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[政治・選挙・NHK279] 「共産党と政権協力」合意できる?/政界地獄耳(日刊スポーツ) 赤かぶ
14. 2021年3月08日 20:28:44 : bAOrac8YuY : SENpNGpXMENueUE=[1]
だから「しない」んだよ!

何回言ったらわかるんか?

バカか?
http://www.asyura2.com/21/senkyo279/msg/518.html#c14

[政治・選挙・NHK279] 小学生の真摯な問いかけに我々はどう応えればいいのか 永田町の裏を読む(日刊ゲンダイ) 赤かぶ
29. 2021年3月08日 20:35:12 : bAOrac8YuY : SENpNGpXMENueUE=[2]
 「ファシズム」の一般的定義

 序文冒頭に掲げたような、ファシストというのは「常日頃から、戦争とか侵略とか少数民族抑圧とか管理社会化とか悪いことばかり考えている」人のことだ、という誤解や偏見を抱いているのは、何も無知蒙昧な一般大衆に限った話ではありません。
 私の手元にある高校生用の世界史用語集では、「ファシズム」を以下のように定義しています。

 ファシズム fascism 独占資本主義下に出現した国家主義的独裁政治の形態。国家主義・反資本主義・反共産主義を唱え、内では民族主義を鼓舞し、基本的人権・議会政治を否定、経済・思想を統制、外には露骨な侵略戦争を断行した。伊のファシスタ党の運動、独のナチズム、日本の軍国主義が典型。

 これはほとんど、「戦争とか侵略とか少数民族抑圧とか管理社会化とか悪いことばかり考えている」というイメージを、学術用語をちりばめてもっともらしく飾りたてただけの云い方です。
 ファシズムをこのように説明したのでは、やはり「ではなぜ当時、知識人や一般大衆のかなりの部分がファシズムに惹かれたのか?」という疑問は、まったく解けないままとなってしまいます。
 というのも実は当たり前の話で、当の歴史学者自身が、ファシズムの「魅力」をまったく理解していないのですから、よく分かりもしないことを分からないままに説明しようとすれば、こうなる以外にないのです。しかもいわゆる「戦後民主主義」的な価値観が、アカデミズムの世界ではいまだ根強く支配的ですから、一九四五年以前のイタリア・ドイツ・日本の体制は否定されなければならない、という姿勢が、こうした文章の書き手にとって所与の前提となってもいます。
 ここに掲げたおそらくそれなりの歴史学者によるものであろうファシズムの定義は、そもそも重大な誤りを含んでさえいます。イタリアとドイツのかつての体制はファシズムですが、「日本の軍国主義」はそうではありません。「大政翼賛会」的なかつての日本の政治体制は、実はファシズムではありません。それがイタリアとドイツのファシズムに影響を受けていたことはたしかですが、少なくともファシズムの「典型」などではありません。
 近年流行の「自由主義史観」的な右派の歴史学者や歴史教育者も同じように主張しています。彼らも、「かつての日本はドイツやイタリアのようなファシズムではなかった」と云います。そのとおりであると私も思います。しかし彼らは、「だからかつての日本は間違ってはいなかった」と云いたげです。ファシストである私の立場はもちろん逆です。「だからかつての日本は間違っていた」というのが私の立場です。
 この話は、ややこしくなるのでまた後でやりましょう。

   ファシズムは反資本主義?

 先の定義の他の部分、「独占資本主義下に出現した国家主義的独裁政治」とか、「国家主義・反資本主義・反共産主義を唱え」、「民族主義を鼓舞」、「基本的人権・議会政治を否定」、「経済・思想を統制」、「露骨な侵略戦争を断行」などの記述については、完全に間違いというわけではありませんが、そもそもがファシズムに対する悪意、と云って悪ければ否定的評価、に基づいて文章自体が構成されているので、ファシストとしては当然ながら随分と居心地の悪いものに感じられます。
 しかし例えば、ファシストが「反資本主義」を唱えていたことなどは、一般には意外な事実かもしれません。
 このあたり、歴史教育の現場でも混乱があって、私なども実はかつて相当の期間、左派的な教養環境に身を置いていたのですが、そこでは次のような「説明」をよく見聞した覚えがあります。
 つまり、資本主義の弊害として貧富の差の拡大などさまざまの社会矛盾が顕在化する、そのため資本主義打倒を掲げる社会主義・共産主義の運動、つまり左派による革命運動が飛躍的に前進し、これに危機感を持った富裕層がファシズム勢力と結託して、左派の運動を暴力的に抑え込む、かくしてファシズム体制の実現となる、といった「説明」です。
 この「説明」では、ファシストは「反資本主義」どころか、追い詰められた資本主義システムの支配者たちに雇われたガードマン、平たく云えば「資本家の手先、イヌ」のような云われようです。
 しかしファシズムは「反資本主義」を明確に掲げてもいたわけです。
 この「矛盾」を解決するために、さらなる「説明」が追加されます。
 ファシストは、本気で「反資本主義」を云っていたわけではない、それは云わば、資本主義の矛盾に激昂した貧しい労働者階級の人々の気を惹くための方便だったのだ、という「説明」です。その証拠に見よ、かのナチスの正式名称「国家社会主義ドイツ労働者党」には、「社会主義」、「労働者」などと、(当時の)大衆にウケるキーワードがちりばめられているではないか、と。何のことはない、ファシズム批判者が理解不能の現象を目のあたりにした時の常套句、「ファシストは大衆をダマすのだ」という例のアレがここでも使われるわけです。
 一般に流通している世界史の教科書や参考書をいくら熟読しても、ファシズムについてきちんと理解することは不可能であると結論づけて、以下、私なりの「説明」を試みていきましょう。

   「ファシズム」の日本語訳は存在しない

 さて、「ファシズム」という言葉を日本語に直訳するとどうなるでしょうか。
 多くの方は、例えば「全体主義」などの言葉を思い浮かべるかもしれません。
 あるいは「軍国主義」、「国家主義」、「独裁政治」など。
 しかしこれは、いま挙げたいくつかの「候補」を逆に英語などに訳してみれば分かるとおり、ファシズムの日本語訳としてはどれも不適切です。
 つまり「全体主義」はtotalitarianism、「軍国主義」はmilitarism、「国家主義」は(これは異論もあるところでしょうが)nationalism、「独裁」はdictatorshipで、どれもfascismとはなりません(「ファシズム」は英語でも「ファシズム」です)。
 結論から先に云えば、実はfascismの日本語訳はないのです。
 ちゃんとした訳語のないままに、例えば『現代用語の基礎知識』などでは「イタリアのムッソリーニの政治運動とその理論をいったのが言葉の起源。それがやがてひろく他の国の同種類の国家主義運動の総称となった」などと説明されることになるのですが、要するにムソリーニの組織したのが「ファシスト党」(イタリア語では「ファシスタ党」)だったために、以後そういうものは「ファシズム、ファシスト」と呼ぶことになったというだけです。(ちなみにこの『現代用語の基礎知識』での説明も、「ムッソリーニの政治運動とその理論」と「同種類の国家主義運動の総称」としているわけですから、逆に云えばたとえ「国家主義運動」であってもムソリーニのそれと「同種類」でないものはやはりファシズムとは呼べないということが分かるでしょう)

   ファシズムとは団結主義

 ではムソリーニはなぜ自らの思想や運動を「ファシズム」と命名したのでしょう。もちろん、ムソリーニは例えば何かカッコいい響きの単語をオリジナルに発明したわけではありません。「ファッショ」という、ごくありふれたイタリア語の単語がもともと存在しています。
 「ファッショ」とは「束」のことです。「花束」などと云う時の「束」です。
 この言葉は、例えば日本語で「〜の集い」とか「〜の会」とか云う場合の「集い」「会」の意味でもごく普通に使われると聞きます。私はむしろ「〜団」の「団」と云うほうが、ニュアンスとしてはよく伝わるのではないかと思います。
 一九一九年、ムソリーニは「戦闘ファッショ」という組織を作ります。ファシスト党の前身です。
 「戦闘ファッショ」などと云うと、「ファッショ」という単語に何か特別な意味合いがあるかのように感じられますが、少なくともこの時点ではそんなものはなかったろうと私は思います。どの世界史教科書・参考書の類を見ても、この団体名はそのまま「戦闘ファッショ」とか「戦士のファッシ」(ファッシはファッショの複数形)などと記述されており、おそらく「ファシズム」の語源を読み手に理解させようとの意図からそうしているのでしょうが、ここは素直に「戦闘団」とでもしておいた方がいいのではないかと私は思います。
 何か組織を作る時の、「〜の会」くらいの意味合いでしかなかった「ファッショ」という言葉に、-ism、-istをくっつけた時に、「ファッショ」という言葉は特別な意味合いをかもし始めます。
 それにしても「会」主義、「会」主義者とはまことに奇っ怪な表現です。普通は、「〜の会」の「〜」の方に「主義」や「主義者」の言葉が接続されるものですが、ここでは「会」の方にそれがくっついているのです。このこと一つとっても、「ファシズム」というのが極めて特殊な政治思想であることがうかがわれることでしょう。
 つまりファシズムにおいては、その主張の中身よりも、自分たちが一つの「会」、集団を形成しているのだという現象の方に重きが置かれているわけです。
 云い方を変えれば、ファシズムとはつまり「仲間意識」のことであると考えてよいかもしれません。
 私はファシズムを「団結主義」と訳します。ニュアンスとしては正しいはずです。

   戦友的な「絆」

 くりかえしになりますが、ファシズムとは何らかの共通の政治的目標を実現するために団結する、その団結それ自体に価値を見いだす思想であり、その際に掲げられる「共通の政治的目標」の中身についてはどうでもいい、とまで云うと云い過ぎになりますが、少なくとも二の次にしてしまうという、まことにヘンテコな「政治思想」なのです。
 ファシストの党なり組織なりが、まがりなりにも一つの政治結社である以上、自分たちとは違う政治的目標を掲げる他の政治的な党なり組織なり勢力なりと相争うことになります。その時、ファシストの政治結社に結集した個々のメンバーは、「共に闘う仲間」となります。「単なる仲間」ではなく、「共に闘う仲間」です。おおげさな云い方をすれば、「戦友」であるということです。
 このあたり、ファシズムに対する共感をしばしば表明し、また自らも冗談とも本気ともつかぬ口ぶりで時に「ファシスト」を自称する批評家の福田和也氏も、的確に云い当てています。いわく、ファシストの理想とは「戦友的絆による社会の求心化」である。
 ファシストは、たしかに特定の社会全体が、「戦友」的な仲間意識を基盤としたまとまりや秩序のようなものとして形成されることを理想としますが、それ以前に、ファシストの組織そのものが、戦友的な「絆」の感覚によって結ばれているのです。
 話を戻すと、ファシストにとって重要なのは、自らが掲げる政治的な目標以上に、まず自分たちが団結していることそれ自体なのです。

   政治思想で結ばれたヤクザ

 云うまでもなく、これは「ヤクザの論理」です。
 ファシストの組織のありようは、ヤクザとかマフィアのそれに似ています。映画『ゴッドファーザー』に美しく描かれた、「ファミリー」の団結です。マフィアやヤクザは、自分の属する「ファミリー」や「一家」を守りながら、その勢力を伸ばしていくことにすべてを、時に生命すらを賭けます。道徳的・倫理的に善であるか悪であるかではなく、「ファミリー」や「一家」にとって有益であるか否かが唯一絶対の判断基準です。そしてここで重要なのは、マフィアにしてもヤクザにしても、その「ファミリー」や「一家」が必ずしも生物学的な血縁関係だけに基づくものではなく、むしろ多くの場合は自らの意志でまずそこに加盟することから始まる、疑似的な家族・親族の共同体であるということです。いわゆる「義兄弟」や「義理の親子」の盟約が、組織の基盤となります。
 ファシストの組織は、べつにそうした疑似家族の組織ではなくむしろ近代的な政治組織の形をとりますし、マフィアやヤクザのそれとすべてが同じということはないのですが、やはりよく似ていることは確かです。自らの意志で加盟する組織であり、最大の価値はその組織の維持拡大、そして仲間意識の涵養に置かれるといった点はまったく同じだと云っていいでしょう。
 そしてファシストの組織があくまでも政治的なものである以上、加盟に際しては、その掲げている政治的目標を共有することが当然ながら最低限の条件ともなります。
 例えばヤクザは彼ら自身がよく主張するようにいわゆる「任侠道」によって結ばれているのか、それとも彼らを非難する側が云うようにしょせんは「カネ」のための団結なのか、その実態については私もよく知りませんが、ファシストの組織は、もちろん特定の政治的目的の共有がその団結の基盤です。ファシストの組織とは、「任侠道」(もしくは「カネ」)の代わりに、政治思想で結ばれたヤクザである、と云ってしまってもよいと思います。

   「奴ら」と「我ら」

 ふたたび話を戻します。
 ファシズムとはその掲げる政治的な目標よりも、それを共有することによって形成される団結それ自体に第一義的な価値を置く、きわめて特殊な政治思想であり、あえて日本語に訳すとすれば「団結主義」とでもするのが適切であろう、という話でした。
 しかしよくよく考えてみれば、これは政治的な運動を形成するに際しては、ごくごく基本的なことでもあります。「団結」(あるいは、私にとっては「団結」の大衆迎合的な云い換えにすぎないと思われる「連帯」)を口にしない政治運動など、まずありえません。それが右であろうと左であろうとです。
 別の云い方をすれば、現在の最も主要な社会矛盾が何であり(社会に矛盾が存在し、それを是正していこうというのがあらゆる政治運動の前提です)、その矛盾によって利益を得ているがためにそれを今後も維持しようとしている階層なり勢力なりに属する人々を打倒すべき敵として設定し、逆にその矛盾によって苦しみをもたらされている階層なり勢力なりに属する人々を共に闘う仲間として組織してゆく、というのがすべての政治運動の基本的性格なのです。
 つまり、誰が敵で、誰が味方であるのか、それをまず規定するところからあらゆる政治運動は出発します。「奴ら」と「我ら」との間に、明確な分断線を引くこと、このことなしに政治運動は成立しえません。そしてその分断線の「こちら側」の人間をできるだけ多く組織し、団結なり連帯なりを実現して、「あちら側」との決戦で最終的な勝利を目指すこと、政治運動とはすべて、ぶっちゃけてしまえばそういうことです。
 細かいところはハショって、かなり大ざっぱにまとめると、右翼的な政治運動ならば、「奴ら」にあたるのが「非国民」、「我ら」にあたるのが「愛国者」ということになるでしょうし、左翼的な運動ならば、「奴ら」とは金持ち連中つまり「ブルジョア階級」であり、「我ら」とは時給いくら日給いくらで身売りして生計を立てる他ない「プロレタリア階級」ということになるでしょう。その他にも、まあ左翼運動の一種ですが、フェミニズムの運動であれば、「奴ら」とは「性差別主義者」であり、「我ら」とは「男女平等論者」ということになるでしょう。
 右にも左にも、とくに左にはさまざまな思想潮流が混在しており、個々の運動や団体によって細かい違いはいろいろとあるでしょうが、それぞれがそれぞれの言葉や云い回しで、「奴ら」と「我ら」とを峻別し、その間に境界線を引くという作業をおこなっているという点だけは共通しているはずです。
 そして、私の個人的な経験に照らせば、右や左の政治運動によってこれまでに提出されたあらゆる「奴ら/我ら」イメージに違和感を生じ、しかしそれでもなお、「奴ら/我ら」と云う他ないような対立が、自分が現に生きているこの社会には間違いなく存在するという感じそれ自体だけは否定のしようがない、という困難に逢着してしまった時に初めて、右でも左でもない、まったく新しい政治運動のビジョンたるファシズムを発見することができます。

   左右対立は終わっていない

 ファシズムは、一般的には右翼思想に分類されます。
 しかしもちろんこれは、ファシズムに対する誤解や偏見、要するに無理解に基づく誤りです。
 ファシズムに最も近いのは、これは意外に思われるでしょうが、アナキズムです。
 アナキズムは、一般的には左翼思想に分類されます。
 が、実はこれも、私に云わせれば間違った認識なのです。
 読者の中には、私が右だの左だのという言葉を多用することに、違和感や、場合によっては反感を抱く向きもあるでしょう。
 もはや右とか左とか云い争う時代は終わった、一体いつまでそんな古くさい対立図式に縛られているのだ、と。
 近年、とくに一九八〇年代後半から一九九〇年代前半にかけての、いわゆる冷戦構造やその国内版たる55年体制の崩壊以降、こうした「右とか左とか云うのはもう古い」といった話を、それこそ耳にタコができるぐらいあらゆる場面で聞かされるようになりましたが、私は逆に、そうした風潮に激しい違和感、むしろ軽蔑の念を持ちながら、この10数年を過ごしてきました。絵に描いたような、「標本」として博物館にでも飾ってやりたくなるほどの、旧態依然たる右翼や左翼の運動を担っている人間の口からさえ、こうした「いまどき右とか左とか」論が飛び出すことが別に珍しくもないのですから、私の苛立ちはもう言語に尽くしがたいほどに高じています。
 ご存じの方も多かろうと思いつつ、しかしかくも「右とか左とかはもう云々」が云われるようになって久しいために、とくに若い読者の中にはこうした基本的な常識さえ踏まえる機会を奪われてしまった向きもあろうかと思ってわざわざ説明するのですが、そもそも左右対立の構図は、18世紀末のフランス革命直後に形成されたものです。
 世界史は大きく「古代・中世・近代」というふうに整理されますが、フランス革命は、中世から近代への歴史の移り変わりを最終的に決定づけた、世界史上の最重要事件です。大ざっぱには、フランス革命以前が「中世」、以後が「近代」です。もちろん、21世紀初頭であるこの現在も、まだ「近代」の枠内です。
 フランス革命の直後に左右対立の構図ができたということは、「近代」という時代の出発点でそれが発生したということです。つまり近代は常に、左右対立の構図とともにあったのです。もちろんその表面的な現れ方は、時期によって違いますが、左右対立の構図それ自体が消えてなくなったことは、近代という時代が始まって以降、一度もありません。そして今後も、近代という時代が続いてゆくかぎり、それはあり得ないことなのです。
 近年流行の、「右とか左とか云う時代は終わった」という俗論は、冷戦(第二次大戦終結直後から一九八九年の米ソ両大国の和解までの40数年間)や55年体制(自民党vs社会・共産党の対立構図が固定的となっていた一九五五年から一九九三年までの38年間)の時期に特有な形での左右対立が終わった、という意味でなら正しいのですが、また違う形での左右対立が始まるのだという点を見落としているのです。

