp-content/uploads/2010/12/1.jpg
https://vintage-audio.jp/wp-content/uploads/2010/12/8.jpg


■構成
・AUDIOM 60 ’12in BASS’
・MIDAX 650
・TREBAX
・X0-950/5000 ネットワーク
・A.R.U 172
・Variable Attenuator(カーボン抵抗タイプ)
・A.DAVIES & CO. HI-FI CABINETS

A.DAVIES社のエンクロージャーに納められた高級HIFIスピーカーとなります。

お客様からの予約があり、今回仕上げたモノをご紹介します。

Goodmans社はご存知の様に、基本的にSPユニットのサプライヤーであり、各社のからの仕様に合わせたユニットを製造販売しており、当時の英国系のオーディオメーカーは挙ってGoodmans社のユニットを使用しています。しかし、これだけのユニットを開発しながら、システムとしては殆ど製造していないので、優れたユニットを作りながら現在国内のオーディオマニアには本当の実力は知られていないのです。

実際、当時の英国製でGoodmans社のユニットを使用しているシステムや当時は箱屋といって、エンクロージャーを単体で製造していたメーカーが比較的多くありましたが、それらが製造したエンクロージャーも殆どありません。

今回は、そんなGoodmans社のHiFiユニットと当時の箱屋A.DAVIES社が製造したエンクロージャーを組み合わせてシステム化しました。

そのサウンドですが・・・

Goodmansの高級3Wayらしく、ワイドレンジでクリアーなサウンドです。ただ、Goodmansの凄さはクリアーでいて品があるのです。クリアーなサウンドを発するスピーカーは他にもありますが、この独特な品の良さはGoodmansにしか出ないサウンドなんですね。そして、特に英国は高級HiFiになればなるほど、クリアーで癖の少ないサウンドになります。HiFiを謳っているのですから、当然といえば当然なのですが!ただ、国内のオーディオマニアにはその理解力がない為に誤解されがちなのです。上手く理解して使用頂けるとその良さがわかるでしょう。LEAKの管球アンプを組み合わせると伺っておりましたので、LEAKのコンディション次第ではありますが、組み合わせ的には問題ないと思います。

また、エンクロージャーですが初期のパーチクルボードを使用しています。初期のパーチは混ぜ合わせている接着剤の量が少ないので、適度な内部損失があり後期のパーチ程、カチカチのサウンドにはなりません。ただ、結構脆いので、扱いやネジ締めには注意が必要です。このエンクロージャーは、ユニットがインラインで、上からTREBAX-AUDIOM-MIDAX-ARUという配置されています。音に広がり感を持たせる為に有効な手法なのです。

クラッシック、Jazz、J-popと何でもこなす能力があるのですが、やはりクラッシックは最高です。何とも言い難い上質な音楽は素晴らしいの一言。それも、特に編成の大きい作品はいいですね。分解能が高いのでディテールが見事に表現されます。封を切ったばかりの「独 ARH 14 328-0 リヒター  バッハ・ヨハネ受難曲」を聴きながらこの記事を書いているのですが、本当に素晴らしい!

このシステムは既に売約済みですが、同じモノはありませんが他にも在庫はありますので興味があれば、お問い合わせ下さい。

https://vintage-audio.jp/?p=728


▲△▽▼

岡山県 玉野市 Vintage Audio(ヴィンテージ・オーディオ)
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/458.html

岡山県 Vintage Audio 店訪問記 | 禁断のKRELL
https://ameblo.jp/507576/entry-12616010035.html
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/1079.html#c1

[近代史3] 東海アマ 「いったい、自分の人生とは何だったのか?」 中川隆
1. 2020年9月05日 19:04:55 : MiikQNbYFc : SExPd1N4T0pwU2M=[30]

もう持てない重さに…… 私の行く先は?
2020年09月05日
http://tokaiama.blog69.fc2.com/blog-entry-1239.html

 今から約半世紀前、私は、一人で家を出て、東京に向かった。
 友人のツテを頼りに名古屋の某高校から三鷹の高校に転校した。最初は牛乳配達のバイトをしながらだった。

 私は政治的早熟児で、中学生の頃には、朝日新聞の本多勝一の記事に夢中になって、強い影響を受け、ベトナム戦争に対する強烈な怒りをモチベーションにして、政治活動に加わった。
 東京に出た理由は、新宿駅西口の反戦フォークゲリラ集会がたまらなく魅力的で、自分もその場の空気を吸ってみたかったのだ。
 https://www.youtube.com/watch?v=lld8pqk6Pdk&ab_channel=%E4%B8%AD%E6%97%A5%E6%98%A0%E7%94%BB%E7%A4%BE

 私が参加したのは、1970年頃だったから、もう激しく弾圧を受けて、事実上終わりを迎えていた頃だった。土曜日の夜は、西口広場は大量の機動隊員で埋め尽くされていて、ゲリラ的に歌おうとすれば、たちまち、機動隊が飛んできて羽交い締めにされた。
 あの頃は、毎日のように、都心のどこかでデモが行われていたが、私は「ベ平連」に憧れていたから、一人でデモに加わった。

 誰かが投じた火炎瓶の炎を見て、機動隊の催涙弾に逃げ惑いながら、みんなで手をつないで大通りを駆けた。
 あの頃の高揚感を思い出すと、香港における若者たちの気概が、手に取るように理解できる。参加者には、人生最大級の連帯感と高揚があったのだ。
 何十年経っても、あのときのデモの仲間と分かれば、何の気兼ねもなく兄弟のように話すことができた。

 私は、やがて、早朝、高田馬場駅に出向いて、人夫寄場で稼ぐことを覚えた。
 当時、まだ東京は1964年オリンピックの余波が残り、至る所でビル建設ラッシュがあり、仕事には事欠かなかった。

 朝5時前に立川を出て、6時台に寄場で仕事を探し、7時過ぎには現場にいた。
 建設現場で、特殊技能がなくとも「片付け」とか「手元」という助手の仕事を一日頑張れば4000円くらいもらえた。
 みんなが嫌がる苛酷労働の「根切り」とか「汚物仕事」などは、1日、5000〜7000円くらい、もらえたことがあった。

 当時、学生アルバイトの相場は、日2000円程度だったから、一日で大金を稼ぐことができた。しかし、仕事は苛酷で、終われば魂の抜け殻のように疲労困憊し、翌日も続けて仕事に出られることは少なかった。
 当時の建設現場の仕事は、セメントやアスファルト、足場板や丸太の運搬なんかだ。もちろん、まだフォークリフトも普及していない時代だったから、すべて手作業だった。

 とても危険な仕事が多かった。ネコという一輪車にコンクリートを積んで、幅が30センチの板の傾斜で打ち込み現場まで運ぶ。足場も、当時は、枠組み足場や単管足場も普及してなくて、間伐材の檜丸太を荒縄で縛ったものが普通だった。
 だから、足場から転落して大怪我した職人を何度も目撃した。

 人夫寄場から連れてこられる我々の仕事の大半が、不安定な足場の上にセメント袋やアスファルトを運び込むという、現場の古参職人が嫌がる仕事ばかりだった。
 今、ホームセンターで売られているセメント袋は20kGしかないが、当時のセメントは一袋50Kgだった。アスファルトも同じだ。
 一本20Kgくらいある丸太を1本ずつ運ぼうものなら、たちまち「怠けるな」と怒鳴られ、三本くらい肩に載せられた。

 今、あの当時のセメント袋を運べといわれても、たぶん、持ち上げることさえできないだろう。当時の建築現場は、すべて、もう遠い別の国の出来事のようになってしまった。
 今から、当時の世界に戻れといわれても、私は忌避するしかない。

 私は、一日5000円の人夫仕事(沖仲仕のようなものだ)をやったあとは、新宿の小便横町の鶴屋でホッピーを飲んで泥酔するのが常だった。
 そのまま西口にあった浄水場前の公園のベンチで寝てしまうことも多かった。
 翌日は、全身が痛くて、とてもじゃないが仕事には出られなかった。

 そんなとき、重い体を欺しながら奥多摩に向かった。持っていた五万図が赤鉛筆で真っ赤になるくらい、いろんなルートを歩き回った。
 仕事は三日に一度出れば、十分に食べていけた。アパートの家賃は1万円もしなかったし、食費は三食外食でも1000円くらいですんだ

 やがて、建築現場に、フォークリフトやコンベアが導入され、50Kgもあったセメント袋は、40Kg になり、さらに30Kgになり、今では20Kgになったが、それでさえ重くて取り扱うのは大変だ。
 私は、自宅の改造などでセメント袋を運ぶときは、ネコという一輪車を使わなければ無理になった。

 足場は、丸太や荒縄が消え、代わりに単管鉄パイプとクランプが登場した。さらにALCという枠組み工法のユニット足場が登場してきた。
 もう足場板が真っ二つに割れて職人が高所から転落する事故も聞かなくなった。

 最近では、足場組工法よりも、さらに簡便で安上がりな、バケットリフト車が多く使われるようになった。これは最大で40メートルもの高さの高所作業が可能らしい。
 足場工法の一割以下の費用で、同じ作業が可能になったらしい。

 人間の能力が、どんどん機械に取って変わられてゆくのは、建築現場に限ったことではないが、これが、さらにAI進化するということになると、最後には、人間はまったく不要ということになってしまう。

 だが、ベトナム戦争に怒った我々が街頭に繰り出して、憤りをぶつけるデモは、機械化されているわけではなく、AI化される予定もない。デモは機械化できない。人間の息吹なのだから。
 しかし、権力側は違う。
 
 今では、人類史上最悪の極悪集団、中国共産党の臓器抜き取り売買に激怒して街頭に繰り出しても、無数にある街頭監視カメラに撮影され、顔認識システムから個人を特定され、メールや個人情報を抜き取られて監視対象にされる。
 これが中国国内なら、DNAを採取され、理由もなく拘束されたあげく、外国に売り飛ばす臓器の提供囚人にされてしまうのがオチだ。

 今、中国共産党の考えていることは、香港のデモに参加した若者たちを拘束して、法輪功修練者のように臓器を抜き取って売り飛ばすことだけだろう。
 https://www.youtube.com/watch?list=PLxejGDsVviQgOwFurnG95V1mFfchQ2chr&v=womh3crgBck&ab_channel=NTDTVJP

 人生を顧みるに、あれほどきつかった仕事は、どんどん機械化されて楽になっていったが、そのことが、仕事から人を追放し、ごくわずかなオペレーターだけで、何でもこなせてしまう社会になった。
 社会に対する憤りをデモで示そうとしても、コンピュータと監視カメラによって、身元を特定され、表現者は、社会から排除されるようになった。

 ありとあらゆる仕事から、人間が追放されるようになった。今はまだ、少数のオペレーターを必要とする仕事でも、AI化が進めば、その彼らも追放される。
 人間社会なのに、あらゆる部門から、次々に人間が排除されてしまう。コストカットのためだ。

 中国を見ていると、それらの機械、それらのAIの上に君臨する中国共産党幹部だけが、利益を抜き取り私物化し、人々を監視し、ときには臓器を抜き取って殺してしまう社会が成立している。
 日本でも同じだ。合理化された仕事は、最終的に誰の利益になるのか?
 それは、社会のごく少数の(中国共産党のような)特権階級だ。

 でも、何もかも仕事を失った我々、底辺に生きる普通人の居場所はどこにあるのだろう?
 AI社会は、私には幻想にすぎないように見えるが、それでも、どんどん進めば、どんどん仕事を奪ってゆくのは間違いない。
 仕事を失った我々の行き先は?

