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[リバイバル3] LED照明を使うと失明する 中川隆
3. 中川隆[-8842] koaQ7Jey 2024年10月14日 02:51:04 : dvwjlhXNKA : RWE0NnVhYnRkU1E=[1]
緑内障・白内障の原因は植物油

植物性油と目の疾患の関係 悪い箇所だけでなく全体を診る!〜前編〜
吉野敏明チャンネル〜日本の病を治す〜 2024/10/12
https://www.youtube.com/watch?v=KCN90XwMi-4

0:00 はじめに
0:25 病気は全身で診る
6:24 他の疾患を治す重要性

植物性油と目の疾患の関係 職を正して病を治す!根本除去が重要!〜後編〜
吉野敏明チャンネル〜日本の病を治す〜 2024/10/13
https://www.youtube.com/watch?v=xE6xMslvfPk

0:00 はじめに
0:29 歯科治療で眼を治す
5:00 植物性の油を止める!
8:59 保健指導で原因を知る
12:44 食を正して病気を治す

http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/906.html#c3

[番外地12] キリストはユダに対し、自分達を取り巻く圧迫が最終局面に至っている事を語り、それへの「最終的な打開策」を打ち明け、最も信… 中川隆
1. 中川隆[-8841] koaQ7Jey 2024年10月14日 04:55:00 : dvwjlhXNKA : RWE0NnVhYnRkU1E=[2]
<■78行くらい→右の▽クリックで次のコメントにジャンプ可>
キリストはユダに対し、自分達を取り巻く圧迫が最終局面に至っている事を語り、それへの「最終的な打開策」を打ち明け、最も信頼する弟子と考える彼に対し「最後の助手としての役割」を果たす事を要求した。

「過越(すぎこし)の祭りが始まる3日前、イスカリオテのユダとの1週間の対話でイエスが語った秘密の啓示」
これは秘密の啓示である・・・。

イエスは過越しの祭りの3日前にユダにこう語られた・・・

イエスは地上に出現されたとき、人々を救う奇跡を行われた。

正しい道を歩くものもいれば、誤った道を歩く者もいたので、12人の使徒を集められた。

イエスは時にご自身としてではなく、子供として姿をお見せになった。


福音書の初めの部分で、イエスは「お前たちの神」に祈りを捧げる弟子たちを笑います。 この神とは、世界を創造した旧約聖書の劣った神のことです。

そしてイエスは、この私を直視し、真の姿を理解せよと迫りましたが、弟子たちは目を向けようとしません。


イエスがユダヤに居たある日の事・・・

12人の使徒たちは信心深く食事をしていた。
イエスは祈りを捧げている使徒たちに近付き笑い出した。

彼は使徒たちの間違った信仰を笑っていた。

使徒たちは世界の創造主を崇拝していた。
だが、ユダだけは違っていた

イエスは言う・・・

イエス「なぜ怒るのだ?あなたたちの中で強い心をを持つ者が立って私に示すがよい・・・・
己の内にある真の魂を」

ユダを除く使徒たち「私たちは強い心を持っています!」

しかし、言葉には出しても本当に立ち上がる者はいなかった。
・・・イスカリオテの『ユダ』を除いて・・・。

ユダはたった一人立ち上がってイエスに向かってこう言った。

ユダ「私は、あなたが何者か存じています・・・
あなたを送られた方の名は畏れ多くて申し上げられません。」

イエスはユダに近付きいて彼にこう言う・・・

イエス「他の者たちから離れよ・・・私はあなたに王国の秘密を教えよう。
     そこは果てしなく広がる国。天使させ見たことがない土地。人の
     心には想像さえ及ばぬ世界。その国に名前はない。」


■『キリスト』が『ユダ』に自分を『ローマ』に売るように諭す場面。

キリスト「You will be greater than all others. Judas, you will sacrifice the man that clothes me. 」

 (あなたは誰よりも素晴らしい。ユダよ。犠牲にするのだ。私の魂の衣ある者を。)


■『キリスト』が『神の国の秘密』を『ユダ』に明かす場面。

キリスト「Step away from the others, and I shall tell you the mysteries of kingdam. It is a great and boundless realm which no eye of an angel has ever seen, no thought of the heart has ever comprehended.」

(他の者から離れよ。あなたに教えよう。神の国の秘密を。そこは果てしなく広がる国。天使さえ見たことがない土地。人の心には想像さえ及ばぬ世界。)


イエスはユダに語ります。
「お前は、真の私を包むこの肉体を犠牲とし、すべての弟子たちを超える存在になるだろう」

「他の者たちから離れなさい。そうすれば、お前に[神の]王国の神秘を語って聞かせよう。その王国に至ることは可能だが、お前は大いに悲しむことになるだろう」

「聞きなさい、お前には[真理の]すべてを話し終えた。目を上げ、雲とその中の光、それを囲む星々を見なさい。皆を導くあの星が、お前の星だ」
 
「お前はこの世代の他の者たちの非難の的となるだろう
   ――そして彼らの上に君臨するだろう」


ユダは他の弟子たちから猛反発を受ける幻視を見たと語ります。

「幻視の中で、私は12人の弟子から石を投げつけられ、[ひどい]迫害を受けていました」


「ユダは目を上げ、光輝く雲を見て、その中に入っていった」

地上の人間たちは雲から聞こえる声を耳にします。

福音書の記述は、次のような場面で唐突に終わっています。

「彼ら[イエスを捕らえにきた人々]はユダに近づき、
『ここで何をしているのだ。イエスの弟子よ』と声をかけた。

______________


マタイ28-13

その弟子ら夜きたりて、我らの眠れる間に彼(イエスの亡骸)を盗めリ
此の話ユダヤ人の中にひろまりて、今日に至れり。


イエスの復活については、ペテロら弟子たちがイエスの遺体を墓から運び出して、イエスの復活をふれ回ったとする解釈(自作自演説)もありますが、どうにも不自然です。

ペテロらの自作自演なら、福音書によって記述がかなり食い違う点も説明が困難です。目撃証言や伝聞をつなぎ合わせていったから、あのような食い違いが起きたのであり、自作自演なら矛盾なくきれいに話がつながったはずでしょう。


イエスの遺体を墓から運び出させたのは誰でしょうか。

イスカリオテのユダしか考えられません。

イスカリオテのユダは、他の弟子たちがイエスの真意をようやく悟り始めたことを知りますが、弱い彼らは時が経てば逃げてしまうだろう、そうなれば、イエスは忘れ去られ、その教えは地上から消滅します。

イスカリオテのユダにとって、それは耐えられないことでした。

彼は、イエスの復活を演出します。墓からイエスの遺体を密かに運び出させました。

早朝、空になった墓を見て、イエスの遺体に香油を塗りに来た婦人たちは悲鳴を上げて逃げ出します。やがてイエス復活の噂がエルサレムの街のあちこちで囁かれるようになりました。

それを見届けたイスカリオテのユダは首を吊って自殺したのではないでしょうか。
http://www.asyura2.com/24/ban12/msg/241.html#c1

[番外地12] イエスは、二十九歳のときイスラエルに帰った。 彼がいない間、異教徒はイスラエルの民に、なお一層恐ろしい苦しみを与え、人々… 中川隆
1. 中川隆[-8840] koaQ7Jey 2024年10月14日 04:57:30 : dvwjlhXNKA : RWE0NnVhYnRkU1E=[3]
<■56行くらい→右の▽クリックで次のコメントにジャンプ可>
イエスは、二十九歳のときイスラエルに帰った。
彼がいない間、異教徒はイスラエルの民に、なお一層恐ろしい苦しみを与え、人々の気力はどん底に沈んでいた。
イエスは町々を巡り、絶望の重みに耐えかねていたイスラエルの民の勇気を、神のことばによって強めた。
数千人の群集が、イエスに従って説教を聞いた。

町々の指導者らは、イエスを恐れはじめた。
そしてエルサレム駐在の統治者に通報した。
イエスと呼ぱれる男が町に来たこと、説教しながら、権威に抗うよう民をそそのかしていること、群集は国の仕事もかえりみず、熱心に彼に聞き従っていること、そして侵人して来た統治者が、間もなく迫い払われるだろうと彼は断言している、と。


エルサレムの統治者ビラトは、説教者イエスの身柄を抑え、町に迎れて来て裁きにかけよ、と命令した。
しかし民衆の怒りを買わぬよう、祭司や学識あるへブライの長老たちに、イエスを神の宮の中で裁くようにと勧告した。
しかし、イエスの釈明を聞いた祭司と、賢い長老らは、彼を裁かぬことに決めた。
なぜならイエスは、だれも傷つけてはいなかったから。

