177. アラジン2[855] g0GDiYNXg5My 2021年9月26日 14:56:28 : QafXid9CiY : RVg3UHduVlNZSzI=[1]
>>174
ほとんど総ての国の国民は無知だと思います。
ただ自分の仕事に対しては、それなりな専門的な知識が有ると思います。
農業、漁業、林業、職人さんもサービス業さんも。
そしてそれでいいんです。彼等が自分の仕事を懸命にやり、それに見合う報酬を受け、幸せに生活できる、それをするのが政治家の仕事です。
働いても幸せに生活できないのは何故かを報道するのがメディアの仕事です。
政治家もメディアも、彼らの仕事をきちんとしないから、日本はここまで壊れたんです。
政治に無知だと、国民をバカにするのは間違いです。
きちんと働いていれば政治に無知でも、それなりの報酬を得られる、昔の日本は確かにそうだったでしょう?
今の日本は国民が個人で情報を漁り、調べ、何が正しいかを判断しなければならない
。公的機関の流す情報もメディアの流す情報も全く信じられない。
凄い世の中ですよ。
おまけに世界中がそうなんだから。
コロナで流される情報を誰も信じない。コロナワクチンの有効性も信じない。
ニュースは権力者に都合のいいように捻じ曲げられているものだと、誰もがそう思うようになってしまった。
戦争よりもコロナよりも、それが一番恐ろしいことですよ。
「何も信じられない世界」ってのが。
なんで個人が「通貨発行権」だの「メッセンジャーRNA」だの調べなきゃならんのですか?
政治家でも医者でもないのに。
こういう世の中こそが、根本的に間違っています。
「世界中の諸悪の根源はアメリカ!」
これだけは力いっぱい断言できますけどね。
「終焉には至らないまでも、少なくともアメリカ帝国を減速させる事。少なくとも獣にダメージを与える事。それこそ世界中の災難の原因に他ならない」
by ウィリアム・ブルム(元アメリカ合衆国国務省勤務)
*************
■米国は第二次世界大戦以来、37の「犠牲者国」で2000万人以上を殺害した
http://tmmethod.blog.fc2.com/blog-entry-674.html
US Has Killed More Than 20 Million People in 37 “Victim Nations” Since World War II
(略)
戦争の原因は複雑です。場合によっては、米国以外の国々が、多くの死者の責任を負っていたかもしれないが、我が国の関与が戦争や紛争の必然的な原因であったように見えるならば、米国は死の責任があると考えられました。言い換えれば、米国がその力を高圧的に使わなければ、おそらくそれらは起こらなかっただろう。そして米国の軍事力と経済力は極めて重要であったということです。
この研究は、米軍が、韓国とベトナム戦争と2つのイラク戦争の間に約1000万人から1500万人の死者に直接責任があることを明らかにしました。朝鮮戦争には中国の死者も含まれ、ベトナム戦争にはカンボジアとラオスでの死亡者も含まれています。
アメリカ国民はおそらくこれらの数字を認識しておらず、上記の戦争以外の米国が責任を負っていた代理戦争については、さらに少ない死者しか出ていないと思っています。その代理戦争では、アフガニスタン、アンゴラ、コンゴ民主共和国、東ティモール、グアテマラ、インドネシア、パキスタン、スーダンで900万人から1400万人の死者が出ました。
しかし、犠牲者は大きな国や世界の一部だけではありません。残りの死者は小さな国から出されたもので、そのような国の数は、世界の国の総数の半分以上に上っています。世界のほぼすべての地域が米国の介入の標的となっています。
全体的な結論は、米国が第二次世界大戦以来、世界中に行われた戦争や紛争で2000万人から3000万人の死者を出した責任を負っている可能性が最も高いということです。
これらの犠牲者の家族や友人にとって、原因が米軍の行動か、代理軍事力か、米軍の物資や軍事顧問の提供か、または我が国が適用する経済的圧力などの他の方法かどうかはほとんど大差ありません。彼らは、愛する亡くなった人を見つけたり、難民になるかどうか、生き残る方法を探したりなど、他のことについて決定を下さなければなりませんでした。
そして、痛みと怒りはさらに広がっています。専門家には、戦争で死亡した人一人につき10人もの負傷者がいると推定する人もいます。彼らの目に見える、継続的な苦しみは、彼らの同胞にその後ずっと思い出させるものです。
アメリカ人が、他の人が感じる痛みを理解し始めるためには、この問題についてもっと学ぶことが不可欠です。かつて誰かが、第二次世界大戦中のドイツ人が「知らせないことを選んだ」と述べました。歴史が我が国についてこう言うことを我々は許すことができません。上記の質問は、「米国は第二次世界大戦以来、他の国々で何回9/11を引き起こしたか」でした。答えは:おそらく10,000回です。
これらの数字の収集に関するコメント
一般的に言えば、死亡したアメリカ人の数がはるかに少ないのは、彼らが重要ではないからではなく、この報告書が敵対者に対する米国の行動の影響に焦点を当てているためであり、この研究には含まれていません。
死亡者数の正確な数を確定することは容易ではなく、このデータの収集は、事実を完全に把握してから行われました。これらの評価は、おそらく読者と著者によって上方または下方に修正されるでしょう。しかし、間違いなく合計は数百万のままです。