   「自由・平等・何とやら」

 私のファシズム論の前提ともなりますから、右とは何か、左とは何か、という基本中の基本、初歩の初歩を、ここで簡単に整理しておきましょう。
 先に書いたとおり、この問題をちゃんと理解するためには、フランス革命にまでさかのぼって考えなければなりません。といっても、歴史の本ではありませんから、細かいところは無視して、大ざっぱに整理するにとどめます。
 まずフランス革命が終わらせた「中世」とはどのような時代であり、逆にフランス革命によって始まった「近代」とはどのような時代であるのか、ここのところを押さえておかなければなりません。
 それには、有名な、フランス革命のスローガンについて考えてみるのが手っとりばやいように思います。「自由・平等・何とやら」です。
 ここで「何とやら」と曖昧にしたのにはもちろん理由があります。一般に、「自由・平等・博愛」のセットで流通している言葉ですが、「自由」と「平等」はともかく、「博愛」では何が何やらよく分かりません。実際、多くの人がこの「博愛」はほとんど誤訳であると指摘しているのです。
 「博愛」と云うと、ヒューマニズムとか人類愛のようなものをイメージする人が多いでしょうが、元の「フラタニティ」という欧米語には、そのようなニュアンスはありません。「博愛」は誤訳であると指摘する人々は、多くの場合、「友愛」と訳すべきであると云いますが、それで明白な誤りは訂正されるにせよ、そのニュアンスはやはりぼやけたままです。
 これはファシストつまり団結主義者だから云うのではありませんが、私としては、ここはやはり「団結」と意訳した方がニュアンスは正確に伝わるだろうと思います。「自由・平等・団結」です。
 どうしてその方がよいのかという説明は後回しにして、フランス革命の推進者たちが「自由・平等・団結」をスローガンとして掲げたということは、つまりそれ以前にはそれらが実現されていなかったということです。
 まず「自由」が実現されていなかったというのは、どういうことを指して云うのでしょうか。
 それはつまり権力機構が強大であったということです。権力者が、諸個人の生活における細かな領域にまで介入する権限を持っていたということです。諸個人は、その同意なしに、あるいは合理的な説明を求めることもできないままに、逮捕され処罰されたり、あるいは税金を取られたり、特定の職業や居住地を強制されたりしていました。そういうことは今後はもう認めないぞ、というのがつまり「自由」の要求で、これはとても分かりやすい話です。
 次の「平等」についても理解は容易でしょう。それ以前には強固な身分制というものがあり、王や貴族、あるいは西欧では聖職者の身分と、それ以外の平民との間では、さまざまな差別的待遇が制度化されていました。そういうことはもう終わりにしようということです。

   「同じ国民」としての仲間意識が「フラタニティ」

 そして問題の「団結」です。これが少し難しい。
 というのも、中世のいわゆる封建制社会には、今のような「国民」という発想が希薄だったのだということが、すぐにはピンとこないからです。当時は「国民」などという存在は事実上なかったようなものなのです。簡単に云えば、王や貴族は、自分の国の平民どもよりも、他国の王や貴族との間にむしろ強い仲間意識を持っていました。聖職者にしても似たようなもので、聖権と俗権の棲み分けのようなものがあって、聖職者は自分のいる国の権力組織からは半ば独立した、ローマ教皇を頂点とする国際的な教会組織の一員として自己認識していたりします。つまり中世という時代は、かなり分権的な社会で、それぞれが身を置いている部分社会においてはまとまっていますし権力構造もしっかりしていますが、たくさんの部分社会を統合する中心を欠いていたようなところがあるわけです。別の云い方をすれば、「私は貴族だ」「私は聖職者だ」と自分をとらえている人はもちろんいくらでもいますが、「私はフランス人だ」「私はドイツ人だ」などと感じている人はほとんど一人も存在しない、そんな社会だったのです。貴族や聖職者と平民とを、「同じ国民」と考える発想がなかったということです。
 「フラタニティ」というスローガンには、「これからは、我々は『同じフランス人』である、という発想を持とうではないか」という意志が込められているわけです。身分その他の部分社会的な属性でまとまるのではなく、「国民」単位のまとまりを実現しようではないかということです。フラタニティ、直訳して「友愛」とは、「同じ国民」としての仲間意識のことなのです。

   ナショナリズムは国家主義でも民族主義でもない

 ついでですから、ここで少し脇道にそれます。
 ナショナリズムという言葉は、国家主義、民族主義、あるいは国民主義などとさまざまに訳されます。しかし実は、ナショナリズムの語幹である「ネーション」の意味での「国」は、フランス革命を典型とする、「中世」を終わらせ「近代」を始める契機となったいくつもの歴史的な事件を経て、初めて登場するものです。「国民」としてのまとまりの意識を基盤とした共同体、それが「ネーション」です。ですからこれは、国家機構のようなものを指す「ステート」の意味の「国」とは違うことはもちろん、「エスニック」つまり「民族」とも違う概念です。移民など、民族的な出自が違う者であっても、「同じ〇〇国民」という感覚を持って形成されたまとまりが、「ネーション」です。
 となると、ナショナリズムを「国家主義」と訳すのはちょっとピント外れです。国家主義と云うと、国家権力(つまり政府の権限)を強化すべしというニュアンスになってしまいますが、そういう考え方とナショナリズムとは別のものだからです。また、同じように「民族主義」と訳すのもかなりズレています。ナショナリズムにおいて重要なのは、民族的な出自や血統のようなものではなく、一つの「国」を形成する一員としての自覚だからです。現在の日本で例えるならば、狭い意味での「日本民族、ヤマト民族」に属していようと、「在日朝鮮人」であろうと、あるいは「琉球民族」や「アイヌ民族」であろうと、「日本国」という一つの「国」を形成する「同じ日本国民」としてのまとまりを実現しようというのが、本来の意味でのナショナリズムです。「ナショナリズム」はやはり「国民主義」と訳しておくのが最も適切で、つまり国民単位の発想を定着させようという考え方です。これはもちろん、分権的な社会構造を放置するのではなく、中央集権的な統一国家のシステムを整備しようという発想にもつながります。
 ナショナリズムがいいとか悪いとか、あるいは国家主義や民族主義がいいとか悪いとかの話ではなしに、単に言葉の定義の問題として押さえておいてほしいことです。

   左右対立の始まり

 右と左の話に戻します。
 フランス革命はもちろん勝利して、政治制度に関しては王政や帝政といった「中世」のシステムが廃止され(あるいはイギリスなどのように、残されるとしてもほとんど名目上の存在にとどめられ)、「自由・平等・(国民的)団結」の理念に基づいた、「近代」的な新しいシステムが整備されます。
 議会です。
 すべての「国民」が、社会のありようを自らの意思で決定する、あるいは決定の手続きに参加するのだという、「国民」としての自覚と責任をもって、一人一票という「平等」な資格でおこなう投票によって代表を選び、諸個人の「自由」を可能なかぎり侵害しないことを定めた憲法の枠内で、それら代表者たる議員たちが「国民」の利害に関係するさまざまの物事を決めてゆく、という制度です。
 フランス革命後に発足した議会の様子も、現在の我が国の国会のそれとまったく同じようなイメージを持っていただいて結構です。つまり正面に演壇があり、それと向き合って、数百の議員がそれぞれ所定の席に、ドーナツやバームクーヘンの切れ端のような形をなして座っています。
 この時、たぶん演壇から見てでしょうが、右側の議席に座っていた議員たちを右翼、左側の議席に座っていた議員たちを左翼と総称したのが、政治的・思想的な方向性の意味での「右翼・左翼」という言葉の始まりです。議員たちは、それぞれの思想傾向に沿って、似た者どうし固まって座っていたのです。

   最右翼の王党派から最左翼の急進共和派まで

 では、どのような考えを持った議員たちが右側に、あるいは左側に座っていたのでしょうか。
 まず、右側の議席にいたのは、フランス革命はもう充分に成果を収めた、これ以上の改革は不要、むしろ行き過ぎになると考えていた議員たちです。
 打倒されてしまった当時の王、ルイ16世はまだ処刑されておらず、この右翼席の議員たちの多くは、王政を完全に廃止するのではなく、すでにイギリスがそうなっていたように、王や貴族にほとんど実権のない、「立憲君主制」の形をととのえることで革命を収束させようと考えていました。
 この立憲君主主義者たちが固まって座っている右側議席のさらに右側には、革命を挫折させて、かつての王政を復活させたいと目論む「王党派」の議員もいます。
 ひるがえって議会の左側議席には、革命はまだまだ進行途上であり、少なくとも現時点で獲得された成果では不充分だと考える議員たちが陣取っています。王政や貴族制度を完全に廃止しようという「共和主義者」たちです。王政を単に廃止すればそれでよしという穏健派も、いやルイ16世を処刑すべしという過激派もいます。また、こうして選挙によって選ばれた議員たちによる議会が発足したといっても、実は選挙権を有しているのは一定以上の税金を納めている富裕層ばかりで、もちろん女性にはそもそも選挙権すらありませんでしたから、そうした納める税金の多寡による「制限選挙制」をやめて、財産の有無と無関係にすべての成人男子を有権者とする「普通選挙制」を、さらにはもっと進んで「男女普通選挙制」を、と左翼席の議員たちは主張しました。
 形勢はめまぐるしく変わり、もともと左翼席に座っていた共和主義者たちが躍進して、議席の大半を占めるようになると、今度はその中の穏健な議員たちが右側議席に、過激な議員たちが左側議席に陣取るようになります。
 このように右と左はグラデーションを成していて、今の例では「近代」という新しい時代を切り開いたフランス革命それ自体を否定しようという王党派が最右翼で、これは共和主義者から見ても立憲君主主義者から見ても「おまえは右だ」ということになりますが、立憲君主主義者は、全体の中では右寄りですが、王党派から見れば「おまえは左だ」ということにもなります。共和主義者にしても、まだ王党派や立憲君主主義者が右翼席に大量に陣取っていた状況では「同じ左」として共闘もしますが、主要な対立が共和政を穏健に推進するか、それとも急進的な改革をおこなうかという点に移れば、互いに「おまえは右」「おまえは左」ということになります。
 しかし総じて見れば明らかなように、中世的・前近代的な価値に対して(妥協、さらには維持、もっとさらには復活しようと)肯定的になればなるほど右だということになり、それに代わる近代的な価値(自由・平等、そしてそのための団結)を定着させようという姿勢が強固であればあるほど左ということになります。
 自由や平等といった近代的な価値に対して肯定的であることを「進歩的」とするならば、右と左の対立とは、そもそもは保守主義と進歩主義の対立です。

   「社会主義」の登場

 19世紀に入ると、フランス革命直後には最左翼であった急進的共和主義者のさらに左に、新しい政治勢力が登場します。社会主義者です。
 社会主義がなぜ社会主義の名で呼ばれるのか、実は私もよく分かっていないのですが、おそらく今で云う「社会派」みたいなニュアンスではなかったかと想像しています。
 というのも、実は「社会問題」という言葉そのものが、中世には存在しないのです。なぜかと云えば、ある時期までは、その社会が暮らしにくいものであるとすれば、それは為政者個人の性格や力量によるもので、為政者の首をすげ替えればそうしたことは解決可能であったからです。
 ところがある時期以降、そんな簡単な問題ではすまされない状況へと急速に変化していきます。資本主義の進展ということです。
 フランス革命自体、実は資本主義の急激な発達を助長するものでした。云いかえれば、中世のさまざまの制度が、資本主義の発達にとって足かせとなっていたということでもあります。職業選択の自由がないことはもちろん、王や貴族によって保護された一部の職人団体がさまざまの特殊権益を維持していたり、あるいは商品を流通させようとすればその過程のあちこちに税金がかけられていたりもします。職業選択の自由がないということにも関係しますが、例えば工場で大量の労働者を雇わないことには安価な商品の大量生産など不可能ですが、農民は農民、職人は職人という身分社会には、わざわざ工場に雇ってもらわなければ食っていけないような「なにものでもないただの人」というのがそもそもほとんど存在しないのです。そのため当時成長しつつあった初期の「資本家」の多くは、フランス革命において革命勢力側についたのです。
 ところがフランス革命を典型とする「中世」から「近代」への転換をもたらすいくつもの歴史的大事件と共に、資本主義のメカニズムが全面解放されていくに従い、その弊害もまた目に見える形で次々と表面化していきます。
 資本主義の発達には大量の労働者が必要とされますし、それを困難としていたさまざまの中世的諸制度が次々と撤廃されていきますから、資本家はありとあらゆる手段で、自らが経営する工場で働く労働者を確保します。食いつめた最下層の農民は、なまじ職業選択の自由があるために、そのまま最下層の工場労働者へと立場を移行させてゆきます。労働者を保護するための法律などほとんど整備されていない時代ですから、労働者たちは完全に資本家の云いなりです。多くの労働者は低賃金・長時間労働など劣悪な条件で酷使され、資本家側の一方的な都合で失業する可能性に日常的に直面しています。最下層の労働者や失業者、そして移民労働者たちがスラムを形成しはじめます。こうしてとくに都市部の住民は、一握りの資本家とその他大勢の貧しい労働者とに次第に二極分化していきます。
 このような、資本主義メカニズムの全面開花によるさまざまの深刻な問題は、為政者個人の責任に帰すことができません。これらは誰か特定の極悪な権力者がいるせいで生じている問題ではなく、資本主義という大きなメカニズムそれ自体が生み出している問題だからです。つまり、社会構造そのものをどうにかしないことには解決不能の問題であり、だからこれは「社会問題」なのです。そしてこの「社会問題」の解決を目指す人々が、「社会主義者」と呼ばれ始めるのです。

   左翼思想の代名詞となったマルクス主義

 社会主義者たちの主張はさまざまで、要するに資本主義が悪いのだという認識は徐々に共有されていったとはいえ、どうすれば資本主義を終わらせる、あるいはその弊害を最小限に食い止めることができるのかという具体的な運動の形は、長い期間をかけて試行錯誤されました。
 労働者が団結し、労働組合を作って資本家や政府にさまざまの要求をするとか、あるいは選挙権の拡大によって可能となった、労働者を支持基盤とする政党の議会進出などがおこなわれるようになりました。
 またさまざまの社会主義思想家が誕生し、要するに資本主義においては、一部の資本家がさまざまの産業を運営するために必要な資金(資本)や設備(生産手段)を私有しており、それに対して労働者は自分の体ひとつ以外に何も所有していない、ここにすべての原因があるのだから、資本や生産手段は特定の個人ではなく社会全体の共有財産とすべきだという主張は、かなり早い時期からおこなわれるようになっていました。ここから、社会主義の別称として「共産主義」という言葉も使われるようになりました。
 19世紀半ばから後半にかけて、これら一群の社会主義の主張を整理統合し、資本主義を廃止するための壮大な理論体系を構築したのがかの有名なマルクスです。
 社会主義の思想や運動に、マルクスがもたらしたインパクトはあまりにも大きく、20世紀初頭には、資本主義の弊害を最小限に食い止めるための漸進的な努力を続けようという妥協的な「社会民主主義」の勢力を除く、革命という強硬手段によって資本主義を廃止しようとする非妥協的な社会主義とは、ほぼイコール「マルクス主義」のことであるような状況となります。
 これら一連の社会主義の主張も、「左翼思想」に含まれます。というより、19世紀を通じて拡大・発展を続けた社会主義こそが、「左翼思想」の代名詞的な存在となるのです。
 というのも、社会主義も実はフランス革命の理想を、さらに純化していこうという方向性を持っているからです。フランス革命が、中世の身分制社会を終焉させたことは正しい、しかしそれに代わる新しい身分制が生み出されてしまった、それが資本家階級と労働者階級である、この階級対立を終わらせることで、やっと人類社会は真に「自由・平等・団結」の理想を実現できるのだ、という発想が社会主義の根底にあります。つまり彼らは社会の「進歩」を信じています。中世に比べれば、この資本主義近代ははるかにマシだし、それは進歩である、そしてそれは社会主義の社会へとさらなる進歩を遂げるべきである、ということです。

   「昔はよかった」と「昔よりマシ」

 さきほど右と左の対立とは、要するに保守主義と進歩主義の対立であるとしました。さらに平たく云えば、右も左も「今の世の中はおかしい」と感じ、それを現実に変革しようとする立場ですが、右翼思想は「昔はよかった(あるいは、まだマシだった)」というメンタリティに支えられ、左翼思想は「昔よりはマシになったが、まだまだ不充分だ」というメンタリティに支えられているということでもあります。
 仮に社会というものが少しずつでも「進歩」していくものだとすれば、かつて左翼的な立場に身をおいていた人が、彼の設定する「理想」が実現した時点で右でも左でもない現状維持派となり、彼が望んでいた以上の「進歩」がおこなわれ始めると、「元に戻せ」という右翼的立場へと自らを移行させることになるでしょう。
 逆に、これも「進歩」という発想を前提とすれば、右翼勢力の運動などによって社会状況が「後退」してしまうこともあり得ます。その時にはもちろん、今挙げた例とは反対のことだって起こり得ます。右翼的な立場に身を置いていた人が、当人の期待する以上に状況が「後退」してしまったと感じ、その段階での現状維持的な立場の人よりも自らの立ち位置が左側になってしまうケースです。
 繰り返しますが、右と左とは、真ん中に「現状維持」「現状肯定」の立場を挟んで、グラデーションを成しているものですから、ある立場が右であるか左であるかは、その時々の「現状」如何によるのです。
 しかし政治運動とはすべて現状を変革することを目指すものです。それが政治運動である限り、時間軸のある一点をとらえれば、その「現状」に比して右翼運動であるか左翼運動であるかの必ずどちらかであるわけです。つまり、右と左の対立は、冷戦や55年体制が崩壊しようがどうしようが、現在も絶対に存在するのです。

   「現状維持」は右か左か

 ここで話を少しややこしくします。
 実は現状を維持しようという政治運動もあり得ます。逆に云えば、状況が右や左に変化しようとするのを、阻止しようとする政治運動です。これは、右翼運動なのでしょうか、それとも左翼運動なのでしょうか、それともそのどちらでもないのでしょうか。
 もちろんこれも、右や左というのはそもそも相対的な問題なのだということ、それから、状況はたえず右にも左にも揺れ動いているのだということを踏まえれば、すぐに分かることです。
 つまり、状況が左へ移行しつつある時に(つまり「進歩」局面である時に)、それに抵抗して現状維持を図るとすればそれは右翼的な政治運動であるし、状況が右へ移行しつつある時に(つまり「後退」局面である時に)、それに抵抗して現状維持を図るとすればそれは左翼的な政治運動です。そして、状況は常にどちらかに移行しようとし、局面の変化が完全にストップすることなどありませんから、現状維持の政治運動というのも、やはり局面によって右翼運動であるか左翼運動であるかのどちらかでしかあり得ないということになります。
 もちろん「無関心」という意味で、常にその時の「現状」維持を利する立場もあり、それは実際、右でも左でもない立場ということになりますが、無関心はそもそも政治運動ではありませんから、すべての政治運動は右か左のどちらかでしかありえないというここでの立論とは無関係です。

