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[近代史5] レバノン人の起源 中川隆
1. 中川隆[-9912] koaQ7Jey 2024年7月08日 06:29:55 : SoceYmFETQ : RTZ0ZGtvUGwwTW8=[1]
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雑記帳
2024年07月08日
レバノン北部の人口史
https://sicambre.seesaa.net/article/202407article_8.html

 レバノン北部の人口史に関する研究(Platt et al., 2024)が公表されました。本論文は、現代のレバノン北部のコウラ(Koura)地区住民の人口史を、近隣地域も含めて現代人と古代人のゲノムデータから推測しています。コウラ地区は現代のレバノンにおいて、他地域と比較してギリシア正教の信者が顕著に多く、それが近代の移住に由来するのか、それ以前の継続的な難民の流入や交易に由来するのか、本論文は調べています。本論文は、現代のコウラ地区住民における近代のギリシアからの遺伝的影響は限定的で、過去にアナトリア半島人類集団との間に強いつながりがあった、と示しています。古代人と現代人のゲノムを用いた、狭い特定の地域を対象とした人口史の研究は今後ますます盛んになりそうで、日本列島での研究の進展も期待されます。


●要約

 数千年にわたる文化的交差点としてのレバノンの豊かな歴史は、周辺地域からの移住と征服の連続的な波を通じて、その人口集団の遺伝的組成に大きな影響を与えてきました。現代のレバノンでは、コウラ地区はその独特な文化的基盤で際立っており、レバノンの他地域と比較して、ギリシア正教の信者の顕著に高い集中がおもな特徴です。本論文は、コウラ地区におけるギリシア正教の普及が、近代のギリシアの遺産かのか、あるいは難民の継続的流入およびギリシアやアナトリア半島との交易の相互作用から生じた連続的な混合なのかどうか、調べます。

 本論文は独自および刊行されているデータを用いて、コウラ地区の現在の人口集団の形成において役割を果たしたかもしれないこの地域における、さまざまな人口集団から得られた古代と現代両方のDNAデータを分析しました。本論文の調査結果から、この地域への近代のギリシアからの移住に直接的に由来する遺伝的影響は限定的なようだ、と示唆されます。ギリシア植民地の歴史的存在はこの地域の過去に痕跡を残してきましたが、コウラ地区の独特な特徴は、文化的および政治的要因によっておもに形成されてきたようで、おもにアナトリア半島とのより強い遺伝的つながりを示しており、現代のギリシア人とではなく古代のギリシア人との類似性があります。


●研究史

 現代レバノンのコウラ地区には、レバノンの他地域と比較して、その遺産を反映している可能性が高い、独特な文化的施設があり、高密度でほぼ排他的にギリシア正教の信者がいます。このレバノン沿岸部のコウラ地区は、東方では地中海沿岸から西方ではレバノン山の麓にまで広がっています。コウラ地区はその北方ではレバノンで2番目に大きい都市であるトリポリ(Tripoli)に、南方では、かつてフェニキアの主要港湾都市だったバトゥルーン(Batroun)に接しています。コウラ地区の人口集団は、北方、おもにアナトリア半島からの継続的な文化的影響下にあり、この文化的つながりは古代史と現代子を通じて維持されました。アナトリア半島の影響の証拠は、レバノンの初期のエジプト統治下でとくに顕著であり、この影響はその後、ビザンツ帝国を通じて維持され、発展しました。

 宗教はレバノンにおいて歴史的共同体の形成に大きな役割を果たしてきました。コウラ共同体は、ギリシア正教およびギリシア文化のつながりにおいて独特です。これは、コウラ地区の人口集団が現代のギリシア正教および/もしくは他の北方の宗教移民の顕著な移民を受け入れたのか、あるいは他の手段で宗教的および文化的独自性を獲得したのかどうか、という興味深い問題を提起します。歴史資料によく記録されているいくつかの以前の主要な事象は、あり得る移住事象もしくは非ギリシア人系統におけるギリシア的慣行の文化的同化の示唆を提供します。たとえば、アレクサンドロス大王の征服後に、ギリシアの支配者はレヴァントにおいてギリシア人の入植を促進しました。これは、ギリシアの故地周辺でのその後の紛争期間においてギリシア人の難民にとって「磁石」として機能したかもしれない、ギリシア人の共同体の孤立地帯を残しました。あるいは、コウラ共同体と北方の地域との間には、ギリシアと直接的には関わらない、かなりの文化的および経済的類似性がありました。したがって、ギリシア人との遺伝的混合の存在の有無に関する問題は、ギリシア人との遺伝的混合が現在の人口集団に影響を及ぼし、レバノン北部の現代のコウラ地区の人口配置について説明できるのかどうかについて、より多くの詳細を提供できるかもしれません。