信頼できる情報を収集するのが難しいときは、ここでは2つの推定値によって示されています。数年間、私は300万人のカンボジア人がクメール・ルージュの支配下で殺されたという声明をラジオで聞きました。しかし、近年、私が聞いた数字は100万人でした。もう一つの例は、第一次米国のイラク戦争後の制裁によりイラクで死亡したとされる人の数が100万人を超えていましたが、近年では、最近の研究に基づけば、約50万人だったという低い推定値が出されています。
多くの場合、戦争に関する情報は、ずっと後になって、誰かが意を決して意見を述べようとしたとき、または少数のたゆまぬ努力によって、さらに多くの秘密情報が明らかになったとき、または議会の特別委員会が報告した後にのみ明らかにされます。
勝利国と敗北国の両方が、死者数を過少申告するのは、それぞれの理由があるかもしれません。さらに、米国が関与した最近の戦争では、「我々は死者を数えない」などの声明や、死者と負傷者を表現するとき「巻き添え被害」という言及を聞くことは珍しいことではありませんでした。戦場で人々を操る人にとっては、人命は、特にチェスボードであるかのように安っぽいものなのです。
正確な数字を得ることが難しいということは、私たちが試みるべきではないということではありません。第二次世界大戦中に殺された600万人のユダヤ人の数字に到達するためには努力が必要でしたが、現在その数の知識は広く普及しており、将来のホロコーストを防ぐ決意を高めています。その闘いは続いているのです。
私と連絡を取りたい方は、jlucas511@woh.rr.comまでお願いします。
37カ国の犠牲者
アフガニスタン
米国は、ソ連とアフガニスタン間の戦争中に100万人から180万人の死者を出し、ソ連を誘い込んでアフガニスタンに侵攻させた責任があります。
ソ連は、世俗的な政府を持っていた隣国アフガニスタンと友好的な関係を持っていました。ソ連は、その政府が原理主義者になれば、この変化がソ連に波及するのではないかと恐れました。
1998年、カーター大統領補佐官ズビグネフ・ブレジンスキーは、パリの提起刊行物「ル・ヌーベル・オプセルバトワール」とのインタビューで、アフガニスタンのムジャヒディーンへの援助を扇動して、ソ連の侵略を引き起こした責任があることを認めました。彼自身の言葉では次のようでした。
<以下はブレジンスキーの発言から>
公式の歴史によると、ムジャヒディーンへのCIA援助は、ソ連軍が1979年12月24日にアフガニスタンに侵攻した後、1980年中に始まったということになっています。しかし、今まで秘密にされていた事実は、全く違います。実際には、カーター大統領が、カブールの親ソ連政権の反対者への秘密援助指令に最初に署名したのは、1979年7月3日でした。そしてその日、私は大統領にメモを書き、私の意見では、この援助はソ連の軍事介入を誘発しようとしていると彼に説明しました。
<ブレジンスキーの発言はここまで>
ブレジンスキーは、ソ連に米国がベトナムで与えられたような侮辱を与え、そしてソ連の分裂を引き起こしたのだと言って、この罠を正当化しました。「何を後悔することがありますか」と彼は言いました。「その秘密の作戦は素晴らしいアイデアでした。それは、アフガニスタンの罠にロシア人を引き込む効果がありました。あなたは私にそれを後悔させたいのですか?」
CIAは、ソ連が傷つくようにアフガニスタンでの活動に50億ドルから60億ドルを費やしました。その10年間の戦争が終わったときには、100万以上の人々が死亡し、アフガニスタンのヘロインは米国市場の60%を占めていました。
米国は、2001年9月11日の米国資産への攻撃に対する報復爆撃の結果、アフガニスタンでの約12,000人の死者に直接責任を負っています。そして米軍はアフガニスタンに侵攻しました。
アルゼンチン: 南米のコンドル作戦欄を参照:
バングラデシュ: パキスタン欄を参照
ボリビア
ヒューゴ・バンツァーは1970年代にボリビアの抑圧的な政権の指導者でした。その前の指導者がスズ鉱山を国有化し、原住民の農民に土地を分配したとき、米国の利権が侵害されていました。その後、貧しい人のためのその政策は取り消されました。
バンツァーは、パナマの米国が運営する米州学校で訓練を受け、その後テキサス州フォートフッドで訓練を受けて、アメリカ空軍のロバート・ルンディン少佐と協議するために頻繁に亡命から戻ってきました。1971年、彼はアメリカ空軍の無線システムの助けを借りてクーデターを成功させました。独裁政権の最初の年に、彼は十数年前のように米国から2倍の軍事援助も受けました。
数年後、カトリック教会は1975年にスズ労働者のストライキを虐殺した軍を非難しました。バンツァーは、CIAが提供する情報支援によって、左翼の司祭や修道女を標的にすることができました。バンツァー計画として知られる彼の反聖職者戦略は、1977年に他の9つのラテンアメリカの独裁政権によって採用されました。バンツァーは、在任中に400人の死亡に責任があるとして訴えられています。
ブラジル: 南米コンドル作戦欄を参照:
カンボジア
米国のカンボジア爆撃は、ジョンソン政権とニクソン政権下で数年前から秘密裏に行われていましたが、ニクソン大統領がカンボジアへの地上攻撃に備えて公然と爆撃を開始したとき、それは米国でベトナム戦争に対する大規模な抗議行動を引き起こしました。
今日、これらの爆撃範囲と巻き込まれた人間の苦しみについてほとんど知られていません。
