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ウォール街と関係の深いCIAと特殊部隊の危険な行動に統合参謀本部がブレーキ
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202203260000/
ロシアの「十月革命」でソ連が誕生すると、アメリカの国務省はファシストの巣窟と化した。そうした外交官の中にジョージ・ケナン、ジョセフ・グルー、ジョン・フォスター・ダレス、アレン・ダレスも含まれている。
ケナンは人口の6・3%を占めるにすぎない人びとが世界の富の約半分を握っている情況を維持するための仕組みが必要だと考えていた人物で、フォーリン・アフェアーズ誌の1947年7月号に匿名で発表した論文でソ連を封じ込めるべきだとする議論を展開した。
第2次世界大戦後、アメリカでは戦時情報機関OSSは廃止され、CIAが創設されるが、当初、この新機関の活動は情報の収集と分析に限定され、破壊活動は許されなかった。
そこでケナンは1948年6月に破壊活動を目的とする機関の創設を提言、ジョージ・マーシャル国務長官や後任長官のディーン・アチソンがそれを支持し、NSD10/2という文書が作成された。そして創設されたのがOSP(特殊計画局)。名称はすぐにOPC(政策調整局)へ変更された。資金やスタッフはCIAから出ていたものの、名目上はケナンが創設した国務省のPPS(政策企画本部)が管理していた。1952年8月にCIAの秘密工作部門「計画局」が創設されたが、その中核になったのがOPCだ。(Stephen Dorril, “MI6”, Fourth Estate, 2000)
OSS時代から破壊活動を統括した人物がアレン・ダレス。OPCの初代局長に就任したフランク・ウィズナーはダレスの側近のひとり。ダレス自身、1951年1月に副長官としてCIAへ乗り込み、計画局が創設されたのである。
すでにドイツの敗北が決定的だった1944年、イギリスの特殊部隊SOEとOSSの1部門だったSOはゲリラ戦部隊「ジェドバラ」をフランスで編成した。大戦中、西部戦線でドイツ軍と戦っていたのは事実上、市民のレジスタンスだけだが、その主力がコミュニストだったことから、これに対抗するために作り上げたのである。この部隊の内部には93チームが存在、そのひとつを指揮していた人物が後のCIA長官、ウィリアム・コルビーだ。このジェドバラ人脈がOPCやアメリカ軍の特殊部隊につながる。この人脈を基盤にし、ヨーロッパにも秘密部隊のネットワークが作られ、後に「NATOの秘密部隊」と呼ばれるようになった。
このように国務省、CIA、特殊部隊は根は同じで、共同して動くことが少なくない。その典型例がベトナム戦争における「フェニックス・プログラム」だ。この秘密工作は正規軍の指揮系統になく、CIAの指揮下にあった。
1967年6月にICEXとして始動、NSC(国家安全保障会議)のロバート・コマーが指揮することになった。この人選はエバン・パーカーによるものだが、パーカーはOSS出身で、ジェドバラに参加していた。ICEXはすぐに「フェニックス・プログラム」へ名称が変更になった。
この秘密工作の中核メンバーはアメリカ軍の特殊部隊から引き抜かれたが、実働チームはCIAが組織したPRU(地域偵察部隊)という傭兵部隊。海軍の特殊部隊SEALsの隊員だったマイク・ビーモンによると、PRUを構成していたメンバーは凶悪な犯罪で投獄されていた囚人たちが中心で、フェニックスは「ベトコンの村システムの基盤を崩壊させるため、注意深く計画されたプログラム」だという。
1968年3月にソンミ村のミ・ライ地区とミ・ケ地区で引き起こされた農民虐殺事件、いわゆる「ソンミ事件」はこのプログラムの一部だとされている。
この虐殺事件はアメリカ陸軍第23歩兵師団第11軽歩兵旅団バーカー機動部隊第20歩兵連隊第1大隊チャーリー中隊に所属するウィリアム・カリー大尉の率いる第1小隊によって引き起こされた。犠牲者の数はアメリカ軍によるとミ・ライ地区だけで347人、ベトナム側の主張ではミ・ライ地区とミ・ケ地区を合わせて504人だという。