 レヴァントは東ローマ帝国の支配からビザンツ帝国へと移り、ビザンツ帝国は基本的に476年に東ローマ帝国に取って代わりました【東西に分裂したローマ帝国のうち、東方は1000年以上生き残り、ビザンツ帝国とも呼ばれる、と考える方が妥当なようにも思いますが】。ビザンツ帝国の拡大は、レバノン北部とアナトリア半島との間のより多くの接触をもたらしました。ビザンツ帝国の統治下では、レヴァントと小アジアにおいて、おもにビザンツとその多くの競合者との間の多くの連続的な紛争だけではなく、宗教的巡礼のためもあり、連続的なヒトの移動がありました。ローマ人は在来人口集団との遺伝的混合の証拠を示しませんでしたが、ビザンツの統治下では、おもに西方から東方への多くの維持夕がありました。ビザンツ帝国の統治は、分立を抑制するために戦争を煽る機会主義的な政治的連携と組み合わさった、異端に対する宗教評議会の論争により特徴づけられます。レバノンは、これらの紛争の難民を引きつけた、いくつかの地域を提供しました。興味深いことに、この区別はすでに、コウラ地区と近くの丘陵に避難した人口集団との間で、東方正教会をローマの宗派と区別した同じ過程によって引き起こされました。

 本論文はこの歴史的背景を考慮して、現在の人口集団の遺伝的構成がギリシア正教の現代の分布の起源に洞察を提供するのかどうかの判断に着手しました。具体的には、遺伝的永久が現代のギリシア人との混合な由来するのか、もしくは交易か移住での連続的な遺伝的流入をもたらすアナトリア半島およびその近隣の北方地域との持続的な文化的つながりに由来するのかどうか、ということです。本論文では、どの祖先人口集団がコウラ地区の現代の住民を最も密接に説明するのか、特定するために検索する、広範な遺伝的分析が適用されました。

 本論文は、単純にギリシア正教の移住がコウラ地区の現代の宗教人口集団を形成したのかどうかというよりも、キリスト教の歴史により多くの光を当てるかもしれない、これらの地理的基盤の遺伝的影響の解明が目的です。本論文はそのため、コウラ地区とビザンツ帝国との間の明確なつながり、および、現在のトルコにけるトルクメン人の到来やイスラム教徒の拡大や十字軍やこの地域のオスマン帝国の支配の前となる、4050〜1350年前(1950年が基準)にかけての遺伝的記録において、ギリシア正教文化を伴っていた系統とかなりの混合があったのかどうかを調べます。


●主成分分析

 図1の主成分分析(principal component analysis、略してPCA)は、いくつかの類似性を明らかにしました。アナトリア半島古代人標本は、コウラ地区標本と密接にまとまり(とくに主成分1および2で、ただ、主成分3および4では違います)、混合図の結果を反映しています。コウラ地区クラスタ(まとまり)はシリアの古代人とも有意に重なっていますが、他の古代の人口集団、とくにギリシア古代人とはわずかにより離れています。

 現代トルコ人標本には、トルクメン人の混合が入ったことを考えると、コウラ地区/アナトリア半島古代人クラスタからの明確な違いが含まれます。コウラ地区と古代アナトリア半島とキプロス島とドデカネス諸島の人々は、ギリシアの追加の現代人標本とともに、拡張データセットのPCAにおいて連続体を形成します(ドデカネス諸島に焦点が当てられます)。

 現在のギリシア人の主成分(PC1)およびPC2は、比較的広範な分散を示し、主要な2クラスタへと大まかに収まり、一方はコウラ地区よりも(マロン派の中心地である)エーデン(Ehden)により近く、もう一方はアジア勾配の方へと向かっています。現在のギリシア人は、PC3やPC4と同様に、情報の規模変更を受けたPCAでは、コウラ地区とはより明確にクラスタ化します(図1)。以下は本論文の図1です。
画像