そして彼らは、ローマの国の異教徒の王によって、エルサレムの統治者として定められていたピラトの前に出て、こう述べた。

「町々の長らは、あなたに間違った報告をしています。

というのは、この男は民に神のことばを教える義人です。

彼を尋問して私たちは安心し、彼を行かせました」


これを聞いて統治者は怒りに駆られ、変装させた家来をイエスの身近に送り込んだ。

イエスの行動すべてを監視させ、彼が民に向けて語ることばを、細大漏らさず報告させるために。

イエスの驚くばかりの人気は、統治者ピラトをおののかせるようになった。

イエスに敵対するものたちによると、民衆の中にはイエスこそ王だと主張するものがあり、イエスが彼らをそそのかしているという。

ピラトは彼のスパイの一人に、イエスを告発せよと命じた。

そこで兵士らが、命じられてイエスの逮捕に向かった。彼は捕らえられ地下牢に囚われた。

牢にはさまざまな拷問が待っていた。彼らは彼を死に定めるため、拷問にかけて自白を得ようとした。

聖者が受けている苦しみと、拷問のことを聞き知った大祭司、賢い長老たちは、統治者のもとへ赴き、近づいている祭りの栄光のためにも、イエスを自由にしてほしいと頼んだ。

だが為政者は、にべもなく拒んだ。

イエスは総督に向き直り、こう言った。

「どうしてあなたは、自分の品位を恥ずかしめるのですか。
どうして家来に、間違った生き方を教えるのですか。
自分の手は汚さずに、無実のものを罪に落とす方を持っているあなたが」


総督はこれを聞いて怒り狂い、イエスに死の宣告と、二人の盗賊の赦免を命じた。

協議を終えた裁判官らは、ピラトに言った。

「私たちは無実の人を有罪にし、盗賊らを釈放するという大きな罪を負うことはできません。 それは法に背きます」。

「だからどうぞ、あなたの思いのままに」。

祭司と賢い長老たちは、こう言い残して法廷を出、聖なる鉢で手を洗って言った。


「この義人の死について、私たちに責任はない」


_____________________


イエスは乳を与えられている小さな者たちを見た。
彼は彼の弟子たちに言った。

「乳を与えられているこの小さな者たちは、神の国に入る人々のようなものだ」。

彼らは彼に言った、
「私たちが小さければ、神の国に入るのでしょうか」。

イエスが彼らに言った、
「あなたがたが、二つのものを一つにし、
内を外のように、外を内のように、
上を下のようにするとき、
あなたがたが、男と女を一人にして、男を男でないように、女を女でないようにするならば、
そのときにあなたがたは神の国に入るであろう」。


イエスが言った。
この世は橋である。
渡って行きなさい。
しかしそこに棲家を建ててはならない。


イエスが言った。
過ぎ去り行く者となりなさい。
http://www.asyura2.com/24/ban12/msg/240.html#c1

[近代史4] 宮沢賢治の世界 中川隆
6. 中川隆[-8839] koaQ7Jey 2024年10月14日 06:36:54 : dvwjlhXNKA : RWE0NnVhYnRkU1E=[4]
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宮沢賢治の父政次郎はなぜ日蓮宗に改宗したのか
2024年9月15日
https://ihatov.cc/blog/archives/2024/09/post_1125.htm

 宮沢賢治の父政次郎は、若い頃から浄土真宗の篤信家で、自ら大量の仏教書を買い求めて読破するだけでなく、花巻仏教会の幹事役となって、夏期講習会には村上専精、近角常観、島地大等、暁烏敏など、当時の浄土真宗学僧の錚々たるメンバーを招聘し、人々とともに研鑽を深めていました。また、宮沢家の菩提寺である安浄寺(真宗大谷派)では、檀家総代も務めていました。
 このような父の薫陶のもと、賢治も幼い頃から浄土真宗の仏典に親しみ、物心つくと「正信偈」や「白骨の御文章」を暗誦して親戚を驚かせ、中学4年時に父にあてた手紙では、「小生はすでに道を得候。歎異鈔の第一頁を以て小生の全信仰と致し候〔中略〕念仏も唱へ居り候。仏の御前には命をも落すべき準備充分に候」と、熱い信仰を吐露しています。

 ところが、この賢治が青年期になると、決然として浄土真宗と袂を分かち、法華経および日蓮を熱烈に尊崇するようになります。そして、父親と連夜の宗教論争を闘わせたのです。
 激論の様子は、『新校本全集』年譜篇では次のように記されています。

 政次郎の信仰は浄土真宗であるのに、正に青天の霹靂というべきか、賢治の法華経への帰依による改宗申し入れが行われ、連夜の争論に家内中まっ暗になったのは、1920(大正9)年、賢治が盛岡高等農林学校研究生を終えて、家に戻ったときである。ふたりはいちいち経典をあげ、くり返しくり返し論じあい、賢治が「死をかけている」といえば「思い上るな。いくらも知らない者が軽率に言うな」と叱り、店の者は親子喧嘩かと思い、イチや妹たちはおろおろと嘆き、なぜこのように烈しく言いあうのか、一方を聞けばそうかとうなずき、一方が言えばもっともと思い、どちらもお釈迦さまのおっしゃったことなのだから、だれかとめに入ってほしいと願う。イチは思い余って政次郎の法友高橋勘太郎を訪ねて相談したこともある。ある夜果てしない論議のうちに時が経ち、寝ずに侍はべっている母娘に向かった政次郎は「聞いていてひどかったろう(辛かったろう)。だが大事なことを言いあったので喧嘩ではないのだからな」と涙を流したことがある。

(『新校本宮澤賢治全集』第16巻(下)年譜篇pp.17-18)

 血気盛んな賢治に対して、父政次郎も一歩も譲らず、厳しく受け答えをしていたのだと思われますが、論戦はいつまでも決着が付かず、遂に1921年1月の賢治の家出に至ります。家出の目的の一つは、「家族皆が法華経と日蓮に帰依するまで戻らない」と宣言することによって、家族の改宗を図ろうとするものでしたが、やはり政次郎は譲らず、結局賢治は目的を果たせないままに、妹トシの病気の知らせを受けて帰郷しました。

 その後も、賢治は法華経と日蓮への信仰を貫き、また政次郎の浄土真宗信仰も変わりませんでしたが、以後は両者が表立って論戦をすることはなくなったようです。

 そして賢治は、亡くなる直前にも「南無妙法蓮華経」と高唱し、『国訳 妙法蓮華経』千部を人々に配付することを遺言したのですが、自らの死後の扱いについては、現在伝えられているかぎりでは、何も遺志は示さなかったのかと思われます。
 きっと賢治の本心では、自分の遺骨は妹トシと同じく三保にある国柱会の「最勝閣」に納めてほしかったでしょうし、国柱会からの法諡を受けたかっただろうと思うのですが、現実には賢治の葬儀は浄土真宗の安浄寺で行われ、いったん「釈亮祐」という真宗の法名が贈られて、安浄寺の宮沢家代々の墓地に葬られました。(その後、国柱会から9月27日付けで「真金院三不日賢善男子」という法諡が贈られ、現在はこちらが用いられています。)

 歴史学者で賢治研究家の小倉豊文氏が、この安浄寺の墓地に政次郎氏が案内してくれた時のことを、次のように書いています。

私は政次郎翁に安浄寺の宮沢家の墓地に案内されたことがある。そこで賢治の遺骨が一基の先祖代々の墓石の下に納められていると知り、「世間の人が賢治を如何にもてはやしても、家では決して特別扱いはさせません」といった言葉をきいた時は、父の「えらさ」に頭がさがり、さらには浄土真宗の「倶会一処」の信仰に感じ入ったのであった。

(小倉豊文「二つのブラックボックス─賢治とその父の宗教信仰」)

 「倶会くえ一処いっしょ」とは『仏説阿弥陀経』にある言葉だそうで、「倶ともに一つ処ところで会う」と読み下し、誰しも死んだらすぐに浄土に往生して、そこで皆に出会うのだという教えです。
 政次郎の揺るぎない浄土信仰に、小倉氏も打たれたのでしょう。

 ところが、その政次郎氏が、賢治の死後18年も経った1951年になって、宮沢家の宗旨を日蓮宗に改宗し、先祖代々の墓も、浄土真宗の安浄寺から日蓮宗の身照寺に移したのです。
 政次郎のこの決断には、小倉豊文氏も唖然としたということです。