カンボジアの村や都市に甚大な被害が出て、人々が難民化し国内退去が引き起こされました。この不安定な状況により、ポル・ポト率いる小さな政党クメール・ルージュが権力を握り、政権を取ることができました。長年にわたり、カンボジアで何百万人もの人々を死亡させたクメール・ルージュの役割について、我々は繰り返し聞いてきましたが、この大量殺害は、米国によるその国の爆撃によって可能になり、殺害、負傷、飢餓、そして国民を難民化させ、カンボジアを不安定化しました。
したがって、米国は、爆撃による死者だけでなく、クメール・ルージュの活動に起因する人々(合計約250万人)に対しても責任を負います。1979年にベトナム軍がカンボジアに侵攻した時でさえ、CIAはクメール・ルージュを支援していました。
ベトナムの欄も参照
チャド
チャドでは、1982年6月にCIAの資金と武器の助けを借りて政権を握ったヒッセン・ハブレが率いる政府によって、推定4万人が殺害され、20万人もが拷問を受けました。彼は8年間政権を握り続けました。
ヒューマン・ライツ・ウォッチは、ハブレが何千人もの殺害に責任があると主張しました。2001年、セネガルに住んでいた彼は、チャドで犯した犯罪で裁判にかけられました。しかし、そこの裁判所は、これらの手続きを阻止しました。その後、人権活動家は、ハブレの拷問被害者の一部がベルギーに住んでいたので、そこで事件を訴追することに決めました。米国は2003年6月、このような法的手続きを可能にするなら、北大西洋条約機構(NATO)の本部のホストとしての地位を失う危険性があるとベルギーに伝えました。その結果、被害者が海外で行われた残虐行為に対してベルギーで苦情を申し立てることを認めた法律は廃止されました。しかし、2ヶ月後、ハブレに対する訴訟を継続するための特別な規定を作った新しい法律が可決されました。
アンゴラ
アンゴラのポルトガル支配に対する先住民の武装闘争は1961年に始まりました。1977年、アンゴラ政府は国連によって承認されたが、米国はこの行動に反対した数少ない国の一つでした。1986年、サムおじさん[アメリカ]は政府転覆を試みたグループUNITAへの物質的支援を承認しました。今日でも、多くの国が関与してきたこの闘争は続いています。
米国の介入は、アンゴラへの5万人のキューバ軍の介入に対する対応として、米国民に正当化されました。しかし、ジョンズ・ホプキンス大学の歴史教授ピエロ・グライジェスによると、真実はその逆でした。キューバの介入は、隣国ザイールを経由してCIAが資金援助した秘密の侵略と、そして米国の同盟国である南アフリカによるアンゴラの首都への進撃の結果として行われました(死亡者数の3つの推定値は30万人から75万人です)。
アルゼンチン:南米コンドル作戦欄を参照
バングラデシュ: パキスタンの欄を参照
チリ
CIAは、1958年と1964年のチリの選挙に介入しました。1970年、社会主義候補のサルバドール・アジェンデが大統領に選出されました。CIAは就任を阻止するために軍事クーデターを扇動したかったが、チリ軍のルネ・シュナイダー参謀総長はこの策謀に反対しました。CIAはその後、チリ軍の何人かと共に、シュナイダーを暗殺することを計画しました。この策謀は失敗し、アジェンデが就任しました。しかし、ニクソン大統領はあきらめることなく、CIAにクーデターの土壌を作るように命じました。「経済に悲鳴を上げさせよ」と彼は言いました。
その後、ゲリラ戦、放火、爆撃、破壊活動、テロが起こりました。ITTやチリに財産を保有する他の米国企業は、デモやストライキを支援しました。最終的に1973年9月11日、アジェンデはクーデターで、自殺または暗殺によって死亡しました。当時、ヘンリー・キッシンジャー米国務長官は、チリに関して次のように述べました。「自国民が無責任なのに、なぜその国が共産主義になるのをしっと見守っている必要があるのか分からない」と述べました。
アジェンデの後、アウグスト・ピノシェ将軍の下で、17年間国民にテロが行われました。推定3,000人のチリ人が殺され、他の多くの人が拷問または「失踪」しました。
南米コンドル欄も参照
中国 朝鮮戦争中に推定90万人の中国人が死亡した。
詳細については、韓国の欄を参照。
コロンビア
1つの推定によると、米国が支援するコロンビアの国家テロにより、1960年代から近年にかけて67,000人の死者が出ています。
1994年のアムネスティの報告によると、コロンビアでは1986年以降、主に軍とその軍系列の民兵によって2万人以上が政治的な理由で殺害されました。アムネスティの主張では、「米国が提供した軍事装備は、表向きは麻薬密売人に対して使用するために提供されたが、コロンビア軍が「反乱鎮圧」の名目で虐待を行うために使用されていたということでした。2002年には、コロンビアでの米国の資金提供による内戦で毎年3,500人が死亡していると推定されました。
1996年、ヒューマン・ライツ・ウォッチは報告書「コロンビアの暗殺部隊」を発表しました。その中で明らかにされたことは、CIA捜査官が1991年にコロンビアに行き、軍が反政府活動で秘密捜査官を訓練するのを助けたことです。
近年、米国政府は「プラン・コロンビア」の下で支援を提供しています。コロンビア政府は、資金の大部分を作物の破壊と準軍事グループの支援のために使用した罪で起訴されています。
キューバ
1961年4月18日のキューバ湾侵攻では、3日間で終結したが、114人の侵略部隊が殺害され、1,189人が囚人として捕らえられ、数人が待機している米艦に脱出しました (1) 。捕らえられた囚人はすぐに裁かれ、数人が処刑され、残りは反逆罪で30年の刑を宣告されました。これらの囚人は、食料と医薬品の5300万ドルと引き換えに20ヶ月後に釈放されました。