 それは「臓器牧場」なのか?

http://tokaiama.blog69.fc2.com/blog-entry-1239.html
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/695.html#c1

[近代史4] 中川隆 _ 音楽史関係投稿リンク 中川隆
44. 2020年9月05日 19:54:02 : MiikQNbYFc : SExPd1N4T0pwU2M=[31]
宇野功芳の音盤棚 unauの無能日記
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/1080.html

作曲家フルトヴェングラーとは何であったのか?_宇野功芳 樂に寄す
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/482.html

宇野功芳 ブルーノ・ワルターと我が音楽人生
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/529.html
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/102.html#c44

[近代史4] 宇野功芳 ブルーノ・ワルターと我が音楽人生 中川隆
1. 中川隆[-11499] koaQ7Jey 2020年9月05日 19:54:50 : MiikQNbYFc : SExPd1N4T0pwU2M=[32]
宇野功芳の音盤棚 unauの無能日記
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/1080.html
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/432.html#c1
[リバイバル3] 宇野功芳の音盤棚 unauの無能日記 中川隆
1. 2020年9月05日 19:57:54 : MiikQNbYFc : SExPd1N4T0pwU2M=[33]
宇野功芳の音盤棚
unauの無能日記 A
https://www.kinginternational.co.jp/uno/000017.shtml

 あーあ、怠け者(unau)は辛い。こんな原稿書くのも面倒くさくて仕方がないんだけど......。キングインターナショナルの社長はおっかないからな。読み終ったばかりの青木やよひ著「ベートーヴェン〈不滅の恋人〉の探究」(平凡社ライブラリー)のことでも書いてお茶をにごそうか。

 青木やよひさんはもう80歳という高齢だが、20代の頃からベートーヴェンの《不滅の恋人》への手紙の研究を始め、ほとんど全生涯を恋人の特定のために費やしたといってもよい。その努力には本当に頭が下る。

 ベートーヴェンぐらい楽聖という言葉に相応わしい人もあるまい。ぼくはモーツァルトもブルックナーも大好きだが、畏敬の気持はベートーヴェンがいちばん強い。ロマン・ロランが書いた伝記を夢中になって読んだ若い日。トスカニーニとフルトヴェングラーの《第五》を友人たちと聴き比べながら論争をした高校生時代。いずれもなつかしい思い出だ。


 ベートーヴェンの死後、彼自身が書いた宛名不明のラヴ・レターが3通、秘密の引き出しから発見された。年号はなく、「7月6日 朝」「7月6日 月曜日 夜」「おはよう 7月7日」だけ記され、その第1信は「私の天使、私のすべて、私自身よ」という熱烈な呼びかけで始まっている。そして第3信の最初に書かれた"わが不滅の恋人よ"という文章によって、《不滅の恋人への手紙》と呼ばれるようになった。


 ロマン・ロランは恋人を伯爵令嬢テレーゼ・ブルンスウィックと断定し、二人はひそかに婚約した、と書いているので、ぼくなどはすっかりその気になり、若い頃、講師をしていた高校の音楽の授業でもそのように教えていた。


 しかし、ロランは後にこれを否定し、その後は「月光の曲」を捧げたジュリエッタ説、「エリーゼのために」を捧げたテレーゼ・マルファッティ説などが入り乱れていたが、20世紀も半ばをすぎた1957年、ベートーヴェンが前記テレーゼ・ブルンスウィックの妹ヨゼフィーネに宛てた13通の恋文がファクシミリとして公表されたのである。
書かれた年代は1804年から07年末までの4年間にわたっており、俄然ヨゼフィーネ説が有力になった。彼女は1799年にダイム伯爵と結婚、4人の子供を産んだが、夫は1804年に急死、1810年、今度はシュタッケルベルク男爵と再婚した。ベートーヴェンと恋愛関係にあったのはその間ということになるが、ヨゼフィーネは男爵との間にも3人の女の子をもうけた。ショッキングなのは、1813年4月8日生まれの3女ミーナがベートーヴェンの子である、という青木やよひ説である。


 では不滅の恋人がヨゼフィーネか、といえばそうではない。恋人探索の決め手は、ラヴ・レターに書かれた「7月6日 月曜日」という日付である。
ベートーヴェンの生涯で7月7日が月曜日に当るのは1795年、1801年、1807年、1812年、1818年であり、その年の夏の彼の滞在地を調べれば年月日を特定できる。ベートーヴェンはウィーンからかなり遠い湯治場でこの手紙を書き、その宿泊地から定期的に郵便馬車が出ている湯治場Kに居る恋人に出した。ベートーヴェンは大雨によるぬかるみの中を馬車に乗ってやって来たことが手紙の内容から分る。


 青木やよひさんはベートーヴェンが手紙を書いたのはボヘミアのテプリッツであると推測、そこから程近いカールスバート(K)に出したのだという。青木さんは何度も現地に足を運び、ホテルを探し、宿帳にベートーヴェンの名前を発見、カールスバートでも恋人の名前を発見、さらに当時同地に居たゲーテの日記に、同地方が豪雨だったことが記されていたことも知った。

 まことに推理小説を読むように面白い。はたして青木さんが推測した《不滅の恋人》とは?

 ベートーヴェンが1812年9月末か10月初めに書いた日記に、「おお神よ! 私に自分に打ちかつ力をあたえたまえ。......このようにして、Aとのことはすべて崩壊にいたる......」とあるが、このAこそ恋人のイニシャルであり、その名前はアントーニア・ブレンターノ。銀行家フランツ・ブレンターノ夫人で、当時32歳(ベートーヴェンは42歳)、二人はひそかに愛し合い、イギリスに永住する約束を交わしていた。アントーニアの名前が今までまったく無視されていたのは、それだけ慎重に二人が秘密をかくし通していたからだという。そういわれればその通りだ。


 だが運命はベートーヴェンにとって、あまりにも過酷だった。ほとんど別居状態だったアントーニアと夫フランツの間には別れ話が進み、その最後の話し合いのとき(5月28日のアントーニアの誕生日)、別れの契りで子供を宿してしまった。そのことを告白されたベートーヴェンが、動転している恋人に書いたのが、例の3通の手紙であるが、ベートーヴェンの方にも思いもかけぬ事態が起こってしまったのだ。

 同じ年の6月、前記ヨゼフィーネの夫シュタッケルベルクが家出し、6人の子供たちとともにウィーンに取り残された彼女は、生活費にもこと欠いてベートーヴェンに助けを求めに行ったが、同情した彼がヨゼフィーネと一夜をともにし、できた子がミーナだったと青木さんは考えたのだ。
それは彼女の姉テレーゼが「子供に備わる神性」という言葉を使っていることからも明らかで、この事実をベートーヴェンは9月末か10月初めに知り、運命の過酷さに絶望し、次に自らを断罪し、アントーニアとのこと、いっさいをあきらめたのだという。

 なんという皮肉な現実!《Aとのことはすべて崩壊にいたる》。あまりの精神的打撃によって病気がちとなり、創作力も衰えてしまったベートーヴェン。そして数年後、見事に立ち直り、ピアノ・ソナタ「作品109」「作品110」「作品111」、歌曲集「遙かなる恋人に寄す」をはじめとして、曲の随所にアントーニアへの想いを昇華した形で封じこめたわれらがベートーヴェン。

 若しも彼が愛する人とイギリスに渡り、幸せな家庭を築いたとしたら、われわれには果たして「第九」や「ミサ・ソレムニス」や後期の弦楽四重奏曲の数々が遺されたかどうか。おそらくは作曲されなかったのではないだろうか。

unau 記
2018年4月11日

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[リバイバル3] 宇野功芳の音盤棚 unauの無能日記 中川隆
2. 2020年9月05日 19:58:41 : MiikQNbYFc : SExPd1N4T0pwU2M=[34]
宇野功芳の音盤棚
unauの無能日記B
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 1989年9月22日、四国の宇和島で開かれたエリック・ハイドシェックのコンサートは録音され、「宇和島ライヴ」としてベスト・セラーを記録した。それもその筈、当日、気力充実の彼は鬼神もこれを避く! といいたいようなベートーヴェンの「テンペスト」と、自在な遊び心が名人芸にまで高まったモーツァルトの「K332」という2曲の凄演をCDに刻みこんだからである。

 しかし、間もなく発売会社のテイチクがクラシックから撤退したため長らく廃盤の憂き目に会い、求めそこなったファンの垂涎の的となっていたのだ。このベスト・セラーに気を良くしたテイチクは、91年と94年にもつづけて宇和島ライヴ録音を行い、全4枚のCDが完成したのだが、もちろん、すべて手に入れることは不可能だった。

 06年の末に、わがキングインターナショナルが権利を買い取り、一挙に発売したところ、2万枚を超える大ベスト・セラーになった。同じCDが再発のときもベスト・セラーを記録することなど、それがクラシックだけに信じられない。

 その第1回の宇和島ライヴが昨夜(07年3月2日)、東京の浜離宮朝日ホールで再現されたのだ。あの、「K332」と「テンペスト」が! ハイドシェックはすでに70歳、50代に入ったばかりの頃の演奏とは当然違った。89年の凄演とは別の、でも枯れた、とか円熟した、とかいうのとも違うエリック独自の世界が展開されたのである。

 アルゲリッチ、チョン・キョンファなど、天才肌の演奏家はデビューのときから凄く、晩成はしない。変化はするが円熟はしない。そこが朝比奈隆、ギュンター・ヴァントなど、若い頃は二流、三流、最晩年にやっと超一流という大器晩成型との大きな違いである。

 ハイドシェックの「テンペスト」にはすでに猛烈な驀進はなかった。しかし、表現の核となる部分は健在で、他のピアニストとは一味も二味も違う個性的な表情が充満していた。聴衆は十二分に満足したのではあるまいか。とくに一階客席の前半分には熱烈なエリック・ファンが陣取り、立上がってブラヴォーを連発していた。

 「K332」も同じで、フィナーレに昔日の向う見ずな突進はなかったが、ぼくは第1楽章に堪能した。とくに第2主題で、左手の伴奏音型から特定の音を抜き出し、テーマの対旋律にしてしまったり、やはり左手で時折見せるゴムのような打鍵はコルトーゆずりの必殺技だ。