 賢治ばかりでなく、父政次郎翁の宗教信仰についても私には解けぬ謎がある。真宗安浄寺の宮沢家の代々墓のなかに賢治も納骨されていたこと、父が賢治の墓を別につくらなかった「えらさ」を私が感じ入ったことは前述したところである。ところが昭和25〜6年ころだったと思う。訪れた私に、翁は「賢治の墓を作ろうと思いますが……」と話しかけて来た。私はその十年ほど前に前述した「別に墓を作らぬ」といった、翁の言葉を思い出したが、既に眼と足が不自由になっていた喜寿の老翁に対して前言に違うと詰問する勇気が出ず、もし作るなら墓碑銘を刻んだ普通の墓ではなく、二十回忌記念の供養塔として、賢治が好んでいたらしい五輪峠にもちなんで、無銘の五輪塔にしたらよかろうという意味を述べ、もしそうするなら設計図の適当なものを送ると約したのである。そして帰ってから、懇意にしていた当時の石造美術の学問的権威者天沼俊一博士に頼み、鎌倉時代様式の五輪塔の設計図のコピーをもらって郵送した。鎌倉時代が石造美術の黄金期であり、五輪塔はこの時代の代表的造形でもあったからである。

(小倉豊文「二つのブラック・ボックス─賢治とその父の宗教信仰」)

 そして、それからさらに数年後……。

 ところが数年後に訪問すると、その五輪塔が完成したとのこと。清六氏に案内されると、そこは安浄寺ではなく、前述した南部日実上人の縁で出来た身延山系法華の説教所が寺になった、賢治の勤めていた花巻農学校の後身の花巻農業高校(現在は飛行場近くに移転改築されて、跡地は公会堂や公園になっている)近くの身照寺の墓地であった。前に見た安浄寺の墓地にあった宮沢家の代々墓に隣接して、私が送った設計図通りの五輪石塔が建っており、石塔は無銘だったが、その背後に高い大きな木柱が建てられ、それには「宮沢賢治之墓」という文字が見られたのである。私は内心唖然としたまましばらく無言でいると、清六氏は昭和27年に父も含めて宮沢家は日蓮宗に改宗し、五輪塔建立と共に宮沢家の安浄寺の墓を移した次第を物語ってくれた。私も関与していた筑摩書房版第一回の賢治の全集の最後の第11巻の出たのが昭和32年2月27日であったが、建塔・移墓はそのころであったとのこと。政次郎翁が84歳で永眠したのは、同じ年の3月1日である。
 従って私は、政次郎翁の真宗から法華宗に転じた信仰の由来をきく機会を永久に失った。

(小倉豊文「二つのブラック・ボックス─賢治とその父の宗教信仰」)

 父政次郎は、賢治との議論においては毫も曲げなかった浄土真宗の信仰を、彼の死後相当な年月が経ってから、日蓮宗に変えてしまったのです。
 いったい何が、政次郎をそうさせたのでしょうか。

 生前の政次郎氏と親しく宗教談義を交わした宗教史学者の小倉豊文氏でさえ、その改宗の理由は、謎の「ブラック・ボックス」だと言うのですから、ここで私ごときが少々考えを巡らしたところで、真相がわかるというものではないでしょう。
 しかし、当時政次郎氏の周囲にいて事情を知っていた可能性のある人が、その改宗の経緯について書き残してくれている文章が、少なくとも二つありますので、ここではとりあえずそれらを確認しておくことにします。
 まず、晩年の賢治の主治医で、『宮沢賢治─素顔のわが友─』を著した佐藤隆房氏は、次のように記しています。

 浄土真宗の父に背き日蓮宗に篤信の賢治さんが、折伏の大義にたちまして父の違法を破折屈服しようとしたのですが、対立のままで賢治さんは亡くなったのです。賢治さんが亡くなったあと、その悲しみ、さびしさをしみじみと感じた政次郎さん夫婦は、賢治さんの心をあわれと思ったのでしょう。祖先の仏壇とは別に、特に賢治さんの仏壇を設け毎日礼拝し、賢治さんの遺言にて出版した国訳妙法蓮華経を品第一からお二人並んで読みすすみました。読みすすむにつれ、夫婦は賢治さんの主張に今更ながら深い感銘を覚え、改宗したのです。

(佐藤隆房『宮沢賢治─素顔のわが友─』pp.313-314)

 すなわち、佐藤隆房氏によれば、政次郎が改宗した理由は、政次郎自身が宗教的回心に至ったからだ、というわけです。

 一方、農学校における賢治の元同僚で、浄土真宗の僧でもあった白藤慈秀氏は、宮沢家の改宗について、次のように書いています。

 宮沢さんは、お父さんに言われたことは、お父さん、若し私が亡くなった後で私を思い出すことがあらば南無妙法蓮華経と唱えて私を喚び出して下さい、との烈々な願いに、厳父は、今まで何度も議論し争ってきた一切のゆきがかりを捨て、日蓮宗と浄土真宗の優劣成敗を抛って、賢治お前の言う日蓮宗に転向すると決意されたのである。
 お父さんとしては、この世に不思議な因縁をもって親と呼ばれ、子と呼ぶことに限りない愛情を感じ至情至愛の温かい情愛に催されて堅く閉ざしていた心の扉を開き、賢治さんの心に惹かれたのである。この世五十年七十年の間の親子でなく未来永遠、後の世まで親子でありたい賢治が死後、日蓮宗のいう霊山浄土に生まれて往くならば、私も賢治の往く霊山浄土に生まれることに同意すると言われた。
 子を憶う親の心は計り知れないほど高くまた深い。親子が各異各解の域を越えて、同一の信仰の天地に融合し同調した世界は誠に美しい。宮沢家はこの日蓮宗の信仰に安住の灯をかかげることになった。

(白藤慈秀『こぼれ話宮沢賢治』p.82)

 すなわち、白藤慈秀氏によれば、政次郎が改宗した理由は、賢治との間の親子の絆を、何より大切にしようとしたからだ、というわけです。

 佐藤隆房氏と言えば、賢治の死後も政次郎氏と親密な関係を継続していた人で、桜の賢治詩碑の建立の際には、その実行委員長を務めました。このような人の記していることは、十分な信頼に足るものと思われます。
 一方、白藤慈秀氏は浄土真宗の僧侶として、島地大等の後に盛岡願教寺の院代を務めたほどの仏教者で、何度か政次郎氏を訪ねて宗教談義もしていたということですから、やはりその話はそれなりに信頼できるでしょう。

 となると、今さらこれ以上あれこれ考えなくても、二人の説に従っておけばよいのではないかとも思われるのですが、ただ政次郎の改宗理由に関する上記の二人の説明は、明らかに「ずれ」があるように思われて、私としてはどうしてもそのまま受け容れがたいのです。
 まず佐藤隆房氏によれば、政次郎が改宗した理由は、「賢治さんの主張に今更ながら深い感銘を覚え」たからだということで、「賢治さんの主張=日蓮の教義の内容」によるのだということです。
 一方、白藤慈秀氏によれば、政次郎は「日蓮宗と浄土真宗の優劣成敗を抛なげうって」、とにかく親子の結びつきを優先した結果なのだということであり、教えの内容は二の次なのです。
 この違いは、いったいどう理解したらよいのでしょうか。

 それともう一つ、私としてこの二人の説明に違和感を覚えてしまうのは、政次郎が佐藤説のように日蓮の教えに感銘を受けて宗教的回心をしたとしても、あるいは白藤説のようにただただ賢治との親子の絆を大切にしたかったとしても、それらはいずれも政次郎氏の「個人的な思い」です。
 そのどちらも、十分に理解できる思いではありますが、はたしてこういう個人的な感情だけで、政次郎氏のように己の社会的立場をわきまえた人が、先祖から連綿と引き継がれてきた菩提寺を変更したり、墓所を移設したりなどというような、「家」の伝統を根本から変えてしまう行動に出るものだろうかということが、私としては非常に疑問に感じるのです。

 檀家総代まで務めていた、門徒の中心的な名家が菩提寺を変更するとなると、安浄寺にとっては相当な衝撃でしょうし、地域社会に与える影響も、計り知れないものがあるでしょう。
 かりに政次郎氏が、日蓮の教えに深く共感するようになったとしても、あるいは賢治との親子の絆のために「南無妙法蓮華経」を日夜唱えたかったとしても、それは個人的な信仰のあり方として、家の中でプライベートに行えばよいことであって、何も菩提寺変更や墓所移設のような公の行動を、大々的にとる必要があるものでしょうか。

 それに、白藤慈秀氏が引用している「南無妙法蓮華経と唱えて私を喚び出して下さい」という話は、賢治が1931年の上京時に病に倒れた際に両親あてに書いた遺書(書簡393)の、「どうかご信仰といふのではなくてもお題目で私をお呼びだしください。そのお題目で絶えずおわび申しあげお答えいたします」とあるのを指しているのでしょうが、賢治は両親のために、ここにわざわざ「ご信仰といふのではなくても」と書いているのです。年をとって丸くなった賢治は、あえて両親に法華経への信仰を求めず、浄土真宗のままでもよいから、ただ合い言葉のように「南無妙法蓮華経」とさえ唱えてもらえれば、自分はそれに答えると言っているのです。
 賢治のこの言葉が根拠であれば、政次郎は何も改宗までする必要はなかったはずです。