キューバ軍の死者数は2,000人から4,000人の範囲であると推定する人もいます。もう一つの推定では、ナパーム弾によって高速道路の公道で1,800人のキューバ軍が殺されたといいます。これは、1991年に米軍が高速道路で多数のイラク人を容赦なく全滅させたイラクの「死のハイウェイ」の前兆であったようです。
コンゴ民主共和国(旧ザイール)
ベルギーの植民地王レオポルドによって、大規模な暴力が、1879年にこの国で始められました。コンゴの人口は20年間で1,000万人減少し、「レオポルドの大量虐殺」と呼ぶ人もいます。さらに近年では、米国は、コンゴにおける多くの死者の約3分の1に責任があります。
1960年、コンゴは独立国家となり、パトリス・ルンバが初の首相となりました。彼はCIAが関与して暗殺されたが、彼の殺害は実際にはベルギーの責任だったと言う人もいます。しかし、それにもかかわらず、CIAは彼を殺すことを計画していました。CIAは暗殺前に、科学者の一人、シドニー・ゴットリーブ博士をコンゴに送り、ルンバ暗殺での使用を意図して、「致死的な生物学的物質」を運びました。このウイルスは、アフリカのコンゴ地域に固有の致命的な病気を引きおこすことができ、外交郵便で輸送されました。
近年、コンゴ民主共和国内で内戦が起きており、米国や近隣諸国を含む他の国々によってしばしば扇動されています。
1977年4月、ニューズデイ[訳注:米国の日刊紙]は、CIAがザイールの軍隊を助けるために米国と英国で数百人の傭兵を募集する取り組みを密かに支援していると報じました。同年、米国はアンゴラで活動する対抗グループの侵略を追い払うために、ザイール大統領モブツに1500万ドルの軍事物資を提供しました。
1979年5月、米国は人権侵害で3か月前に米国務省から非難されたモブツに数百万ドルの援助を送りました。冷戦中、米国は3億ドル以上の武器と、ザイールの軍事訓練に1億ドルを提供しました。2001年、ジョージ・ブッシュ・シニア元大統領とつながる企業を含めて、アメリカ企業が金銭的利益のためにコンゴを煽っていることが米国議会委員会に報告されました。その国の資源をめぐって国際的な争いがあり、125以上の企業や個人が関与しています。これらの物質の一つは、携帯電話の製造に使用されるコルタンです。
訳注:コルタン(Coltan)とは、コロンバイト-タンタライト(Columbite-Tantalite、(Fe,Mn)(Ta,Nb)2O6)の略で、鉱石の1種。
ドミニカ共和国
1962年、フアン・ボッシュはドミニカ共和国の大統領に就任しました。土地改革や公共事業などのプログラムを提唱しました。これは米国にとってよくない兆候なので、就任からわずか7ヶ月後、彼はCIAのクーデターによって排除されました。1965年、一つのグループが彼を再度就任させようとしたとき、ジョンソン大統領は「このボッシュはだめだ」と言い、トーマス・マン国務次官補も「彼は全くだめだ。大統領、我々がそこにまともな政府をつくれなければ、我々はもう1人のボッシュが登場することになる。それではドミニカがもう一つの掃きだめになってしまう」と語っていました。そして2日後、米国の侵攻が始まり、22,000人の兵士と海兵隊員がドミニカ共和国に侵入し、約3,000人のドミニカ人が戦闘中に死亡しました。その言い訳は、これはドミニカの外国人を保護するために行われたということでした。
東ティモール
1975年12月、インドネシアは東ティモールに侵攻しました。この侵略は、ジェラルド・フォード米大統領とヘンリー・キッシンジャー国務長官がインドネシアを去った翌日に開始されました。そのときスハルト大統領にアメリカの武器を使用する許可を与えました。ダニエル・モイニハン米国連大使は、「米国が望んだように物事が進行することを望む」と言いました。結果は人口70万人のうち推定20万人の死者を出しました。
16年後の1991年11月12日、首都ディリで東ティモール人抗議者277人が、追悼式から行進しているとき、インドネシアのコパスス精鋭特殊部隊によって銃殺されました。トラックが遺体を海に投棄しているのが見られました。
エルサルバドル
1981年から1992年まで続いたエルサルバドルの内戦は、米国の援助で60億ドルの資金が政府を支援するために与えられました。その国の約800万人の人々に社会正義をもたらそうとする運動をつぶすためです。
その間、ニューヨーク・タイムズ紙に掲載されたサルバドール軍の逃亡兵とのインタビューによると、米軍顧問は10代の囚人に対する拷問の方法を実地訓練しました。このサルバドール州兵の元メンバーの証言によると、彼は12人のチームのメンバーであり、ゲリラであると言われた人々を見つけて、彼らを拷問したといいます。彼が受けた訓練の一部は、パナマのどこかの米国拷問施設でした。
1981年にエル・モゾーテ村で約900人の村人が虐殺されました。この虐殺に参加したエルサルバドル政府の兵士10人は、米国が運営する「スクール・オブ・アメリカズ(陸軍米州学校)」の卒業生でした。殺された900人の村人は、内戦中に殺された約75,000人のごく一部に過ぎませんでした。
1993年の「国連真実和解委員会」の報告書によると、戦争中に行われた人権侵害の96%以上は、サルバドール軍またはサルバドール軍と連携した準軍事暗殺部隊によって行われました。