 レバノン北部の共同体の標本に限定したPCでは、ディッニエー(Dinniyeh)とエーデン/ズグハルタ(Zgharta)とコウラ地区は、無作為混合ではなく、焦点となる区別化されたクラスタを形成する、と示されます。祖先情報を考慮すると、現代トルコ人は互いに独特な祖先パターンを示しますが、コウラ地区標本から離れて残りのトルコ人と区分されます。したがって、潜在的な地理的/祖先的標本の偏りは、現代のトルコ人をコウラ地区標本と比較する場合には、関係ありません。上述のPCAの高解像度の相互作用図は、サイトで利用可能です。


●混合分析

 K(系統構成要素数)= 2〜9のADMIXTURE分析は、図2に示されています。コウラ地区は現代のレヴァントの人口集団と類似しており、K=9において黄色で示される祖先人口集団が高い割合で表されています。これは、レバノンを除いて古代の人口集団では一般的ではありませんでした。交差検証得点は、人口集団における差異のほとんどの説明されない部分がK=6で最小値に近い、広い流域を示します。アルメニア古代人で見られる祖先人口集団はコウラ地区にも存在し、K=9での分析では赤色で示され、これはレヴァントでは稀だったものの、現在ではずっと一般的です。興味深いことに、ADMIXTUREは現代の人口集団においてひじょうに稀になった祖先の古代イスラエル構成要素を示しました。以下は本論文の図2です。
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●F₄統計と混合図

 F₄の結果は図3で示され、検証人口集団XはY軸に表示されています。図3a〜cでは、F₄出力は、レバノン古代人とアナトリア半島古代人とギリシア古代とコウラ地区住民との間の差異と比較しての、人口集団Xとムブティ人との間の差異の重なりを示します。これらの分析において、コウラ地区住民が現代の人口集団であることは注目に値します。各事例で、古代の人口集団のF₄はほぼ完全に負です。それが示唆するのは、ムブティ人とそれらどの古代の人口集団との間に現れたアレル(対立遺伝子)は、コウラ地区住民と全ての他の古代の人口集団との間に現れたアレルにより形成される可能性が高い、ということです。換言すると、顕性(優性)変異はコウラ地区住民に今では多く現れている系統に沿って発生した可能性が高そうです。

 唯一の例外はレバノン古代人です(図3a)。この場合、イラン古代人はコウラ地区住民とレバノン古代人との間の有意な重なりのある系統を有していませんが、アルメニア古代人は、レバノン古代人と比較して、コウラ地区住民を表しているアレルを示します。コウラ地区住民の独特な系統がこの地域の他の人口集団のほとんどより古いならば、アルメニアはレバノン古代人と比較して、コウラ地区住民より古くはないとしても、同じくらい古そうです。これらの結果は一般的に、ギリシアとコウラ地区との間で検証された混合仮説の検証のために構築されたqpGraphの基本的輪郭を正当化します。以下は本論文の図3です。
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 F₄結果のもう一つの特徴は、現代の人口集団を含むことです。現代の人口集団はすべて、古代の祖先とは区別する顕著な混合事象を示します。また、コウラ地区住民とレバノン古代人との間のつながり(図3a)は、ムブティ人とすべての現代の人口集団との間の正のつながりを示し、古代の分離以来大きく転がったアルメニア人の記載と類似した、より古い系統を示唆します。これらは、上述のADMIXTUREにより示された祖先人口集団の一部を反映しています。

 負のF₄値は、レバノン古代人からコウラ地区住民への経路とともに、ムブティ人からXへの経路上での負の重なりを示唆している可能性が高そうです。つまり、レバノン古代人とコウラ地区住民との間に蓄積されたアレルは、ムブティ人からの経路上で図示された人口集団Xに蓄積されたアレルで見つかります。これらの結果は、イスラエル古代人とレバノン古代人との間のアレル共有を示唆しますが、コウラ地区住民とは違います。コウラ地区住民は、レバノン古代人がイスラエル古代人と共有していた一部のアレルを共有していないかもしれません。逆に、正のF₄値は、人口集団Xとコウラ地区住民との間の遺伝子流動を示唆している可能性が高いものの、レバノン古代人とはそうではなく、Xにとって最も顕著な事例はイラン古代人で、こまり、コウラ地区住民はレバノン古代人が受け取らなかったイラン古代人のアレルを共有しています。