 すなわち、私が想像するところでは、政次郎が改宗や墓所移設によって、「個人」を超えた「家」のあり方まで変更したということは、その理由も政次郎自身の個人的な事情ではなくて、何か「個人を超えた事柄」だったのではないかと思うのです。

 それでは、その「個人を超えた事柄」とは何か、ということが問題ですが、結論から申し上げると、それは政次郎氏が、「もはや賢治は、単に『宮沢家の一員』であることを超越して、『国民的作家』になってしまった」と認識し、そうなった以上「宮沢家」も、その事態に対応したあり方に変わらなければならないと判断したことによるのではないかと、私は想像します。

 私がそう考える理由は、小倉豊文氏の「二つのブラック・ボックス」という文章を読むと、政次郎氏が小倉氏に「賢治の墓を作ろうと思いますが……」と言い、実際に五輪塔の供養塔を建立して「宮沢賢治之墓」という木柱を建てたことと、宮沢家が日蓮宗に改宗したこととは、別個の出来事ではなく、一連の計画のもとにあると感じられることにあります。
 1940年頃の政次郎は小倉氏に、「世間の人が賢治を如何にもてはやしても、家では決して特別扱いはさせません」と言って、賢治も先祖代々の墓に納めていたのが、1950〜1951年頃には180度転換して、「賢治の墓を作る」と言い、それから時を置かず日蓮宗に改宗しているのです。
 つまり、あくまでも「宮沢家」が根本にあって、「賢治」がその一員として従属している状態から、逆に「賢治」の方に合わせて、「宮沢家」のあり方を再編しようとしているのだと思われます。

 ここであらためて、賢治が「国民的作家」となっていった過程を、簡単にたどってみましょう。
 1933年9月21日に賢治が死去した翌日の『岩手日報』夕刊には、「詩人宮沢賢治氏/きのふ永眠す/日本詩壇の輝しい巨星墜つ」という記事が載るなど、地元ではかなり大きく取り上げられました。しかし、「地元の有名人」クラスの存在は、全国各地に大勢いるものですし、こういう人は亡くなった時には地元で大々的に報じられたとしても、何十年かが経てば、直系の子孫以外に知る人はいなくなってしまうものです。
 賢治もこのレベルで終わっておれば、父政次郎としても、息子を「宮沢家の一員」として扱っておくだけでよかったのです。

 しかし、賢治の全国的知名度は、その死後にどんどん上昇して行きます。1934〜1935年刊の『文圃堂版全集』に続いて、1939〜1947年には『十字屋版全集』、戦後まもなくの1946〜1948年には『組合版文庫』と、10年ほどの間に3種類の全集が出版されます。1938年には松田甚次郎の『土に叫ぶ』がベストセラーになって賢治の名前が広く世に知られ、翌年に松田の編集による『宮沢賢治傑作選』も刊行されました。
 1940年には日活版の映画「風の又三郎」が、児童映画として高く評価されて文部大臣賞を受け、1942年には大政翼賛会が刊行する『詩歌翼賛』に「〔雨ニモマケズ〕」が収録され、さらに多くの国民の読むところとなりました。
 戦後になると、戦前の教科書に掲載されていた軍国的なテクストが全て抹消される一方、1947年から「どんぐりと山猫」、1950年から「気のいい火山弾」が、毎年のように小学校教科書に採用されていきます。この「教科書に載る」というのは、多くの国民が好むと好まざるとにかかわらず、学校で一律に読まされ刷り込まれるテクストになるということを意味し、賢治が「国民的作家」となる上では、非常に重要なステップだったと言えるでしょう。

 このような過程を経て、遅くとも1950年頃までに宮沢賢治は、「日本中ほとんどの人がその作品を読んでいる作家」になったのです。
 そうなると、「宮沢家」と「宮沢賢治」の関係は、もはや「宮沢賢治は、宮沢家の一員である」という状態では収まらなくなり、「宮沢家とは、宮沢賢治を生み出した家である」という形で、人々から見られるようになるでしょう。
 ここで、「家」と「個人」の主従関係が、逆転してくるのです。戦後まもない時期に、宮沢政次郎氏が直面せざるをえなかったのは、このような事態だったのではないでしょうか。

 たとえば、吉本隆明の『初期作品集』に収録されている「詩碑を訪れて」という文章には、米沢工業高等学校の学生だった吉本が、1942年に花巻の宮沢商会を訪ねて、清六氏と思しき人から詩碑に行く道順を親切に教えてもらった様子が記されています。賢治が有名になるにつれて、このようにして賢治の故郷を訪ねて来る人々は、毎年相当な人数になっていったでしょうが、彼の墓に参りたいと思ってはるばるやって来た人は、浄土真宗の安浄寺にある宮沢家代々の墓の前に来て、どんな印象を持ったでしょうか。

 下写真は、日蓮宗の身照寺にある現在の宮沢家墓所で、向かって左の五輪塔が賢治の供養塔(墓?)で、右が宮沢家の代々墓です。代々墓の方は、ご覧のように「骨堂」と刻んであるだけで、正面には「宮沢」という家名も入っていません。

20240915b.jpg

 墓地が移設される前には、賢治の熱烈な法華経信仰を知っている読者が墓参に来て、彼が浄土真宗のお寺に埋葬されている現実を目にしたならば、どうしても違和感を覚えたのではないでしょうか。若い頃の賢治が浄土真宗を激しく批判していたことや、遺言で法華経を配ったことを知っている人なら、なおさらです。
 そしてそういう疑問について、政次郎氏や清六氏に尋ねてみた墓参者も、いたのではないかと思います。中には、「あれほど反発していた浄土真宗のお墓に入れられているなんて、賢治が可哀そう」などと、一方的なことを言う人も、あったかもしれません。

 本来、「宮沢家代々之墓」とは、宮沢家の子孫の方々が静かにお参りするための場所だったはずで、そこに外部の人が大勢やって来るなどということは、想定もされていなかったことでしょう。
 しかし、賢治が「国民的作家」になってしまった結果、その想定外の事態が、安浄寺の新たな日常になってしまったのではないかと思います。

 そして、これが先に述べた、政次郎氏が改宗や墓地移設を決断するに至ったところの、「個人を超えた事情」だったのではないかと、私は想像する次第です。

 一方、改宗および墓地移設の「理由」が、「個人を越えた事情」であったとすれば、その「目的」も、誰か「個人」のためではなくて、「個人を超えた存在」のためだったのではないか、という類推が成り立つでしょう。
 その目的が「政次郎のため」でなかったのは、すでに見たとおりです。そして、個人としての「賢治のため」でもなかったのは、賢治の死後もずっと政次郎は、「世間の人が賢治を如何にもてはやしても、家では決して特別扱いはさせません」と言っていたことに、表れています。
 では誰のためだったのかというと、上記でいろいろと見てきたように、政次郎氏の決断の目的は、「国民的作家となった賢治を敬愛するみんなのため」だったのではないかと、私は想像するのです。

 いずれにせよ、日蓮宗のお寺に賢治個人の立派な供養塔が設けられている現状においては、彼のことを慕って訪れた墓参者は、素直な気持ちでこの五輪塔の前で手を合わせ、自らの賢治への思いを伝えることができるわけです。
https://ihatov.cc/blog/archives/2024/09/post_1125.htm
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/751.html#c6

[近代史5] 宮沢賢治童話集 中川隆
2. 中川隆[-8838] koaQ7Jey 2024年10月14日 06:37:40 : dvwjlhXNKA : RWE0NnVhYnRkU1E=[5]
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宮沢賢治の父政次郎はなぜ日蓮宗に改宗したのか
2024年9月15日
https://ihatov.cc/blog/archives/2024/09/post_1125.htm

 宮沢賢治の父政次郎は、若い頃から浄土真宗の篤信家で、自ら大量の仏教書を買い求めて読破するだけでなく、花巻仏教会の幹事役となって、夏期講習会には村上専精、近角常観、島地大等、暁烏敏など、当時の浄土真宗学僧の錚々たるメンバーを招聘し、人々とともに研鑽を深めていました。また、宮沢家の菩提寺である安浄寺(真宗大谷派)では、檀家総代も務めていました。
 このような父の薫陶のもと、賢治も幼い頃から浄土真宗の仏典に親しみ、物心つくと「正信偈」や「白骨の御文章」を暗誦して親戚を驚かせ、中学4年時に父にあてた手紙では、「小生はすでに道を得候。歎異鈔の第一頁を以て小生の全信仰と致し候〔中略〕念仏も唱へ居り候。仏の御前には命をも落すべき準備充分に候」と、熱い信仰を吐露しています。