その委員会は、「スクール・オブ・アメリカズ」の卒業生を、多くの悪名高い殺害と関連付けました。それを受けて、ニューヨークタイムズとワシントンポストは、痛烈な記事を掲載しました。1996年、「ホワイトハウス監視委員会」は、「スクール・オブ・アメリカズ監視」代表のロイ・ブルジョワ牧師が行ったその学校に対する告発の多くを支持する報告書を発表しました。同年、国防総省は、卒業生が尋問、虚偽の投獄、その他の取り締まり方法に関して、殺害、強要、身体的虐待の訓練を受けたことを示す報告書を、以前は秘密でしたが公表しました。
グレナダ
CIAは、モーリス・ビショップが大統領になった後、1979年にグレナダを不安定化させ始めました。彼に対する工作は、彼を追放することと、1983年10月25日の米国のグレナダ侵略をもたらし、約277人が死亡しました。それは彼がキューバ封鎖に加わることを拒否したからです。そして、グレナダに米国を攻撃するための空港が建設されていると虚偽の告発がなされ、また、その島のアメリカ人医学生の命が危険にさらされているとでっち上げられた主張がなされました。
グアテマラ
1951年、ヤコボ・アルベンツがグアテマラの大統領に選出されました。彼はユナイテッドフルーツカンパニーが運営するいくつかの未使用の土地を収用し、会社に補償をしました。その後その会社は、アルベンツが国際的陰謀の手先だというキャンペーンを開始し、約300人の傭兵を雇って、石油供給と列車の妨害をしました。1954年、CIAが組織したクーデターで彼を失脚させ、彼は国外に去ることになりました。その後の40年間、様々な政権が何千人もの人々を殺しました。
1999年、ワシントン・ポスト紙の報道では、「歴史解明委員会」が、内戦中に20万人以上が死亡し、42,000件の個人の人権侵害があり、そのうち29,000人が死亡し、その92%が軍によって行われたと結論付けたといいます。委員会はさらに、米国政府とCIAがグアテマラ政府に対し、冷酷な手段でゲリラ運動を弾圧するように圧力をかけたと報道しました。
1981年から1983年の間の委員会によると、グアテマラの軍事政権は、米国政府から資金調達がなされ、支援されました。そして、約400のマヤ人の村を破壊して、ジェノサイドとなる軍事行動を行いました。
委員会に公開された文書の1つは、米国務省当局者からの1966年のメモでした。そこでは、グアテマラの保安要員とその米国の関係筋が使用する宮殿の「安全な家」がどのように設置されたかを説明したものでした。これは、左翼反乱軍とその同盟者等に対するグアテマラの「汚い戦争」のための本部でした。
ハイチ
1957年から1986年まで、ハイチはパパ・ドク・デュヴァリエによって支配され、後に彼の息子によって支配されました。その間、彼らの民間テロ部隊が殺したのは30,000人から10万人の間と言われています。その間に数百万ドルのCIA補助金がハイチに投入され、主に大衆運動を抑圧しましたが、ウィリアム・ブルムによると、アメリカの軍事援助はmほとんどイスラエルを通じて密かに流されていたということです。
報道によると、第二次デュバリエ後の政府はさらに多くの死亡者を出し、特にCIAを通じて米国によるハイチへの影響は続いています。米国はその後、1990年代初頭に黒人カトリック司祭ジャン・ベルトラン・アリスティドが67%の票を獲得して選ばれたにもかかわらず、彼を大統領職から追放しました。ハイチの裕福な白人階級は、彼の社会改革プログラムが、この黒人が主流の国家で、貧しい人々を助け、腐敗を終わらせるために設計されているために、彼に反対したのです。彼は後に大統領に復帰しましたが、それは長く続きませんでした。彼は米国から辞任を余儀なくされ、現在は南アフリカに住んでいます。
ホンジュラス
1980年代、CIAは、ホンジュラスで316大隊を支援し、数百人の市民を誘拐、拷問、殺害しました。拷問装置やそのマニュアルは、ホンジュラス人の訓練の際に、米国のエージェントと協力したCIAアルゼンチン人の要員によって提供されました。約400人が命を落としました。これは世界で米国が支援する拷問のもう一つの事例であります。
316大隊は、1980年代の尋問のとき、電気ショックと窒息装置を使用しました。囚人はしばしば裸のまま収用され、もはや役に立たなくなったら、殺されて、無名の墓に埋葬されました。機密解除された文書やその他の情報源は、CIAと米国大使館が殺人や拷問を含む多数の犯罪を知っていましたが、316大隊を支援し続け、指導者と協力し続けたことを示しています。
ホンジュラスは、1980年代初頭、ニカラグアの社会主義サンディニスタ政府を打倒しようとしていたコントラのための活動拠点でした。ジョン・D・ネグロポンテ(現在の国務副長官)は、ホンジュラスへの軍事援助が年間400万ドルから7,740万ドルに増加したときのアメリカの大使でした。ネグロポンテは、彼の在任中にこれらの残虐行為について何も知らなかったと否定しているが、ネグロポンテの前任者、ジャック・R・ビンズは1981年に、彼が公式に支援し、認可した暗殺の証拠が次第に増えていることを深く懸念していると報告していました。
ハンガリー
1956年、ソ連の衛星国家ハンガリーはソ連に反乱を起こしました。ハンガリーへの米国「ラジオ自由ヨーロッパ」による蜂起放送の間、時には攻撃的なトーンを取り、西側の支援が迫っていると信じさせて反乱軍を鼓舞し、さらにはソ連と戦う方法についての戦術的なアドバイスを与えました。その後、ハンガリーの悲劇にさらに暗い影を落としたこれらの放送によって、彼らの希望が持ち上げられ、その後粉砕されました。ハンガリーとソ連の死者数は約3,000人で、革命は押しつぶされました。
インドネシア