 残念だったのはスタインウェイの音色。調律師のせいかも知れないが、金ピカの明るい音で、とにかく鳴りすぎる。モーツァルトの時代はいわゆるフォルテピアノが使われていたが、そういう渋さは古典派の音楽である以上、当然必要だ。
何も古楽器を使えというのではない。あんなものを弾いて喜んでいるのはオタクだけだが、当夜のスタインウェイは明らかに行きすぎ。あれは大オーケストラに負けないでチャイコフスキーのコンチェルトを弾くための楽器であり、調律である。小ホールの浜離宮用ではない。したがってハイドシェックのモーツァルト、ベートーヴェンにはピアニッシモがなかった。ピアニッシモがないと深みが出ない。もっとも、ハイドシェックは本来が遊びの人。愉悦的な作品、凄絶な作品には向いても、しみじみと感動の涙を誘うタイプではない。
とはいえ、もっと大きなホール、あるいは違う楽器だったら、結果も異なるものになっていたであろう。

 彼はこの3月2日の東京公演のあと、6日には大阪公演がある。ホールは800席のいずみホールで、500席の浜離宮よりは条件が良いし、楽器もスタインウェイながら、東京のものとは異る(但し、調律師は同じだとのこと。)ピアノの音質には定評があるホールだけに、むしろ大阪のファンの方が得をするかも知れない。

 大阪公演後、エリックは一度帰国し、5月に再び来日して、今度は日フィル定期に出演する。
曲はベートーヴェンの「ピアノ協奏曲第2番」。第1番とともに、ことによるとモーツァルト以上に彼にぴったりの音楽であり、ホールもオペラシティと申し分ない。今から楽しみで胸がわくわくしている。今後の願いはラヴェルのコンチェルトだ。ぜひぜひ実現させたい。ソロの曲はドビュッシーの「子供の領分」で決まり。師コルトーが神技を示したこの曲、エリックのピアノでどうしても聴きたい。

2007年3月
unau 記
2018年4月18日

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[リバイバル3] 宇野功芳の音盤棚 unauの無能日記 中川隆
3. 2020年9月05日 19:59:43 : MiikQNbYFc : SExPd1N4T0pwU2M=[35]
宇野功芳の音盤棚
unauの無能日記C

嵐の中のブルーノ・ワルター

 戦前EMIのプロデューサーだったガイスベルクは「ワルターは嵐の中心となるような運命を背負っている」と述べた。彼の生涯は、凡人ならとても耐え切れないような苦難に満ちていたが、今月はそのことを書いてみたい。

 少年時代、どなり声ひとつ聞いたことのない、温かく教養豊かな家庭に育ち、ピアニストへの道を進み、途中で指揮者になりたいと切望するようになる。やがてハンブルク歌劇場で名指揮者マーラーと出会い、彼の演奏、作品、人柄に魅かれ、師として仰ぎ、マーラーのせかせかした歩き方や爪をかむ癖まで真似をしたというワルターの前途は希望にあふれていた。人生で最も幸せだったのは1913年から10年間にわたるバイエルン国立歌劇場(ミュンヘン)の総監督時代であろう(37歳から46歳まで)。良き妻エルザとロッテ、グレーテルという2人の娘を得、指揮者としての評判も非常に高かった。その幸福が暗転したのは1922年である。

 名門ベルリン・フィルの常任指揮者ニキシュが世を去ったのだ。当然次の指揮者の本命はベルリン生まれで、オーストリア、ドイツを中心に活躍するブルーノ・ワルターであった。新聞辞令も出た。彼はベルリン・フィルの団員からも「多くの者があなたを支持している」という連絡を受け、すっかりその気になっていた。

 しかし、そこに登場したのが10歳も年下のフルトヴェングラーである。ワルターは知人への手紙に書いている。「フルトヴェングラーはニキシュが死んでからベルリンに根を下ろし、天国から地獄までのありとあらゆる手段を総動員して、この地位を得ようと躍起になっています。私の方は主義として何もしていないし、これまでの人生でも、ただ音楽的な業績によってのみ道を開こうとして来ました」。

 結局ベルリン・フィルが選んだのは36歳の若手フルトヴェングラーであった。あまつさえ、ワルターがミュンヘンを去ったのは、12歳年下のクナッパーツブッシュがナチスと手を組み、ユダヤ人のワルターを追い出したという説がある。これは往年の指揮者でヨーロッパにもしばしば出かけていた近衛秀麿が語っていたことだが、当時ナチスはまだ勢力をのばしておらず、ワルター自身も自伝に他の理由を書いているので噂の域を出ないが、火のないところに煙は立たない。
なんらかの動きはあったかも知れない。クナッパーツブッシュは海千山千、ワルターは最後までお人好しであった。

 1933年、そのナチスがついに政権を取り、ユダヤ人の追放にのり出した。ワルターはフルトヴェングラーが常任になった後もベルリン・フィルとは親密な関係をつづけ、長年にわたって「ブルーノ・ワルター・コンサート」を開いて来たが、それも中止、1934年にはウィーンに追われ、オーストリア国籍となった。しかし名門ウィーン・フィルとワルターとの相性は抜群で、彼の人気は世界中にとどろき、ベルリンのフルトヴェングラーと二分、革命後のソヴィエトに招かれた初めての外国人となった。ベルリン・フィルも結果としてフルトヴェングラーを選んだのが成功だったといえる。

 だがワルターの幸せは長くはつづかない。このあと、筆舌に尽くせぬ苦難がつぎつぎと彼をおそう。1938年3月13日、ナチス・ドイツはオーストリアを併合、ユダヤ人を追放した。ちょうどアムステルダムに演奏旅行中だったワルターはウィーンに帰れず、地位も財産も国籍も剥奪された。
家族も逮捕されたが4月にオーストリアを脱出、一家は9月にモナコ国籍を得ようとするが失敗、フランス政府が救いの手を差しのべ、フランス国籍を取得する。

 翌1939年8月、ルツェルン音楽祭でマーラーの「第二」を指揮する予定だったワルターに届いたのは、チューリヒ在住の最愛の娘、次女のグレーテルが夫に射殺されたという報であった。
茫然自失のワルターに代わってトスカニーニが指揮をとった。翌月の9月にナチスはポーランドに侵攻、第二次世界大戦が始まる。ヨーロッパに居場所を失ったワルターはついにアメリカへの亡命を決意、10月31日にニューヨークに向かい、ロサンジェルス郊外のビヴァリー・ヒルズに居を構えるとともにアメリカ国籍となった。本当に苦難の連続とはこのことであろう。しかも1945年3月には長い間の心労がたたったのだろう、エルザ夫人が脳卒中のため他界してしまう。

アメリカのオーケストラの楽員にはヨーロッパでのワルターの名声を知らない人も多く、最初のうちは戸惑いをかくせなかったが、やがてニューヨーク・フィルの音楽監督をつとめるなど、徐々にアメリカの生活になじみ、1962年2月17日、心臓病のため、85歳の生涯を閉じたのであった。

 《愛と善意の音楽家》ワルター。それゆえに彼は自分をあんなにも苦しめたナチスに対しても、そこそこの悪意しか持っていなかったというが、ワルターの良さも弱さもそのあたりにあったのかも知れない。戦後、1949年、シカゴ交響楽団がフルトヴェングラーに客演指揮を依頼したが、全米の音楽家たちがナチスに協力したという理由で猛反対をした。しかしワルターとメニューインだけが反対声明に名前を書かなかったのである。

 ワルターに代わってベルリン・フィルの常任の地位についたフルトヴェングラーは、晩年カラヤンの台頭におびえ、自分がワルターに対してやったようなことをカラヤンにされるのではないかと絶えず猜疑心に悩まされた。そして1954年、ワルターよりも早く、68歳で他界したあと、ベルリン・フィルの常任の地位についたのはそのカラヤンであった。運命はめぐる。人の世の面白さであろう。

2007年6月
[宇野功芳]
2018年4月25日
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[リバイバル3] 宇野功芳の音盤棚 unauの無能日記 中川隆
4. 2020年9月05日 20:00:36 : MiikQNbYFc : SExPd1N4T0pwU2M=[36]
宇野功芳の音盤棚
unauの無能日記D
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 今月は美食の話。和、洋、中、おいしいものなら何でも好きなぼくだが、トップは当然フランス料理である。ぼくぐらいの年齢になると、もう和食の方がいい、という人も多いが、生涯現役の体には魚よりも肉の方がぴったりくる。

 それにぼくはあの懐石料理というものがピンと来ないのだ。もちろん若い頃は美しい彩りに魅せられて京都は祗園丸山などによく通ったものだし、今でも有名店に招待されることがある。でも、2日つづけて食べたいとは思わない。それにどの料理もいろいろこねくりまわして、なんの食材を使っているのか分からないものが多い。有名店の懐石料理でもそうなのだから、旅館で出てくる食事には正直まいってしまう。初日はまだ良いとしても2日目には同じ味に飽き飽き、3日目はかなり辛い。ぼくには行きつけの温泉旅館があるのだが、残念ながら3泊が限度だ。フランス料理には(もちろん一流の)そういうことがないので、1ヶ月でも2ヶ月でもフランスに滞在できるのである。

 ところが和食で、たった2軒だけ、いつ行っても、今までのどれよりも今日がいちばんおいしかった、と思わせてくれる店がある。銀座のすしの名店[ほかけ]と、原宿の割烹料理、[重よし]である。
最近東京のフレンチ・レストランの味の向上は著しく、本場のフランスを凌ぐ店も多くなったが、行くたびに今日が今までの最高と思わせてくれる店はさすがにない。だから、ほかけと重よしは別格なのだ。とんでもないことを肩に力を入れず、やすやすとやってのけているのである。

 ほかけについては改めて書くことにして、まずは重よし。この店は遠藤周作が通いつめたことで知られ、ぼくも彼のエッセイを読んで通うようになったのだが、ご主人の佐藤憲三さんとはもう20年以上のおつき合いということになる。重よしはいわゆる懐石料理ではない。無上の食材をこねまわさず、出来得るかぎりシンプルな形で供してくれる。料理を出す順番にもこだわりはなく、思いがけないときに思いがけない一皿が出る。佐藤さんはお客の食べ方をそれとなく見ていて、その日の食欲や体調を瞬時に見ぬき、ぴったりの品を出してくれる。だから、十数人しかすわれないカウンターのお客一人ひとりに出すものがみな違う。順番も違う。

 最近行ったのは4月18日だが、その日の献立を書いてみよう。

メニュー
1. グリーンピース、生ユバ、山椒の花を素材にした3種の突出し
2. 葉タマネギのゆでもの
3. カツオのタタキ。ノリ、ミョウガ、アサヅキをたっぷり散らす
4. キスとウドの芽
5. アサリとフキノトウを揚げたもの。
ウニとトリ貝(ウドとワケギを巻き、スミソをかけてある)。
シメサバの卯の花まぶし。
ホタルイカのモロミ漬け。 以上、4種が一皿に
6. 吸物。シイタケ、シラガネギ、ニンジン、ミツバ、ゴボウとブタの背脂
7. タイの刺身
8. ふり酒をした甘鯛
9. カニ
10. 板屋貝のミソまぶしと天然浜防風
11. 竹の子とフキの土佐まぶし
12. 親子丼。シジミのミソ汁。香の物
13. 小夏ミカンのゼリー