 ところが、この賢治が青年期になると、決然として浄土真宗と袂を分かち、法華経および日蓮を熱烈に尊崇するようになります。そして、父親と連夜の宗教論争を闘わせたのです。
 激論の様子は、『新校本全集』年譜篇では次のように記されています。

 政次郎の信仰は浄土真宗であるのに、正に青天の霹靂というべきか、賢治の法華経への帰依による改宗申し入れが行われ、連夜の争論に家内中まっ暗になったのは、1920(大正9)年、賢治が盛岡高等農林学校研究生を終えて、家に戻ったときである。ふたりはいちいち経典をあげ、くり返しくり返し論じあい、賢治が「死をかけている」といえば「思い上るな。いくらも知らない者が軽率に言うな」と叱り、店の者は親子喧嘩かと思い、イチや妹たちはおろおろと嘆き、なぜこのように烈しく言いあうのか、一方を聞けばそうかとうなずき、一方が言えばもっともと思い、どちらもお釈迦さまのおっしゃったことなのだから、だれかとめに入ってほしいと願う。イチは思い余って政次郎の法友高橋勘太郎を訪ねて相談したこともある。ある夜果てしない論議のうちに時が経ち、寝ずに侍はべっている母娘に向かった政次郎は「聞いていてひどかったろう(辛かったろう)。だが大事なことを言いあったので喧嘩ではないのだからな」と涙を流したことがある。

(『新校本宮澤賢治全集』第16巻(下)年譜篇pp.17-18)

 血気盛んな賢治に対して、父政次郎も一歩も譲らず、厳しく受け答えをしていたのだと思われますが、論戦はいつまでも決着が付かず、遂に1921年1月の賢治の家出に至ります。家出の目的の一つは、「家族皆が法華経と日蓮に帰依するまで戻らない」と宣言することによって、家族の改宗を図ろうとするものでしたが、やはり政次郎は譲らず、結局賢治は目的を果たせないままに、妹トシの病気の知らせを受けて帰郷しました。

 その後も、賢治は法華経と日蓮への信仰を貫き、また政次郎の浄土真宗信仰も変わりませんでしたが、以後は両者が表立って論戦をすることはなくなったようです。

 そして賢治は、亡くなる直前にも「南無妙法蓮華経」と高唱し、『国訳 妙法蓮華経』千部を人々に配付することを遺言したのですが、自らの死後の扱いについては、現在伝えられているかぎりでは、何も遺志は示さなかったのかと思われます。
 きっと賢治の本心では、自分の遺骨は妹トシと同じく三保にある国柱会の「最勝閣」に納めてほしかったでしょうし、国柱会からの法諡を受けたかっただろうと思うのですが、現実には賢治の葬儀は浄土真宗の安浄寺で行われ、いったん「釈亮祐」という真宗の法名が贈られて、安浄寺の宮沢家代々の墓地に葬られました。(その後、国柱会から9月27日付けで「真金院三不日賢善男子」という法諡が贈られ、現在はこちらが用いられています。)

 歴史学者で賢治研究家の小倉豊文氏が、この安浄寺の墓地に政次郎氏が案内してくれた時のことを、次のように書いています。

私は政次郎翁に安浄寺の宮沢家の墓地に案内されたことがある。そこで賢治の遺骨が一基の先祖代々の墓石の下に納められていると知り、「世間の人が賢治を如何にもてはやしても、家では決して特別扱いはさせません」といった言葉をきいた時は、父の「えらさ」に頭がさがり、さらには浄土真宗の「倶会一処」の信仰に感じ入ったのであった。

(小倉豊文「二つのブラックボックス─賢治とその父の宗教信仰」)

 「倶会くえ一処いっしょ」とは『仏説阿弥陀経』にある言葉だそうで、「倶ともに一つ処ところで会う」と読み下し、誰しも死んだらすぐに浄土に往生して、そこで皆に出会うのだという教えです。
 政次郎の揺るぎない浄土信仰に、小倉氏も打たれたのでしょう。

 ところが、その政次郎氏が、賢治の死後18年も経った1951年になって、宮沢家の宗旨を日蓮宗に改宗し、先祖代々の墓も、浄土真宗の安浄寺から日蓮宗の身照寺に移したのです。
 政次郎のこの決断には、小倉豊文氏も唖然としたということです。

 賢治ばかりでなく、父政次郎翁の宗教信仰についても私には解けぬ謎がある。真宗安浄寺の宮沢家の代々墓のなかに賢治も納骨されていたこと、父が賢治の墓を別につくらなかった「えらさ」を私が感じ入ったことは前述したところである。ところが昭和25〜6年ころだったと思う。訪れた私に、翁は「賢治の墓を作ろうと思いますが……」と話しかけて来た。私はその十年ほど前に前述した「別に墓を作らぬ」といった、翁の言葉を思い出したが、既に眼と足が不自由になっていた喜寿の老翁に対して前言に違うと詰問する勇気が出ず、もし作るなら墓碑銘を刻んだ普通の墓ではなく、二十回忌記念の供養塔として、賢治が好んでいたらしい五輪峠にもちなんで、無銘の五輪塔にしたらよかろうという意味を述べ、もしそうするなら設計図の適当なものを送ると約したのである。そして帰ってから、懇意にしていた当時の石造美術の学問的権威者天沼俊一博士に頼み、鎌倉時代様式の五輪塔の設計図のコピーをもらって郵送した。鎌倉時代が石造美術の黄金期であり、五輪塔はこの時代の代表的造形でもあったからである。

(小倉豊文「二つのブラック・ボックス─賢治とその父の宗教信仰」)

 そして、それからさらに数年後……。

 ところが数年後に訪問すると、その五輪塔が完成したとのこと。清六氏に案内されると、そこは安浄寺ではなく、前述した南部日実上人の縁で出来た身延山系法華の説教所が寺になった、賢治の勤めていた花巻農学校の後身の花巻農業高校(現在は飛行場近くに移転改築されて、跡地は公会堂や公園になっている)近くの身照寺の墓地であった。前に見た安浄寺の墓地にあった宮沢家の代々墓に隣接して、私が送った設計図通りの五輪石塔が建っており、石塔は無銘だったが、その背後に高い大きな木柱が建てられ、それには「宮沢賢治之墓」という文字が見られたのである。私は内心唖然としたまましばらく無言でいると、清六氏は昭和27年に父も含めて宮沢家は日蓮宗に改宗し、五輪塔建立と共に宮沢家の安浄寺の墓を移した次第を物語ってくれた。私も関与していた筑摩書房版第一回の賢治の全集の最後の第11巻の出たのが昭和32年2月27日であったが、建塔・移墓はそのころであったとのこと。政次郎翁が84歳で永眠したのは、同じ年の3月1日である。
 従って私は、政次郎翁の真宗から法華宗に転じた信仰の由来をきく機会を永久に失った。

(小倉豊文「二つのブラック・ボックス─賢治とその父の宗教信仰」)

 父政次郎は、賢治との議論においては毫も曲げなかった浄土真宗の信仰を、彼の死後相当な年月が経ってから、日蓮宗に変えてしまったのです。
 いったい何が、政次郎をそうさせたのでしょうか。

 生前の政次郎氏と親しく宗教談義を交わした宗教史学者の小倉豊文氏でさえ、その改宗の理由は、謎の「ブラック・ボックス」だと言うのですから、ここで私ごときが少々考えを巡らしたところで、真相がわかるというものではないでしょう。
 しかし、当時政次郎氏の周囲にいて事情を知っていた可能性のある人が、その改宗の経緯について書き残してくれている文章が、少なくとも二つありますので、ここではとりあえずそれらを確認しておくことにします。
 まず、晩年の賢治の主治医で、『宮沢賢治─素顔のわが友─』を著した佐藤隆房氏は、次のように記しています。

 浄土真宗の父に背き日蓮宗に篤信の賢治さんが、折伏の大義にたちまして父の違法を破折屈服しようとしたのですが、対立のままで賢治さんは亡くなったのです。賢治さんが亡くなったあと、その悲しみ、さびしさをしみじみと感じた政次郎さん夫婦は、賢治さんの心をあわれと思ったのでしょう。祖先の仏壇とは別に、特に賢治さんの仏壇を設け毎日礼拝し、賢治さんの遺言にて出版した国訳妙法蓮華経を品第一からお二人並んで読みすすみました。読みすすむにつれ、夫婦は賢治さんの主張に今更ながら深い感銘を覚え、改宗したのです。