   左翼思想の根底には「普遍的価値」がある

 さらに話をややこしくします。
 ここまで、フランス革命を挟んで、その前後の社会状況の変化を「進歩」とみなす前提で、右と左を定義してきました。
 では、それを「進歩」とはみなさない、あるいは、社会状況はいろいろと変化し続けるかもしれないが、それは「進歩」とか「後退」とかいった問題ではない、との考えに立って、それでもなお政治活動をおこなうことは可能です。この場合は、どうなるのでしょうか。
 結論から云えば、そのような政治運動はすべて右翼運動です。というよりも、実は本来の右翼運動はそういうものであるはずなのです。
 そもそも社会状況が「進歩」するとは、どういうことでしょうか。
 簡単です。社会状況が、「合理的」な方向へと変化することです。逆に云うと、結局は同じことですが、「理不尽」なことが減っていく方向での変化が「進歩」です。
 そして、実は左翼思想とは、合理的な社会をよしとする立場であり、右翼思想とは、合理的であることが必ずしもよいことであるとはかぎらないとする立場なのです。
 なぜフランス革命が今もって最重要の歴史的大事件であるかといえば、それがそれ以前になんとなく成り行きで起きていたいくつかの歴史的なやはり大事件、つまりイギリスのピューリタン革命、名誉革命、アメリカの独立革命などですが、それらに際して発せられた主張や、それらの地でその前後に実際に生じた社会状況の変化を体系的に意味づけした上で、つまり云わば理念先行の色彩が濃厚な形でおこなわれた革命であったためです。イギリスやアメリカの革命で、蜂起した側が自分たちの行動を正当化するために、実は後づけ的にひねり出したさまざまの理念、具体的には「社会契約説」だの「自然権(いわゆる基本的人権)」だの「三権分立」だのといったデッチ上げ理念が、何か人類が共通に目指すべき普遍的な価値であるかに盛大に流通していた状況を前提として、それに基づいて、あるいは少なくともそれを追い風として実現されたのがフランス革命なのです。だからこそフランス革命は、中世から近代へという世界史の重大な局面変化を、最もよく象徴する標準モデル的な事例となり得たのだとも云えます。
 そしてこのフランス革命以後、何らかの「普遍的」と称する理念に基づいた社会変革の構想が次々と提出され、また実行に移されることがそれこそ「普遍的」におこなわれるようになってきたのです。マルクス主義はその典型です。
 左翼思想とはつまり、何か実現すべき普遍的な価値が存在する、ということを前提とする政治思想です。逆に、そんなものは存在しない、ということを前提とする政治思想が右翼思想なのです。
 それが例えば「基本的人権」とか「三権分立」、「普通選挙制」のようなものであろうと、あるいは「平和主義」、「差別撤廃」、「自然保護」、「多文化主義」といったものであろうと、何らか目指すべき普遍的価値を掲げておこなわれる運動はすべて左翼運動です。

   「普遍的価値」を認めないのが右翼思想

 逆に右翼運動は、それぞれの民族や地域に特有の「伝統的価値」を守ろうというものですが、伝統的な価値はもちろんどれもこれも、普遍的な価値ではありません。それぞれの民族や地域の共同体の長い歴史の中で、突発的なものや偶然によるものも含めたさまざまの具体的出来事の積み重ねや、あるいは疫病や災害などの自然環境的な条件や、さらにはどの民族や地域でも歴史上たまに出現する強烈なキャラクターの言動などが相互に複雑に影響しながら、要は成り行きで形成されるのが伝統的な価値で、当然のことながらそれらは何ら普遍性を持つものではありえず、むしろ理不尽、不合理なものである場合がほとんどです。
 さらに踏み込んで云えば、右翼運動は、伝統的価値を守ることに汲々とするあまり、一切の変化を否定するというものでもないはずです。そもそも伝統的な価値それ自体が、さまざまの成り行きで形成されたものにすぎません。ですから、それがさらに長い時間の経過の中で、成り行きによってまた変化していくことは当たり前のことなのです。しかし、その変化が成り行きでなく、何か人為的に提出された普遍的な価値や理念のようなものに基づいて、意識的に引き起こされることに反対するのがつまり右翼運動だということになります。
 これは先に展開した、相対的な左右の定義ではなく、絶対的な定義です。
 相対的定義を援用すれば、例えばいかに急進的な共和主義を掲げていようが、さらに左の社会主義の立場から見れば右翼思想だということになりますが、絶対的定義を援用するなら、社会主義だろうが共和主義だろうが、あるいはさらに「右」の立憲君主主義だろうがもっと「右」のナントカ主義だろうが、それが実現すべき何らかの普遍的と称する価値を「何々主義」という形で掲げている以上はすべて左翼思想だということになります。

   かつて私は左翼活動家だった

 かくのごとく私は、私なりの政治活動遍歴の過程で、「右とは何か、左とは何か」という問題にしつこくこだわり、思索を重ねて続けてきました。
 それはもちろん、私は一体右翼なのか左翼なのかということが、次第に分からなくなってきたからでもあります。次第に分からなくなってきたということは、つまり当初はそれははっきりしていたということです。
 私はかつて、間違いなく左翼活動家でした。
 私の政治的履歴の出発点は、一九八〇年代後半に日本全国の中学高校に蔓延していた、行き過ぎた生徒管理、つまり理不尽な校則や体罰などのことですが、それに抵抗する「反管理教育」の活動家としてのそれです。
 その時点での私の思想的な立ち位置は、云ってみれば「基本的人権の尊重をもっとしっかりおこなえ」ということで、社会主義も共産主義も知らないただの子供でしたから、先の相対的定義で云うところの、「現状」を真ん中において「ちょっと左」という程度だったでしょう。
 それでも私は当時すでに、自分は左翼陣営の一員であるとの自覚を持っていました。「生徒の人権」を掲げる私の主張や行動に好意的な教員には当然というか何というか、日教組の組合員が多く、日教組が日本における左翼陣営の主要な構成団体の一つであることを、単に知識としては知っていたからかもしれません。あるいは当時愛読していたジャーナリストの本多勝一氏の著作で、氏と対立する思想的立場にある論者が「右翼」とか「右派」(とか「保守反動」とか)と規定されていたために、では我々(私や本多氏)は「左翼」「左派」ということなのだろうと素直に受け入れたのだったかもしれません。
 高校在学中は、左翼といっても極めて牧歌的な水準にいた私ですが、高校を中退し、それでもしばらくは「反管理教育」の活動を継続しながら、次第に本格的に思想的な書物を手にしたり(といっても大半は入門書レベルのものでしたが)、あるいは大人の左翼活動家との交流が始まったり、ついには私自身がマルクス主義に傾倒して、そうなると自分は左翼活動家であるということは、疑う余地のない単なる事実にすぎなくなりました。マルクス主義者となった当時、私は18歳でした。

   異端的極左活動家としての孤立

 私にはそもそもつい極端に走る性向があるようで、当初は古典的・原則的で穏健なマルクス主義者であったのが、自身の思考や感覚の中にある保守的な要素や「世間の常識」の汚染、残滓を執拗に洗い落とすような内的作業を繰り返すうちに(私は思想的に潔癖症でもあるのだと思います)、当然のごとく私はみるみる過激なマルクス主義者へと変貌していきました。実際問題としても、当初はいわゆる「戦後民主主義」を礼讚する日本共産党のシンパだったのが、次第に新左翼党派的な感性になり(もっとも具体的な組織に属したことはありませんが)、20歳の頃には完全に、20年遅れの全共闘活動家でした(いわゆる「ノンセクト・ラジカル」、若い人のために注釈すれば「党派に属さない過激派」になったということです)。
 自分がマルクス主義者であることをやめたのは21歳の時ですが、もちろん挫折して右傾化したわけではなく(少なくとも主観的には)、マルクス主義の範疇に収まりきらないくらいにさらに過激に走ったのです。
 当時の私が具体的にどのような活動をおこなっていたのかという話は私の別の著作なりサイトに別途掲載している活動史年表なりに譲りますが、さまざまの具体的行動と並行しての「左へ、左へ、さらに左へ」という私の内面における思想的ドラマは、10代後半から20代前半にかけて展開されたものです。これはちょうど一九八〇年代後半から一九九〇年代前半にかけて、ということです。つまりまさに冷戦や55年体制が崩壊していくさまを横目に見ながら、私は飽くなき左傾化の道を爆走していたのです。といってももちろん社会状況の変化に知らぬ存ぜぬを決め込んでのことではなく、逆にそうした変化を踏まえてものを考えれば考えるほど、私には自身の左傾化をさらに推し進める以外にないと思われたのです。
 ところが当時はむしろ、左翼陣営を形成する無数の活動家の大半が、私の道行きとは正反対に、その主張や行動を急速に微温化させていく時期でした。「右とか左とかはもう古い」という、幅をきかせはじめた俗論におもねるように、彼らはいかにも左翼的な作風を忌避しはじめ、かつては日和見の代名詞であった「社会民主主義」を称揚したり、ビラの文字を丸文字化したり、可愛らしいイラストを多用したり、「反何々」と云うのをやめて「脱何々」と云い換えたり(近年この傾向はますます進行し、連中はビラや小冊子をフライヤーだのフリーペーパーだの、デモをウォークだのとぬかすようになりました)、果ては先にも書いたように彼ら自身が「右とか左とかもう古い」などと左翼のくせに云いだす始末で、云ってるうちに自身で自身を洗脳してしまうメカニズムがはたらくのでしょう、現在もはや左翼活動家の多くは自身が左翼活動家であるという自覚を欠いています。彼らは「左翼運動」ではなく「ボランティア」や「NPO活動」をおこなっているつもりでいるようです。
 そんな具合ですから、私は私が本来は共に陣営を形成して闘う仲間であるはずなのにと固く信じている左翼運動シーンで、急速に浮いた存在となっていきました。方針(というより作風の選択)をめぐって他の左翼活動家と衝突せざるを得ない場面も激増し、しかも数はあちらの方が圧倒的に多いわけですから、さまざまの薄汚い中傷を含めた罵詈雑言を浴びせられて、結果としては私はその世界から放逐されてしまったのでした。左翼運動シーンに完全に自分の居場所はないと観念したのは25歳頃のことですが、22歳の頃には事実上放逐されていました。
 こうした過程で、「私は現在もまだ左翼活動家であると云えるのだろうか」という自問自答を、私は何度となく繰り返さざるをえなかったのです。私は10代後半に政治的に目覚めて以降、ずっと自分は左翼陣営の一員であると思ってきたし、その後の思想的変化も要は「ちょっと左」だったのが「すごく左」になっていく経路であったし、左翼運動の世界でむしろ尊敬されてもいいところを、なぜにこれほどの迫害をこうむらねばならないのかとその理不尽さに歯がみする思いであったのです。
 20代半ばにして私がくだした一応の結論は、「少なくとも現在の日本に左翼活動家と呼びうる存在は私一人しかいない」というものでした。ゆえに私には、日本の左翼陣営というものを、これから一人で形成していく責任があると思い、また当時は時にそう公言してもいたものです。
 滑稽な話と思われるでしょうが、私は真剣でした。
 今にして思えば、私はやはり状況を見誤っていたのです。

   マルクス主義を捨てアナキストに

 私が当事者として目のあたりにした左翼運動の急激な変質は、もちろん私が当時そう考えたように、彼らが左翼であることをやめた、あるいは左翼陣営から脱落した結果として生じた現象ではなく、冷戦や55年体制の崩壊といった社会状況全体の大きな変化の中で、端的に云えば左翼運動の役割が変化したために生じた現象だったのです。そして、自分こそ最後の左翼活動家であり、またそれゆえに新しい時代の最初の左翼活動家であるという名誉をも手にしたのだと息巻いていた私の方が、むしろこのポスト冷戦の時代状況の中では、もはや左翼陣営の内部には居場所を見いだせない、しかもむろん右翼活動家でもありえない奇っ怪きわまる存在と化していたのです。
 先に、21歳にして私はマルクス主義を放棄したと書きました。現在の私の認識では、実は私はこの時点ですでに左翼ではなくなっていたのです。
 マルクス主義者であることをやめた私は、では何になったのでしょうか。
 当時さまざまの理由から、私はアナキストを自称することを、厳しく自らに禁じていました。しかしやはり私は実際のところ、マルクス主義を放棄してアナキストになったのです。
 アナキズムは普通、無政府主義と訳されます。
 要するに政府なんかいらないということですが、多くの人は「そんな無茶な」と思うでしょう。
 政府なんかいらないというのは、国家権力それ自体を廃止すべしということと同じですが、アナキストがなぜそんなことを云い出すかといえば、国家権力というものは、否応なくその傘のもとに置かれている諸個人の自由を、多かれ少なかれ制限しないではありえない存在だからです。
 アナキストにかぎらず、もともと左翼全般に、国家権力を悪とみなす発想は広く共有されています。もちろん左翼の多くは、悪は悪でもそれは必要悪であると考えているでしょうが。

   自由主義と民主主義は両立しない

 予定していた以上に遠回りをして、なかなか本来説明したいファシズムの話にたどりつかないので、書いている私自身がもどかしい気持ちでいるのですが、ここはその「ファシズムとは一体どういう思想なのか」ということにも実は密接に関わってくる部分なので、やはり丁寧にいきます。
 ややこしい議論になります。
 またもやフランス革命の話です。
 「自由・平等・団結」の話ですが、「近代」の出発点に掲げられたこの3つの理想は、実は必ずしも互いの相性がよくないのです。正確には、「自由」と「団結」、また「平等」と「団結」も両立可能ですが、「自由」と「平等」が問題なのです。
 「自由」の原理を政治的に理念化したものが「自由主義」であり、「平等」の原理を政治的に理念化したものが「民主主義」ですが、自由主義と民主主義とは本質的に対立するという指摘を、実は過去にもたくさんの論者がおこなっているのです。
 自由主義と民主主義は、そもそも発想を異にする、云わば「ジャンルの違う」思想です。
 自由主義とは要するに、国家権力の縮小を求める思想です。自由主義者にとって最も重要な関心事は、国家権力に諸個人の言動をできるかぎり制約させないということで、自由主義者の云う自由とはまず何よりも国家権力からの自由です。極端な話をすれば、たとえその国家権力の行使に関する意思決定が国王一人の手に委ねられていたとしても、実際にその権力の及ぶ範囲がかぎりなく小さく設定されているのであれば、それでまったく構わないというのが自由主義です。
 これに対して民主主義とは、国家権力の行使に関する意思決定に、できるだけ多数の「国民」が関与することを求める思想です。国王一人が決めるよりも、たとえ全体の中のごく一部であっても複数の有力者を、一部有力者だけでなく成人男子全員を、男子だけでなく男女双方を、意思決定に参加させろというのが民主主義者の基本的な要求で、つまり選挙権拡大の程度が民主主義がどれだけ実現しているかを示す象徴的な指標ともなります。最近では、特定の問題については「国民」だけでなく外国人にも何らかの形で投票権を与えよという主張さえ登場していることはよく知られているとおりです。これまた極端な話、「みんなで(多数決で)決めた」結果であれば、諸個人の自由を大々的に制限するような国家権力の強化がおこなわれても、民主主義者としてはまったくそれで構わないのです。
 民主主義にはそもそも国家権力の強大化を招きやすい傾きがあります。全員参加の国家権力なのですから、必然的に国家機構それ自体が巨大で複雑なものとなります。また「自由からの逃走」と呼ばれる問題もあります。圧倒的多数の大衆は、あまり切実に「自由」など欲しないという現実です。大衆には、国家権力からの自由よりも、国家権力による保護を求めたがる傾向があります。
 そしてまさにここに、自由主義の理念と民主主義の理念とが、単に性質を異にするのみならず、いずれは必ず正面衝突してしまう原因があります。
 程度の問題にもよりますが、自由主義者は多少の安全上のリスクを負うことになるとしても、自由を犠牲にしたくないと考えるものです。しかし圧倒的多数の大衆は、わずかばかりの安全のために、平気で自由を国家権力に売り渡します。
 旧西側諸国が掲げていた「自由民主主義」なるものは、旧東側の奇妙な(あくまで自称ですが)「共産主義」体制に、自由主義者と民主主義者とが協力して対抗するためにひねり出された云わば妥協の産物であって、本来そんなヘンテコな「主義」はありません。
 あえてそれらしく整理すれば、「自由民主主義」とは、政治制度としては民主主義的な多数決の原理を採用し、啓蒙的なスローガンとして自由の価値を喧伝することでバランスをとるしくみですが、実態としては民主主義がメインで自由主義はしょせん飾りのようなものです。それでもまだ共通の敵たる旧東側諸国が存在している間は、なんとか取り繕っていられたわけですが、その共通の敵が倒れてしまえば、両者の間にある本質的な両立不能性が顕在化してくることになります。つまり民主主義的な多数決の原理によって、「安全・安心」な社会環境の整備と引き換えに、自由はどこまでも縮小されていきます。

   アナキズムとマルクス主義

 話を少し先に進めすぎました。
 とりあえずはアナキズムについてでした。
 アナキズムとはつまり、近代の出発点に掲げられた理想の一つ、「自由」を政治理念化した自由主義を、最大限に徹底した政治思想です。国家権力はできるだけ縮小すべきであるというのが自由主義ですが、それを徹底すれば当然、国家権力などなくしてしまうべきだという話になります。
 徹底した自由主義者であるアナキストが、民主主義者と対立する局面は、歴史上、現実に存在しました。普通選挙制の導入に際してアナキストがこれに反対したことなどはその典型的な事例といえます。選挙権を持つということは、否応なく国家権力を形成する一員とみなされる、要するに自らも国家権力に取り込まれるということですから、アナキストが本能的に反発するのは当然です。
 しかしそもそも国家権力を完全に廃止するなんてことが、本当に可能であるとアナキストたち自身は思っているのでしょうか。発想というか、気持ちや動機は理解できるが、しょせん非現実的な妄想、おとぎ話の類ではないかと、ほとんどの人が感じることでしょう。
 アナキストがそれなりの政治勢力として存在感を示していたのは19世紀後半ですが、それは既存の雑多な社会主義の思想がマルクスによって整理、体系化されていく時代であり、自身が体系化をほどこす以前のそれらをも「空想的社会主義」と嘲笑的に呼んで一刀両断にしたマルクスにとって、アナキズムなどは空想以前の妄想、お話にならない、論外の存在だったでしょう。しかし実際のところ、次第に社会主義の「統一理論」のようなものへと影響力を拡大していくマルクス主義に反発した社会主義者たちはむしろアナキズムへと接近し、一八六四年に結成された史上初の社会主義者の国際組織「(第一)インターナショナル」の内部では、プルードンやバクーニンを中心とするアナキストと、マルクス本人やエンゲルスを中心とするマルクス主義者との間で激しい論争が繰り返されました。
 フランス革命で提示された近代的な理念、「自由・平等・団結」の理想を徹底した、左翼思想の究極の統合態であるマルクス主義も、実は「国家の廃止」を掲げていました。しかしマルクスによれば、階級というものが存在しているかぎり国家の廃止は不可能であり、なぜなら支配階級が被支配階級を、つまりフランス革命以後の「近代」という時代状況にあてはめれば資本家階級が労働者階級を抑圧する装置として国家権力は存在しているのだから、まずは革命によって労働者階級が国家権力を奪い取って逆に資本家階級を抑圧する装置としてこれを活用、ついに資本家階級というものが一掃された段階で、初めて国家権力は不要となり、その廃止も実現可能となるのでした。
 このように「国家の廃止」というアナキストの専売特許であったような壮大な理想さえ、まがりなりにも現実的で「科学的」なビジョンとして提示したマルクスにとって、そうした具体的な道筋も踏まえず今すぐにでもそれが可能であるかのように云うアナキストなど、聞きわけのないダダっ子の類としか思えません。
 そして結局、アナキズムは展望のない非現実的な夢物語であるとのイメージが支配的となり、急速に影響力を失っていきます。