 その一つひとつの滋味について、素人のぼくが書くのは控えよう。とにかく店に足を運ぶたびに目からウロコが落ち、新発見のおどろきがある。しかし、どの一品もシンプルそのもの。

 佐藤憲三さんは1944年生まれ。原宿に店を出したのは1972年、27歳のときであった。朝起きると外に出て気温や湿度を肌で確かめる。
コーヒーを一杯飲み、午後2時まで何も食べない。その空腹感の中で、今日は自分が何を食べたいかを考え、それがその日の献立の基礎になる。
お客は定連がほとんどで、誰が、いつ、何を食べたかを、その日のうちに記録する。

 本当に食を愛し、重よしを愛する人が佐藤さんの大切なお客さんなのだ。だから会社の接待で食事などそっちのけ、話に夢中になっているような客には冷たくしてしまう、と語っていたが、人を見る眼は鋭くとも、温顔を絶やすことはない。 ぼくは佐藤さんが大好きで、料理ももちろんだが、佐藤さんの顔を見たいから行く面もある。料理の話も興味が尽きない。他のお客さんもみな同じではないだろうか。
(内容は執筆当時のものです)

2007年7月記
[宇野功芳]
2018年5月 2日

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[リバイバル3] 宇野功芳の音盤棚 unauの無能日記 中川隆
5. 2020年9月05日 20:01:27 : MiikQNbYFc : SExPd1N4T0pwU2M=[37]
宇野功芳の音盤棚
unauの無能日記E
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♪あー、ああーあ、やんなっちゃった、ァあーあンガあンガおどろいた♪

 これは亡き父、牧野周一の弟子、牧伸二のウクレレ漫談の出だしだが、数年前に病気をしたあと、極端に出演回数が減った牧の名前は、中年以上の方以外は知らないだろう。ましてや昭和50年に他界した牧野周一の名前など、50代の方でもおぼえていて下さるかどうか。

 ところが、ぼくは毎月、読売日響の機関誌『オーケストラ』に「いいたい芳題」というエッセイを連載しているが、その編集者である高本さんという方が、小学生時代にお父さんに連れられて寄席に通い、父のファンになり、楽屋でサインをもらったというのだ。それどころか父と牧伸二が昭和42年にキングレコードに録音したリレー漫談を所有、CD-Rにして送って下さった。お父さんがよほど寄席好きだったのだろう。高本さんは残念ながら志ん生、文楽には間に合わなかったが、圓生にはずいぶん接したという。こんな幸運はない。

 学生時代から父のカバン持ちで年中寄席に行っていたぼくは、志ん生、文楽の全盛期の舞台を数え切れないくらい見て育った。ぼくの好みは志ん生と圓生にあったが、もちろん文楽も名人の中の名人。「心眼」など、CDで聴いても思わず涙ぐんでしまうし、DVDでは「富久」にしびれる。

 志ん生は舞台に登場しただけでお客が笑うのだからすごい。十八番はなんといっても「火焔太鼓」だが、「大工調べ」の啖呵の切り方の痛快さや、「あくび指南」のとぼけた味わいをぼくはとくに好む。圓生はうまさでは斯界随一だから何でもござれだが、「鼠穴」の凄みや「居残り佐平次」の話術は、これ以上の落語芸があるとは思えない。

志ん生は残念ながらきちんとした映像が残っていないが、CDでも十二分に楽しめるし、圓生の「居残り」はビデオでもCDでもOKだ。「百年目」も名人芸。

 読響の高本さんは無声映画の「のらくろ伍長」のDVDも送って下さった。モノクロで、ずいぶん昔のものにちがいないが、後年父が説明を加えた子供向けの映画である。あとから声だけ吹込んだ証拠に、父の名前が画面に出て来ない。とにかく貴重かつ稀少なDVDであり、父の30代の声が聞ける。

 先年、志ん生の息子の志ん朝が60代で早世したときは、もう落語もおしまいだと思ったものだ。 事実、寄席はどこも閑古鳥が啼く有様だったが、嬉しいことにこの1、2年は落語ブームとなり、若い人たちのお客が増えて来た。とくに柳家喬太郎や立川志の輔には追っかけがいて、独演会など、発売当日に切符が売り切れてしまう。ぼくは志の輔の噂を耳にするにつけ、一度聴きたいと願っているのだが、気がついたときにはもうチケットがない。その代わり喬太郎には何回接したか分らない。なにしろ二つ目の頃から追っかけを始め、2000年3月に真打ちに昇進してからも通いつづけている。主催者に名前を登録してしまえば、チケット発売前に案内が来るので、聴こうと思えば毎回でも聴けるのだ。

 去る6月13日にも銀座の博品館劇場で、柳家喬太郎、柳家喜多八、三遊亭歌武蔵の三人会を聴いたが、今回も大満足。喜多八というのはぼくの好きな噺家だ。とにかく青白い顔で、疲れ切った足どりで登場、やる気はあるんだけど体がいうことを聞かない、とかなんとか言い訳をしつつ、実に味のある芸を示す。この夜は「二十四孝」。仲入りがあり、つぎが喬太郎。得意の新作はやらず、柳家の前座噺である「初天神」。天神様のお祭りに連れて行ってもらった子供が駄々をこねるというつまらない落語なのに、喬太郎がやると爆笑の嵐。彼はまくらから爆笑の連続なので、この手の噺家は本題に入ると、とくに古典の場合、逆につまらなくなってしまうのだが、天才・喬太郎にはそれがない。「初天神」は柳家小三治のも聴いたが、この大家を大きく引き離す話芸の粋があった。

 取りは歌武蔵。新作の「ダルマさんがころんだ」という噺だが、馬鹿馬鹿しくも楽しい一席で、選挙事務所に置かれた大きな赤いダルマが、両目を入れられたとたんにオーデコロンをつけて歩き出す。落ちは「あ、ダルマさんのコロンだ!」。ほんと、バカバカしさのかぎりだが、だから新作は面白いのだ。古典の渋い下げとはまるでちがう。喬太郎の新作の下げに「壁に耳あり障子に目あり」というのがあったが、メアリーという外人の女スパイが主人公。このときも笑った笑った。

 最近はなぜか圓生などのビデオやDVDが店からいっせいに姿を消した。待ちに待っている志ん朝の映像もさっぱり出て来ない。たくさんあるだろうに、解せない。そんな中、この間、春風亭柳昇の「結婚式風景」「里帰り」の2席を収録したDVDを見つけて買って来た(ユニバーサルUIBZ5031)。柳昇は2003年に亡くなったが、開口一番、「わたしは春風亭柳昇といいまして、大きなことをいうようですが、今や、わが国で、春風亭柳昇といえば、わたし一人です」といって笑わせていた。このDVDでも言っているが、2席の中では「結婚式風景」がだんぜん面白い。老齢のため口跡はやや不明瞭だが、そのとぼけた顔と話しぶりは、それこそ日本でたった一人の芸。結婚式のスピーチの話題から、自分の家でいつもカミさんにどなられている話、でも最後はわたしの一言でぐっとおさえちゃう。「どうもすみません」。場内大爆笑。「だからかみさんは器量のいいのをもらってはだめですね」でまたまた大爆笑。柳昇師匠とぼけた顔で「あのねー、落語でも笑っていいところと悪いところがあるんですよ」。

 落語のビデオやDVDを見ながら、大声で笑えるというものはごくごく少ないが、この「結婚式風景」はその数少ない例のひとつ。ぜひごらんのほどを。

 というわけで、今月の「無能日記」、落語の話題でなんとかお茶をにごしちゃった。♪あー、ああーあ、やんなっちゃった、ァあーあンガあンガおどろいた♪

● 付記
 本アルバムには亡父、牧野周一の漫談が2席収められている。リレー漫談については本文で触れたが、「音楽病院」は昭和10年代のリーガル・レコードの赤盤である。リーガル・レコードとはコロムビアが落語などを出すときに使ったレーベル名で、初めはコロムビア・レーベルで出された歌謡曲の25センチ盤と同じように、レーベル色は黒字に金文字だったが、昭和15年から両者とも赤地に変った。このリーガル盤は赤色なので、おそらく昭和15年か16年頃の録音と思われる。父は当時30代の半ば。寄席で話すときは15分ぐらいの話を6、7分に縮めてあるので、もうひとつ趣に乏しいが、それでも愛好者にとっては貴重な記録だと思う。このレコードも金沢蓄音機館で探してもらったものである。改めてお礼を申上げたい。

2007年8月記
[宇野功芳]
2018年5月 9日

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[リバイバル3] 宇野功芳の音盤棚 unauの無能日記 中川隆
6. 2020年9月05日 20:02:21 : MiikQNbYFc : SExPd1N4T0pwU2M=[38]
宇野功芳の音盤棚
unauの無能日記F
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今月はフランス音楽なのでフランス料理の話を。 この世の中にフランス料理ぐらいおいしいものはない。ということは、やはり魚よりも肉の方がおいしいということだ。もっとも、フランス料理の場合、白身魚などは日本料理に敵わないが、貝、イカ、ウニなどを使ったオードヴルは日本の懐石を大きく上まわる。まさに至福の世界だ。eeb7e4b96b28a0e12244c344914e3ca7_m※画像はイメージです。

フレンチのもう一つの、重要な楽しみはワインである。これあるからこそフレンチの味はいっそう(何倍も何十倍も)引立ち、料理とワインがマッチしたときのすばらしさは筆舌に尽くしがたく、陶酔境に誘われる。 唯一の欠点はそのワインが高価なこと。ユーロが高くなり、今までは1本1万6千円ぐらいで満足できた赤ワインが、やがて2万円になり、今や2万5千円ぐらい出さないと良いものに出会えない。料理を二人で2万円とすれば、ワイン1本がそれより高く、食前酒などを加えればアルコール類の比率は大変なものになる。でも、それこそがフランス料理なのだ。

17e4d79bccd2ce873c7c0feb8fd0c83a_s※画像はイメージです。

だからワインが飲めない人はフランス料理のすばらしさの一割か二割しか分からないことになる。安いワインですませるのも、かえってもったいない。ぼくの友人で、お酒はビールでさえ一滴も飲めない人がフランス料理にはまり、努力の結果、なんとワインだけはボトルの半分以上飲めるようになった。今ではソムリエではないがフランスのワインの資格を持っている。人間の一念というのはおそろしい。

しかしお酒はすべておいしい。日本酒、ビールはもちろん、ウィスキー、焼酎、なんでもすばらしいが、ベストはワイン、次いでウィスキーだろうか。ウィスキーはシーバスリーガルの21年物を好むが、年代物の方が味の良いウィスキーでさえ寿命は50年、ワインは100年といわれる。100年物など飲んだことはないが、先日リシュブール、'58年をご馳走になった。ブルゴーニュ特有の酸味がすべて甘味に変り、その濃厚、複雑な味わいと香りは今までの最高といって良かった。ブルゴーニュは寿命が短いし、旅に弱いと聞いているが、これならボルドーの古酒以上である。因みにぼくが飲んだ最古のワインはシャトー・ポンテ・カネ'50年だが、'58年のリシュブールの方がはるかに上だった。