(佐藤隆房『宮沢賢治─素顔のわが友─』pp.313-314)

 すなわち、佐藤隆房氏によれば、政次郎が改宗した理由は、政次郎自身が宗教的回心に至ったからだ、というわけです。

 一方、農学校における賢治の元同僚で、浄土真宗の僧でもあった白藤慈秀氏は、宮沢家の改宗について、次のように書いています。

 宮沢さんは、お父さんに言われたことは、お父さん、若し私が亡くなった後で私を思い出すことがあらば南無妙法蓮華経と唱えて私を喚び出して下さい、との烈々な願いに、厳父は、今まで何度も議論し争ってきた一切のゆきがかりを捨て、日蓮宗と浄土真宗の優劣成敗を抛って、賢治お前の言う日蓮宗に転向すると決意されたのである。
 お父さんとしては、この世に不思議な因縁をもって親と呼ばれ、子と呼ぶことに限りない愛情を感じ至情至愛の温かい情愛に催されて堅く閉ざしていた心の扉を開き、賢治さんの心に惹かれたのである。この世五十年七十年の間の親子でなく未来永遠、後の世まで親子でありたい賢治が死後、日蓮宗のいう霊山浄土に生まれて往くならば、私も賢治の往く霊山浄土に生まれることに同意すると言われた。
 子を憶う親の心は計り知れないほど高くまた深い。親子が各異各解の域を越えて、同一の信仰の天地に融合し同調した世界は誠に美しい。宮沢家はこの日蓮宗の信仰に安住の灯をかかげることになった。

(白藤慈秀『こぼれ話宮沢賢治』p.82)

 すなわち、白藤慈秀氏によれば、政次郎が改宗した理由は、賢治との間の親子の絆を、何より大切にしようとしたからだ、というわけです。

 佐藤隆房氏と言えば、賢治の死後も政次郎氏と親密な関係を継続していた人で、桜の賢治詩碑の建立の際には、その実行委員長を務めました。このような人の記していることは、十分な信頼に足るものと思われます。
 一方、白藤慈秀氏は浄土真宗の僧侶として、島地大等の後に盛岡願教寺の院代を務めたほどの仏教者で、何度か政次郎氏を訪ねて宗教談義もしていたということですから、やはりその話はそれなりに信頼できるでしょう。

 となると、今さらこれ以上あれこれ考えなくても、二人の説に従っておけばよいのではないかとも思われるのですが、ただ政次郎の改宗理由に関する上記の二人の説明は、明らかに「ずれ」があるように思われて、私としてはどうしてもそのまま受け容れがたいのです。
 まず佐藤隆房氏によれば、政次郎が改宗した理由は、「賢治さんの主張に今更ながら深い感銘を覚え」たからだということで、「賢治さんの主張=日蓮の教義の内容」によるのだということです。
 一方、白藤慈秀氏によれば、政次郎は「日蓮宗と浄土真宗の優劣成敗を抛なげうって」、とにかく親子の結びつきを優先した結果なのだということであり、教えの内容は二の次なのです。
 この違いは、いったいどう理解したらよいのでしょうか。

 それともう一つ、私としてこの二人の説明に違和感を覚えてしまうのは、政次郎が佐藤説のように日蓮の教えに感銘を受けて宗教的回心をしたとしても、あるいは白藤説のようにただただ賢治との親子の絆を大切にしたかったとしても、それらはいずれも政次郎氏の「個人的な思い」です。
 そのどちらも、十分に理解できる思いではありますが、はたしてこういう個人的な感情だけで、政次郎氏のように己の社会的立場をわきまえた人が、先祖から連綿と引き継がれてきた菩提寺を変更したり、墓所を移設したりなどというような、「家」の伝統を根本から変えてしまう行動に出るものだろうかということが、私としては非常に疑問に感じるのです。

 檀家総代まで務めていた、門徒の中心的な名家が菩提寺を変更するとなると、安浄寺にとっては相当な衝撃でしょうし、地域社会に与える影響も、計り知れないものがあるでしょう。
 かりに政次郎氏が、日蓮の教えに深く共感するようになったとしても、あるいは賢治との親子の絆のために「南無妙法蓮華経」を日夜唱えたかったとしても、それは個人的な信仰のあり方として、家の中でプライベートに行えばよいことであって、何も菩提寺変更や墓所移設のような公の行動を、大々的にとる必要があるものでしょうか。

 それに、白藤慈秀氏が引用している「南無妙法蓮華経と唱えて私を喚び出して下さい」という話は、賢治が1931年の上京時に病に倒れた際に両親あてに書いた遺書(書簡393)の、「どうかご信仰といふのではなくてもお題目で私をお呼びだしください。そのお題目で絶えずおわび申しあげお答えいたします」とあるのを指しているのでしょうが、賢治は両親のために、ここにわざわざ「ご信仰といふのではなくても」と書いているのです。年をとって丸くなった賢治は、あえて両親に法華経への信仰を求めず、浄土真宗のままでもよいから、ただ合い言葉のように「南無妙法蓮華経」とさえ唱えてもらえれば、自分はそれに答えると言っているのです。
 賢治のこの言葉が根拠であれば、政次郎は何も改宗までする必要はなかったはずです。

 すなわち、私が想像するところでは、政次郎が改宗や墓所移設によって、「個人」を超えた「家」のあり方まで変更したということは、その理由も政次郎自身の個人的な事情ではなくて、何か「個人を超えた事柄」だったのではないかと思うのです。

 それでは、その「個人を超えた事柄」とは何か、ということが問題ですが、結論から申し上げると、それは政次郎氏が、「もはや賢治は、単に『宮沢家の一員』であることを超越して、『国民的作家』になってしまった」と認識し、そうなった以上「宮沢家」も、その事態に対応したあり方に変わらなければならないと判断したことによるのではないかと、私は想像します。

 私がそう考える理由は、小倉豊文氏の「二つのブラック・ボックス」という文章を読むと、政次郎氏が小倉氏に「賢治の墓を作ろうと思いますが……」と言い、実際に五輪塔の供養塔を建立して「宮沢賢治之墓」という木柱を建てたことと、宮沢家が日蓮宗に改宗したこととは、別個の出来事ではなく、一連の計画のもとにあると感じられることにあります。
 1940年頃の政次郎は小倉氏に、「世間の人が賢治を如何にもてはやしても、家では決して特別扱いはさせません」と言って、賢治も先祖代々の墓に納めていたのが、1950〜1951年頃には180度転換して、「賢治の墓を作る」と言い、それから時を置かず日蓮宗に改宗しているのです。
 つまり、あくまでも「宮沢家」が根本にあって、「賢治」がその一員として従属している状態から、逆に「賢治」の方に合わせて、「宮沢家」のあり方を再編しようとしているのだと思われます。

 ここであらためて、賢治が「国民的作家」となっていった過程を、簡単にたどってみましょう。
 1933年9月21日に賢治が死去した翌日の『岩手日報』夕刊には、「詩人宮沢賢治氏/きのふ永眠す/日本詩壇の輝しい巨星墜つ」という記事が載るなど、地元ではかなり大きく取り上げられました。しかし、「地元の有名人」クラスの存在は、全国各地に大勢いるものですし、こういう人は亡くなった時には地元で大々的に報じられたとしても、何十年かが経てば、直系の子孫以外に知る人はいなくなってしまうものです。
 賢治もこのレベルで終わっておれば、父政次郎としても、息子を「宮沢家の一員」として扱っておくだけでよかったのです。

 しかし、賢治の全国的知名度は、その死後にどんどん上昇して行きます。1934〜1935年刊の『文圃堂版全集』に続いて、1939〜1947年には『十字屋版全集』、戦後まもなくの1946〜1948年には『組合版文庫』と、10年ほどの間に3種類の全集が出版されます。1938年には松田甚次郎の『土に叫ぶ』がベストセラーになって賢治の名前が広く世に知られ、翌年に松田の編集による『宮沢賢治傑作選』も刊行されました。
 1940年には日活版の映画「風の又三郎」が、児童映画として高く評価されて文部大臣賞を受け、1942年には大政翼賛会が刊行する『詩歌翼賛』に「〔雨ニモマケズ〕」が収録され、さらに多くの国民の読むところとなりました。
 戦後になると、戦前の教科書に掲載されていた軍国的なテクストが全て抹消される一方、1947年から「どんぐりと山猫」、1950年から「気のいい火山弾」が、毎年のように小学校教科書に採用されていきます。この「教科書に載る」というのは、多くの国民が好むと好まざるとにかかわらず、学校で一律に読まされ刷り込まれるテクストになるということを意味し、賢治が「国民的作家」となる上では、非常に重要なステップだったと言えるでしょう。

