1. 蒲田の富士山[2310] ipeTY4LMlXiObY5S 2024年5月03日 09:34:17 : v4ouBbv322 : RzlSZjdjZUU3SlE=[1]
2024年5月3日 07時58分
https://www.tokyo-np.co.jp/article/324971?rct=editorial
「洞窟の比喩」というエピソードが古代ギリシャの哲学者プラトンが著した「国家」にあります。
洞窟の奥にいる囚人たちは、振り返ることもできない状態で縛られています。入り口の方にかがり火が燃えていて、人々を背後から照らしています。
動物などの像が火にかざされると、洞窟の壁に影絵が映ります。囚人たちはその影絵こそ真実だと思っています。
でも、ある1人が束縛を解いて、洞窟の外に出ようとします。光源の存在を知り、やがて太陽の光を浴びることになります。そこで見る世界は洞窟の影絵とは似ても似つきません。
その1人は洞窟の奥に戻り、囚人たちに自分が見た世界を語ります。でも、洞窟の囚人たちは誰もその話を信じようとはしません。何しろ、自分が見ている影絵こそ真実だと思っているのですから。
◆暴政を見ている10年間
この10年間、私たちは囚人のように洞窟に閉じ込められ、政権が都合よく映し出した影絵を見ているのではないでしょうか。
「閣議決定」で政府が思い通りの政策を推し進める政治風景のことです。まるで憲法を無視するかのように、国会など存在しないかのように、主権者たる国民も蚊帳の外であるかのように…。
安倍・菅・岸田と続く政権下では、憲法の解釈も、法律の解釈も、内閣が自由自在に変更してしまいました。戦後積み上げた政府答弁も自分たちの都合のいいように簡単に覆してしまいます。
息のかかった高検検事長を定年延長したり、日本学術会議の会員を任命拒否したり。老朽原発の運転延長も国会の議論をほとんど経ずに閣議だけで決めました。
国権の最高機関は国会なのに、さながら政府の追認機関になっています。憲法が想定する三権分立の民主主義とは異なります。まるでプラトンの「洞窟の影絵」のように、当たり前の光景になっている、それが心配です。
内閣とは法律を誠実に執行する行政機関で、国会は唯一の立法機関です。法律はときに国民の権利を制約しうるので、国民の代表者である国会だけが立法できると憲法に定めています。
ですから内閣が勝手に法の枠や解釈の枠を踏み外してはなりません。憲法は主権者たる国民の側に制定権力があり、政府は憲法に拘束される側ですから、身勝手な解釈変更など許されません。
それが三権分立の本当の姿です。でも、この10年、単なる閣議決定で憲法や法律が読み替えられています。これは暴政です。
出発点は2014年の夏。集団的自衛権の行使容認を安倍内閣が閣議決定した時です。専守防衛のはずの自衛隊が他国の戦争に介入できることになったのです。
百八十度の大転換です。平和主義を定める憲法9条から逸脱しています。法治国家では法の整合性や連続性が求められますが、壊れてしまいました。
それからは安全保障の重要案件の多くは、閣議で決定されていきます。敵基地攻撃能力の保有や防衛費倍増、高性能の次期戦闘機を他国に売ることも…。
でも、そもそも閣議決定とは閣僚の合意事項で、法律を超える法的拘束力はありません。もし閣議決定に法的効力を認めるとすれば、内閣が勝手に法律をつくるのと同じです。国会はいらなくなります。やはり暴政なのです。
しかし、最近は世論の反応も鈍くなっているのが残念です。14年から15年の安全保障関連法の成立当時は、「憲法違反だ」と多くの国民が怒り、国会前で抗議のデモ=写真、本社ヘリ「あさづる」から=を繰り広げました。
今は政府により既成事実が積み上げられて、無力感が漂っているのでしょうか。抗議の声も鳴りをひそめがちです。
◆「考える」は戦う精神だ
冒頭の「洞窟の比喩」は、批評家・小林秀雄の「考えるヒント」(文春文庫)にも出てきます。
<彼等(ら)は考えている人間ではない(中略)巨獣の力のうちに自己を失っている人達(たち)だ>
影絵を真実と思っている洞窟の囚人たちのことでしょう。だから、自ら考えねばなりません。小林秀雄は「考える」営みについて、「どうあっても戦うという精神である」と記します。
<プラトンによれば、恐らく、それが、真の人間の刻印である>
影絵のような名ばかりの民主政とは、どうあっても戦う。そんな精神を持ちたいものです。
http://www.asyura2.com/24/senkyo294/msg/247.html#c1