古酒といえば本場ボルドー市のル・シャポー・ファンで飲んだシャトー・カロン・セギュールの'75年が今もって忘れられない芳醇さだった。赤坂のシュマンで味わったシャトー・グラン・ピュイ・デュカスの'60年、グラン・エシェゾーの'78年もすごかった。とにかく古酒の魅力に一度とりつかれたら、もう終りなのである。

シュマンはワインの値段も良心的、料理も最高の一つだが、すでに他誌に書いたので、今回はぼくの行きつけのもう1軒、ラトリエ・ドゥ・ジョエル・ロブションについて書いてみたい。フレンチではシュマンとロブションの2軒を交互に訪れている。

ジョエル・ロブションがフランス人随一の天才シェフであることはよく知られている。パリの三つ星店にも何回か通ったが、50歳のとき引退を表明、がっかりしていたところ、やはり天職から離れることが出来ず、カウンター形式の気楽なラトリエを世界各地に作りつつあり、恵比寿にはもっと高級なジョエル・ロブションもある。しかし今のぼくにはそういう店は量が多すぎ、もっぱらラトリエに通うのだが、ここはロブションの粋ともいうべき究極の洗練された料理が、毎回ほとんど変らずにメニューに並んでおり、何よりも2分の1のお皿を用意しているのが嬉しい。形式ばらず、たった一品だけ食べて帰るのも自由、お酒もビールだけでOK。

今年の6月に行ったときは、@冷たいトマトのガスパチョ、Aホワイト・アスパラガスのソテー、Bフォアグラのラヴィオリと5種類のハーブ入りブイヨン・スープ、C和牛のタルタル・ステーキを注文したが、ブイヨン・スープ以外はすべて2分の1量。そのほかにサービスで、最初にイベリコ豚の生ハムが供された。ここのイベリコ豚を食べたら、よそのものは食べられない。料理はすべて今までに何回も食べたものばかりだが、心からの満足感は毎回変らない。タルタル・ステーキのなんというおいしさ!当日は選ばなかったが、イワシも、温野菜の盛合せも、手長海老のパピヨットも。仔羊もすべて最高。とくに仔羊は他のどの店よりもおいしいと思う。シュマンのようにカエル、仔牛の腎臓、ウサギなどはないし、冬のジビエも置いてないが、値段を抑えているので仕方があるまい。だからこそシュマンと両方に足を運ぶのだ。

デザートの「日向夏を蜂蜜でマリネに、ソルベを詰めたクリスタルのチューブとヴェルヴェーヌのジュレ」も目がさめるような美味だったが、この日飲んだ赤ワインにどうしても触れなければならない。シュマンのような古酒がないのが残念だし、値段も概して高いが、この夜はソムリエがすすめてくれたブルゴーニュのニュイ・サン・ジョルジュ・プルミエ・クリュ、'98年が大当り。この店では以前エシェゾーの新酒をすすめられ、その華やかさにおどろいた経験があるが、ニュイ・サン・ジョルジュにはたくさんの造り手があり、味のムラが多い。このところ、はずれてばかりで、酸味ばかり強く、こくのないものを飲みつづけていたが、この日の造り手はドメーヌ・デ・ペルドリ、久しぶりにバランスの良いブルゴーニュの一級を堪能した。'98年といえば9年物、ブルゴーニュとしてはまさに飲み頃を迎えたところであろう。

パリにもラトリエ・ドゥ・ジョエル・ロブションがほとんど同じ作りであるが、東京の方が断然おいしい。これは両方の店を体験した人が異口同音にいうことである。シュマンもパリの二つ星クラス。だから、だんだんとフランスに行く足が鈍ってしまうのだ。ともかく店を出たあと、連れの家人や友人と、「本当にフランス料理はおいしいね、最高だね、また来たいね」と口々に言いながら帰途に着くのである。

2007年9月記
[宇野功芳]
2018年5月16日

https://www.kinginternational.co.jp/uno/000022.shtml
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[リバイバル3] 宇野功芳の音盤棚 unauの無能日記 中川隆
7. 2020年9月05日 20:03:07 : MiikQNbYFc : SExPd1N4T0pwU2M=[39]
宇野功芳の音盤棚
unauの無能日記G
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 2007年7月、松浦寿輝著「川の光」(中央公論新社)が出版されたときはおどろいた。どこの本屋に行っても品切れだという。この小説は2006年7月から2007年4月まで読売新聞の夕刊に連載されたものだが、連載中からものすごい評判で、読者からの投書が新聞社に殺到したとのこと。もちろん、ぼくも夢中になって読んだ。最近こんなに面白い小説はないと思い、連載終結を待ち切れず、読売日響の機関誌「オーケストラ」にエッセイを書いたものだ。著者は単行本化するに当り、書き切れなかったことをずいぶん加えたそうで、ますますすばらしい一冊に仕上がっている。

 松浦寿輝さんは小説家よりも詩人や批評家として著名であり、エッセイも書いておられる。この「川の光」もキラキラと輝くような名文で、しかも読みやすい。

 小説の主人公は3匹のクマネズミ一家。お父さんと息子のタータ、チッチである。お母さんはハシバミ色の目をした美女だが、若くして亡くなり、物語には登場しない。いちばん最後、吹雪に埋もれて凍死寸前のお父さんの回想の中に出てくるだけだ。体毛の色は白に近く、それはチッチに受けつがれているクマネズミはドブネズミより一まわり小さく、この一家は川のほとりの公園に住んでいたのだが、人間川を暗渠化する工事を始めたので、やむなく川の上流に引越そうとする。途中には凶暴なドブネズミ帝国があり、捕われて殺されそうになる。やっと逃げ出すが、タータは一人だけはぐれ、ネコのブルーに助けられる。彼女はエメラルド・グリーンの瞳をした美しい牝ネコで、タータが「おばちゃん」と呼ぶとすごくおこる。

 別れ別れになった3匹は命がけの大冒険をする。それを助けてくれるのが牝犬のくせになぜか自分のことを「ぼく」というタミーや、モグラのお母さんや、スズメの夫婦や、爺さんネズミや、優しい人間の子供、圭一君や、田中動物病院の院長先生たち。ついに3匹は川の上流に新居を見つけるのである。

 物語のクライマックスは、川の上流に行くのにどうしても電車の駅ビルを通らなければならず、3匹がバスにこっそり乗車して駅の向う側にたどりつく場面と、もう一つはケガをして田中動物病院に運びこまれたタータに会うため、お父さんとチッチが今にも死にそうな様子で病院の玄関前に倒れ、タータと再会する場面であろう。彼らは知恵を働かせて病院を抜け出すのだが、そのお礼に院長の奥さんがなくした黒真珠のピアスの片方を見つけ、診療台の真中に置いて去る。院長夫妻のびっくりした様子、「まさかねえ」と疑いながらも、ことによったらネズミの恩返しかしらと考える二人の微笑ましさ。本当にここは名場面だと思う。

 夕刊の挿画は島津和子さんが担当したが、単行本にも多数収録されている。なによりも本を手に取ったときのカバーの美しいこと! たくさんの動物、植物、そして川が色刷で描かれ、本の最初の2ページと最後の2ページには見開きで3匹が移動した地域の地図が載っている。犬のタミーもいる。ネコのブルーもいる。モグラ一家もいる。田中動物病院もある。

 松浦寿輝は詩人だ。だからネズミたちの思索にも詩がある。プロローグにすでにタータの次のような言葉が出てくる。

 ――夏の終わり......。でも終わるっていうのは、いったいどういうことなんだろうとタータはふと思った。いつかぼくも「終わる」んだろうか。今まで考えたこともないそんな思いが不意に心をよぎって、急にタータは何だかとても淋しい気持ちになった――

 お父さんやチッチと離ればなれになったタータは図書館に落着き、ドブネズミ軍団を逃れたグレンに話しかける。

――どうして人間たちはこんな巨大な図書館なんてものを作ったのかな――。

グレンは答える。

――死ぬのが怖いんじゃないのかな――

 そのグレンが詩を口ずさんでいる。"生きるとは戻ってゆくこと/生誕のみなもとへ還ってゆくこと"。そしてタータに語りかける。

――なあ、タータ、『書く』ことも『読む』こともできないのは、われわれネズミ族の幸福なんじゃないのかな――

 物語の最後で松浦寿輝は人間に怒りをぶつける。少し長いが引用してみたい。

 三匹のネズミが死にかけている。銀河系の辺境の、とある恒星の回りを公転する、地球というちっぽけな惑星のうえでの出来事だ。百数十億年前のビッグバンで生誕し、それ以来、光の速さで膨張しつづけているこの宇宙の途方もない大きさを考えれば、地球などけし粒みたいなものにすぎない。ただ、そのけし粒のうえにも、一応は海があり大陸があり、山がそびえ川が流れ、そこにはアメーバや粘菌から象やクジラまで、無数の生物がひしめき合って暮らしている。今のところそのなかでいちばん威張って、驕り高ぶって、わが世の春を謳歌しているのは、ニンゲンという名の野蛮な哺乳類の一種族だ。自分たちの安逸のことしか考えないニンゲンの好き勝手のしほうだいのせいで、あんなに美しかった緑の星は、今どんどん荒れつつある。衰えつつある。その一方、ニンゲン自身もお互い同士、何やらわけのわからぬ理由で戦い合い、殺し合っているのだから、馬鹿々々しい話ではある。しかし、放っておこうではないか。どうせ長くは続くはずのないニンゲンの、地球上での繁栄など、無限の宇宙のなかに置いてみれば、一瞬のエピソードでしかないのだから。

 中略。そして結論が書かれている。

 ――ネズミであろうと何であろうと、生命というものはそれ自体、一つの奇蹟だからだ。ある特殊で複雑な仕方で組み合わさったたんぱく質の分子の複合体に、あるとき突如として、生命が宿った。生まれて、生きて、番って、死ぬという不思議なサイクルが生じ、生命の輝きが、温もりが、歓びが、世代から世代へと受け継がれるようになった。これが神秘でなくて何だろう。奇蹟でなくて何だろう。――

 小説は次の言葉で終わりを告げる。

 ――だが、わからないものである。やがてタータたちは、三匹で力を合わせてやり遂げた川を遡る移住の旅など比べものにならないような、もっともっと凄い、胸躍らせる大冒険に身を投じることになるのだから。それはしかし、また別の物語だ。――