   アナキストのマルクス主義批判

 しかしこの「国家の廃止」を掲げたマルクスのもっともらしいプログラムに対して、アナキストのバクーニンがおこなった反論は、もちろん対案とまでは呼べませんが、正しいものでした。それは、いくら「国家の廃止」を目標に掲げる階級や勢力でも、いったん国家権力を手中にした連中はそれを手放すまいと躍起になるだろう、しかも実際には、マルクスの提示したようなやり方では、労働者階級の利益を代表すると称する特定の集団が実権を握り、さらにはその特定の集団の利益を代表すると称する特定の個人が実権を握り、要するに現在の資本家階級が握っている国家権力よりもはるかにろくでもない最悪の国家権力が誕生するに違いない、というものでした。ロシア革命が勃発した時、すでにマルクスもバクーニンも生きてはいませんでしたが、ソ連をはじめとする旧東側の「共産主義」諸国は、もしかするとバクーニンの想像をも上回るほどの暗黒社会を実現してしまいました。
 結局、アナキストというものは、「永遠の反体制」のようなものとしてしか存在しえないのかもしれません。頑固な自由主義者として、国家権力の横暴に悪態をつき続ける、またその拡大の兆候に敏感に反応して世間に警戒信号を発する、アナキストに可能なのは、現実的にはその程度のことでしかないのかもしれません。
 あるいは、社会全体のことはもうどうでもいい、少なくとも自分のことは放っておいてくれという態度を徹底させるのも、アナキストが現実におこないうる実践でしょう。税金など払わない(収入が捕捉されるような仕事にはつかない)、その代わり福祉の世話にもならないし、何かあっても警察なんかに頼らない、そういう生き方を徹底するのです。冗談2割本気8割ですが、私はゴルゴ13こそはアナキズムの究極の理想像だと思うのです。
 なんだか話が脇道にそれるのが常態のようになってきていますが、どれもファシズムを正確に理解する前提として重要なことです。説明の道筋がざっくばらんにすぎるというだけで。
 21歳の時、つまり一九九一年に私はマルクス主義を放棄し、アナキストになったのだという話の途中でした。先に述べたとおり、当時アナキストを自称したこともなければ、正直なところ、自分はアナキストであるという自覚も持っていなかったのですが、今にして思えばあの頃の私はアナキストだったのです。

   マルクス主義は必ずスターリニズムを招く

 マルクス主義を放棄したのはもちろん、マルクス主義に基づいて革命をやれば、スターリニズムを結果してしまうのは不可避であるとの説に、納得させられてしまったからでした。
 スターリニズムというのは、簡単に云えばかつてのソ連や東欧諸国、そして現在の中国や北朝鮮のような体制です。「自由・平等・団結」を真に実現しようというマルクス主義の理想を、当事者たちはそれなりに本気で追求したにもかかわらず、その理想とはほど遠い、単なる独裁政治とも異なる独特のグロテスクな暗黒社会が形成されてしまう、それがまあ、スターリニズムです。ソ連でそれを完成させてしまったスターリンの名前が語源ですが、このスターリニズムという言葉は、後に本格的にファシズム論を展開する際、さまざまに意味づけを変えながら頻出させますから、もし知らない人がいたら必ず覚えておいてください。
 マルクス主義に基づく革命は必ずスターリニズムを結果するという説を、私は、笠井潔氏の一連の著作を熟読することで受け入れました。特異な思想家であると同時に、近年では探偵小説の作家としての活躍がむしろよく知られる笠井氏ですが、彼はさらに、革命をふたたび現実的な希望として甦らせるためには、革命に関する思考を、マルクス主義の呪縛から解放しなければならないと云い、私はこの点についてもそのとおりだと納得しました。

   「反共左翼」であることをやめたアナキストたち

 私は一九九〇年代の大半の時期、「反共左翼」を自称していました。論理矛盾だと非難されることもありましたが、これは「反マルクス主義の左翼」(「非マルクス」ではなくあくまでも「反マルクス」)ということで、論理矛盾ではありません。実は後になって知ったことですが、大正時代に一部のアナキストも使用していた言葉でした。
 そもそもマルクス主義の成立期からアナキストはこれに執拗に批判を加えていたわけで、仮にアナキズムも左翼思想の枠内に入れておくとすれば(実際、通常はそうみなされているのですが)、アナキズムは本来まさに「反共左翼」だったのです。
 それでも私が断固として自らがアナキストであることを当時認めなかったのは、何よりも、日本になお細々と存在するアナキズムの運動の多く(というよりほとんどすべて)が、もはやマルクス主義者の運動との間に緊張感を持続させ得ず、むしろ事実上、消極的にではあれその同伴者へと成り下がっている現実があるからでした。マルクス主義と対決する意志を欠いたアナキズムになど、当時の私は一切の魅力を感じなかったし、アナキストを自称することは、そのような「なっとらんアナキスト」の同類に成り下がることであるような気がしたのです。

   ブランキストとして

 また聞き慣れないだろう言葉を使いますが、当時の私は、「ブランキスト」を自称していました。実はこれも、笠井氏の著作の影響によるものです。私が笠井氏の著作を愛読しはじめた一九九〇年代初頭、笠井氏自身が「ブランキスト」を自認していたのですが、その後まもなく笠井氏はこれを放棄したような印象があります。私の方はと云えば、少なくとも二〇〇三年に獄中でファシズムへの転向をはっきりと自覚するまで、ブランキストという自己規定は持続されました。「少なくとも」と云うのは、私はブランキズムとファシズムとの間に、大きな齟齬は感じておらず、あるいは今でも私はブランキストであるのかもしれないからです。
 ブランキとは、マルクスより一世代上のフランスの革命家で、マルクス主義の興隆以前は、「共産主義」と云えばブランキズムのことであったというほどの影響力を持っていた人物です。
 ブランキズムは一般に(といっても今や左翼でも知らない人が多いのですが)、「鉄の規律で団結した少数精鋭の秘密結社的革命党による権謀術数を用いた革命のビジョン」といったものとしてイメージされているのですが、それはブランキの言動を一面的にとらえた云い方で、笠井氏経由の私のブランキズム理解の核心は、革命後の「理想社会」に関する具体的なイメージの提出を確信犯的に放棄した上での、不特定多数の群衆の中にすでに漠然とした形で存在する現状への不満や怒りや苛立ちを、どうすれば一斉蜂起という形に組織できるかという、革命運動の方法・技術の問題に的を絞った徹底的な考察と試行錯誤、というもので、こうしたブランキのスタンスこそが正しい革命運動のあり方であると共感し、その模索を継承するという意味において、私はブランキストを自称したのです。
 この時点ですでに私は、さきほど展開した議論に照らせば実はもはや左翼ではありません。
 というのも、ブランキズムにおいては実現すべき何か具体的で普遍的な価値などすでに存在していないからです。重要なのは蜂起それ自体であって、どんな社会構造が理想的であるかなどという話は、もはや眼中にはなくなっています。
 そして私が当時、アナキストを自称しなかったもう一つの理由がここにあります。アナキズムにはやはり、「国家のない社会」という実現すべき理想が、現実にはそれが実現不可能な理想であったとしても、存在するからです。アナキズムは単に、そこへ至るプログラムを提出していない(提出できないでいる)だけです。
 一九九〇年代のブランキストとしての思索の過程で、私は、やはり革命を実現するためには、「敵」と「味方」をはっきりさせること、はじめの方で書いた、「奴ら」と「我ら」を峻別するための線を確定する作業が大前提になるようだと深く実感しました。そして、「反共左翼」としてマルクス主義の革命イメージを否定するということは、マルクス主義の引く「奴ら/我ら」の分断線とは、別種の線を引き直すということだと思い至りました。
 そしてもちろんそれは、左翼陣営において我慢ならないほどの屈辱を味あわされた私にとって、そこに属する者どもが「奴ら」の側となるような線でなければなりませんでした。さらにもちろん、私が「革命」を指向している以上、現状における支配者たちについても同様です。左翼陣営の構成員と、現体制の支配層の構成員とを、共に「奴ら」としうるような分断線を、私は切実に必要としたのです。
 ファシズムの発見まで、あと一歩です。
http://www.asyura2.com/21/senkyo279/msg/503.html#c29

[政治・選挙・NHK279] 小学生の真摯な問いかけに我々はどう応えればいいのか 永田町の裏を読む(日刊ゲンダイ) 赤かぶ
30. 2021年3月08日 20:43:13 : bAOrac8YuY : SENpNGpXMENueUE=[3]
パリ、血の一週間

 1870年、ナポレオン3世(位1852-70)の普仏戦争(1870.7-1871.2。プロイセン-フランス戦争)での敗北で、フランス第二帝政は崩壊した。直後の9月、パリで国民防衛政府(国防政府)が市民・労働者・ブルジョワ共和主義者によって成立、共和政を宣言した(第三共和政。1870.9-1940)。政府では将軍トロシュ(1815-96)、共和派の内相ガンベッタ(1838-82)や七月王政で首相を務めたことのあるティエール(1797-1877。旧オルレアン派)らがおり、政府はプロイセンへの抗戦継続を主張した。その後パリはプロイセン軍に包囲され、ガンベッタは気球で包囲網から脱出、地方から国民軍を組織して抵抗した。

 しかしプロイセンのビスマルク(1815-98)の手で完成されたドイツ統一とドイツ帝国成立の宣言(1871.1.18)を、フランスのヴェルサイユ宮殿鏡の間で行われたことで、敗色濃厚となったフランス国防政府は、1月末、独仏休戦協定を受け容れ、事実上の降伏を決意した。休戦条約による総選挙後、ボルドーで国民議会が成立、2月、ティエールが政権を掌握する行政長官に任命され、臨時政府が樹立された(ティエール政権。1871.2)。その後、フランスの鉱産資源の宝庫であったアルザス・ロレーヌの割譲と、50億フランの賠償金支払いと合わせて、ドイツと合意、5月のフランクフルト講和条約で正式に決定された。

 実は、七月王政下の1839年に、革命家で社会主義者のルイ=オーギュスト=ブランキ(1805-1881)が結成した"四季の会"による襲撃事件があった(暴力革命)。ブランキは七月革命にも参加して勲章を受けたこともあったが、徐々に左傾化して数回投獄され、次第に、暴力の徹底と、労働者保護による社会主義化・プロレタリア独裁を目指してきた人物であった。彼の一派は少数派であったが、ブランキストと呼ばれた武力団体で、行動理論はブランキズムと呼ばれた。マルクス主義者たちには反感を買われながらも、革命実現を信じて、政府に真っ向から勝負を挑んだ、39年の革命は失敗し、"四季の会"は解散、彼も投獄された。二月革命期においても、ルイ=ブラン(1811-82)による政府の社会主義的政策が施されたものの、完全ではないとのブランキの見方から、国会へ乱入、暴動を起こした(五月暴動。この1ヶ月後に六月暴動が起こる)。しかしこの暴動も失敗して懲役10年の判決後、アフリカへ追放された。帰国後もナポレオン3世の第二帝政に睨まれて投獄され、帝政崩壊後の1870年においても武力行動をおこしたが、ここでも失敗し、逮捕・投獄されている。
 こうしたブランキの行動において、パリ市民の一部には、徐々ではあるがブランキズムの存在が脳裏に焼き付くようになっていった。市民全体がブランキのシンパサイザーではなく、また純粋なブランキズムではないにせよ、これまで数々の革命において、下層市民の味方となって立ち上がった彼の姿は、たちまち市民の記憶に留まっていき、そして下層市民らによる国政改革の意識が芽生え始めたのである。
 これが決定的となったのは、ティエール政権による、国民軍への制裁である。1871年3月18日未明、ティエールはパリ市民の自治体(コミューン)による反発を防ぐため、国民軍の武装解除を目的として、モンマルトルとペルビルにある国民軍の中央委員会の大砲を奪取する作戦を政府軍に発した。

 和平交渉をドイツと行ったティエール政権に対し、パリ市民は落胆を隠せない上での追い打ちであった。ドイツ軍に包囲されたパリで、食糧不足が深刻な中、国民軍は市民のたった1つの拠り所であったため、政府の国民軍解散命令は、パリ市民の無念、失望、そして怒りを引き起こし、革命熱は頂点に達したのであった。

 18日、パリ市民は、コミューンの直接民主政を掲げて、政府軍に対して各地区で武装蜂起し、指揮官を虐殺するなどの行為に出た。できたばかりの政府が統轄する軍隊であるだけに、統治能力も結成当初から不安定だった政府軍は次々と敗退、ティエールは遂に臨時政府と政府軍に対し、ヴェルサイユへ撤退を命じ、パリを離れた。18日夜には、国民軍中央委員会による、パリ市民による自治政府・パリ=コミューンが誕生した。

 その後、パリ市民による選挙が行われ、1871年3月26日にパリ=コミューン政府を発足、1871年3月28日、パリ=コミューン政府の成立がパリ市庁舎のバルコニーから宣言された。世界史上初の、労働者階級を中心とする中小市民層の自治政府である。『オルナンの食後』『石割り』などで知られるパリの写実派画家、クールベ(1819-77)もパリ=コミューンの議員として選ばれている。
 コミューンでは、全役職直接選挙案、議決公開案、女性参政権案、児童の夜間労働禁止案、汚職死刑案、政教分離案、共和暦導入案といった、当時としては斬新な法案が次々と出された。

 ヴェルサイユに政局を移したティエール政権は、ドイツに支援を受けることになり、再度パリ=コミューン制圧に乗り出すことになった。5月21日、政府軍がパリ入城、コミューン軍との壮絶な戦闘が始まった。コミューン軍は善戦したが、結果、5月28日のペール=ラシェーズ墓地での抗戦を最後にコミューン軍はねじ伏せられた。セーヌ川の水が、血で赤く染まるほど、多くのパリ市民とコミューン関係者が虐殺され、4万人の逮捕と300名近くの処刑が行われた("血の一週間")。クールベも逮捕され、巨額の罰金後、スイスへ亡命した。

 パリ=コミューンを圧殺したティエールは、ブルジョワ共和派として、第三共和政の初代大統領に選出され(1871.8。任1871-73)、本格的な第三共和政がスタートした。しかし、王党派や極左共和派からの反発が激しく、1873年の国民議会でティエールは解任させられ、1877年9月に没した。ティエールの後大統領となったマクマオン(任1873-79)は、1875年、第三共和政憲法を制定した。

 ドイツのカール=マルクス(1818-1913。哲学者・経済学者・社会主義者として有名)は、『フランスの内乱』を著し、パリ=コミューンを支持、"血の一週間"で虐殺されたコミューン参加者の名誉を主張した。またマルクスは、労働者階級のために国家的コミューンは存在するのであり、プロレタリアートの革命でこそ社会主義が実現するものであるとも説いている。これにより、パリ=コミューンは後の社会主義(共産主義)の布石となった事件であると言える。

 本日は「Vol.102"ルイ"の改革」の続編にあたる部分で、また「Vol.37 第三共和政の悪夢」の直前のお話です。「Vol.37」でも本編のパリ=コミューンやティエールなどは登場しましたが、ここでようやく主役となりました。

 本編は、第二帝政が倒れて第三共和政が立ち上がるものの、これに不満なパリ市民が自治組織(コミューン)を立ち上げて抵抗するという内容です。覚える用語は国防政府、臨時政府、ティエール、パリ=コミューン、第三共和政憲法ぐらいで良いと思いますし、年代は第三共和政が立ち上がった1870年、ティエールの臨時政府ができた翌1871年、パリ=コミューンがおこった同1871年、第三共和政憲法の1875年ぐらいですかね。ブランキはなかなか興味深いのですが、出題されたことはありませんし、ガンベッタが気球に乗ってパリを脱出したという逸話も面白いのですが、残念ながら出題されるどころか、用語集にも載っていません。あと、クールベという画家も登場しました。政治運動とかみ合ってできた写実主義絵画の代表で、他にはドーミエ(フランス。1808-79)、レーピン(ロシア。1844-1930)などがいますが、試験に出るのはクールベぐらいで、自然主義のミレー(フランス。1814-75。『落穂拾い』『晩鐘』)らと合わせて出題されることがありますね。

 ちなみにフランス第四共和政は第二次世界大戦後の1946年から1958年まで、ド=ゴール(1890-1970)の政権復帰(大統領任1959-69)で始まる第五共和政は1958年から現在に至っています。ド=ゴールのあと、大統領はポンピドゥー(任1969-74)→ジスカール=デスタン(任1974-81)→ミッテラン(任1981-95)→シラク(任1995-2007)そして現在のサルコジ(任2007.5- )と続きます。ポンピドゥー以外は新課程用語集に出ておりますし、ミッテランとシラクは基礎知識として知っておきましょうね。
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[政治・選挙・NHK279] 小学生の真摯な問いかけに我々はどう応えればいいのか 永田町の裏を読む(日刊ゲンダイ) 赤かぶ
31. 2021年3月08日 20:44:43 : bAOrac8YuY : SENpNGpXMENueUE=[4]

ファシズム

団結

パリ・コミューン

コミュニズム

共産主義


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32. 2021年3月08日 20:47:15 : bAOrac8YuY : SENpNGpXMENueUE=[5]
ファシズムとは、マルクスを否定した共産主義

スターリニズムは、マルクスを否定した共産主義

中華人民共和国の憲法は、スターリニズム=マルクスを否定した共産主義

ファシズムとは、中華人民共和国
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[政治・選挙・NHK279] 小学生の真摯な問いかけに我々はどう応えればいいのか 永田町の裏を読む(日刊ゲンダイ) 赤かぶ
33. 2021年3月08日 20:55:44 : bAOrac8YuY : SENpNGpXMENueUE=[6]
ムソリーニも極左活動家だった