この虐殺が表面化した理由は、現場の上空にさしかかったアメリカ軍のヘリコプターに乗っていた兵士が止めたからだ。ヒュー・トンプソンという乗組員がヘリコプターから地上へ降りたが、その際、彼は同僚に対し、カリーの部隊が住民を傷つけるようなことがあったら、銃撃するように命令していたと言われている。(Oliver Stone & Peter Kuznick, “The Untold History of the United States,” Gallery Books, 2012)
こうした虐殺を従軍記者や従軍カメラマンは知っていたはずだが、報道していない。帰国後、議員に告発した兵士もいたが、政治家は動かない。政治家のスタッフをしていたジェフリー・コーワンからこの話を聞いた調査ジャーナリストのシーモア・ハーシュが取材、記事にしたものの、ライフやルックといった有名な雑誌からは掲載を拒否され、ワシントンを拠点とするディスパッチ・ニュース・サービスという小さな通信社を通じて伝えている。1969年11月のことだ。コーワンは当時、ユージン・マッカーシー上院議員の選挙キャンペーンに参加していたが、ハーシュもマッカーシー陣営に加わっていた。
報道を受け、陸軍参謀長に就任していたウィリアム・ウエストモーランドは事件の調査をウィリアム・ピアーズ将軍に命令する。ピアーズは第2次世界大戦中、OSSに所属していた人物。1950年代初頭にはCIAの台湾支局長を務め、その後もCIAとの関係は続いていた。ピアーズの任務は事件の真相を隠蔽することにあった可能性が高い。16人が告発されたが、裁判を受けたのは4人、そして有罪判決を受けたのはカリー大尉だけ。そのカリーもすぐに減刑されている。
ソンミ村での虐殺が告発されていた1968年7月、コリン・パウエル少佐(当時)がベトナム入りをしている。ジョージ・W・ブッシュ政権で国務長官に就任したあのパウエルだ。配属されたのはカリー大尉と同じ第23歩兵師団。彼自身、事件後に現場を訪れて衝撃を受けたと2004年5月4日に放送されたCNNのラリー・キング・ライブで語っている。
ベトナム戦争でアメリカはふたつの戦闘集団を送り込んでいた。ひとつは正規軍、もうひとつはCIAと特殊部隊だ。この構図は今でも続いているだろう。
ニューヨークの世界貿易センターとバージニア州アーリントンの国防総省本部庁舎(ペンタゴン)が攻撃されてから3カ月後の2001年12月、ドナルド・ラムズフェルド国防長官は統合参謀本部の作戦部長だったグレゴリー・ニューボルド将軍をオフィスに呼びつけ、イラク侵攻作戦について報告させた。
ニューボルドによると、その場にいたのはラムズフェルドのほかポール・ウォルフォウィッツ国防副長官、リチャード・マイアーズ統合参謀本部議長、ピータ・ペイス副議長、そして後にCIA長官となるウィリアム・ハインズ。(Andrew Cockburn, “Rumsfeld”, Scribner, 2007)
ウェズリー・クラーク元欧州連合軍(現在のNATO作戦連合軍)最高司令官によると、世界貿易センターとペンタゴンが攻撃されてから10日ほどのち、統合参謀本部で攻撃予定国のリストが存在することを知らされたという。まずイラク、ついでシリア、レバノン、リビア、ソマリア、スーダン、そして最後にイランの順だったという。(3月、10月)
この計画に正当性がなく、政府が偽情報を流していることを知っていた軍の幹部は背広組と対立、アメリカの対イラク軍事作戦の内容がリークされている。
そこで、ラムズフェルド長官は2002年7月12日付けのペンタゴン幹部宛てメモでリークを止めるように命令しているが、その内容までがロサンゼルス・タイムズ紙に掲載されてしまった。
アメリカがイラク侵攻作戦を開始する前、エリック・シンセキ陸軍参謀総長は議会でラムズフェルドの戦略を批判した。グレグ・ニューボルド海兵隊中将は2002年10月に統合参謀本部の作戦部長を辞し、2006年4月、タイム誌に「イラクが間違いだった理由」というタイトルの文章を書いてブッシュ政権を批判している。(Greg Newbold, “Why Iraq Was a Mistake”, TIME, April 9, 2006)
その記事が出る直前にアンソニー・ジニー元中央軍司令官もテレビのインタビューで国防長官を批判、同年3月にはポール・イートン少将、4月に入るとジョン・バチステ少将、チャールズ・スワンナック少将、ジョン・リッグス少将もラムズフェルド長官を批判している。
バラク・オバマ政権は2011年春、ムスリム同胞団やサラフィ主義者(ワッハーブ派、タクフィール主義者)を使い、リビアとシリアに対する侵略戦争を始めた。その年の10月にカダフィ体制が崩壊、カダフィ自身が惨殺されるが、その時点でNATO軍が手を組んでいた地上部隊の主力LIFGがアル・カイダ系だということが発覚した。