 松浦さん、ぜひ書いて下さい。他の多くの愛読者たちといっしょに、楽しみに待っていますからね。
2007年10月記
[宇野功芳]
2018年5月23日
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[リバイバル3] 宇野功芳の音盤棚 unauの無能日記 中川隆
8. 中川隆[-11498] koaQ7Jey 2020年9月05日 20:03:58 : MiikQNbYFc : SExPd1N4T0pwU2M=[40]
宇野功芳の音盤棚
unauの無能日記H
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 2006年7月、キングインターナショナルから、ぼくの唯一の弟子である有山麻衣子の「幻のコンサート」(KDC6001)が発売されたが、この無名のソプラノ歌手のCDが売れに売れ、2007年3月には4000枚を超えたとの報が入った。4000枚。これはおどろくべき数字である。CDの帯には《女神が導いたかのような天使の歌声》というキャッチ・フレーズが書かれているが、今の世にヴィブラートのないピュアな声が受けたのかもしれないし、昔の文部省唱歌やなつかしい童謡の数々が心を癒したのかもしれない。もう一つ、インフラノイズによる超高音質録音も大きな力になったのであろう。

 あまりのフィーバーぶりに2007年には2枚目のCDが企画された。有山麻衣子はぼくが跡見学園女子大学合唱団の常任指揮者をつとめていた頃の学生で、4年間指導したが、類稀れな美声の持主なので、卒業後はぼくが歌謡曲シリーズをつづけているプロの女声アンサンブル、フィオレッティに賛助出演させることにした。そして2度目の「幻のコンサート」録音ではフィオレッティの若手メンバー2人を加え、トレフォリーネという女声三重唱団を結成、それをメインに有山のソロ8曲を入れて1枚のCDに仕上げようと考えたのである。インフラノイズの録音も有山の独唱も前回以上にすばらしく、トレフォリーネもなかなかの出来ばえだったので発売できると喜んでいたのだが、三重唱のCD化は時期尚早という強い意見がメンバーから出てボツになってしまった。トリオはともかく、そのことによって有山麻衣子の名唱「さくら」「嬉しい雛まつり」「かもめの水兵さん」「みかんの花咲く丘」「めんこい仔馬」「夜のルムバ」「森の水車」「想兄譜」が日の目を見ずに消え去ってしまったのは実に心残りの極みである。

 ところで前回の「幻のコンサート」がCD化されたとき、有山はまともな再生装置を持っていなかった。自分のCDが出るというのにそれでは仕方がない、というので、ぼくはオーディオに詳しい友人と秋葉原を歩きまわり、彼女のためのスピーカーとアンプを探し求めた。値段が手頃で音質の良い品というのはなかなか見つからなかったが、その友人がすすめてくれたデンマークのダリというメ−カーの超小型スピーカー「Menuet」と、マランツのプリ・メイン・アンプPM6100を求めることにした。ぼくはもともとマランツのアンプの音がクラシック向きで好きだし、ダリは初めて耳にしたが、手のひらに乗るような小型スピーカーなのに、ヴォリュームを上げても音が割れず、中音が充実、低音も大きく張り出し、高音の透明感も十分に満足できる。すごい世の中になったものだ、と感心した。しかし友人がいうには、こういう小型で安価なスピーカーのグレードは驚異的に進歩したが、自分のようにもっと高級な品を求めようとすると、昔に比べてずいぶん音質が悪く、スピーカーが買えなくて困っているという。
eeb7e4b96b28a0e12244c344914e3ca7_m※画像はイメージです。
 それはともかく、秋葉原で選んだアンプと2台のスピーカーは全部で15万円ぐらいだったと思う。有山の部屋で鳴らしたが、「第九」のコーラスのフォルティッシモがオーケストラを伴って部屋全体を満たしたときは本当にびっくりした。ピアノのソロもすばらしい。彼女もすごいですね、と大満足。もちろん「幻のコンサート」も上々。これで1、2ヶ月エイジングをすればスピーカーも柔軟性を増していっそう良くなるはずだ。ちなみに、プレーヤーはぼくが予備に持っていたラックスマンのD500X'sを貸すことにした。ぼくが必要になったときは、前記マランツのアンプと対になったCDM1を買えばよい。この組み合わせは安価なわりに音質が優秀で、大いにおすすめしたい。もっともラックスマンは高級品なので音はやや落ちるだろうが、なんといっても再生装置の音を決めるのはスピーカーである。

 ぼくは1990年前後にオーディオ誌『サウンド・トップス』にオーディオの試聴記を連載していた。曰く、「音楽家が聴く最新オーディオ製品」。毎月、同社の試聴室に足を運び、新製品の聴き比べをするのだが、ラックスマンのプレーヤーもその試聴時、いちばん気に入ったので購入したのだ(その後、このD500X'sはD7に改良され、今はそれを使っているが、現在ではもう手に入らない)。

『サウンド・トップス』のスピーカー試聴で最も気に入ったのはイギリスのハーベスHLコンパクトで、ぼくは何人の人にこの製品をすすめたか分からないが、買った人はみな大絶讃だ。音は生々しく、硬くなく、中音の充実感満点、前記ダリのMenuetをさらに良くしたような音質だったが、その後、マイナー・チェンジして音質改良。そこまでは良かったが、現在は今流行の音に変えてしまったようで、まことに残念。今流行の音というのは高音から低音までムラのない透明な音で、中音が張り出していないため、厚みのある充実感が出ない。その友人は必死になって昔のハーベスを探しているが、なかなか見つからないらしい。彼は仕方がないからB&WかJBLの高級機にしようか、といっているが、ぼくは懸命になって、あわてるなと説得しているのである。

2007年11月記 [宇野功芳]
2018年5月30日

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[リバイバル3] 宇野功芳の音盤棚 unauの無能日記 中川隆
9. 2020年9月05日 20:04:55 : MiikQNbYFc : SExPd1N4T0pwU2M=[41]
宇野功芳の音盤棚
unauの無能日記I
https://www.kinginternational.co.jp/uno/000025.shtml


 大日本雄辯會講談社。ぼくは昭和5年の生まれだから、小学生時代は「講談社の繪本」「幼年倶楽部」「少年倶楽部」「少年講談」さては「のらくろ」「怪人二十面相」などの本で育った。その発行元が大日本雄辯會講談社なのだが、この名前を見ると子供心にも誇らしかったものだ。そのくらい講談社の本は充実していたのである。

 たとえば現在やっと一部が復刻された「講談社の繪本」の豪華さといったら! ぜひ本屋で直接手に取っていただきたい。昭和11年から17年まで、実に203冊が発行され、復刻されたのはわずか20冊にすぎないが、とくに「浦島太郎」「かぐや姫」「猿蟹合戦」などの美しさ、面白さは目がくらむほどだし、「童謡画集」に描かれた戦前の日本の風景、風俗は懐かしさに涙が出る。日本という国はこんなにもすばらしかったのだ。

 なにしろこの絵本、当時の錚々たる日本画家たちが精魂をこめて画き、講談社は子供が読む本だからこそ最高のものを創ろうと志し、最上質の紙を使い、極めて贅沢な多色刷にし、心をこめて仕上げたのだ。採算を考えたらこんな絵本が出来るはずはない。戦前の日本の文化のすばらしさはとても筆舌には尽くし得ないものがある。だからぼくたちは講談社に誇りを持っていたのだ。


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 当時の子供は小学校3、4年までは「幼年倶楽部」、4、5年になると「少年倶楽部」「少女倶楽部」を購読していたが、ことに「少年倶楽部」の内容の濃さは群を抜いていた。今の子供は活字離れだそうだが、そうなるとわれわれが普通に読んでいた「少年倶楽部」など、大人が読んでも面白いのだから、文章がむずかしくて歯が立たないだろう。なんと憂うべき現状であることか。ぼくの感じでは、昔の中学生(義務教育ではない)は今の大学生よりよほど大人で、しっかりしていた。凛としていた。親も先生もこわいからだが、親や先生の子供を愛する心は現在よりもずっと深く、だからこそ子供もいうことを聞いたのである。

 講談社を創立したのは野間清治で、実に立派な顔をしている。彼が提唱したのは朗読のすすめである。曰く。

 大きい声を出して本を読むと、気分が爽快になる。姿勢がよくなり、度胸ができる。内緒話をしなくなる。いかがわしい本を開かなくなる。明朗になる。舌が滑らかになる。演説上手になる。人に好かれて出世する。偉くなるのに一番必要なものは何か。学問でも、才智でもない。その人の品性である。真面目に、真剣に、親に事つかえ、兄弟仲よくし、人々に深切に、辛抱強く、自己の仕事に奮励するならば、それだけでその人は必ず立派な人になれる事を私は確證する。

 こんな人が初代社長になり、大人の雑誌「雄辯」や「キング」を出し、子供を大切にする本を毎月出しつづけたのだから、ぼくらの少年時代はバラ色だった。「少年倶楽部」には名作が競い合って載せられた。たとえば佐藤紅緑の長編小説「あゝ玉ぎょく杯はいに花うけて」は昭和2年5月号から3年4月号にかけて連載されたが、少年たちを熱狂させ、連載前の発行部数30万部が、昭和3年新年号には45万部にはね上がったことでもわかる。筋はチビ公と呼ばれていた小学生・青木十三が、貧困にも負けず、志を抱いて生きぬく話で、その刻苦勉励に熱い友情がからむ。

 佐藤紅緑(サトウハチローの父)は最初、「ハナたれ小僧の読むような小説は書けん」と断ったのだが、当時の編集長が「子供は国の宝だ」といってついに執筆させることに成功したのだという。

 山中峯太郎は「幼年倶楽部」に「見えない飛行機」を書いて大ヒットしたが、彼はこの小説の心を、「どんなことがあっても、正しいことをきっとやりとげる、という力を、子供のときから十分につくってゆくことが大切だ。子供のときにつくった心は一生つづく。心もからだも強い子供になってほしい」と書いている。

 「少年倶楽部」には毎号あっとおどろくような豪華無類な付録がついていた。それがまた大人気を呼んだのである。たとえば昭和6年10月号の、6基のプロペラをつけた翼70センチの「大飛行艇ドックス号模型」、同年8月号の「名古屋城の発光大模型」、7年新年号の「軍艦三み笠かさの大模型」などがすばらしく、軍艦三笠では黄海海戦や日本海海戦のときの被弾の跡や、東郷司令長官が全艦隊を指揮した場所まで明示されていた。

 社長・野間清治のモットーは「面白くてためになる」だった。なかでも「少年倶楽部」には、少年の理想主義、正義、熱血、情熱などが散りばめられ、友情、勇気、正直、精神的な徳育などが最も大切にされていたのである。

 文京区関口には講談社野間記念館がある。2ヶ月ごとに展示物が変わるので、前記の付録などが今度いつ見られるのかはっきりしないが、一応ご紹介しておきたい。
2007年12月記 [宇野功芳]
2018年6月 6日

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[リバイバル3] 宇野功芳の音盤棚 unauの無能日記 中川隆
10. 2020年9月05日 20:05:47 : MiikQNbYFc : SExPd1N4T0pwU2M=[42]
宇野功芳の音盤棚
unauの無能日記J
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 6月下旬から7月末にかけて、3年ぶりにパリに行くことが出来た。昨年、一昨年は体調が今ひとつだったからだが、今年は好調に旅をつづけられた。しかし帰国後の時差の後遺症はひどく、やはりこれが最後のような気がする。