●qpGraph分析

 コウラ地区の古代人および現代人とギリシア古代人とレバノン古代人とアナトリア半島古代人とレバノン現代人との間の関係を把握するための基本輪郭が設計され、これに候補形状を追加でき、コウラ地区のギリシア正教の人口特性を説明するような、コウラ地区住民がより多くのギリシアもしくはアナトリア半島からの遺伝的寄与を受け取ったのかどうか、検証されました。古代の人口集団に焦点を呈ることにより、トルクメン人との混合などより最近の人口の影響の除外もできるだけ試みられ、ビザンツ帝国の支配を反映している系統もしくはそれ以前のギリシア人との混合系統が調べられました。

 そこで、図4では2形態が構築され、ギリシアからの寄与の有無でのコウラ地区住民への混合が検証されました。ギリシア人との混合のあるz得点は-41.41でしたが、ギリシア人との混合のないz得点は-31.18で、ギリシア人との混合に由来する古代の寄与が、ギリシア人との混合なしでのモデルよりも現代の人口集団を的確に説明できない、と示唆されます。かなりのZ得点から、現代の人口集団における大量の差異は単純な輪郭では説明されないものの、候補となるギリシア人との混合によって説明される差異の量の検証には充分である、と明らかになります。以下は本論文の図4です。
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●考察

 エジプト人や他の古代文化による歴史を通じて記録されたコウラ地区の政治的つながりは、より北方の政体との類似性を示します。一つの問題は、コウラ地区の現代の人口集団がギリシア正教とのそうした強いつながりをどのように発展させたのか、これは難民もしくは入植者からの遺伝的寄与を伴っていたのかどうか、あるいは、ビザンツ帝国など北方の政体とのコウラ地区類似性のためつながりが現れたのかどうか、ということです。したがって、トルクメン人の拡大とイスラム教徒の拡大とオスマン人に乱交する地域的人口集団を示す系統の特定と、この地域へのアナトリア半島および/もしくはギリシアとの混合について検証するためのそれらの系統の使用が試みられました。

 その地理的近さにも関わらず、レバノン北部の標本を表すPCAでは、明確な3クラスタが観察されました。これらのクラスタは中心で合流し、コウラ地区とレバノン山の他の2地区(ズグハルタおよびディッニエー)を表す明確な3勾配へと放射状に伸び、これら地理的に近い3クラスタを区別する個別の特定の遺伝的構成要素を示唆します。コウラ地区人口集団は沿岸地域に属し、最終氷期からビザンツ帝国の崩壊まで、アナトリア半島からのヒトの移動があった可能性は最も高そうです。

 ビザンツ帝国の支配のずっと前に、レヴァントでは14000年前頃となるアナトリア平原からの新石器時代前の移動に始まる、何千年にもわたっての移住のいくつかの連続的な波がありました(関連記事1および関連記事2)。青銅器時代には、アナトリア半島はヒッタイト人とハッティ人(Hattian)とルウィ人(Luwian)の故地でした。その後、多くの文化の中で、アナトリア半島西部にはミケーネやイオニアやリディアのギリシア人が、アナトリア半島中央部にはフリギア人が、アナトリア半島東部にはウラルトゥ人やアッシリア人が居住しました。

 アナトリア半島とイランの初期農耕民も、その後でレヴァントへと拡大し、さらにその後、帝国の出現および初期の交易と関連するヒトの移動はレヴァント沿岸部集団の遺伝的構成に影響を及ぼし、地域的類似性が認められます(関連記事1および関連記事2)。コウラ地区は初期農耕民にとって魅力的な場所を構成しており、それは、沿岸部に位置し、農耕に適した平野が多くあるからです。コウラ地区が多くの古代人集落の遺跡で、人々がオリーブおよび/もしくはスギ材を交易していたのと同じくらい長く、交易に関わってきました。