インドネシアでは、1965年のクーデターで、スカルノ将軍をスハルト将軍に置き換えました。米国はその政権転覆にある役割を果たしました。インドネシアの米国大使館の元将校ロバート・マルテンスが説明したのは、1965年にどのように、米軍の将校とCIA将校がインドネシア陸軍の殺人部隊に最大5,000人の名簿を提供し、彼らが殺されたり捕らえられたりするのをチェックする方法でした。マルテンスは「おそらく私の手は多くの血に染まっているが、それはすべてが悪いわけではない。決定的な瞬間には徹底的にやらなければならない時がある」と認めました。死亡者数の推定値は50万人から300万人に及びます。
1993年から1997年にかけて、米国はジャカルタに約4億ドルの経済援助を提供し、数千万ドルの武器を売却しました。米国のグリーンベレーは、東ティモールでの多くの残虐行為に責任があるインドネシア軍のエリート部隊に訓練を提供しました。
イラン
イランは、1980年から1988年にかけてイラクとの戦争で約262,000人が死にました。その戦争の詳細については、イラク欄を参照してください。
1988年7月3日、イラン・イラク戦争中にアメリカ海軍船ヴァンセンヌは、イラン海域で、イラクへの軍事支援を提供していた。イランの砲艦と戦っているとき、ヴァンセンヌは、定期的な民間飛行をしていたイランのエアバスに2発のミサイルを発射しました。乗っていた290人の民間人は全員が死亡しました。
イラク
A. イラク・イラン戦争は1980年から1988年まで続き、その間にワシントン・ポスト紙によると、約10万5000人のイラク人が死亡しました。
元国家安全保障会議職員のハワード・テイチャーによると、米国はイラクに数十億ドルの借款を提供し、イラクが生物兵器を含む軍事装備を持っていることを確認したりしてイラクを助けました。このイラクへの援助の急増は、イランが戦争を優勢に進めているように見え、バスラに迫っている時でした。米国は戦争の結果として弱体化する両国のどちらにも敵対しなかったが、どちらの側が勝つことも望んでいないようでした。
B: 米・イラク戦争とイラクに対する制裁は1990年から2003年まで続きました。
1990年8月2日にイラクはクウェートに侵攻したが、米国はイラクの撤退を要求しました。そして4日後に国連は国際的な制裁を課しました。
イラクは、米国がクウェート侵攻に反対しないと信じる理由がありました。つまり、米国の駐イラク大使エイプリル・グラスピーがサダム・フセインに対し、自国がクウェートとの紛争について中立であると語ったからでした。だから、イラクは青信号が出されたと思ったが、それはむしろ罠であったようでした。
クウェート大使の娘は、イラク軍がイラクの病院の保育器のプラグを引っ張っていると議会で偽って証言しました。しかしこれは、イラク攻撃を支援するようにアメリカ国民の世論を活性化するための広報戦略の一環であり、そして米国の戦争を熱狂させるのに貢献しました。
米国の空襲は1991年1月17日に始まり、42日間続きました。2月23日、H.W.ブッシュ大統領は米国の地上攻撃を開始するよう命じました。侵略は多くのイラク軍人が不必要に殺害されました。約20万人のイラク人に比べて、米軍人の死者は約150人だけでした。米国によって、イラク人の一部は「死の高速道路」で容赦なく殺され、そして約400トンの劣化ウランがイラクに残されました。
その後の他の死者は、傷害、民間人の殺害、イラクの水処理施設の損傷やその他の損傷したインフラの影響による死亡、および制裁による死亡です。
1995年、国連食糧農業機関は、イラクに対する国連制裁が1990年以来56万人以上の子どもの死に責任があったと報告しました。
1996年のテレビ番組「60ミニッツ」のレスリー・スタールは、マドレーヌ・オルブライト国連大使に言いました。「50万人の子供が死んだと聞いています。つまり、広島で死んだよりも多くの子供たちです。そして、いいですか、それだけの価値がありますか?」 オルブライトはこう答えました。「これは大変な選択だったと思いますが、それだけの価値があると思います」と。
1999年、ユニセフは、米国の制裁と戦争の結果、毎月5,000人の子どもが死亡したと報告しています。
リチャード・ガーフィールドは、1990年から1998年3月までの5歳未満の子供の過剰死亡は、227,000人の可能性があると後に推定しました。その前の10年間の2倍です。ガーフィールドの推定では、数字は350,000人から2000人です(部分的には別の研究の結果に基づく)。
しかし、彼の研究には限界があります。彼の数字は制裁の残りの3年間、更新されませんでした。また、5歳以上の幼児と高齢者というやや脆弱な年齢層も研究されませんでした。
これらの報告はすべて、米国が認識していた大量の死者の重要な指標であり、それらがイラク人の間で十分な痛みと恐怖を引き起こし、彼らが政府に対して反乱を起こす原因の一つとなりました。
C:イラクとアメリカ戦争は2003年に始まり、まだ終結していない
米ソ冷戦の終結が1991年に米国がイラクを攻撃する動機を強めたように、2001年9月11日の攻撃は、米国が現在のイラク戦争を開始するための土台を築きました。他のいくつかの戦争では、私たちを欺くために使用された嘘がずっと後に発覚したが、この戦争に私たちを引き入れるために使用された虚偽のいくつかは、それらが発せられた途端に知られるようになりました。大量破壊兵器はなく、民主主義を促進しようともせず、イラク国民を独裁者から救おうとしていたのではなかったのです。