 このような過程を経て、遅くとも1950年頃までに宮沢賢治は、「日本中ほとんどの人がその作品を読んでいる作家」になったのです。
 そうなると、「宮沢家」と「宮沢賢治」の関係は、もはや「宮沢賢治は、宮沢家の一員である」という状態では収まらなくなり、「宮沢家とは、宮沢賢治を生み出した家である」という形で、人々から見られるようになるでしょう。
 ここで、「家」と「個人」の主従関係が、逆転してくるのです。戦後まもない時期に、宮沢政次郎氏が直面せざるをえなかったのは、このような事態だったのではないでしょうか。

 たとえば、吉本隆明の『初期作品集』に収録されている「詩碑を訪れて」という文章には、米沢工業高等学校の学生だった吉本が、1942年に花巻の宮沢商会を訪ねて、清六氏と思しき人から詩碑に行く道順を親切に教えてもらった様子が記されています。賢治が有名になるにつれて、このようにして賢治の故郷を訪ねて来る人々は、毎年相当な人数になっていったでしょうが、彼の墓に参りたいと思ってはるばるやって来た人は、浄土真宗の安浄寺にある宮沢家代々の墓の前に来て、どんな印象を持ったでしょうか。

 下写真は、日蓮宗の身照寺にある現在の宮沢家墓所で、向かって左の五輪塔が賢治の供養塔(墓?)で、右が宮沢家の代々墓です。代々墓の方は、ご覧のように「骨堂」と刻んであるだけで、正面には「宮沢」という家名も入っていません。

20240915b.jpg

 墓地が移設される前には、賢治の熱烈な法華経信仰を知っている読者が墓参に来て、彼が浄土真宗のお寺に埋葬されている現実を目にしたならば、どうしても違和感を覚えたのではないでしょうか。若い頃の賢治が浄土真宗を激しく批判していたことや、遺言で法華経を配ったことを知っている人なら、なおさらです。
 そしてそういう疑問について、政次郎氏や清六氏に尋ねてみた墓参者も、いたのではないかと思います。中には、「あれほど反発していた浄土真宗のお墓に入れられているなんて、賢治が可哀そう」などと、一方的なことを言う人も、あったかもしれません。

 本来、「宮沢家代々之墓」とは、宮沢家の子孫の方々が静かにお参りするための場所だったはずで、そこに外部の人が大勢やって来るなどということは、想定もされていなかったことでしょう。
 しかし、賢治が「国民的作家」になってしまった結果、その想定外の事態が、安浄寺の新たな日常になってしまったのではないかと思います。

 そして、これが先に述べた、政次郎氏が改宗や墓地移設を決断するに至ったところの、「個人を超えた事情」だったのではないかと、私は想像する次第です。

 一方、改宗および墓地移設の「理由」が、「個人を越えた事情」であったとすれば、その「目的」も、誰か「個人」のためではなくて、「個人を超えた存在」のためだったのではないか、という類推が成り立つでしょう。
 その目的が「政次郎のため」でなかったのは、すでに見たとおりです。そして、個人としての「賢治のため」でもなかったのは、賢治の死後もずっと政次郎は、「世間の人が賢治を如何にもてはやしても、家では決して特別扱いはさせません」と言っていたことに、表れています。
 では誰のためだったのかというと、上記でいろいろと見てきたように、政次郎氏の決断の目的は、「国民的作家となった賢治を敬愛するみんなのため」だったのではないかと、私は想像するのです。

 いずれにせよ、日蓮宗のお寺に賢治個人の立派な供養塔が設けられている現状においては、彼のことを慕って訪れた墓参者は、素直な気持ちでこの五輪塔の前で手を合わせ、自らの賢治への思いを伝えることができるわけです。
https://ihatov.cc/blog/archives/2024/09/post_1125.htm
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[番外地12] 皇族が顧客だとわかって捜査中止になったプチエンジェル事件 中川隆
1. 中川隆[-8835] koaQ7Jey 2024年10月14日 07:47:59 : dvwjlhXNKA : RWE0NnVhYnRkU1E=[8]
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警察には児童売春事件を調査できない理由が有るんだよ。
皇族が顧客だとわかって捜査中止になったプチエンジェル事件
今から16年前の2003年、小学6年生の女子児童を渋谷でスカウトして赤坂のウイークリーマンションに監禁した、小児買春組織の事件。
この組織の顧客リストに、当時皇太子だった徳仁氏の名前があった。
中国政府関係者に今上天皇と12歳の小向美奈子の動画を撮られたので、警察や官僚は中国に逆らえなくなった。
プチエンジェル事件で皇太子にハニートラップを仕掛けたのは民主党の小沢一郎
旭川市長は小沢の弟子だからプチエンジェル事件の残党でしょう
今上天皇はチンチクリンで女性から相手にされなかったのでペドファイルになったんでしょう
相手は小学生時代の小向美x子?
先日警視庁のHPのPDFから
令和元年の0〜19歳の行方不明者が1,200人ほどいると書きました。
見つかった人がいたとしても何割かは行方不明のままです。
とくに女の子。小学生くらい。

もちろん中国や東南アジアの国際組織人身売買ブローカー、ヤクザ、芸能事務所等を通じて
性的虐待や人食、奴隷目的や結婚相手として売られてしまいます。

または売る前に日本に監禁されてしまうケースも。

そして世界の奥の院が一目置く存在として天皇家があります。
なぜ?
とお思いになるかと思います。
イギリスじゃないの?
とか思いますよね。

何故日本の天皇家が悪魔の集団から一目置かれてるかというと

@天皇家が所有してる金(ゴールド)が ケタ外れに多いこと。
A人種売買の総元締めであること。

ぷちえんじぇる置屋の源氏名せいか(小向美x子)は現在栃木の女性刑務所に服役中。
まだ刑期中だったかな。
悲しい人生です。
僕が彼女の親なら…。

芸能界ーペドファイルーグラビアアイドルーAV女優ー覚醒剤ー逮捕ー実刑。

天皇のペドファイルの後は芸能界や性産業で働かされたり、口封じで殺害したり。
カネ、ヒト、奴隷。


以下真偽不明ですが、皇室関係の話は5ちゃん他のネット情報と全く同じなので、一応転記しておきます:

片山徹 @_9105294027642 2021年7月21日
ぷちえんじぇる事件。女児発注者徳仁(東宮)。請負人吉里弘太郎(置屋、東京都港区赤坂2-17-54ウィークリーマンション・インターナショナルプラザ赤坂 11階1101号室)。女児配達人、渡辺x也、上原x優、ベンツCクラス。女児売春婦に飽きた徳仁は吉里に新女児発注。女児逃亡により発覚。ほぼ全員殺。

片山徹 2020年6月12日
プチエンジェル小学六年生、2000年7月17日午後5時2分の写真。令和天皇徳仁へのメッセージ「優しくしてくださいね」、現在AV女優小向x奈子と年齢出身地概ね一致。筆跡・文体も概ね本人と確認。江上波夫東大教授紹介の長州イボ侍の子供Mと父との面談の話。小児性愛であれば辻褄が合います。

2019年6月13日
小向美x子 アイドル時代の写真はプチエンジエル写真と一致。徳仁へのメッセージ「優しくしてくださいね」プチエンジェル事件後、鹿児島へ暫く姿を眩ませ、グラビアアイドルとして復帰。芸能プロダクションと宮内庁とはグル。不審死四人、行方不明六名。森友学園の不審死四人より多い日本人犠牲者。

2019年7月2日
赤坂プチエンジェル事件、小学六年生女児から、徳仁 へのメッセージ「なめるの大好き♡」女児の名は町田x沙と小向美x子に次いで二人目判明。運転手は東宮へ出張サービス。現在、運転手は行方不明。不審死四名、行方不明六名。

2020年8月22日
「あなたは、天皇。わたしは、女囚生活。」小向美x子。ぷちえんじぇる置屋の源氏名せいか(小向美x子)は女児売春婦。令和天皇に「やさしくしてくださいね」。今、栃木刑務所「女囚生活」。昭恵と同じ薬やってた。

2021年7月17日
女児人身売買、背後の人物統一教会大村x章。ベンツCクラスで女児配達渡辺x也。中国マフィアから仕入れた東南アジア女児。その後、行方不明。ぷちえんじぇる事件四人女児も行方不明。三浦春馬は日本でラオスから人身売買された女児の行方を探し、密室空間Xで消えた事を知った可能性。PEDO徳仁関与。

