220. アラジン2[4793] g0GDiYNXg5My 2022年11月30日 12:57:48 : d5EJ7SLGLw : RUU0aEZxU3BtYTY=[1]
>>155 追記。
「シベリア抑留」に関しての記事のコピペをした下記サイト。
■1945年8月ソ連軍満洲侵攻作戦 by 駐日ロシア大使館 (2022/9/2)
https://blog.goo.ne.jp/deeplyjapan/e/5f91a701139031f9d896d88af5ae712f
その記事のコメントにも興味深い記述が有りました。
私は「シベリア抑留」に関しては無知なんですが、メディアの洗脳も有るらしい。
・記事のコメントより。
●樺太残留を望んだものもいる (И.Симомура) 2020-09-04 13:41:01
永らく閉鎖都市だったサハリンが観光に開放され、北海道の小樽港ーホルムスク
(旧真岡)港を往復する第一船で、初めてサハリンを訪問した。
落合(現ドーリンスク)出身のNさんの墓参の手伝いだった。
彼女は接収された実家に越してきたロシア人家族とともに昭和22年の最終引き揚げ
まで仲良く暮らしたという。
本土には濃い身寄りもなく、医者になりたかったのでロシアの学校に入ることを
考え、引き揚げを統括していた日本人に、自分の計画を打ち明けたそうだ。
すると彼は、樺太残留は愛国的ではない、と脅したという。
引き揚げの晩は、奥さんのニーナ、長女のマルーシャに挟まれて、泣きながら
眠ったそうだ。
函館に上陸して持ち物検査を受け、ニーナさんが秘かにネルの下穿きに縫い込んだ、
帝国金貨が見つかり領置された。
あるとき新聞に、領置物件が大蔵省から返還されるという記事を読んで、領収切手を
探したが見つからなかった。
国家とはどこまでも嫉妬深いものだと思ったそうだ。
港ではロシア人一家全員が泣いてくれた。
乗船直前まで残ろうか残ろうかと煩悶した。
外地引き揚げ者の本土での生活は惨めなものだった。
ただ、子供を殺してきたり、遺棄してきたものもいた、満蒙引き揚げ者に対する
嘲り蔑視は、樺太引き揚げ者は受けなかった。
友人には恥ずかしいことまでして、生活したものもいた。
自分は幸い看護学校を卒業し、中学校の養護教諭となった。
退職後はロシア旅行を楽しむために”先生(私のこと)”からロシア語を習い始めた…。
ドーリンスクの墓地は手入れがゆきとどいていました。
鉄道駅の路地では残留した朝鮮系ロシア人が魚介類、野菜類を商っており、私たちは
日本語で会話できました。
ニーナさん一家に会いたくて、実家に行ったのですが、彼らではなく、二家族が
混住しており、嘗ての材木商の屋敷は荒れ放題。
それを見て、Nさんはロシア語で、”この家は自分の持ち家だった、ひとから戴いた
ものは大事に使いなさい”と諭していた。
引き揚げ者の会があり、そこでは自分も残留を考えたと語るものもいたそうだ。
ロシア人とソ連に対する悪宣伝は今も変わりませんね。
●Unknown (にゃんこ) 2020-09-05 08:52:40
シベリア抑留については、日本の上層部が、兵隊たちが日本に帰ってくることを
恐れていたと思う。
シベリア送りは、渡りに船だった。
それにしても、鳩山一郎さんが努力しなければ、抑留者はどうなっていたのでしょうね。
そのまま見捨てられたのでしょうか?
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こういう文章を見つけるたび、
現在の日本人は戦時中の事は何にも知らんのだなぁ、と実感します。