ジョンズ・ホプキンスの研究者によると、イラク戦争に対する現在のイラクの死者の総数は654,000人で、そのうち60万人が戦争ではない暴力行為に起因しています。
これらの死は米国の侵略の結果であるので、我々の指導者は彼らに対する責任を負わなければならない。
イスラエル・パレスチナ戦争
約10万人から20万人のイスラエル人とパレスチナ人が(主に後者が)、これらの2つのグループ間の闘争で殺されました。米国はイスラエルを強力に支持し、数十億ドルの援助を提供し、核兵器の保有を支援してきました。
南北朝鮮
朝鮮戦争は1950年に始まり、トルーマン政権によると、北朝鮮が6月25日に韓国に侵攻しました。しかし、その後、北朝鮮による攻撃は、双方による多くの国境侵攻の時期に起こったと主張する別の説明が出てきました。韓国が1948年から北朝鮮との国境衝突のほとんどを開始しました。北朝鮮政府は、1949年までに韓国軍が2,617件の武装侵攻を行ったと主張しました。ソ連が北朝鮮に韓国を攻撃するよう命じた話はでっち上げでした。
米国は、介入を支持する国連決議が可決される前に攻撃を開始し、我々の軍隊はナパーム弾を使用して戦争を無差別の騒乱に陥れました。
戦争中、死者の大部分は韓国人、北朝鮮人、中国人でした。4つの情報源では、死亡者数は180万人から450万人の範囲のであるといいます。別の情報源では、合計400万人とされていますが、彼らが属していた国を特定していません。
米陸軍退役軍人で韓国平和退役軍人委員会委員長のジョン・H・キムは、朝鮮戦争中に「アメリカ陸軍、空軍、海軍は、韓国全土の多くの場所で、約300万人の民間人(韓国と北朝鮮の両方)の殺害に直接関与した」と記事で述べました。米国は朝鮮戦争中に4万3000トンのナパーム爆弾を含む約65万トンの爆弾を投下した」と報じられています。この合計には中国の死傷者は含まれていないと推測されます。
別の情報源では、合計約50万人が韓国人であり、これは、おそらく軍隊だけの合計だと考えられます。
ラオス
ベトナム戦争中の1965年から1973年にかけて、米国はラオスに200万トン以上の爆弾を投下し、第二次世界大戦で双方が投下した以上の爆弾を投下しました。そして人口の4分の1以上が難民になりました。これはベトナム戦争と同時に起こったので、後に「秘密戦争」と呼ばれたが、ほとんど報道されませんでした。ブランフマンの評価は、私が知る限り唯一の評価ですが、数十万人が死亡したと述べています。これは、少なくとも20万人が死亡したことを意味すると解釈できます。
ラオスへの米国の軍事介入は、実際にははるかに早く始まりました。内戦は1950年代に始まり、米国は1975年に最終的に政権を握った左派政党パテ・ラオに反対するために4万人のラオス人の軍隊を徴募しました。
ベトナムの欄も参照
ネパール
1996年に内戦が勃発して以来、8,000人から12,000人のネパール人が死亡しました。IPIF(壁のないシンクタンク)によると、死亡率は急増したのは、アメリカの約8,400丁のM-16短機関銃(950 rpm)と米国のアドバイザーの到着に伴ってです。ネパールは85%が農村であり、土地改革を非常に必要としています。当然のことながら、国民の42%が貧困レベル以下の生活を送っています。
2002年、再び内戦が勃発した後、ジョージ・W・ブッシュ大統領は、ネパール政府への軍事援助2000万ドルを承認する法案を議会で通過させました。
ニカラグア
1981年、サンディニスタはニカラグアのソモザ政府を倒し、1990年まで約25,000人のニカラグア人が殺害されたのは、サンディニスタ政府とソモザ政府の残党から形成されたコントラ反政府勢力との間の武力闘争によってです。コントラによる暗殺マニュアルの使用は1984年に表面化しました。
1981年11月から米国は、コントラ(反共産主義ゲリラ)に秘密の軍事援助を提供して勝利した政府政権を支援してきました。しかし、議会は、CIAが議会に通知することなくニカラグアで破壊活動を監督していたことが発覚したとき、1983年にボランド改正法案を可決して、CIA、国防総省および他の政府機関がこれ以上の秘密の軍事援助を提供することを禁止しました。
しかし、この禁止を回避する方法がありました。国家安全保障会議は、コントラのために、法律の対象とならない民間資金と外国資金を調達しました。さらに、武器はイランに売却され、その収益はそれらの売り上げからサンディニスタ政府に対する反乱に従事するコントラに流されました。最後に、1990年、指導者の交代によって米国をなだめられると考えていた有権者によって、サンディニスタは失脚し、ニカラグアの市民に悲惨な事態が米国のコントラの支援によって引き起こされました。
パキスタン
1971年、米国が支援する権威主義国家である西パキスタンは、東パキスタンに残酷な侵攻をしました。戦争は、インドが約1000万人の難民を受け入れた後、経済は不安定になりましたが、インドが東パキスタン(現在のバングラデシュ)に侵攻し、西パキスタン軍を破って終わりました。
その残忍な闘争の間に何百万人もの人々が死亡しました。それを、西パキスタンによって行われたジェノサイドと呼ぶものもいます。西パキスタンは長いあいだ米国の同盟国で、軍隊を強化するために4億1,100万ドルが提供されました。それは西パキスタン予算の80%にもなり、戦争中に1,500万ドルの武器が西パキスタンに流入しました。
3つの情報源は、300万人が死亡し、1つの情報源は150万人と推定しています。
パナマ