カダフィ体制を破壊した後、オバマ政権は戦闘員と武器をシリアへ集中させるのだが、その戦闘員がアル・カイダ系だということが知られている。そこでオバマ政権は「穏健派」という概念を持ち出し、「良いアル・カイダ」と「悪いアル・カイダ」という話を作り出す。
アメリカ政府は「良いアル・カイダ」を支援しているのだというわけだが、アメリカ軍の情報機関DIA(国防情報局)は2012年8月、反シリア政府軍の主力はサラフィ主義者やムスリム同胞団だと指摘、シリアで戦っているアル・ヌスラの実態はAQIと同じだと報告している。
バラク・オバマ大統領が言っていたような穏健派は存在しないということだが、その存在しない勢力へ提供された武器は「過激派」へ流れ、シリアの東部(ハサカやデリゾール)にサラフィ主義者の支配地域を作ることになるとも警告していた。
この警告は2014年にダーイッシュ(IS、ISIS、ISIL、イスラム国とも表記)という形になって現れる。1月にイラクのファルージャで「イスラム首長国」の建国が宣言され、その勢力は6月にモスルを制圧。その際にトヨタ製小型トラック、ハイラックスの新車を連ねたパレードを行い、その様子を撮影した写真が世界に伝えられた。その年の8月、フリンはDIA局長のポストから外され、退役させられた。
偵察衛星、無人機、通信傍受、人間による情報活動などでアメリカの軍や情報機関は武装集団の動きを知っていたはずで、そうしたパレードは格好の攻撃目標だが、アメリカ軍は動いていない。
2011年10月から15年9月まで統合参謀本部の議長を務めたマーチン・デンプシー陸軍大将もアル・カイダ系武装集団やそこから派生したダーイッシュを危険だと考えていたが、オバマ大統領はデンプシー議長の警告に耳を貸さない。やむなくアメリカ軍は2013年秋からアル・カイダ系武装集団やダーイッシュに関する情報を独断でシリア政府へ伝え始めた。
オバマ政権はシリア政府軍が住民を虐殺しているという偽情報を流し始める。バシャール・アル・アサド体制を悪魔化し、リビアのようにアメリカ/NATO軍が空爆を始めようとしたのだが、嘘が発覚して失敗していた。
DIAがオバマ政権の政策が危険だとする報告書をホワイトハウスに提出した2012年8月、シリアに対する直接的な直接的な軍事介入のレッド・ラインは生物化学兵器の使用だアメリカ政府は宣言した。12月にはヒラリー・クリントン国務長官がアサド大統領は化学兵器を使う可能性があると語る。
そして2013年1月29日付けのデイリー・メール紙には、オバマ政権がシリアで化学兵器を使ってその責任をアサド政権に押しつける作戦をオバマ大統領が許可したという記述がイギリスの軍事関連企業ブリタム防衛の社内電子メールに書かれているとする記事が載った。(同紙のサイトからこの記事はすぐに削除された)
そして2013年3月にアレッポで爆発があり、26名が死亡したのだが、そのときに化学兵器が使われたという話が流れる。シリア政府は侵略軍であるジハード傭兵が使用したとして国際的な調査を要請するが、イギリス、フランス、イスラエル、そしてアメリカは政府軍が使ったという宣伝を展開した。
しかし、攻撃されたのがシリア政府軍の検問所であり、死亡したのはシリア軍の兵士だということをイスラエルのハーレツ紙が指摘、国連独立調査委員会メンバーのカーラ・デル・ポンテも反政府軍が化学兵器を使用した疑いは濃厚だと発言している。
オバマ大統領はシリアの体制転覆に積極的だったが、チャック・ヘーゲル国防長官やマーチン・デンプシー統合参謀本部議長は上院軍事委員会で直接的な軍事介入に慎重な姿勢を示している。議会の好戦的な要求をこのふたりが抑えていたのだ。
しかし、ヘーゲルは2015年2月に解任されてアシュトン・カーターに交代、デンプシーは同年9月に再任を拒否され、ジョセフ・ダンフォードが後任になった。戦争に慎重な人物から好戦的な人物へ入れ替えたのである。
デンプシーは2015年9月25日に議長から退いたのだが、その5日後にロシア軍がシリア政府の要請で軍事介入。その後、ロシア軍は兵器と戦闘能力の優秀さを世界へ見せつけることになる。この時、アメリカを中心とする支配システムは揺らぎ始めた。
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