 じっさい、PCA図におけるコウラ地区標本は、アナトリア半島古代人や、古代のギリシア人との類似性を有するものの現代のギリシア人とは類似性を有さない古代シリア人によっておもに表されるクラスタ内に収まります。これらの観察は、より多いPCA構成要素でさえ維持され、アナトリア半島古代人との現代のコウラ地区標本の密接な類似性を示唆しています。その起源が少なくとも3世代にたどれるコウラ地区標本の部分集合は、レバノン北部のPCAの中心でひじょうに緊密なクラスタを示し、近隣人口集団とその後に混合した創始者共同体を表しています。

 これらの結果は、交差検証誤差が最小化されるK=6で解決するADMIXTURE図と一致します。コウラ地区標本とアナトリア半島古代人は主要な3構成要素を示し、それは、ギリシア古代人を表す大きな割合の緑色の構成要素と、イラン人を表す黄色の構成要素と、レヴァントとアラビア半島の人々を表す橙色の構成要素です。レヴァント/アラビア構成要素はギリシア古代人からは明らかに減少しますが、アナトリア半島古代人ではよく表されています。古代の移住、新石器時代の交流、徴集されたフェニキア人船員でほぼ構成される海軍を創設し、エジプトまで支配を拡張した、レヴァントへのペルシア帝国の拡大を考えると、これらの混合は驚くべきことではありません。ペルシア帝国は軍港や造船所の設立に関心があったため、コウラ地区とその周辺は魅力的なとなった可能性が高そうです。

 アレクサンドロス大王はペルシアのレヴァント領を支配した時に、その約1400人の兵士をフェニキアの占領に残し、アレクサンドロス大王の死後、レヴァントの後継者となったセレウコスは支配を固めるため、レヴァントにおけるギリシア人の入植を促進しました。じっさい、PCAでコウラ地区集団と最も近い個体群は、中期青銅器時代後期のアララハ(Alalakh)遺跡人口集団に属しています。アララハ遺跡は、セレウコス帝国の首都であるアンティオキア(Antioch)周辺の古代集落です。

 より広くは、セレウコス朝の影響の遺産は、サトラップ(satrapy、太守、総督)モデルの継続を通じての、ギリシアの寺院と共同体の遺産を残した植民市が含まれており、その計画の遺物には、アンティオキアの雷神ゼウスの寺院や、バールベック(Baalbek)遺跡における神殿などが含まれます。これは、コウラ地区が、局所的な文化の類似性のためローマ帝国後にビザンツ帝国とのその後の混合を促進した、これらの場所の一つだったのかどうか、および、かなりのギリシア人の入植を受けたのかどうか、という問題を浮き彫りにします。

 さらに、コウラ地区は、その明らかな文化的類似性のため他地域の暴力からの避難所を探すギリシア人にとって、安全な退避地のように見えたかもしれません。したがって本論文は、そうした入植の兆候があったのかどうか、判断を試みました。その結果、直接的な現代ギリシア人の移住の遺伝的影響はこの地域では弱いようだ、と分かりました。確立されたギリシア人植民地はレバノンの歴史に織り込まれていますが、コウラ地区におけるつながりは文化的かつ政治的だったようで、アナトリア半島とのより多くの遺伝的類似性を示します。

 アナトリア半島古代人からの顕著な遺伝子流動は、祖先系統(祖先系譜、祖先成分、祖先構成、ancestry)の割合を推定する4集団検定(F₄)を用いても論証されました。この遺伝子流動は明確に、ムブティ人を外群として用いた場合に論証されました(図3b)。これらの結果は、人々がアナトリア半島からレヴァントへと数千年前に拡大した勝機の移動以来起きてきた連続的な遺伝子流動を示唆しており、エジプトの属国時代以降の記録により証明されます。古代と現代の人口集団標本間に、顕著な違いがあることも注目に値します。祖先人口集団の分布に影響を及ぼしてきたビザンツ帝国の崩壊後のかなりの混合におそらく起因する差異は、ADMIXTURE分析で示されています。

 コウラ地区において優勢なギリシア正教人口集団が、アナトリア半島集団との混合と、現代ギリシア人との混合のどちらに起因する特定するため、qpGraph分析が構築され、ビザンツ帝国崩壊前の人口集団が分離されて、現代のコウラ地区人口集団へのそれらの構成要素の混合が検証されました。さらに、ビザンツ帝国の滅亡後に起きたイラン人との混合の可能性があるトルクメン人による移住の除外も構想されました。ギリシア人自体は、言語(インド・ヨーロッパ語族の初期の分枝)と神話(オリンポスの神々によるティタンの神々の置換とメドゥーサの歴史)に反映されている混合の複雑な歴史を反映しています。さらに、現代ギリシア人のほとんどの遺伝的祖先系統は、アナトリア半島西部およびエーゲ海の新石器時代農耕民と、それより少ない程度の初期イランおよびコーカサス農耕民により依然として占められている、と示されました(関連記事)。