 今回はパリを起点にして、ローザンヌ、ブダペスト、ウィーン、プラハをまわったが、メインをローザンヌとし、10泊滞在した。フランスが好きなあまり、同国はすみずみまで出かけたが、スイスのフランス語圏を忘れていたのだ。すばらしかった。なによりもレマン湖のほとりのこの町は景色が最高だ。毎日、美しい湖とアルプスを眺めながらの生活は、たとえば南フランスに行くよりもずっとおすすめである。料理は当然フレンチ主体で、食材こそフランスに比べて限られているが、味は一級だ。西洋ワサビをふんだんに効かせたタルタル・ステーキなど、フランス本国よりもおいしいくらいだった。

 パリに戻ろう。ブダペストとプラハが良くなかったせいか、いっそうパリの空気がぴったりと体になじんだ。建物の美しさ、芸術性も比較にならない(その点、今回はウィーンが大いに気に入った。この町はたしかに以前に比べてきれいになった気がするし、ホテルなどの対応も向上した)。

 パリに着いて真先に行きたかったのはオランジュリー美術館。なにしろ改装に5年もかかり、再開を待ちかねていたからだが、いささかがっかり。この美術館、本来はモネの「睡蓮」が0階(日本の1階)にあったのだが、それを地下に移したため効果が半減、その批判に応えるために元の階に戻したのだ。たしかに「睡蓮」は生き返った。しかし、そのためにぼくの大好きなルノワールがせまい廊下に移され、光も弱いし、他の画家の作品とごちゃまぜになって窮屈なことこの上ない。以前はルノワールだけでゆったりと一部屋とり、その美しい色彩に恍惚、毎日のようにオランジュリー、オランジュリーと通ったのだが、もう駄目だ。モネは地下でもそれなりに良かったので、ものすごく残念! 結局パリ滞在中、一度しか行かなかった。
※画像はイメージです。

 絵では日帰りで出かけたデン・ハーグのフェルメール2点がやはり最高だった。いま日本にダブリン(アイルランド)の「手紙を書く婦人と召使い」が来ており、これをフェルメールの第1位に推すファンが多い。ぼくもさっそく見に行ったが、第1位は「デルフトの眺望」、第2位は「手紙を書く婦人と召使い」「真珠の耳飾りの女」が並ぶ。この第1位と第2位がともにデン・ハーグの同じ部屋に向き合って掛けられているのである。だからパリに行くと必ず日帰りで往復するのだが、見れば見るほどすばらしく、とくに「デルフトの眺望」は見る度に涙が出、新しい発見がある。今回は修復したらしく、絵の下半分がすごく鮮明になり、感動の極に達した。

 話は料理に移る。以前この欄でけなした"ラトリエ・ドゥ・ジョエル・ロブション"。同じ作りの店が東京にあり、味は問題なくパリより上だった。その東京の店がまずミシュランの二つ星をとったのに、パリの店は星一つ。ロブションの怒り狂う顔が目に見えるようだ。おそらくシェフも交代させられたのだろう。今回おそるおそる行ってみたが、ほとんど東京店に比肩する(ということは、やはり東京の方が良い)。ミシュランの星も今年二つになった。こんなカウンターだけで、一皿だけでもOKというような気楽な店が二つ星を取るなど、よほど料理が絶品でなければ不可能なこと。まさに天才ロブションならではだ。二度も足を運んだが、何を食べてもおいしく、ワインは一度目が珍しいムルソー(ブルゴーニュ)の赤2006年、二度目はやはりブルゴーニュのマゾワイエール・シャンベルタン2001年、ともに大正解であった。

 それにしても両方の店を訪れた日本人はみな東京の方が上だという。日本人の味覚は世界一だと思う。いや、味覚だけではない。ぼくの友人にこの夏まで3年間、横須賀の米海軍基地司令官をつとめていた大佐がいるが、退職したら日本に住みたいといっている。日本人の繊細さ、親切さ、心遣い、その他エレベーター、エスカレーター、新幹線などのスムーズさ(技術力)は世界一だという。われわれはもっともっと自信を持って良いし、そのことを若者にも伝えてゆかなければなるまい。

 料理といえばウィーンの一流ホテルで食べた牛フィレ・ステーキがこちこちの最悪だったので、これもパリから日帰りでボーヌに行き、ブルゴーニュ特産のシャローレ牛(白い牛)のステーキを口直しに食べたが、いや、そのおいしいのなんの。ウィーンはたしかにホイリゲなど、昔より良くなったが、本格的な料理は相変わらずだった。

 今夏のヨーロッパは寒い日が多く、良く晴れた日にパリの公園のベンチにすわっていると、日射しが暑すぎ、そうかといって日影に移ると今度は北風が寒く、セーターを着ずにはいられない。とにかく着たりぬいだり、実にせわしない。でも、それだけ空気が乾いて清涼だということだ。フランスはファッションの国で、パリジェンヌは美しさの代表のようにいわれているが、ぼくはそうは思わない。意外に美形は少ない。むしろドイツ、オーストリアの少女、そしてイタリア、スペインなどにすばらしい美人がいる。インドのお姫様の美しさなど、形容し難いほどだが、それでもぼくはフランス人がいちばん好きだ。フランス人は冷たいという人が多いが、親しくつきあってごらんなさい。もうしつこいほど情が深い。そうなるのがいやで、わざと冷たくしているようにしかぼくには思えないのである。

2008年1月記 [宇野功芳]
2018年6月13日

https://www.kinginternational.co.jp/uno/000026.shtml
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[リバイバル3] 宇野功芳の音盤棚 unauの無能日記 中川隆
11. 2020年9月05日 20:08:01 : MiikQNbYFc : SExPd1N4T0pwU2M=[43]
宇野功芳の音盤棚「これがUNO!」 Vol.1
Tuesday, February 20th 2007
https://www.hmv.co.jp/en/news/article/702200050/


宇野功芳、新企画始動!!
宇野功芳の音盤棚「これがUNO!」 Vol.1
ワルター&ウィーン・フィル『大地の歌』52年ライヴ

痛快書き下ろし演奏解説付き!
宇野功芳エッセイ掲載 
「オレは怠け者なのか。」〜unauの無能日記 より〜

宇野功芳氏による新企画、宇野功芳の音盤棚「これがUNO!」シリーズが始動します。永い評論家生活を通じて宇野功芳氏が絶賛してきた、数々の演奏を再度振り返り、新たな演奏解説を書き下ろしています。また、このシリーズでは宇野功芳氏の勝手気ままなエッセイ、「unauの無能日記」を連載。様々な分野の四方山話を痛快に語っていきます。
 今回取り上げられたのは、ワルター&ウィーン・フィル52年ライヴの『大地の歌』。有名なDECCA録音の2日後のライヴ演奏。ANDANTE盤はDECCA録音と全く同じ演奏だったため、発売当時、非常に話題になりました。
 何より特筆すべきは2人の声の素晴らしさ!フェリアー、パツァークの格調高くそれでいて生々しい歌声はすべてを凌駕しているといっても過言ではないでしょう。
そしてワルターもウィーン・フィルも終結部まで薄れることのない高いテンションを保ち、濃厚な演奏を繰り広げています。(キングインターナショナル)

2003年になってから、仏ターラから「大地の歌」の17日のライヴ録音がリリースされた(TAH482)。50年間、夢にまで見た52年ライヴ。涙が出るほど嬉しかった。(宇野功芳〜ライナーノーツより)

・マーラー:交響曲「大地の歌」
 キャスリーン・フェリアー(アルト)
 ユリウス・パツァーク(テノール)
 ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団
 ブルーノ・ワルター(指)

 録音:1952年5月17日 ライヴ録音 祝祭劇場

https://www.hmv.co.jp/en/news/article/702200050/
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/1080.html#c11

[番外地8] 「放漫財政論」や「貨幣プール論」は正しい、お金をこれ以上増やしてはいけない 中川隆
2. 中川隆[-11497] koaQ7Jey 2020年9月05日 22:28:17 : MiikQNbYFc : SExPd1N4T0pwU2M=[44]
「放漫財政論」や「貨幣プール論」は正しい、お金をこれ以上増やしてはいけない
現在の様な、人口が増えない、輸出が増えない、技術が大して進歩しないという状況ではGDPが増えない、経済成長しないのが正常です。アメリカや中国の様にGDPが増え、経済成長している国というのは貨幣価値が下がっているだけで、国民は豊かになっていません。
通貨は基本的にはバブルで、お金の総量を増やすと貨幣価値が減っていっていずれ紙屑になります。
お金が増えれば貨幣価値がその分下がるので、要するに、紙幣に書かれている10,000円という数値を100,000円に書き換えたという様に貨幣単位が変わったというだけの話です。

国内で流通する貨幣の価値の総額は国の工業製品、農作物、サービス価格、輸出量等の供給能力で決まっているので、貨幣が増えても減っても貨幣価値の総額は変わりません。 貨幣の名目数値が増減するだけです。

マネーサプライが毎年増えている国は毎年貨幣価値が小さくなっているので、 GDP、政府支出、地価と株価は、実質価値が減らない様に、毎年上がり続けています。
詳細そもそも日本は 生産年齢人口が減っている、輸出額が減っている、生産効率は変わらないのだから、GDP も政府支出も日本株時価総額も増えないのが正常なのです。因みに、総資産はゴールドベース、プラチナベースとかシルバーベースで見ないといけない、ドルは紙屑化しているからドルベースで判断するのは NG。 詳細は

ドルは既に紙くずになっている
https://www.globalmacroresearch.org/jp/archives/10645

世界最大のヘッジファンド: 量的緩和で人々はリッチになったような気がする
https://www.globalmacroresearch.org/jp/archives/10616

東京金(ゴールド)の上場以来の約38年間のロングチャート
https://www.rakuten-sec.co.jp/web/commodity/lineup/gold/long_chart.html

【日本のマネタリーベース、マネーストック(左軸、兆円)、貨幣乗数(右軸、倍)】
http://mtdata.jp/data_71.html#MBMS

以下は金価格。
このように実は昨年の7月頃からずーっと上がりっぱなし。

https://golden-tamatama.com/wp-content/uploads/2020/09/WS20200707AZCLOPUY000786.jpg

で、以下が金価格に換算した日経平均です。
実は、昨年9月から下がりっぱなし。

https://golden-tamatama.com/wp-content/uploads/2020/09/WS20200707AZCLOPUY000788.jpg

と言う訳で、庶民が気づかないうちに通貨は紙屑化しつつある。
たった今、ステルス紙屑化が進行中なのでした。

ただし、貨幣価値が減ったからといって給料を上げてくれる親切な会社はないので、実質賃金は下がります。
日本人の給料が上がらないから、人件費を反映する物価も上がらない