 ファシズムの始祖・ムソリーニは、もともとイタリア社会党の党員でした。つまり、左翼活動家だったのです。
 しかもただのヒラ党員ではなく大幹部で、29歳にして党中央機関紙『アヴァンティ』の編集長に抜擢されています。この役職は、中央集権的な党組織がととのっていなかった当時のイタリア社会党においては、党全体の活動方針に最も大きな影響力を発揮できるという意味では、形式上の党首をしのぐほどの地位であったと云えるかもしれません。
 さらに云えば、当時の社会主義運動は、社会民主主義的な「右派」もマルクス主義的な「左派」も、たいていの国ではとりあえず一つの政党にまとまっており、イタリア社会党も同様だったのですが、まもなくファシズム運動の指導者となるムソリーニは、実は「右派」ではなく、それどころか党内の極左派を代表する指導者だったのです。
 このこと一つとってみても、ファシズムが単なる右翼思想とはまったく異質なものであることが容易に想像されるでしょう。
 ムソリーニの左翼活動家としての経歴を、ここで多少細かく追ってみます。

   スイスで組合活動家となる

 一八八三年生まれのムソリーニが社会主義運動の世界に本格的に足を踏み入れたのは、一九〇二年、19歳の時のことでした。
 学校を卒業後、ごく短期間(数ヶ月)を小学校教員として過ごしますが、徴兵逃れの意味もあって突然スイスへの冒険旅行に旅立ち、あっというまに食いっぱぐれたムソリーニは、当地のイタリア人社会主義者のコミュニティに接触し、宿と職を提供してもらいます。
 その背景には、父親の存在がありました。というのも、ムソリーニの父は故郷では有名な社会主義者で、何度も逮捕されるほどの熱心な活動家でした。「ベニート」というムソリーニのファースト・ネームも、メキシコの革命家であるベニート・ファレスにちなんでこの父親がつけたものです。ムソリーニは13歳の頃から、後に自身がその編集長を務めることとなる社会党機関紙『アヴァンティ』を読み、15歳のころから地元の社会党支部に出入りしていました。活動に参加していたわけではないにせよ、一九〇〇年ですから16歳か17歳の時に形式上はイタリア社会党の党籍を得ています。
 ムソリーニはスイスで石工労働組合の活動家として、19歳にして本格的な政治生活をスタートさせたわけですが、当時のスイスにはたくさんの社会主義理論家や小説家、哲学者といった知識人が、ロシアをはじめヨーロッパ各国から亡命してきており、そうした人々と親しく交わる機会を持つことができました。
 また、個人的にも努力して思想的な書物を読み漁ったようで、後にムソリーニはこの時期に読んで強い影響を受けた人物として、マルクスの他に、ソレル、クロポトキン、ニーチェなどの名を挙げています。
 ソレルとクロポトキンは著名なアナキズム理論家で、社会主義者としてのムソリーニはかなり初期からアナキズムへの傾きを持っていたことが分かります。またニーチェの哲学は、ヒトラーのナチズムにも影響を与えており、ファシズムを語る上で最重要の思想家ですから、これについては後述します。
 二年間のスイスでの生活を経て、一九〇四年、大赦によって徴兵逃れの罪を赦されたムソリーニはイタリアへ帰国、改めて二年間の兵役につきます。模範的な兵士としてこれを務めあげたムソリーニは、軍隊生活が意外と自分の性に合っていることに気づいたようですが、もちろんそれを機にいきなり「右転向」するわけではなく、むしろ左翼活動家としてのムソリーニの華々しい活躍はこの後に始まるのです。

   イタリア社会党の地方機関紙編集長として

 兵役から戻ったムソリーニは、ふたたび教職につくかたわら、フランスのマルセイユでイタリア人労働者組合をまとめて国外追放されたり、イタリア社会党の地方機関紙に寄稿したり、それなりの活動を継続しますが、それらは基本的には落ち着き先を見いだせないための半ば放蕩的な生活でした。
 イタリア社会党内でムソリーニが最初にちょっとした注目を浴びるのは、一九〇八年、農村地帯で起きた小作争議の支援におもむき、一時投獄されたことによってでした。社会党は機関紙でムソリーニの行動を盛んに称賛したのです。
 翌一九〇九年、ムソリーニは初めて、イタリア社会党における正規の役職を得ます。『労働者の未来』という地方機関紙の編集長の仕事でした。赴任地のチロル地方は当時、オーストリア・ハンガリー帝国の一部でしたが、そこは同時に、住民のほとんどがイタリア人であるいわゆる「未回収のイタリア」の一つでもありました。「未回収のイタリア」とは、十九世紀半ばから後半にかけて、数百年にわたって分裂状況にあったイタリアの統一が進められてもなお、他国の領土としてその枠から漏れたままとなっているいくつかの地域のことです。ムソリーニはここで数々の闘争を指導し、この同じ一九〇九年のうちにオーストリア・ハンガリー帝国の官憲によって投獄、国外追放となって、またもや社会党の英雄となりました。
 一九一〇年、別の地方にやはり地方機関紙『階級闘争』編集長として赴任し、その地の社会党勢力の急激な躍進を実現、その年の党の全国大会に支部代表として送り出されたのが、全国的な舞台に公に登場した最初です。そのわずか二年後には、先に述べたように党の中央機関紙編集長に抜擢されるのですから、ムソリーニがいかに優秀な活動家であったかが分かります。
 ヒトラー同様、ムソリーニにも演説の才能がありました。しかもヒトラーは喋るだけですが、ムソリーニは文章を書かせても一流だったのですから、党を躍進させ、党に重宝されたのも当然と云えます。
 またこの地方機関紙編集長の時期に、二十世紀の前衛芸術運動の源流ともなった「未来派」の運動にいちはやく注目し、これを援護する記事を多く書いたことからも、時代の動きを察知するアンテナの鋭さがうかがわれます。未来派については改めて書きます。
 これもすでに述べたように、ムソリーニはイタリア社会党における最左派の活動家の一人でした。
 当時のイタリア政府は、反体制運動を暴力的に弾圧する姿勢をやめ、むしろこれを宥和する穏健な政策に転じていたため、社会党内でもやはりこれに期待する社会民主主義的な右派の指導者が主導権を握って、議会への進出を順調に進めていました。党のこうした方針に、左派は当然、反発と危機感を強めます。
 実はムソリーニは、地方機関紙において党中央を極左的な立場から激しく攻撃することで、体制内化する社会党に不満を感じていた層を熱狂させ、その発行部数を増やすことに成功してもいたのです。

   中央機関紙編集長に

 さて一九一〇年の党大会で公式に全国デビューを飾ったムソリーニですが、政府と協調する右派全盛の時代ですから、単に一地方の代議員にすぎない立場で、そう易々と頭角をあらわせるはずもありません。
 そこへ戦争が勃発します。イタリア対トルコの戦争です。
 そもそも統一を実現したのが日本の明治維新とほぼ同時期で、ヨーロッパ列強の植民地獲得競争に乗り遅れていたイタリアは、地中海を挟んで対岸にある北アフリカのリビアに進出する機会を虎視眈々とうかがっていました。トルコはかつて強大な帝国で、北アフリカ全域を領土としていましたが、その大部分をイギリスとフランスに奪われ、残るはリビアだけとなっており、一九一一年九月、さまざまの事情から今が絶好のチャンスと見たイタリアが、トルコに宣戦布告したのです(翌年勝利し、イタリアは望みどおりリビアを植民地として獲得します)。
 右派に指導された社会党は政府の開戦方針を支持しますが、ムソリーニは地元で強力な反戦運動を指導、暴動教唆や戦争遂行妨害の罪などで逮捕されます。それまでにも何度かごく短い投獄を経験していましたが、実刑判決を受けての本格的な投獄はこの時だけです。判決に先立って、ムソリーニは法廷で裁判官にこう啖呵を切っています。
 「あなたが私を無罪とするならばそれは私の喜びとするところである。もしあなたが私を有罪とするならばそれは私の名誉とするところである」
 判決は懲役一年。控訴審で半年に減軽されました。
 右派指導者の戦争支持方針は社会党内に深刻な対立を生み、路線闘争が本格化した結果、ムソリーニが服役している間に左派が主導権を奪い返しました。したがって一九一二年、出所後まもなく開かれた党大会で登壇したムソリーニは英雄でした。右派を論難する激しい演説は満場の拍手を浴び、ついにムソリーニは最左派を代表する「社会党の新星」として党内外の注目を浴びることになりました。中央機関紙『アヴァンティ』編集長の要職に抜擢されたのは、その後まもなくのことでした。
 ムソリーニは、その非妥協的で一貫した、直接行動を重んずる反議会主義の姿勢によって、とくに血気にはやる若い党員の熱狂的な支持を得ていました。後に社会党から分裂するイタリア共産党の指導者で、非ソ連的な西欧共産主義の理論家として知られるアントニオ・グラムシも、当時のそんな青年党員の一人でした。ムソリーニは大衆にも人気が高く、機関紙編集にあたって紙面を党外のサンディカリスト、アナキスト、共和主義者らに開放し、寄稿させたことも党のイメージ・アップにつながったようで、その編集長在任の間に『アヴァンティ』の発行部数は三万部から十万部へと急増、それは当時のイタリア最大の商業紙に次ぐ数字でした。
 一九一四年四月の党大会の頃が左翼活動家としてのムソリーニの絶頂期で、イタリア社会党の主導権を完全に掌握している状態でした。第一次大戦への参戦論の発表をきっかけに失脚し、党を除名されるのはそのわずか半年ほど後のことです。

   第二インターナショナルと第一次世界大戦

 世界史をある程度勉強したことのある人は、各国の社会主義政党が第一次大戦の勃発に際して大きく混乱したというエピソードを覚えているかもしれません。
 第二インターナショナルは、マルクス主義派とアナキスト派の対立が高じて解散した第一インターナショナルの後をうけて結成されたものですが、それについて『現代用語の基礎知識』は次のように説明しています。

 第二インターナショナル 一八八九年から一九一四年まで存在。第一インターナショナルにつぐ労働者組織の国際的結合。エンゲルスの指導によりフランス革命百周年を記念してパリで創立大会を開く。メーデーを祝うという決定はこの大会で採択。エンゲルスの死(一八九五年)後指導者は修正主義者のベルンシュタイン、ついで日和見主義者のカウツキーに移り、帝国主義段階における労働者階級の任務を回避し、ついに第一次世界大戦に際して自国政府の帝国主義戦争に協力して第二インターナショナルを崩壊させた。

 一九七二年版での記述で、おそらく執筆者はマルクス・レーニン主義の信奉者ですが、現在の世界史教科書もほぼこのように書いています。
 つまり第一次大戦が始まるや、日和見主義的な「右派」に指導された各国の社会主義政党は、「労働者に祖国などない」という国際連帯の原則を放棄し、突如「愛国心」をふりかざして自国政府の戦争参加方針を支持、よって第二インターナショナルそのものが崩壊、さらに反戦を主張する「左派」が新たに共産党を結成するなど各国社会主義政党の分裂をもたらした、という整理の仕方です。
 結論から云えばこれはでたらめです。少なくともイタリアには当てはまらない話であることは確かです。
 たしかに各国の社会主義政党では自国の参戦を支持するか否かの激しい論争がおこなわれましたが、とくにイタリアの場合、参戦支持を打ち出したのは必ずしも単純素朴な愛国心に目覚めた「右派」だけではなかったのです。むしろあくまで反戦を主張したのは、「左派」の中でもごく一部でしかありませんでした。

   「右派」の参戦論

 第一次大戦の基本的な構図は、イギリス・フランス・ロシアvsドイツ・オーストリアですが、実はイタリアはドイツ・オーストリアの同盟国でした。ですから常識的には、参戦するならばドイツ・オーストリアの側に立つことになるはずです。しかし政府の主流は、イギリスが圧倒的に強いと見ており、かといって同盟を反故にしてイギリス・フランスの側に立って参戦するというわけにもいきませんから、大戦が勃発するとすぐに、イタリア政府は中立を宣言しました。もちろん社会党も当初は戦争反対を掲げ、ムソリーニの編集する『アヴァンティ』の紙面も反戦論で埋められていました。
 が、まず国内の右翼勢力、つまり社会党内の「右派」ではなく、民族主義者など普通の意味での右翼勢力が参戦を主張しはじめました。彼らは、同盟を守ってドイツ・オーストリア側に立って参戦せよと云うのではなく、実はその正反対でした。イギリス・フランス側につこうというのです。
 なぜなら、イタリアはオーストリアとの間に国境問題を抱えていたからです。先に述べた「未回収のイタリア」です。イギリス・フランス側について戦勝国となれば、オーストリアからそれらの領土を獲得できるかもしれません。
 また未来派の前衛芸術家たちも参戦運動をリードします。未来派が参戦を叫び始めたのは、むしろ民族主義勢力より先だったかもしれません。この特異な芸術運動については後述します。
 参戦論と「未回収のイタリア」の問題が結びつくと、左翼勢力の中にもこれに同調する部分が出てきます。前章でも少し述べたように、ナショナリズムは必ずしも右翼思想ではありません。フランス革命の「自由・平等・団結」、この「団結」つまり国民的な共同性を創出するという理想が政治理念化したものであるナショナリズムは、近代化を推進する方向性を持つという意味ではもともとは左翼思想ですらあると云えます。日本でも、右翼と左翼の双方が幕末の志士を称賛するように、イタリアにおいてもかつてのイタリア統一運動を左右双方が誇りとしていました。したがって、社会党内のナショナリスティックな部分が「未回収のイタリア」問題を思い出して参戦論に傾いたのも、それほど奇妙な話ではないのです。
 もっとも、この二十世紀初頭においては、左翼思想からのナショナリズムの分離もかなり進んでいます。国家権力は資本家階級が労働者階級を支配・抑圧するための道具であり、ナショナリズムはその国家権力を往々にして利するもので、労働者は国境を越えた連帯を実現しなければならない、というマルクス主義者の見解がヨーロッパ中の左翼勢力に浸透しているのです。よってナショナリスティックな動機に基づいて参戦論に傾いたのは、たしかに社会党内の「右派」ということになります。

   「左派」と「極左派」の参戦論

 ところが別の参戦論も存在したのです。
 左派のかなりの部分をも説得したのは、次のような意見です。
 ロシアはともかく、イギリス・フランスは革命を早くから経験し、自由主義や民主主義の要求をそれなりに実現してきた先進国である、これに対してドイツ・オーストリアはいずれも未だ皇帝が権力を維持し、伝統的なカトリック教会の影響力も強い後進国である、もしこの戦争で先進国の側が負けたら、ヨーロッパと世界の状況は反動化し、人民の自由と権利を求める運動も後退を余儀なくされるのは明らかではないか、進歩と反動の闘いを、どうして対岸の火事のように座視できようか……、つまりやはりイギリス・フランスの側として参戦せよ、という結論になります。
 実はムソリーニは、この立場に立ったわけでもありません。「最左派」たるムソリーニたちの参戦論は、もっと過激なものです。
 いわく、「戦争とそれにともなう混乱、激動こそ、現体制の転覆と革命の達成にとって、またとないチャンスだ。今回の戦争はリビア戦争(イタリア・トルコ戦争)のようにチャチなものではなく、すべての人をまきこみ、歴史の流れを変える大事件だ。世界史のこの壮大なドラマの中で、イタリアの労働者人民だけが舞台に登らず、観客席で指をくわえていろというのか」。
 これは実は、第二インターナショナルの分裂に際して、大勢に逆らって反戦を貫いたと世界史教科書で評価されるレーニンらの立場とほとんど同じなのです。
 レーニンはこの時の自身の立場を「革命的敗北主義」と表現しました。各国の労働者階級は、自国の敗戦を招く効果のある運動を展開し、そして敗戦の混乱に乗じて革命を実現すべしという、「戦争を内乱に転化せよ」のスローガンでも知られるすさまじい方針です。実際にレーニンは、ほぼこのやり方でロシア革命を成功させ、まだ大戦中の一九一七年に史上初の社会主義国家が誕生することになります。社会主義ロシア(後まもなくソビエト連邦)は一足先にドイツ側と講和条約を結んで戦争から身を引きます。

   社会党を除名となったムソリーニ

 話を戻すと、ムソリーニは大戦勃発から二ヶ月余りを経た一九一四年十月に、参戦論に立つ最初の論文を『アヴァンティ』に発表、反戦方針を掲げていた左派主導の党内でこれは当然ながら問題視され、ムソリーニはその二日後に編集長を辞任させられます。
 しかし参戦論で腹をくくって意気盛んなムソリーニは翌十一月、『イタリア人民』と題する新たな日刊紙を「社会党機関紙」と称して創刊、言論戦を継続します。この行動が直接の契機となって、まもなくムソリーニは、ついに社会党を除名されるのです。
 自らの除名を討議する会議で演壇に立ったムソリーニは、参戦論への「裏切り」「変節」との非難にこう応じます。「私はたしかに軍国主義にも帝国主義にも反対してきた。だが戦争に反対したことはない。私は常に革命的戦争には賛成してきたし、むしろそれを唱導してきた」。つまりこれまで自分がおこなってきた反戦運動とは、あくまでも「帝国主義的な戦争」への反対運動であって、あらゆる戦争が悪であるなどと主張したことはない、革命的な戦争というものもあって、そういう戦争については反対しないどころか、率先して推し進めてきたと云うのです。実際、ムソリーニが社会党最左派の指導者として、一貫して武装闘争を呼号してきたことは事実です。イタリア社会党左派の主流は第一次大戦を「帝国主義的な戦争」であるとみなしていましたし、今日の世界史教科書でもそのような評価が定着していますが、少なくともムソリーニの主観においてはそれは「革命戦争」、あるいは「革命戦争に転化しうる戦争」だったのです。
 除名が決議され、会場を後にしながらもムソリーニはこんな捨てゼリフを吐きます。「君たちはこの私の党員登録証を取り上げることはできる。だが私の信念を根こそぎにしたり、社会主義と革命のために私が引き続き闘うことを止めさせることができるなどとは思うな!」。
 ムソリーニは自分を「転向者」であるなどとは実際、思っていなかったでしょう。少なくともこの時点では、あくまで自分は昔も今も変わらず(最左派の)社会主義者であり続けていると確信していたはずです。
 この時、ムソリーニは31歳です。