 銅器時代と青銅器時代におけるギリシアの交易はフェニキア人の拡大と直接的に競合し、アレクサンドロス大王の統治下で、ギリシアからインドと地中海東部全体までの世界が支配されました。しかし、ギリシア人移民と在来の人口集団との遺伝的相互作用は複雑で、地域もしくは共同体固有でさえありました。ギリシア人の完全な分析には、草原地帯およびインド・ヨーロッパ語族話者の解明を含むより完全なqpGraph輪郭が必要で、次に、コウラ地区におけるギリシア人系統の少なさのため解決困難であることに要注意です。コウラ地区へのあり得る移住パターンに反映されているかもしれないギリシア人内の構造は延期されるかもしれず、それは、ギリシア正教人口を促進する移住があったのかどうか、という本論文において回答しようとした問題です。

 ADMIXTUREとF₄の結果に基づいて、qpGraphの支柱形態が構築され、それは北方へ向かってのアフリカからの広範な衝突流動を示唆しました。本論文はこれに補綴の混合候補を形態を追加し、古代ギリシアもしくは古代アナトリア半島からの移住の可能性を検討しました。興味深いことに、アナトリア半島を支持するZ得点の差異は約10でした。これは、ギリシア正教の形態におけるギリシア文化の存在が、退避地の集中もしくはコウラ地域におけるそれ以前のギリシア人との提携に起因しなかったことを示唆します。これは、全ての交絡因子候補もこの地域では欠けていることを示唆しており、PCA図で観察されたセレウコス朝のあり得る植民の影響とは別に、アレクサンドロス大王の影響とそれ以前の古典期の交易がコウラ地区における比較的小さな遺伝的遺産を残し、これはそれ自体の重要な結果です。

 本論文の遺伝学的結果は、アナトリア半島との類似性に関する長い歴史的記録を再現しているようです。さらに、本論文の遺伝学的結果は、コウラ地区におけるセレウコス朝の入植についてと、退避地への入植のためのその後のあり得る磁石としての問題を解決し、遺伝的兆候は現在の人口のつながりを反映していません。北方への移動と提携は、南方におけるレバノンのとのつながりよりも、コウラ地区においてより容易で、陸路は困難だったため、それらはおもに海上移動でした。海上交易では、コウラ地区の人々はフェニキア人商人と協力しました。もう一方の端はビザンティウムとの歴史的結びつきを示しており、それはギリシア正教とのつながりを説明し、その歴史的つながりはすでに数千年にわたって結びついてきました。


参考文献:
Platt DE. et al.(2024): Anatolian genetic ancestry in North Lebanese populations. Scientific Reports, 14, 15518.
https://doi.org/10.1038/s41598-024-66191-x


https://sicambre.seesaa.net/article/202407article_8.html


http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/284.html#c1

[近代史5] 外人が好きな日本料理 中川隆
29. 中川隆[-9909] koaQ7Jey 2024年7月08日 06:55:03 : SoceYmFETQ : RTZ0ZGtvUGwwTW8=[4]
【外国人観光客】プラレール15万円分購入! わさびに炊飯器、中古服も… 外国人が選ぶ「ニッポン土産」【関連ニュースまとめ】| TBS NEWS DIG
https://www.youtube.com/watch?v=Vg2XO7FVobU

http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/578.html#c29
[近代史4] 音楽は女性ヴォーカル以外は必要ない 中川隆
46. 中川隆[-9908] koaQ7Jey 2024年7月08日 07:22:29 : SoceYmFETQ : RTZ0ZGtvUGwwTW8=[5]
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「音楽&オーディオ」の小部屋
暑い、暑い・・、懐かしのヒット曲集
2024年07月08日
https://blog.goo.ne.jp/jbltakashi/e/6f23ad584eb09b5ec463f8b59e732049