1989年12月、米軍はパナマに侵攻し、マヌエル・ノリエガ大統領を逮捕するというのが表向きの理由でした。これは、アメリカが「世界の主人」であり、アメリカが望む者は誰でも逮捕することができるという米国流の見解の一例でした。それ以前の数年間、ノリエガはCIAで働いていていましたが、ニカラグアのサンディニスタに反対しなかったので、嫌われたところがありました。この米軍のパナマ侵攻で、500人から4000人が死亡したと推定されています。
パラグアイ: 南米コンドル作戦欄を参照
フィリピン
フィリピンは100年以上にわたり米国の支配下にありました。過去50年から60年の間に、フィリピン政府が国民福祉のために働くグループの活動を抑圧しようとしてきましたが、米国は、様々な政府に資金を提供し、支援してきました。1969年、米国議会のシミントン委員会は、反乱鎮圧作戦のために戦争資料がどのようにそこに送られたかを明らかにしました。米特殊部隊と海兵隊は、いくつかの戦闘作戦で活躍しました。フェルナンド・マルコス大統領の下で処刑され、失踪した人の推定数は10万人を超えました。
南米: コンドル作戦
これは、6つの専制的な南米政府(アルゼンチン、ボリビア、ブラジル、チリ、パラグアイ、ウルグアイ)が政敵に関する情報を共有するための共同作戦でした。この作戦の下で推定13,000人が死亡しました。
この共同作戦は、1975年11月25日にチリで決められた「軍事情報に関する米州再統合法案」によって確立されました。米国大使館の政治官、ジョン・ティプトンによると、CIAとチリ秘密警察は協力していました。CIAはこの協力を手がけることはしませんでしたが、協力はしていました。それは1983年に終了したと伝えられています。
2001年3月6日、ニューヨーク・タイムズ紙は、米国がコンドル作戦の連絡に便宜を図ったことを明らかにした最近秘密解除された国務省文書の存在を報じました。
スーダン
独立した1955年以来、スーダンはほとんどの時間を内戦に巻き込まれてきました。2003年頃まで約200万人が死亡しました。ダルフール[訳注:スーダン西部]での死者数がその合計の一部であるかどうかは不明です。
人権団体は、米国の政策がハルツームの中央政府転覆の取り組みを支援することで、スーダン内戦を長引かせる役割を果たしたと訴えています。1999年、マドレーヌ・オルブライト米国務長官はスーダン人民解放軍(SPLA)の指導者と会談し、エジプトとリビアが提案する和平計画を拒否するならば、彼女は彼に食糧供給を提供すると述べました。
1978年にスーダンの膨大な石油埋蔵量が発見され、2年以内に米国の軍事援助の6番目に大きな受け入れ国となりました。米国が政権を支援すれば、米国に石油利益の分け前の一部を与える義務があると考えるのが当然です。
英国のグループ、クリスチャン・エイド[Christian Aid]は、外国の石油会社が村の人口減少を促進していると非難しています。これらの企業はアメリカ人ではないが、政府の保護を受け、政府は見返りに滑走路や道路使用が許可されています。
1998年8月、米国はスーダンのハルツームを巡航ミサイルで75回爆撃しました。アメリカ政府は、標的はオサマ・ビン・ラディンが所有する化学兵器工場であると述べました。実際には、ビンラディンはもはや所有者ではなく、工場はその貧しい国のための医薬品の唯一の供給源でした。爆撃の結果、マラリア、結核、その他の病気を治療するための薬がないため、数万人が死亡した可能性があります。米国は、工場の所有者が提起した訴訟を解決しました。
ウルグアイ: 南米コンドル作戦欄を参照
ベトナム
ベトナムでは、数十年前の合意の下に、南北ベトナムの統一選挙があるはずでした。しかし米国はこれに反対し、南ベトナムのディエム政府を支持しました。1964年8月、CIAなどは、トンキン湾の米艦に対する偽のベトナムの攻撃を捏造して、米国がベトナムに介入するより大きな口実として使用されました。
その戦争中、フェニックス作戦と呼ばれるアメリカの暗殺作戦は、南ベトナムの人々を恐怖に陥れました。戦争中にアメリカ軍は1968年にミライ村の人々の大量虐殺に責任があります。
1995年のベトナム政府の声明によると、ベトナム戦争中の民間人と軍人の死者数は510万人でした。
カンボジアとラオスでの死者は約270万人(カンボジアとラオス参照)であるため、ベトナム戦争の推定合計は780万人です。
ニューヨーク・タイムズ誌によると、真実和解委員会は、戦争の死者合計は500万人であるとし、そしてロバート・マクナマラ元国防長官は、ベトナム人の死者数は340万人であると述べています。
ユーゴスラビア
ユーゴスラビアは、いくつかの共和国の社会主義連盟でした。冷戦中にソ連と密接に結びついていなかったので、それは米国からいくらかの支援がありました。しかし、ソ連が崩壊すると、米国へのユーゴスラビアの有用性は終わり、米国とドイツは、主に分割と征服の手法で社会主義経済を資本主義経済に変えるために動きました。ユーゴスラビアの様々な地域の間には民族的、宗教的な違いがあり、アメリカはそれを利用して、いくつかの戦争を起こし、そしてユーゴスラビアは解体しました。
1990年代初頭から今までユーゴスラビアは、CIAが黙認するなかで、収入が低いいくつかの独立国家に分裂し、資本主義国の手先となりました。 ユーゴスラビアの解体は、主に米国によって引き起こされました。
ここに、ユーゴスラビアの内戦の一部の推定値があります。すべての戦争では、107,000人です。
ボスニア・クラジナ、250,000人。 ボスニア、20,000~30,000人。 クロアチア、15,000人。およびコソボ、500人から5,000人。