   参戦運動の高揚

 ムソリーニは参戦運動に没頭します。日刊の『イタリア人民』も、「社会党機関紙」からムソリーニの個人新聞へと衣替えして発行が続けられますが、これはやがて十万部を超え、最も影響力の大きな参戦論メディアの一つに成長します。
 翌一九一五年一月、社会党員やアナキストなどつまり左翼の参戦派によって「革命行動団(革命行動フッショ)」が結成され、ムソリーニもこれに参加、メンバーはまもなく五千人を超えます。この「革命行動団」が直接ファシズムにつながるものではありませんが、ムソリーニ以外のファシズム運動の最も古いメンバーの名前はすでにちらほらと見られるようになります。
 もちろんこうした極左的参戦運動とは別に、ナショナリスト的な右翼の参戦運動もたくさん存在しますし、双方の共闘関係も急速に形成されていきます。参戦運動のデモが頻発し、街頭における社会党員と参戦論者との物理的衝突も始まります。
 一九一五年五月に入るとまもなく、イタリア政府はドイツ・オーストリアとの間に存在していた同盟の「期限切れ廃棄」を宣言します。いよいよイタリアの参戦が現実化し、ほぼ時を同じくして、建国記念日的な祝日の式典で、愛国詩人のダヌンツィオが参戦主義の名演説をおこなって大衆を熱狂させました。
 ここから、後に参戦主義者が「光り輝く五月」と呼ぶ怒涛の日々が始まるのです。この五月の末に、イタリアはついにオーストリアに対して宣戦布告をおこない、第一次大戦の当事国となるのですが、ドイツ・オーストリアとの同盟は廃棄したものの参戦にまでは及び腰であった政府を突き上げる大衆運動の昂揚の先頭に立ち、そのシンボル的な存在となったのは、ムソリーニではなくこのダヌンツィオでした。そのロマン派的情熱、美文調の文章や演説、派手なパフォーマンスを好み、果敢に行動するこの愛国詩人の姿を想像するのは、三島由紀夫を知る日本人には容易なことでしょう。
 参戦運動は日に日に激しさを増し、街頭では暴力沙汰が頻発し、デモ隊が国会へ乱入しさえしました。
 政府がついに参戦を決定すると、当然ながら参戦運動家たちは有名無名を問わず我先にと軍隊に志願し、戦場へ赴きます。ダヌンツィオも、未来派の芸術運動を代表する存在であったマリネッティも、もちろんムソリーニも従軍しました。

   戦時下の反戦運動と対決

 ムソリーニは一兵卒として前線で闘いながら、自分の新聞『イタリア人民』に記事を送り続けます。しかし貧乏国であるイタリアの軍隊はオーストリア軍に比べて格段に弱く、毎月一万人のイタリア兵が戦死し、三万人が負傷して戦列を離れました。初期の高揚感は急速に失われ、それに代わって前線兵士を覆い始めた不安や焦燥は銃後で呑気な反戦運動を継続する社会党などへの激しい怒りとなっても現れ始めます。ムソリーニも、政府に社会党の徹底弾圧を要求する論説を書き送っています。
 一九一七年二月、その勇敢な闘いぶりを評価されてすでに伍長に昇進していたムソリーニですが、演習中の暴発事故で重傷を負い、戦線を離脱します。半年後に退院すると、『イタリア人民』紙の仕事に復帰、戦況の悪化を追い風として高揚しはじめた反戦運動を攻撃する言論戦を再開しました。なにしろすでにロシアでは革命が勃発(皇帝を退位させた「二月革命」)、まもなくレーニンらが政権を樹立する「十月革命」が起きようという時期です。社会主義者は勢い立ち、レーニンの真似をして、兵士たちの厭戦気分を煽っています。結果的にはイタリアにおいて、「戦争を内乱に転化する」レーニン型の革命戦術は実を結びませんでしたが、あわやそうなりかねない危うい局面もありました。
 一九一七年、イギリス・フランス側からロシアが革命によって戦線離脱しましたが、前後してアメリカが局外中立の立場を捨て参戦、ドイツ・オーストリア側の劣勢は徐々に濃厚となります。一九一八年六月にはオーストリア軍の攻撃が止まり、十月にはイタリア軍の反攻が始まりました。わずか十日の後にオーストリアは降伏(さらにドイツもまもなく降伏)、大戦は終結し、イタリアは戦勝国の一員となったのです。
 大戦も終わりに近づいていた一九一八年八月に、ムソリーニは自身の発行する『イタリア人民』紙の副題を改めました。それまで「社会主義者の日刊紙」と銘打っていたのを、「戦士と生産者の日刊紙」としたのです。いよいよ特異な革命思想たるファシズムの構想が、天才ムソリーニの思考の内に芽生えつつあります。

   「平和が勃発した」

 戦争が終わった時、ムソリーニは「平和が勃発した」と書きました。
 私はムソリーニのこうしたセンスと表現力に大きな魅力を感じます。
 「戦争」が必ずしもよいものだとはファシストたる私も思いませんが、逆に「平和」が無前提に素晴らしいものであるかのような言動を目のあたりにすると、ケッと思ってあれこれ皮肉を云いたくなるような感覚が自分の中にあることを否定できません。
 「平和」は、たしかに「何事もなくて何より」でもありますが、同時に退屈です。平たく云えばそこには「精神が高揚する感じ」がありません。「生きている実感」がないとも云えます。いずれも凡庸な紋切り型の云い方であることは百も承知ですが。
 私がまだ駆け出しだった八〇年代後半に、同じような若い左翼活動家が熱狂的に支持していたロックバンドがブルーハーツですが、その「英雄にあこがれて」という曲の中にも、「あんまり平和な世の中じゃカッコ悪すぎる」というフレーズがあります。何事もない平和な日常に倦んでしまうという感覚は、それほど特殊なものではないはずてす。
 少し話が先走りますが、ファシズム体制が好戦的であるのは、これを非難する側が思い込んでいるように、ファシストたちが支配欲や領土的野心のようなものにとらわれているからではなくて、単にファシストが「何事もない平和な日常」に耐えきれない人種であるがためなのです。ファシスト政権樹立を目指して革命運動に邁進している間は精神も高揚し、充実していますが、いざ革命に成功し、政権を樹立してしまった後にもなおそうしたものを追求しようと思えば、とりあえず戦争でもおっ始めるのが手っとり早いということは、別にファシストでなくとも理屈としては理解できるでしょう。もっとも核兵器なんてものが存在している現在、全力で思いっきり戦争をやり抜いてみることは核保有国であれ非保有国であれ残念ながら不可能です。ではどうするのかという悩ましい問題は、これも後回しとします。

   塹壕主義

 ムソリーニのファシズムの成立経緯の話に戻りましょう。
 先に書いた終戦間際の「戦士と生産者の日刊紙」という『イタリア人民』紙の副題変更にさらに先だつ一九一七年末、ムソリーニは「塹壕主義」という奇妙な造語を提示しています。
 「同じ釜の飯」意識や戦闘体験を共有する者がこれからの「健全なエリート」であり、そこに実現される共同性は、「階級」と「民族」という、これまで左右の思想や運動が提示し互いに対立してきた二種類の共同性イメージを超え、より高い次元で両者を統合しうるものだというのです(ちなみにこうした論理構成が、「対立物の止揚」というマルクス主義のいわゆる「弁証法」の方法そのものであることは、分かる人にはすぐ分かることです)。
 おそらくムソリーニはその天才的なひらめきに、なんとか論理を追いつかせようと苦心しているのだなという感じを受けますが、ここで云われようとしていることはまさにファシズムという思想の核心です。
 前章で私は何度か、「奴らと我ら」という話をしました。
 あらゆる政治運動は、それぞれの「奴らと我ら」のイメージを持っていますが、これまでに右翼や左翼の政治運動が提示してきたあらゆる「奴ら/我ら」図式に強烈な違和感を生じた時に、それに代わる、というよりもそれを乗り越える、まったく新しい「奴ら/我ら」のイメージを獲得することは可能なのだろうか、という話です。
 ムソリーニがここで提示しようとしているのは、この問題に対するとんでもなくアクロバチックな解決です。
 「奴ら」とは誰か。それは「我ら」ではない者である。
 では「我ら」とは誰か。それは「私は我らの一員である」ということを自覚している者である。
 いわゆるトートロジー、「同語反復」の論理ですが、では「私は我らの一員である」という自覚はどのようにして生まれるのか。それは、例えば悲惨な戦場で狭い塹壕に身を寄せ合うなど、戦闘体験に典型的な、何らかの非日常的な体験を共有することによって生まれる、というのがムソリーニの云う「塹壕主義」の主張です。
 これがファシズムという特異な革命思想の核心なのです。
 これを私なりにさらに敷衍してみます。
 ファシズムの結社があるとします。ファシズムの結社は革命組織ですから、当然ながら敵(ファシズム以外の政治勢力)と闘いながら、政権の樹立を目指します。その過程は、非日常的な体験の数々で埋めつくされていることでしょう。それらを共有するために必要なことはただ一つ、ファシズムの結社の一員となることです。いくらファシストが掲げるさまざまの主張に賛同や共感の意を示そうが、ファシズムの結社の一員でない者は、「我ら」の一員であるとはみなされません。つまりファシストがファシストであるための唯一の条件は、ファシストの掲げる主張に賛同することではなく、「私はファシズムの結社に加盟する」という意志を表明すること、決断をおこなうことなのです。結社の一員として活動を共にすることで、「我ら」が「我ら」であることの証しである、非日常的な体験の共有は必然的におこなわれてゆくからです。
 もちろんこれから少しずつ述べていくように、ファシストにはファシスト特有の主張があります。しかしその内容は、どうでもいいとまでは云いませんが、少なくともファシズムの運動においては二の次の重要性しか持ちません。
 天才ムソリーニは、かくも異様な革命運動の原理、スタイルを独力で発明したのです。

   突撃隊

 大戦が終わって数ヶ月の間、ムソリーニは自身の政治的方向性を確定できずに右往左往しているような状態でした。
 それは当然でしょう。「塹壕主義」というファシズム運動の核となる着想をすでに得ていたとはいえ、肝心の「我ら」形成の足がかりになるような、とりあえずの共同性をどう作っていけばいいのか、ムソリーニ自身もよく分からずにいたのです。
 ナショナリストの運動にも、非社会党系のアナキストや社会主義者の運動にも、ムソリーニはしきりに出入りしていましたが、やがて「我ら」の基盤となりそうな有力候補を見いだします。元突撃隊員たちです。
 突撃隊とは大戦中、不利な戦局を打開するために特別に組織された部隊で、例えば川を挟んでオーストリア軍と対峙しているような状況で、単身渡河して敵の歩哨にそっと近づきその喉をかき切って殺すといった、戦闘というよりは暗殺に近い特殊任務を担当していました。これに編入されたのは、情熱的な若い志願兵や、こうした任務につくことを条件に釈放された囚人などです。
 彼らは特に一致した思想傾向を有していたわけではありませんが、特殊な体験によって暴力に淫する異常人格を形成してしまうことも多く、そもそも蛮勇ともいえる無謀な胆力が必要な任務を担いきるほどの荒くれ者たちですから、戦時下においてこそ英雄として称えられたものの、戦争が終わると途端に余計者扱いされ、平和ムードが世の中を覆う戦後の状況に漠然としかし強烈な違和感や反感を抱くようになっていたのです。
 一九一九年に入ってまもなく続々と結成されはじめた「突撃隊連盟」は、当初、何か共通する政治的要求を掲げる団体であるというよりも、戦争で自分たちの果たした役割を正当に評価せよという感情的な要求を共有し、それが受け入れられないために無軌道な暴力沙汰をおこなう憂さ晴らし仲間としてまとまりを形成している、まさに戦後社会にとっては厄介なお荷物のような存在でした。
 ムソリーニはこの突撃隊の連中と意気投合し、親しく付き合うようになります。彼らの引き起こす無意味で無目的な暴力沙汰が、ムソリーニの純然たる非日常志向とでも云うべき性に合っていましたし、彼らの持て余す「この戦後社会には自分の居場所がない」という苛立ちは、またムソリーニ自身が強烈に感じていたことでもあったのです。
 突撃隊出身の若者たちは、アナキズム系の活動家や未来派の芸術家を慕い、取り巻いていることが多く、次第にそうしたまだ海のものとも山のものともつかぬ一種不穏なシーンのようなものが生まれていきます。そしてまもなくムソリーニが、その指導者の役割を担うことになるのです。
 一九一九年三月、ムソリーニは、イタリア各地に続々と作られた突撃隊の諸グループに、「組織を作らねばならない。前線では勝利をおさめた。戦争は国内でも遂行されなければならない」と呼びかけ、これに応じて三月二三日にミラノに結集した119名の同志により、「戦闘団(戦闘ファッショ)」が創立されます。
 ファシズム運動の誕生の瞬間です。
 「ファシズム」「ファシスト」という造語も、まもなく自称されはじめます。

   サンディカリズム

 この創立期のファシズム運動の指導部は、サンディカリストというアナキズムの一派と、未来派という前衛芸術運動の一派によって主に担われていました。
 これまで説明を後回しにしたまま繰り返し使用してきたこれら二つの運動について、ここでおおまかにまとめておきます。

 サンディカリズムは普通、「労働組合(至上)主義」などと訳されますが、語源は「組合」を意味するフランス語の「シンディカー(syndicat)」で、英語で云えば何のことはないつまり「シンジケート」です。
 サンディカリズムは、社会主義運動の大部分をマルクス主義(と社会民主主義)が席巻して以後、なお現実の運動に一定の影響力を有していた唯一のアナキズム系社会主義思想で、前に述べたように、ムソリーニも強く影響を受けたというフランスのジョルジュ・ソレルがその代表的理論家として知られています。
 古い『現代用語の基礎知識』では、以下のように説明されています。

 サンディカリズム(syndicalism) いっさいの議会主義的な政治活動を排撃し、労働組合を中心としてボイコット、サボタージュ、ストライキなどの直接的な手段によって、現存国家権力を打倒し、社会主義を実現しようとする無政府主義的社会主義思想。一九世紀末に、フェルナン・ペルティエなどによって始められ、ジョルジュ・ソレルらにより理論化された。特にフランスとスペインにおいて大きな影響力をもった。

 つまりある程度の単位ごと(工場ごと、企業ごとでは小さすぎますから、まあ職種ごと、産業ごと、あるいは現在の市町村規模での地域ごと、くらいでしょう)に労働組合が諸個人を束ね、共同生活を維持し、また生産活動を管理して、要するにそれぞれが自治をおこなえば、強大な国家権力など不要であるという社会構想でしょう。いわば労働組合の組織がそのまま、極度に小規模な国家権力のようなものになるわけですが、資本家はおらず、すべての産業は国営というよりも今で云う市営せいぜい県営程度の公営となり、それら組合同士が共存共栄を図れば、貧富の差も深刻化せず、また圧倒的な権力構造も発生しないため、可能な限りの自由で平等な社会が実現できそうな気がしてきます。
 一般に想像されるファシズムのイメージとはおよそかけはなれているかに思われるでしょうが、ヘンな例えになりますが仮に「よいヤクザ」のようなものを想定してもらえばいいかと思います。というのも、ヤクザ組織もそもそもは同業組合や地域自治などの役割をもって誕生した側面があるわけです。まだきわめて小規模なものにとどまっていた時代のヤクザ組織は、現在イメージされるような何か恐ろしげなものではなかったはずで、仮に一つのヤクザ組織が治める部分社会を一つの労働組合のようなものとすれば、ヤクザ組織は労組の執行部に相当します。現実にヤクザのような労組も、労組のようなヤクザも存在しますし、両者の境界はそもそも曖昧なのです。
 多少強引ですが労働組合の発想もファシズムも、間に「ヤクザの論理」を介在させればつながらないこともありません。
 もちろんファシストはサンディカリストと違って国家権力の掌握を目指します。サンディカリズムが組合の力で国家権力を打倒、というより麻痺させ無化する思想だとすれば、ファシズムは自らの組合的団結力によって国家権力になり替わろうとする思想です。
 サンディカリストがファシストへと転身するには、このままサンディカリズムではやっていけないという断念をもたらす、状況の変化による「後押し」が必要なのだろうと私は思っています。ファシズムと、アナキズムあるいはその一種であるサンディカリズムとは、単に共に直接行動を指向するという表面上の相似という以上に、その本質の部分で極めて似た、親和性のある思想だと私は考えていますし、そのことはイタリアのファシズム運動形成の経緯を見れば事実として証明済でもあるのですが、アナキストやサンディカリストにある種の断念をもたらす「状況の変化」とは何か、という点についての私の考えは次章で詳述します。

   未来派

 次に未来派についてです。
 とりあえず『現代用語の基礎知識』を見てみましょう。

 未来派 futurismo 一九〇九年の詩人、マリネッティによる「未来派創立宣言」にはじまるイタリアの多ジャンルを総合した前衛芸術運動。いっさいの過去の遺産と決別し、機械の速度や戦争による破壊をも新たな美として称賛した。

 二十世紀芸術の出発点となったものすごい運動です。単に芸術のすべてのジャンルを巻き込むにとどまらず、芸術という狭い領域を越えて、社会全体にとてつもない影響を与えたという意味では、後にも先にもこれほどのものは他にないかもしれません。
 説明にもあるとおり、イタリアの詩人であったマリネッティが書き、一九〇九年二月にフランスの大新聞『フィガロ』の一面に掲載された「未来派創立宣言」がすべての始まりです。
 以下にその「宣言」から主なところを抜き出してみます。

 我々は、危険を愛し、つねに活力に満ち、大胆不敵であることを讃える。
 勇気と大胆さと反抗とが、我々の詩の本質となる。
 これまで文学は、沈思黙考、恍惚感、眠りを称揚してきた。我々は、攻撃的な運動、熱を帯びた不眠、駆け足、宙返り、びんた、げんこつを称揚する。
 この世界は新しい美、つまりスピードという美によって豊かになった。排気ガスを噴射する蛇のようなパイプで飾られたレーシング・カー。火薬の上を疾駆するようにうなりをあげる自動車は、美術史上のどんな傑作よりも美しい。
 美はもはや闘争の中にしかない。攻撃性を欠いた傑作などありえない。詩は、未知の力を人間の前に引きずり出すための、暴力的な闘争でなければならない。
 我々は戦争を賛美する。戦争こそが、世界に真の健康をもたらす唯一の手段である。我々は、軍国主義、愛国主義、アナキストの破壊活動、命を犠牲にできる美しい理想、そして女性蔑視を賛美する。
 我々は、美術館・図書館・各種アカデミーを破壊し、道徳的実践や女性賛美、そしてあらゆる功利的で日和見的な卑屈さと闘う。
 我々は、労働・快楽・暴動に揺り動かされる群衆をうたう。近代的な大都市における革命の、多彩で多声的な潮流をうたう。荒々しい電気の月に煌々と照らし出された造船所や兵器工場の、震えるような夜の熱気をうたう。煙を吐く蛇を貪欲に飲み込む駅、吐き出す煙のよじれた糸で雲から吊るされた工場、日に照らされてナイフのように光る川をまたぐ巨人の体操選手に似た橋、水平線を察知しながら冒険する汽船、パイプの手綱をつけられた巨大な鋼鉄の馬のように線路の上で足踏みする胸板の厚い機関車、旗のようにひるがえるプロペラを熱狂した群衆の拍手のように鳴らす飛行機の滑空を、我々はうたう。