このところ連日35度以上の猛暑が続いている。はたしてもう梅雨が終わったのだろうか・・、という疑問がつきまとうが、天気予報を見ると今週の後半から雨模様なのでそんなに甘くはないらしい。

昨日(7日)のこと、あんまり暑いので午後のウォーキングを久しぶりに公園に移すことにした。日影が多いので、家の周囲より少しはマシだろうとの思惑。

クルマに乗り込んで車内の温度表示を見ると何と「38℃!」〜。

15分ほどで到着して公園に入ってみると、さすがに人が少ない。

ウォーキングを開始してみると、木立を縫って「そよ風」が吹いており、想像以上に快適だった。

夏のウォーキングはこれに決めた・・、しめしめと40分ほどで切り上げてから自宅に戻るとさっそくオーディオ機器のスイッチをオン。

さっそく「You Tube」を検索。

公園の「そよ風」に触発されて、お目当ては往年のヒット曲「そよ風の誘惑」。歌手は「オリヴィア・ニュートン・ジョン」・・。2年ほど前に「乳がん」で73歳で死去、まだ若いのに・・、合掌。


オリヴィア・ニュートン・ジョン そよ風の誘惑 - YouTube
https://www.youtube.com/results?search_query=%E3%82%AA%E3%83%AA%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%82%A2%E3%83%BB%E3%83%8B%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%83%B3+++%E3%81%9D%E3%82%88%E9%A2%A8%E3%81%AE%E8%AA%98%E6%83%91++


それにしても、大ヒットしたこの「そよ風の誘惑」は名曲だと思う。

原題は「Have You Never Been Mellow」。英語は不得手だが「あなたは憂鬱になったことなんてないの?」という感じかな〜。

それがどうして「そよ風の誘惑」というタイトルになったのか・・、実に上手い付け方だと思う。

それに反して実に拙いタイトルだと思うのが「白い渚のブルース」。

1960年代初頭に「ビルボード誌」で1位を獲得したヒット曲だが、しんみりと哀愁を帯びたクラリネットの音色が実に美しい。イギリスのテレビドラマのテーマ曲だったそうで、いかにもイギリスらしい内省的な雰囲気に満ち溢れている名曲。


白い渚のブルース - YouTube
https://www.youtube.com/results?search_query=%E7%99%BD%E3%81%84%E6%B8%9A%E3%81%AE%E3%83%96%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%82%B9


クラリネット奏者は「エッカー・ビルク」(自作自演)だが、学生時代にこのレコード(シングル盤)を何度聴いたかわからないほど愛聴した。

そして原題は「Stranger On The Shore」・・、直訳すると「渚の見知らぬ人」〜。

これがどうして「白い渚のブルース」というまことに陳腐なタイトルになるのか、もう歯がゆくて、歯がゆくて・・(笑)。あえて「白い渚」に拘るとすれば「白い渚の異邦人」ぐらいかな〜。

調子に乗って、ほかにも往年のヒット曲を次から次にサーフィンした。

「ウォーク・ドント・ラン」(急がば回れ)。


ウォーク・ドント・ラン - YouTube
https://www.youtube.com/results?search_query=%E3%82%A6%E3%82%A9%E3%83%BC%E3%82%AF%E3%83%BB%E3%83%89%E3%83%B3%E3%83%88%E3%83%BB%E3%83%A9%E3%83%B3


このレコードのジャケットは実に懐かしいという方が多いのではなかろうか・・。

そして真打は「Walk On By」。歌手は「ルロイ・ファン・ダイク」


Louis Van Dijk walk on by - YouTube
https://www.youtube.com/results?search_query=Louis+Van+Dijk+++++walk+on+by


ウェスタン風の軽快なロック調の曲目で、女声のバックコーラスが冴えわたっている。どんなに探しても見つからなかった曲目でもう諦めていたのだが、やっと見つけました!

さらには「パッツィ・クライン」(飛行機事故で死亡)の「アイ・フォール・ツ・ピーシズ」・・。

Patsy Cline I FALL TO PIECES - YouTube
https://www.youtube.com/results?search_query=Patsy+Cline+++I+FALL+TO+PIECES


「You Tube」万〜歳!(笑)
https://blog.goo.ne.jp/jbltakashi/e/6f23ad584eb09b5ec463f8b59e732049
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/575.html#c46

   

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