7月12日
済生会総裁PEDO秋篠宮からのビデオメッセージを見る六人の幹部の一人東京済生会中央病院院長海老原全。上下関係から三浦春馬の生き見せ、病院での死去を依頼した可能性。PEDO秋篠宮は複数回ラオス・ヴエンチャン訪問中の少女買春と遊興費寄付金から支出とを三浦春馬に掴まれた為、口封じ暗殺共謀か。

7月7日
李家の連続口封じ暗殺事件。三人共、PEDO(徳仁、秋篠宮、晋三)の少女買春口封じの為韓流地蔵背負ドアノブ自殺偽装暗殺。竹内結子(40歳)タオル、芦名星(36歳)ベルトに対し三浦春馬(30歳)は他人のリーシュコード(三田警察押収)でドアノブと繋がれていた。A香川健二郎、田中諒平とは証拠品窃盗回収。

7月5日
陸山会(小沢一郎)所有マンションは既に解体更新築済。グーグル3Dの赤坂ぷちえんじぇる貴重資料。「赤坂ぷちえんじぇる」事件現場は東京都港区赤坂2丁目17-54 11F赤丸。皇居から至近距離。徳仁、秋篠宮ご愛用の為、官邸は赤坂の地名削除。渡辺x也、上原x優により暗殺された吉里弘太郎の女児置屋。

7月5日
ぷちえんじぇる事件。稲城市立長峰小学校六年生女児四人監禁事件( 03.07.13〜07.17)。女児の一人が花屋に逃亡、事件発覚。警察保護の四人がその後、家庭に戻った報道無し。全員行方不明との未確認情報。口封じ暗殺であれば、計十四人の日本人の命がPEDO倶楽部会員 徳仁によって失われた事になる。

7月4日
中国マフィアから統一教会大村x章が仕入れた女児に手を出すPEDO徳仁。女児は中里弘太郎置屋からベンツCクラスで渡辺x也が東宮へ搬送。会員制PEDO倶楽部に徳仁名。ぷちえんじぇる事件はマンションから女児逃亡で発覚。米ピザゲート事件の日本版。三浦春馬を含め日本人十名が自殺偽装口封じ暗殺。

片山徹 7月2日
ぷちえんじぇる事件。住民からの目撃証言。マンション玄関から二人男女が出て行った。吉里弘太郎を社長と。女児置屋主と女児配達屋との仕事関係。東宮への配達写真に渡辺x也。女はM配下の上原x美。当日、女児の一人を東宮へ配達する予定。女児逃亡により警察介入。渡辺を除き関係者全員口封じ暗殺。

7月1日
PEDO徳仁、少女拉致事件。吉川x梨失踪事件はPEDO徳仁が性欲を満足する為、大阪府熊取町在住九歳少女を白いクラウンで拉致。十四歳の時、PEDO徳仁に面談を許され、アイドルレビューを懇願。芸名町田x紗でDVDレビュー。最初のDVDカバー写真と懇願する後ろ姿の吉川x梨とのヘアーバンド一致。

6月30日
赤坂ぷちえんじぇる事件の女児置屋主(東京都港区赤坂2-17-54、1101号)吉里弘太郎はマンション玄関から入室した女児デリバリー担当渡辺x也と上原x優とに練炭自殺偽装暗殺された。現地に乗り捨てられた徳仁への女児搬送用ベンツCクラス。警察は捜査放棄。LornserE50に近い型式車。渡辺x也所有か。

6月30日
捜索中の吉川友梨は全国捜査のWEB司法省により発見。九歳の時、大阪府熊取町から白クラウンで拉致された吉川x梨は五年間、PEDO徳仁の性奴隷。十四歳の時、芸名町田x沙で念願CDレビュー。PEDO徳仁との吉川x梨面談写真のヘアーバンドと町田x沙最初CDカバーのヘアーバンドと一致。乳大人化。

6月28日
PEDO徳仁が大阪府熊取町から吉川友梨を白いクラウンで拉致証拠。五年間性奴として仕えた吉川x梨は約束グラビアアイドルレビュー要求。DVD出演は叶えられた。しかし、面談時の吉川x梨ヘアーバンドとDVDのカバー町田x沙のヘアーバンドと一致。PEDOの性犯罪立証。

6月14日
ベトナムの闇市人身売買。スマホ欲しさに子供を売る親。公権力介在。中国マフィアを経て国際的人身売買組織統一教会等に売却。赤坂プチエンジェル事件、フリージャーナリスト染谷悟刺殺遺体東京湾に浮かぶ。中国マフィアに殺されると予告。統一教会と中国マフィアとの人身売買取引に大村秀章知事関与。

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プチエンジェル事件で皇太子の相手をしてグラビアアイドルにしてもらった小向美奈子
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14007901

14歳女子中学生の旭川いじめ凍死事件はプチエンジェル事件同様の児童バイシュン・ハニートラップ事件だったのか?
http://www.asyura2.com/21/reki7/msg/215.html  
http://www.asyura2.com/24/ban12/msg/234.html#c1

[文化2] ゆとり教育を推進した三浦朱門の妻 曽野綾子がした事 _ これがクリスチャン 中川隆
302. 中川隆[-8834] koaQ7Jey 2024年10月14日 15:43:52 : dvwjlhXNKA : RWE0NnVhYnRkU1E=[9]
<■54行くらい→右の▽クリックで次のコメントにジャンプ可>
内田樹の研究室 2024-10-11 vendredi
http://blog.tatsuru.com/2024/10/11_1037.html

 みなさんは今回の自民党総裁選の候補者9人のうち6人が「最終学歴がアメリカの大学または大学院」であったことにお気づきでしたか。日本の政治エリートに関して言えば「最終学歴がアメリカ」であることがデフォルトになりつつあります。僕はこういう傾向は端的に「よくない」と思います。
「どこの国の大学に行こうと本人の自由じゃないか。グローバル化の時代なんだ。海外に出て学ぼうという意欲的な若者のどこが悪いんだよ」と反論する人がいるかも知れません。
 政治家だけでなく、ビジネスマンでも学者でも子どもを中学からインターナショナルスクールに通わせたり、海外に留学させることが流行です。その方が英語圏で高等教育を受ける上でアドバンテージがあるからです。
 でも、ちょっと考えてみてください。ハーヴァード大学の年間授業料は56550ドル、今の為替レートで800万円以上です。寮費や生活費を入れると年間1000万円超を子どもひとりに仕送りできる家庭の子しかアイヴィー・リーグに留学することはできないんです。
 いくら「海外で学ぶ意欲」があっても、家が貧しければ、例外的な天才以外、まずそんな肩書は手に入りません。僕はこういうのは「フェアじゃない」と思います。
 親の世代の経済格差が、子どもの受ける教育の格差をもたらし、それが次世代の経済格差を再生産する。そんなシステムのどこがいいんです。
 国の仕事は、家がどんなに貧しくても、子どもたちが望む限り最も質の高い教育を受けられることを支援することではないんですか。ですから、教育は基本的に無償であるべきだし、国内で、母語で、世界水準の高等教育を受けることができるのでなければならない。
 でも、日本の高等教育における私費負担率は67%です。OECD平均31%と比べると、日本政府が「家が貧しい子どもが高等教育を受けるためには、それなりの代価を払わなければならない(払えないやつは諦めてくれ)」という教育政策を採っていることは明らかです。
 日本育英会の奨学金制度がなくなったは20年前ですが、その理由は「公的な支援があると、銀行の学資ローンの借り手が減る。これは政府による民業圧迫だ」というものでした。銀行の利益を確保するために奨学金制度は廃止されたのです。それまでは卒業後に教職や研究職などの「免除職」に就くと、返還義務がなくなったんです(教員のなり手が激減したせいで、教員については最近免除職が復活しましたが)。
 家の貧富にかかわらず、努力さえすれば誰でも質の高い教育を受けられる制度を作ることは明治政府の悲願でした。とりわけ母語で大学教育が受けられることを先人は切望しました。というのは、母語ではまともな高等教育が受けられないので、キャリア上昇を望む子どもたちは先進国に留学するというのはその国が「後進国」であり「植民地」であることの証拠だったからです。
 今の日本は母語で大学院教育が受けられ、母語で書いた論文で博士号が取れますけれども、これは世界を見渡してもかなり例外的なことです。これは先人たちから後続する世代への「贈り物」だったと僕は思います。
 でも、「最終学歴がアメリカ」であることがエリートの条件ということになると、それは「植民地化」を受け入れることを意味します。英語圏の大学で、英語で授業を受けて、英語で論文を書いて学位を取った人を成功者とみなす制度を作って「グローバル化を達成した」と喜んでいる人を見たら、明治の人は悔し涙を流すことでしょう。(『蛍雪時代』9月25日)
http://blog.tatsuru.com/2024/10/11_1037.html
http://www.asyura2.com/09/bun2/msg/492.html#c302

   

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