 過激で勇ましい言葉のオンパレードです。
 当時、芸術諸ジャンルの主流は、新しい時代に対する不安や懐疑を表現していました。
 十九世紀後半に進んだ、科学工業技術や交通・通信手段の飛躍的発達や巨大都市の出現などによる生活環境の著しい変化に、多くの人が漠然と「このままこっちの方向へ進んでいってよいのだろうか」と感じ、これを反映して退廃的で悲観的な「世紀末文化」が流行します。二十世紀に入って間もないこの当時も、そうした傾向は続いていたのです。
 つまり機械、スピード、ダイナミズムの美を賛美した未来派は、そうした傾向とは正反対の立場を高らかに宣言したことになります。
 未来派は、美術や文学を皮切りに、音楽、演劇、映画、写真、建築、グラフィック・デザイン、家具や衣服や食器のデザイン、その他ありとあらゆる芸術領域を一新したにとどまらず、イタリアの第一次大戦への参戦運動をリードし、さらにはファシズム運動の誕生に深く関与するなど、二十世紀前半のイタリア社会、ひいては世界全体に巨大な影響をもたらした空前絶後の総合芸術運動です。

   ニーチェの思想

 未来派の背景には、そしてムソリーニのファシズム(そしてヒトラーのナチズム)の背景にも、ニーチェの思想があります。
 一八七〇年代から一八八〇年代にかけて活動し、発狂を経て十九世紀最後の年に死んだニーチェは、ニヒリズムという思想を主張したかによく誤解されていますが、実際はその逆で、ニヒリズムを批判し、その克服の方法を提示した思想家です。
 ニーチェの云ったことを強引に一言でまとめるならば、要するに「強く生きろ」ということです。
 ニーチェは、「禁欲的理想主義」を攻撃しました。禁欲的理想主義とは要するに、まずキリスト教のことであり、その近現代版である民主主義や社会主義のことです。これら一群の思想に共通しているのは、「弱者は正しい」ということです。あるいは、「現世で苦しい思いをしている人々こそが、最終的には救われる」ということです。「最終的に」というのは、キリスト教では来世つまり死後であり、社会主義ならその理想郷が実現するはるか未来つまり結局は死後です。
 救済は死後に訪れるということは、現世での人生はつらく苦しいのが当たり前ということになり、人々は、人生を思いっきり謳歌しようという気持ちを失います。そうして「ニヒリズム」が社会に蔓延することになるのです。
 ニヒリズムをもたらす禁欲的理想主義は、教会(民主主義・社会主義ではその運動の指導部)によって広められ、世の中の大多数を占める一般大衆によって支持されます。一般大衆のことをニーチェは「畜群」と呼び、彼らは「畜群本能」を持っていると云いました。ニーチェは大衆蔑視論者です。
 畜群本能とは要するに、「みんなに合わせている方がラクだ、みんなと違うことをするのは怖い」という、大衆心理の根底にある感覚です。大衆は、単に自らが波風立てずに生きていこうとするのみならず、たまに登場する「波風を立てる人」を嫌い、仲間外れにしたり、(安全圏から)罵ったりデマを流したりして攻撃しますが、それもやはり「畜群本能」に基づいた行動です。大衆は「みんな同じであること=平等」が大好きで、禁欲的理想主義者たちの平等主義と親和的な存在なのです。
 ニーチェは、こうした禁欲的理想主義にとらわれず、また大衆からの孤立もかえりみずに、果敢にこの現世での人生を謳歌しようと奮闘する、独立自尊の気概に満ちたごく少数の偉大な人間を、「貴族」とか「戦士」とか、あるいは「超人」といった言葉で賛美します。彼らは「力への意志」によって、ニヒリズムを克服するのです。
 力強いものを称揚する未来派はもちろん、ダメな大衆に迎合することで現世の主導権を握ろうとする禁欲的理想主義の民主主義者・社会主義者たちを攻撃し、少数の強者による支配の実現を目指したファシズムも、ニーチェの強い影響下にあったことが分かると思います。

   当初のファシズムは左翼運動

 一九一九年三月二三日にミラノで開催された「戦闘団(戦闘ファッショ)」創立の集会は、突撃隊ふうの暴力的な雰囲気と、エキセントリックな未来派のムードに包まれていたといいます。未来派の代表格である詩人のマリネッティも、この日の主要な参加者の一人です。
 この集会で打ち出された方針には、(戦時中の社会主義者による)中立主義・敗北主義徹底糾弾、フィウメ・ダルマツィア(戦勝によっても「回収」されないままとなった「未回収のイタリア」)完全併合、王制打倒、ローマの教皇庁追放、婦人参政権実現、言論・出版・集会の完全な自由、人民投票制による直接民主主義の導入、高度累進課税、農民への土地分配、公企業の組合管理……などがありました。民主主義的な主張、自由主義的な主張、社会主義やサンディカリズムの主張、それにナショナリズムの主張がゴチャマゼになっているような感がありますが、当日はこれらの主張と矛盾するような内容の演説も、平気でおこなわれていました。なにせムソリーニ自身が、同じ日の『イタリア人民』紙上で、こう書いているのです。
 「我々は、時と場所と状況に応じて、貴族主義と民主主義、保守主義と進歩主義、反動主義と革新主義、合法主義と非合法主義とを思いのままに使い分けようではないか」
 これを反ファシズムの、つまりほとんどすべての歴史家は、大衆迎合(「ファシストは大衆をダマすのだ」)、機会主義、ご都合主義の恥知らずな正当化として批判するのですが、私にしてみれば、掲げる主張の内容には「二の次」の価値しかおかず、団結して闘う高揚感の追求を第一義とするファシストの面目躍如といったところです。
 ただし私は、ファシストがその運動の出発に際して掲げたこれらの左翼的スローガンは、半ば本音に根差したものだったろうと思います。というのも、ムソリーニ自身、この時点においてまだ自らを左翼活動家であるとみなしていたフシがあるからです。
 同じ時期に、ムソリーニは次のようにも云っています。
 「我々は、次のことをしっかり頭にたたき込んでおく必要がある。それは、今日のイタリアにおける唯一の反動政党は社会党だということを、我々自身が信じなければならないし、また他人にも信じ込ませるということだ。すなわち我々は社会党の敵である。これは我々がプロレタリアートの敵だということでは決してない。プロレタリアートの正当な要求を我々は認めるし、またそのために我々は闘う準備をおこなってもいる」
 ここに私はまさに、一九九〇年代半ば、左翼陣営において異端的孤立を余儀なくされた結果、左翼総体がもはや頽廃し、反動化してしまったのだ、今もなお本当に左翼と呼ばれる資格を持っているのは私一人だ、と息巻いていた私自身の姿を見るような思いを持ちます。
 ファシズムはこの後、大量のナショナリストや王党派が合流して急速に右傾化し、またそれによって勢力を拡大、国会への進出も果たすのですが、ムソリーニは、世間一般にはとうに右翼とみなされ、実際にも少なくとももはや左翼ではなかった一九二一年の段階においてすら、選挙に際しての暴力的な戦術を非難されると「我々はお上品な選挙戦をやっているのではない。革命をやっているのだ」と云い放ち、また同じ年の国会で、「ファシズムの本質は王制でも共和制でもないが、傾向としては共和主義である」として国王臨席の開会式をボイコットしています(ただしファシスト議員の多数はこれに同調せず)。

   イタリアの「赤い二年間」

 一九一九年から一九二〇年にかけてのイタリアは、「赤い二年間」とも呼ばれるほど左翼運動が高揚し、社会主義革命が現実的な可能性として実感された時期でした。
 大規模なデモやストライキが頻発し、たくさんの工場が労働者によって占拠されました(ストは一九一九年に1663件、一九二〇年には1881件)。
 社会党は一九一九年十一月の総選挙で156議席を獲得して国会の第一党となったのをはじめとして、各地の地方選挙でも次々と勝利し、いわゆる革新自治体があちこちに生まれていました。
 この背景には、当時の世界情勢がありました。
 大戦中に起きたロシア革命に、全世界の社会主義者や、その指導下にある労働者が鼓舞され勢いづいていましたし、また大戦で疲弊したヨーロッパ諸国に代わって国際政治の主役に躍り出たアメリカのウィルソン大統領が、その理想主義的な言動によってやはり世界的な期待を集めていました。
 ウィルソンは、大戦の終結に先立って、「十四ヶ条の平和原則」を世界に向けて発表していました。その内容は、秘密外交の廃止、公海の自由、民族自決、無併合・無賠償、国際平和機構の設立などで、一九一九年一月に始まった、戦後処理について話し合うパリ講和会議でもこうした民族自決と国際協調の精神を強調しました。
 ウィルソンの「十四ヶ条」は、実はそれより先にロシア・ソヴィエト政府がすべての交戦国とその国民に向けておこなった、やはり無併合・無賠償・民族自決の「平和に対する布告」という提案に対抗したものでした。
 国際政治は、各国がそれぞれの国家エゴをむきだしにして相争う段階から、誰も反対しにくい何らかの普遍的正義、大義名分が掲げられ、少なくともそれにのっとることを装う形で展開される新しい段階へと移行しました。こうした変化を主導したのが、社会主義ロシアと、アメリカという二つの「若い国」で、その理想主義に世界中の人々が感化されていたのです。
 民族自決の原則にしたがって、東欧に旧ロシアとオーストリアからの独立を認められた多数の小国家が出現し、また国際協調の精神を具体化するものとして、国際連盟の設立がおこなわれました。一九二〇年代に入ると、さらに大国間で「不戦条約」や「軍縮条約」が結ばれるようにもなりました。
 敗戦国ドイツには、ウィルソンらの反対を押し切る形でさまざまの厳しい制裁措置がおこなわれ、これに対する反発からヒトラーの率いるナチスがやがて勢力を拡大していくのですが、戦後まもない頃には左派の発言力が増し、当時もっとも「進歩的」な内容を持つワイマール憲法が制定されます。
 左派の台頭は戦勝国側でも顕著で、イギリスでは穏健な社会主義政党である労働党が初めて政権の座につき、ソ連の承認や完全普通選挙制の実施をおこないますし、フランスでは終戦当初こそドイツへの報復感情が高まりますが、やがて左派の連立内閣が成立すると対独協調路線に転じ、またイギリス同様、ソ連の承認をおこないます。イタリアにおける左派の急激な躍進も、こうした国際的な平和ムードや理想主義の風潮を背景とするものでした。実は我が日本の「大正デモクラシー」も同様の現象で、普通選挙法も一九二五年に成立しています。
 こうした状況はもちろん、ムソリーニにとっては逆境以外の何物でもありません。
 ウィルソンらの強い抵抗に遭って、「未回収のイタリア」をすべて回収しようというイタリアの領土要求は不完全な形でしか認められず、このため再びイタリアのナショナリストの運動が勢いづいたりもしますが、その先頭に立ったのはやはり英雄的な愛国詩人のダヌンツィオで、ムソリーニは脇役の立場に甘んずるしかありませんでした。
 いわゆる「雌伏の時期」を余儀なくされながら、ムソリーニは『イタリア人民』による言論戦を維持し、また戦闘団を拡大する粘り強い努力を続けて、再び表舞台に登場する機会をうかがっていたのです。

   雌伏時代のムソリーニ

 一九一九年三月にミラノで誕生したファシストの結社は、半年あまりを経た同年十月に「戦闘団全国大会」を開いた時点ですでに、イタリア各地に137団体、そのメンバーは計一万七千人を数えるまでに拡大していますが、それでもまだ選挙に勝てるほどの大衆的な支持を獲得するには至っておらず、十一月の総選挙では、その活動の拠点たるミラノにおいてすらわずか1パーセントほどの得票、当然ながら一人の当選者も出せずに惨敗しています。
 ムソリーニを裏切り者扱いする社会党は、先に触れたようにこの選挙で圧勝したことからくる増長の気分も手伝ったのでしょう、翌日の『アヴァンティ』にこれを嘲笑する記事を掲載し、またムソリーニの自宅へデモ隊に棺桶を運ばせるという嫌がらせをおこないます。憤激したファシストが社会党の勝利集会に爆弾を投げ込み、そのあおりでごく短期間ですが投獄されるなど、この時期はムソリーニにとって苦難の連続で、「おれはもう新聞なんかやめて、また石工にでも戻るよ」などと弱気な愚痴をこぼすこともあったようです。
 対照的に社会党など既成左翼勢力は我が世の春を謳歌し、先のとおり頻繁なデモやストを指導して、イタリア全土はほとんど無政府状態に陥ります。官憲との武力衝突も日常茶飯事で、一九一九年四月からの一年間に145人の死者が出ているほどです。
 ムソリーニは、「社会党は公約が過大すぎるし、また性急でもある。彼らは“レーニン万歳”や“ロシア万歳”を叫びすぎる。彼らは国民大衆の前でいますぐにでも共産主義を打ち立てるような政策綱領を振り回しすぎている」、つまりこんな状況は長くは続かないと、自らに云い聞かせるように書いています。
 また、「我々は政策綱領も、約束された土地も信じない。我々は個人に戻ろう。我々は個人を高め、強め、より多い自由、より幅広い生活を与えるあらゆるものを支持しよう。我々はまた、個人を抑圧し、低めるあらゆるものと戦うだろう」とか、「通達が今日、二つのヴァチカンから発せられている。一つはローマから、もう一つはモスクワから。我々はこの二つの宗教に対して異端者である。我々だけが、これらの感染に対して免疫を持っている」などと書いて、ニーチェ的な個人主義で自らを鼓舞したりもしています。

   ファシズムは「鉄の規律」と無縁の自由な運動

 一九二〇年五月に、ファシストによる最初の正式な武装行動隊が結成され、同様の動きが各地に拡がって、既成左翼によるデモや集会を襲撃したり、ストライキを実力で破壊するといった闘争が始まり、「革命の危機」に脅える富裕層や官憲はこれを歓迎あるいは黙認します。もっとも初期においてこうした闘争の主役はファシストの部隊ではなく、従来からのナショナリストや、社会主義への反対者たちでした。
 しかしこの年の春から夏にかけての連続的なスト攻勢を最後に、既成左翼の指導する運動が後退を始め、労働者の興奮も急速に醒めて指導部への懐疑や反感が拡がると、それまで「工場が経営者と労働者のどちらに属そうが、私には同じことだ。我々ファシストはボルシェビキ(マルクス・レーニン主義者、つまりソ連型戦術方針の社会主義者)中心の蜂起さえ起こさなければ傍観している」などと云って我関せずの立場を装っていたムソリーニは、機が到来したと見て徐々にその態度を変えていきます。
 とくに同年十一月、社会党による革新市政がおこなわれていたある地方都市で起きた、社会党員とファシストとの銃撃戦は、決定的な転換点となりました。
 この銃撃戦で、巻き添えを食った無関係な保守系の市議を含む9名が死亡、重軽傷者も100名にのぼりました。世間の非難は、この地で与党の立場にあった社会党側に集中、これを見てファシスト側は、既成左翼勢力への武力攻撃が一定の大衆的支持を得られることを確信、逆に非難の集中砲火に懲りた社会党側は、以後ファシストによる挑発に対して慎重な姿勢をとることを余儀なくされ、この一件はイタリアの「赤い二年間」の終焉を象徴する出来事であるとされます。
 ムソリーニはこの事件を受けて、「我々は今後、糞野郎共の社会主義過激派による一切の暴力を打ち負かし、粉砕するための十分な“道具”を持つことを大声でかつはっきりと云っておく」と書き、「傍観」から反撃への姿勢転換を明らかにします。
 ファシストの武装部隊による「懲罰遠征」が盛んにおこなわれるようになったのもこの頃からです。とくに社会党勢力が強い地域に「遠征」しては、派手な武闘をくりかえすのです。一九二一年の前半だけで、人民会館56ヶ所、労働会議所119所、協同組合107ヶ所、農業労働者連盟83ヶ所、社会党・共産党の支部事務所141ヶ所、文化サークル100ヶ所、職業別労組28ヶ所という既成左翼の活動拠点を襲撃し、いわゆる革新自治体は次々と消滅していきます。
 社会主義勢力の伸張に恐怖を感じていた地主や役人、資本家などの保守層がファシストを支持し、ファシズム勢力が急速に拡大する「農村ファシズムの爆発」と呼ばれる現象がここに生じますが、量的拡大と並行して質的にはファシズム運動の右傾化が進行することにもなります。
 「懲罰遠征」も含めた既成左翼とファシストの武力衝突によって、一九二一年の最初の三ヶ月あまりで計102名の死者(ファシスト25、社会主義者41、巻き添え16、警官等治安関係者2)、さらに同年五月にはたった半月で計71名の死者(同16、31、20、4)が出ています。
 ファシズムが暴力的性格を持っているというのは、世間の「誤解」ではなく、まったく事実です(もっともこの時期、死者を出すような暴力的な運動が、左右問わずそれほど珍しいものでなかったことは、すでに書いたとおりですが)。
 しかしファシズムに対して、鉄の規律で統制された軍隊式の作風をイメージするとすれば、それはまったくの誤解です。
 そもそも「戦闘団」は政党ではなく、そのため加盟に際して先輩メンバーによる推薦や資格審査の類も必要とされませんし、趣旨に賛同する者は単にその地の戦闘団に勝手に参加すればいいのです。もちろんその地にまだ戦闘団がなければ、自分で仲間を募って新たに結成すればいいし、またすでにあったとしても、気が合わなければ別の戦闘団を結成してもいいのです。創始者たるムソリーニの個人的声望以外に、中央の権威のようなものは何もなく、具体的行動については各地の戦闘団が自分たちで自由に決めます。そのかわり、運動資金や武器弾薬も、自分たちで調達しなければなりません。