しかし、外国に行けば日本円が紙屑になっているのがわかります。
しかし、日本国内での商品価格のコストの大半は人件費なので、貨幣価値が減っても物価はあまり上がりません。
それで日本の物価だけは上がらずデフレ経済になるのですね。  日銀金融緩和の結果、国内物価が上がっていないだけで、円は海外では紙屑になっている。

マネーフローが10倍になれば貨幣価値が1/10になり、不動産価格と株価も本来の適正価格である10倍になる。
別に金融緩和で増えた金で不動産価格や株価が上がるのではなく、不動産価格や株価が本来の適正値に戻るだけです。
貨幣価値が1/10になっても、給料はそれ程上がらないので、実質賃金も1/10になります。
商品価格の大半は人件費なので、物価はあまり上がりません。
これが金融緩和してもインフレにならない理由ですね。

そもそも欧米の物価と日本の物価を比較すれば 1ドル=20円程度が適正値なのに、1ドル=110円まで超円安になっている。タイでもラーメン1杯が1000円になっているよ。

ドル自体が紙屑になっていると言われているのに、そのドルに比べても円のこの安さ。

日本人がアメリカに留学できなくなったのはアメリカの授業料が年間何百万円になったからだよ。アメリカでアパートを借りてもワンルームが月30万円だから、日本人はアメリカ留学すらできない。

そもそも日本人が作っている日本の野菜や傘、洋服や日曜品ですら日本人には高値の花になっている。こういうのをハイパーインフレーションというんだよ 。

因みに、僕がハイパーインフレーションと言っているのは
日本国民が日本で生産された野菜やミカンが高くて食べられなくなる事
日本国民が日本で生産された雨傘や衣類や日用品が高くて買えなくなる事
日本人が使うものが年収10万円の中国の農民と同じになる事

GDPの増加率や経済成長率には意味はありません。
中国やアメリカの様にGDPがいくら増えても、いくら経済成長しても国民の生活が良くなる訳ではありません。
政府がいくら金融緩和しても財政出動しても絶対にデフレから脱却できません。

日本のマネーストック M2 が増加し続けているのに名目賃金が増えない(実質賃金が減り続けている)というのは大西つねきさんが問題にしていますね。大西さんの話は間違いが多いですが、この部分は正しいです:

いま220兆円を配らなければいけない理由:大西つねきからの緊急告知と拡散のお願い - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=dawE3Kjgmbg

現在は国際金融資本(とチャンネル桜のアホ評論家)が強力に推進している MMTポリティクスで“超異次元緩和”を実施することによって、これまで(リーマン・ショック以後の金融緩和)にも増してカネが有り余った状態が作り出されようとしています。

日銀、FRB(米連邦準備理事会)、ECB(欧州中央銀行)を中心とした各国の中央銀行が注ぎ込んだ資金は既に1000兆円を超えました。


MMT の資金供給で労働者の実質賃金が下がった為に実体経済は冷え込み、製造業はじめ各種産業には資金需要がないため、だぶついたマネーがみな金融市場に流れ込み、

2020年3月中旬から6月末だけでも、世界の富豪ランキングでトップのジェフ・ベゾス(アマゾンCEO)は資産が46%も増加し、1650億j(約18兆円)になっている。

同2位のビル・ゲイツ(マイクロソフト創業者)は12%も増えて1097億jに、同4位のウォーレン・バフェット(世界三大投資家)は6%増の715億j、同5位のラリー・エリソン(オラクル創業者)は19%増加して702億j、同7位だったフェイスブックCEOのザッカーバーグに至っては63%も資産を増やし、891億jになった。

億万長者としては全体でコロナ禍に世界が沈み込んだ14週間(3月中旬から6月末)の期間に6280億jも資産が膨れあがった。

国際金融資本(とチャンネル桜のアホ評論家)が強力に推進している MMTポリティクスが原因で、富める者は実体と乖離した有り余ったカネによって働かずして富を得て、その他の圧倒的な国民、社会を実際に下支えしている側は失業や貧困、生活が破綻しかねない現実に直面しています。
http://www.asyura2.com/20/ban8/msg/305.html#c2

[番外地8] 「放漫財政論」や「貨幣プール論」は正しい、お金をこれ以上増やしてはいけない 中川隆
3. 中川隆[-11496] koaQ7Jey 2020年9月05日 22:29:57 : MiikQNbYFc : SExPd1N4T0pwU2M=[45]
「放漫財政論」や「貨幣プール論」は正しい、お金をこれ以上増やしてはいけない
現在の日本の様に、人口が増えない、輸出が増えない、技術が大して進歩しないという状況では GDPが増えない、経済成長しない方が正常です。アメリカや中国の様にGDPが増え、経済成長している国というのは貨幣価値が下がっているだけで、国民は豊かになっていません。
通貨は基本的にはバブルで、お金の総量を増やすと貨幣価値が減っていっていずれ紙屑になります。
お金が増えれば貨幣価値がその分下がるので、要するに、紙幣に書かれている10,000円という数値を100,000円に書き換えたという様に貨幣単位が変わったというだけの話です。

国内で流通する貨幣の価値の総額は国の工業製品、農作物、サービス価格、輸出量等の供給能力で決まっているので、貨幣が増えても減っても貨幣価値の総額は変わりません。 貨幣の名目数値が増減するだけです。

マネーサプライが毎年増えている国は毎年貨幣価値が小さくなっているので、 GDP、政府支出、地価と株価は、実質価値が減らない様に、毎年上がり続けています。
詳細そもそも日本は 生産年齢人口が減っている、輸出額が減っている、生産効率は変わらないのだから、GDP も政府支出も日本株時価総額も増えないのが正常なのです。因みに、総資産はゴールドベース、プラチナベースとかシルバーベースで見ないといけない、ドルは紙屑化しているからドルベースで判断するのは NG。 詳細は

ドルは既に紙くずになっている
https://www.globalmacroresearch.org/jp/archives/10645

世界最大のヘッジファンド: 量的緩和で人々はリッチになったような気がする
https://www.globalmacroresearch.org/jp/archives/10616

東京金(ゴールド)の上場以来の約38年間のロングチャート
https://www.rakuten-sec.co.jp/web/commodity/lineup/gold/long_chart.html

【日本のマネタリーベース、マネーストック(左軸、兆円)、貨幣乗数(右軸、倍)】
http://mtdata.jp/data_71.html#MBMS

以下は金価格。
このように実は昨年の7月頃からずーっと上がりっぱなし。

https://golden-tamatama.com/wp-content/uploads/2020/09/WS20200707AZCLOPUY000786.jpg

で、以下が金価格に換算した日経平均です。
実は、昨年9月から下がりっぱなし。

https://golden-tamatama.com/wp-content/uploads/2020/09/WS20200707AZCLOPUY000788.jpg

と言う訳で、庶民が気づかないうちに通貨は紙屑化しつつある。
たった今、ステルス紙屑化が進行中なのでした。

ただし、貨幣価値が減ったからといって給料を上げてくれる親切な会社はないので、実質賃金は下がります。
日本人の給料が上がらないから、人件費を反映する物価も上がらない

しかし、外国に行けば日本円が紙屑になっているのがわかります。
しかし、日本国内での商品価格のコストの大半は人件費なので、貨幣価値が減っても物価はあまり上がりません。
それで日本の物価だけは上がらずデフレ経済になるのですね。  日銀金融緩和の結果、国内物価が上がっていないだけで、円は海外では紙屑になっている。

マネーフローが10倍になれば貨幣価値が1/10になり、不動産価格と株価も本来の適正価格である10倍になる。
別に金融緩和で増えた金で不動産価格や株価が上がるのではなく、不動産価格や株価が本来の適正値に戻るだけです。
貨幣価値が1/10になっても、給料はそれ程上がらないので、実質賃金も1/10になります。
商品価格の大半は人件費なので、物価はあまり上がりません。
これが金融緩和してもインフレにならない理由ですね。

そもそも欧米の物価と日本の物価を比較すれば 1ドル=20円程度が適正値なのに、1ドル=110円まで超円安になっている。タイでもラーメン1杯が1000円になっているよ。

ドル自体が紙屑になっていると言われているのに、そのドルに比べても円のこの安さ。

日本人がアメリカに留学できなくなったのはアメリカの授業料が年間何百万円になったからだよ。アメリカでアパートを借りてもワンルームが月30万円だから、日本人はアメリカ留学すらできない。

そもそも日本人が作っている日本の野菜や傘、洋服や日曜品ですら日本人には高値の花になっている。こういうのをハイパーインフレーションというんだよ 。

因みに、僕がハイパーインフレーションと言っているのは
日本国民が日本で生産された野菜やミカンが高くて食べられなくなる事
日本国民が日本で生産された雨傘や衣類や日用品が高くて買えなくなる事
日本人が使うものが年収10万円の中国の農民と同じになる事

GDPの増加率や経済成長率には意味はありません。
中国やアメリカの様にGDPがいくら増えても、いくら経済成長しても国民の生活が良くなる訳ではありません。
政府がいくら金融緩和しても財政出動しても絶対にデフレから脱却できません。

日本のマネーストック M2 が増加し続けているのに名目賃金が増えない(実質賃金が減り続けている)というのは大西つねきさんが問題にしていますね。大西さんの話は間違いが多いですが、この部分は正しいです:

いま220兆円を配らなければいけない理由:大西つねきからの緊急告知と拡散のお願い - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=dawE3Kjgmbg

現在は国際金融資本(とチャンネル桜のアホ評論家)が強力に推進している MMTポリティクスで“超異次元緩和”を実施することによって、これまで(リーマン・ショック以後の金融緩和)にも増してカネが有り余った状態が作り出されようとしています。

日銀、FRB(米連邦準備理事会)、ECB(欧州中央銀行)を中心とした各国の中央銀行が注ぎ込んだ資金は既に1000兆円を超えました。


MMT の資金供給で労働者の実質賃金が下がった為に実体経済は冷え込み、製造業はじめ各種産業には資金需要がないため、だぶついたマネーがみな金融市場に流れ込み、

2020年3月中旬から6月末だけでも、世界の富豪ランキングでトップのジェフ・ベゾス(アマゾンCEO)は資産が46%も増加し、1650億j(約18兆円)になっている。

同2位のビル・ゲイツ(マイクロソフト創業者)は12%も増えて1097億jに、同4位のウォーレン・バフェット(世界三大投資家)は6%増の715億j、同5位のラリー・エリソン(オラクル創業者)は19%増加して702億j、同7位だったフェイスブックCEOのザッカーバーグに至っては63%も資産を増やし、891億jになった。

億万長者としては全体でコロナ禍に世界が沈み込んだ14週間(3月中旬から6月末)の期間に6280億jも資産が膨れあがった。

国際金融資本(とチャンネル桜のアホ評論家)が強力に推進している MMTポリティクスが原因で、富める者は実体と乖離した有り余ったカネによって働かずして富を得て、その他の圧倒的な国民、社会を実際に下支えしている側は失業や貧困、生活が破綻しかねない現実に直面しています。
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