   個性的なファシズム指導者たち

 各地で独自の活動を展開するファシストたちは、「ラス」と呼ばれるそれぞれの地方のカリスマ的なリーダーによって指導されていました。
 ムソリーニと同い歳のミケーレ・ビアンキは、ムソリーニ同様、学生時代には社会党員でしたが、のちサンディカリズムに傾斜して脱党。自身が活動する地方の農業争議の主導権を、社会党から奪うなどの活躍をします。大戦が始まると参戦派となり、ローマで「国際行動革命ファッショ」を結成、同時にムソリーニの強い影響下に入ります。戦闘ファッショの創立にも参加した、古参の指導者の一人です。
 エドモンド・ロッソーニも社会党を経てサンディカリズムへ、反戦派から参戦派へという、ビアンキと同じ軌跡を辿っていますが、ファシストへの転身は遅く、一九二一年までサンディカリズムを掲げる労働運動の指導者でした。転身後は、ファシスト系労組の指導者となります。
 イタロ・バルボはもともと急進的な共和主義者として活動していましたが、オルグされて転身、ファシストの戦闘部隊を軍隊式に再編した功労者で、一八九六年生まれですから、ムソリーニよりも13歳年下の若い指導者です。
 レアンドロ・アルピナーティは元アナキストで、アナキズム系の参戦運動を経て戦闘ファッショの創立に参加しています。先に触れた一九二〇年十一月の社会党員との銃撃戦を指揮し、都市部から郡部へ武装闘争の重心を移して「懲罰遠征」のスタイルを創始したのも、このアルピナーティです。
 ロベルト・ファリナッチは、社会党右派の指導者であったビッソラーティのもとで活動する社会党員でした。一九一二年、ムソリーニら最左派が社会党の主導権を握り、右派の主な指導者たちが除名された時、ともに脱党。ビッソラーティが新たに結成した「改良社会党」の党員として、大戦勃発に際しては参戦運動を展開しますが、戦後はビッソラーティを離れ、ムソリーニと行動を共にし、戦闘ファッショ創立大会の発起人の一人となっています。
 チェーザレ・デ・ヴェッキは王党派で、ファシズムに合流した右翼反動派の代表的存在です。
 ディーノ・グランディはジャーナリストとして参戦運動に身を投じましたが、当初はファシズムに批判的で、ファシストの襲撃を受けたこともあるほどです。一九二〇年にファシストへと転身、『攻撃』と題する新聞を創刊し、理論家として活躍します。弁護士としての顔を持つ彼もまた、一八九五年生まれの若い指導者の一人です。
 アウグスト・トゥラーティは参戦運動を経て一九二〇年にファシストとなった、愛国詩人のダヌンツィオに心酔する非妥協革命派です。
 ディーノ・ペッローネ・コンパーニ侯爵はむろん貴族ですが、飲む・打つ・買うのイタリア版「旗本やくざ」とも云うべき異色の指導者です。
 ファシズムの運動はこうした個性的な多数の指導者によって推進され、むしろ現場の主導権は彼らの手中にあり、ムソリーニは事実上の中央機関紙である『イタリア人民』の主筆として権威と影響力を保持しているにすぎません。
 一九二一年十一月に、戦闘団はファシスト党として再編され、つまり形式上は中央集権的な政党組織化がおこなわれるのですが、その分権的な体質は、一九二二年十月に政権を樹立して以後も長く変わらず、「独裁者」のイメージが強いムソリーニが実際に有していた権力はかなり限定されたものだったのです。

   ファシストの議会進出

 ファシストは、一九二一年五月の総選挙で、初めて国会に議席を獲得します。
 すでに前年十一月の地方選挙で、イタリアの長老的政治家であるジョリッティ首相は、ファシストやナショナリストに対し、「国民ブロック」と称する統一会派の形成を呼びかけ、これら右翼の過激派を体制内に取り込んで手なづけようという企みを実行に移していましたが、今回の国政選挙でもこの方針が継続して採用され、ファシズムの指導者たちは「国民ブロック」の候補として選挙戦に参加、35名の国会議員を誕生させたのです。もちろんムソリーニも当選して「国民ブロック」ファシスト派のリーダーとなりました。この時、38歳です。
 先に挙げた中では、ファリナッチ、デ・ヴェッキ、グランディらも当選しています。当時、イタリアでは30歳未満には被選挙権が与えられていませんでしたが、にもかかわらず、28歳のファリナッチ、25歳のグランディらをはじめ新人ファシスト議員35名の中に何人か20代の者が含まれていることは問題にされませんでした。
 国会の議席を与えてやればファシストもおとなしくするだろうというジョリッティ首相の見通しは甘く、当選を知らされたムソリーニはすぐに「我々は議員団体ではない。突撃隊であり、銃殺隊である」との宣言を発表、またすでに触れたように、国王の臨席を理由に六月十一日の開会式をボイコットします。
 開会式翌日、全ファシスト議員は最右翼の議席に陣取りました。
 最初の事件は、そのさらに翌日に起こります。ファリナッチの率いるファシスト議員たちが、一人の共産党代議士を取り囲み、「脱走兵上がり」と罵って威圧したのです。恐怖に駆られた共産党議員は思わず懐中からピストルを抜き出しますが、すぐ我に返り、謝罪してピストルをファリナッチに手渡します。ファリナッチはすかさず「このピストルが、イタリアの国会議員を殺すために使われようとした!」と叫び、ジョリッティ首相の議席に駆け寄って、その「証拠品」を提出しました。ジョリッティは取り乱し、議会は混乱しましたが、結局その共産党議員は議員資格を剥奪され、国会を追放されたのです。
 六月二一日、ムソリーニの初めての国会演説がおこなわれます。
 「かつて勝ち誇る野獣が店を開き、商売繁盛を謳歌していた頃(“赤い二年間”のこと)、誰も座りたがらなかったこの最右翼席から私の演説を始めることは、私にとって決して不快なことではありません」というのがその第一声でした。
 やがて社会党議員たちの席へ向けて、こう云い放ちます。「我々は二つの階級があるという諸君の理論を否定する。なぜなら、階級はもっとたくさんあるからだ。我々は、人類の全歴史を経済決定論で説明しようとする諸君の理論を否定する。我々は諸君の国際主義を否定する。なぜなら、そんなものは上流階級しか用いない贅沢品であって、人民は自分の生まれた国に必死でしがみついているからだ」
 ムソリーニはここに至るまでのいずれかの時点で、自らの立場をもはや左翼ではなく右翼の陣営を構成するものとして位置づけ直したことが分かります。

   ファシスト政権の誕生

 またムソリーニは同じ日の演説の中で、資本主義社会の支配層や、カトリック勢力に対して妥協的な言葉を数多く口にします。さらには社会党に対してさえも、「もし君たちが武装を解くならば、なかんずく精神の武装を解くならば、我々も武器を捨てる用意がある」と述べて、ファリナッチやグランディら、若く血気盛んな武装闘争指導者を唖然とさせたのです。
 もちろんムソリーニは、政権掌握を視野に入れて、こうした日和見的態度をことさらにアピールしています。これまでどおりの非妥協的な武装闘争路線を続けては、ファシズムはやがて支持を失ってしまうという危機感もあります。事実、このひと月ほど後には、ファシストの部隊が左翼の武装部隊の反撃に遭って多数の死者を出し、地元の官憲もむしろ左翼側に手を貸すという、それまでには考えられなかった事態が勃発するのです。
 八月にはファシストと社会党ら左翼勢力との間で停戦協定が結ばれましたが、そもそも分権的であるファシズムの運動にあっては、ムソリーニの方針に従わない非妥協派の暴走も容易で、この協定は左翼勢力側の一方的な武装解除を結果しただけに終わります。
 もちろんムソリーニと、非妥協派のファリナッチ、グランディらとの間にも対立が生じ、ファシズム勢力は分裂の危機にさらされるのですが、最終的にはそれは回避されます。十一月、戦闘ファッショはファシスト党に再編され、党首であるムソリーニの権限をいくぶん強化する代わりに、左翼勢力との停戦協定を破棄し、またファシストの武装部隊も存続を認められたのです。すでに武装解除を終えた左翼側が慌てふためいても、後のまつりというものでした。
 さすがに政府もいよいよ重い腰を上げて、実力でファシストを武装解除させようという動きを見せますが、ムソリーニはこれに対してさらなる武装強化を全党に指令、政府の強硬姿勢は逆にファシスト党を本格的な軍事勢力として成長させてしまったのです。
 翌一九二二年五月には、ファシストに指導されたゼネストが地方で成功、これを手始めとして、北イタリアの広範囲にファシストによる解放区が生まれていきます。イタリアは政府とファシストとの二重権力状態となり、ムソリーニは、「ファシズムが合法的な政党たらんとするのか、蜂起の党たらんとするかは、政府の出方次第だ」、つまり「ファシズムに敵対すると内戦になるぞ」と政府を恫喝しました。
 そして同年十月二八日、武装した数万のファシストが、党大会のおこなわれていたナポリから、ローマに向けて進軍を開始します。政府は対応を決めかね、これ以上の混乱を恐れた国王は戒厳令の布告を拒み、翌二九日、ムソリーニを首相に任命したのです。
 同三〇日、ファシストの制服である黒シャツを着たムソリーニが宮殿に到着、国王に会うと、正装でないことを陳謝してこう云います。「私は戦闘から直行しました。幸い、血を流すことなく勝利を収めました」
 国王はムソリーニに組閣を命じ、ここにファシスト政権が成立したのです。
 一九一九年三月の「戦闘ファッショ」結成からわずか三年半、ムソリーニは39歳でした。

 その後、イタリア・ファシズムは紆余曲折を辿りますが、実は私は、政権獲得後のファシズムにあまり興味がありません。それは結局、政権を維持するための妥協の連続であり、これまで書いてきた以上の目新しさをほとんど持たないからです。ファシズムの理想をどこまで実現しうるかは、つまるところ残存する国内の非ファシズム勢力や、諸外国との力関係に左右されます。
 ファシズムの理想は、政権樹立以前の段階ですでに提示されています。
 ムソリーニは残念ながらそのすべてを実現することができませんでしたし、私は私なりに、すべてとは云わないまでも、ムソリーニよりも多くそれを実現したいと志すだけです。

   ムソリーニ思想の集大成「世界はどこへ行く?」

 最後に、ムソリーニが一九二二年二月に発表した「世界はどこへ行く?」という論文を紹介しておきます。ファシスト党が本格的な武装を完成し、これを背景とする政権獲得の可能性が、ムソリーニの視野に入ってきた時期の論文で、ムソリーニはおそらく、ここで一度ファシズムの考え方をきちんと整理しなおそうと考えたのだと思います。
 私は、簡単には説明の難しいある複雑な事情によって、二年におよぶ投獄を経験している渦中でこの論文と出会い、暗記するまで読み込んで、ファシストへの転身を決意したのです。
 私が読んだのは、反ファシズムの立場で書かれ、しかし比較的公平にムソリーニの前半生について詳細な記述をおこなっている、藤沢道郎氏の大著『ファシズムの誕生』に引用された、この論文からの抜粋です。ここでも、そこから孫引きします。
 論文は、(藤沢氏の引用では)「一九一九年から一九二〇年にかけての二年は、一世紀かけて織り進められた民主主義の布地の、最後の仕上げの時期であった」と書き出されます。「共和制もたくさん成立した。民主主義はその目標としたところをすべて達成した」というのは、先に触れた、第一次大戦後の理想主義的な風潮のことです。ドイツ帝国、オーストリア帝国、オスマン(トルコ)帝国は解体され、それぞれが共和制に移行したのみならず、その支配下にあった多くの民族が独立して、やはり共和制の国づくりがおこなわれました。また、普通選挙制や婦人参政権を認める流れが定着しつつあったことも、すでに述べたとおりです。
 「社会主義はその最小限綱領を実現し、最大限綱領を断念した」というのは、ロシア革命の帰結が単なる共産党独裁体制の実現であり、それは社会主義が本来目指していた理想郷とは似ても似つかぬものであることが徐々に明らかになっていたことへの皮肉でしょう。
 「そして今や、民主主義の世紀に対する審判が始まる。今や〈民主的〉と称する諸概念、諸範疇はすべて、冷厳峻烈な批判にさらされる。こうして、民主主義にあって正義とされた普通選挙権が、実は不正の極致であることが明白になる。万人の政府とは、現実には誰の政府でもない政府をもたらすものであり、大衆の地位の上昇は必ずしも進歩の必要十分条件ではなく、民主主義の世紀が必然的に社会主義の世紀へと続いていく保証はない。これらの事実がつぎつぎに白日のもとにさらされる」
 私はこの中の、「万人の政府とは、現実には誰の政府でもない政府をもたらすものであり」というフレーズにぐっときました。また、選挙権の拡大につれて政治家が選挙民の顔色をうかがう大衆迎合型の政治活動を余儀なくされ、のみならず票をとりまとめるための金権政治、汚職が一般化したことは厳然たる事実です。普通選挙制が今もって何か素晴らしいものであるかに思われているのは、嘆かわしいことです。「資本主義(ブルジョア民主主義)は必然的に社会主義(プロレタリア民主主義)へと移行する」というのがマルクス主義者の広めた「科学的真理」ですが、怪しいもんだとムソリーニは嘲笑しています。
 「この政治的審判に哲学的審判がともなう。過去一世紀のあいだ物質が神棚に鎮座し続けていたとすれば、今その位置を占めるものは精神である。そしてその結果、安易放埒、軽佻浮薄、責任感の欠如、数の称揚、〈人民〉と称する不可思議な神の崇拝等の、民主精神特有の現象はすべて、いまわしいものとして退けられる。神が回復するというとき、それは精神の諸価値が回復するということを意味するのである」
 物質的な豊かさの実現を無邪気に肯定する未来派的価値観は、ここでは多少修正されています。もちろんここで第一の標的とされているのは、マルクス主義者たちの「唯物論」です。生産力の発展、経済規模の拡大を人類史の進歩の度合いを計る尺度とし、多数者の欲望を肯定する民主主義・社会主義に、「精神」の価値が対置されます。「欲望」に代えて「意志」を対置していると云ってもいいでしょう。民主主義が不道徳を蔓延させるという主張は、ニーチェの大衆(「畜群」)批判と重なるものです。
 「民主主義の世紀は一九一九‐一九二〇年に死んだ。世界大戦とともに死んだ」とムソリーニは宣言します。「かくして大戦は、民主主義の世紀の聖なる英雄叙事詩であったと同時に混迷の中の破産でもあった。名作であると同時に失敗作であった。頂上であると同時に奈落への転落でもあった。世界大戦の巨大な歴史的意義は実にここにある。それはすぐれて民主主義的な戦争であった。それは諸国民諸階級のために不滅の諸原理を実現する戦争であった。ウィルソンのかの十四ヶ条のいかにもてはやされしことよ、そしてまた、かの予言者の没落のいかに憂愁に満ちてありしことよ! そして結局、あの民主主義の戦争が、反民主主義の世紀を開始したのである」
 民主主義の理想を掲げた側が勝利し、実際その終結後、各国に民主主義の進展をもたらした(一部には社会主義革命さえもたらした)第一次大戦ですが、いざ実現された民主主義は、多くの者を幻滅させるものでしかなかったというわけです。アメリカでは、ヨーロッパ情勢に対して局外中立の立場を守る大戦前までの伝統に帰れとの声が強まって、アメリカ大統領ウィルソンの提言によって設立された国際連盟にアメリカが加盟しないというおかしな状況を生み、またそのウィルソン自身も一九二〇年の選挙で敗れ、すでに大統領の地位を去っていました。
 「〈万人の〉が民主主義の主要な形容詞であった。その形容詞は十九世紀を埋め尽くした。今や言うべき時である、選ばれた、少数の、と」
 これもニーチェ主義です。「畜群本能」のみをその行動原理とする多数の「弱者」による支配ではなく、高貴な精神を持つ少数の「強者」による支配が求められます。
 「民主主義は世界のすべての国で死の苦悶を味わっている。一部の、例えばロシアのような国では、民主主義はもう殺されてしまっている。他の国々でも、発展の方向は日増しに明らかになりつつある。十九世紀の資本主義は民主制を必要としたかもしれぬ。しかし現在は必要としない」
 社会主義ロシアがあっというまに民主主義を放棄したことは云うまでもありません。「他の国々でも云々」というのは、例えば「世界一民主的な」ワイマール憲法を制定したドイツではすぐさまそれに反発する右翼の台頭が始まり、また左翼勢力の伸長が著しかったイギリスやフランスでも、やはりこれに対抗する右翼やファシストの活動が目立ち始めたことを云っているのでしょう。
 「大戦は、それが民主主義の世紀を、数の、多数決の、量の世紀を流血の中に解消したという意味において、〈革命的〉であった」
 民主主義は確かに数の、多数決の、量の原理です。これまではそれを推し進める側が「革命的」であるとされてきました。しかし民主主義の理想が幻想にすぎず、それが単に道徳的な荒廃を招くものでしかないことが明らかとなった現在、その実現を阻み、すでに実現している場合にはそれを破壊することの方がずっと「革命的」なのだという価値転換がここで図られています。
 論文は、(この藤沢氏の抜粋では)「右翼復権の流れは、すでに目に見える形で現れつつある。無規律の狂宴は終わった、社会主義、民主主義の神話への熱狂は醒めた。生は個人に回帰する。古典復興が実現する。すべての色彩を消し去り、すべての個性を平板化する匿名にして灰色の民主的平等主義は、今息絶えんとしている」と結ばれます。
 前半はここまで述べてきたことと同じです。後半はこれまたニーチェです。「古典復興」とは、弱者の怠惰を正当化するキリスト教の精神的支配がおこなわれる以前の、力強い古代ギリシャ・ローマ文化の復興ということで、やはりニーチェが主張したことなのです。私にとっては、ムソリーニの民主主義批判が、第一義的には国家主義的な根拠からなされているわけではなく、「個人」を擁護する立場から発せられていることの発見が、何よりの収穫でした。「すべての色彩を消し去り、すべての個性を平板化する匿名にして灰色の民主的平等主義」という表現にそのことが強く反映されています。民主主義は、個人を、個性を、殺すのです。
 この論文の異様なテンション(黙示録的な?)に圧倒され、一時はこれを全文暗誦できたほどに繰り返し読み込み、ムソリーニの云わんとしているところを何とか理解したいとその一字一句を咀嚼吟味した私は、それをすべて理解したと確信した瞬間、ファシストとなったのです。

 
http://www.asyura2.com/21/senkyo279/msg/503.html#c33

[政治・選挙・NHK289] (本人直撃)「安倍元総理銃撃の真犯人は山上ではない」公安調査庁ベテラン調査員のメール流出の衝撃 (NEWSポストセブン)  魑魅魍魎男
82. 2023年2月03日 13:51:01 : bAOrac8YuY : SENpNGpXMENueUE=[7]
安倍が撃たれてないことは、世界中の政治のプロなら一瞬で見抜いている。

無論プーチンもだ。

しかしプーチンは、安倍が撃たれた前提で、親友の死を悼むとの対応に終始した。

この偽装には、ロシアもアメリカも共同で参画しているわけだ。

今やってる戦争も、裏ではな、、、、、
http://www.asyura2.com/22/senkyo289/msg/231.html#c82

[政治・選挙・NHK289] 首相、戦闘機飛来で敵基地攻撃も 反撃力発動排除せず(中日新聞) 達人が世直し
34. 2023年2月03日 14:41:53 : bAOrac8YuY : SENpNGpXMENueUE=[8]
>人間の常識として優れた者には従う

だからアメリカ人に従ってるんだろ?

なんせ、日本国憲法を制定いただいたんだぞ、アメリカ人に。
http://www.asyura2.com/22/senkyo289/msg/229.html#c34

   

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